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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます     (大河ドラマ『西郷どん』の解説も是非お読みください)
前回の続きで、今回が完結編です。

前回は、島津豊後の達書から、安永3(1774)年に穆佐(むかさ。現在の宮崎市高岡町)の悟性寺から遺骨が発掘されたが、それを島津久豊の物と断定することが出来なかったため、遺骨を元通りに埋め戻して石碑を建てた事実があったこと。
さらに、その約70年後の天保12(1841)年に同じく悟性寺から義天(久豊のこと)の二文字が刻まれた石塔が発掘されたことを機に、「やはり悟性寺が久豊の墓所なのではないか?」との説が再燃したが、久豊が逝去した場所が鹿児島であったことなどから、薩摩藩は「久豊の墓所は鹿児島の福昌寺に相違ない」と、結論づけたことまでを書きました。
しかしながら、同達書を読み進めると、久豊の墓所を巡る真贋論争は、その後も薩摩藩内で決着をみなかったことが分かります。

まず、同達書には、「右甚太夫掘出候御石塔片付方之儀、去ル丑年所役々得差図候付」と、薩摩藩が「天保12(1841)年に相良甚太夫が掘り出した石塔を片付けるよう、去る丑年に諸役所へ指図した」との文言が出てきます。
この「去る丑年」とは、前後の記述から判断すると、天保12(1841)年の丑年を指しているのではなく、その12年後の嘉永6(1853)年の丑年、つまり島津豊後の達書が出される3年前を指しているものと思われます。

同達書によれば、その際、藩は糺方(いわゆる調査官)として、上村休兵衛榎本新兵衛の二人を悟性寺に派遣し、石塔を再調査させています。
その時の調査結果が同達書内に記されていますが、それは次のようなものです。

「古代之墳墓と相見得候得共、多年埋居、諸所蝕損、文字聢と分兼候儀共有之、今更決着難致(古代の墳墓であると見受けられるが、長年埋没していたことから、石塔は所々浸蝕され、破損しており、文字もはっきりと分からないため、今さら決着するのは難しい)」

つまり、二人は藩に対して、「再度調べてはみたが、久豊の墓所を示す石塔であるかどうかは分からない」と報告したわけです。

そしてまた、二人は安永3(1774)年に発掘された遺骨もその時併せて調べたようです。
それに関しても次のように同達書に書かれています。

「安永之度掘出候骸骨之儀も旧記等相糺候得共不相知、右枯骨は全体相備居、頭骨大振りニ相見得、土葬之取置ニ有之」

つまり、「安永期に発掘された遺骨についても、古文書などで調べてみたがよく分からない。また、その遺骨は全体的に揃っており、頭蓋骨も大きなまま残されているところを見ると、土葬されたものであると思われる」ということです。
この「遺骨が土葬されたもの」という事実が、実は久豊の遺骨の真偽を決定づける重要な証拠となりました。
同達書は次のように続きます。

御元祖様より
實陽院様迄
御代々火葬被為執行候御事候処、右通土葬之取置、付ては旁以
義天様御遺骸ニては有之間敷

つまり、

「元祖様(島津家初代・忠久のこと)から實陽院様(島津家第19代・光久)まで、死後は代々火葬にしているが、安永3(1774)年に悟性寺から発掘された遺骨は土葬のものである。よって、その遺骨は久豊公のものではないと思われる」

ということです。
久豊の遺骨かどうかを判断するために、歴代当主の遺体の埋葬方法から判断しているあたり、大変興味深い事実です。
このように、安永3(1774)年に発掘された遺骨については久豊の物ではない、ということが粗方分かりましたが、天保12(1841)年に発掘された石塔については、久豊の墓所を示すものかどうかは結局分からなかったのです。

また、同達書によると、「遺骨が埋葬されている場所(つまり悟性寺のこと)が日向伊東家ゆかりの由緒正しき寺院であり、遺骨については埋葬方法も念入りで、とても一般人のものとは考えられないこと」などから総合的に判断した結果、

「是以彼是今更御治定難被成趣共申出(これをもって、かれこれ今さら決定するのは難しいとの申し出)」

というのが、調査の結論でした。
つまり、完璧な確証が得られない以上、結論は出せないということです。

以上のように、嘉永6(1853)年になっても、久豊の墓所を巡る論争は、またも振り出しのような様相を呈したため、その3年後の安政3(1856)年、ようやく藩はある決断を下しました。
同達書には、次のようにあります。

「是迄数十年御糺方有之候上之事候間、最早此末御証拠等慥ニ可相顕訳迚も無覚束、無是非御次第(これまで数十年に渡って調べてはきたけれども、最早こうなっては確かな証拠が出てくることも覚束なく、もう是非も無い次第である)」

つまり、「これまで数十年に渡り続いている、久豊の墓所に関する真贋論争は、最早意味が無い」ものとしたわけです。

これまで島津豊後の達書を元に、久豊の墓を巡って生じた出来事を時系列に沿って書いてきました。
それは同達書の前半部分が、久豊の墓所論争の経緯に言及したものであったからですが、実はこの達書が出された目的、つまり本論はその後半部分にあります。
前述のとおり、薩摩藩は久豊の墓所が鹿児島の福昌寺なのか、それとも日向高岡の悟性寺なのかを数十年に渡って調べてきましたが、悟性寺論を完全に否定出来るだけの材料に乏しかったことから、なかなか結論を出すことが出来ませんでした。
そのため、薩摩藩はこのままズルズルと論争が長引くことを良しとせず、この事態を終息させるための四つの解決策を示すことにしました。
前述のとおり、同達書は安政3(1856)年1月21日付けで書かれたものですが、この日は久豊の命日です。
つまり、島津豊後の達書が出された真の目的とは、久豊の命日にあたり、その墓所論争を終息させるためであったのです。

それでは、同達書から、藩が示した四つの解決策をここで抜き出してみます。

まず、一つ目。

「前条掘出候石塔は、此節発遣之上文字摺消、後年紛敷無之様、寺内江堀埋候」

つまり、「天保12(1841)年に発掘された石塔は、後年紛らわしいことがないように、彫刻された義天の文字を削って消し、寺の敷地内に埋める」ということです。
もし、後年またその石塔が発掘された際、「久豊の墓所を示す石塔ではないか?」と勘違いされることがないように、誤解が生じる「義天」と刻まれた文字を削って、寺の敷地内に埋めることにしたのです。
また、藩は安永3(1774)年に遺骨が発見された際に建てた石碑に関しても、「故障之儀も有之候間、取除」と、合わせて取り除くことを決定しました。

そして、二つ目。

「悟性寺之儀は、為御菩堤所御再興」

つまり、「悟性寺は久豊の墓所ではなく、菩提所として再興する」ということです。
墓所と菩提所の違いが私にはよく分かりませんが、藩はそれを明確に違うものと位置づけたのでしょう。
「菩提を弔う=墓がある」とは限らない、という理屈からでしょうか。
つまり裏を返せば、「久豊の墓所は鹿児島の福昌寺である」ということを明確にしたということです。

そして、三つ目。

「此節別段御石塔一基御建立」

文字通り「この節、別に石塔を一基建立する」ということです。
安永3(1774)年に建てた石碑と天保12(1841)年に発掘された石塔を取り除くにあたり、藩は新しい石碑を建立することにしました。
現在、宮崎市高岡町に遺されている「島津久豊の墓」と呼ばれる石塔(画像)は、この新規に建てられた石塔を指すものと考えられます。

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島津久豊の墓(宮崎市高岡町)

また、同達書には、「穆佐中は勿論一統奉尊信、御祭式等是迄之通入念執行いたし候様被仰付候」とあり、藩は地元高岡郷の人々に対し、その石塔を敬い奉り、祭式などもこれまで通り入念に行うよう併せて命じることを決定しました。

そして、最後の四つ目です。

「枯骨之儀は前条通慥成証拠無之候付、右之処江瘞骨塔と銘文彫刻之石被建置候」

つまり、「安永3(1774)年に発掘された遺骨については、確かな証拠は無いので、瘞骨塔(えいこつとう)と銘文・彫刻した石塔を建立し、そこに納骨する」ということです。
現在、宮崎市高岡町に遺されている「瘞骨塔」(画像)は、安永3(1774)年に発掘された遺骨を納めるために、この時、新たに建てられた石塔であったということです。

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瘞骨塔(宮崎市高岡町)

ここで話をまとめると、島津久豊の命日にあたる安政3(1856)年1月21日、薩摩藩の城代家老・島津豊後は達書を出し、これまで数十年に渡り決着がつかなかった「久豊の墓所に関する真贋論争」を終息させようとしました。
薩摩藩は、高岡の悟性寺を久豊の墓所ではなく、菩提所として位置づけ、新たに石塔一基と瘞骨塔と銘打った石塔を建立することを決定しました。
現在、宮崎市高岡町に遺されている二つの石塔は、以上のような理由から建てられたものであったのです。
(1)で書きましたが、瘞骨塔の裏面には「安政四年丁己九月二十四日建之」との文字が刻まれています。
つまり、島津豊後の達書が出された約一年半後の安政4(1857)年9月24日に、二つの石塔は建立されたということです。
そして、瘞骨塔には、安永3(1774)年に発掘された遺骨を納骨しました。
また、その際に、島津豊後の名で灯籠が寄進されたことは言うまでもありません。

これまで全三回に渡って書いてきましたが、応永32(1425)年に亡くなった久豊の墓が430年以上も経った安政4(1857)年に宮崎市高岡町に創建されたのは、それまでに長く続いていた墓所の真贋論争を終息させる意味があったということです。
このような経緯や理由を知った上で、現在の「島津久豊の墓」を見ると、また少し違った感慨が沸いてくるような気がします。
是非、宮崎市に史跡巡りに行かれた際には、郊外の高岡町まで足を延ばし、島津久豊の墓を見て頂ければと思います。
私も今年の夏、宮崎に帰省した際には、再度久豊の墓を訪ね、もう一度じっくりと見学したいと、今ではそう思っています。

(終わり)

(追記)
1.島津久豊が亡くなった場所について
前述しましたが、現在、宮崎市高岡町の「島津久豊の墓所」に設置されている案内板には、「(久豊は)応永32年(1425年)、穆佐城に51歳で逝去しています」とあり、また、喜田貞吉『日向國史』上にも、「同三十二年正月二十一日、久豊穆佐城に卒す、年五十一」と同様の記述があります。
しかしながら、島津豊後の達書には、

「義天様御事、於鹿兒嶋御逝去」

との文言があり、久豊が亡くなった場所を鹿児島とし、そしてその理由から、久豊の墓所は鹿児島の福昌寺だと結論づけています。

また、先日、Twitter上において、『室町期島津氏領国の政治構造』(戒光祥出版、2015)の著書・新名一仁先生から、「應永記」にも久豊が鹿児島で亡くなったとの記述があることを教えて頂きました。
『鹿児島県史料 旧記雑録前編』二を調べると、確かに久豊は日向から鹿児島に帰城後、病が重くなって亡くなったようです。
以上のような点から、久豊は鹿児島で亡くなったと解釈する方が適切なのではないかと考えます。

