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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます     (大河ドラマ『西郷どん』の解説も是非お読みください)
今から二年前の平成30年に、鹿児島の西郷南洲顕彰会発行の『敬天愛人』誌に「越前藩士の来鹿と西郷隆盛」という短い論考を書いたことがあります。
越前藩士の村田巳三郎(のちの氏寿)が、越前藩主・松平春嶽の命を受け、安政4(1857)年5月に鹿児島を訪問した時の話を中心にしたものですが、先日、『橋本景岳全集』(西郷の盟友であった越前藩士・橋本左内の全集)を調べていると、村田が左内に対して、その鹿児島でのことを書いている書簡が入っていることに気づきました。

(国立国会図書館サーチ「越前藩士の来鹿と西郷隆盛」)
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I088113300-00

その書簡は、安政4年12月26日付けのものですが、その中で村田は次のように書いています。

「西江は小子彼薩へ参り候節、殊の外親切に致し呉、帰途の節は二泊宿迄も送別致呉、甚懇志の事に御座候」

書簡中の「西」とは西郷隆盛のことを指します。
村田は左内に対して、「私が薩摩に参った際、西郷氏が殊の外親切にしてくれ、帰途の折には二泊までして見送って頂くなど、甚だ親切に行き届いた応接を受けました」と書いているのです。

拙稿「越前藩士の来鹿と西郷隆盛」でも書きましたが、西郷は村田が鹿児島に入った際、村田の薩摩行きの目的であった、薩摩藩主・島津斉彬への拝謁と薩摩藩の藩校・造士館の教授たちとの面会が叶うよう奔走しました。
村田は鹿児島に入った当初、一種軟禁状態に置かれていましたが、西郷や西郷の妹婿であった市来正之丞の手助けもあって、無事に目的を果たすことができたのです。
そのことがきっかけとなり、西郷と村田は交流を深めることになりました。

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松平春嶽像(福井市)

村田が書き残した日記を見ると(「西遊日誌」『関西巡回記』所収)、村田が頻繁に西郷と会い、そして書簡をやり取りする様子がうかがえます。
二人には橋本左内という共通の友人が居ましたので、お互いに話も弾み、そして気も合ったのではないでしょうか。
その後、村田は同年閏5月19日に鹿児島城下をあとにして、福井への帰路につきますが、西郷はそんな村田を見送るため、わざわざ遠く離れた川内川の渡し場まで行っていることが、村田の日記によって分かります。

また、村田は日記の20日と21日の項に「西郷氏振廻」と、西郷からもてなしを受けたと記し、その時に食べた料理まで書き留めています。

「吸物、鯉、酒、肴(鯉生身、鮎、玉子、肴身、シイ竹、シヲコンニャク、鰹、シタシ物、食、一汁二菜、香の物)」

これが村田の書き留めた20日の料理の内容ですが、確かにご馳走ですね。

このような西郷の手厚いもてなしに対し、村田は福井に戻ってからも深く感謝していたのでしょう。
村田は前述の左内に宛てた書簡の中で、

「乍憚御面會の節能々御傳聲可被下候(憚りながら、西郷氏と面会の折には、くれぐれもよろしくお伝えください)」

と書いて、西郷の厚情に対して感謝の意を伝えてくれるよう、左内に頼んでいます。


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【2020/07/03 17:25】 | 西郷隆盛
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【序】
昨日、インターネット上で西郷の直筆の書簡が熊本県で二通発見され、その内の一通が篠原冬一郎(国幹)宛てのもので、同書簡には「福岡から平野次郎氏と一緒に(鹿児島に)着いた。相談したいことがあるのでぜひ来てほしい」とあり、「おそらく月照を受け入れるための相談をしたかったのだろう」と、同書簡を安政5(1858)年10月3日だと推定する記事(下記)が出ていました。

熊本日日新聞(3/12)
https://kumanichi.com/kumacole/interest/1389728/

この記事を読んで、まず大きな違和感を持ったのは、西郷が福岡から平野次郎(国臣)と一緒に鹿児島に帰国したということです。
月照の薩摩入りについては、色々と俗説も多いため、この点について少し検証してみたいと思います。

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月照の墓(鹿児島市)

【西郷と平野の行動】
安政5(1858)年の「月照の薩摩入り」については、以前、大河ドラマ『西郷どん』放映中に下記ブログで詳しく書きました。

『西郷どん』感想&小解説(第17回) ―月照の薩摩入りと西郷の入水―
http://keitenaijin924.blog.fc2.com/blog-entry-127.html

まず、事実として押さえておく必要があるのは次の二点です。

1.西郷は月照と下関で分かれて、単独で薩摩に帰国したこと。
2.月照を薩摩に入国させたのは、筑前藩士・平野国臣であること。


この事実を踏まえて考えないと、話が全ておかしくなってしまいます。
なぜなら、西郷が平野と一緒に薩摩に帰国したとなると、「では、一体誰がどうやって月照を薩摩に連れてきたのか?」という大きな疑問と矛盾が生じるからです。

まず、西郷が月照と下関で分かれて単独で薩摩に向かったのは、月照の受け入れ態勢を先に整えるためでした。
勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、

