西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

今年のゴールデンウィークも宮崎の妻の実家に帰省したのですが、いつものとおり宮崎周辺の史跡巡りをしてきました。
私自身も宮崎には三年間住んでいましたので、宮崎は庭みたいなものです。
簡単ですが、今回から数回に分けて、その時のことを書きたいと思います。
まず、第一回目は、宮崎県児湯郡高鍋町(こゆぐんたかなべちょう)です。

高鍋は宮崎市の北方、人口2万人ほどの小さな町ですが、江戸藩政時代には高鍋藩2万7千石の城下町でした。
高鍋を治めていた大名は秋月家です。
初代の秋月種長(たねなが)に始まり、最後の藩主種殷(たねとみ)に至るまで、秋月家は10代に渡って高鍋を支配しましたが、その中で最も著名な人物は、6代藩主種美(たねみつ)の次男直松でしょう。
直松と言ってもピンと来ないと思いますが、直松は後に東北の米沢藩に養子に入り、上杉治憲となります。

「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」

の歌で有名な、あの名君・上杉鷹山です。

恥ずかしながら、鷹山が宮崎出身だったということを私も宮崎に住んだ時に初めて知ったのですが、現在、高鍋町と米沢市とは姉妹都市の関係にあり、高鍋町歴史総合資料館には、鷹山に関連する史料の展示もあります。

ただ、私自身の興味は、鷹山と言うよりも、やはり幕末・維新史にあり、そしてその中でも西南戦争です。
高鍋は西南戦争においても戦場となっていますが、高鍋からは「高鍋隊」と称する軍隊が組織され、薩軍に合流して政府軍と戦っています。

『高鍋町史』(第五編近代)によると、明治維新以来、高鍋では何か重要問題が生じると、旧高鍋城内の千歳亭という建物に旧士族たちが集まり、そこで討論の上、進退等を決するという、衆議決定の方法が取られていたそうです。
高鍋ではそのことを「演説会」と呼んでいたそうですが、西郷隆盛が鹿児島で挙兵したことにより、高鍋も動揺し、演説会が開催され、薩軍側に参戦するか、それとも政府側に付くかが討議されたそうです。
その時の演説会には、約800名もの士族が集まったそうですが、議論は紛糾したようです。

そして、ここに秋月種樹(たねたつ)という人物がキーマンとして登場します。
種樹は、高鍋藩9代藩主種任(たねただ)の子として生まれていますが、兄で最後の藩主となった種殷(たねとみ)の養子となりました。
しかし、廃藩置県で高鍋藩は無くなったため、種樹は言わば幻の高鍋藩主となったのです。

種樹は明治天皇侍読を務めていたことから、詩歌に秀で、書家として有名です。
宮崎県内の資料館や顕彰碑などを巡ると、必ず種樹の書に出会うと言っても過言ではないくらい、宮崎県内には種樹の書があちこちにあります。
実際、私の妻の親戚の家にも種樹が書いた書があり、それほど種樹は宮崎に縁が深い人物と言えますが、この種樹が旧高鍋士族の薩軍への参戦に反対しました。
西南戦争勃発当時、種樹は元老院議員を務め、東京に居たようですが、旧高鍋藩が賊軍に加担することを心配し、挙兵に反対する密書を高鍋に送ったようです。
しかしながら、最終的に旧高鍋藩士族は、「高鍋隊」を組織して薩軍に加わり、政府軍と戦うことになるのです。

簡単ですが、以上のような経緯を経て、高鍋隊は組織され、薩軍内の舞台として九州各地を転戦するのですが、高鍋隊組織後も旧高鍋藩士族の中には薩軍への加担に反対する者が多く居たため、その代表格であった旧高鍋藩家老の秋月種節以下九名が、薩軍側に捕縛され、投獄されています。
この時九人が入れられた牢獄は、牢と言っても旧藩の籾蔵だったのですが、実はその籾蔵が現存しています。
「黒水家住宅」という、旧高鍋藩家老の屋敷跡の敷地内に移設されているのです。(写真)

14950039946260.jpg

この籾蔵に閉じ込められた人々を地元では「九烈士」と呼んでいるそうです。
実はこの時私も初めてその建物を見学したのですが、内部は想像した以上に広かったです。
ただ、当時は米俵や道具なども貯蔵されていたでしょうから、九人で生活するにはかなり狭かったかもしれません。
ご多聞に漏れず、高鍋も近代的な街へと変化し、往時を忍ぶことが出来る古い建物はほぼ残っていませんが、この籾蔵だけは、旧高鍋藩時代を偲べるものと言えるかもしれません。
スポンサーサイト

FC2blog テーマ:国内旅行記 - ジャンル:旅行

【2017/05/17 18:00】 | 史跡巡り
トラックバック(0) |
最近ブログの更新が滞ってしまい、申し訳ありません。

実は現在、西郷隆盛に関わるプロジェクトと申しますか、ある計画に着手しておりまして、そちらに全神経を集中しているため、ブログの更新まで手が回らないような状態です。
この計画につきましては、はっきりしたことが決まり次第、またホームページやブログ等で告知させて頂く予定です。

さて、話は変わりますが、先月鹿児島に行った折、ついでと言っては何ですが、宮崎県児湯郡(こゆぐん)都農町(つのちょう)の報恩寺というお寺を見てきました。
一般には知られていませんが、この報恩寺には、西南戦争時に西郷隆盛が宿所とした「西郷の間」と呼ばれる部屋が遺されています。

この「西郷の間」、私もその存在を全く知らなかったのですが、三又喬『日向灘沿岸をゆく 黒潮路ロマン三九七キロ』(海鳥社)という本を読み、その存在を知りました。
同書によると、明治十(一八七七)年七月に政府軍の攻撃により宮崎が陥落した際、西郷は北上して高鍋から都農に到り、現在報恩寺がある場所に宿所を置いたそうです。
当時はまだ報恩寺ではなく、枡屋と呼ばれた家だったようですが、『古今宮崎史談』には「七月二十九日の夕方、宮崎北方の帝釈寺を発って広瀬に達し、さらに高鍋から都農に至り、枡屋河野宗平方に一泊した」とあるそうです。

また、その西郷が宿所とした枡屋は、その後正覚寺というお寺が建物を購入し、昭和十二年に報恩寺が譲り受けたそうですが、その際、「この家は西郷さんの泊まった家だから大切に保存してもらいたい」と念を押されたことから、現在も「西郷の間」として大切に保存されているとのことです。

ただ、残念ですが、報恩寺さんに電話で確認したところ、「西郷の間」は現在居住スペースとして使用されているため、建物内部を見学することは出来ません。
ただ、家屋は当時に近い状態で保存されているので、外観を見るだけでも一見の価値があります。
宮崎には、まだまだ知られていない西南戦争関係史跡がありますね。

14933526232060.jpg
報恩寺「西郷の間」がある建物外観

FC2blog テーマ:国内旅行記 - ジャンル:旅行

【2017/04/28 18:00】 | 史跡巡り
トラックバック(0) |
久しぶりのブログ更新です。

先日少し用事があり、一泊二日の強行日程で鹿児島に行ってきました。
鹿児島を訪れるのは昨年の夏以来でしたが、当日は大変天気も良く、綺麗な桜島を撮影できましたので掲載します。
澄み切った青空とまではいきませんが、限りなく雲も少なく、そして何よりも桜島が青々としていて、とても綺麗な桜島の姿が撮影できました。