2.鹿児島への合葬について
同じく、現在、宮崎市高岡町の久豊の墓所に設置されている案内板には、「遺骨は昭和になり島津氏によって発掘され、鹿児島に葬られています」とあります。
つまり、瘞骨塔に納められた遺骨は、鹿児島に葬られたということです。

ただ、ここでまたもや一つの疑問がわきます。
本文中にも書きましたが、瘞骨塔に納められた安永3(1774)年に発掘された遺骨は、基本的に久豊の物であるという証拠に乏しく、つまり「誰のものであるか分からない」というのが、藩が最終的に下した結論でした。
では、昭和に入り、島津家によって発掘されたその遺骨は、鹿児島のどこに埋葬されたのでしょうか?
福昌寺にある久豊の墓に合葬されたということでしょうか?
それとも、別の場所に埋葬されているのでしょうか?
もし、今回のような経緯を考慮せずに、久豊の墓に合葬したのであれば、現在、久豊の墓には、別人の遺骨が混ざっている可能性があるということです。
瘞骨塔に納められた遺骨は、最終的にどうなったのか?
この点について何かご存じの方は、向学のため、是非ご教示ください。


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【2019/06/16 15:45】 | 史跡巡り
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前回の続きです。

前回は、宮崎市高岡町島津家第8代当主・島津久豊の墓があり、その墓が安政4(1857)年に創建されたものであることまでを書きました。

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島津久豊の墓(宮崎市高岡町)

久豊は中世期(室町時代)の武将であり、薩摩・大隅・日向の三ヶ国の守護を務めた人物ですが、その久豊の墓が400年以上も経過した幕末期、しかも島津斉彬の治世に建てられたことに疑問を持った私は、大阪に帰ってから、その理由について、改めて調べてみました。

島津斉彬に関する史料については、斉彬の旧臣であり、後年島津家関係の史料編纂に力を尽くした市来四郎という人物が「斉彬公史料」としてまとめています。
後年、鹿児島県が『鹿児島県史料 斉彬公史料』として活字化し、全四巻にまとめてそれを刊行していますが、この『斉彬公史料』は斉彬研究、ひいては薩摩藩研究のための基礎史料というべきものです。
宮崎から大阪に帰った私は、本棚からその『斉彬公史料』を取り出し、幕末期に島津久豊の墓が創建された理由について書かれたものがないかを調べたところ、同史料の第三巻に、

「島津久豊墓所について家老達 安政三年正月二十一日」(文書番号五九五)

という文書が収載されていることに気付きました。(『鹿児島県史料 旧記雑録追録』八にも同様の文書が入っています)

同文書は、題目にあるとおり、安政3(1856)年1月21日付けで発信された、島津久豊の墓所に関する薩摩藩家老からの達書(書面による申し渡し)ですが、宛名は「御記録奉行江」とあり、発信者は「豊後」と書かれています。
つまり、豊後とは、前回紹介した薩摩藩家老の島津豊後久寳(久宝。ひさたか)のことです。
島津豊後は斉彬時代の城代家老であり、久豊の墓所に設置されている灯籠に、その名が刻まれていたことは前回書きました。

では、島津豊後は記録奉行に対し、島津久豊の墓について、当時どのようなことを申し渡したのでしょうか?
この達書には、宮崎の高岡に島津久豊の墓が創建された経緯やその理由等が事細かく記されており、興味深いものですので、今回はその島津豊後の達書を元にして、「島津久豊の墓がなぜ幕末に建てられたのか?」について紹介したいと思います。

まず、島津豊後の達書は、次のような文言から始まります。(同達書は全て『斉彬公史料』三から引用します)

御八代
久豊公御事、應永三十二年正月廿一日被遊御逝去、義天存忠大禪定門と奉号候処、御遺骸御葬埋之地不被遊御知、安永三年穆佐悟性寺境内
義天様御塚と申伝之場所より、骸骨相蔵居候大甕掘出、焼物之香炉一器・唐金之鈴一入付有之、至極疑敷、細密相糺候得共、証拠可相成廉無之、御遺骸と難見定候付、本之通致埋方、其節石碑被建置


文頭には前回紹介した内容、つまり島津久豊が島津家第8代の当主にあたり、応永32(1425)年1月21日に亡くなったこと、そして、久豊の法号が「義天存忠大禪定門」であったことが記されていますが、注目すべきは「御遺骸」から以降の部分です。
概略すると、次のようなことが書かれています。

「久豊公のご遺骸が埋葬された地は知られていなかったが、安永3(1774)年に穆佐(現在の高岡町)の悟性寺の境内にある、義天様(久豊のこと)の塚と伝わる場所から、遺骨の入った大甕や香炉、鈴が出土した。しかし、それは大変疑わしいものであり、精査して調べてみたが、証拠となるようなものは無く、久豊公の遺骨とは認められなかったため、遺骨は元通りに埋め戻し、その際に石碑を建立することにした」

つまり、安永3(1774)年に高岡の悟性寺から、久豊の遺骨らしき物が発見されたが、当時薩摩藩はその遺骨を久豊の物とは認めず、それを元に埋め戻した事実があったことが記されているのです。

また、これは後日のことですが、高岡町発行の『高岡町史』を調べたところ、この安永3(1774)年の遺骨発掘の件について、「國史 義天公 大岳公」という文書内に同様の記述があることを知りました。
そこで久豊時代のことが記されている『鹿児島県史料 旧記雑録前編』二を調べたところ、確かに次のような記述がありました。

「安永三年春正月、有堀地於悟性寺界内者、入七尺、得石槨、中有大甕、枯骨存焉、邑人皆意為義天公墓、(中略)、悉如邑人状、然無銘誌、名字世代不可得而知也、因命寺僧、仍其故處、営歛座埋、立石為表」(「國史 義天公 大岳公」文書番号1036)(附記・國史とは『島津國史』のことです)

概略すると、「安永3(1774)年正月に悟性寺の境内から大甕に入った枯渇した骨が見つかった。村人は皆「義天公(久豊)の墓」だとしたが、それは無銘で年代もよく分からないものであったため、寺僧に命じて埋め戻させ、そこに石碑を建てた」ということです。
つまり、島津豊後の達書内に出てくる安永3(1774)年の遺骨発掘の件については、ここに記された事実を元にして書かれたということです。

また、同文書には、「據島津系圖、義天公木主安置、一在鹿児島恵燈院、一在穆佐悟性寺」ともあり、「島津系図によると、久豊の木像が鹿児島の恵燈院(福昌寺の塔頭)と高岡の悟性寺にそれぞれ一体ずつある」ことが記されています。
これを見る限り、高岡の悟性寺が久豊ゆかりの寺院であったことは間違いはありません。

ちなみに、『高岡町史』は、以前私が宮崎に住んでいた頃、高岡町の「天ケ城歴史民俗資料館」で購入したものですが、買ったはいいものの、それ以来、ほとんど開く機会が無かったのですが、こういう時に役に立つのですから、市町村史や資料集の類いは、気になったら買うべきですね。いつどこで将来役に立つか分かりませんから。

閑話休題。
島津豊後の達書に戻ります。
達書はさらに次のように続きます。

其後天保十二年丑年相良甚太夫穆佐江被差越候節、悟性寺境内より義天之二字彫刻有之候石塔、并右之笠石掘出、旧文書等は勿論、古老之者共申伝等迄も巨細相糺、万端及勘考、義天様御廟所無相違旨吟味申出候

概略すると、

「その後、天保12(1841)年に相良甚太夫が穆佐に赴いた際、悟性寺の境内から「義天」の二字が刻まれた石塔と笠石が発掘された。古文書類はもちろん、古老の口伝なども詳しく調べあげ、勘考したところ、悟性寺は久豊公の廟所(墓所)に違いないと思われるので吟味して欲しいとの申し出があった」

ということですが、この辺り、なかなか面白いですね。
安永3(1774)年に遺骨の入った大甕が発掘された際には、それは久豊の物ではないと否定され、遺骨は元通り埋め戻されましたが、その約70年後の天保12(1841)年に、今度は「義天」という、久豊を指す文字が刻まれた石塔が発掘されたことを機に、「悟性寺が久豊の墓所なのではないか?」という説が再燃したというのです。

しかしながら、同達書によると、このような報告が現地からなされてもなお、薩摩藩内においては、「悟性寺が久豊の墓所であるという説」に関して懐疑的であったようです。
その根拠が同達書内に長々と記されていますが、概略すると、次の3つの理由からです。

1.久豊は鹿児島で亡くなっており、葬儀も島津家の菩提寺である鹿児島の福昌寺で行われている。また、久豊の四十九日から十三回忌法要まで、法事は全て福昌寺で執り行われ、その時の祭文も残っている。
2.「義天」の二文字を彫刻した石塔は他所にも見られる。
3.福昌寺に相廟されている(共に葬られている)先代(第7代当主)の元久(久豊の兄)の石塔に遺骨や遺髪が納められているかは定かで無いが、久豊の石塔には疑念は見当たらない。(注・福昌寺跡に建立されている久豊の墓は、元久の墓のすぐ横に建てられている)


このような理由から、この時は「御廟所は福昌寺ニ相違無之哉ニ相見得候段、御記録奉行申出、御決着調兼」との結論に達したと、同達書に記されています。
つまり、「墓所は鹿児島の福昌寺に相違ないと思われることを記録奉行に申し出て、調べに決着をつけた」という意味であり、「悟性寺が久豊の墓所なのではないか?」という説は再度否定され、この時、一応の決着が付けられたのです。

以上のように、島津豊後の達書を読むと、安永3(1774)年、天保12(1841)年の二度に渡り、薩摩藩内で「久豊の墓所を巡る真贋論争」が生じていたことが分かります。
久豊の墓所の場所に関して、それを示す証拠となる文書が藩内には一切残っていなかったため、藩内で真贋論争が生じたと言えますが、実はその後、話はまた二転三転することになるのです。

(3に続く)


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【2019/06/13 18:30】 | 史跡巡り
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国富町の本庄を後にして次に向かったのは、宮崎市高岡町小山田にある「島津久豊の墓」です。

島津久豊という名を聞いて、「関ヶ原の戦いで戦死した武将」と勘違いされる方がいるかもしれませんが、それは島津豊久の誤りです。(実は、久豊にも豊久という子供がいますが、それはまた別人です)
島津豊久は島津家第15代・島津貴久の四男・家久の子で、後に日向の佐土原城主となった人物ですが、関ヶ原の戦いにおいて、叔父の義弘を助けるべく奮戦し、そして戦死しました。その結果、佐土原は一時期幕府領となりますが、最終的には貴久の弟・忠将の子の以久(もちひさ)、つまり豊久から見ると父の従兄弟にあたる人物が受け継ぐことになります。
このように、島津豊久は戦国島津の一ページを彩る武将として有名ですが、他方の島津久豊はと言うと、中世期の武将です。
久豊は島津家第8代当主にあたり、薩摩・大隅・日向の守護を務め、当時奥州家(いわゆる島津宗家)と総州家に分かれて内紛状態にあった島津家中の争いに終止符を打った人物として知られています。

