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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
いよいよ『西郷どん』も今回が最終回となりました。
この一年間、日本国中が西郷隆盛に注目し、毎週その姿がテレビに映るという、私のような西郷ファンにとっては夢のような時間が続いていましたが、それも今回で最後だと思うと、何だかとても寂しいですね。

思い返せば、西郷隆盛が再び大河ドラマの主役になると聞いた時、私は無上の喜びを感じるとともに、一抹の不安がよぎりました。西郷に関しては、以前『翔ぶが如く』という大河ドラマが制作・放映され、好評を博していましたので、果たしてそれを超えられるものを作ることが出来るのか? という不安を感じたのです。
あくまでも個人的な感想ですが、『翔ぶが如く』と『西郷どん』は、同じ西郷隆盛が主人公の歴史ドラマではありながらも、似て非なるものであったというのが、全47回を見終えた私の正直な感想です。
これはどちらが良い・悪いということではなく、コンセプトが全く異なっていたと言うことです。
『翔ぶが如く』は、西郷と大久保の友情を中心に、いかに二人が力を合わせて幕末・明治という動乱の時代を動かしたのかを描いていましたが、それに対して『西郷どん』は、西郷の持つ人間愛にスポットを当て、周辺の人々がその魅力に感化されていくことにより、幕末・明治という動乱の時代が動いた、というような描き方であったように思います。

このようにコンセプトが異なる以上、両者を比較するのは無意味なことだと思いますが、最後に一つだけ『西郷どん』に苦言を呈するならば、『翔ぶが如く』の放映から30年近く経ち、幕末・維新史の研究は、飛躍的な進歩をとげていたにもかかわらず、『西郷どん』で描かれた西郷像が旧態依然のままであったことです。
私としては、「新たな西郷像」を世に示して欲しいと願っていただけに、そこは正直期待外れでした。
ただ、西郷隆盛役の鈴木亮平さんは、何も文句のつけようがない、最高の演技を見せてくれました。今、鈴木さん以外に、西郷を演じられる役者は他に居なかったと思えるほどの熱演だったと思います。
私もドラマ放映中は、このブログを始め、ツイッターなどでも色々と細かい苦言を呈しましたが、主役の鈴木亮平さんを始め、『西郷どん』の制作に関わった全ての方々に対し、心から感謝の意を表し、「一年間、本当にお疲れさまでした」との言葉をかけたい気持ちで、今は一杯です。

(延岡から鹿児島へ)
前回のブログでも書きましたが、薩軍は延岡北方の「和田越の戦い」で敗北を喫したことにより、長井村(現在の延岡市北川町)において正式に軍を解散し、政府軍の囲みを破って、一路鹿児島へと向かうことを決断しました。

前々回から紹介している野村忍介の証言によれば、当初薩軍は野村の「豊後ニ打出ルヲ利アリトシ、鹿児島ハ所謂散地ニテ守ル可カラス」(「西南之役懲役人質問第二」『鹿児島県史料 西南戦争』一)との意見を採用し、豊後方面に北上する策を取ろうとしたようですが、桐野利秋が先行してみたところ、その道のりが非常に険しかったことから引き返すことになり、その結果、鹿児島に戻ることを決断したとあります。

ちなみに、野村は薩軍の中でも軍事的才能を持った有能な人物です。
野村のことについては、下記、西郷隆盛のホームページ「敬天愛人」内で紹介していますので、ご興味のある方は併せてご覧ください。

西南戦争の十一人「天性の軍略家・野村忍介」

閑話休題。
野村は当時の薩軍の置かれた状況を

「長井村二里四方位ノ内ニ集ル官軍、四面ヲ囲ム幾許ナルヲ知ラス、夜山々ヲ望メハ篝火ヲ見サル所ナシ」(「西南之役懲役人質問第二」)

と証言しており、四方を政府軍に取り囲まれる状況の中、薩軍は脱出を試みようとしたわけですが、その道中は過酷を極めました。
政府軍の包囲網を突破するためには、「可愛岳(えのだけ)」と呼ばれる峻険な山を越えなければならず、政府軍の目を盗みながらの逃避行は、想像を絶する厳しいものであったからです。
野村ら薩軍生き残りの者たちは、この可愛岳突破について、

「非常ノ険難ナリ、自分等生レテ始メテ如此険阻ヲ踰ヘタリ」

と証言しています(「西南之役懲役人質問第四」)。

薩摩武士の精神や肉体の強靭さを示す言葉に、「山坂達者(やまさかたっしゃ)」というものがあります。
これは薩摩藩独自の青少年教育である「郷中教育(ごじゅうきょういく)」において、山野を駆けめぐり、精神や身体鍛錬を怠らなかったことからくる言葉ですが、幼少期からそんな教育を受けた彼らですら、「生まれて初めての険阻」であったと評するほど、可愛岳突破は過酷なものであったのです。
西郷と愛加那の息子の菊次郎が政府軍に投降せざるを得なくなったのは、前回のブログで書いたとおり、右足に重傷を負った菊次郎には、峻険な可愛岳を越えられないと西郷が判断したからでもあります。

また、この可愛岳脱出の際、政府軍に知られぬよう、声を潜めて這いずりながら逃げる姿を、西郷が周りに居た将兵たちに向かって、

「まるで夜這いのようだな」

と言って笑わせたという有名なエピソードがあります(田中萬逸『大西郷終焉悲史』ほか)。
この逸話について、薩軍の可愛岳突破の現地を訪ね歩き、丹念にその事蹟を調べ上げた延岡の郷土史家・香春建一氏は、その著書『西郷臨末記』の中で、

「この話は当時薩軍の司令たりし河野主一郎翁が七十三才の高齢で、鹿児島から可愛嶽方面の戦蹟踏査のため来延せられた去る大正八年の夏、翁に随従来延せられた、鹿児島県姶良郡帖佐村、稲荷神社神職肥後藤太郎氏より、同行を案内せし延岡市松山町の黒木熊次郎氏を通じて伝聞せるものである」

と書いています。

河野主一郎は、薩軍幹部の一人であり、城山が陥落する直前、西郷の助命嘆願のために政府軍に使者として派遣された人物です。
しかしながら、河野はそのまま政府軍の捕虜となり、西南戦争終結後、懲役十年の刑を宣告され、福島監獄で服役することになりましたが、明治14(1881)年、特赦によってその罪を許されると、すぐに鹿児島へと戻り、戦後の鹿児島の復興に力を注ぎました。
明治15年、河野は「三州社(さんしゅうしゃ)」という教育団体を設立して、鹿児島の若者たちの教育活動に力を注いだほか、九州各地に散らばって埋葬されていた西南戦争の戦死者の遺骨を丹念に収拾し、それを鹿児島に持ち帰って改葬する活動も行いました。
現在の鹿児島には「南洲神社(なんしゅうじんじゃ)」という、西郷隆盛を祀った神社がありますが、その隣接する土地に「南洲墓地」と呼ばれる、西郷以下西南戦争で亡くなった人たちの大きな墓地があります。ここは元々廃仏毀釈で廃寺となっていた浄光明寺という寺の墓地であったのですが、河野ら三州社の関係者がそれを改装し、九州各地で収拾した西南戦争の戦死者の遺骨を改葬した墓地なのです。
現在、我々のような後世に生きる人々が、南洲墓地で多くの戦死者の霊に手を合わすことが出来るのも、ひとえに河野を中心とした三州社の人々のお蔭だと言っても過言ではありません。
話が大幅にそれてしまいましたが、その河野が後年可愛岳を訪ねたことで、前述した夜這いの逸話が延岡に伝わったのです。

また、鹿児島への道中、薩軍は糧食も欠乏し、飢えとも戦いました。
野村らの証言によると、「山中ノ食ハ如何」と問われて、

「尤モ困メリ、可愛岳ニ打出、其翌十八日ハ終日一食ナシ、水ヲ飲テ行ク、十九日祝子川ニテ牛ヲ屠リ之ヲ食フ、米少許ヲ得水ノ如キ粥ヲ喰ヒタリ」(「西南之役懲役人質問第四」)

と答えています。
さらに続けて野村らは、「如此時、隆盛ハ食ヲ喰タリヤ」と聞かれて、「然ラス、総テ兵卒ト異ナラス」とも答えています。
西郷も兵士たちと共に飢えを耐え忍んでいたと言えましょう。

ちなみに余談ですが、「祝子川」とは「ほうりがわ」と読み、その語源は神話の「火遠理命(ほおりのみこと)」から来ているようですが、この地を治めたことがある戦国大名の大友宗麟が「holy(聖なる)川」と呼んだという話を地元の方から聞いたことがあります。
延岡の地は、キリシタン大名でもあった宗麟が「無鹿(むしか)」と名付けたキリシタンの理想郷を作ろうとした地でもあることから(作家の遠藤周作氏が同名の小説を書いています)、そんな伝説が生まれたのかもしれません。

さて、野村らの証言によると、明治10(1877)年8月17日の夕方に長井村を出て可愛岳へと入った薩軍は、険しい山々を抜けて、まずは三田井(現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町)へと出て、そこから一気に南下し、七ツ山(諸塚)、鬼神野(南郷)、須木(小林)、馬関田(えびの)を通って鹿児島へと向かいました。
薩軍が鹿児島にたどり着いたのは、同年9月1日のことで、合計15日間、約400キロにも及ぶ道のりを走破し、故郷・鹿児島へと戻ったのです。

野村の証言によれば、元々薩軍は西南戦争の終焉地である「城山」に立て籠もろうと考えていたわけではなく、城下北方の吉田が政府軍の手に落ちたことを聞いたため、急きょ鹿児島城下の城山に向かうことを決断したようです。
城山は島津家の居城・鶴丸城の背後にそびえる標高107mの山城で、薩摩藩士たちにとっては最後の砦というべき存在でした。
薩軍は城山を拠点にして、各所に兵を徴募しようと試みていますが、いずれも失敗に終わっています。
『鹿児島県史』三によると、

「薩摩諸郷の士族の之に應じて蹶起し、巡査を襲ひ、城山に入らんとする者数百名に上ったが、巳に官軍の包囲完成して入るを得ず、多く捕縛鎮壓された」

とあり、また、野村は、「県士ノ応スル者モ官兵ニ支ヘラレ、来ル者纔ニ四五人アリタリ」と証言しています。
このように、薩軍は鹿児島に入っても、ほんの僅かな兵しか集められず、四百名にも満たない少人数で城山に立て籠もらざるを得なくなったのです。

(西郷隆盛の死)
先日、NHKのBS番組で「西郷を介錯したのは桐野であった」という説が紹介されていましたが、あのような説は今に始まったことではなく、昔からよく出ていたもので、以前には桐野が西郷を背後から狙撃したなどという説もあったかと記憶しています。

西郷を介錯した人物については、野村と共に長倉訒(「飫肥西郷」とも呼ばれ、西南戦争にも従軍し、のちに自刃した小倉処平の兄)が、戦後次のような質問を受けています(「西南之役懲役人質問第二」)。

問「西郷ノ弾丸ニ中ルヤ、別府晋介傍ニ在リテ其頸ヲ刎ネ、之ヲ土中ニ埋メ、直チニ屠腹スト云フ、如何」

答「野村、予其側ニ居ラス、長倉曰、西郷兼テ別府晋介ニ、戦敗ルヽ時ニ至ラハ、汝速ニ我首ヲ刎ネヨト命シタル由、此事晋介ハ人ニ語ラスト雖、其兄別府九郎予ニ語レリ、弟晋介ハ非常ノ一大難事ヲ託セラレ、甚タ苦労シテ居レリト」

この問答によると、野村は西郷の側に居なかったため詳しく知らなかったようですが、長倉の証言を見る限り、西郷がその生前、介錯人に別府晋介を指名していたことが分かり、別府が西郷よりも先に死亡していない限り、西郷を介錯したのは、通説のとおり別府であったと考えて、ほぼ間違いないと言えるのではないでしょうか。

西郷の死の状況については、多くの書籍で描かれていますので、今さらここで取り上げる必要もないかと思いますが、ただ、一点だけ私の感想を述べるのであれば、西郷はあくまで「戦死」にこだわり、明治10(1877)年9月24日の早朝、生き残った将兵たちとともに、城山を下っていったのではないかと感じています。

これまで本ブログでも何度も強調し、しつこいくらいに書いてきましたが、西郷の行動原理には「自死」という二文字はなく、西郷は決して自殺を選択するような人物ではありません。自殺という行為は、西郷の行動哲学である「敬天愛人」に反するものだからです。そのため、西郷は最後まで戦死することにこだわりを持っていたと言えます。
そのことは、戦後野村が取り調べの席上において、「西郷ハ屢々戦死シテ此局ヲ了ルト云ヒタルヤ」と問われて、「然リ」と答えていることでも分かります(「西南之役懲役人質問第二」)。
西郷は自らの死は「戦死」であるべきだと常々考えていたのです。
ただ、最後、別府晋介に首を打たせたではないか、と指摘される方も居られるかと思いますが、あれは西郷が体に銃弾を受け、もう動けなくなった末でのことであって、西郷自身は戦死に等しいものだと捉えていたはずです。
西郷は自ら動けなくなって初めて、天が自分に死を与えたと悟り、

「晋どん、もうここいらで良か」

と言って、別府に首を打たせたのです。

DSCF0914.jpg
南洲翁終焉之地(鹿児島市)

今回の『西郷どん』のラストでは、別府に首を打たせるシーンはありませんでしたが、一種西郷の本望を代弁したシーンであったような気がします。
最後、西郷はあのような形で戦死したかったのではないでしょうか。

拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』においても書きましたが、後世の歴史家の中には、「西郷は無謀な戦争を早期に終結させず、多くの有為な人材を死なせた」と非難する人がいますが、西郷とて、激しい戦いが繰り広げられる中、数多くの若者たちが死んでいく状況を目の当たりにし、何も感じていなかったわけでは決してないでしょう。
西郷が戦死にこだわり、自らの体を銃弾が貫くその瞬間まで、決して戦うことを止めようとしなかったのは、それが西郷なりの責任の取り方であったからだと私は考えます。
一度意を決して政府を改革するために立ち上がった以上、その実現のために最後まで戦い抜くことは、西郷にとって大変意味のあることであり、また、それは明治維新を迎えることなく死んでいった多くの者たちに対する、西郷なりの責任の取り方であったように、私は感じてならないのです。
そして、西郷隆盛の死をもって、いわゆる幕末・維新という一つの大きな時代が終焉の時を迎えたと言えるかもしれません。

(最後に)
『西郷どん』感想&小解説ブログについては、今回が最後となりました。
少しでも多くの方々に、西郷隆盛について知って欲しいとの願いを込めて、これまで全47回、一度も休むことなく最後まで書き上げることが出来ました。
最初は軽い気持ちで書き始めましたが、いつしか連載を背負った作家のような気持ちとなり、別に定職を持ちながらの執筆でしたので、時には寝る間も惜しんで書いたこともありましたし、また、今年は持病で一週間ほど病院に入院、そして手術を受けた時期もあり、病室にパソコンを持ち込んで書いたこともありました。
そのようにして毎週全47回に費やした原稿は、原稿用紙に換算すると約920枚にも及び、我ながらここまでよく書いたな……、という気持ちでいます。

ただ、このように私が最後まで頑張れたのも、ひとえにこれまで本ブログをご愛読頂きました皆様、そしてご感想や温かい応援等を頂きました皆様方のお陰であると心から感謝しております。
本当にありがとうございました。
おそらく、これほどまで日本国中が西郷に注目する一年は、私が生きている間はもう来ないとは思いますが、私はこれまでと変わりなく、西郷隆盛を愛し、これからも地道に、西郷隆盛、そして薩摩藩の情報をネット上から発信していきたいと考えておりますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

粒山 樹 拝


本ブログ執筆者の著書

『維新を創った男 西郷隆盛の実像』(扶桑社、2017年)定価1,728円

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西郷隆盛の生涯をより詳しく書いていますので、西郷に興味を持たれた皆様、是非一冊ご購読頂ければ嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。


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【2018/12/16 21:01】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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k
お蔭様で西郷隆盛の人物像が深まりました。
ありがとうございました。

三度、なんだがでらい、、、
つるしん
粒山さぁ、西郷どんの今際の心情と情況の考察、全く御意の通りかと。 実に多くのこつを学ばせっ貰いもした、長きに亘る力作、ほんのこて、おやっとさぁでございもした、あいがともさげもす。 10年後の大河は島津四兄弟で、更に20年後は、おはんの原作・脚本で「西郷どん」の再登板を祈念しちょいもす。

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いよいよ西南戦争の火ぶたが切って落とされました。
最終回まで残り二回で西南戦争全体を描くのは、少し無理があると言えますが、『西郷どん』は戦局の経過よりも、西郷自身の去就を描くことに、より重点を置いていると言えそうです。
西郷は一体どのような最後を迎えるのでしょうか。最終回がとても楽しみです。