14902536862541.jpg

桜島のビュースポットと言えば、「城山」の展望台が最も有名ですが、この写真は城山から撮影したものではありません。
鹿児島市の郊外にある上之原の原五社神社の前から撮影したものです。
城山から桜島を撮影すると、どうしても桜島の前に鹿児島の街の様子が写りこんでしまいますが、ここは前面には海が広がり、とても綺麗な桜島を撮影することが出来ます。
私のオススメする桜島が綺麗に見られるビュースポットの一つです。

ちなみに近くの寺山公園には、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」にも登録されました「寺山の炭窯跡」や西郷隆盛が開墾事業に勤しんだ「吉野開墾社跡」などもあり、史跡巡りや観光にも適した場所ですよ。

FC2blog テーマ:国内旅行記 - ジャンル:旅行

【2017/03/23 18:00】 | 鹿児島
トラックバック(0) |
 鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏の名著『史伝 西郷隆盛』が、2月に文春文庫から復刊されます。
 おそらく来年のNHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』を見越しての復刊だと思いますが、長らく絶版になっていたので嬉しい限りです。

 この度復刊される『史伝 西郷隆盛』は、岩波書店発行の雑誌『世界』に、昭和36年1月号から昭和37年4月号まで連載されたものをまとめたもので、これまでに旺文社文庫と文春文庫から刊行されました。
 前回、文春文庫から再刊されたのは、同じくNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』の放映が決まった時のことでしたので、25年以上の時を越え、今回も同じような形で復刊されるということです。

 『史伝 西郷隆盛』は、いわゆる海音寺氏の遺作となった、大長編史伝の『西郷隆盛』(朝日新聞社刊。全九巻)とは別の作品ですが、その基礎になったものだったと言えます。
 海音寺氏は、『西郷隆盛』(朝日新聞社刊)第一巻の「あとがき」の中で、


「作家は小説でも、年が立てば書き直したくなるものですが、史伝はとくにそうです。史伝は一面から言えば研究ですから、研究が進むにつれて、どうしても考えがかわって来ます。書き直さざるを得ないのです」


 と書かれていますが、「史伝は一面から言えば研究である」というスタンスを生涯貫き通されました。

 史伝文学とは、作中に一切のフィクション(虚像)を交えず、史実(歴史上の事実)のみを徹底的に追求することによって成立する文学形式です。
 史伝は一般的な小説とは異なり、一度完成してしまえばそれで終わりというわけではなく、新たな史料の発見や作者自身の人生経験の積み重ねによる、考え方や解釈の変更などが生じた際には、書き直しが必要となる文学と海音寺氏は定義付け、自身の西郷隆盛に対する研究が深まるにつれ、自身の史伝作品を何度も何度も書き直されました。
 つまり、海音寺氏の描く『西郷隆盛』という史伝は、まるでワインのように、時が経つにつれ、熟成されていった作品群だと言えるのです。
 このような海音寺氏の史伝に対する真摯な態度とそれにかける情熱が、最終的に大長編史伝『西郷隆盛』(朝日新聞社刊。全九巻)へと結びついていくわけですが、その基礎になったとも言える作品が、今回復刊される『史伝 西郷隆盛』です。

 『史伝 西郷隆盛』は、西郷家の始祖・菊池家にまつわる話から始まり、西郷隆盛の誕生、永遠の師である藩主・斉彬との出会い、将軍継嗣問題への奔走、そして僧・月照との自殺未遂を経て、奄美大島への潜居に至るところで話が終わります。西郷の前半生が詳しく、そしてダイナミックに描かれており、西郷のことを知らない一般の方に対しても、読みやすくそして分かりやすい作品に仕上がっています。
 来年の大河ドラマ『西郷(せご)どん』の予習にもなると思いますので、今回の復刊を機に、是非一読をおすすめします。

14859294750570.jpg
(以前に刊行されていた『史伝 西郷隆盛』二冊)

FC2blog テーマ:本の紹介 - ジャンル:学問・文化・芸術

【2017/02/01 18:00】 | 西郷隆盛
トラックバック(0) |
 2018年NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』の原作、林真理子さんの『西郷どん』(月刊「本の旅人」(角川書店発行)に連載中)の第12回の感想です。

 第12回は、沖永良部島での西郷の遠島生活から物語が始まりますが、またもやアッと言う間に月日が進み、西郷が赦免されて京都に赴き、物語の後半には「池田屋事件」が起こり、「蛤御門の変」前夜までが描かれます。
 以前にも書きましたが、『西郷どん』は物語の進行が非常に早いです。この小説が西郷隆盛の生涯をダイジェスト的に描いているのは分かりますが、重要な歴史的事件や事項を、大久保が西郷に語って聞かせる形式で淡々と説明して進むので、幕末の歴史を知らない読者が、果たして話に付いていっているのかどうか少し心配です。

 鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏は、「西郷という人は、幕末・維新史全体の上に浮かべないと、真の姿がわからない」と、その著書『西郷隆盛』の中で語っていますが、まさに同感です。例えば、西郷が南島に潜居して不在であった頃の中央政局の動きをしっかりと押さえておかなければ、元治元(1864)年2月に西郷が復帰してからの行動を正確に理解することが出来ないと思います。海音寺氏は、従来の西郷伝はそのことをおざなりにして描かれているので、西郷の真の実像が歪む原因となっている、というような趣旨のことを書かれていますが、それから考えると、小説という形式で西郷隆盛の全生涯を描き切るのは、少し難しいような気がします。

 話を戻して、『西郷どん』第12回ですが、相変わらず西郷は久光のことを「らっきょう野郎」と呼び(苦笑。これ、何とかなりませんかね?)、その舌鋒はとても厳しいですが、それはさて置き、一点気になったのは、沖永良部島に流刑となった西郷の赦免を藩内の若手藩士たちが小松帯刀に頼み、小松が島津久光に願い出て許されたと描かれていることです。


若者たちが小松帯刀に頼んだところ、快く引き受けてくれた。交渉役として京で揉まれた彼は、人の心を読むことにたけていた。
「もはや国父さまは天下の中枢におつきにないもした」
 とおだてた後、
「こいからは小まわりのきく者が必要ではあいもはんか。あの西郷ならば京の公卿や宮家、江戸の大奥にも顔がききもす」
 と話を持っていったのである。粘り強く頼んだ結果、久光は最後には折れた。わが息子である藩主茂久(忠義)に聞いてみろと言ったのである。

(『西郷どん』第12回から抜粋)


 西郷の赦免については、通説では、久光の近臣であった高崎正風、高崎五六のいわゆる両高崎が、久光の面前において、「もし、西郷赦免の儀、お聞き届けなくば、有志一同、割腹つかまつる所存でございもす」と願い出て、それを聞いた久光が、