その久豊の墓が宮崎市郊外の高岡町にあるということを、恥ずかしながら、私は今年のゴールデンウィークに入るまで知りませんでした。
実は、その数日前に車で「高岡温泉やすらぎの郷」という温泉施設に行った際、偶然に「市指定史跡 島津久豊の墓」という看板(画像)を目にし、その存在を知ったのです。

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高岡温泉は妻の実家からも近く、宮崎に帰省した折にはよく行く温泉施設だったのですが、こんな近くに島津家関係の史跡があり、それを見逃していたとは……。
まさに「灯台下暗し」とは、こういうことを言うのですね。

その時は既に夕方を過ぎていましたので、久豊の墓には日を改めて訪ねようと考えたのですが、そこで素朴な疑問がわきました。

「島津家当主である久豊の墓が、なぜ日向のこんな片田舎にあるのか?」

私のかすかな記憶では、島津家の菩提寺である鹿児島の福昌寺跡にも久豊の墓があったように記憶していましたので、単純にそう感じたのです。

中世から近世の島津家に関して疎い私は、その日の夜、大阪から持参していた島津顕彰会『島津歴代略記』という小冊子の久豊の項をめくると、久豊が亡くなったのは、豊久の死からさかのぼること175年前の応永32(1425)年1月21日のことであり、鹿児島で歿したとありました。
また、同書によれば、久豊の墓は二つ存在し、

長谷場御墓(福昌寺跡。鹿児島市池之上町)
穆佐小山田御墓(悟性寺跡。宮崎県東諸県郡高岡町小山田)も長谷場御墓へ合葬


との記載がありました。
つまり、後者の「穆佐小山田御墓」というのが、私が看板を見つけた宮崎市高岡町の久豊の墓ということです。(ちなみに、穆佐とは「むかさ」と読みます)

同書には、高岡町の久豊の墓は「長谷場御墓へ合葬」とありますので、遺骨は鹿児島へ移されて、現在は空墓になるわけですが、久豊の墓が高岡町に建てられている由縁も同書を読んで何となく理解しました。
久豊は、当時日向を拠点にして勢力を伸ばしていた伊東氏の抑えのために、穆佐城に入り、伊東氏と交戦していたからです。
つまり、高岡町の穆佐は、久豊ゆかりの地でもあるわけです。

以上のような簡単な予備知識を入れ、私は日を改めて、義父を連れて高岡町の「島津久豊の墓」へと向かいました。
高岡町は現在宮崎市に編入されていますが、江戸藩政時代には薩摩藩領であったところです。
高岡町は日向と薩摩の国境に位置していたことから、そこに麓(武士の集落)が築かれ、「去川の関(さるかわのせき)」と呼ばれる関所を設けて、薩摩への出入国を厳しく取り締まっていました。
余談ですが、若き日の西郷隆盛が藩から僧・月照の国外退去を命じられ、それに絶望して入水自殺をはかったことは有名な話ですが、その際、藩当局は月照一行を去川の関から領外に出し、高岡方面に落ち延びさせることを意図していました。
高岡町は現在も周囲を山に囲まれた片田舎です。
おそらく藩当局は、山深い高岡の地であれば、月照を隠匿出来ると考えたのではないでしょうか。

ちなみに、薩摩藩ではいわゆる「東目送り」と呼ばれる、東目筋(高岡筋)の藩境で罪人を斬る処置があり、この時、西郷は藩から月照を斬れと命じられたという逸話がありますが、これは単なる俗説に過ぎないと私は考えています。
そのことについては、大河ドラマ『西郷どん』の解説ブログ内(下記)で詳しく書きましたので、是非そちらもご覧ください。

『西郷どん』感想&小解説(第17回) ―月照の薩摩入りと西郷の入水―

閑話休題。
前出の『島津歴代略記』にも記されていますが、島津久豊の墓は、高岡の悟性寺という寺院に建てられていたようです。
同書には「跡」とあるように、現在、悟性寺という寺は高岡には存在していません。詳しく調べたわけではありませんが、おそらく明治初年の廃仏毀釈によって、廃寺になったのではないでしょうか。
旧薩摩藩領においては、廃仏毀釈が徹底して行われました。
そのことは、島津家の菩提寺であった福昌寺が取り壊されたことをもってしても、その徹底ぶりがよく分かります。
おそらく悟性寺もまた、その煽りを受け、廃寺となったのでしょう。私が訪れた時は、寺の建物らしきものは一切なく、現在は共同墓地だけが残されている状態でした。

悟性寺跡へと続く長い階段を登り終えると、正面に久豊の墓が見えてきます。(画像)

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島津久豊の墓(宮崎市高岡町)

墓自体はとても小さなもので、「義天存忠大禪定門」という、久豊の戒名が刻まれていました。
そして、墓の両脇には、いわゆる「丸に十字」の島津家の家紋がついた灯籠があり、そこに刻まれた文字を見ると、「島津豊後久寳」とあり、私は驚きました。(画像)

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島津豊後久寳(久宝。ひさたか)とは、島津斉彬時代の城代家老であり、斉彬の死後は前々藩主の島津斉興によって、主席家老に据えられた重臣です。
島津豊後は、藩内でも保守派、いわゆるお家大事派と呼ばれる代表格の人物で、西郷や斉彬が登場する小説では、必ず悪役としてその名が出てきます。

中世期の武将である久豊の墓に設置された灯籠に、幕末の薩摩藩家老・島津豊後の名が刻まれていることは、私にとって、とても意外なことでした。
そこで墓の脇に設置されている案内板を見ると、「久豊の墓は安政4(1857)年に島津氏によって創建されたもので、その遺骨は昭和になり、島津氏によって発掘され、鹿児島に葬られた」との記述がありました。
つまり、久豊の墓は、幕末の頃、斉彬の治世に建てられたということです。
昭和に入り鹿児島に葬られたというのは、『島津歴代略記』内の「長谷場御墓へ合葬」を指しているものと考えられます。

また、案内板には、久豊の墓の背後、少し小高い丘の上に「瘞骨塔(えいこつとう)」と刻まれた石碑が建てられているとあったため、私はそこへ通じる長い階段を登り、見に行くことにしました。
案内板には「瘞骨塔」の説明が一切書かれていなかったため、どんな目的でこの石塔が建立されたのか、また久豊の墓との関連がイマイチよく分からなかったのですが、瘞骨塔を見てみると、碑の裏面に「安政四年丁己九月二十四日建之」とあり(画像)、瘞骨塔も幕末期に建てられたものであることが分かりました。

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瘞骨塔

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瘞骨塔の裏面

しかし、私は疑問に思いました。

「応永32(1425)年に亡くなった久豊の墓が、なぜ430年以上も経った安政4(1857)年に創建されることになったのか?」

また、しかもその墓は久豊が没した鹿児島ではなく、日向の高岡の地にわざわざ建てられたのはなぜか? ということも同時に気になりました。
案内板によると、久豊は穆佐城で亡くなったとあり、『島津歴代略記』の記述と内容が相違しています。
私はこれらの疑問について、現地ではその答えを導き出せなかったのですが、大阪に戻ってから、少し調べてみると、その謎がようやく解けたのです。

(2に続く)


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【2019/06/10 17:30】 | 史跡巡り
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宮崎は、私にとって第二の故郷とも言える街です。
私は大阪生まれの大阪育ち、厳密に言えば、出生地は母の故郷の香川県小豆島なのですが、当時、母は大阪に住んでおり、帰省しての出産でした。
そんな大阪で生まれ育った私が、大阪を出て初めて移り住んだところが宮崎県でした。
2005年4月から宮崎で過ごした3年間は、今でも忘れられない貴重な時間となり、今では宮崎に対してとても愛着を持っています。

宮崎は素晴らしいところです。
まず、食に関して言えば、肉・野菜どれをとっても新鮮なものが溢れており、そして美味しい。
また、物価や家賃も安く、経済的にとても暮らしやすい土地です。
レジャー関連でいえば、温泉が県内各所の至る所にあり、入浴料も低価格で湯質も良い。
自然は一杯で風光明媚、空気は澄んでおり、なおかつ一年中温暖な気候なので、毎日清々しい気分で過ごすことが出来ます。
そして何よりも強調したいのが、宮崎の人の良さです。
宮崎の人たちは温和で親切な方が多く、生活するにおいて、とても過ごしやすいです。
私が育った大阪では、仕事においても、対人間関係で苦労することがしばしばありましたが(苦笑)、宮崎に行って実感したことは、宮崎には温厚でかつ性根の優しい人が多いということでした。
かつて私が宮崎に住んでいた頃、人間関係で嫌なことは一度も無かったと言えるくらい、とても住みやすかったという記憶しかありません。
宮崎は本当に最高の場所なのです。

と、宮崎自慢はこれくらいにしておいて(笑)、こんな風に宮崎が第二の故郷と自負する私は、毎年、ゴールデンウィーク、お盆、正月の三回は宮崎市に帰省し、妻の実家で過ごすのですが、その間は宮崎を中心にして、鹿児島などの南九州の史跡巡りによく出かけます。
私のパートナーは、誰あろう元高校教師の義父なのですが、今回も義父を連れて、宮崎市周辺の史跡巡りへと出かけました。

今回最初に向かったのは、宮崎県東諸県郡国富町の義門寺です。
国富町は宮崎市の北西部に位置する町ですが、町の中心である本庄と言う場所は、かつて幕府の天領でした。
宮崎という土地は、江戸藩政時代、鹿児島や熊本のように大藩がなく、天領と小藩に分断されていたところでした。
その名残りからか、国富町では現在でも「天領大綱引き大会」なる行事が開かれていますが、かつての町の中心である本庄は、東諸県郡の物流や交通の要衝であり、江戸時代はかなり栄えた土地であったようです。
その本庄に義門寺という小さな寺院があるのですが、ここはかつて羽柴(豊臣)秀吉の「九州征伐」に際し、秀吉の弟・秀長が本陣を構えた場所でした。
本庄史談會編纂『本庄郷土史摘要』には、次のようにあります。

「天正十五年豊臣氏討薩に際し、豊後より島津の兵を追撃しつつ日向に侵入した羽柴秀長が、此地に來て軍を駐め、當寺を以て本営とした。其時一軍を誡めた厳とした軍令の一書が今に寺寶の一として残されてある」

秀吉の九州征伐、つまり島津氏討伐にあたり、秀長が兵を進めた場所が本庄であったというわけですが、この『本庄郷土史摘要』の記述にある秀長の軍令書については、宮崎県編『日向古文書集成』の中に、義門寺文書(豊臣秀長制札)として収載されています。
次のようなものです。

 義門寺前
一、當手軍勢亂妨狼藉之事
一、陣取放火之事
一、伐採竹木之事
右之條々堅停止畢、若違犯之輩有之者、可處嚴科者也、
 天正十五年五月三日 中納言(花押)


この文書を見ると、秀長は乱暴狼藉や放火、伐採を厳しく取り締まっていたことが分かります。
秀長は誉れ高き名将と謳われた人物ですが、この軍令書の中にも、そういった一面が表れていると言えるかもしれません。