さて、今回の『西郷どん』では、西郷家の人々にも悲運が重なりました。
西郷の弟・小兵衛が熊本北方の高瀬をめぐる攻防戦で戦死し、また西郷と愛加那の息子・菊次郎も右足に重傷を負いました。
この二人の戦死・戦傷については、前回紹介した野村忍介ら薩軍生き残りの面々が大変興味深い証言を残していますので、ここで少し紹介したいと思います。

まず、菊次郎についてですが、前出の野村と共に、鮫島敬助(奇兵一番中隊右小隊長)、大野義行(狙撃隊一番中隊長)の二人が、明治13(1880)年4月20日、市ヶ谷監獄において、「西郷菊次郎降ルノ状ハ如何」という質問を受けた際、次のように答えています。

「菊次郎ハ兵士ニテ出張、高瀬ノ役割ヲ被リタリ、長井出発ノ時僕永田熊吉附添ヒ、谷川ノ丸木橋ヲ渡ル時橋下ニ墜チタリ、熊吉之ヲ負ヒ谷ヲ下リ長井ニ帰リ、トテモ敵中ヲ通リ過ルコトヲ得サルヲ図リ、共ニ出テ降レリ、菊次郎其時十七歳計ナリ」(「西南之役懲役人質問第三」『鹿児島県史料 西南戦争』一)

今回の『西郷どん』では余り詳しく描かれませんでしたが、延岡北方の「和田越(わだごえ)の戦い」と呼ばれる決戦で敗れた薩軍は、長井村の俵野において軍を解散し、政府軍の囲みを破って鹿児島に戻ることを決断しますが(これは次回描かれるかと思います)、この三人の証言によれば、菊次郎は西郷と共に峻険な可愛岳を脱出しようと試みましたが、橋から落下して果たせなかったため、従者の熊吉が負傷している菊次郎を背負って長井村へと戻り、最終的に政府軍に投降したとあります。
今回の『西郷どん』では、西郷が菊次郎に投降するよう諭していましたが、野村らの証言によれば、菊次郎は父と共に一度は脱出を試みたことが分かります。

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和田越決戦の地(宮崎県延岡市)

次に、小兵衛のことですが、前出の野村、鮫島、大野の三人は、その6日後の同年4月26日に行われた取り調べにおいて、「隆盛ハ恒ニ「ヒストール」ヲ所持シタルニアラスヤ」と問われた際、

「然ラス、自分等終ニ之ヲ見ス、弟小兵衛十六連ノ銃ヲ所持セリ、小兵衛死後隆盛之ヲ其従者ニ持タセタリ」(「西南之役懲役人質問第四」)

と答えており、戦死した小兵衛が十六連発の小銃を所持していたことが分かりますが、西郷はその銃を従者に持たせたとあるのは大変興味深いです。
果たしてその従者とは、一体誰のことでしょうか? 小兵衛の従者なのか、それとも前出の熊吉を指すのでしょうか? 「其の」とあることから、小兵衛の従者のような気もしますが、もし熊吉であったとしたならば、西郷が菊次郎の護衛のためにと小兵衛の形見の小銃を手渡し、「熊吉、菊次郎を頼みもす」と言ったなどという想像も膨らみます。
私はこういうのが創作のあるべき一つの姿なのではないかと感じます。全く根も葉もないところから突拍子のない話を作り上げるのではなく、こうしたちゃんと種子のあるところから、それを大きく想像・発展させ、面白く描くというのが、いわゆる歴史ドラマの本領と言うべきものではないでしょうか。

(桐野利秋のこと)
『西郷どん』における桐野利秋像は、これまでドラマや映画で数多く描かれてきたとおり、まさに「猪武者」のような扱いですが、膨大な薩摩藩史料を編纂したことでも有名な元薩摩藩士・市来四郎は、桐野のことを

「桐野ハ廉潔実直勇豪仁慈ノ人ト謂フヘシ、困難ヲ甘ンシ名利ヲ顧ミス、義ニ走ル速カニシテ、人ニ遇スル愛憎ナク、金銭ヲ見ルコト土芥ノ如ク、貧ニ与ヘ窮ニ恵ミ、酒食ヲ好マス、奸黠狡猾ナルヲ見テハ、隠言ナク面責罵詈甚シキニ至ル」(「桐野利秋(丁丑擾乱記)」『鹿児島県史料 西南戦争』一)

と書いており、総じて「英豪仁慈ノ人」と評しています。
桐野が粗暴な人物であったとされているのは、前回のブログでも触れたとおり、桐野は一種西南戦争のスケープゴートにされたからであって、当時の政府関係者が殊更に桐野の悪口を流布するよう努めたことに端を発するのではないかと私は考えています。

例えば、薩軍が熊本に向けて進撃する際、桐野が「熊本城を落とすのは、この青竹棒(いらさぼう)一本で足りる」「この青竹の色が変わらぬうちに東京まで行く」などと豪語したという有名なエピソードがありますが、実はこれらも全く根拠のない話です。
野村忍介は、市ヶ谷監獄で行われた取り調べの際に、

「桐野ハ始メ出軍ノ時青竹ヲ截テ之ヲ握シ、此竹ノ未タ色ヲ変セサル内ニ東京ニ達センと云タリヤ」

と問われて、

「一切聞カサル所ナリ」

と明確にそのことを否定しています(「西南之役懲役人質問第四」)。

また、野村は「西郷、軍事ハ総テ桐野ニ委ネタリト云フハ如何」とも問われていますが、この質問から察しても、当時の政府関係者がいかに桐野に戦争の責任を押しつけようとしていたのかが分かります。
この問いに対して野村は、

「然ラス、戦地ヲ巡見ハセサレトモ、本営ニ在テ諸方ノ大駆引ヲ指揮ス、苦戦ノ時ニハ自ラ出テ戦ハント云フ事モ度々ナレトモ、諸将之ヲ留メタリ」

と西郷自身が戦の指揮に関与していたと答えています。

その他にも、野村は「鹿児島ヘ入リタル時、桐野ハ喜テ宅ニ入リ、酒ナト飲ミタリト云フハ実ナリヤ」「桐野ノ妾降参シタル説アリ、実ナリヤ」(「西南之役懲役人質問第二」)などという、桐野の性質に関係するような質問を受けていることから察しても、当時の政府がいかに桐野の評判を落とそうとしていたのかが分かるのではないでしょうか。
もちろん、これらの質問に対しても、野村は、酒の件については、「然ラス、桐野ハ城山ノ硝兵線ヲ巡視スルコト一日ニ凡三タヒ位ニテアリタリ」と、桐野が真面目に哨戒線を巡視していたと答え、妾の件については、「陣中ニ婦人ヲ連レタルコトヲ聞カス、勿論薩摩ニテハ妾ヲ抱ヘルモノナシ、虚説ナルヘシ」と否定しています。
野村は桐野とそりが合わなかった人物として有名ですが、そんな野村でさえも、桐野があらぬ汚名を着せられることを良しとしなかったのです。

桐野だけではなく、西南戦争全体を通して言えることですが、西南戦争は錦絵や講談といったフィクションの類いの作品の影響が強いためか、史実と乖離して描かれていることが少なくありません。
例えば、『西郷どん』では、西郷が鹿児島を出発する際、陸軍大将の軍服を着ており、他の時代劇等でも同様に描かれていますが、実はこれに関しても野村は否定しています。
野村は「西郷ハ陸軍大将ノ礼服ヲ着シテ出軍シタルト云ハ実ナリヤ」と問われて、

「荷物中ニ所持アリタルヤハ知ラス、戦争中ハ追々本営ニ到リ西郷ニ面セシニ、其事ハ一切ナキナリ」(「西南之役懲役人質問第一」)

と答えているのです。

少し話がそれますが、西郷の軍服に関して、私はとても不満に思っていることがあります。
『西郷どん』では、東京で政府に出仕していた時も、西郷は常に軍服を着用して政務に携わっていましたが、なぜあのようにことさら軍服を着せる必要があったのでしょうか?
あれでは、一昔前の西郷像である「西郷=軍人(武人)」というイメージを視聴者に対して植え付けかねません。
当時の西郷は、明治6(1873)年5月以降、陸軍大将の職にはありましたが、政府の首班と言うべき筆頭参議でしたので、あのように軍服姿で廟議に出席するはずがありません。
『西郷どん』は、新しい西郷像を描くという触れ込みであったにもかかわらず、これまで視聴した限り、旧来の西郷像を踏襲して描いていることがとても多く、この軍服一件に関しても、なぜそのような演出をしたのか、私は理解に苦しみます。
「西郷=軍人」というイメージは、それこそ戦前の国威発揚の際に使われたものであり、今どきそんなイメージで西郷を描いて視聴者に一体何を訴えかけたいのか? 私は違和感を禁じ得ませんでした。

(西郷の過信)
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、鹿児島を出陣した西郷は、おそらく京・大坂までの道中、激しい戦闘には発展しないものと考えていたのではないかと私は推測しています。
後述しますが、西南戦争において、薩軍は最も拙策とも言える陸路北上策をとっていることから考えても、戦局に対して大変甘い見通しを持っていたとしか考えられないからです。
事実、薩軍は早くも熊本で引っかかり、熊本鎮台兵と激しい戦いを繰り広げることになりました。

今回の『西郷どん』では、捕らえた鎮台兵から、天皇が薩軍の征討を命じられたということを聞き、西郷が驚く様子が描かれていましたが、実際の西郷は驚きと共に怒りを顕わにしたようです。
そんな西郷の怒りは、明治10(1877)年3月5日付けで、鹿児島県令の大山綱良に宛てた次の書簡に強く表われています。

「征討将軍宮様へ別紙御差し出し成し下されたく御願い申し上げ候。此の上ながら宮を押し立て来り候わば、打ち居え罷り通り申すべく候に付き、何卒右の御計らい御手数ながら宜敷願い奉り候」(『西郷隆盛全集』三)

征討将軍宮様とは、薩軍の征討を命じられた有栖川宮熾仁親王のことであり、西郷曰く「別紙」とは、自らの挙兵の趣旨を認めたもので、そこには次のように書かれています。

「畢竟政府においては、隆盛等を暗殺すべき旨官吏の者に命じ、事成らざる内に発露に及び候。此の上は人民激怒致すべきは理の当然にこれあるべく、只激怒の形勢を以て征討の名を設けられ候ては、全く征討をなさんため暗殺を企て人民を激怒なさしめて罪に陥れ候姦謀にて、益政府は罪を重ね候訳にてはこれある間敷や」(『西郷隆盛全集』三)

この記述を見る限り、前回書いたように、西郷は自らの暗殺計画を信じていたことが分かります。
また、西郷はそのことをきっかけにして薩摩を征討する動きに出た有栖川宮に対して、

「閣下 天子の御親戚に在らせられながら、御失徳に立ち至らざる様、御心力を尽さるべき処、却って征討将軍として御発駕相成候儀、何共意外千万の仕合いに御座候。就いては天に事(つか)うるの心を以て能く御熟慮在らせられ、御後悔これなき様偏に企望奉り候」

と、「天皇の親戚ともあろうお方が、征討というような形で出兵するとは意外千万である。天意をよく考えたうえで行動しないと後悔することになる」と、とても強い言葉を使って批判しています。
西郷が前出の大山宛て書簡の中で、「此の上ながら宮を押し立て来り候わば、打ち居え罷り通り申すべく候」と書いたのは、「有栖川宮が薩軍の挙兵趣旨を理解したにもかかわらず、それでも出陣してくるのであれば、それを打ち据えて(叩いて)でも罷り通るつもりだ」と、その怒りを顕わにしたと言うことです。
今回の『西郷どん』でも同じようなセリフを西郷が吐いていましたね。

このように、西郷は自らのとった行動が国家への反逆と位置づけられたことに対し、大きな不満を抱き、ここで初めて戦うことを決意したと言えますが、元来、西郷率いる薩軍が陸路で熊本を目指し北上したのは、薩軍幹部たちが、京・大坂までの道中では激しい戦闘には発展せず、また、たとえ戦闘になったとしても、簡単に勝てるものとふんでいたことへの裏返しであったと言えるのではないでしょうか。
なぜなら、薩軍が本州へ進むためには、関門海峡を渡ることが必須であったにもかかわらず、その具体的な方策を事前に検討しないまま出陣しているからです。

鹿児島県令・大山綱良の口供書によると(「鹿児島一件書類」『鹿児島県史料 西南戦争』三)、大山が西郷や桐野、篠原に対して、

「自分ニ於テハ此度ノ出兵小倉迄ハ無滞通行モナルヘキカ、其先ノ渡海ハ如何ト懸念候」

と、関門海峡をどうやって渡海するのかと懸念を示した際、西郷は、

「外ニ見込アリ」

と答えたとあり、また、桐野や篠原は「船橋ニテモ懸ルヘシ」と言って愚弄するような態度を見せたとあります。

また、野村忍介は、市ヶ谷監獄で行われた取り調べの際、「何故海路ヨリ出テサルヤ」と問われて、

「船ナシ」

と答えていますが、取調官から、

「大有、鹿児島等ノ船アリ、如何」

と問い詰められると、曖昧な返事をしたと記録にあります(「西南之役懲役人質問第一」)。
このように野村が返答に困ったのは、自分たちの見通しが甘かったことを突かれたからに他なりません。
西郷が「他に見込みあり」と答えたり、桐野や篠原が「船を並べて橋にする」といった非現実的なことを言っているあたりに、当時の薩軍は自らの強さに酔いしれるあまり、明らかに慢心を生じていたように感じられてなりません。

あくまでも推測ですが、薩軍幹部が陸路をとることを選択したのは、九州各地、いや西日本各地の不平士族を糾合しながら、大きな一団となり、政府に対し大きな圧力をかけようと考えたからではないでしょうか。そういう目的であったとしたならば、薩軍は正々堂々と陸路をとって進軍する必要があったと言えますので、あながちこの推測は間違っていないような気がします。

拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、当時の西郷は自らの声望を過信する余り、ひとたび薩摩が起ち上がれば、全国各地で蜂起者が続発し、政府は対抗策をとることが出来ないと考えていた感が否めません。
西郷が鹿児島を出発して約二週間後の明治10(1877)年3月2日付けで、大山県令に宛てた書簡には、

「筑前・筑後辺蜂起の様子に相聞かれ、大坂は土州より突出、最早攻め落し候風評も御座候(筑前や筑後は蜂起した様子で、大坂は土佐が突出し、既に攻め落としたとの風評もあります)」(『西郷隆盛全集』三)

とあり、西郷が各地の反乱分子の動きに期待感を持っている様子がうかがえるほか、また、そこには西郷が戦局に関して、非常に甘い見通しを持っていたことが併せて分かります。
西郷は自らの声望を過信し、政府に不満を持つ者たちの力と行動に期待し過ぎていたと言えるのです。

このような甘い見通しが、薩軍をして熊本城を包囲するという拙い戦術を選択させたと言えましょう。
西郷以下薩軍幹部たちは、熊本城内の鎮台兵が自分たちの行動に賛意を示し、ほとんど戦うことなく、簡単に開城出来るとの見込みを持っていたと思われますが、それに反して、薩軍は熊本鎮台の激しい抵抗にあい、結局最後まで熊本城を攻め落とすことが出来ませんでした。ここにも薩軍の見通しの甘さが際立っています。

西南戦争における西郷の悲劇とは、決起するための準備が何も整わないまま、急きょ挙兵せざるを得ない状況に追い込まれたこと、また、それに加えて、薩摩に引き続き蜂起した者たちが九州圏内の局地的な地域に留まったことにあったと言えますが、それに加えて、薩軍が敗北した一番の原因とは、自らの強さを過信するあまり、詳細な軍事計画を立てなかったことに起因すると言えるのではないでしょうか。


本ブログ執筆者の著書

『維新を創った男 西郷隆盛の実像』(扶桑社、2017年)定価1,728円

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西郷隆盛の生涯をより詳しく書いていますので、西郷に興味を持たれた皆様、是非一冊ご購読頂ければ嬉しいです。
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【2018/12/09 20:50】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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全ての運を天に任せた集団自決
つるしん
粒山さぁの分析・考察やご指摘には、何時もながら、まこて、感服させられもす、今回も、歴史ドラマ足るべきものはとのご意見、桐野どんへの風説の流布の件(くだり)など、実に秀逸な分析・考察ごわんさぁ。 薩摩を出立する前の軍議で既に出されていた由の海路案を退けたのは西郷どんご自身(此の辺りも正に「過信」もあったかも知れもはん)と理解しており、また、陸軍大将名で明確な「軍命」を下してはおられんどころか、県外士族への檄文さえも出しておられんで、積極的・能動的に「勝つ」積りは無かった(況してや、一部の陳腐なご意見に見られるクーデターを起こすなんぞ微塵もビンタを掠めたことなど無か)ことから、東京到達の一縷の望みを懐の奥底に抱きながらも、新政府の遣り方のままで中央集権が盤石・確固たるものに成っても良かとする、全ての運を天に任せた(=天意に任せる、即ち、前回ご指摘の死生観から、最期の最後まで腹切りはせん)自己犠牲の上での「集団自決」が、西郷どんのご本意であったろうと、おいは思ちょいもす。。。


zampanogelsomina
粒山様

いつも素晴らしい解説をありがとうございます。

思うのですが、放送各回毎のこちらのブログの解説を本にしてみてはいかがでしょうか?
ブログに記載されている、当時の手紙や日記等を現代語訳も付記して。
来週で最終回を迎えますが、このままでは誤解されたままの「西郷」で終わってしまうような気がしてなりません。