「隆盛以為く月照をして薩摩に潜伏せしむるには先づ藩に帰り予め之れが準備を為すにあらざれば不可なり」

と、その時の事情が簡潔に記されています。

また、西郷が月照を置いて単独で薩摩に帰国する決断が出来たのは、当時、共に行動していた者の中に筑前藩士・北条右門が居たからに他なりません。
北条は前名を木村仲之丞と言い、元薩摩藩士で、薩摩藩のお家騒動「お由羅騒動」の影響により藩を出奔し、筑前藩主・黒田長溥の庇護のもと、当時は筑前藩士となっていました。
また、北条の他にも、当時の筑前藩には、井上出雲守(のちの藤井良節)竹内伴右衛門(のちの葛城彦一)岩崎千吉(のちの相良藤次)といった北条と同じ境遇の元薩摩藩士たちが居ました。
西郷は彼らの存在があったればこそ、筑前領内で月照を十分に保護できると考え、月照の受け入れ工作を先に行うべく薩摩に帰国したのです。
また、西郷の同志でもある有村俊斎(のちの海江田信義)も同行していましたから、西郷は有村に後を託し、安心して単独行動できたと言えましょう。
(しかしながら、後に有村は西郷の後を追いかけて、先に鹿児島に帰国してしまいます)

一方、平野国臣の動きですが、当時の平野は肥後周辺に遊学の旅に出ていました。
その時の様子は、平野が書いた日記「遊肥雑記」(『平野国臣伝記及び遺稿』所収)によって明らかです。
同日記によれば、西郷が月照と共に下関に到着した安政5(1858)年10月1日、平野は久留米で高山彦九郎の墓に詣で、石燈籠を寄進したことが確認できます。
前述のブログでも紹介しましたが、「白石正一郎日記」(『維新日乗纂輯』第一所収)には、「忍向上人西郷ノ来レルハ此ノ不在中十月朔日ナリ翌二日出発」とあり、西郷と月照が10月1日に下関に到着したことは間違いありませんので、その時、平野は遠く離れた久留米に居たのです。

春山育次郎『平野国臣伝』によれば、肥後の旅から戻った平野は、

「二日に松崎の駅を立って筑前の境に入り、馬市隈村のあたりを経巡って、十余日を送り、十七日を以て福岡に帰へり」

とあり、現在の筑紫野市周辺に滞在後、福岡に戻ったとあります。
その平野が、月照と分かれた西郷が薩摩に向かう途中、偶然に出会う確率も無くはありません。
しかし、そういうことがあったとしても、その時に西郷が平野を薩摩に連れて帰る理由は何一つ見当たりません。
つまり、西郷が平野を薩摩に連れ帰ったところで、平野が月照のために何か出来るわけでもなく、逆に他藩の者を許可無く連れ帰ったことで、余計に問題が生じることになりかねないからです。
もし、西郷が本当に平野と偶然に出会ったのなら、「かくかくしかじかの理由で、月照和尚の庇護を頼みもす」と依頼したのであれば、まだ話は分かりますが、一緒に薩摩に入ろうと誘う理由は何一つ無かったと言えましょう。


【平野が月照の庇護にあたった理由】
安政5(1858)年10月17日に福岡に帰った平野が、その後、月照を庇護して薩摩に向かったことは間違いの無い事実です。
後年のことですが、文久2(1862)年に平野が福岡の獄舎に投獄されていた時、紙縒(こより)を文字の形にし、紙に貼り付けて執筆した「藎志録」という書があります。
この「藎志録」は、平野自身の履歴書(経歴書)のようなもので、年代別に自らの行動等の概略を書き記したものですが、戊午(安政5年)の項に、平野は次のように記しています。

「清水寺月照坊、春來出入粟田法宮及陽明家、關議機密、是以幕廳将捕。避遁其難、微行博多。追捕索跡、至赤馬關。有密通者。更決入薩、無護送者。或來告。即忽諾發行」(『平野国臣伝記及び遺稿』所収)

この記述の前半部分には、月照が追われる身となった理由と難を避けるために博多まで逃避してきたことが記されていますが、大事なのは後半部分です。

「月照を追跡してきた捕吏が下関に到着したが、密通者があったので、月照一行はさらに薩摩に入ることを決意した。しかし、誰も護送する者が居ないと告げられたため、すぐに承諾して護衛となるべく出発した」

このように、平野が月照の護衛者となったのは、月照を薩摩に送り届ける人が誰も居なかったためであったのです。
春山育次郎『平野国臣伝』によれば、月照を筑前まで連れてきた北条右門が、偶然訪ねてきた平野に対し、月照を薩摩に連れて行ってくれるよう依頼したとあります。
そして、「藎志録」には「遂至上座、與月照會、賃舟下千年川」と記されています。
つまり、「上座(現福岡県朝倉市)に到着し、そこで月照と会い、舟を手配して千歳川(筑後川)を下った」ということです。
春山育次郎『平野国臣伝』によれば、初めて平野が月照と会ったのは、安政5(1858)年10月18日のことだとしています。