国富町は今では大変のどかな田舎町に変貌しています。
宮崎県の県庁所在地である宮崎市と隣接してはいますが、町の大半は山野に覆われ、かつて羽柴軍が軍を進め、駐留した街だとは想像できないほど、のどかな田園風景が広がっています。
ただ、町の中心部である本庄地区は、往年賑わいを見せていたであろう面影が見てとれます。
前出の『本庄郷土史摘要』によれば、江戸時代の本庄には、和泉屋と枡屋という、他郷にまでその名が響き渡るような大きな商家があり、商人財閥を作って、京・大坂と直接取引を行うなど隆盛を極めたそうです。

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本庄驛を示す標柱

宮崎市から国富町へと続く、のどかな田舎道を運転すること約20分。
義父と私は目的地である義門寺へと到着しました
寺の駐車場に車を止めると、駐車場の壁面に、前述した秀長の軍令書を彫った石版が飾られていました(画像)。

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秀長の軍令書(石版)

また、義門寺の門前には、「史蹟 豊臣軍本営地址」という大きな石碑が建てられており、この地が秀長の本陣であったことが分かります。
『本庄郷土史摘要』によると、義門寺は貞和2(1346)年の創建で、日向を治めていた伊東氏ともゆかりの深い寺院であったようですが、慶長年間には島津義久の位牌が一時期祀られていたことがあったと舊記に記されている、ともあります。
私はその真偽について判断できませんが、「なぜ義久の位牌が遠く離れた日向にあったのか?」と考えると大変興味深い話ですね。
義門寺は、建物自体は既に建て替えられており、秀長が駐留した往時を偲べるものは少ないと言えますが、私のように遠く離れた京阪の地から、秀長がこの地を訪れたかと思うと感慨もひとしおでした。

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義門寺

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秀長の本陣であったことを示す石碑

義門寺を見終えて駐車場に戻った際、最初気づかなかったのですが、秀長の軍令書の石板の傍らに、種田山頭火の句碑が彫られている石板がありました。
そこに刻まれた文字を読むと、昭和5年10月18日、山頭火が国富町の本庄仲町に宿泊したということが記されていました。
大阪に帰ってから少し調べてみると、確かに山頭火は本庄に宿泊したようです。
山頭火が自らの放浪の様子を記録した日記「行乞記(ぎょうこつき)」によると、旧薩摩藩領の高岡町に宿泊した山頭火は、その後、東諸県郡綾町へと向かい、そして本庄に到着し、その日は「さぬきや」という、大正十五年にも宿泊したことのある宿屋に泊まったとあります。
その日、山頭火は、「カフェのようなところに入り、久しぶりにビールを味わった」とも記していますが、当時の本庄は、まだ江戸時代と同様に賑やかな街であったのでしょうね。


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【2019/06/06 18:30】 | 史跡巡り
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久しぶりのブログ更新です。
ようやくですが、年明けから続いてきた「西郷どんロス」も癒えてきました。
それにしても世の中から「西郷隆盛」というワードが一気に無くなりましたね。
町の書店に出かけても、あれだけ並んでいた西郷関連書籍がほぼ無くなり、もちろんその中には私の本も含まれており(苦笑)、アッという間に西郷ブームが過ぎ去ってしまいました。
良くも悪くも日本人にとって大河ドラマの影響は絶大であると感じた一年でした。

さて、昨年は濃密で忙しい毎日を過ごしていたせいか、今年に入って少し体調を崩したこともあり、悶々とした日々を過ごしていましたが、先月の11連休のゴールデンウィークは、とても充実した楽しい時間を過ごすことが出来ました。

(さんふらわあ)
GW初日、私は家族と共に、神戸六甲アイランドから出航しているフェリーの「さんふらわあ」に乗り、一路大分県へと向かいました。
さんふらわあに乗船すると、テンションが最高潮に上がります。
「さんふらわあの唄」と呼ばれる

「さんふらわあ~、さんふらわあ~、太陽に守られて行こう~♪」

という、さんふらわあのテーマソングが船内に流れてくると、旅の高揚感がさらに増します。(あの曲が入っているCDが欲しいのですが、現在、旧バージョンは絶版で手に入りません。。。)

フェリーさんふらわあ
https://www.ferry-sunflower.co.jp/

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太陽のマークがお馴染みの「さんふらわあ」号

私は船旅が大好きです。
フェリーに乗って旅行するのが趣味のようなもので、昔は一人でフェリーを使ってあちこちに旅行に出かけました。
もう30年ほど前になりますが、初めて鹿児島を訪れた際もフェリーを利用しました。
その時に乗ったのも「さんふらわあ」でしたので思い出に色濃く残っています。
大阪から約20時間揺られて鹿児島に着いた後、当時は7月の暑い盛りでしたので、桜島の多量の灰が降り注ぐ中、何キロも歩いて史跡巡りをしたせいか、初日は精根尽き果てて、一泊3,900円の安ホテルのベッドに倒れ込み、夕飯を食べずに眠った記憶があります。

私のような中年男性はご存知かもしれませんが、昔は俗に「シップ(ship)・シップ(ship)」と呼ばれる、フェリーを乗り継いで沖縄などの南島諸島に行く、時間はかかるが格安で行ける旅行パックがありました。
初めての鹿児島旅行の際、私が乗船したさんふらわあは、大阪の南港を出航し、鹿児島の志布志港に寄港して、その後、鹿児島市の南部に位置する谷山港に到着するものでしたが、乗客の若者たちのほとんどが、さらにそこから沖縄に行くためにフェリーを乗り継ごうとしていました。
船旅は到着までにとても時間がかかりますが、乗船中はゆったり・のんびりと過ごせるし、そして何よりも目的地に着くまでに高揚感を徐々に高めていってくれるのが最高ですね。

こんな風に、私は船旅大好き人間なのですが、最近はフェリーを使って毎年夏に大分県に旅行しています。
その際に利用するのが「さんふらわあ」なのですが、「さんふらわあ」は関西から九州へ三航路も出ています。
大分県別府港行き、大分県西大分港行き、そして鹿児島県志布志港行きの計三便です。
特に大分県に向かう二航路は、別府市と大分市という、すぐ目と鼻の先にある地域に着岸するため、「何でこんな近くに二つもフェリーが出ているのか?」と疑問に思いますが、その昔、昭和30年から40年代にかけて、別府は関西からの湯治客や新婚旅行客、そして修学旅行の学生たちで大いに賑わいました。

現在、関西から九州へ向けてフェリーを運航している「フェリーさんふらわあ」という船会社は、元々「関西汽船」と「ダイヤモンドフェリー」という、二つの船会社を合併・統合して出来た会社なのですが、関西汽船はその昔「大阪商船」と呼ばれていた時代から、大阪発着の別府航路に力を入れていました。
私が子供の頃は、確か大阪の弁天埠頭から昼・夜の一日二便も別府行きが出ていたように思います。
また、一方のダイヤモンドフェリーもまた、関西から別府へと出かける旅行客を狙い、大阪からではなく、神戸発着で大分行きのフェリーを運航していたことから、関西から大分県を結ぶ航路は昔から複数存在していました。
つまり、関西からの別府航路は観光客の需要が見込まれる、当時のドル箱航路であったのです。

このような理由から、別府への旅行客は減少したとは言え、今もなお関西から大分県に向かう航路は二つ残されているわけですが、関西人にとって別府というところは一種憧れの土地でもあったのでしょうね。
別府も今は少し寂れてしまいましたが、別府の街並みを歩いていると、昭和年代に賑わったであろう古い商店やホテルが今でも目につき、一種タイムスリップしたかのような感覚に陥り、ノスタルジックな気持ちにさせてくれます。
別府が関西人憧れの一大観光地になったのは、以前このブログでも書きましたが(下記)、別府観光の父と呼ばれる油屋熊八のお陰であるのですが、それはさて置き、私たち家族が毎年大分県に出かけるのは、有名な別府の温泉もさることながら、もう一つ目的があります。

2016年7月、別府旅行記(2)-油屋熊八、再び-
http://keitenaijin924.blog.fc2.com/blog-entry-59.html


(ハーモニーランド)
大分市の北部に位置する大分県速見郡日出町に、「ハーモニーランド」というテーマパークがあります。

ハーモニーランド
http://www.harmonyland.jp/welcome.html


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ハーモニーランド

ここはキティちゃんをはじめとするサンリオキャラクターのテーマパークなのですが、私たち家族(特に私と娘)はここが大好きで、毎年遊びに行っています。
初めてハーモニーランドに行ったのは、今から6年くらい前のこと。
最初は関西からフェリーに乗って行ける場所で、そして娘が楽しめる旅行先はないかと思案したところ、大分県にハーモニーランドがあることを知り、行くことを思い立ったのですが、結果、今では娘よりも親の私の方が年甲斐もなく楽しんでいます(笑)。

親の立場からハーモニーランドの素晴らしさを表現するならば、まず最初に浮かぶのが「空いている」ということ(笑)。
ハーモニーランドは、東京のディズニーランドや大阪のUSJのように、アトラクションや乗り物に乗るために何時間も待たなければならないとか、そんなことは一切ありません。
土日祝の休日であったとしても、待ってもせいぜい10~15分程度で、平日は客も少ないため、待ち時間はほぼゼロに等しいです。
折角遠方から遊びに来たのに、行列に並んでいる時間だけで一日の大半が過ぎる……、のはもったいないですよね。
ハーモニーランドでは、そんなことは一切ないため、親もストレスがかかりませんし、また、子供も思う存分遊べて楽しめると思います。

次に、ハーモニーランドで開催されているショー(パレード)が見応えたっぷりで楽しい!
現在上演されているのは「パレードパラレル」と名付けられたショーですが、出演しているダンサーの踊りもキレッキレッで、これぞプロという踊りが見られますし、キティちゃんをはじめとするキャラクターたちが大勢出てきますので、小さいお子さんは喜ぶこと間違いなしです。
また、ショーは屋根つきの円形劇場で行われるので、夏の炎天下でも日陰で涼しく観覧することが出来ます。
パレードを最前列で見るためには場所取りをしなくてはなりませんが(平日であれば、場所取りする必要もありません)、臨場感溢れるライブショーは見ものです!