私、初回放送からの粒山様のブログをプリントアウトして、時折見返しております。


ukoji
延岡は数年前に行きました。
印象に残ったのは俵野の記念館のご主人で、
まだ大河の話などまったく無かった頃で、
とても親切に案内してくれたりして、
なんともいえぬ、あれが西郷と感じさせてくれる
人物でした

ご感想ありがとうございます。
粒山 樹
皆さま、ご感想ありがとうございます。

いよいよ『西郷どん』も来週が最終回です。
私のブログも残り一回となってしまいました。
毎週書いていましたので、何だか寂しい気持ちになっていますが、『西郷どん』が終わっても、これまでと同様に西郷の情報を発信していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

あっ、是非、本ブログの内容を一冊の本にしてまとめて出版したいところですが、西郷ブームが去った今、本にしてくれるような奇特な出版社は、皆無かと思います(汗)。

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大河ドラマ『西郷どん』も、今回を含めていよいよ残り三回となりました。
今回は、西南戦争勃発の直接的原因となった私学校生徒たちによる陸軍火薬庫襲撃事件が描かれ、最終的に西郷が挙兵を決断しましたが、ただ、少し気になったのは、桐野利秋や篠原国幹といった西郷の腹心たちが、まるで西郷を挙兵に追い込んだかのように描かれていたことです。
しかしながら、実際の彼らはむしろ血気にはやる若者たちを抑制する立場でいましたから、あのように冷静だったのは西郷一人であったかのような描き方は誤解を生むような気がします。
当時の西郷はと言うと、人と会うのを極力避けていたため、今回の『西郷どん』で描かれたように、騒ぎ立てる若者たちを押さえるどころか、悠々自適に狩猟や湯治に出かける日々を過ごしていました。
実際、西郷が私学校生徒暴発の一報を受けたのも、鹿児島城下から遠く離れた大隅半島南部の小根占(こねじめ)という場所であり、西郷は狩猟に出かけている時にその知らせを受け取ったのです。

後年、勝海舟が西郷のことを偲んで作詩した

「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」

の歌に象徴されるように、西郷が西南戦争における一種被害者であったという観点から、意図せぬ戦争に巻き込まれたかのような描き方をされることが多いですが、確かに西郷は巻き込まれる形で挙兵せざるを得ない状況に追い込まれはしましたが、前回のブログでも触れたとおり、私学校生徒たちが暴発したのは、西郷にも大きな責任があったと言えます。
西郷は私学校生徒の暴発を未然に防ぐための防止策を根本的にとっていなかったことから、彼らが暴発したのは当然の帰結であり、当時の西郷は運を天に任せていた観が正直否めません。

また、よく西南戦争は、今回の『西郷どん』でも描かれたように「桐野の戦争」であったかの如く言われることがありますが、私から言わせれば、「西郷の戦争」以外の何ものでもありません。
西郷が挙兵し、薩軍の中心に居たればこそ、九州各地から従軍希望が相次ぎ、九州全域を巻き込んだ大きな戦争に発展したわけですから、それを桐野一人のせいにするのは、はっきり言って酷です。
このように桐野が悪く言われるようになったのは、西南戦争後も西郷人気は相変わらず高く、衰えるどころか逆に上がりさえし、一種神格化に近い形で語られるようになったことから、西郷のことを悪く言えない(批判できない)風潮が世間に残ったためであり、桐野は一種スケープゴートにされたと言えるのです。

(西郷暗殺計画はあったのか?)
西南戦争が勃発する直接的な原因となったのは、私学校生徒たちによる陸軍火薬庫襲撃事件にあったと言えますが、それと併せて「西郷隆盛暗殺計画」、つまり、政府から西郷を暗殺するための刺客団が送り込まれたという一件も、私学校関係者の怒りを大いに買い、のちに薩軍が挙兵する大きな原因の一つとなりました。

DSCF0985.jpg
草牟田の陸軍火薬庫跡(鹿児島市)

この西郷暗殺計画が明るみに出たのは、今回『西郷どん』にも登場した中原尚雄という人物がきっかけです。
中原が警視庁から放たれた密偵であることが露見したことから、当時私学校関係者で占められていた鹿児島県警察は、中原を捕縛し、厳しい取り調べを行ったのですが、その際に中原が西郷暗殺計画を自供したとされているからです。
中原が拇印した口供書には、

「大警視川路利良宅ヘ差越候処、同人ヨリ各県ノ事情等彼是ト承リ候末、鹿児島県ニ於テ近頃種々不穏向モ有之迚モ、西郷陸軍大将在県ナレハ、名義不立粗忽ノ所為ハ無之トハ申ナカラ、万一挙動ノ機ニ立至ラハ、西郷ニ対面刺違ヘルヨリ外仕様ハナイヨトノ申聞ニ随ヒ居候」(「中原尚雄口供(丁丑擾乱記)」『鹿児島県史料 西南戦争』一)

とあり、大警視の川路利良から「万一の場合は西郷と刺し違えよ」と命じられたと記されています。
また、中原は川路からの命を受け、ともに鹿児島に帰省する者たちと共に、

「第一私学校ノ人数ニ離間ノ策ヲ用ヒ、我方ニ人数ヲ引キ入レ私学校ヲ瓦解セシメ、動揺ノ機ニ投シ西郷ヲ暗殺致シ、速ニ電報ヲ以テ東京ニ告ケ、海陸軍併セテ攻撃ニ及ヒ、私学校ノ人数ヲ鏖シニ致候儀ヲ決定シ」

と、私学校を瓦解させるために西郷暗殺を決議したとも記されています。

中原が政府の放った密偵であると判明したのは、『西郷どん』には出てきませんでしたが、谷口登太という人物が原因です。
谷口は私学校から送り込まれた、いわゆる逆スパイで、中原の帰郷目的を探るため彼に近づいたのですが、そのような事情があることとは露知らず、中原は知己の谷口に対し大いに心を許しました。
そして、中原は谷口に対して、次のように帰郷の目的を語ったと、谷口の陳述書にあります。

「是非共此私学校ナル者ヲ瓦解セシメ候策ヲ施シ候次第ニテ、各郷ニ於テハ如何ニモ手ヲ下シ安ク、是ハ掌中ニ有之候得共、庁下ニ於テハ甚タ六ケ敷、乍然此根拠ヲ不破候テハ、瓦解ニ至兼候ニ付、此処ニ於テ秘中ノ秘策ヲ用ヒ、十分可相崩之事ヲ決シ居候ニ付、第一西郷隆盛ヲ暗殺セハ、必ス学校ハ瓦解ニ可至、其他桐野・篠原ノ西士(両士)迄斃候得ハ、其跡ハ至テ制シ安ク」(「谷口登太郎陳述、中原尚雄ヨリ聞取書(鹿児島征討始末 別録一)」『鹿児島県史料 西南戦争』一)

このように、中原は谷口に対して、自らの帰郷は「私学校の瓦解」が主目的であり、そのための手段として、「西郷を暗殺する秘策」を持っていると語ったのです。
また、中原は谷口に対して、

「西郷ニハ同人知己ノ事故、面会ヲ得テ可刺殺覚悟ニ候、勿論此人ト共ニ斃レ候得ハ、我身ニ於テハ不足ハ無之」

と自らの決意を述べたともあります。

また、このような西郷暗殺計画をまるで補完するかのように、同時期に大久保の命により鹿児島に入った野村綱は、中原ら警視庁の密偵団が身柄を拘束されたことを知ると、鹿児島県庁の大書記官・田畑常秋を訪ねて自首した後、次のような供述をしました。

「殊ニ警視庁ヨリモ探索差出シ有之候、皆必死ノ覚悟ニテ先キ達テ出立セリ、暴発等の節ハ自ラ大小為ス所アルヘシト、懇々被申渡候ニ付、其意ハ畢竟主任ノ人ヲ斃スカ、又ハ火薬庫ヘ火差入ル等ノ事ニテ、随分仕果スヘシト汲受ケ、左様ノ事ナラ承知仕候旨相対ヘ候」(「野村綱口供(丁丑擾乱記)」『鹿児島県史料 西南戦争』一)

つまり、野村は、大久保が警視庁密偵団の目的を「主任の人を斃す」、つまり西郷暗殺計画であることを語ったと自供したのです。

以上のような事実だけを考えると、西郷暗殺計画は真実であったと判断できますが、ただ、前出の中原の口供書は、私学校関係者による激しい拷問の末に作成されたものであることから、その自供の信憑性については、昔から疑問視する声が大きいと言えます。
事実、中原はのちに鹿児島に入った政府軍に救出された後、前述の口供書の内容を完全否定し、口供書については拇印を強要されたと証言しています。

戦後に中原が提出した文書によると、中原が鹿児島に帰郷したのは、

「我輩帰縣スルノ本意タルヤ、我親戚朋友間ニ大義名分ノ存スル處ヲ確守シ、無名ノ黨ニ役セラレス、方向ヲ失ハサルノ眞意ヲ説カンカ為メ」(『大久保利通伝』下)

であり、「私事ニシテ公事ニアラス」と、あくまでも私的な自発的行為であったとあります。
中原は親類縁者が私学校党に与するのを危惧し、その説得にあたるため、自ら鹿児島に帰郷したと述べたのです。

また、中原は川路から西郷を暗殺しろというような命令はなく、川路の邸宅において、権大警部の大山綱昌から、旅費として四ヶ月分の給料を受け取った際、同人から「反覆帰縣ノ上ハ、萬事忍耐シテ粗暴ノ事ナク無事ニ帰ルヘシ」との訓令だけを受けたとあります。
そして、私学校関係者に捕縛された後、「お前は西郷大将を暗殺するために帰ったのだろ?」と詰問された際も、「決シテ然ラズ、両親病気ニ付看病ノ為メ帰縣シタリ」と答えたとあり、また、前述の西郷暗殺計画を記した口供書についても、「無理ニ拇指ニ墨ヲ點シヲ強テ押サセ」と、拇印を強要されたと語り、「其文中暗殺ノ文字アルヲ聞キ、大ヒニ驚愕」したともあります。

以上のように、中原は私学校関係者が作成した口供書の内容を戦後に完全否定しているわけですが、実は、それは中原から暗殺計画を直接聞いたとされる谷口も同様です。
谷口は西南戦争終結後、九州臨時裁判所において陳述した口供書において、中原から暗殺計画を聞いたという話を否定し、前言を撤回しています。
谷口の口供書の末尾には、

「中原尚雄等西郷隆盛を暗殺せんと企てたる云々、自分より私学校黨の者へ申出たるに由り、右を證據として取糺の上、中原等の口供成案相成りたる趣、今般再應御取調を受け候得共、暗殺の儀は中原より決して承はらさるは勿論、右様の儀自分より相良長安其他へ申出でたる事は一切無之、前件申立候通、鹿児島より出陣の途中に於て、邊見十郎太より中原の口供なりとて讀聞かせ候節、其文中暗殺云々の儀有之、不審に思ひ候次第に付、其口供は全く私学校黨に於て、取拵へたることと想像致し候事、右之通相違不申上候」(『大久保利通伝』下)

とあり、谷口は「暗殺の儀は中原より決して承はらさる」と申し述べ、中原から暗殺云々を聞いたということは私学校関係者のねつ造であったとしているのです。

このように西郷暗殺計画というものは、西南戦争の前と後では事実が完全に相反していますが、ただ、当時の私学校関係者が、この暗殺計画を真実だと信じ切っていたことは間違いありません。
政府から何の予告も無く武器・弾薬が運び出されるという事件が発生し、県内に動揺が広がっている最中、それに輪をかけて私学校生徒たちが陸軍火薬庫を襲撃するという異常事態が生じたこと。さらに警視庁の現職警官たちが大挙鹿児島に帰郷し、探索活動を行っていた事実を知ったことで、当時の私学校関係者の猜疑心は最大限に増長していました。
このように、ただでさえ過敏になっている最中での中原の西郷暗殺計画の自供は、たとえ拷問の末の供述であったとしても、私学校関係者には十分信じるに足る証拠であると考えるにいたったであろうことは想像に難くありません。
また、前述のとおり、野村綱という人物は自ら自首したうえで、密偵団の西郷暗殺計画を語ったわけですから、私学校関係者は野村の証言でさらに暗殺計画への確信を深めたものと思われます。
実際、それは西郷も同じで、政府から自らを殺すための刺客を放たれたということを真実だと受け止めていたようです。

西南戦争勃発当時、鹿児島県警察署長を務めていた野村忍介は、薩軍幹部の一人として西南
戦争を戦いましたが、のちに生き残り、懲役十年の刑を受けました。
その野村が、明治13(1880)年3月2日に市ヶ谷の監獄で行われた取り調べにおいて、

「暗殺ノ一条ハ、西郷ハ実ト思ヒシナルヤ」

と問われて、

「全ク実ト思ヒタルナリ」

と答えています(「西南之役懲役人質問第一」『鹿児島県史料 西南戦争』一)。

また、このような感覚は何も西郷だけに限ったことではなく、当時鹿児島に居た島津久光も同様です。
高島弥之助『島津久光公』には、「久光忠義二公も其の刺殺の計畫を信ぜられ、政府は刺殺は視察なりと辯明するも、之れ唯遁辭に過ぎずとせられた」とあり、久光もそして忠義も西郷暗殺計画を信じていたとあります。

そのような久光や忠義の気持ちや考えは、久光父子に対して下された勅書への奉答書に強く表れています。
薩軍が挙兵した約一ヶ月後の明治10(1877)年3月9日、公家の柳原前光が勅使として鹿児島に入り、久光父子に対して、薩軍の征討に協力するよう命じる勅書を手渡しました。
それに対して久光は、太政大臣の三条実美に対し、奉答書を書いて差し出していますが、その中に次のような文言があります。
少し長いですが、その部分を抜粋すると次のとおりです。

「西郷隆盛等此度政府ヘ訊問トシテ多数兵器ヲ携ヘ出行セシハ、既ニ臣道ヲ失シタル、其罪自大ナリ、且内務卿大久保利通・大警視川路利良ヨリ内命ヲ受、数人帰省等ニ事ヨセ離間等ノ策ヲ行フ云々事発覚ノ義、妄説ノ布達拝観ス、此義臣等ノ大ニ疑惑スル処ナリ、其故如何トナレハ道程数百里ヲ隔テ、則之レヲ妄説ト見認メラル、西郷等ニ於テ必ス其罪ニ伏スヘカラス、是レ至理至平ノ所分ニアラサルカ故ナリ、鹿児島県人民ニ於テハ最確証ヲ挙ケ之レヲ見聞シタルモノニテ、或ハ間ヲ使ヒ同意ノ体ヲナリタルアリ、或ハ自訴シタルアリ、故ニ傍人モ挙テ之ヲ証トシテ疑ハサル所ナリ」(「朝命ニ対スル久光公ノ奉答書」『鹿児島県史料 玉里島津家史料』八)

久光は挙兵に及んだ西郷の罪は大変重いとはしながらも、西郷暗殺計画については、「此義臣等ノ大ニ疑惑スル処ナリ」と書いており、当時久光が暗殺計画を真実だと受け止めていたことが分かります。
久光はこのように証拠が揃っている以上、西郷等がそれを信じるのは致し方ないとして、言わば西郷の立場を擁護しているのです。

このように久光が西郷を擁護したのは、久光自身が中原等の口供書を実際に読んでいたからでしょう。
『鹿児島県史料 西南戦争』一所収の「島津久光西郷隆盛トノ面語ハ明治七年以来ナシ」という文書の中に、鹿児島県令の大山綱良が、廃藩置県以後は久光と面会することが稀であったとの記述がありますが、その後に次のような記述があります。

「二月七八日頃中原尚雄等カ口供案ヲ、田畑常秋ヲシテ斯ル次第ナルヲ告ケタルノミナリシト」

前述のとおり、田畑常秋とは野村綱が自首を申し出た相手で、当時鹿児島県の大書記官でした。
この記述を見ると、大山は田畑を久光の元に派遣して、中原らの口供書の写しを送っていたものと思われます。
当時の久光は傍観の立場を崩していませんでしたが、薩軍の去就については関心を持っていたものと考えられ、大山は久光への報告は逐一怠らなかったものと推察します。