【まとめ】
このように平野自身が記した「藎志録」には、平野が月照の薩摩入りに関わった理由が記されていますが、そこには西郷と共に薩摩に入国したとは一言も書かれていません。
また、西郷に依頼されて、月照を迎えに行くことになったとも書かれていません。
西郷の名が出てくるのは、月照の薩摩入国後に生じる「投身自殺」についてのみです。
つまり、平野自身が記した「藎志録」は、平野と西郷が別行動であったことを裏付けているのです。
また、上座において月照を庇護していた竹内伴右衛門(のちの葛城彦一)もまた、西郷と平野が一緒に薩摩に入ったなどとは一切書き残していません(『薩藩維新秘史 葛城彦一傳』)。

もし、今回発見された新出書簡のとおり、西郷と平野が一緒に薩摩に入っていたと仮定するならば、前述のとおり平野が月照と共に薩摩に入るためには、平野は再び薩摩を出て、筑前に戻り月照を探しに行かなくてはなりません。
そのこと自体も非現実的ですが、よしんば、そうであったとしても、その後、平野と月照が大変な苦労をして薩摩に入国した意味が全く分からなくなります。
平野は「藎志録」の中で、「米ノ津(現在の鹿児島県出水市)にあった関所(野間の関)を通過しようとしたが、一向宗門徒に怪しまれて入国できなかった」と記しています。
そのため、平野は舟を雇って、難所の海峡であった急流の黒之瀬戸を夜に渡って強引に薩摩に入国しています。
平野が既に薩摩に入国していて、西郷と共に月照入国のお膳立てをしていたのであれば、こんな危険を冒して、平野や月照が薩摩に入国する必要はなかったことでしょう。
このような博打とも思える強引な手法を取ってまで薩摩に入国しようと試みたのは、それ以外に方法が無かったからです。
つまり、平野は一か八かの賭けに出たと言うことです。

以上のような事実を踏まえると、西郷と平野が共に鹿児島に入ったというのは、現実的にどう考えてもあり得ません。
私は新出書簡の実物を見ていませんので、あくまでもネット上で得られる情報のみで判断しましたが、もし本当に西郷が平野と一緒に薩摩に入ったと書かれているのであれば、書簡自体の信憑性を疑う必要があると思いますし、年代比定を根本的に見直す必要があるように感じます。


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【2020/03/13 17:25】 | 西郷隆盛
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皆さん、こんにちは。

1999(平成11)年9月24日に開設しました、西郷隆盛のホームページ「敬天愛人」については、契約していたプロバイダの廃止に伴い、下記アドレス(URL)に移転いたしました。
現在、google検索ではヒットしませんが、廃止などせず、ちゃんと存在しておりますので、ブックマークの変更等、どうぞよろしくお願いいたします。

西郷隆盛のホームページ「敬天愛人」新アドレス
http://saigoutakamori.sakura.ne.jp/


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【2020/03/03 18:00】 | 西郷隆盛
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現在の鹿児島県庁は、市の中心部から南に少し離れた鹿児島市鴨池新町にあり、平成8年に移転した庁舎ですが、明治期の鹿児島県庁は、市の中心部の山下町、つまり鹿児島城(鶴丸城)の近辺にありました。

先日、Twitter上で「西南戦争当時の鹿児島県庁がどこにあったのか?」という話に及んだ際、私は今の県庁が移転する前の場所、すなわち現在鹿児島県民交流センターが建っている場所であると理解していました。
昭和44年2月発行の『鹿児島市史』一には、「明治五年二月県庁を旧軍務局跡(現県庁所在地)に移し」とあることから、山下町の旧庁舎が西南戦争時の鹿児島県庁があった場所だと思い込んでしまっていたのですが、Twitter上で大変貴重なご教示を数々頂き、それが誤りであったと知りました。
また、それ以来、明治期の鹿児島県庁について調べていくうちに、色々と分かったことがあったため、備忘録として、ブログに少しまとめておきたいと思います。

まず、結論から言うと、西南戦争当時の鹿児島県庁は、現在鹿児島県民交流センターが建っている旧県庁の場所にはありませんでした。
実際は、現在中央公園と名の付いた大きな公園の北側半分と鹿児島市中央公民館、宝山ホール(鹿児島県文化センター)、そして鹿児島市役所の南側一部を含んだ場所にあったようです。
中央公園は、斉彬の曾祖父である第8代藩主・島津重豪が創建した藩校・造士館と演武館があった場所ですが、『鹿児島県史料 忠義公史料』によると、廃藩置県直後の鹿児島県庁は、鹿児島城内に設けられていました。
明治2年2月に実施された藩政改革により、薩摩藩の藩政の中枢は「知政所」という行政部署へと移りましたが、同所が城内に設けられていたことから、そのまま藩庁が県庁へと変わったのです。

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(中央公園に建つ「造士館、演武館跡碑」)

『忠義公史料』七所収の「藩庁知政所ヲ鹿児島県庁ト改称スルコトヲ達ス」(文書一四九)によると、

「明治四年八月五日、藩庁知政所ヲ改称シテ、鹿児島県庁ト為スコトヲ達セリ」

とあり、知政所が鹿児島県庁へと名称変更されたのは、明治4年8月5日であることが分かります。
廃藩置県が実施されたのは、明治4年7月14日のことですから、その三週間後に藩庁は正式に県庁になったのです。