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「パレードパラレル」のようす1

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「パレードパラレル」のようす2

最後に、やはり自然ですね。
ハーモニーランド自体が、大分県の片田舎、日出町の山中にあり、自然一杯の中に建てられていますから、空気はとても澄んでおり、一日過ごしてもとても心地良く、気分爽快です。都会の喧騒を忘れて、のんびりした時間が過ごせます。

と、さんふらわあを利用したハーモニーランドへの旅は、我が家の夏の恒例行事となっているのですが、今年は11連休ということもあってGWに出かけました。
さすがはGWです。
今まで見たことがないくらい開園前から人が並んでおり、ものすごい人出でビックリしました。
しかし、それでもディズニーランドやUSJと比べると、全然大したことはありません。
一部のアトラクションには行列が出来ていましたが、少し混雑している程度でパレードパラレルも最前列で見て楽しみました。
ハーモニーランドはいつ行っても最高です。
平日はお客が少なく、所謂「ガラガラ」のようですが、閉園せずに末永く開園してくれることを心から願っています。
そのためにも、微力ながら、毎年行って、お金を落とさないとダメですね(笑)。


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【2019/05/31 18:30】 | 旅行
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少し遅れましたが、明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

大河ドラマ『西郷どん』の放送が終了し、世の中には「西郷どんロス」なんていう言葉も聞かれますが、私がまさしくその西郷どんロスの真っ只中でして、昨年は『西郷どん』の感想&小解説ブログの執筆で忙しく過ごしていましたが、現在それも無くなり、少し手持ち無沙汰の毎日を過ごしています。
今になって、『西郷どん』の影響は大きかったと身に染みて感じています。

さて、皆さまは、お正月はどのように過ごされましたか?
私はいつものとおり宮崎で年を越しました。
宮崎はさすが南国です。車を運転していると、強い日差しで室内温度が上昇し、クーラーを入れたくなったほど暖かい日がありました。

正月の三が日は食っちゃ寝のグータラな生活を過ごしましたが、年が明けた1月4日、宮崎県都城市の都城島津邸に足を運び、昨年発見された新出の西郷隆盛の漢詩を見てきました。
私自身、西郷の漢詩はこれまで数えきれないほど見てきましたが、今回、都城島津邸内の都城島津伝承館で公開されていたものは圧巻でした。(画像参照)

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まず、西郷の漢詩は掛け軸に表装されたものがほとんどですので、このように巻紙に書かれたものは、大変珍しいものだと言えます。
この漢詩は、都城島津家家臣で西郷とも交流があったとされる木幡栄周が所有し、それが現代に伝わったものだそうですが、最後の署名部分を見ると「南洲書」とありますので、ここに書かれている漢詩は、西郷が独自に作詩したオリジナルの漢詩ではなく、他者の言葉を引用して書かれたものであることが分かります。

西郷隆盛という人物は、漢詩等を書く際、「南洲書」「南洲」という署名を書き分けています。
西郷が他者の言葉等を利用して書いたものには「南洲書」と、一方西郷自らが作詩したものについては「南洲」と署名してあり、最後に「書」と書かれてあるか否かによって、その言葉が西郷の造語であるかどうかが見極められるということです。

例えば、西郷が好んで揮ごうした言葉に「敬天愛人」というものがありますが、そこには必ず「南洲書」との署名があります。
つまり、これは前述したとおり、「敬天愛人」という言葉が、西郷独自のものではなく、他者の言葉からの引用であることを意味しているのです。

「敬天愛人」は、今では西郷と一体化していると言えるほど大変有名な言葉となっていますが、実は元をただせば西郷オリジナルの造語ではありません。
イギリス人の作家で医師でもあったサミュエル・スマイルズという人物が執筆した『自助論』という書物を元幕臣で思想家の中村正直(敬宇)が『西国立志編』として、明治4(1871)年に翻訳・刊行していますが、その中に「敬天愛人」という言葉が書かれています。
中村は明治元(1868)年にも「敬天愛人説」という論考を執筆していますが、西郷はこれら中村が使った「敬天愛人」という言葉に感化され、それを好んで揮ごうするようになったと言われています。西郷自らが悟った天命への思想と中村の「敬天愛人」の言葉が符合したためと言えるでしょう。

以上のように、西郷が書いた「南洲書」という署名は、「私(南洲)が書写した」という意味で使われていると言えますが、その例にもれず、昨年都城で発見された前出の新出漢詩も、陳龍川の「酌古論」から引用された言葉が記されています。
西郷は陳龍川の書を好んで読んでおり、その影響は、西郷の死後に旧庄内藩士たちが編纂・刊行した『南洲翁遺訓』内にも色濃く表れているのです。

この漢詩の前半部分には、

「平居暇日規模術略定於胸中者久矣、一旦遇事而發之、如坐千仭而転圓石、其勇決之勢、殆有不可禦者、故其用力易、而其収功也大、非徑行無謀、僥倖以求勝也」(都城島津伝承館の展示パネルから引用)

との言葉が書かれていますが、この部分を少し私流に意訳すると、

「常日頃から、心中に物事の本質を捉え、志を定めている者は、一旦事にあたって行動する際、高い山から丸い石を転がすかの如く、その勇断には勢いがつき、もはやそれを防ぐ手立てはない。そうなれば、力を用いることはた易いこととなり、その結果、大きな功を収めることにも繋がる。また、自らの信念に基づいた行動が無謀なものでなければ、幸運にも勝ちを求めることができるであろう」

という感じでしょうか。
つまり、西郷は木幡栄周に対し、武士としての日頃の心構えを説いているということです。

「平素から準備を怠らず、志を深めていれば、いざという時に大きな力となり、事は必ず成功する」

ということですね。
まさに西郷らしい言葉であると言えるのではないでしょうか。


本ブログ執筆者の著書

『維新を創った男 西郷隆盛の実像』(扶桑社、2017年)定価1,728円

は絶賛発売中です。
西郷隆盛の生涯をより詳しく書いていますので、西郷に興味を持たれた皆様、是非一冊ご購読頂ければ嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。


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【2019/01/17 19:00】 | 西郷隆盛
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鹿児島県では、明治維新150周年を契機に、県内外の若手研究者に対し、研究経費を助成することで、明治維新期の薩摩藩(鹿児島)に関する研究の深化を図る事業を行っていますが、その研究成果発表会が下記のとおり開催されます。

開催日時:平成31年2月2日(土)13時~17時 [開場]12時30分
会場:かごしま県民交流センター 県民ホール
入場料等:入場無料、先着590名

詳しくは下記URLをご参照ください。
https://www.pref.kagoshima.jp/af23/h30wakatehappyou.html

若手研究者育成事業研究成果発表会チラシ_1

若手研究者育成事業研究成果発表会チラシ_2


【2019/01/13 18:00】 | イベント案内
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宮崎市の安井息軒記念館において、下記日程で企画展「自由民権運動と息軒の弟子たち」が開催されます。

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会期:平成31年1月19日(土)~3月10日(日) 9時~16時半
会場:宮崎市安井息軒記念館
※入館無料
※休館日:毎週月曜日(祝日の場合は開館)、祝日の翌日(土日を除く)

詳しくは下記URLをご参照ください。
http://yasuisokken.qcweb.jp/


【2019/01/11 18:00】 | イベント案内
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いよいよ『西郷どん』も今回が最終回となりました。
この一年間、日本国中が西郷隆盛に注目し、毎週その姿がテレビに映るという、私のような西郷ファンにとっては夢のような時間が続いていましたが、それも今回で最後だと思うと、何だかとても寂しいですね。

思い返せば、西郷隆盛が再び大河ドラマの主役になると聞いた時、私は無上の喜びを感じるとともに、一抹の不安がよぎりました。西郷に関しては、以前『翔ぶが如く』という大河ドラマが制作・放映され、好評を博していましたので、果たしてそれを超えられるものを作ることが出来るのか? という不安を感じたのです。
あくまでも個人的な感想ですが、『翔ぶが如く』と『西郷どん』は、同じ西郷隆盛が主人公の歴史ドラマではありながらも、似て非なるものであったというのが、全47回を見終えた私の正直な感想です。
これはどちらが良い・悪いということではなく、コンセプトが全く異なっていたと言うことです。
『翔ぶが如く』は、西郷と大久保の友情を中心に、いかに二人が力を合わせて幕末・明治という動乱の時代を動かしたのかを描いていましたが、それに対して『西郷どん』は、西郷の持つ人間愛にスポットを当て、周辺の人々がその魅力に感化されていくことにより、幕末・明治という動乱の時代が動いた、というような描き方であったように思います。

このようにコンセプトが異なる以上、両者を比較するのは無意味なことだと思いますが、最後に一つだけ『西郷どん』に苦言を呈するならば、『翔ぶが如く』の放映から30年近く経ち、幕末・維新史の研究は、飛躍的な進歩をとげていたにもかかわらず、『西郷どん』で描かれた西郷像が旧態依然のままであったことです。
私としては、「新たな西郷像」を世に示して欲しいと願っていただけに、そこは正直期待外れでした。
ただ、西郷隆盛役の鈴木亮平さんは、何も文句のつけようがない、最高の演技を見せてくれました。今、鈴木さん以外に、西郷を演じられる役者は他に居なかったと思えるほどの熱演だったと思います。
私もドラマ放映中は、このブログを始め、ツイッターなどでも色々と細かい苦言を呈しましたが、主役の鈴木亮平さんを始め、『西郷どん』の制作に関わった全ての方々に対し、心から感謝の意を表し、「一年間、本当にお疲れさまでした」との言葉をかけたい気持ちで、今は一杯です。

(延岡から鹿児島へ)
前回のブログでも書きましたが、薩軍は延岡北方の「和田越の戦い」で敗北を喫したことにより、長井村(現在の延岡市北川町)において正式に軍を解散し、政府軍の囲みを破って、一路鹿児島へと向かうことを決断しました。

前々回から紹介している野村忍介の証言によれば、当初薩軍は野村の「豊後ニ打出ルヲ利アリトシ、鹿児島ハ所謂散地ニテ守ル可カラス」(「西南之役懲役人質問第二」『鹿児島県史料 西南戦争』一)との意見を採用し、豊後方面に北上する策を取ろうとしたようですが、桐野利秋が先行してみたところ、その道のりが非常に険しかったことから引き返すことになり、その結果、鹿児島に戻ることを決断したとあります。

ちなみに、野村は薩軍の中でも軍事的才能を持った有能な人物です。
野村のことについては、下記、西郷隆盛のホームページ「敬天愛人」内で紹介していますので、ご興味のある方は併せてご覧ください。

西南戦争の十一人「天性の軍略家・野村忍介」

閑話休題。
野村は当時の薩軍の置かれた状況を

「長井村二里四方位ノ内ニ集ル官軍、四面ヲ囲ム幾許ナルヲ知ラス、夜山々ヲ望メハ篝火ヲ見サル所ナシ」(「西南之役懲役人質問第二」)

と証言しており、四方を政府軍に取り囲まれる状況の中、薩軍は脱出を試みようとしたわけですが、その道中は過酷を極めました。
政府軍の包囲網を突破するためには、「可愛岳(えのだけ)」と呼ばれる峻険な山を越えなければならず、政府軍の目を盗みながらの逃避行は、想像を絶する厳しいものであったからです。
野村ら薩軍生き残りの者たちは、この可愛岳突破について、

「非常ノ険難ナリ、自分等生レテ始メテ如此険阻ヲ踰ヘタリ」

と証言しています(「西南之役懲役人質問第四」)。

薩摩武士の精神や肉体の強靭さを示す言葉に、「山坂達者(やまさかたっしゃ)」というものがあります。
これは薩摩藩独自の青少年教育である「郷中教育(ごじゅうきょういく)」において、山野を駆けめぐり、精神や身体鍛錬を怠らなかったことからくる言葉ですが、幼少期からそんな教育を受けた彼らですら、「生まれて初めての険阻」であったと評するほど、可愛岳突破は過酷なものであったのです。
西郷と愛加那の息子の菊次郎が政府軍に投降せざるを得なくなったのは、前回のブログで書いたとおり、右足に重傷を負った菊次郎には、峻険な可愛岳を越えられないと西郷が判断したからでもあります。