「左右みな(西郷のことを)賢なりと言うか……。しからば即ち愚昧の久光一人これを遮るのは公論ではあるまい。太守公(藩主・忠義)に伺いを立てるが良い」

 と言い、藩主・忠義の許可を得て決まったとされています。
 これは『大西郷全集 第三巻』の西郷隆盛伝の中に出てくる話ですが、勝田孫弥『西郷隆盛伝』ではその辺りの経緯がもっと簡潔に書かれています。


文久三年の末、久光の上京するや、諸藩有志の徒は悉く長州に走り公武合体党は皆京師に集まれり。然るに幕府の方針は益其勢権を維持するに傾向し、公武合体も亦佐幕の地位に陥るに及び薩藩の壮士輩は深く奮激する所あり。断然死を決して久光に面訴し、以て隆盛召喚の議を決せんと欲す。黒田清綱等其巨魁たり。高崎五六等之を聞知して大に驚き小松、大久保等に告げ久光に説かしむ。爰に於て隆盛放免の議漸く内定し、吉井友實を以て其使者と為すに決せり。
(読みやすくするため、旧字は改編。句読点は筆者が挿入しました)



 『西郷隆盛伝』によると、黒田清綱を中心とする壮士たちの死を決した西郷赦免運動を聞いた高崎五六らが、驚いて小松や大久保一蔵に告げ、そのことにより西郷の赦免が決まったとなっていますが、文面から察すると、久光を説得したのは、小松または大久保だったということでしょうか。林さんの『西郷どん』は、この記述を根拠として、小松が久光を説得したとしているのかもしれません。

 ただ、西郷の赦免については、小松や大久保が関与しなかったことを裏付ける話もいくつか残されています。
 前出の『大西郷全集 第三巻』所収の西郷隆盛伝には、次のようにその経緯が書かれています。


 元治元年正月、柴山龍五郎、三島源兵衛、福山清蔵、相田要蔵、井上弥八郎等十数名、丸山の某楼に集まって相談した結果、西郷赦免を願ひ出でて若し聴かれずば、一同君前に割腹死諌しようと決し、黒田嘉右衛門(後の清綱)伊地知正治の二人が有志の総代となって久光侯に哀訴しようということになった。
 しかし最初から久光侯に申出るよりか、小松、大久保に説いて、予め同意を得た上で、都合によってはこの二人の何れかから哀訴させようというのであった。
 黒田、伊地知の二人は、先ず小松を訪ねた。小松は大賛成であるが、自分からは願ひ出難い事情があるという。大久保を訪ねた、大久保も大賛成ではあるが、当時嫌疑を受けた一人であるから願ひ出の責に任ずることは出来ぬという。
 そこで、久光近士の高崎佐太郎、高崎五六がよかろうということになり、久光に拝謁の上、先君の御寵臣という一点張で、とうとう赦免を許さるることとなった。
(読みやすくするため、旧字等は筆者が改編しました)



 この記述によると、小松や大久保は、「趣旨は大賛成だが、自分たちからは西郷の赦免を願い出ることが出来ない」として、黒田たちの依頼を断ったことが分かります。
 また、「寺田屋事件」の生き残りの一人である柴山龍五郎(景綱)の事歴を記した『柴山景綱事歴』にも、次のように書かれています。


 西郷ヲ沖ノ江良部島ヨリ帰サンコトヲ久光公ノ御前ヘ出テ嘆願シ、萬一聴ルサレザル時ハ皆割腹シテ以テ死諌セント議ス。其集リシ人々ニハ三島通庸、柴山景綱、永山弥一郎、篠原國幹、椎原小弥田、宮内彦次(此時彦次ハ異論アリ)、吉田清右衛門等なナリ(綱記憶)。
 爾来又三島通庸、福山清蔵、井上弥八郎、折田要蔵、柴山景綱等ヲ始メ、拾何人丸山ニ會シ、是非御帰シアル様公ニ申上萬一聴ルシナクンバ御前ニテ直ニ腹ヲ切ラント決シタリ(正風、五六の記憶)。
 然ルニ其頃君侯ノ御前ニ出テ何事ニ限ラズ申上ル者モ少ナカリシガ、高崎正風、高崎五六ハ御近習通ヲ相勤メ君侯ノ御側近ク出ツル者ナレバ、黙視シ難クヤアリケン共ニ小松、大久保ニ謀ルニ両氏ハ故障アリ、大久保曰ク伏見一挙列ノ沸騰モ甚ダくどい(其時、綱ノ覚エ)ト茲ニ於テ五六自カラ久光公ノ御前ニ出テ、懇願シ
(読みやすくするため、旧字は改編、句読点等は筆者が挿入しました)



 登場人物に差異はありますが、内容は『大西郷全集 第三巻』とほぼ同じです。
 『大西郷全集』、『柴山景綱事歴』の記述を信用するならば、西郷召還を待ち望む藩士たちは、西郷赦免を実現させるため、小松や大久保にその取り成しを依頼したが、二人に断られたため、久光お気に入りの高崎正風、高崎五六の二人に対し、そのことを依頼したということです。『柴山景綱事歴』には、両高崎が久光の側近の者であるため、彼らから久光に願い出れば、久光も黙止することは出来ないだろうと考えたと書かれています。

 私自身の考えとしては、やはり『大西郷全集』、『柴山景綱事歴』の記述の方が真相のように感じます。久光近くに仕える小松や大久保の立場からすれば、二人は久光の西郷嫌いを身をもって経験していますから、西郷赦免を願い出ることは、火に油を注ぐような行為であると考えたに違いありません。特に大久保は、西郷を召還したい気持ちは強かったでしょうが、文久2(1862)年の久光の率兵上京計画の時のこともありますから、久光に対して容易に西郷の赦免を言いだせるような状況には無かったと思います。

 以上のようなことを考え合わせると、やはり小松や大久保は、久光に西郷赦免のことを話すことで、久光の不興を被ることを恐れ、自重したと考えるのが自然だと思います。
 西郷赦免の動きは、通説のとおり、黒田清綱や柴山景綱ら西郷の復帰を待望する若手の藩士たちが中心となり、小松や大久保ではなく、久光お気に入りの近臣であった高崎正風、高崎五六の二人に依頼したというのが真相だったように思います。

FC2blog テーマ:大河ドラマ - ジャンル:テレビ・ラジオ

【2017/01/24 12:30】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
トラックバック(0) |
 今年の正月も妻の実家の宮崎で過ごしたのですが、そのついでに少しだけですが島津家ゆかりの城下町である佐土原(さどわら)の史跡を巡ってきました。
 下記の画像(写真)は、その際に立ち寄った「島津御殿跡」の石碑です。

14847258819910.jpg

 佐土原藩最後の藩主である島津忠寛(ただひろ)は、明治4(1871)年7月の廃藩置県により、藩知事を免ぜられ、10月に東京に移住することになったのですが、その際に旧領の佐土原にも別邸が必要ということで新たに屋敷が建てられました。
 これが「島津御殿」と呼ばれるものですが、現在は石碑のみが建てられているだけで、往時を偲べるような建物は何も残っていません。石碑の前に建てられた木札によると、島津御殿は戦後移築されたようで、現在は玄関の石垣のみが少し残っているような状態です。
 ただ、島津御殿跡のすぐ前には、御殿下医院なる病院もあり、御殿という名が土地に根付いたものであることが想像できました。今では石碑と石垣だけになってしまいましたが、当時はさぞかし大きな屋敷が建っていたのでしょう。
 ちなみに移築された建物は「臨江亭」と呼ばれたそうですが、昔、宮崎市内に「ホテル臨江亭」という宿泊施設があり(現在は取り壊されてありません)、それと何か関連があるような気がしますが、詳細は調べていないので分かりません。(ご存知の方はご教授ください)