このように、実際に中原らの口供書に目を通していた久光は、暗殺計画が根も葉もない噂話ではないと判断し、政府に対して、政府軍と薩軍は一旦休戦したうえで、西郷と大久保が出席する臨時裁判を開き、理非曲直を正すべきだと主張しました。
前出の奉答書には、

「仰願クハ至急休戦ノ命ヲ総督府ヘ下サレ、此度ノ巨魁人員を定メ、平穏ノ所分ヲ以テ中途ヲ護送シ、大久保・川路モ随テ之レヲ召シ、至理至当聊偏頗ノ所分ナク、各法官ヘ渡シ奏任以上其席ニ列坐シ、非常ノ裁判ヲ開キ、其結局ニ至リ律ニ照シテ之レヲ罪シ、其上若異議ヲ生セハ断然ト罪ヲ鳴シ、之レヲ征討セラレテ可ナリ、乞フ、速ニ実事施行アラン事ヲ」

とあり、久光は西郷だけでなく大久保や川路も召喚し、裁判という場において、法律に照らしてどちらに非があるかを判断し、そして罰するべきだと主張したのです。

また、当時島津家の家令を務めていた奈良原繁(前名・喜八郎)が、久光に対して差し出した建言書には、

「西郷ガ平生ノ志行ニ於テ容易ニ此暴妄挙ヲ図ル者ニ非サレハ、其原因ハ或ハ中原以下口供ノ事ニ発スルナルヘシ、然ラハ則擁兵東上ノ一事ヲ以テ未遽ニ西郷ノ叛跡顕然ヲ指定ス可カラス、必ヤ中原以下ヲ糾弾シテ其事実ヲ公言セシメ、而シテ後始メテ其叛逆ノ真偽を知ル可ク」(「奈良原繁ヨリ久光公ヘノ建言」『鹿児島県史料 玉里島津家史料』八)

とあり、西郷挙兵の罪を問うためには、まず暗殺事件の真否を確定する必要があると奈良原は主張しています。
奈良原という人物は、慶応末期から明治期にかけて、西郷とは主義主張が異なり、そりが合わなかった人物です。
その奈良原でさえも、「西郷ガ平生ノ志行ニ於テ容易ニ此暴妄挙ヲ図ル者ニ非サレハ」と、西郷の性格から考えると、余程のことがない限り暴挙に出ることはないと庇っていることから察しても、当時の鹿児島県内の空気感が想像できます。

以上のように、当時の鹿児島県内は、政府から西郷暗殺のための刺客団が放たれたということを相当以上に信じ切っていた空気が充満していたことが分かりますが、西郷暗殺計画の真相については、判断が非常に難しいです。

平成25(2013)年6月、西南戦争勃発当時の鹿児島県裁判所の判事七人が、停戦と暗殺事件の真相解明を直訴する明治天皇宛の上奏文(密訴)が発見されたとのニュースが流れ、その際、さも暗殺計画の黒幕は大久保であったかの論調がなされましたが、当時の鹿児島県は行政機関のトップであった県庁を筆頭に、警察などの組織も全て私学校関係者に握られている状況でしたから、裁判所の判事が直訴したことをもってして、西郷暗殺計画が真実であり、かつ今回の『西郷どん』で描かれたように、大久保がその黒幕であったとするのは、少し無理がある解釈だと言えます。
西郷対大久保、大久保対西郷と、明治維新後は常に対立構図で話されがちな二人ですが、これまでも本ブログで書いてきたとおり、二人は政治的に対立し、袂を分かったとは言え、お互いに憎しみの気持ちを抱くほど、当時険悪な関係にあったとは考えられません。
実際大久保が西南戦争勃発直後の明治10(1877)年2月13日付けで鹿児島県に布達した文書には、

「西郷隆盛ハ過激少年ニ対シ大義名分ヲ以、屢説諭ニ尽力致候処、終ニ承服ニ不至、不得止ヲ避ケ候趣、、該県令ニ於テモ毫モ方向ヲ不失、充分鎮撫ニ尽力致候」(『鹿児島県史料 玉里島津家史料』八)

とあり、当時の大久保は西郷の関与を否定していることから考えても、西郷が挙兵に加わる理由となり得る暗殺計画を目論むとは到底考えられません。
いかに大久保が策士であったとは言え、簡単に暗殺命令を出すような軽率な人物ではなかったでしょうし、大久保がそのような愚策を考えるはずも無かったと私は考えます。
なぜなら、西郷の暗殺が失敗・成功のいずれの結果になったとしても、その影響は計り知れず、鹿児島県全体が暴徒化することは必定であり、もしかすると島津家、つまり久光もそれに巻き込まれる可能性もある危険な策であったと言えますので、大久保がそのような指令を出すことはあり得なかったものと私は推察します。

しかしながら、それと同時に、西郷暗殺計画が全く根も葉もないところから生じた話であったとも思えないのは事実です。
中原から暗殺計画を直接聞いたとされる谷口に関しても、前述のとおり、戦後その証言を覆しはしましたが、その際に提出した口供書には、

「併し西郷若し事を擧る時機に至らば、立越し議論に及ひ、聞き入れざる時は刺し違へるより外に手はない、此人と共に斃るれば吾身に於て不足は無之」(『大久保利通伝』下)

と書かれてあり、中原が谷口に対して「西郷と刺し違える覚悟を持っている」と話したことに関しては前言を覆していません。

また、のちに明治43年4月20日、『薩南血涙史』の著者・加治木常樹が谷口と直接会って話を聞いた際、谷口は「暗殺の事は正しく中原より聞きたる事に相違なき事實なり」と、またもや前言を撤回して、中原から聞いた暗殺計画は真実だと述べています。
谷口は取り調べの際に、暗殺事件のことは「水掛論」になっていると言われ、「幾度も八代鏡の官米掠奪事件を除去する事を申告されたり」と、つまり、他の罪を軽くするので今さら無用なことは書くなと誘導された末、暗殺計画については聞いていないものとしたと語っているのです。
確かに、今で言う司法取引ではないですが、自らの罪を軽くしてやると言われれば、余程確固とした意志を持っている人以外は、それに応じる言動をとったという谷口の行動も理解できます。

また、そもそも中原の帰郷理由についても、彼が戦後供述したように「私事ニシテ公事ニアラス」と、警視庁の関与が一切無かったということは、現代に遺されている各種史料から判断しても偽証であることは明白であるため、川路もしくはその側近の大山綱昌から、「いざとなれば、西郷や私学校幹部と刺し違えてでも目的を果たせ」くらいの話はあったと考えてしかるべきではないかと思われます。
ただ、それが暗殺計画の命令であったのかと考えると、とても微妙であると言えましょう。
話はそれますが、昨今生じた日本大学アメリカンフットボール部の危険タックル問題を考えても、どこまでが指示なのか、それともどこからが指示された方の独自判断なのかは、当事者の証言だけでは確定しづらいものがあると言えます。

以上のように考えると、いわゆる「西郷暗殺計画」というものが真実であったのかどうかについては、全く根も葉もない「シロ」と言う訳ではなく、「グレー」に近いものはあったと思われます。
しかしながら、その指令が大久保から出ていたということに関しては、やはり考えづらいと判断せざるを得ません。


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【2018/12/02 20:50】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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もうすぐ終わるんですね……
あやママ
こんにちは。ずーーっと前にお邪魔させて頂きましたあやママです。お元気ですか?
来週は西南戦争……切ないですね……
私学校での出来事が放送されましたが、西郷さんの暗殺命令は事実とばかり思ってました……しかし、「グレー」との事。色々と深いですね〜〜。勉強になります。 来週は我が熊本に攻めて来る訳ですね……そんな熊本城ですが、地震で凄い事になってしまいました。今、頑張って復帰の最中です。こっちも良かったら見守ってやって下さいね!西郷さんも今の熊本城をご覧になったらさぞ、びっくりされるでしょうね。

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(西郷と大山綱良)
今回の『西郷どん』では、西郷は再び鹿児島に帰って隠遁生活に入りました。
そんな西郷を慕い、東京から続々と将兵たちが鹿児島に帰郷したことから、西郷は鹿児島県令の大山綱良(前名・格之助)の協力を得て、彼らの受け皿として「私学校」を創設しました。

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私学校跡(鹿児島市)

『西郷どん』では、西郷と大山が良好な関係で結びついていたかのような描き方をされていますが、実際、西郷の大山に対する評価は大変厳しいものがありました。
明治6(1873)年6月29日付けで、西郷が母方の叔父である椎原与右衛門に宛てた書簡には、大山について、

「此の格州の振る舞い実に驚き入り候仕合い、銭の金のと申す事計り、全く商人肌合いに成り切り居られ、(中略)、只自分の面計りを能くいたし候軽薄なものに陥り候故、皆々人望を失し、当時は盗犬の如くひろひろいたし居られ候体、見苦敷次第」(『西郷隆盛全集』三』)

と書かれています。
「銭の金のと申す事計り」「只自分の面計りを能くいたし候軽薄なもの」という辺りに西郷の大山観が分かるのではないでしょうか。
特に、後半部分の「盗犬の如くひろひろいたし」とは、全集の注釈によると、「盗犬のように、痩せてぎょろぎょろ落ち着きのないさま」という意味だそうです。
大山の容姿を含めて罵倒していることから察しても、西郷の大山に対する嫌悪感が読み取れます。

また、明治6年4月19日に大山が鹿児島県参事から鹿児島県権令に昇進したことについて、西郷は同年5月17日付け桂四郎(久武)宛て書簡の中で「余程巧みこれある向きに相聞かれ申すべく候」と書き、また、「又奥深く相考え候得ば、県庁の権威を以て人数を纏め、一仕事を巧み候や相分からず候」と、大山が県庁の権力等を利用して何か企んでいるのではないかと書いています。
以上のような西郷書簡からも、二人の関係性が分かるのではないでしょうか。

西郷という人物は、元々人の好き嫌いがはっきりしている人です。
特に、西郷自身が金銭に無頓着な人物であったことから、商人のような活動をしている人を嫌っていたようで、例えば、大阪の産業界に多大な功績を残した五代才助(のちの友厚)のことを「利のみの人間」と書いているほか(明治2(1869)年12月27日付け、桂四郎(久武)宛て書簡)、膨大な薩摩藩史料の編纂に尽くした市来四郎にいたっては「山師」呼ばわりし(明治4(1871)年12月11日付け、桂四郎(久武)宛て書簡)、はたまた、一番最初の妻・スガの弟である伊集院兼寛のことを面の皮が厚いという意味で「ダッキョウ先生」と比喩したりしています(明治7(1874)年8月31日付け、篠原冬一郎(国幹)宛て書簡)。
西郷という人物は、『西郷どん』で描かれているように、とても温和で、清濁併せ飲む優しい人物というイメージが定着していますが、確かにそのような一面もあったのでしょうが、元来猜疑心の強い人物であったと思われます。

話を戻して大山のことですが、大山という人物は、県令という鹿児島県では最上位の官職に就いていながらも、西郷という巨大な存在が在野におり、なおかつ旧主の忠義や久光が依然として県内で勢力を保っていたことから、両者に多大な気を遣わなければならない状況に置かれていました。その在職中は大変苦労したものと思われます。
特に、西郷が下野してから西南戦争に至るまでの間、鹿児島県庁はまさに私学校県庁であったと言えるほど、私学校の関係者で重職が占められていましたので、思わぬ所から突き上げを食うようなことも多かったに違いありません。
明治10(1877)年に生じた西南戦争において、大山は鹿児島県をあげて薩軍を支援する立場を取りましたが、それは大山の本意では無かったと言えるかもしれません。
大山は西南戦争後に長崎で斬首に処せられますが、以上のような点から考えれば、大変悲劇的な人物であったと言えましょう。

(下野後の西郷)
鹿児島に帰郷した西郷は、政治から離れたところに身を置き、まるで農夫のような生活を始めたことから、下野後の西郷は完全に隠退するつもりであったというのが一般的な解釈ですが、私はそれに懐疑的です。
確かに、下野直後の西郷は、再び復帰するつもりは無いとの意向を誰あろう久光に対して伝えています。
明治7(1874)年2月22日、西郷はその前々日の20日に鹿児島に帰国した久光に拝謁していますが、次のように語ったと『玉里島津家史料』にあります。

「朝命ノ重キヲ奉シ、旧君病苦ヲ侵シ、遠ク来テ臣ニ諭スニ誠ヲ以テス、臣恐懼ニ堪ス、冷汗背ニ洽敢テ出ル所ヲ不知、然リト雖ヲ奉スルヤ、臣カ心事実ニ安カラサルモノアリ、如何トナレハ臣職ヲ辞スルノ際、国家事臣カ所見ヲ以テ献言スルモノ再三、廟議終ニ臣カ所見ヲ採ラス、故ニ職ヲ辞テ県ニ帰ル、臣再ヒ出ルモ方今ノ事臣カ所見ト相反ス、若シ朝廷臣カ前議ヲ用ンニハ実ニ政令朝出暮改、何ヲ以テ信ヲ天下ニ示サン、今日ニ至テ臣敢テ国家ヲ維持スルノ策ナシ、国難ニ当テ唯一死アルノミ、臣決テ非ヲ逐ルニアラス、仰願ハ臣カ心情憐察ヲモ給ハン」(「久光公ヨリ西郷隆盛ヘノ説諭」『鹿児島県史料 玉里島津家史料』七)

この記述を見る限り、当時の西郷には再び上京して政治に携わる気持ちは無かったように考えられます。

「臣再ヒ出ルモ方今ノ事臣カ所見ト相反ス、若シ朝廷臣カ前議ヲ用ンニハ実ニ政令朝出暮改、何ヲ以テ信ヲ天下ニ示サン、今日ニ至テ臣敢テ国家ヲ維持スルノ策ナシ(私が再び政府に出仕しても、現在の政策と私の所見は相反しており、もし朝廷が、私が以前唱えた議を採用することになれば、それは朝令暮改となり、何をもって事の信義を天下に示すことが出来ましょうか。今日に至っては、私に国家を維持するような策はありません)」

という部分にその気持ちが表れていますが、ただ、西郷の生涯を俯瞰すれば分かるように、西郷の人生とは挫折と再起の繰り返しであり、西郷は挫折を味わう毎に、前述のように必ず隠退の意向を示しますが、最終的には必ず再び起ち上がっています。
その理由については、亡き先君・斉彬との関係などいくつかの理由があげられますが、特に明治4(1871)年1月、鹿児島に引っ込んでいた西郷が、大久保からの要請を受けて再び上京することを決心したのは、西郷が政府改革の必要性を強く感じていたことに起因します。

明治維新以後の政府に関して、西郷が大いに不満を抱いていたであろうことは、旧庄内藩士らが編纂した『南洲翁遺訓』を読めば明らかです。

「草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱え、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今となりては戊辰の義戦も、偏に私を営みたる姿になり行き、天下に対し、戦死者に対して面目なきぞとて、頻りに涙を催されける」(『西郷隆盛全集』四)

この遺訓には、明治維新以後、西郷が抱き続けてきた苦悩と不満が表現されていると言えます。特に「天下に対し、戦死者に対して面目なきぞとて、頻りに涙を催されける」という部分に、その気持ちが凝縮されていると言えましょう。

明治3(1870)年閏10月22日付けで、西郷の弟・信吾(のちの従道)が大久保と吉井幸輔に宛てた書簡には、西郷が信吾から政府の現状を聞き、「落涙ニ相及候」(『大久保利通文書』四)とありますが、信吾から政府の問題点や腐敗ぶりを直接聞かされた西郷が、涙を流すほど大いに嘆き悲しんだことから考えると、明治4(1871)年1月に西郷が憤然として再び起ち上がったのは、明治政府の立て直しを行うために他ならなかったと考えられます。

このように明治維新以後、政府改革の必要性を強く感じていたであろう西郷が、征韓論争という政変に敗れたとは言え、「もう下野した俺には無関係だ」とばかりに黙視し、自分一人だけが俗世を離れたところで安寧な生活を得ようとしていたとは、私には到底考えられません。
前述した久光に対する応答内でも、西郷は「国難ニ当テ唯一死アルノミ」と語っているとおり、前回の死生観の話にも通じますが、国難にあたり死を賭して起ち上がる覚悟を下野後も持っていたものと考えられます。

しかしながら、西郷の決起のタイミングが、いわゆる西南戦争が生じた明治10(1877)年であったかと考えると、それは西郷の目論見とは大いに異なっていたことでしょう。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』においても書きましたが、西郷は「佐賀の乱」を始めとする、旧士族たちの反乱が雪崩式に生じ、政府への不平不満が頂点へと達した時、何らかの行動を起こすつもりであったとは思いますが、私学校生徒があのような形で暴発することで挙兵に追い込まれるものとは予想していなかったに違いありません。