また、この可愛岳脱出の際、政府軍に知られぬよう、声を潜めて這いずりながら逃げる姿を、西郷が周りに居た将兵たちに向かって、

「まるで夜這いのようだな」

と言って笑わせたという有名なエピソードがあります(田中萬逸『大西郷終焉悲史』ほか)。
この逸話について、薩軍の可愛岳突破の現地を訪ね歩き、丹念にその事蹟を調べ上げた延岡の郷土史家・香春建一氏は、その著書『西郷臨末記』の中で、

「この話は当時薩軍の司令たりし河野主一郎翁が七十三才の高齢で、鹿児島から可愛嶽方面の戦蹟踏査のため来延せられた去る大正八年の夏、翁に随従来延せられた、鹿児島県姶良郡帖佐村、稲荷神社神職肥後藤太郎氏より、同行を案内せし延岡市松山町の黒木熊次郎氏を通じて伝聞せるものである」

と書いています。

河野主一郎は、薩軍幹部の一人であり、城山が陥落する直前、西郷の助命嘆願のために政府軍に使者として派遣された人物です。
しかしながら、河野はそのまま政府軍の捕虜となり、西南戦争終結後、懲役十年の刑を宣告され、福島監獄で服役することになりましたが、明治14(1881)年、特赦によってその罪を許されると、すぐに鹿児島へと戻り、戦後の鹿児島の復興に力を注ぎました。
明治15年、河野は「三州社(さんしゅうしゃ)」という教育団体を設立して、鹿児島の若者たちの教育活動に力を注いだほか、九州各地に散らばって埋葬されていた西南戦争の戦死者の遺骨を丹念に収拾し、それを鹿児島に持ち帰って改葬する活動も行いました。
現在の鹿児島には「南洲神社(なんしゅうじんじゃ)」という、西郷隆盛を祀った神社がありますが、その隣接する土地に「南洲墓地」と呼ばれる、西郷以下西南戦争で亡くなった人たちの大きな墓地があります。ここは元々廃仏毀釈で廃寺となっていた浄光明寺という寺の墓地であったのですが、河野ら三州社の関係者がそれを改装し、九州各地で収拾した西南戦争の戦死者の遺骨を改葬した墓地なのです。
現在、我々のような後世に生きる人々が、南洲墓地で多くの戦死者の霊に手を合わすことが出来るのも、ひとえに河野を中心とした三州社の人々のお蔭だと言っても過言ではありません。
話が大幅にそれてしまいましたが、その河野が後年可愛岳を訪ねたことで、前述した夜這いの逸話が延岡に伝わったのです。

また、鹿児島への道中、薩軍は糧食も欠乏し、飢えとも戦いました。
野村らの証言によると、「山中ノ食ハ如何」と問われて、

「尤モ困メリ、可愛岳ニ打出、其翌十八日ハ終日一食ナシ、水ヲ飲テ行ク、十九日祝子川ニテ牛ヲ屠リ之ヲ食フ、米少許ヲ得水ノ如キ粥ヲ喰ヒタリ」(「西南之役懲役人質問第四」)

と答えています。
さらに続けて野村らは、「如此時、隆盛ハ食ヲ喰タリヤ」と聞かれて、「然ラス、総テ兵卒ト異ナラス」とも答えています。
西郷も兵士たちと共に飢えを耐え忍んでいたと言えましょう。

ちなみに余談ですが、「祝子川」とは「ほうりがわ」と読み、その語源は神話の「火遠理命(ほおりのみこと)」から来ているようですが、この地を治めたことがある戦国大名の大友宗麟が「holy(聖なる)川」と呼んだという話を地元の方から聞いたことがあります。
延岡の地は、キリシタン大名でもあった宗麟が「無鹿(むしか)」と名付けたキリシタンの理想郷を作ろうとした地でもあることから(作家の遠藤周作氏が同名の小説を書いています)、そんな伝説が生まれたのかもしれません。

さて、野村らの証言によると、明治10(1877)年8月17日の夕方に長井村を出て可愛岳へと入った薩軍は、険しい山々を抜けて、まずは三田井(現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町)へと出て、そこから一気に南下し、七ツ山(諸塚)、鬼神野(南郷)、須木(小林)、馬関田(えびの)を通って鹿児島へと向かいました。
薩軍が鹿児島にたどり着いたのは、同年9月1日のことで、合計15日間、約400キロにも及ぶ道のりを走破し、故郷・鹿児島へと戻ったのです。

野村の証言によれば、元々薩軍は西南戦争の終焉地である「城山」に立て籠もろうと考えていたわけではなく、城下北方の吉田が政府軍の手に落ちたことを聞いたため、急きょ鹿児島城下の城山に向かうことを決断したようです。
城山は島津家の居城・鶴丸城の背後にそびえる標高107mの山城で、薩摩藩士たちにとっては最後の砦というべき存在でした。
薩軍は城山を拠点にして、各所に兵を徴募しようと試みていますが、いずれも失敗に終わっています。
『鹿児島県史』三によると、

「薩摩諸郷の士族の之に應じて蹶起し、巡査を襲ひ、城山に入らんとする者数百名に上ったが、巳に官軍の包囲完成して入るを得ず、多く捕縛鎮壓された」

とあり、また、野村は、「県士ノ応スル者モ官兵ニ支ヘラレ、来ル者纔ニ四五人アリタリ」と証言しています。
このように、薩軍は鹿児島に入っても、ほんの僅かな兵しか集められず、四百名にも満たない少人数で城山に立て籠もらざるを得なくなったのです。

(西郷隆盛の死)
先日、NHKのBS番組で「西郷を介錯したのは桐野であった」という説が紹介されていましたが、あのような説は今に始まったことではなく、昔からよく出ていたもので、以前には桐野が西郷を背後から狙撃したなどという説もあったかと記憶しています。

西郷を介錯した人物については、野村と共に長倉訒(「飫肥西郷」とも呼ばれ、西南戦争にも従軍し、のちに自刃した小倉処平の兄)が、戦後次のような質問を受けています(「西南之役懲役人質問第二」)。

問「西郷ノ弾丸ニ中ルヤ、別府晋介傍ニ在リテ其頸ヲ刎ネ、之ヲ土中ニ埋メ、直チニ屠腹スト云フ、如何」

答「野村、予其側ニ居ラス、長倉曰、西郷兼テ別府晋介ニ、戦敗ルヽ時ニ至ラハ、汝速ニ我首ヲ刎ネヨト命シタル由、此事晋介ハ人ニ語ラスト雖、其兄別府九郎予ニ語レリ、弟晋介ハ非常ノ一大難事ヲ託セラレ、甚タ苦労シテ居レリト」

この問答によると、野村は西郷の側に居なかったため詳しく知らなかったようですが、長倉の証言を見る限り、西郷がその生前、介錯人に別府晋介を指名していたことが分かり、別府が西郷よりも先に死亡していない限り、西郷を介錯したのは、通説のとおり別府であったと考えて、ほぼ間違いないと言えるのではないでしょうか。

西郷の死の状況については、多くの書籍で描かれていますので、今さらここで取り上げる必要もないかと思いますが、ただ、一点だけ私の感想を述べるのであれば、西郷はあくまで「戦死」にこだわり、明治10(1877)年9月24日の早朝、生き残った将兵たちとともに、城山を下っていったのではないかと感じています。

これまで本ブログでも何度も強調し、しつこいくらいに書いてきましたが、西郷の行動原理には「自死」という二文字はなく、西郷は決して自殺を選択するような人物ではありません。自殺という行為は、西郷の行動哲学である「敬天愛人」に反するものだからです。そのため、西郷は最後まで戦死することにこだわりを持っていたと言えます。
そのことは、戦後野村が取り調べの席上において、「西郷ハ屢々戦死シテ此局ヲ了ルト云ヒタルヤ」と問われて、「然リ」と答えていることでも分かります(「西南之役懲役人質問第二」)。
西郷は自らの死は「戦死」であるべきだと常々考えていたのです。
ただ、最後、別府晋介に首を打たせたではないか、と指摘される方も居られるかと思いますが、あれは西郷が体に銃弾を受け、もう動けなくなった末でのことであって、西郷自身は戦死に等しいものだと捉えていたはずです。
西郷は自ら動けなくなって初めて、天が自分に死を与えたと悟り、

「晋どん、もうここいらで良か」

と言って、別府に首を打たせたのです。

DSCF0914.jpg
南洲翁終焉之地(鹿児島市)

今回の『西郷どん』のラストでは、別府に首を打たせるシーンはありませんでしたが、一種西郷の本望を代弁したシーンであったような気がします。
最後、西郷はあのような形で戦死したかったのではないでしょうか。

拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』においても書きましたが、後世の歴史家の中には、「西郷は無謀な戦争を早期に終結させず、多くの有為な人材を死なせた」と非難する人がいますが、西郷とて、激しい戦いが繰り広げられる中、数多くの若者たちが死んでいく状況を目の当たりにし、何も感じていなかったわけでは決してないでしょう。
西郷が戦死にこだわり、自らの体を銃弾が貫くその瞬間まで、決して戦うことを止めようとしなかったのは、それが西郷なりの責任の取り方であったからだと私は考えます。
一度意を決して政府を改革するために立ち上がった以上、その実現のために最後まで戦い抜くことは、西郷にとって大変意味のあることであり、また、それは明治維新を迎えることなく死んでいった多くの者たちに対する、西郷なりの責任の取り方であったように、私は感じてならないのです。
そして、西郷隆盛の死をもって、いわゆる幕末・維新という一つの大きな時代が終焉の時を迎えたと言えるかもしれません。

(最後に)
『西郷どん』感想&小解説ブログについては、今回が最後となりました。
少しでも多くの方々に、西郷隆盛について知って欲しいとの願いを込めて、これまで全47回、一度も休むことなく最後まで書き上げることが出来ました。
最初は軽い気持ちで書き始めましたが、いつしか連載を背負った作家のような気持ちとなり、別に定職を持ちながらの執筆でしたので、時には寝る間も惜しんで書いたこともありましたし、また、今年は持病で一週間ほど病院に入院、そして手術を受けた時期もあり、病室にパソコンを持ち込んで書いたこともありました。
そのようにして毎週全47回に費やした原稿は、原稿用紙に換算すると約920枚にも及び、我ながらここまでよく書いたな……、という気持ちでいます。

ただ、このように私が最後まで頑張れたのも、ひとえにこれまで本ブログをご愛読頂きました皆様、そしてご感想や温かい応援等を頂きました皆様方のお陰であると心から感謝しております。
本当にありがとうございました。
おそらく、これほどまで日本国中が西郷に注目する一年は、私が生きている間はもう来ないとは思いますが、私はこれまでと変わりなく、西郷隆盛を愛し、これからも地道に、西郷隆盛、そして薩摩藩の情報をネット上から発信していきたいと考えておりますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