 佐土原は宮崎市の北方に位置する小さな町ですが、江戸時代には佐土原藩2万7千石の城下町でした。
 江戸藩政時代、佐土原藩の城主は島津家でした。佐土原島津家は、いわゆる薩摩藩の島津家の分家筋にあたります。
 佐土原藩の藩祖(初代藩主)は、島津以久(もちひさ)という人物です。
 この「もちひさ」を「ゆきひさ」と読んでいる書物が多数ありますが、名前の読み方は諸説あってどちらが正しいとは言えないようです。
 佐土原町教育委員会発行の『佐土原藩史』では、「ゆきひさ」とルビをふっていますが、「ゆきひさ」という読み方は、以久の前名の「幸久」から来ているものと推測されるのと、個人的には「以」の字を「ゆき」と読むのは少し無理があるような気がしますので、ここでは便宜上以久(もちひさ)とします。

 さて、その以久の父は、島津家中興の祖と呼ばれる島津貴久の弟・島津忠将(ただまさ)です。
 つまり、以久は、戦国期の武将として名高い島津義久、義弘兄弟の従兄弟にあたります。
 以久の父の忠将は、智勇共に優れた武将で、兄の貴久をよく支えましたが、永禄4(1561)年、大隅の豪族・肝付省釣(兼続)との戦いで戦死しています。
 私も詳しくは知りませんが、前出の『佐土原藩史』によると、以久も父に劣らず、知勇兼備の武将であったそうです。
 この辺りの簡単な家系図を書くと次の通りです。


忠良(日新斎)

貴久-忠将
│    │
義久  以久(佐土原藩祖)
義弘
家久

豊久


 佐土原という土地は、元々は義久や義弘の弟である家久が治め、家久の死後はその子の豊久が治めていました。
 しかしながら、その豊久が「関ヶ原の戦い」で戦死したため、以久がその所領を引き継ぐことになりました。これが幕藩体制下における佐土原藩の誕生です。
 佐土原藩が薩摩藩の分家と言われるのはこういった所以からですが、以久をもって始まった佐土原藩は、幕末を迎えた頃には11代を数え、最後の藩主が最初に紹介した島津忠寛です。

 島津忠寛という人物は、薩摩藩の幕末史の中でもちょくちょく名前が出てくる人物です。
 例えば、昨年末にこのブログでも書きましたが、文久2(1862)年3月、島津久光が薩摩から兵を率いて上京した際、当時江戸にいた島津忠寛は、京・大坂に浪士たちが集結し、不穏な企みがあることを知り、大坂に入った久光に対して使者を送りました。
 忠寛は久光に対し、京には入らずに、そのまま直接江戸に参府するよう意見したことが『島津久光公実記』の中に出てきます。


淡路守君忠寛亦使者ヲ馳セ公ニ勧めムルニ京師に入ラスシテ直ニ参府スヘキヲ以テス


 これがその部分ですが、忠寛は久光がある京に入ることにより、不測の事態が生じることを案じたのです。
 結局、久光の入京後、薩摩藩士同士が相討つ「寺田屋事件」が生じたのですから、忠寛の見通しは正しかったと言えましょう。
 ただ、忠寛に限らず、久光が京に入ることで、何かしらの騒動が生じるであろう危惧は、他の大名にも少なからずありました。

 ちなみに、その後久光は勅使・大原重徳と共に江戸に下り、幕府に対して幕政改革を要求するに到りますが、その江戸滞在中、藩主・忠義の名代として働いたのが、島津忠寛でした。
 久光は薩摩藩内では藩主・忠義の実父として身分が高い人物でしたが、当時は無位無官、幕府から見れば、単なる陪臣の身分に過ぎません。そのため、江戸城に登城する資格も無い久光に代わって、忠寛が薩摩藩主の名代となったわけです。

 また、その忠寛ですが、久光が江戸に滞在中、何と久光を薩摩藩主にするべく運動を起こしています。
 越前福井藩の中根雪江が書き記した『再夢紀事』には、次のように書かれています。


七月廿六日今日御登城前御兼約にて島津淡路守殿へ御逢有之御内談之次第ハ當薩侯修理大夫殿幼年病身ニ付三郎殿當代に建度との修理大夫殿内願之由

現代語訳 by tsubu
文久2年7月26日、松平春嶽公が江戸城に登城する前、かねてからの約束で、島津淡路守忠寛殿とお会いになった。御内談の内容は、薩摩藩の当主である島津修理大夫忠義殿は幼年であり(と言っても、当時忠義は22歳)、かつ病身でもあるため、三郎殿(久光のこと)を当主に立てたいと、島津修理大夫忠義殿の内願があるとの話であった



 この記述によると、忠寛曰く、「久光の薩摩藩主就任」については、久光の子の藩主・忠義の内願であるとしていますが、鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏は、その著書『西郷隆盛』の中で、久光の意向だったと推測しています。
 私も同感です。久光の性格からして、忠寛が久光の指示なく、勝手にそのような訴えを起こすとは考えられないからです。
 ちなみに、この忠寛の話を聞いた前越前福井藩主の松平春嶽は、「倫理戻り候故御不同意之趣(倫理にもとる行為である故、同意しない)」と答えたと、『再夢紀事』には書かれています。
 確かにそうでしょう。自分の子供を廃して、父親自らが藩主に就任するということは、春嶽ならずとも、倫理上憚る行為であると感じたことでしょう。

 以上のように、久光が江戸に滞在中、忠寛は重要な役回りを演じていますが、その他にも佐土原藩全体で見れば、薩英戦争後に行われた横浜における薩摩藩とイギリスの講和談判においても、久光と忠寛の命を受けた佐土原藩士の樺山久舒(ひさのぶ)、能勢直陳(なおのぶ)が談判に参加し、重要な働きをしている事実もあり、当時の佐土原藩は、宗家である薩摩藩と密接な関係で結ばれ、共に一体となって幕末・明治維新という時代を行動したと言えます。

 以上のように、佐土原という町は、「もう一つの島津家の町」として、非常に歴史深い場所であるとも言えるのですが、残念ながら、明治10(1877)年の西南戦争において、佐土原も戦場となったため、今は往時を偲ばせるような建物は数少なく、城下町の風情を感じさせてくれる場所は余り残っていないのが現状です。
 また、佐土原という町は、元々「宮崎郡佐土原町」として独立した自治体だったのですが、2006年1月1日に宮崎市に編入されてしまいました。
 ただ、佐土原という地名は、まだちゃんと残っているので、それがせめてもの救いですね。

 最後に話はガラッと変わって、佐土原への史跡巡りのついでに、もちろん宮崎グルメも堪能してきました。
 下記の画像(写真)は、佐土原の隣町、宮崎県児湯郡新富町にある「うなぎの比恵島」さんの「うな丼 大(2,112円)」です