しかしながら、このように鹿児島城内にあった県庁は、その後、城外へと移転することになります。
『鹿児島県史料 旧記雑録追録』八には、次のような文書が収録されています(文書1069)。

地方城郭之儀兵部省管轄被仰付候段、今般従朝廷被仰出候付、縣廳并傳事方之儀明後四日より客屋え被引移候、此旨向ゝえ可申渡候
 辛未十月二日 鹿兒嶋縣廳


この文書によると、明治4年10月2日、鹿児島県庁は、「地方の城郭が兵部省管轄となったことから、朝廷の仰せだしに従い、県庁と伝事方を明後日の四日から客屋へ移転する」との通達を出したことが分かります。
ちなみに、同文書内に出てくる「客屋」とは、造士館の南東側にあった「御舂屋(御着屋)」と呼ばれる建物内に設けられていた他国の使者などが宿泊する宿舎(客殿)のことです。
御舂屋とは、その名の通り「米を舂(つ)く場所」であり、米から作られる醤油や味噌などを生産・管理した建物ですが、藩政時代には客屋という名の宿舎が付随していたのです。

前述のとおり、明治4年10月2日、鹿児島県庁は明後日の10月4日から、県庁を城外の客屋に移転することを決定したわけですが、『忠義公史料』七所収の「県庁庁衙及び伝事方移転ノ事ヲ達ス」(文書二○八)には、その経緯が次のように記されています。

「八月十八日、地方城郭兵部省管轄トスルノ令アリ、此際吉井・西郷ノ帰県アリ、県治ノ処置議スル所あり、遂ニ県庁ヲ城外客屋ニ移シ、以テ旧体ヲ一変スルニ及ベリ」

つまり、廃藩置県から約一ヶ月後の明治4年8月18日、地方の城郭を兵部省管轄とする命令が鹿児島県に下った際、吉井と西郷が帰郷し、今後の県政をどのように運営していくべきかを議論した結果、ついに県庁を城外の客屋に移すことを決定し、旧体制を一変することになったということです。

ちなみに、この中に出てくる西郷とは、西郷隆盛のことではありません。
西郷は西郷でも小西郷、つまり隆盛の弟・従道のことです。
このように、従道が廃藩置県直後に鹿児島へと帰郷した理由について、勝田孫弥『西郷隆盛伝』は次のように書いています。

「伊地知正治は大久保利通に県下の人心鎮静のため、西郷・大久保の内一人の帰国を求めたので、両名は協議の上、宮内大丞吉井友實、兵部大丞西郷従道を代り帰県せしめた。吉井と西郷従道は八月下旬東京発帰県、滞在二ヶ月に亙って事情を説明し、為めに人心は漸く鎮静に帰したのである」

廃藩置県当時の鹿児島には、旧藩主の実父であり、一番の権力者でもあった島津久光が居ました。
その久光が廃藩置県に反対であったことは有名な話です。
鹿児島で廃藩置県の報を聞いた久光が、家臣に命じ、終夜花火を打ち上げさせ、その鬱憤を晴らしたという逸話は、とても有名なものとして後世に語り継がれています。

廃藩置県という改革は、大名から土地・人民のみならず、全ての権限を奪い取る、未曾有の大改革でしたから、時の明治政府は、全国の大名たちの動向に気を配る必要がありました。
特に、明治維新の原動力となり、依然として大きな兵力を保持していた薩摩藩については、最も警戒すべき対象でした。
また、それに加えて、保守層の代表人物とも言える久光が鹿児島に居たため、政府は廃藩置県に際し、より慎重に事を進める必要があったと言えます。

このような状況下にあった鹿児島の状況を憂い、伊地知は薩摩藩内の混乱を押さえるべく、西郷か大久保の帰国を求めたわけですが、西郷と大久保らは協議して、吉井と従道を派遣することを決定しました。
当時の西郷と大久保は、政府の中心人物でしたから、東京を離れるわけにはいかなかったのでしょう。そのため、西郷や大久保の意を推し量れる吉井や従道を派遣したと言えます。

『大久保利通日記』によると、吉井と従道が東京を出発したのは、廃藩置県から約一ヶ月後の明治4年8月24日のことですが、その前々日の22日から23日にかけての大久保の日記には、大久保が西郷や吉井、そして従道や大山(巌)と頻繁に会い、鹿児島帰国の件について協議している様子がうかがえます。
また、大久保は併せて23日に岩倉具視宛てに書簡を出していますが、その中でも吉井と従道の鹿児島帰国について詳しく報告しています。
大久保は同書簡の中で「殊に士族莫大」という言葉を使って鹿児島の状況を表現していますが、鹿児島に残る久光を中心とした膨大な数の武士集団の動向に、東京に居た薩摩藩関係者は非常に気をもんでいたのです。