粒山 樹 拝


本ブログ執筆者の著書

『維新を創った男 西郷隆盛の実像』(扶桑社、2017年)定価1,728円

は絶賛発売中です。
西郷隆盛の生涯をより詳しく書いていますので、西郷に興味を持たれた皆様、是非一冊ご購読頂ければ嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。


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【2018/12/16 21:01】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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k
お蔭様で西郷隆盛の人物像が深まりました。
ありがとうございました。

三度、なんだがでらい、、、
つるしん
粒山さぁ、西郷どんの今際の心情と情況の考察、全く御意の通りかと。 実に多くのこつを学ばせっ貰いもした、長きに亘る力作、ほんのこて、おやっとさぁでございもした、あいがともさげもす。 10年後の大河は島津四兄弟で、更に20年後は、おはんの原作・脚本で「西郷どん」の再登板を祈念しちょいもす。


鶴ヶ魂
何回か書きましたが私は西郷は覇道の人だと考えています。ただし、それと同時に理想を追求した漢でもありました。

西郷が他の西軍の連中よりも世間に好かれているのは、その一面があるからだと考えています。例えるならば三國志…ただし正史の劉備が近いと言えるかもしれません。

次に大河ドラマで彼を描く機会があるならば、覇道の人としての一面もきちんと描いてほしいとNHKには切望します。


zampanogelsomina
昨夜の日曜日の夜、何かが物足りない・・・
西郷どんの放送が無い事に寂しさを感じておりました。
所謂、「西郷どんロス」というやつでしょうか。
史実を蔑にしてた部分は、かなりあるようにあるように思えましたが、そこはあくまで「ドラマ」。
役者さん達の熱演もあり、非常に見応えはあったと思います。

西郷どんの放送は終わりましたが・・・

「樹どん、もうここいらで良か」

とは思いません。
粒山様のこれからの「西郷隆盛」の検証と考察を、楽しみにしております。
1年間、おやっとさぁでした。


追伸
私も、幕末薩摩藩の動向についてはある程度理解しているつもりでしたが、ドラマを見た方から「あの描写は史実なの?」とよく質問されました。
その度に、こちらのブログを紹介しております。



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いよいよ西南戦争の火ぶたが切って落とされました。
最終回まで残り二回で西南戦争全体を描くのは、少し無理があると言えますが、『西郷どん』は戦局の経過よりも、西郷自身の去就を描くことに、より重点を置いていると言えそうです。
西郷は一体どのような最後を迎えるのでしょうか。最終回がとても楽しみです。

さて、今回の『西郷どん』では、西郷家の人々にも悲運が重なりました。
西郷の弟・小兵衛が熊本北方の高瀬をめぐる攻防戦で戦死し、また西郷と愛加那の息子・菊次郎も右足に重傷を負いました。
この二人の戦死・戦傷については、前回紹介した野村忍介ら薩軍生き残りの面々が大変興味深い証言を残していますので、ここで少し紹介したいと思います。

まず、菊次郎についてですが、前出の野村と共に、鮫島敬助(奇兵一番中隊右小隊長)、大野義行(狙撃隊一番中隊長)の二人が、明治13(1880)年4月20日、市ヶ谷監獄において、「西郷菊次郎降ルノ状ハ如何」という質問を受けた際、次のように答えています。

「菊次郎ハ兵士ニテ出張、高瀬ノ役割ヲ被リタリ、長井出発ノ時僕永田熊吉附添ヒ、谷川ノ丸木橋ヲ渡ル時橋下ニ墜チタリ、熊吉之ヲ負ヒ谷ヲ下リ長井ニ帰リ、トテモ敵中ヲ通リ過ルコトヲ得サルヲ図リ、共ニ出テ降レリ、菊次郎其時十七歳計ナリ」(「西南之役懲役人質問第三」『鹿児島県史料 西南戦争』一)

今回の『西郷どん』では余り詳しく描かれませんでしたが、延岡北方の「和田越(わだごえ)の戦い」と呼ばれる決戦で敗れた薩軍は、長井村の俵野において軍を解散し、政府軍の囲みを破って鹿児島に戻ることを決断しますが(これは次回描かれるかと思います)、この三人の証言によれば、菊次郎は西郷と共に峻険な可愛岳を脱出しようと試みましたが、橋から落下して果たせなかったため、従者の熊吉が負傷している菊次郎を背負って長井村へと戻り、最終的に政府軍に投降したとあります。
今回の『西郷どん』では、西郷が菊次郎に投降するよう諭していましたが、野村らの証言によれば、菊次郎は父と共に一度は脱出を試みたことが分かります。

DSCF0727.jpg
和田越決戦の地(宮崎県延岡市)

次に、小兵衛のことですが、前出の野村、鮫島、大野の三人は、その6日後の同年4月26日に行われた取り調べにおいて、「隆盛ハ恒ニ「ヒストール」ヲ所持シタルニアラスヤ」と問われた際、

「然ラス、自分等終ニ之ヲ見ス、弟小兵衛十六連ノ銃ヲ所持セリ、小兵衛死後隆盛之ヲ其従者ニ持タセタリ」(「西南之役懲役人質問第四」)

と答えており、戦死した小兵衛が十六連発の小銃を所持していたことが分かりますが、西郷はその銃を従者に持たせたとあるのは大変興味深いです。
果たしてその従者とは、一体誰のことでしょうか? 小兵衛の従者なのか、それとも前出の熊吉を指すのでしょうか? 「其の」とあることから、小兵衛の従者のような気もしますが、もし熊吉であったとしたならば、西郷が菊次郎の護衛のためにと小兵衛の形見の小銃を手渡し、「熊吉、菊次郎を頼みもす」と言ったなどという想像も膨らみます。
私はこういうのが創作のあるべき一つの姿なのではないかと感じます。全く根も葉もないところから突拍子のない話を作り上げるのではなく、こうしたちゃんと種子のあるところから、それを大きく想像・発展させ、面白く描くというのが、いわゆる歴史ドラマの本領と言うべきものではないでしょうか。

(桐野利秋のこと)
『西郷どん』における桐野利秋像は、これまでドラマや映画で数多く描かれてきたとおり、まさに「猪武者」のような扱いですが、膨大な薩摩藩史料を編纂したことでも有名な元薩摩藩士・市来四郎は、桐野のことを

「桐野ハ廉潔実直勇豪仁慈ノ人ト謂フヘシ、困難ヲ甘ンシ名利ヲ顧ミス、義ニ走ル速カニシテ、人ニ遇スル愛憎ナク、金銭ヲ見ルコト土芥ノ如ク、貧ニ与ヘ窮ニ恵ミ、酒食ヲ好マス、奸黠狡猾ナルヲ見テハ、隠言ナク面責罵詈甚シキニ至ル」(「桐野利秋(丁丑擾乱記)」『鹿児島県史料 西南戦争』一)

と書いており、総じて「英豪仁慈ノ人」と評しています。
桐野が粗暴な人物であったとされているのは、前回のブログでも触れたとおり、桐野は一種西南戦争のスケープゴートにされたからであって、当時の政府関係者が殊更に桐野の悪口を流布するよう努めたことに端を発するのではないかと私は考えています。

例えば、薩軍が熊本に向けて進撃する際、桐野が「熊本城を落とすのは、この青竹棒(いらさぼう)一本で足りる」「この青竹の色が変わらぬうちに東京まで行く」などと豪語したという有名なエピソードがありますが、実はこれらも全く根拠のない話です。
野村忍介は、市ヶ谷監獄で行われた取り調べの際に、

「桐野ハ始メ出軍ノ時青竹ヲ截テ之ヲ握シ、此竹ノ未タ色ヲ変セサル内ニ東京ニ達センと云タリヤ」

と問われて、

「一切聞カサル所ナリ」

と明確にそのことを否定しています(「西南之役懲役人質問第四」)。

また、野村は「西郷、軍事ハ総テ桐野ニ委ネタリト云フハ如何」とも問われていますが、この質問から察しても、当時の政府関係者がいかに桐野に戦争の責任を押しつけようとしていたのかが分かります。
この問いに対して野村は、

「然ラス、戦地ヲ巡見ハセサレトモ、本営ニ在テ諸方ノ大駆引ヲ指揮ス、苦戦ノ時ニハ自ラ出テ戦ハント云フ事モ度々ナレトモ、諸将之ヲ留メタリ」

と西郷自身が戦の指揮に関与していたと答えています。

その他にも、野村は「鹿児島ヘ入リタル時、桐野ハ喜テ宅ニ入リ、酒ナト飲ミタリト云フハ実ナリヤ」「桐野ノ妾降参シタル説アリ、実ナリヤ」(「西南之役懲役人質問第二」)などという、桐野の性質に関係するような質問を受けていることから察しても、当時の政府がいかに桐野の評判を落とそうとしていたのかが分かるのではないでしょうか。
もちろん、これらの質問に対しても、野村は、酒の件については、「然ラス、桐野ハ城山ノ硝兵線ヲ巡視スルコト一日ニ凡三タヒ位ニテアリタリ」と、桐野が真面目に哨戒線を巡視していたと答え、妾の件については、「陣中ニ婦人ヲ連レタルコトヲ聞カス、勿論薩摩ニテハ妾ヲ抱ヘルモノナシ、虚説ナルヘシ」と否定しています。
野村は桐野とそりが合わなかった人物として有名ですが、そんな野村でさえも、桐野があらぬ汚名を着せられることを良しとしなかったのです。

桐野だけではなく、西南戦争全体を通して言えることですが、西南戦争は錦絵や講談といったフィクションの類いの作品の影響が強いためか、史実と乖離して描かれていることが少なくありません。
例えば、『西郷どん』では、西郷が鹿児島を出発する際、陸軍大将の軍服を着ており、他の時代劇等でも同様に描かれていますが、実はこれに関しても野村は否定しています。
野村は「西郷ハ陸軍大将ノ礼服ヲ着シテ出軍シタルト云ハ実ナリヤ」と問われて、

「荷物中ニ所持アリタルヤハ知ラス、戦争中ハ追々本営ニ到リ西郷ニ面セシニ、其事ハ一切ナキナリ」(「西南之役懲役人質問第一」)

と答えているのです。

少し話がそれますが、西郷の軍服に関して、私はとても不満に思っていることがあります。
『西郷どん』では、東京で政府に出仕していた時も、西郷は常に軍服を着用して政務に携わっていましたが、なぜあのようにことさら軍服を着せる必要があったのでしょうか?
あれでは、一昔前の西郷像である「西郷=軍人(武人)」というイメージを視聴者に対して植え付けかねません。
当時の西郷は、明治6(1873)年5月以降、陸軍大将の職にはありましたが、政府の首班と言うべき筆頭参議でしたので、あのように軍服姿で廟議に出席するはずがありません。
『西郷どん』は、新しい西郷像を描くという触れ込みであったにもかかわらず、これまで視聴した限り、旧来の西郷像を踏襲して描いていることがとても多く、この軍服一件に関しても、なぜそのような演出をしたのか、私は理解に苦しみます。
「西郷=軍人」というイメージは、それこそ戦前の国威発揚の際に使われたものであり、今どきそんなイメージで西郷を描いて視聴者に一体何を訴えかけたいのか? 私は違和感を禁じ得ませんでした。