14847238814751.jpg

 以前にもブログで書きましたが、宮崎のうなぎには「きも吸い」ではなく、「呉汁(ごじる)」が定番です。
 呉汁とは、水に浸して柔らかくした大豆をすり潰し、それを絞ったものを入れた味噌汁のことですが、これが濃厚で、味噌が引き立って風味が良く、美味しいんですよね。
 先に呉汁のことを書いてしまいましたが、「うなぎの比恵島」さんは養鰻場が経営しているお店ですので、もちろんここの「うなぎ」は最高に美味しいです。
 また、このお店はご飯がとても美味しいので、うな丼は最高です。宮崎に行かれた際には、是非味わって頂きたい「うなぎ」です。

FC2blog テーマ:国内旅行記 - ジャンル:旅行

【2017/01/18 18:00】 | 史跡巡り
トラックバック(0) |
 新年、明けまして、おめでとうございます。
 本年も西郷隆盛のホームページ「敬天愛人」をよろしくお願いいたします。


 私がこの西郷隆盛のホームページ「敬天愛人」を開設したのは、今から17年以上前の1999年9月24日のことです。途中体調を崩し、なかなか更新できない時期もありましたが、振り返れば長い間やってきたものです。
 私がホームページを開設した当時は、他にも幕末の歴史系ページがたくさんありましたが、今やそのほとんどが活動停止状態に陥っています。
 確かに、今のネット社会は、ホームページからブログ、フェイスブック、ツイッター、インスタグラムなどに媒体自体が移行し、個人でホームページを作成・運営することが流行らない時代となりましたが、私としましては、西郷生誕200年にあたる2027年を目指して、これからも頑張っていきたいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 さて、新年が始まったばかりなのに来年のことを言うのは鬼が笑いますが、来年平成30(2018)年は、明治維新150周年にあたる年です。
 昨年くらいから、鹿児島では大々的に「明治維新150周年」を謳い、シンポジウムを始めとする様々なイベントが企画・開催されています。
 また、来年はNHKの大河ドラマとして『西郷(せご)どん』が決まり、鹿児島はとても盛り上がっている状態ですが、以前、平成28年9月1日付けのブログ「週末は歴史漬け①-五代友厚のチャレンジとイノベーション-」の中でも少し触れたとおり、明治維新150周年の節目を迎えるにあたって、「鹿児島における明治維新史の再検証」が重要なポイントになってくるのではないかと思っています。

 時はだいぶ遡り、明治維新100周年を迎えた年、つまり昭和43(1968)年はどうであったかと言うと、やはり鹿児島における明治維新と言えば、西郷隆盛であり、大久保利通が全てであったと思います。
 当時「明治百年」という言葉が頻繁に使われ、それに伴う記念事業がたくさん行われ、また、関連書籍なども多数出ましたが、今それらを読み返してみても、やはり「薩摩藩=西郷と大久保」がキーワードとなっているものが多く、鹿児島で語られ、そして研究されてきた明治維新史は、どちらかと言えば、西郷と大久保が中心であり、彼らの「英雄伝」的な側面が色濃く出ていたように思います。
 少し言葉が過ぎますが、彼らが明治維新における「スーパーマン」のような存在として描かれ、さも二人の活躍で明治維新が成立したと言わんばかりの勢いで語られる傾向がややもすればあったのではないでしょうか。

 確かに、西郷と大久保の二人が薩摩藩の明治維新の原動力となったことは間違いありません。彼らの残した功績は偉大と言えます。
 しかしながら、西郷や大久保の二人の活躍だけで歴史を動かせたわけがなく、彼らを取り巻く様々な人物、例えば、島津斉彬であり、島津久光であり、そして小松帯刀といった数多くの存在があってこそ、二人は縦横無尽に活躍でき、幕末という大きな歴史を動かしたと言えます。
 平成30年に明治維新150周年の節目を迎えるにあたり、薩摩藩の明治維新を少し違う角度からも眺め、多角的にそして多面的に見つめ直すことが重要なのではないでしょうか。

 誤解されては困りますが、これは西郷や大久保を否定しているわけではありません。そのような狭小な考え方ではなく、

「薩摩藩の明治維新史を正確に理解するためには、新たな視点を持つことが重要になってくる」

 ということを意味していると、ご理解頂ければと思います。
 また、もちろんそれに併せて、西郷と大久保の再検証も必要となってくるでしょう。
 彼らは明治維新における偉人と崇め奉られたことから、実像以上に虚像部分が肥大化し、独り歩きしている面も多々あることから、彼らの生涯を再度点検し直し、「新たな西郷像や大久保像を再構築する」ということも併せて必要になってくるのではないかと感じています。


 少し前置きが長くなりましたが、薩摩藩における明治維新史を捉えなおすにあたり、私自身が考える、幕末の薩摩藩における西郷と大久保以外の新たなキーパーソンを前期と後期の二期に分けて挙げるとすれば、やはりこの四人ではないかと思います。

(前期)島津斉興と調所広郷
(後期)島津久光と小松帯刀


 小松を除き他の三名は、どちらかと言うとこれまでの歴史では「悪者」として扱われ、数ある幕末関係の小説の中でも、余り良い形では描かれていません。
 しかしながら、明治維新において、薩摩藩があれだけの大きな存在感を示し、そして多くの人材を輩出して活躍できたのは、その元を質せば、やはり島津斉興と調所広郷の二人が窮地に陥っていた薩摩藩の財政を立て直したことに尽きると言えます。
 その点から言えば、二人の功績は薩摩藩の幕末維新史において非常に大きかったと言えますが、英名君主と謳われた斉彬との関係から、二人は悪者という風に捉えられ、常に悪人扱いです。
 小説であればそういった描き方も致し方ないのかもしれませんが、薩摩藩の明治維新史を正確に理解するにあたっては、二人の功績を再認識することは最も重要なことなのではないかと思っています。
 特に調所に関して言えば、後年完膚なきまでに否定され続けた人物ですので、調所の復権は必要不可欠になってくるのではないかと思っています。

 幕末初期の薩摩藩と言えば、やはりどうしても島津斉彬という人物がキーパーソンとして挙げられがちですが(私も若い頃はそう考えていました)、斉彬の活躍は、斉興と調所が作り上げた基礎があったればこそであり、もし斉興と調所が作り上げた財政的な基盤が無ければ、斉彬は幕末期にあれほどの存在感を示し得なかったのではないでしょうか。
 斉興と調所が耕した土地に斉彬が良質な肥料を巻き、そしてその肥沃な土地を背景に国事に参画していったのが島津久光であり、そしてそれを支えたのが小松帯刀でした。
 随分昔からこれまでホームページの掲示板等にも書いてきましたが、西郷と大久保の活躍は、小松帯刀や桂久武といった、とても頭脳明晰で優秀な門閥家老が居たからこそ可能であったということを決して忘れてはなりません。