前出の「県庁庁衙及び伝事方移転ノ事ヲ達ス」の記述から考えると、西郷と大久保は、出発する吉井と従道に対して、これを機に県政と藩政を大きく分離させることを強く言い含めていたように思います。
平たく言えば、廃藩置県により、国の政治体制は大きく変わり、もう藩の時代では無く、中央集権下の県の時代に変わったことを強く鹿児島の武士たちに印象づける、ということです。
その象徴が県庁の城外移転であったとも考えられます。
つまり、いつまでも県庁が城内にあると、旧態依然、まだ藩が存続し、政治を取り仕切っているかのような印象を与えかねないため、県庁は早急に城外に移すべきだと、西郷と大久保らは相談していた可能性が十分にあり得ます。
これはあくまでも推測に過ぎませんが、地方城郭が兵部省管轄になったからという理由は表向きのことで、西郷と大久保は吉井らに対し、県と藩(島津家)の分離を一層進めるよう指示していたのではないでしょうか。

このようにして、鹿児島城内にあった県庁は、明治4年10月4日をもって、城外の客屋へと移転することになったのですが、その後、県庁はまた別の場所へと移転します。
『忠義公史料』七所収の「県庁移転・四課設置ノコトヲ令ス」(文書三二四)には、

「二月廿七日 本県庁ヲ旧軍務局跡へ移シ、庶務・聴訟・租税・出納ノ四課ヲ設ケセシウム」

とあり、県庁が明治5年2月27日、旧軍務局跡へと移転したことが分かります。

県庁が客屋から旧軍務局跡へと移転した理由は、建物の大きさ(広さ)にあったようです。
前出の『忠義公史料』七所収の「県庁庁衙及び伝事方移転ノ事ヲ達ス」には、

「尚同日客屋狭隘ニシテ、諸局ノ吏員ヲ容ルベカラサルヲ以テ、当分ノ内ハ一局内毎一人、客屋ノ役衙ニ出仕スベシト達セリ」

とあり、「客屋が狭く、県庁の全ての局員を収容すること出来ないため、当分の間は局毎に一人、客屋に出仕すべし」と、県庁が通達していたことが分かるからです。
つまり、客屋の建物は、あくまでも仮の住まいであったと言えるでしょう。他に適当な建物が見つからなかったため、一先ず客屋に県庁を移したものと思われます。

そして、薩摩藩の軍務局が明治5年正月に正式に廃止されたことに伴い(『旧記雑録追録』八、文書1086の4)、その跡地に県庁が移転することになりましたが、そこで問題となってくるのは、「では、軍務局はどこにあったのか?」ということです。
軍務局とは、前述した明治2年2月に実施された藩政改革の際に設けられた、海陸二軍及び兵器方を所管した部署です(『鹿児島県史』三)。
軍務局の場所を確定することは、廃藩置県後の鹿児島県庁がどこに位置していたのかを知る重要な手がかりになると言えます。

廃藩置県前の明治3年12月時点では、軍務局は鹿児島城内にありました。
同時期に岩倉具視を正使とする勅使一行が鹿児島を訪れた際の記録を調べると次のようにあります。

「岩倉卿儀、來ル廿五日八字客屋御旅館より御出、客屋本門前通、伊勢健彦屋敷掛角より枡形學館前御通、御城門より軍務局え被為入、兵隊點檢之式御覧之上、練兵場え御出、大隊操練被遊御覧」(『旧記雑録追録』八、文書995の7)

岩倉が鹿児島に勅使として来訪したのは、西郷隆盛を東京に呼び戻し、政府改革を断行するためであったのですが、それはさて置き、この記録によると、鹿児島に到着した岩倉一行は、「12月25日、鶴丸城の城門から軍務局へ入る予定」となっています。
これを見る限り、明治3年12月当時の軍務局は鹿児島城内に設けられていたと思われます。(ちなみに、勅使の岩倉も前述の客屋を宿所としていました)

そして、その後、軍務局は、明治5年1月に廃止されるまでの間に城外へと移転しました。
前述のとおり、明治5年2月27日、県庁は旧軍務局跡へと移転しますが、西南戦争当時の絵図(画像)を確認すると、県庁は鹿児島城外、二の丸(現在の鹿児島県立図書館本館)から道を挟んだ東側、また、城の東側にあった練兵城の南側に描かれています。
つまり、県庁が城外の同場所にあったということは、軍務局も同じく城外にあったということです。

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(『鹿児島県史料 西南戦争』一、P722より抜粋)

しかしながら、軍務局が「明治3年12月時点から廃止される明治5年1月までの間に、いつ城外へ移転したのか?」については、残念ながら、現時点ではそれを裏付ける史料を見つけることが出来ませんでした。
これはあくまでも私の推測ですが、明治4年10月に県庁が客屋に移転したことに伴い軍務局も城外へと移転したか、もしくは旧造士館・演武館の建物に元々軍務局の施設が入っていたのか、そのどちらかではないかと思います。
特に、後者についてですが、後に県庁が移転した場所は、軍務局が管理していた練兵場に隣接する土地であること、さらにその付近にあった加治木島津家(島津兵庫)の屋敷も、明治3年9月28日に軍務局塾(兵学寮のこと?)になっていることから(『旧記雑録追録』八、文書978の4)、練兵場周辺には軍務局管理の施設が複数あったと考えられるからです。