ただ、私学校生の暴発に関して言えば、西郷にもその責任は大いにあったと言えます。
西郷は私学校の運営を篠原国幹や村田新八らに全て任せ、自らが直接関わるようなことはしませんでした。
村田新八が鹿児島の現状を「恰も四斗樽に水を盛り、腐縄を以て之を纏ひたるが如し、遂に破裂すべきは自然の數なり」(『大久保利通伝』下)と表現したことはとても有名な逸話として残っていますが、村田の言うとおり、私学校生徒たちが暴発寸前であったとしたならば、西郷が厳しく私学校を監督するべきであったのです。
少し厳しい言い方をすれば、西郷は若者たちが血気にはやって暴発しないよう、管理・監督する義務を怠ったのです。
西南戦争の原因を西郷一人に被せることに懐疑的な見方もあるでしょうが、私学校生徒の暴発は、ある意味、西郷の怠慢により、必然的に生じたものであったと言えるのではないでしょうか。


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『維新を創った男 西郷隆盛の実像』(扶桑社、2017年)定価1,728円

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【2018/11/26 19:14】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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由美
こんばんは
毎週楽しみに拝見しています

粒山さんのご本が学校の小さい図書室にも配架されているのを見つけまして、すぐ借りて早速読んでいます
詳しく丁寧に書かれていて、わかりやすく読みやすく、今夜中に一気読みするかもしれません

ありがとうございます
粒山 樹
由美さま

はじめまして、こんにちは。
拙ブログにつきまして、毎週お読み頂いているとのこと、本当にありがとうございます。

また、拙著もお借り頂いたようで、併せてありがとうございます。
情熱だけは込めて書きましたので、楽しくお読み頂けると嬉しいです。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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今回の『西郷どん』は、後半のクライマックスとも言える「征韓論」が描かれました。
ただ、前回も書きましたが、西郷に比べて大久保の扱いが少し悪者過ぎるような気がしました。
最後は友人・西郷との別れに涙する演出がありましたが、どうしてそこまで二人の関係が悪化したのかがドラマ内で深く描かれていなかったことから(たった一度の言い争いだけであのような形になっていましたから)、大久保が西郷を敵視することが少し唐突過ぎて、西郷ならずとも「なぜ?」という気持ちになりました。
また、ドラマ的には正邪の区別を付けた方が分かりやすくなるのでしょうが、征韓論争というものは、どちらが正しい・正しくない、つまり正義と悪の対立では決してなく、両者ともに日本の国の将来を真剣に憂い・考え、そして激しく論争に及んだものであって、そこに正邪の区別を付けることはナンセンスであると思います。

(西郷は遣韓論者であったのか?)
今回の『西郷どん』において、大久保が「西郷に勝って、今の政府をぶっ壊す」みたいな大変物騒なセリフを吐いていましたが、征韓論争、いわゆる「明治六年政変」は、当然西郷に勝つ・勝たないの問題や二人の友情に亀裂が入ったために生じたわけではなく、そんな小さなことで西郷と大久保が対立したのではありません。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』でも詳細に書きましたが、この明治六年政変については、通説にあるように「内治派 対 外征派」「非征韓論者 対 征韓論者」などという単純な構図ではなく、「西郷ら留守政府 対 大久保ら洋行組」の政権の奪い合いであったと解釈するのが最も適していると言えます。(留守政府という呼び方は、もう変えるべきだと思いますが、ここでは便宜上使用します)
前回、大久保の書簡から「蜘蛛の糸の巻きあい」という言葉を引用しましたが、明治六年政変は、政権を巡る政争であって、征韓論はその政争の具に使われたということです。

そもそも当時の西郷や大久保ら政治家たちについて、征韓論者・非征韓論者などという区分けをすることは、余り意味を持たないと思います。
なぜなら、当時は帝国主義真っ只中の時代です。食うか、食われるかの時代にあって、外征を全く考えていなかった政治家など、当時は皆無に等しかったと言えるからです。
特に、岩倉使節団で欧米諸国を見聞してきた人たちにとっては、西洋列強諸国の植民地政策を実際に目の当たりにし、肌で感じてきているわけですから、その脅威や危機感は一般人よりも遙かに大きなものであったと言え、早晩外征を考える(視野に入れる)必要があると考える人の方が多勢を占めていたという時代背景を押さえておかなければなりません。
実際、征韓論争後の政府は、「征台(台湾出兵)」や朝鮮や清と事を構える「江華島事件」を引き起こしており、その後の日本が歩んでいった道のりを見れば、それは明らかです。
その点から言うと、征韓論争を簡単に二元論的な観点から見るのは、意味をなさないと言えるのです。

また、征韓論に関して言えば、西郷が主張したのは征韓論ではなく遣韓論であったという論調をよく目にします。
西郷が朝鮮との開戦を全く意識していなかった遣韓論者、つまり朝鮮への平和的な使節派遣のみを考え、それを主張していたのかと言うと、それは大いに語弊があります。
確かに、西郷は太政官の閣議において、朝鮮への平和的な使節派遣を主張しましたが、明治6(1873)年8月17日付けで、西郷が同じ参議の板垣退助に宛てた書簡には、

「此の節は戦いを直様相始め候訳にては決してこれなく、戦いは二段に相成り居り申し候(この節は戦いをすぐに始めようというのでは無く、戦は二段と考えています)」(『西郷隆盛全集』三)

との文言があり、第一段が使節派遣、第二段が武力行使という構図を西郷は板垣に対して語っています。

DSCF0394.jpg
板垣退助誕生地(高知市)

この記述から考えると、西郷は朝鮮との交渉(談判)が決裂した場合、武力行使を念頭に置いていたことが分かります。
実際、西郷は戦争になった時のための準備も行っており、使節派遣が失敗に終われば、武力を背景とした交渉に切り替えることを考えていたことは間違いないと思われます。
その点から考えると、西郷が「平和論者という観点からの遣韓論者」であったというのも、簡単に言えば間違いだと言えるのです。

しかしながら、西郷の征韓論が第一に戦争を意図(目的)としたものであったのかと考えると、それはまた別次元の話です。
確かに、西郷は開戦のための準備をしていますが、それはあくまでも朝鮮政府との交渉が決裂した場合を想定してのことであり、戦争準備をしているから、西郷は最初から朝鮮を攻めようと考えていたと結論づけるのは、いささか早計に過ぎると思います。

(西郷は死ぬために朝鮮へ行こうとしたのか?)
まず、西郷の征韓論を考えるうえで最も重要なこととは、

「西郷は朝鮮への使節派遣を成功させようと考えていたのか?」

という点に尽きるかと思います。
なぜならば、現在、西郷が征韓論者だと断定されている原因は、「元来西郷には朝鮮への使節派遣を成功させるつもりはなく、交渉の決裂を狙って、最終的に武力行使にまで持っていきたいと考えていた」と言われているからです。
つまり、西郷の使節派遣論は、あくまでも形だけのことであって、

「西郷は朝鮮との戦争をあらかじめ意図しており、死ぬこと(殺されること)を目的に、自ら朝鮮へと渡り、開戦のきっかけを作ろうとした」

ということです。

そこで考えなければならないのは、では「西郷はなぜ朝鮮で死のうと考えたのか?」という点だと思います。
よく西郷の自殺の動機を

1.政治に対する行き詰まり
2.旧主・島津久光との関係
3.自らの体調不良問題

などに求める傾向がありますが、これらの理由はいかにも短絡的なものだと感じられてなりません。

拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』でも触れましたが、征韓論争における西郷の心事を解釈するためには、西郷の全生涯を俯瞰し、西郷の死生観を正確に理解したうえで行う必要があると私は考えています。
確かに、征韓論争中において、西郷が板垣に宛てた一連の手紙には、「死」という言葉がたくさん踊っています。それを額面通りに受け取れば、当時の西郷は「死」を願っていたという風に解釈してしまいがちですが、西郷の死生観から読み解けば、西郷曰く「死」とは、「覚悟」の問題であって、決して「目的」ではなかったことが分かります。

安政5(1858)年11月16日、西郷は僧・月照とともに投身自殺を試み、それが失敗に終わって以降、自殺まがいの行為は一切取っていません。西郷はその後幾度となく艱難辛苦を味わい、死に直面するような場面に出くわしましたが、決して自ら命を絶つような選択をすることはありませんでした。
例えば、文久2(1862)年4月、久光が計画した率兵上京計画において、西郷が捕縛されようとした際、大久保が兵庫の海岸に西郷を呼び出し、ともに刺し違えようと提案したことがありましたが、西郷はその大久保の申し出をきっぱりと断っています。
また、武士としては最大の恥辱とも言える遠島処分を受け、沖永良部島において過酷な牢獄生活を強いられた際も、西郷は一度たりとも自決を試みようとはしませんでした。
そして、西南戦争においては、最後に立て籠もった城山を政府軍から幾重にも包囲され、敗戦が濃厚となった際にも、西郷は自決という手段を選択せず、将兵とともに戦死することを選んで城山を下山し、政府軍が放つ銃弾が自らの体を貫くその瞬間まで、傍らに控えていた別府晋介に対して、「まだ、まだ」と言って、自決することを拒み続けました。
これらの行動から推察するに、西郷の行動の選択肢には「自殺」という二文字は無かったと言えます。

西郷は月照との投身自殺未遂の末、一人だけ生き残った自分のことを「土中の死骨」と称し、自らを一度死んだ身として位置づけました。
そんな西郷が、自らが生き残った意味と理由を深く考え抜いた末にたどり着いたのが、「敬天愛人」の思想です。西郷は「天から生かされた」と目覚めたことにより、死についての概念を大きく変化させ、自らに課せられた使命が無くなれば、死は自然に訪れるものであると考えるようになり、西郷はそれを天意だと規定したのです。
そんな西郷の考え方は、文久2(1862)年8月20日付けで、奄美大島の代官・木場伝内に宛てた書簡の中に出てきます。
これは久光から断罪された後に書かれたものですが、西郷が悟った「敬天愛人」の哲学からくる死生観が顕著に表れています。

「憤激して変死共いたし候ては残恨の次第にて、決してもふは行迫らず、命を奉じて、死を賜うとも如何共従容として畏る考えに御座候。御安心下さるべく候。変事に当り、色々了簡も変るものに御座候。また命もおしかるかと申す人もこれある筈に御座候得共、惜しむは何ヶ度でも惜しむ考えに御座候」(『西郷隆盛全集』一)

(現代語訳)
「憤激して変死などしては残念の極みであり、決して死を求めることはありませんが、藩からの命があれば、死を賜っても従容として受け入れる覚悟でいますので、どうぞご安心下さい。変事にあたっては、色々と考えも変わるものです。命を惜しんでいると批判する人もいましょうが、命を惜しむ時は何度でも惜しむ考えでいます」

特に、「憤激して変死共いたし候ては残恨の次第にて、決してもふは行迫らず、命を奉じて、死を賜うとも如何共従容として畏る考え」という箇所に、西郷の考え方が色濃く表れていると言えましょう。
ただの怒りにまかせて変死、つまり自決などしては悔いが残るとして、自ら死を求めることはないが、死を命じられれば死ぬ覚悟は出来ている、と西郷は語っていますが、西郷は「人の生死というものは、天がつかさどるものであることから、死は恐れるべきものではなく、また、決して自ら追い求めるものでもない」との境地に達していたのです。

また、征韓論争中の明治6(1873)年8月23日付けで、西郷が板垣に宛てた書簡には、次のような言葉も書かれています。

「死を見る事は帰する如く、決しておしみ申さず候得共、過激に出でて死を急ぎ候儀は致さず候間、此の儀は御安堵成し下されたく希い奉り候。然しながら無理に死を促し候との説は、跡以て必ず起こり申すべく、畢竟其の辺を以て戦いを逃し候策を廻らし候儀、必定の事と存じ奉り候に付き、先生は御動き下され間敷、今日より御願い申し上げ置き候。(中略)死を六ヶ敷思うものは、狂死でなくては出来申さず候故、皆々左様のものかと相考え申すべく候得共、夫等の儀は兼て落着いたし居り候」(『西郷隆盛全集』三)

(現代語訳)
「死ぬことを恐れはしませんし、決して命を惜しむこともありませんが、過激な行動に出て、死に急ぐようなことはしませんので、どうぞご安心下さい。しかしながら、私が無理に死に急ごうとしているという説が後に必ず起こり、その理由をもって、戦争の機会を回避しようとの策が起こるかと思いますが、先生(板垣のこと)におかれましては、決して動揺されないことをお願いします。(中略)死ぬことを難しいことだと思う者は、狂気無くしては死ぬことが出来ないものと皆々このように考えますが、そのことについては、私の中で既に整理がついています」

この書簡にも同様に、「死ぬことを決して恐れはしないが、自ら死を求め、死に急ぐようなことはしない」という西郷の死生観が明確に表れています。
また、「死を六ヶ敷思うものは、狂死でなくては出来申さず候」という部分に、西郷にとっての「死」とは、あくまでも覚悟の問題であったことが分かります。「死ぬことを難しいことだと考える人間は、私のような死を覚悟した行動を正気の沙汰ではない(狂っている)と見るかもしれない」ということを西郷は板垣に対して語っています。

以上のように、西郷の全生涯を俯瞰して考えると、西郷が死ぬことを目的に朝鮮に渡ろうとしたというのは、西郷の死生観、そして彼の行動哲学から大きく外れる行為だということが分かります。
人の生死は天がつかさどる(決める)ものであることから、「死」とは希求すべきものではないとの考えを持っていた西郷に、自ら死に急ぐ道理は無かったと言えます。

また、旧庄内藩士が編纂した『南洲翁遺訓』には、

「道を行うものは、固(もと)より困厄に逢うものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生などに、少しも関係せぬものなり」

(現代語訳)
「道義を実践する者は、困難で苦しい目にあうものだが、どんな艱難辛苦が訪れようとも、事が成功するか失敗するか、また、自分が生きるか死ぬかなどということに少しもこだわってはならない」

との言葉がありますが、これも西郷の死生観を補完していると言えます。
あくまでも仮定の話ですが、もし西郷が朝鮮に渡り、そこで殺されることになったとしても、西郷はその死を従容として受け入れる覚悟は既に出来ていたと思います。

「朝鮮で死んでも全く悔いはない。残された者たちは、自分の屍を越えていけば良い」

西郷流に言えばこのような表現になるのでしょうが、西郷は朝鮮で死んでも構わないと思っていたとは思いますが、決して死ぬために行こうとしたわけでは無かったと考えるべきです。
「死を期して朝鮮へ行こうとした」のではなく、「死を賭して朝鮮へ行こうとした」と考えるのが、やはり適切な解釈だと言えるのではないでしょうか。

西郷は、まず朝鮮と筋道を通した外交(交渉)を行うことが第一義であると考え、板垣が唱えた朝鮮への即時派兵論に釘を刺したうえで、使節派遣を成功させることを目的に、そしてそこに重点を置いて朝鮮へ渡ろうとしました。
敵の懐にいきなりポンと飛び込んでいくような、死中に活を求めるやり方は、西郷特有の交渉術であり、常套手段でもあります。
おそらく西郷の念頭には、第一次長州征討において試みた交渉があり、その経験を元にして、朝鮮との談判を成功させるだけの自信や自負も持っていたのでしょう。
ただ、もし朝鮮側が交渉のテーブルには付かず、西郷を殺すような暴挙に出た場合は、西郷は黙って朝鮮の地で殺されたと思います。
なぜならば、西郷には既に死ぬ覚悟は出来ていたからです。天が自らに死を与えるのであれば、その死を従容として受け入れたと考えるからです。
しかしながら、西郷が鼻から朝鮮政府との交渉を成功させるつもりはなく、朝鮮で死ぬことだけを目的として渡航しようとしたと考えるのは、これまで書いてきたように、西郷の死生観や行動哲学からは大きく外れる行為だと言えます。
西郷は生死に関するこだわりは一切持っていませんでしたが、死を軽んじていたわけではありません。「敬天愛人」の哲学から考えれば、死を軽んじることは、天を軽んじることにも繋がると西郷は考えていたからです。

以上のように、西郷の死生観から読み解けば、西郷が朝鮮政府との交渉を失敗させることを期して、朝鮮に渡航しようと考えていたというのは、どうしても考えにくいと判断せざるを得ません。
朝鮮との談判において、人事を尽くしたうえで斃れるのは西郷の本望ではありましたが、ただ単に殺されに行くだけの行為は、天意にそむく行為だとして、西郷の本望では無かったと私は考えるのです。


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【2018/11/19 17:31】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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ukoji
大河ドラマもあと数回ですね

西郷どんの死生観と遣韓
つるしん
御意! 全くご指摘の通りかと。 貴見以外の諸説は、実に表層的な物言いに過ぎもはんど!