 つい先日も本ブログ内で書きましたが、幕末という時代は純然たる封建制の世の中です。いかに西郷や大久保が優秀であったとしても、彼らの力には限界があり、桂や小松といった上級武士層の協力なしには、藩政を動かすことなど到底叶わなかったのです。
 そのため、薩摩藩の幕末史を見ていると、要所で必ず小松や桂の存在が出てきます。薩長同盟しかり、薩摩藩の倒幕路線しかりです。
 その点から言えば、薩摩藩の明治維新史における小松の功績というのは、とてつもなく大きなものだったと言えます。
 また、島津久光ですが、彼は西郷との確執で、どうしても悪者として見られがちですが、もし久光が凡庸な人物であったとしたならば、薩摩藩はあれほど幕末史において活躍することは出来なかったと思います。それは他藩の状況を見れば明らかです。
 久光が聡明で、かつ薩摩藩を一つに束ねられる能力があったからこそ、薩摩藩は水戸藩のように空中分解することもなく、明治維新史に多くの人材を輩出し得たと言えるのではないでしょうか。

 新年早々またもや長くなりましたが、来年明治維新150周年の節目を迎えるにあたって、私自身も新たな視点から薩摩藩の明治維新史を見つめ直したいと思っています。

FC2blog テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【2017/01/06 18:30】 | 幕末・維新
トラックバック(0) |
 どんどん話が大きくそれていますが、林真理子さんの『西郷どん』(第11回)の中でも、西郷と久光の確執は通説通りの形で描かれていますが、そんなことよりも私が少し気になったのは、久光の率兵上京の目的が「雄藩連合」であるかのように描かれていることです。

 例えば、作中で西郷は、上京を計画する久光の考え方を「もはや幕府などあてにならぬ、自分(久光のこと)を含む有力諸藩が連合して、幕政を行なうというこっじゃ」と語ったり、また、「薩摩ら雄藩によって幕政を立て直す、天皇のお出ましにより、公武ご合体を実現させ、雄藩が深く結びつくことを考えちょっとじゃ」と代弁しています。
 後半の部分はまだしも、前半の「有力諸藩が連合して、幕政を行なう」という発言部分は、読者に少し誤解を与える書き方だと感じました。

 雄藩連合と言えば、後年、久光が「参預会議」を興したり、西郷が「四侯会議」の形でその実現に奔走することになりますが、久光が上京を計画した文久2(1862)年初頭の段階では、久光にそのような具体的なグランドプラン(構想)はなかったと思います。
 文久2(1862)年3月に久光が薩摩から兵を率いて上京した目的や趣旨については、町田明広先生が『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社選書メチエ)の中で詳しく検証されていますが、町田先生は久光上京の目的を「皇国復古(皇政回復)」というキーワードを使用して詳細に説明されています。

 久光が上京しようと考えた理由を私の考えを元に極々簡単に説明すると、「諸外国との修好通商条約の無勅許締結」や「安政の大獄」などで地に堕ちた朝廷の権威をまずは復権することを目的とし、その上で幕府に対し制度改革(幕政改革)を迫るというもので、後年考えられたような、雄藩が連合して幕政に参画することを意図したものではありません。
 端的に言えば、久光は「朝主幕従」の政治形態を取り戻そうと考えたということです。町田先生は「天皇親裁体制」と書かれていますが、つまり朝廷を中心とした政治体制の復活です。

 確かに、久光が上京する前、久光の命を受けた大久保一蔵が上京し、近衛家に対して提出した書付けには、長州藩や仙台藩など諸藩に対して、別途勅許を下すことを要望する項目がありますが、それはあくまでも幕府が久光の改革案を拒否した際に諸藩連合して事にあたるための備えであり、まだこの時点で久光の考えの中には「雄藩連合政権構想」は無かったと言えます。(時の孝明天皇の意向として、薩摩藩や長州藩など雄藩の藩主を五大老に任じるということなどもありましたが、これは雄藩連合政権構想と呼べるような代物では無いでしょう)
 それから考えると、『西郷どん』の中の西郷の語り口は、少し誤解を与えるようなものだと思います。

 ちなみに、またまた話がそれますが、先程紹介した『島津久光=幕末政治の焦点』の中で、久光が当初の上京出発日を文久2(1862)年2月25日から3月16日に変更したのは、従来から通説とされているように奄美大島から帰還した西郷が計画に反対したことが原因ではなく、久光の二の丸への移住(藩主待遇となった久光が重富邸から城内二の丸に移住することになった)が遅れたことによるものだとしています。
 確かに、『伊地知貞馨事歴』所収の小松帯刀の文久2(1862)年2月29日付け堀次郎(伊地知の前名)宛ての書簡には、


泉公去ル廿五日御發駕之御賦御座候處二丸御作事等相運譯共有之來月六日ニ御首途十六日ニ御發駕之儀被仰出最早無余日相成申候

現代語訳by tsubu
(久光公は去る二十五日(京都へ向けて)ご出発なされる予定でしたが、二の丸の普請が予定通りいかなかったことから、来月六日に(二の丸に)移り住むことになり、十六日にご出発なされると仰せ出されたため、最早余日いくばくもありません)


 と書かれており、久光の出発が遅れたのは二の丸普請が計画通り進まなかったからだと説明していますが、果たしてどうでしょうか。
 この小松の記述が、西郷の反対が原因で久光の出発が遅れたということを完全に否定できるものではないという風に私は感じています。
 確かに、表向きは「二の丸普請の遅延のため」だったのでしょうが、各諸書及び諸伝に伝えられている通り、西郷の反対が久光の上京を遅らせる一つの要因になったことまでを否定できるものではないと考えるからです。

 例えば、前回紹介しました、西郷がこの辺りの顛末を詳細に記した、文久2(1862)年7月の木場伝内宛ての書簡には、

「愚考の形行残さず申し上げ候処、二月廿五日御発駕召し延ばされ、三月十六日と相成り申し候(久光に対して自らの愚考を包み隠さず申し上げたところ、2月25日の出発を延期し、3月16日の出発に変更となった)」

 と書かれており、西郷自身は自らの発言により、久光が上京を延期することになったとしています。

 確かに、対外的に考えても、藩として「一家臣の反対があったので」とは口が裂けても言えません。
 もちろん久光の二の丸移住が遅れていたことも大きな原因であったでしょうが、それだけではなく、西郷の反対もまた、久光の出発が遅れる一つの要因になったと解釈した方が当時の状況を考えると自然のような気がします。

 またもや話がそれましたが、『西郷どん』第11回では、久光の率兵上京計画を深く掘り下げることも無く……、淡々と話は進み、西郷が久光の逆鱗に触れ、徳之島へ遠島となった後、沖永良部島に流され、過酷な待遇を受ける様子が描かれます。
 このような話の進み方から考えれば、確かに既に連載を半分くらいは終えているのかもしれませんね。

 私は最初から『西郷どん』を読んでいるわけではありませんが、これまで読んだ率直な感想を書くと、このような女性目線での西郷隆盛像を描くのであれば、昔、作家の阿井景子さんが執筆された『西郷家の女たち』のように、西郷に関わった女性たちを堂々と主役に据えた方が良かったと思います。
 それこそ西郷周辺の女性たちを列伝風にして短編で書いた方がより効果的で、かつ面白くもあったような気がします。