以上のように軍務局の位置については、少し分からないことがまだありますが、西南戦争時の県庁については、現在の中央公園の北側半分と鹿児島市中央公民館、宝山ホール(鹿児島県文化センター)、そして鹿児島市役所の南側一部を含んだ場所にあったことは間違いなさそうです。
ちなみに、その県庁が現在鹿児島県民交流センターが建っている場所へと移転したのは、さらにもっと先の大正14年10月のことです(『鹿児島地誌』)。

(付記)
最後に余談を二つだけ。

鹿児島県庁が明治5年2月27日に客屋から現在の中央公園付近に移転したことは前述のとおりですが、西南戦争中、県庁は一時期別の場所に移されている事実があります。
「鹿児島県庁日誌」(『西南戦争』三所収)の明治10年9月6日の条に、次のようにあります。

「本月一日鹿兒島へ脱賊乱入致シ、目今官軍攻撃中ニ付、当分ノ内加治木出張所内ニ仮ニ県庁ヲ設ケ、事務取扱候条願伺届等ハ同所へ可差出、此旨布達候事」

西南戦争は最終局面に入ると、薩軍は宮崎から鹿児島へと帰還し、城下に駐留していた政府軍を急襲し、私学校など政府軍に占領されていた主要施設を奪還しました。
鹿児島県庁もこの時薩軍の攻撃を受けたため、県官吏は県庁から脱出し、県庁を一時期加治木の支庁へと仮移転させ、県庁の機能を移譲したのです。

次に、県庁が最初に城外に移転した際に使われた建物、客屋のことについてです。
『鹿児島県史』三には、明治8年4月、鹿児島市内の警察組織が警察局に改められたとの記述がありますが、そこに「警察局を舊客屋に設立し」とあります。
鹿児島市内の警察組織については、昭和44年2月発行の『鹿児島市史』一が詳しいです。
同書には、次のように書かれています。

「明治六年(明治四年説と五年説があるが)取締組がおかれ、警察屯所を六日町十三番戸(現旭相互銀行裏)に設け、鹿児島士族の中から捕亡(ポリス)を選抜して、警察事務が始まった。明治八年四月警察屯所は警察局と改められ、警察出張所を第一は下町の山之口町六番戸に、第二は上町の川上邸付近に、第三は西田町に置き、捕亡を邏卒と改めた。十二月警察局は鹿児島警察署と改められ、邏卒も警部・巡査と改められた」

同市史によると、警察局の前身である警察屯所は、「六日町十三番戸(現旭相互銀行裏)に設けられていた」とあります。
六日町という地名は現在消滅してしまっていますが、だいたいの位置は分かるのと、旭相互銀行というキーワードから考えると、警察屯所が置かれていたのは、現在の南日本銀行本店付近を指すのでは無いかと思われます。

しかしながら、警察屯所はその後警察局へと名を改められ、『鹿児島県史』三によると、警察局は客屋に設立されました。
前述の南日本銀行本店付近と客屋があった場所は少し離れていますので、警察局に改称するにあたり、県庁が移転して空き家となっていた客屋を警察が使用するようになったのかもしれません。
そして、その警察局はその後鹿児島警察署と名を改められることになります。

西南戦争勃発の間接的な原因となった「西郷隆盛暗殺計画」という事件があります。

『西郷どん』感想&小解説(第45回) ―西郷隆盛暗殺計画―
http://keitenaijin924.blog.fc2.com/blog-entry-156.html

詳しくは上記URLの解説をお読みいただければと思いますが、「西郷隆盛暗殺計画」とは、中原尚雄以下警視庁巡査の密偵が大挙して鹿児島に帰郷し、後に捕縛されて西郷隆盛の暗殺計画を自白するという事件ですが、その際、中原尚雄らの取り調べは、鹿児島警察署で行われたと諸書にあります。
つまり、鹿児島警察署内で中原らに対する激しい拷問が行われたことになりますが、その舞台の一つとなった客屋があった場所は、現在、飲食店や服屋などが建ち並ぶ繁華街の一部となっています。


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【2019/10/07 18:00】 | 西郷隆盛
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少し遅れましたが、明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

大河ドラマ『西郷どん』の放送が終了し、世の中には「西郷どんロス」なんていう言葉も聞かれますが、私がまさしくその西郷どんロスの真っ只中でして、昨年は『西郷どん』の感想&小解説ブログの執筆で忙しく過ごしていましたが、現在それも無くなり、少し手持ち無沙汰の毎日を過ごしています。
今になって、『西郷どん』の影響は大きかったと身に染みて感じています。

さて、皆さまは、お正月はどのように過ごされましたか?
私はいつものとおり宮崎で年を越しました。
宮崎はさすが南国です。車を運転していると、強い日差しで室内温度が上昇し、クーラーを入れたくなったほど暖かい日がありました。

正月の三が日は食っちゃ寝のグータラな生活を過ごしましたが、年が明けた1月4日、宮崎県都城市の都城島津邸に足を運び、昨年発見された新出の西郷隆盛の漢詩を見てきました。
私自身、西郷の漢詩はこれまで数えきれないほど見てきましたが、今回、都城島津邸内の都城島津伝承館で公開されていたものは圧巻でした。(画像参照)