(西郷の過信)
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、鹿児島を出陣した西郷は、おそらく京・大坂までの道中、激しい戦闘には発展しないものと考えていたのではないかと私は推測しています。
後述しますが、西南戦争において、薩軍は最も拙策とも言える陸路北上策をとっていることから考えても、戦局に対して大変甘い見通しを持っていたとしか考えられないからです。
事実、薩軍は早くも熊本で引っかかり、熊本鎮台兵と激しい戦いを繰り広げることになりました。

今回の『西郷どん』では、捕らえた鎮台兵から、天皇が薩軍の征討を命じられたということを聞き、西郷が驚く様子が描かれていましたが、実際の西郷は驚きと共に怒りを顕わにしたようです。
そんな西郷の怒りは、明治10(1877)年3月5日付けで、鹿児島県令の大山綱良に宛てた次の書簡に強く表われています。

「征討将軍宮様へ別紙御差し出し成し下されたく御願い申し上げ候。此の上ながら宮を押し立て来り候わば、打ち居え罷り通り申すべく候に付き、何卒右の御計らい御手数ながら宜敷願い奉り候」(『西郷隆盛全集』三)

征討将軍宮様とは、薩軍の征討を命じられた有栖川宮熾仁親王のことであり、西郷曰く「別紙」とは、自らの挙兵の趣旨を認めたもので、そこには次のように書かれています。

「畢竟政府においては、隆盛等を暗殺すべき旨官吏の者に命じ、事成らざる内に発露に及び候。此の上は人民激怒致すべきは理の当然にこれあるべく、只激怒の形勢を以て征討の名を設けられ候ては、全く征討をなさんため暗殺を企て人民を激怒なさしめて罪に陥れ候姦謀にて、益政府は罪を重ね候訳にてはこれある間敷や」(『西郷隆盛全集』三)

この記述を見る限り、前回書いたように、西郷は自らの暗殺計画を信じていたことが分かります。
また、西郷はそのことをきっかけにして薩摩を征討する動きに出た有栖川宮に対して、

「閣下 天子の御親戚に在らせられながら、御失徳に立ち至らざる様、御心力を尽さるべき処、却って征討将軍として御発駕相成候儀、何共意外千万の仕合いに御座候。就いては天に事(つか)うるの心を以て能く御熟慮在らせられ、御後悔これなき様偏に企望奉り候」

と、「天皇の親戚ともあろうお方が、征討というような形で出兵するとは意外千万である。天意をよく考えたうえで行動しないと後悔することになる」と、とても強い言葉を使って批判しています。
西郷が前出の大山宛て書簡の中で、「此の上ながら宮を押し立て来り候わば、打ち居え罷り通り申すべく候」と書いたのは、「有栖川宮が薩軍の挙兵趣旨を理解したにもかかわらず、それでも出陣してくるのであれば、それを打ち据えて(叩いて)でも罷り通るつもりだ」と、その怒りを顕わにしたと言うことです。
今回の『西郷どん』でも同じようなセリフを西郷が吐いていましたね。

このように、西郷は自らのとった行動が国家への反逆と位置づけられたことに対し、大きな不満を抱き、ここで初めて戦うことを決意したと言えますが、元来、西郷率いる薩軍が陸路で熊本を目指し北上したのは、薩軍幹部たちが、京・大坂までの道中では激しい戦闘には発展せず、また、たとえ戦闘になったとしても、簡単に勝てるものとふんでいたことへの裏返しであったと言えるのではないでしょうか。
なぜなら、薩軍が本州へ進むためには、関門海峡を渡ることが必須であったにもかかわらず、その具体的な方策を事前に検討しないまま出陣しているからです。

鹿児島県令・大山綱良の口供書によると(「鹿児島一件書類」『鹿児島県史料 西南戦争』三)、大山が西郷や桐野、篠原に対して、

「自分ニ於テハ此度ノ出兵小倉迄ハ無滞通行モナルヘキカ、其先ノ渡海ハ如何ト懸念候」

と、関門海峡をどうやって渡海するのかと懸念を示した際、西郷は、

「外ニ見込アリ」

と答えたとあり、また、桐野や篠原は「船橋ニテモ懸ルヘシ」と言って愚弄するような態度を見せたとあります。

また、野村忍介は、市ヶ谷監獄で行われた取り調べの際、「何故海路ヨリ出テサルヤ」と問われて、

「船ナシ」

と答えていますが、取調官から、

「大有、鹿児島等ノ船アリ、如何」

と問い詰められると、曖昧な返事をしたと記録にあります(「西南之役懲役人質問第一」)。
このように野村が返答に困ったのは、自分たちの見通しが甘かったことを突かれたからに他なりません。
西郷が「他に見込みあり」と答えたり、桐野や篠原が「船を並べて橋にする」といった非現実的なことを言っているあたりに、当時の薩軍は自らの強さに酔いしれるあまり、明らかに慢心を生じていたように感じられてなりません。

あくまでも推測ですが、薩軍幹部が陸路をとることを選択したのは、九州各地、いや西日本各地の不平士族を糾合しながら、大きな一団となり、政府に対し大きな圧力をかけようと考えたからではないでしょうか。そういう目的であったとしたならば、薩軍は正々堂々と陸路をとって進軍する必要があったと言えますので、あながちこの推測は間違っていないような気がします。

拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、当時の西郷は自らの声望を過信する余り、ひとたび薩摩が起ち上がれば、全国各地で蜂起者が続発し、政府は対抗策をとることが出来ないと考えていた感が否めません。
西郷が鹿児島を出発して約二週間後の明治10(1877)年3月2日付けで、大山県令に宛てた書簡には、

「筑前・筑後辺蜂起の様子に相聞かれ、大坂は土州より突出、最早攻め落し候風評も御座候(筑前や筑後は蜂起した様子で、大坂は土佐が突出し、既に攻め落としたとの風評もあります)」(『西郷隆盛全集』三)

とあり、西郷が各地の反乱分子の動きに期待感を持っている様子がうかがえるほか、また、そこには西郷が戦局に関して、非常に甘い見通しを持っていたことが併せて分かります。
西郷は自らの声望を過信し、政府に不満を持つ者たちの力と行動に期待し過ぎていたと言えるのです。

このような甘い見通しが、薩軍をして熊本城を包囲するという拙い戦術を選択させたと言えましょう。
西郷以下薩軍幹部たちは、熊本城内の鎮台兵が自分たちの行動に賛意を示し、ほとんど戦うことなく、簡単に開城出来るとの見込みを持っていたと思われますが、それに反して、薩軍は熊本鎮台の激しい抵抗にあい、結局最後まで熊本城を攻め落とすことが出来ませんでした。ここにも薩軍の見通しの甘さが際立っています。

西南戦争における西郷の悲劇とは、決起するための準備が何も整わないまま、急きょ挙兵せざるを得ない状況に追い込まれたこと、また、それに加えて、薩摩に引き続き蜂起した者たちが九州圏内の局地的な地域に留まったことにあったと言えますが、それに加えて、薩軍が敗北した一番の原因とは、自らの強さを過信するあまり、詳細な軍事計画を立てなかったことに起因すると言えるのではないでしょうか。


本ブログ執筆者の著書

『維新を創った男 西郷隆盛の実像』(扶桑社、2017年)定価1,728円

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【2018/12/09 20:50】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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全ての運を天に任せた集団自決
つるしん
粒山さぁの分析・考察やご指摘には、何時もながら、まこて、感服させられもす、今回も、歴史ドラマ足るべきものはとのご意見、桐野どんへの風説の流布の件(くだり)など、実に秀逸な分析・考察ごわんさぁ。 薩摩を出立する前の軍議で既に出されていた由の海路案を退けたのは西郷どんご自身(此の辺りも正に「過信」もあったかも知れもはん)と理解しており、また、陸軍大将名で明確な「軍命」を下してはおられんどころか、県外士族への檄文さえも出しておられんで、積極的・能動的に「勝つ」積りは無かった(況してや、一部の陳腐なご意見に見られるクーデターを起こすなんぞ微塵もビンタを掠めたことなど無か)ことから、東京到達の一縷の望みを懐の奥底に抱きながらも、新政府の遣り方のままで中央集権が盤石・確固たるものに成っても良かとする、全ての運を天に任せた(=天意に任せる、即ち、前回ご指摘の死生観から、最期の最後まで腹切りはせん)自己犠牲の上での「集団自決」が、西郷どんのご本意であったろうと、おいは思ちょいもす。。。


zampanogelsomina
粒山様

いつも素晴らしい解説をありがとうございます。

思うのですが、放送各回毎のこちらのブログの解説を本にしてみてはいかがでしょうか?
ブログに記載されている、当時の手紙や日記等を現代語訳も付記して。
来週で最終回を迎えますが、このままでは誤解されたままの「西郷」で終わってしまうような気がしてなりません。

私、初回放送からの粒山様のブログをプリントアウトして、時折見返しております。


ukoji
延岡は数年前に行きました。
印象に残ったのは俵野の記念館のご主人で、
まだ大河の話などまったく無かった頃で、
とても親切に案内してくれたりして、
なんともいえぬ、あれが西郷と感じさせてくれる
人物でした

ご感想ありがとうございます。
粒山 樹
皆さま、ご感想ありがとうございます。

いよいよ『西郷どん』も来週が最終回です。
私のブログも残り一回となってしまいました。
毎週書いていましたので、何だか寂しい気持ちになっていますが、『西郷どん』が終わっても、これまでと同様に西郷の情報を発信していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

あっ、是非、本ブログの内容を一冊の本にしてまとめて出版したいところですが、西郷ブームが去った今、本にしてくれるような奇特な出版社は、皆無かと思います(汗)。

承認待ちコメント
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鶴ヶ魂
僕は西郷は西南戦争について「多分勝てねえだろうな」と考えていたように思えてなりません。

もし勝機あり、と本気で言葉は悪いですがただのアホです。
しかも、戊辰戦争にて奥羽越が西軍の物量作戦に屈したのをまさに西郷は見ていたではありませんか。

仮にも覇道にて徳川から天下を奪い取るのに大きな役割を果たしたこの傑物が奥羽越諸藩(つまり一地方)ですら勝てなかったのに、薩摩のみで勝てるかもしれん、などと夢想したとは考えられないし、考えたくない。

私は敗北を覚悟しつつそれでも故郷・薩摩、そして自分を慕う人たちを捨てることができなかった。そして、それならばせめて自分と薩摩の死の命をもって薩長政権に警告というか異議申し立てをしよう、そう考えたと思います。

薩摩と自分を慕う人を切り捨てることなどできない、覇道の人らしからぬ矛盾した行動ですが、それこそが西郷隆盛という男の魅力であるように思えるのは私だけでしょうか。

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