 この展開で話が淡々と進むのであれば、この『西郷どん』を原作として大河ドラマを構成するのは少し難しいのではないかな……、という気がしてきました。
 確かに、平成2(1990)年の大河ドラマ『翔ぶが如く』も、司馬遼太郎氏の原作が明治期だけの話であるため、脚本家の小山内美江子さんは、他の司馬作品(『竜馬がゆく』、『酔って候』など)を参考にして脚本をお書きになられていましたが、どう考えても今回の原作『西郷どん』だけで脚本を書くのは、少し難しいような気がします。
 おそらく脚本家の中園ミホさんの創作が、かなり色濃く入らざるを得ないのではないでしょうか。
 以前温かく見守りましょうと言った矢先から少し懐疑的なことを書いてしまいましたが、非常にボリュームのある西郷の生涯を一年間のドラマにすることを考えれば、正直林さんの原作では短すぎるような気がします。(単発の二~三時間ドラマなら全然オッケーなのでしょうが)

 と言う訳で、『西郷どん』の感想を書いている内に全然違う方向に話がそれてしまいましたが、今年の書き込みはこれで終了したいと思います。
 今年もあと少しで終わりですね。
 このブログについては、なかなか訪問者(閲覧者)が増えず、かなり苦戦しておりますが、今年一年もご愛読頂きましてありがとうございました。
 これからも頑張って色々な話題を書いていきたいと考えておりますので、来年もどうぞよろしくお願いいたします。

 それでは、皆さま、良いお年を!

FC2blog テーマ:大河ドラマ - ジャンル:テレビ・ラジオ

【2016/12/30 12:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
トラックバック(0) |
 私自身の考えを書くと、奄美大島から帰還後、西郷が久光に対して反抗的な態度を取ったのは、久光に対する嫌悪感もさることながら、「久光内閣」、つまり小松帯刀や大久保一蔵、中山尚之助などの久光周辺のブレーンたちに対する不信感が大きな原因になっていると思います。

 前述しましたが、西郷の心中には「久光が由羅の方の子供である」という、元来生理的に受け付けられない嫌悪感があったとは思いますが、おそらく斉彬からも久光が一角の人物である旨聞いていたと思いますので、その久光が斉彬の遺志を受け継いだことを当初は大変喜ばしく感じていました。
 そのことから、西郷は久光のことを「周公旦」と褒め称えたり、斉彬の遺志を受け継いだことを「本朝の大幸」と喜んだわけですが、一転、西郷が畏敬の念をもって接していた家老の島津下総(佐衛門久徴)を始めとする、桂久武、蓑田伝兵衛といった「日置派」と呼ばれる面々を久光が更迭したことにより、西郷の感情は著しく悪化し、西郷は久光やそのブレーンたちに対して、大きな不信感を持つに到ったのだと考えています。

 日置派とは日置領主の日置島津家を中心にしたグループの総称で、西郷と日置派は非常に縁が深い間柄です。
 元々西郷家は、日置島津家出身の赤山靱負(あかやまゆきえ)の用頼(御用人のこと。世話係)を勤めていたのですが、その赤山が「お由羅騒動」に連座し、切腹することになると、西郷は父の吉兵衛から赤山が切腹の際に着用していた血染めの肌着を受け取り、終夜それを抱き、涙を流しながら赤山の志を継ぐことを決意したと伝えられています。西郷にとって、赤山という人物は特別な存在だったのです。

 赤山が亡き後も、西郷と日置島津家との関係は続き、西郷は赤山の実弟である桂久武と親しく付き合い、二人の仲は「刎頚の友」とも呼べる間柄でした。
 その桂が慶應年間に家老に就任すると、同じく家老であった小松帯刀と共に、西郷や大久保といった藩内の革新派の活動を全面的にバックアップしました。西郷や大久保が薩摩藩を背景にして縦横無尽に活躍できたのは、門閥出身家老の桂や小松の協力あってこその偉業だったと言えます。
 忘れてはならないのは、当時は純然たる封建制の世の中です。いかに西郷や大久保が優秀であったとしても、その力には限りがあり、桂や小松といった上級武士層の協力なしには、藩政を動かすことなど到底叶わなかったという点は、改めて再認識しておく必要があると思います。
 ちなみに、桂は西南戦争で西郷と共に鹿児島の城山で戦死しています。二人の仲は終生変わらなかったと言えましょう。

 話を戻しますが、前々藩主の斉興の死によって藩政に力を持つこととなった久光は、当初、日置派の長である島津下総を主席家老に据えました。これは久光やその子の藩主・忠義が、前藩主・斉彬の遺志を受け継ぐ覚悟を人事に反映した結果と言えますが、西郷はそのことを安政6(1859)年12月26日、奄美大島の代官であった吉田七郎宛ての書簡の中で、

「佐殿(下総のこと)御帰職の由申し来り、偏に祝い奉り候儀に御座候」

 と書き、島津下総の復職を我が事のように喜んでいます。
 この記述からも、西郷と日置派の深い関係が窺われます。

 しかしながら、久光は後にその島津下総を更迭するに到ります。日置派は久光の国政乗り出しに懐疑的な意見を持っていたためです。
 久光は島津下総を更迭、日置派の面々を閑職に異動し、自らの意のままに動く面々を藩政府の中心に据える藩政改革を行なったのですが、このことが、西郷が久光やそのブレーンたちに対して不信感を持つに到る大きな要因となったと考えられます。
 後年、西郷は当時の大久保ら久光のブレーンたちのことを

「少年国柄を弄し候姿にて、事々物物無暗な事のみ出候て、政府は勿論諸官府一同疑迷いたし、為す処を知らざる勢いに成り立ち」
(文久2(1862)年7月、木場伝内宛書簡)


 と、「若者たちが国の政治をもてあそんでいるような状態で、結果や是非を考えないようなことばかりをし、藩政府はもちろん役所全ては疑心暗鬼となり、為すべきところが分からないような状況になっている」と酷評しており、時の久光内閣を痛烈に批判しています。

 また、西郷は同書簡の中で、

「是非一致して御国勤王に相成り候様成されたく、頻に切論に及び候」

 と、「日置派とも一致団結し、国論を勤王化するべく、(小松や大久保、中山と)激しく議論に及んだ」とも書いており、奄美大島帰還後の西郷が日置派の復権に動いたことも窺えます。
 これらの西郷の書簡の記述は、西郷が日置派の更迭に大きな不満を抱いていたことへの傍証にもなりましょう。

 以上のように、日置派の更迭を引き金にして、西郷の心中で複雑に入り交じって生じた久光やそのブレーンたちに対する不信感が、前々回に書いた「地五郎(じごろ)発言」へと繋がっていくわけですが、これまでの経緯を考え、冷静に判断するならば、西郷の久光たちに対する嫌悪感とも言える悪感情は、言わば西郷の一方的なものであり、久光の立場からしてみれば、それは一種逆恨みと取られても仕方のないことだったと思います。

 前回書きましたが、久光にとっては、西郷に感謝されこそすれ、恨まれる理由は何一つありません。
 久光としては、先君・斉彬が寵愛し、国事に奔走した西郷を召還し、彼の力を得ることで、自らが計画した率兵上京計画を円滑に進めようと考えていたのです。そのためにわざわざ西郷を奄美大島から呼び寄せたにもかかわらず、西郷からいきなり噛みつかれるような反抗的な態度を示されたのですから、久光にとっては心外のことであり、大いに気分を害したことでしょう。
 西郷は、対人関係という観点から言えば、一種「潔癖症」とも言えるくらい、非常に神経質な人物です。また、西郷は性格的にも少し頑固な部分もあります。
 西郷の中にあった久光への生理的な嫌悪感が、日置派更迭をきっかけにして、不満が爆発し、久光やそのブレーンたちに対する悪感情に繋がったと考えるのが妥当だと思います。