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まず、西郷の漢詩は掛け軸に表装されたものがほとんどですので、このように巻紙に書かれたものは、大変珍しいものだと言えます。
この漢詩は、都城島津家家臣で西郷とも交流があったとされる木幡栄周が所有し、それが現代に伝わったものだそうですが、最後の署名部分を見ると「南洲書」とありますので、ここに書かれている漢詩は、西郷が独自に作詩したオリジナルの漢詩ではなく、他者の言葉を引用して書かれたものであることが分かります。

西郷隆盛という人物は、漢詩等を書く際、「南洲書」「南洲」という署名を書き分けています。
西郷が他者の言葉等を利用して書いたものには「南洲書」と、一方西郷自らが作詩したものについては「南洲」と署名してあり、最後に「書」と書かれてあるか否かによって、その言葉が西郷の造語であるかどうかが見極められるということです。

例えば、西郷が好んで揮ごうした言葉に「敬天愛人」というものがありますが、そこには必ず「南洲書」との署名があります。
つまり、これは前述したとおり、「敬天愛人」という言葉が、西郷独自のものではなく、他者の言葉からの引用であることを意味しているのです。

「敬天愛人」は、今では西郷と一体化していると言えるほど大変有名な言葉となっていますが、実は元をただせば西郷オリジナルの造語ではありません。
イギリス人の作家で医師でもあったサミュエル・スマイルズという人物が執筆した『自助論』という書物を元幕臣で思想家の中村正直(敬宇)が『西国立志編』として、明治4(1871)年に翻訳・刊行していますが、その中に「敬天愛人」という言葉が書かれています。
中村は明治元(1868)年にも「敬天愛人説」という論考を執筆していますが、西郷はこれら中村が使った「敬天愛人」という言葉に感化され、それを好んで揮ごうするようになったと言われています。西郷自らが悟った天命への思想と中村の「敬天愛人」の言葉が符合したためと言えるでしょう。

以上のように、西郷が書いた「南洲書」という署名は、「私(南洲)が書写した」という意味で使われていると言えますが、その例にもれず、昨年都城で発見された前出の新出漢詩も、陳龍川の「酌古論」から引用された言葉が記されています。
西郷は陳龍川の書を好んで読んでおり、その影響は、西郷の死後に旧庄内藩士たちが編纂・刊行した『南洲翁遺訓』内にも色濃く表れているのです。

この漢詩の前半部分には、

「平居暇日規模術略定於胸中者久矣、一旦遇事而發之、如坐千仭而転圓石、其勇決之勢、殆有不可禦者、故其用力易、而其収功也大、非徑行無謀、僥倖以求勝也」(都城島津伝承館の展示パネルから引用)

との言葉が書かれていますが、この部分を少し私流に意訳すると、

「常日頃から、心中に物事の本質を捉え、志を定めている者は、一旦事にあたって行動する際、高い山から丸い石を転がすかの如く、その勇断には勢いがつき、もはやそれを防ぐ手立てはない。そうなれば、力を用いることはた易いこととなり、その結果、大きな功を収めることにも繋がる。また、自らの信念に基づいた行動が無謀なものでなければ、幸運にも勝ちを求めることができるであろう」

という感じでしょうか。
つまり、西郷は木幡栄周に対し、武士としての日頃の心構えを説いているということです。

「平素から準備を怠らず、志を深めていれば、いざという時に大きな力となり、事は必ず成功する」

ということですね。
まさに西郷らしい言葉であると言えるのではないでしょうか。


本ブログ執筆者の著書

『維新を創った男 西郷隆盛の実像』(扶桑社、2017年)定価1,728円

は絶賛発売中です。
西郷隆盛の生涯をより詳しく書いていますので、西郷に興味を持たれた皆様、是非一冊ご購読頂ければ嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。


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【2019/01/17 19:00】 | 西郷隆盛
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先日もブログに書きましたが、1月22日(月)の読売新聞夕刊(全国版)に掲載された「よみうり堂」の記事がネットでも配信されました。
神田外語大学日本研究所の町田明広先生が、拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』をご紹介くださった記事です。

西郷どん 負の側面に迫る…研究者が驚く内容も
http://www.yomiuri.co.jp/life/book/news/20180123-OYT8T50018.html

現在、『維新を創った男 西郷隆盛の実像』は扶桑社から発売中です。
読みやすく、そして分かりやすくをモットーに、私の西郷に対する熱い情熱を込めて書き上げました。
是非この機会に一冊お買い求めくださると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。

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【2018/02/10 12:00】 | 西郷隆盛
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 鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏の名著『史伝 西郷隆盛』が、2月に文春文庫から復刊されます。
 おそらく来年のNHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』を見越しての復刊だと思いますが、長らく絶版になっていたので嬉しい限りです。

 この度復刊される『史伝 西郷隆盛』は、岩波書店発行の雑誌『世界』に、昭和36年1月号から昭和37年4月号まで連載されたものをまとめたもので、これまでに旺文社文庫と文春文庫から刊行されました。
 前回、文春文庫から再刊されたのは、同じくNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』の放映が決まった時のことでしたので、25年以上の時を越え、今回も同じような形で復刊されるということです。