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今回の『西郷どん』では、西郷と大久保の対立が描かれました。
アメリカ・ヨーロッパ諸国を巡る長期の外遊から帰国した大久保は、肥前や土佐藩の連中に牛耳られた政府の現状を目の当たりにして憤りを覚え、その不満を西郷に対してぶつけましたが、逆に西郷からたしなめられたことにより、二人の間に言い争いが起こり、そして二人は袂を分かちました。
しかしながら、大久保が帰朝してから西郷と大久保が直接対決するまでには紆余曲折があり、あのような言い争い一つで二人の仲が決裂した訳ではなく、二人の対立原因を少し簡単に描きすぎたのではないかと感じました。
ドラマの残り回数も少ないことから、大久保の揺れる想いを描くには時間が無かったのでしょうが、大久保が急に悪人に変貌したかのような演出は、少し行き過ぎであったような気がします。

大久保に関して言えば、このような描き方をするので、いつまで経っても「西郷を好きな人は大久保が嫌い」になり、そして「大久保が好きな人は西郷を嫌い」になってしまうのです。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』においても書きましたが、西郷と大久保の未来を考え、これから二人の正確な関係を検証していくためにも、影響力の強い大河ドラマにおいて、あのような演出を行うことは、正直避けて欲しかったと感じてなりません。

(大久保の一時帰国)
大久保が外遊から帰国したのは、明治6(1873)年5月26日のことです。
大久保は同年4月13日にフランスのマルセイユを出発し、5月26日の夜に横浜港に到着しました。
『大久保利通文書』四には、大久保が三条実美宛てに提出した帰国の届出書が収録されており、そこには「私儀為特命全権副使欧米各國へ派出罷在候處、昨夜帰朝致候、此段御届申候」とあります。

DSCF0843.jpg
大久保利通銅像(鹿児島市)

しかしながら、大久保は、実はそれ以前にも一度日本に帰国しています。
『西郷どん』では全く描かれませんでしたが、明治5(1872)年2月12日、当時アメリカのワシントンに滞在していた大久保は、条約改正のために必要な日本国政府の全権委任状を取りに帰るため、日本に向けて一時帰国しているのです。
勝田孫弥『大久保利通伝』には、その事情について、次のように書かれています。

「抑も全権大使の目的は、欧米各國を訪問して、其制度、文物、風俗等を視察し、条約改正の準備及方法を調査研究するにありき、然るに、弁務使森有礼は、岩倉、利通等に建論して、此機会に条約改正を決行することの我国に利益あるを主張したり、米國々務卿フィシュもまた条約改正の準備に止まらす、此機会に其条件を議決するに如かずと注意し、大統領グランドに告けて曰く、寧ろ改正を結了せよと、岩倉等は其懇切なるに感じ、愈談判に着手すべしと決したり、然るに、大使等は条約改正に関する全権の委任状を所持せさりしより、利通は伊藤と共に帰朝して、更に廟議を定め、其の委員状を得て、再ひ度航すべきに決定し、五年二月十二日、利通は伊藤と共に、ワシントン府を發して帰朝の途に上れり」

元々、岩倉使節団の目的は、条約改正のための下準備(下交渉)に留まっていたのですが、『大久保利通伝』の記述にあるように、当時アメリカの少弁務使であった元薩摩藩士・森有礼アメリカ国務長官のハミルトン・フィシュが、条約改正交渉をした方が良いのではないかと勧めたことにより、岩倉たちは大いに期待感を持ちました。
アメリカにおける盛大な歓迎ぶりを目の当たりした岩倉使節団一行は、アメリカがこのような友好的な態度であれば、本格的に条約改正まで持って行けるのではないかと過信したとも言えます。
しかしながら、前述のとおり、岩倉使節団の目的は、条約改正の本交渉ではなかったため、彼らは条約改正交渉に必要な日本国政府の全権委任状を持参して来ていませんでした。
そのため、大久保は伊藤博文と共にアメリカを離れ、約一ヶ月間かけて、全権委任状を取りに日本に一時帰国したのです。

以上のような理由で、大久保と伊藤が東京に帰り着いたのは、明治5(1872)年3月24日のことでしたが、二人を待ち受けていたのは非難の嵐でした。
前述のとおり、岩倉使節団の目的は、条約改正のためではなかったことから、交渉着手は時期尚早だとして、批判的な意見が噴出しました。条約締結国の状況等を正確に把握しないまま、条約改正交渉に入ることは、拙速に過ぎるという論調が多勢を占めていたのです。
実際、『大久保利通伝』によれば、大久保と伊藤が全権委任状を日本に取りに帰ったと知った、当時イギリスに留学していた日本の留学生たちは、「世界の大勢に通せず、各国の形勢を知らずして、何を以て条約改正の大事を成就することを得んや」と、大使一行に反対意見を述べるため、わざわざ留学生の代表として尾崎三良らが渡米し、ワシントンに滞在していた木戸孝允にその旨注意したとあります。

このように、帰国した大久保を取り巻く情勢は大変厳しいものでしたが、大久保は八方手を尽くし、ようやく全権委任状を手にして、同年5月17日、再びワシントンへと向かいましたが、そんな大久保を待ち受けていたのは、非情にも条約改正交渉の中止という現実でした。
『大久保利通伝』には、

「当時、欧州各國は言を俟たず、米國政府も条約改正の談判は、東京に於て開かんことを希望し、また、大使一行も國別に談判を開くことの不利なるを覚りしより、遂に之を中止するに確定したり」

とあります。
このように、結局大久保の一時帰国は、何の意味も持たない行為となってしまいました。大久保が自らの外遊を「大敗北」と自嘲したのは、この苦い経験が一因となっていることは想像に難くありません。

(大久保帰朝後の西郷と大久保)
西郷の書簡を収録した『西郷隆盛全集』には、外遊中の大久保に宛てた西郷書簡が二通収録されていますが、明治5(1872)年2月15日付けで書かれた書簡については、当時の二人がとても良好な関係にあったことが分かるものです。
西郷は同書簡の中で、次のように書いています。

「貴兄御一人は数千万の人民目的にいたし居り候間、全国を引き起すべき処能々御注意下され、御帰朝を相待ち居り申し候」(『西郷隆盛全集』三)

つまり、「貴方は日本国民数千万人が頼りにし、日本を振興すべき人物であることをよくよくご留意ください。貴方の帰国をお待ちしています」と、西郷は大久保に対して書き送っているのです。
西郷の大久保に対する多大な信頼感が溢れている文面であると言えましょう。

また、一方外遊中の大久保が同じく明治5(1872)年に西郷に対して送った書簡には、次のような言葉があります。

「爾来御地之模様いかかの事に候や、萬端御厚配不一方と遙察仕候、御國の形情を熟思仕候に小ことなしに成る事は幾許の星霜を経不申候ては所詮六(むつ)かしと愚考仕候、就ては是非老兄御擔當不被下候ては相済不申候間、一層御勉励奉伏願候」(『大久保利通文書』四)

後半部分の「就ては」以降に色濃く表れていますが、大久保は西郷に対して、「貴方が一身に引き受けて下さらなければ政府は立ちゆかない。これまで以上に勉め励んでくださるよう、伏してお願いします」との趣旨を述べています。
この書簡の内容を見る限り、大久保自身にも西郷に対する信頼感が込められていると言えますので、大久保が外遊中の二人の関係はとても良好なものであったと言えます。

では、いつ頃から二人の関係に亀裂が入るようになったのかを考えると、その辺りの史料が希薄なため、その時期を特定するのは甚だ難しいと言えます。
ただ、今回の『西郷どん』で描かれたように、大久保の帰国直後に二人の関係があそこまで悪化したとは考えにくいです。

例えば、大久保が帰国した約10日後の明治6(1873)年6月8日付けで、大久保は西郷の弟・従道宛てに書簡を送っていますが、この書簡は西郷兄弟の間に何らかのいさかいが生じたことことを大久保が心配し、従道に対して、早々に兄・隆盛に対して謝りに行くよう諭したものです。
大久保は従道に対して、「貴兄御出赤心ヲ以御謝罪有之候方可然」「御賢兄氷釋相成まてハ屏身低頭何ク迄も誠心を表して御誤り被成度候」と書いており、従道から兄・隆盛に謝罪させることで、二人の仲を取り持とうとしていることが分かります。
当時の大久保がこのような立ち位置にあったのだとすれば、この時点においては、西郷との関係はまだ悪くなかったものと考えられます。

『大久保利通伝』によると、

「初め、利通が欧州より帰着するや、西郷は利通の邸に到ること頻繁にして、交情の親厚なること従前と毫も異なる所なかりき、然るに、時日を経過するに従ひ、次第に其度数を減したりと云ふ、蓋西郷は、利通の胸中に、到底征韓論を賛成すべき意思なきを覚りて、早晩政見の衝突あるべきを預知し、心中豁然たる能はざるものありしに由るならむ」

とあり、二人は征韓論を巡り、次第に疎遠になったと書かれています。

前述のとおり、大久保が外遊中の二人の関係はすこぶる良好であったことは間違いありませんが、その後、その二人が疎遠となったのは、『大久保利通伝』にあるように、当時西郷が執心していた朝鮮への渡航問題に原因があったと考えるのは、ごく自然なことではないかと思います。
大久保が帰朝して以後、西郷と大久保の往復書簡は一通も残されていないことから察すると、遣韓大使派遣問題を巡って、二人の関係に何らかの亀裂が入ったことは間違いないと思われます。
おそらく西郷は、大久保の元に足繁く通い、自身の朝鮮渡航にかける熱意を語ったのでしょうが、大久保の反応がイマイチだったので、自然と足が遠のく結果となったのではないでしょうか。

しかしながら、大久保が西郷の朝鮮渡航に対して、全面的に批判したということも無かったような気がします。
後述しますが、大久保は岩倉から西郷と対決させるため参議就任を打診された際、それを何度も断っている事実があることから考えると、あくまでも推測ですが、大久保は西郷の意見に対して、当初は強く反論しなかったのではないでしょうか。大久保が余り乗り気な態度を見せなかったため、西郷は大久保に話すことを次第に遠慮するようになったのかもしれません。

ただ、今回の『西郷どん』でも描かれたように、大久保が当時の政府に対して大きな不満を抱いていたのは確かです。
明治6(1873)年8月15日付けで、大久保がヨーロッパに留学中であった村田新八と大山巌に対して送った書簡には、「當方之形光ハ追々御傳聞も可有之、實ニ致様もナキ次第ニ立至」(『大久保利通文書』五)とあり、また、「國家ノ事一時ノ憤発力ニテ暴挙イタシ愉快ヲ唱ヘル様ナルコトニテ、決テ可成譯ナシ」と書かれてあることから、大久保が当時の政府や政情に不満を持っていたことが分かります。
しかしながら、大久保自身は同書簡の中で、

「小子帰朝イタシ候テモ、所謂蚊背負山之類ニテ不知所作、今日迄荏苒一同手ノ揃ヲ待居候、假令有為之志アリトイヘトモ、此際ニ臨ミ蜘蛛之捲キ合ヲヤッタトテ寸益モナシ愚存モ有之、泰然トシテ傍観仕候」

と、自らの進退について語っています。
大久保は前半部分において、「自分が帰朝しても、微力なのでどうすることも出来ない」と前置きしながらも、「今日までいたずらに時を過ごしてきたのは、一同(岩倉使節団の面々)が帰ってくるのを待っていたからだ」と、挽回の機会をうかがっているような言葉を使用しています。
また、「たとえ有為の志があると言っても、蜘蛛の糸を巻きあうような真似は有益ではない」とも述べ、現在は「泰然として傍観しているのだ」と、自らを戒めるような言葉を使っています。
ここに言う「蜘蛛の糸の巻きあい」とは、江藤新平や後藤象二郎といった、肥前、土佐閥の連中との駆け引き、つまり「主導権(政権)の奪い合い」を指していると言えるでしょう。
実際、この書簡を書いた翌日の8月16日、大久保はこの年に制定された夏季休暇の制度を利用して東京を離れ、観光旅行に出かけています。大久保は9月21日までの約一ヶ月間、箱根、富士山、近江、大和紀伊の名勝旧蹟を悠々自適に旅しているのです。
これは前述の大久保書簡にある「泰然トシテ傍観仕候」を実行に移したものであると言えましょう。

ただ、では大久保が西郷が主張する遣韓大使派遣論に反対するべく、機会を伺っていたのかと考えると、必ずしもそうではなかったように思います。
前述の村田・大山宛て大久保書簡に書かれてある言葉は、西郷に対して向けられたものではなく、西郷を取り巻く連中(肥前、土佐閥)に向けて書かれたものであると私は解釈するからです。

東京に帰ってきた大久保は、9月13日にようやく日本に帰国した岩倉から参議への就任を打診されましたが、26日にそれを断る書簡を送っています。
また、大久保は30日にも岩倉に対して書簡を送り、自分を頼りにするのではなく木戸を中心にして考えて欲しいと意見を述べています。

以上のように、大久保が何度も参議への就任を辞退した理由は、当時在京していた島津久光に憚ることがあったからだと言われますが、やはり直接的な原因は、西郷と全面対決することを回避しようとしたのだと思います。
この時点においては、まだ大久保の心中には、西郷と袂を分かつ決心はまだ付いていなかったと思うのです。
しかしながら、前述のとおり、大久保は政府に対する根本的な不満を持っていましたから、最終的に参議就任を決断します。これが明治6(1873)年10月10日のことですから、大久保は日本に帰国してから約四ヶ月半もの間、西郷と対立することを躊躇していたと言えるのです。この月日をもってしても、当時の大久保がいかに西郷との対決を迷っていたのかが分かるのではないでしょうか。

そして、大久保は参議に就任するにあたり、家族宛てに遺書まで認めています。
大久保はこの遺書の中で、

「今般参議之拝命いたし實以恐惶至極之仕合ニ候、全體此度ハ深慮有之何く迄も辞退之決心ニ候得共(中略)断然當職拜命此難ニ斃れて以て無量之天恩ニ報答奉らんと一決いたし候」(『大久保利通文書』五)

と、参議に就任した覚悟を述べ、遺される家族に対して、

「只企望する處、小子か憂國之微志を貫徹して各憤發勉強心を正し、知見を開き、有用之人物となりて國之為ニ盡力して、小子か餘罪を補ひ候様心懸可被申候」

と、自らの志を継いで国のために有用な人材になるように言い残しています。
これは遺される息子たちに向けた言葉であったと言えます。実際、この遺書の中には、彦之進(のちの利和)伸熊(のちの牧野伸顕)といった名前が出てきます。

このような覚悟と決意を秘めて、大久保は西郷と対決すべく、明治6(1873)年10月14日に開かれた太政官の閣議に出席することになるのですが、ただ、大久保が西郷と対立することを望まなかったのは、いわゆる竹馬の友との「友情」という点からではなく、西郷と対立することで、より政情が混乱することを避けたかったからのように思います。
大久保は西郷の性格を熟知しています。西郷が征韓論争に敗れれば、必ず辞職して鹿児島に帰ることになることを大久保は見越していたと思いますし、また、西郷を慕う近衛兵以下陸軍の将兵たちが、その処置を不満に思って暴挙に出ることも予想されましたので、大久保としては、それらを危惧せざるを得なかったのではないでしょうか。
また、当時は政府の政策にことごとく反対の意を唱えている島津久光も東京に居る状態でしたから、なおさらその思いが強かったと言えます。
政権を奪取することは、西郷を切り捨てることにも繋がるため、大久保は最後の最後まで、自らが立ち上がることを躊躇したように私は感じてならないのです。

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【2018/11/14 19:45】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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zampanogelsomina
粒山様

先週末、鹿児島での講演会お疲れ様でした。

『維新を創った男 西郷隆盛の実像』を再読して講演会に参加したので、著書に対する補足的な説明も有り、楽しく又興味深く拝聴させて頂きました。

大河ドラマ「西郷どん」ですが、やはり大久保利通と島津久光が誤解を招くような描かれ方をしています。
次回、鹿児島にて講演会の際には是非「大久保利通と島津久光」の幕末期~維新期のお話を西郷を含めた三者の「それぞれお互いの立場、置かれている立場」を粒山様の視点でお聞かせいただければと思います。

島津久光は外様(の分際で)でしかも大名ではないのに、徳川や譜代の名のある大名たちと対等に渡り合えた事(又は渡り合おうとした)は奇跡だと思います。

先日はありがとうございました
粒山 樹
zampanogelsomina様

こんにちは。
先日の鹿児島の講演会にお越し下さったのですね。
本当にありがとうございます。
当日は思っていた以上に上手く話すことが出来ず、大変失礼いたしました。
(人前で話すのは得意だったのですが、なかなか歴史的な話になりますと難しいですね……)

おっしゃるとおり、『西郷どん』における久光と大久保の描き方は私も不満に思っています。
西郷が主役ですので、彼を持ち上げるのは致し方ないにせよ、他者の評価を落とすのはいかがなものかと残念でなりません。
また機会がございましたら、是非その辺りの話もさせて頂ければと思っております。