 確かに、西郷がこの辺りの顛末を詳細に記した、文久2(1862)年7月の木場伝内宛ての書簡を読めば、西郷が鹿児島に帰還した当時の久光の率兵上京計画については、まだまだ不備が多く、不完全なものであり、計画が粗かった一面もあったと言えますが、奄美大島から帰還後の西郷の言動を考えると、西郷は率兵上京計画の内容に無理があると考え、それに反対したというよりも、感情的な部分(つまり久光内閣への不信感や悪感情)が先に立って、計画に反対したと解釈されても仕方のないことだという風に感じています。
 西郷とて一人の人間です。感情的なしこりが全く無かったという解釈は無理があると思いますし、鹿児島帰還後の西郷の言動は、少し感情的になっているように私には感じられます。

 少し西郷に批判的なことを書きましたが、私は西郷が好きだからこそ、西郷の褒め称えるべき部分は大いに称賛し、疑問がある部分は大いに批判するなどして、その両面をはっきりと書いていくことこそが、真の西郷評価に繋がるものと信じていますので、ご了承ください。

 私の感想を述べるならば、この時点での西郷は、人間的にも未完成、まだまだ若かったと思わざるを得ません。当時、西郷は三十代半ばですが、まだ一人の志士としての気概や気負いが抜けていない状況と言いますか、まだまだ荒々しい部分が残る人物だったと思います。
 ただ、それは西郷一人に限ったことではなく、人間としては当たり前のことです。人間は年を重ねる毎に成長してこそ人間なのであり、最初から完璧な人間など居るはずがないのですから。
 西郷のこのような態度は、奄美大島において三年にも渡る長期の潜居生活を経験したことが一つの要因になっているかと思いますが、彼が人間的にも深みを増し、研ぎ澄まされて円熟期に入り、一種達観した考えや極地に到達するのは、徳之島・沖永良部島への遠島を経て後のことだと思います。

 また、話が大きくそれましたが、以上のように、様々な要素が入り交じり、西郷は久光に対して反抗的な態度を取るに到り、また、その西郷の態度に対して、久光は大きな不満を持ちました。
 初対面からしこりの残る出会いをした結果、その後、二人の関係は益々悪化し、西郷の命令違反(下関で久光の行列の到着を待てという命令を違反したこと)に激怒した久光は、西郷を遠島処分にし、そして、二人の関係はお互いが死ぬ瞬間まで相容れぬものとなりました。
 贔屓目に見ても、その最初の原因を作ったのは、やはり西郷であったと思いますが、そんな西郷自身も、それから延々と久光との関係が悪くなるとは夢にも思っていなかったことでしょう。
 それを考えると、一つの運命であったとは言え、二人の出会いはとても不幸なものであったと思います。


(5)に続く

FC2blog テーマ:大河ドラマ - ジャンル:テレビ・ラジオ

【2016/12/28 12:30】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
トラックバック(0) |
 話はどんどん林真理子さんの原作『西郷どん』から大きくそれてしまいますが、これまで書いてきたとおり、西郷と久光は、険悪なムードの中、お互いに初めて顔を合わしたわけですが、西郷が抱いていた久光に対する嫌悪感は、西郷の一方的な思いであって、久光自身は西郷に対して何も悪いことはしていません。
 逆に、西郷は久光の許しを得て奄美大島から鹿児島本土に戻ってこられたわけですから、西郷にとって久光は、恨みの対象ではなく、恩人であるとも言えます。

 西郷が久光に対して嫌悪感を持つに到ったのは、ひとえに「お由羅騒動」と呼ばれる一連のお家騒動(島津家27代藩主・斉興の後継争いに起因したお家騒動。当時正室の子で世子であった斉彬を擁立する派と側室・由羅の方の子である久光を押す派が対立した)に起因すると思われますが、このお家騒動に関して言えば、当時藩主であった斉興と斉彬擁立派との対立であって、久光自身が自ら藩主になるために陰で何か動いていたと言うことはありません。この騒動に関してのみ言えば、久光は一種蚊帳の外に置かれていた状況で、傍観せざるを得ない立場でした。

 ただ、久光が藩内にこのような騒動が生じていることを全く知らなかったという伝承もありますが、さすがにそれはあり得ないでしょう。当時は切腹者や遠島者など多数の処罰者が出て、城下は少なからず騒然としていたでしょうから。
 しかしながら、久光がこの騒動の中心に居なかった(中心人物でなかった)ことは確かです。それを示すかのように、斉彬が藩主に就任してからも、斉彬と久光の仲は良好以上の関係でした。藩主の座を争った二人でしたが、それはあくまでも間接的なものであったため、お互いにわだかまりは全く無かったと言えます。おそらく西郷も、斉彬の口から久光が非常に頼もしき人物であるとの評価を耳にしていたのではないでしょうか。

 しかしながら、西郷自身の性格から考えると、やはり久光が斉興の側室・由羅の方の子供であったことが、大きなわだかまりとして残っており、そのことが、西郷が久光を生理的に受け付けられなかった大きな要因になっているような気がします。
 「お由羅騒動」は、若き日の西郷に多大な影響を与えました。西郷は同志への書簡の中で由羅の方を「奸女」とまで書いていますので(安政元(1854)年8月2日付け、福島矢三太宛書簡)、敵として考えていた由羅の方の子供である久光のことを生理的に受け付けられなかったのではないかと思います。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎し」の感覚ですね。

 ただ、その由羅の方の子供の久光が、西郷自らが神とも崇め奉った斉彬をまるで模倣するかのように、国事に参画しようとしたことが、西郷自身の感情を著しく悪化させたという論がありますが、この点は少し慎重に考える必要がありそうです。

 前々回に紹介しました、万延元(1860)年2月28日付けで、西郷が大久保正助他三名宛てに出した書簡、西郷が久光のことを「周公旦」になぞらえて褒め称えていることが書かれてある書簡ですが、この書簡の中で西郷は、

「主上確乎渉りなされ候との御事、何とも申し難く本朝の大幸と敬仰此の事に御座候」

 と、島津久光・忠義の父子が、斉彬の遺志を受け継いだことを「本朝の大幸」と手放しに喜んでいます。
 この書簡の記述から考えると、久光の国事乗り出し自体が、西郷の感情を悪化させたとは考えにくく、やはりその他の要因が複雑に交じり合った末、西郷が久光に悪感情を持つに到ったと解釈した方が良いと思います。

 以上のように、西郷と久光の関係を考えるにあたって、この辺りの状況判断は非常に難しいと言えます。
 つまり、西郷の書簡から見る久光像と西郷帰還後の久光への態度に大きな相違が生じているからです。


(4)に続く

FC2blog テーマ:大河ドラマ - ジャンル:テレビ・ラジオ

【2016/12/26 12:10】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
トラックバック(0) |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。