この度は本当にありがとうございました。

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(明治天皇の鹿児島行幸)
今回の『西郷どん』では、岩倉具視を特命全権大使とし、副使に木戸孝允、大久保利通、以下同行の留学生を合わせて百名を超える大使節団(岩倉使節団)が、アメリカ、ヨーロッパ諸国に向けて出発し、その留守を西郷が預かることになりました。
そして、ドラマ後半において、明治5(1872)年6月に実施された明治天皇の行幸に付き従い、鹿児島に帰国した西郷が、久光から叱責されるかと思いきや、最後はエールを送られるような演出がありましたが、明治に入ってからの二人の関係は、そのような甘いものでは決してありません。

『西郷どん』では、明治天皇の鹿児島行幸の際、西郷と久光が会って話をしていましたが、実際のところ、西郷は久光の元に機嫌伺いに出向きませんでした。
そのことがきっかけとなり、西郷は久光の怒りを買い、後に鹿児島まで呼び出され、十四ヶ条にも及ぶ詰問状を突きつけられています。
その詰問状内には、

一、御巡幸の節、供奉第一の高官として、御失徳のみ醸し成す心底如何(明治天皇の御巡幸の際、供奉した第一の高官として、失徳ばかりを呈したが、どのような気持ちでいるのか)(『西郷隆盛全集』五)

との文言がありますが、これは西郷が久光に挨拶に行かなかったため、このように書かれたのです。

そして、西郷はその久光の怒りを解くため、久光の執事宛てに自ら「詫び状」を書いて提出しています。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも、その詫び状の現代語訳版を載せましたが、次のとおりです。

「御巡幸の際に供を仰せ付けられて、鹿児島に滞在中、御機嫌伺いとして拝謁を願い出なければならないところ、おろそかにしてしまいました。朝廷の臣下であることに甘んじ、賜った再生の御恩(沖永良部島への遠島処分を赦されたこと)を忘却するようなことをし、嫌疑を被りましたこと、誠に恐れ入る次第でございます。どんなことをしても、その罪を謝罪いたすつもりでございますので、その旨お取り次ぎ願います」(『西郷隆盛全集』三)

このように、西郷はひたすら久光に対して謝罪の言葉を書き連ねていますが、内心は久光からの責め付けに呆れかえっていたようです。
明治5(1872)年12月1日付けで、西郷が黒田了介(のちの清隆)に宛てた書簡には、「私の罪状書御認め相成り居り候間、御詰問の次第何共言語に申し述べ難き事にて、むちゃの御論あきれ果て候事に御座候」とあり、西郷の本音が吐露されています。

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島津久光銅像(鹿児島市)

このような事実から考えても、今回の『西郷どん』のように、二人が打ち解け合う姿は、実際には無かったと言えますが、西郷を理解するうえで、久光との関係を正確に理解することはとても大切なことだと思いますので、今回は『西郷どん』では描かれなかった、西郷と久光の真の関係性について整理しておきたいと思います。

(西郷の帰国理由)
少しさかのぼりますが、明治に入ってからの西郷が新政府には出仕せず、国政とは距離を置く形で鹿児島に引きこもった原因は、実は久光とも深い関わりがあると言えます。
俗に「西郷は政治家として限界を感じていたため、大久保に後を任せて、鹿児島に帰国した」なとど言われ、『西郷どん』でも政治との関連性に触れられていましたが、西郷の帰国理由は、そんな単純なことでは決してありません。

明治後、西郷が鹿児島に帰国した理由は、大きく分けて主に二つ挙げられます。
一つは島津斉彬との関係に起因する、西郷の隠退志向です。
これについては、明治2(1869)年7月8日付けで、西郷が親友の桂右衛門(のちの久武)に宛てた書簡の中で、自身の心情を次のように告白しています。(重要な箇所を抜粋します)

「少弟身上の儀幾回も申し上げ候通り如何に讒口にもいたせ、一度賊臣の名を蒙り、獄中迄打ち込められ候に付き、其の儘朽ち果て候ては先君公へ申し訳これなく、一度国家の大節に臨み、賊臣の御疑惑を相晴らし候えば、泉下の君へ謁し奉り、口をつぐみ申す間敷と、是のみ相考え罷り在り候事に御座候。只是計りの思い込みにて御奉公仕り居り(中略)今日に至り候ては、獄中の賊臣、決して相忘れ候儀にては更にこれなく、雲霧を破り候得ば退いて謹慎仕るべき杜、先君の御鴻恩忘却仕らざる事と相明らめ居り候」(『西郷隆盛全集』三)」

大意を書くと、次のとおりです。

「たとえ讒言であったとは言え、一度賊臣の名を被り、獄中に入れられた身です。そのまま何もせず朽ち果ててしまっては、亡き先君・斉彬公へ申し訳が立ちません。国家の大事に臨んで、賊臣との疑惑を晴らすべく努力したならば、あの世で斉彬公に拝謁した際、口をつぐむことも無く、堂々とお目にかかれるのでは無いかと思い、そればかりを考えて、これまで奉公して参りました。今日に至っては、一度は獄中に入れられた賊臣であることを決して忘れるつもりはなく、雲霧を破って謹慎することこそが、斉彬公から頂戴した御鴻恩を忘れないことだと思っています」

これを読むと、斉彬という人物が西郷にとって特別な存在であったことがよく分かります。
斉彬は、下級藩士であった西郷を登用し、西郷が国士となって世に出るきっかけを作った人物であり、西郷にとっては、師であり、恩人であり、そして神とも崇め奉った存在でした。
そんな斉彬から大恩を受けた身でありながらも、遠島という、武士としては最も不名誉な罪を被ったことに対し、西郷は終生自らを恥じる意識を持っていたと言えます。
そのことが西郷の隠退志向を強めることに繋がり、西郷は倒幕戦が一段落した段階で、鹿児島に帰国しようと考えていたのです。

このような考えや気持ちは、西郷が書いた他の書簡でもいくつか出てきます。
例えば、慶応3(1867)年12月28日付けで、側役・蓑田伝兵衛に宛てた書簡には、

「当分は昼夜寸暇これなく、朝議は毎徹夜、中中難儀の次第に御座候。少し道が付き候わば御暇仕り候て罷り下りたく御座候得共、一向墓取り申さず、苦心此の事に御座候」(『西郷隆盛全集』二)

とあり、「今後の道筋がつけば、お暇を頂き、鹿児島に帰国したいと考えています」と、その真情を吐露していますが、これは「鳥羽・伏見の戦い」が生じる以前のことです。
また、慶応4(1868)年1月16日付け川口量次郎(雪篷)宛ての書簡にも、

「戦い相静まり候わば御暇願い出候て、もふ隠居と相決め居り申し候。実に人間役の御奉公は相叶い申さず、気後れのみにて如何共致し方御座なく候」(『西郷隆盛全集』二)

とあり、そこには西郷の揺るぎない隠退への決心が記されています。

このように、斉彬からの大恩に報いるということが、元治から慶応期にかけての西郷の活動源になっており、「倒幕」という、大きな一区切りがついた時点で、西郷は鹿児島に帰って隠退したいという素願を長年温めていたと言えるのです。

そして、二つ目の理由が、最も大事な島津久光との関係です。
西郷と久光に深い因縁と確執があったことは、これまで幾度となく書いてきたとおりですが、西郷が新政府への出仕を断ったのは、前述した斉彬への思いに加えて、久光との関係と深い関わりがあります。

そのことを解くヒントは、冒頭でも触れましたが、明治5(1872)年11月、久光が西郷に突きつけた「十四ヶ条の詰問状」にあります。
明治5(1872)年6月、明治天皇の鹿児島行幸の際、西郷は久光の元に機嫌伺いに出向かなかったことから、久光の怒りを買い、後に鹿児島まで呼び戻され、十四ヶ条にも及ぶ詰問状を突きつけられました。
久光はこの詰問状の中で、

一、右帰陳の節、京師に於いて朝官に任ぜらるべき御内命これある処、主人持の由にて御断り申し上げ、早々引き取り候趣、帰藩の上申し出、尤もの至りと存じ候処、右の意に違い、高位高官遠慮なく御受け申し上げ候心底如何

(現代語訳)
一、戊辰戦争から帰陣の際、京都において新政府の官吏に任命する内命があったが、主君が居るためと断り、早々に鹿児島に引き揚げ、その旨報告したことはもっともなことであるが、その意とは異なり、今や高位高官の職を遠慮なく受けているのはどういう心境でいるのか。

と、明治後の西郷の行動を厳しく批判していますが、これを見る限り、久光は西郷が新政府に出仕することを好ましく思っていなかったことが分かります。

遠島先の沖永良部島から帰還後の西郷は、常に久光の監視下に置かれ、久光の意向を損なわないよう、細心の注意を払いながら国事に携わってきましたが、明治後の西郷もまた、これまでと同様に、久光の意向を考慮し、久光に憚って、当初新政府への出仕を断ったのです。
事実、西郷は国政とは距離を取りながらも、明治2(1869)年2月、藩主・忠義に請われて、薩摩藩の参政に就任しており、薩摩藩政には関与する態度を見せています。
西郷が政治家としての限界を感じていたのであれば、藩政に携わることもなく、どこまでも隠居を貫いたでしょうが、西郷は久光の意向を遵守するため、その命に従ったのです。
戊辰戦争終結後、西郷が薩摩藩内の藩政改革には協力しながらも、新政府と一定の距離を置いたのは、新政府に出仕することで、久光から、またあらぬ嫌疑をかけられないようにするためでもあったと言えます。

このように、明治後の西郷が、これほどまでに久光に気を遣っていたのには、それ以前に大きな伏線があったと私は考えています。
少し時がさかのぼりますが、「鳥羽・伏見の戦い」後の慶応4(1868)年1月17日、薩摩藩主・島津忠義は、武家としては唯一、公家の仁和寺宮嘉彰親王岩倉具視と共に新政府の海陸軍務総督に任命されましたが、西郷は辞職を勧め、忠義はその翌日すぐに辞表を提出しています。
西郷関係の伝記類において、この西郷の行動は「薩摩に野心なし」を見せるため、つまり薩摩藩が天下を取るような野心が無いということを内外に示すためであったとされています。

例えば、近著から引くと、家近良樹『西郷隆盛』では、「薩摩藩内に在って、このような反薩摩感情の高まりに人一倍気をもみ、対応に苦慮したのは西郷であった」と、当時薩摩藩に対する反対勢力があったことに言及したうえで、西郷が忠義に海陸軍総督を辞退するよう説得したのは、「薩摩藩が新政府を操り、徳川の天下を奪おうとしているといった世人の猜疑を払拭するためであった」としています。

西郷が忠義に対し、海陸軍務総督を辞職するよう説得したことについては、慶応4(1868)年1月27日付け吉井幸輔宛て西郷書簡内に、「幸い、将軍の御辞表差し出され候て御仕合わせの事に候」(『西郷隆盛全集』二)とあるだけで、前述のような西郷の意図を正確に裏付けすることは出来ません。
しかしながら、当時の新政府内は決して一枚岩ではなく、諸藩は薩摩藩が持つ強大な武力に警戒する向きがあったことは間違いなく、西郷はあらぬ嫌疑をかけられることを憂慮し、率先して忠義に総督を辞任させたものと考えて良いと思います。
また、西郷はその後、慶応4(1868)年6月にも、忠義が薩摩藩兵を率いて東征に出陣しようとした際、忠義に対してそれを中止するよう説得し、忠義を連れて一緒に鹿児島に帰国していますが、これも前述した薩摩藩に野心があるという、根も葉もない噂を払拭するための一環として行われたことであったと思われます。

このように、当時の西郷は薩摩藩にかかる嫌疑を払拭することに躍起になっていたと言えますが、この一連の行動が、当時鹿児島に居た久光の不興を被ったと私は推測しています。
久光としては、忠義が朝廷から兵権を授けられるという、最高の栄誉と実権を手にしたにもかかわらず、西郷がそれを辞退するよう勧めたことに対し、面白からぬ感情を抱き、出しゃばった真似をしたと考えていたのではないでしょうか。

実際、久光の西郷に対する疑惑は、その後根強く続いていたと思われます。
明治3(1870)年8月3日付けで、西郷が大久保に宛てた手紙の追伸には、

「只一人にて御疑惑を積み、夫故御悪みも一人に止まり候次第に御座候。いずれ此の上は御疑惑を解き候か、又は斃れ候かの両様に相決し、毎日死を極め、今日限りと定め候て出勤仕り候(久光公からの疑惑は私だけに向けられ、それゆえ憎しみも私一人に留まっているような状況です。この上は、久光公が疑惑を解かれるか、それとも私が斃れるかのどちらかと決心し、毎日死を覚悟して、私の命も今日限りと思いながら出勤しています)」(『西郷隆盛全集』三)

との言葉があり、明治に入ってからの西郷と久光の関係、ひいては鹿児島における西郷の置かれていた状況が分かります。

以上のようなことから、明治初年の西郷は、久光に対して最大限に気を遣う必要があったため、西郷は久光に憚り、新政府への出仕を意識的に控えざるを得なかったと考えるべきです。
明治後、西郷が鹿児島に帰国したのは、政治家としての資質や政治能力の有無に、西郷自身が限界を感じていたからだということではなく、長年続く西郷と久光の確執に大きな原因があったと言えるのです。

(久光の鹿児島県令就任問題)
明治4(1871)年9月28日付けで、西郷が親友の桂四郎(のちの久武)に宛てた書簡には、次のような文言があります。

「副城公如何の御機嫌に御座候やと、恐れながら案労仕り居り申し候。(中略)誠に事々に付き、成されにくき御場合と、毎(いつも)もながら御無理千万、御互いに娑婆の難儀は引き受けに御座候わん」(『西郷隆盛全集』三)

桂久武は西郷が唯一心を許した親友とも言うべき人物であり、桂に宛てた書簡には、西郷の真情が吐露されたものが数多く見受けられます。
この書簡もまさにそれにあたり、西郷の本音が顕わになっています。この書簡にある「副城公」とは久光のことを指し、俗な言い方をすれば、西郷は桂に対して、「久光公の機嫌はどうですか? 恐れながら、いつも手がかかりますね。何事においても、無理なことばかりを求められ、お互いに苦労が絶えませんね」と、愚痴をこぼしているのです。

また、続いて西郷は「再生の時は、必ず美婦・美食をいたし、玉堂に安座すべしと、只先の世を楽しみに相考え候外、更に余念御座なく候」と書いていますが、これはつまり、「生まれ変わった時は、美しい妾と美食を並べて、お互いに世を楽しみましょう」と、冗談を述べていますが、西郷らしい諧謔と言えましょう。
ただ、そんな冗談の中にも、ある意味、西郷と久光の関係の悪さが、逆に読み取れるような気がします。

また、大久保がヨーロッパに外遊中だった頃の西郷書簡には、次のような文面もあります。
明治5(1872)年8月12日付けで、西郷がロンドンに滞在中の大久保に宛てた書簡の尚書きには、

「兵隊の破裂は恐ろしくもこれなく飛び込み候得共、副城の着発弾には何とも力及ばず大よわりにて御座候。御遙察下さるべく候」(『西郷隆盛全集』三)

とあり、西郷は「近衛兵の騒擾は恐ろしくもなく、一身にあたれば解決できますが、久光公が放つ着発弾に対しては、何とも力及ばず、大弱りの次第です。お察しください」と、ここでも本音を漏らしています。

明治後の久光の動きは、西郷にとって大きな悩みの種の一つであったことは間違いありません。
特に、今回の『西郷どん』でも描かれましたが、廃藩置県後に久光が「鹿児島県令に就任したい」と言ってきた時は、西郷も相当慌て驚いたようです。
明治5(1872)年1月4日付けで、西郷が桂四郎(のちの久武)に宛てた書簡には、

「扨大迫年内追い迫り着京致され候処、豈料らんや意外の御望み在らせられ候段、驚き入り候仕合いに御座候」(『西郷隆盛全集』三)

とあり、鹿児島県権大参事・大迫貞清の上京目的が、久光の鹿児島県令就任のためであったことを聞いた時の西郷の驚いた様子が分かります。
西郷は同書簡内で、「いまだ弐百余侯の内、ヶ様の儀申し立て相成り候処これなく」と、「未だかつて二百以上ある藩の藩主が、このような申し出をしてきたことはない」と前置きしたうえで、「何の訳もこれなく県令の御事、只あきれ果て候仕合い」と、何の理由もなく、県令になりたいと言ってきた久光に対し、ただ呆れ果てたとの感想を述べています。

また、西郷は同書簡の中で、

「殊に此の度廃藩の仕抹、全て薩長の振りはまり計りにて、外藩異議これなき趣に相聞かれ申し候。夫等の機合(おりあい)に御座候えば、御許容これなく共、世間に申し立ての儀広まり候ては、人心動揺を引き起し申すべき事眼前の仕合いに御座候(この度、廃藩置県が上手くいったのも、薩長両藩が率先して努力したからであって、それゆえ他藩から異議が出なかったのです。しかしながら、その当事者である薩摩藩から県令就任を希望したということが世間に広まっては、人心の動揺を引き起こすことは間違いありません)」

とも書いていますが、今回の『西郷どん』においても、西郷は似たようなセリフを吐いていました。

この久光の鹿児島県令就任問題については、明治5(1872)年2月15日付けで、西郷がアメリカに滞在中の大久保に宛てた書簡にも詳しく出てきますが、結局、西郷は公家の三条実美の力を借りて、その願い出を内々に取り下げるよう取り計らいました。
同大久保宛て書簡には「夫より条公へ内情委敷申し分け、何卒条公御手切れを以て御打ち挫き下され候処相願い」と、その時の内情が記されています。

このように、久光の鹿児島県令就任運動は、西郷以下、当時政府内に居た薩摩藩関係者を慌てさせたのですが、実は久光には過去にも前科があります。
前科というと、とても響きが悪いですが、久光は過去に薩摩藩主に就任しようと運動した前例があるのです。

時は10年前の文久2(1862)年までさかのぼります。
当時の久光は斉彬の遺志を受け継ぐ形で、薩摩から兵を率いて上京し、その後、江戸へと下って幕府に対して幕政改革を要求しましたが(文久の改革)、その際、薩摩藩の支藩とも言うべき佐土原藩主・島津忠寛を使って、薩摩藩主に就任する画策をしているのです。

これまで何度も書きましたが、薩摩藩内においては、久光は藩主・忠義の実父として国父の称号を得ていましたが、当時対外的には無位無官、幕府から見れば、単なる陪臣の身分に過ぎませんでした。
そのため、久光は江戸城に登城する資格も無かったことから、久光に代わり、忠寛が薩摩藩主の名代となり、幕閣等との折衝を行なったのですが、その忠寛が久光を薩摩藩主にするべく運動していたことが、越前藩士・中根雪江が書き記した『再夢紀事』の中に出てきます。
同書の文久2(1862)年7月26日の条に、

「七月廿六日今日御登城前御兼約にて島津淡路守殿へ御逢有之御内談之次第ハ當薩侯修理大夫殿幼年病身ニ付三郎殿當代に建度との修理大夫殿内願之由(7月26日、春嶽公が江戸城に登城する前、かねてからの約束で、島津淡路守忠寛殿とお会いになった。御内談の内容は、薩摩藩主・島津修理大夫忠義殿は幼年で、かつ病身でもあるため、三郎殿(久光のこと)を当主に立てたいと、忠義殿からの内願があった由)」

とあり、中根の記述によると、久光の薩摩藩主就任運動は、子の忠義の内願となっていますが、忠義が久光に内緒でそのようなことを進めるはずがありません。また、支藩の忠寛においても、なおさらそうです。この運動の陰には、久光の意向があったことは間違いないと思います。

ただ、忠寛からこの話を聞いた松平春嶽は、「倫理戻り候故御不同意之趣(倫理にもとる行為であるゆえ同意しない)」と答えたと『再夢紀事』にあります。
春嶽としては、自分の子供を廃し、父親自らが藩主に就任しようということに対し、嫌悪感を持ったのでしょう。

『再夢紀事』によると、結局この薩摩藩主就任運動は、のちに久光が知ることとなり、「嫡子を指置相続杯と思ひもよらすと大ニ不興にて叱られ」(8月8日の条)たため、取り下げられたとなっていますが、前述のとおり、久光当人が知らないはずは無かったものと思われます。

ただ、久光のことを考えれば、同情すべき点は多々あります。
久光は薩摩藩10代藩主・島津斉興の第五子として生まれましたが、幼少期には家臣の種子島家へと養子にやられ、その後は本家に戻り、一門の重富島津家の当主になりましたが、それでも所詮は臣籍です。
その後、薩摩藩内では国父と称されて、巨大な権力を握りましたが、ひと度藩外に出れば、無位無官の陪臣に過ぎなかったことから、久光自身がいくら国事を周旋しようとする志に燃えていたとしても、色々なしきたりや制約がつきまとい、それに拒まれることが多かったに違いありません。
そのことは、久光に対して、大きなコンプレックスを植え付けたと言えるのではないでしょうか。
しかしながら、この文久2(1862)年の薩摩藩主就任運動と明治5(1872)年の鹿児島県令就任運動をリンクさせるのは、いかにも小説的であると言えます。
久光の鹿児島県令就任運動は、廃藩置県を断行した新政府に対する一種の抵抗策であったと言えるのではないでしょうか。

冒頭にも記しましたが、今回の『西郷どん』では、政府改革が上手くいかないことに弱音を吐く西郷に対して、久光が「やっせんぼ!」と言って、叱咤激励する様子が描かれましたが、これまで書いてきたように、西郷と久光の関係は、そのような甘いものではなく、終生二人は相容れることが無かったと言えます。
以前、久光が西郷のことを「彼れは謀反をする奴ぢゃ、到底薬鍋をかけて死ぬ奴ではない」と評したと、史談会速記録から引用したことがありますが、その久光の疑いは終生続いていたと言えるのです。


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【2018/11/06 17:29】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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スコたま
ちょいちょいブログ拝見しております。

世はうつり明治の世にあって、久光と西郷の関係などはまったくの私事。もはや万民の幸福とは関係ありません。それに拘泥・振り回される自分は政治家には向いちょらん、おいは一蔵のようにゃ成れん・・と西郷が考えたであろうことは容易に想像がつきます。
大久保は人に憎まれ、畢竟、鹿児島に戻れなくなる事など「当然」と覚悟しました。かたや故郷を愛し、後輩や市井の人々に愛されることも存在証明の壱つとなっていた西郷にそれは無理な事でした・・死して140年余経っても「西郷さん、西郷さん」と親しみをもって語られるのはそうした“人間的な不完全さ・弱さ”に人々はシンパシーを感じてのことではないでしょうか。その点は究極の政治家大久保と対極ですね。

(大久保は大久保で、時代に要求されたために仕方なく<究極>を演じざるを得なかった・・のだと思いますが。)

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前回から明治編に入り、多彩な人物が登場していますが、土佐や佐賀藩出身の人たちが、薩長の批判勢力のように一括りに扱われているのが少し気になっています。
特に、土佐の板垣退助や佐賀の江藤新平は、後年いわゆる「明治六年の政変」と呼ばれる征韓論争において、西郷側に与した人たちですが、現時点で大久保との対立を殊更煽っていることから察すると、征韓論争を土佐や佐賀閥の政権奪取策の一環として描くつもりなのかもしれません。
また、前回は人間だけでなく、西郷家で飼われていた猟犬たちも登場し、早くも西郷の愛犬・ツンが出てきました。
ただ、鹿児島県教育会編『南洲翁逸話』によると、西郷がツンを手に入れたのは、明治7、8年頃のことであったと伝えられています。同書によれば、西郷が上東郷村(現・薩摩川内市東郷町)の藤川天神に参詣した際、前田善兵衛という者から手に入れたとあり、ツンは虎毛の雌犬で、兎狩りに優れた猟犬であったそうです。
ちなみに、ツンは上野公園の西郷像が曳いている猟犬のモデルだと一般に言われていますが、実際はそうではありません。同じく『南洲翁逸話』によると、上野公園の犬は、海軍大将の子爵・仁禮景範の愛犬を模型として鋳造されたものと伝えられています。
ちなみに、西郷の飼っていた猟犬に「攘夷家」と名付けられた黒毛の犬がいたそうですが、その理由は、洋服の人を見ると居丈高になって吠える犬だったからみたいです(笑)。

(廃藩置県と薩摩藩)
今回は、江戸幕府が開かれて以来、全国各地に設置されていた藩を廃止し、その代わりに県を置く、いわゆる「廃藩置県」が中心でした。
明治2(1869)年6月、全国各地の諸大名から土地と人民を朝廷に返還させる「版籍奉還」が既に実施されていましたが、実際、藩はそのままの形で存続しており、各藩主も知藩事と名を変えただけで、領内の統治は全てこれまで通り大名が執り行っていました。
しかし、廃藩置県は実質的に大名から土地と人民という財産を取り上げる大改革です。そのため、明治に入って以後、封建制をそのまま存続させるか、それとも藩を廃止して郡県制に移行させるかについては、議論が大きく分かれるところでありました。

ドラマの冒頭において、勅使として公家の岩倉具視が鹿児島に入り、久光に対して上京の勅命を言い渡すシーンがありましたが、勅使が鹿児島に来たのは事実です
明治3(1870)年12月18日、当時中央の政治から離れ、鹿児島に引っ込んでいた久光と西郷の上京を求めるため、勅使として岩倉が鹿児島を訪れ、その勅使一行には大久保も加わっていました。
ただ、ドラマとは違い、最初勅使に拝謁したのは、久光ではなく子の忠義でした。大久保の同年12月24日の日記には、「今日於城内勅使御達命、知事公御名代として御承知被為在候」(『大久保利通日記』二)とあります。

拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』において書きましたが、鹿児島到着後の大久保の日記を見ると、「西郷と示談」「西郷氏入来」という言葉がたくさん並んでおり、大久保が頻繁に西郷と会っている様子が分かります。
大久保は、翌明治4(1871)年1月3日まで合計17日間鹿児島に滞在していますが、その間の日記には、西郷と会ったという記述が実に八回も出てきます。この期間は正月を挟んでいることから察すると、日記には記述がない面会も他にあったと思われますので、大久保は滞在期間の半分以上もの間、西郷と会って話をしていたのです。
このように、二人が密に連絡を取りあい、面談したのは、政府の改革案について話し合うためです。

今回のドラマでは、鶴丸城内(鹿児島城内)において、西郷や大久保らが大きな声で廃藩置県について議論する様子が描かれていましたが、このような国家の命運に関わる機密事項をあんな形で、しかも鹿児島において話すことなど、当時の事情を考えれば到底あり得ません。
なぜなら、鹿児島には廃藩置県に反対している久光が居たからです。

DSCF0831.jpg
鶴丸城跡(鹿児島市)

今回のドラマ内において、久光は大久保にすがりつくような情けない態度を露呈していましたが、実際の久光は、当時依然として大きな力を維持し続けており、西郷や大久保は久光に対し、多大な配慮を行わなければならない状況にありました。
事実、久光が勅使と会う直前の明治3(1870)年12月22日の大久保の日記には、

「晝后西郷氏入來、猶又見込之處及示談候處盡く同意、安心此之事ニ候、方略ハ十分相定此上ハ二丸公御受之有無ノミニ有之候」(『大久保利通日記』二)

とあり、西郷と会って今後の見込み等を話した結果、西郷がことごとく同意してくれたので安心であると大久保は書いていますが、その一方、こうして方略は十分に定まったとは言え、二丸こと久光がそれを了承してくれるかどうかが問題だとも書いています。
このように、当時の久光の意向というものは、西郷や大久保にとって、最も配慮しなければならないことであったのです。

大久保が西郷と共に久光を東京に連れて行こうと考えたのは、政府改革を成し遂げるためには薩長の力、特に久光の力が必要だと考えたからですが、前述のとおり、廃藩置県は久光の最も忌み嫌う政策でした。
そのため、大久保は久光に対し、そのような過激な話が出来る状態には当時なかったと言えます。大久保はどのようにして久光に上京することを承諾させ、そして事を進めるかということに、細心の注意を払っている状況にあったため、廃藩置県のことなどは、おくびにも出さなかったことでしょう。
大久保日記の12月26日の条には、西郷が久光に拝謁したところ、久光が曖昧な返事しかしなかったため、再び久光を勅使に拝謁させようと画策している様子が分かり、大久保は鹿児島から久光を引っ張り出すことに全集中を使っていたと言っても過言ではありません。

以上のような状況から考えると、今回の『西郷どん』で描かれたように、大久保が城内で廃藩置県云々などを大きな声で口に出せる状況には無かったのです。
むしろ廃藩置県に積極的な意向を示していたのは、木戸孝允ら長州藩士の方だったと言え、薩摩藩士が長州藩士に比べて、こと廃藩置県に関して積極的な言動に出られなかったのは、偏に久光の存在があったからだと言えましょう。

(西郷の政府改革案)
結局、久光は病気を理由にして上京することを延期し、その代わりに西郷は再び上京することになりました。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』において書きましたが、西郷は上京するにあたり、勅使の岩倉に対して、二十四ヶ条にも及ぶ建言を行っています(「西郷隆盛意見書」『西郷隆盛全集』三)。
これは西郷が温めていた政府改革案の基礎とも言うべきものであり、その内容は、兵制、法制、税制などの各種制度改革だけに留まらず、外交や財政、改革手法やその手順にまで、非常に多岐に渡っています。
その中でも特に西郷がこだわっていた、官吏(官僚)改革に関するものだけを列挙すると、西郷は次のような建言をしています。(筆者が作成した現代語訳版を掲載します)

一、上下を問わず官吏については一旦全員辞職させ、適任者は再任し、適任でない者はそのまま辞職させ、有能な者だけを選んで採用すべきである。また、官員数はなるべく減じて、簡素化すべきである。

一、官吏の職掌と分担を定め、互いに委任しあって職掌を守り、他からの干渉を受けないようにする。民情に通じて施策するのは無論のことだが、自らの職分を超えて、他の職分を侵すことは厳禁とする。

一、奉職に関する任期四年制を改めて、長く同じ職に就任させるべきである。四年で交代させる制度も一理あるが、草創の初め、法や規律が全く整っていない中、急ぎアメリカの共和制を学ぼうとする時期にあっては、時と勢いというものを考えなくてはならない。法や制度が確立しているのであれば、人が代わることに問題はないが、中国では長年同じ職に就かせることを善としている。この際、長く同じ職に就かせる制度を定め、それに加えて勤務評価を導入し、昇任や降任の人事制度を作るべきである。

一、政治とは正である。人が正しくないことをすれば、それを正し、四民各々にその徳を享受させることを言う。政府の要路にある人は、公平至誠をもって人民に施し、一事の譎詐権謀を用いてはならない。

この他にも西郷は、「唯要路の人々は質僕に行い驕奢の風あるべからず(政府の要路にある人々は、質朴であるべきであり、驕り高ぶるような振る舞いをしてはならない)」とも建言していますが、これは前回書いた横山安武の「時弊十ヶ条」の精神にも繋がります。
横山の時弊十ヶ条の第一条には「輔相之大任ヲ始メ侈靡驕奢、上朝廷ヲ暗誘シ、下飢餓ヲ不察也」とあり、さらに第二条には「大小官員トモ、外ニハ虚飾ヲ張リ、内ニハ名利ヲ事トスル不少」とあるなど、横山は官吏の堕落した生活や態度を痛烈に批判していますが、西郷も鹿児島にあって同じように官吏の腐敗に胸を痛めていたことから、横山の精神を受け継ぎ、前述のような官吏改革案を岩倉に対して提示したのです。

また、西郷は次のような建言もしています。(同じく現代語訳版を掲載します)

一、郡県と封建の制度をなお評議すべきです。現状の形勢から観れば、封建の制度は長く行われるものではありません。その弊害は枚挙にいとまがありません。衆人・諸賢で熟議を行った上で、徐々にその制度を改めるべきです。

この西郷の建言は、いわゆる「廃藩置県」のことに言及しているものだと言えます。
西郷は後に旧士族たちを率いて西南戦争を起こしたことから、「封建制の巨魁」や「士族の頭領」といった形で、旧来の封建制度にこだわり、武士を擁護する立場でいたと論評する人が後を絶ちませんが、これは正当な評価であるとは言えません。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』において書きましたが、福澤諭吉はその著書『明治十年 丁丑公論』(『福澤全集』六所収)の中で、

「西郷が士族を重んずるは事実に疑なしと雖も、其気風を愛重するのみにして、封建世禄の旧套に恋々たる者に非ず。若し彼をして真実に封建世禄の友たらしめば、其初め徳川を倒すの時に己が数代恩顧の主人たる島津家を奉じて将軍たらしめん事を勉むべきなり。或は然らざれば、自ら封じて諸侯たらん事を求むべき筈なり。此を是れ勉めざるのみならず維新の後は却て島津家の首尾をも失ひ、且其参議たりし時は廃藩置県の大義にも与りて大に力ありしは世人の普く知る所ならずや」

と書いています。

福沢が論評しているとおり、西郷は武士の気風を愛する人ではありましたが、封建制に執着、未練を持つ人物では決してありません。
現にそれは、西郷自身が政府の首班の一人として廃藩置県を断行し、実際に封建の世を終わらせていることからも明らかですが、のちに西南戦争を起こしたというイメージが、西郷を旧士族を擁護する巨魁だという虚像を生み出したと言えるのではないでしょうか。

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