 『史伝 西郷隆盛』は、いわゆる海音寺氏の遺作となった、大長編史伝の『西郷隆盛』(朝日新聞社刊。全九巻)とは別の作品ですが、その基礎になったものだったと言えます。
 海音寺氏は、『西郷隆盛』(朝日新聞社刊)第一巻の「あとがき」の中で、


「作家は小説でも、年が立てば書き直したくなるものですが、史伝はとくにそうです。史伝は一面から言えば研究ですから、研究が進むにつれて、どうしても考えがかわって来ます。書き直さざるを得ないのです」


 と書かれていますが、「史伝は一面から言えば研究である」というスタンスを生涯貫き通されました。

 史伝文学とは、作中に一切のフィクション(虚像)を交えず、史実(歴史上の事実)のみを徹底的に追求することによって成立する文学形式です。
 史伝は一般的な小説とは異なり、一度完成してしまえばそれで終わりというわけではなく、新たな史料の発見や作者自身の人生経験の積み重ねによる、考え方や解釈の変更などが生じた際には、書き直しが必要となる文学と海音寺氏は定義付け、自身の西郷隆盛に対する研究が深まるにつれ、自身の史伝作品を何度も何度も書き直されました。
 つまり、海音寺氏の描く『西郷隆盛』という史伝は、まるでワインのように、時が経つにつれ、熟成されていった作品群だと言えるのです。
 このような海音寺氏の史伝に対する真摯な態度とそれにかける情熱が、最終的に大長編史伝『西郷隆盛』(朝日新聞社刊。全九巻)へと結びついていくわけですが、その基礎になったとも言える作品が、今回復刊される『史伝 西郷隆盛』です。

 『史伝 西郷隆盛』は、西郷家の始祖・菊池家にまつわる話から始まり、西郷隆盛の誕生、永遠の師である藩主・斉彬との出会い、将軍継嗣問題への奔走、そして僧・月照との自殺未遂を経て、奄美大島への潜居に至るところで話が終わります。西郷の前半生が詳しく、そしてダイナミックに描かれており、西郷のことを知らない一般の方に対しても、読みやすくそして分かりやすい作品に仕上がっています。
 来年の大河ドラマ『西郷(せご)どん』の予習にもなると思いますので、今回の復刊を機に、是非一読をおすすめします。

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(以前に刊行されていた『史伝 西郷隆盛』二冊)


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【2017/02/01 18:00】 | 西郷隆盛
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 ホームページ内に設けている「鹿児島史跡旅行案内」と「鹿児島イベント情報」を大きくリニューアルしました。

 まず、「鹿児島史跡旅行案内」ですが、掲載している情報が随分古いものとなっていましたので、この度全面的に書き直しました。
 従来、鹿児島の史跡巡り案内のページは、「鹿児島史跡旅行案内」と「鹿児島史跡巡り もっともっと詳細版!」の2つに分けていましたが、それを分かりやすく1つに統合し、掲載写真も新しいものに変え、内容も全面的に書き改めました。
 なお、近日中に、ページ内にgoogleマップを埋め込み、場所等をより分かりやすく表示したいと考えています。

 次に、「鹿児島イベント情報」ですが、これまた随分古い情報を載せたまま放置していましたが、今後は鹿児島の歴史関係イベントを掲載していきたいと思います。
 手始めに、2年後に迎える明治維新150周年の関連イベントや黎明館関係等のイベントを掲載しました。
 掲載したイベントは下記のとおりです。


幕末薩摩外交-情報収集の担い手たち-
開催期間:平成28年5月24日(火)~9月11日(日)※現在開催中
場所:鹿児島県歴史資料センター黎明館3階企画展示室
参考URL:https://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/


青少年「薩長同盟」フォーラム
日時:平成28年8月11日(木・祝日)
場所:鹿児島県歴史資料センター黎明館2階講堂
参考URL:https://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/


大阪検定・大阪企業家ミュージアム連携事業
五代友厚を学ぶ連続講座
第1回「五代友厚のチャレンジとイノベーション(鹿児島編)」
日時:平成28年8月26日(金)
場所:大阪企業家ミュージアム(大阪市中央区本町1-4-5大阪産業創造館地下1階)
参考URL:http://www.osaka.cci.or.jp/event/seminar/201606/D25160826017.html


明治維新150周年記念シンポジウム
日時:平成28年10月22日(土)
場所:鹿児島市民文化ホール(第2ホール)
参考URL:https://www.pref.kagoshima.jp/aa03/kensei/sesaku/m150sympo.html


 どれもこれもワクワクするイベントですね。
 イベント会場の近隣にお住いの皆様やご興味がある皆様、是非足を運んで頂きたいと思います。
 私も可能な限り参加したいと考えています。

 ※上記イベントについては、念のため主催者発表の情報と照らし合わせてご確認ください。


【2016/08/02 20:06】 | 西郷隆盛
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本日、ホームページを更新しました。
ものすごく久しぶりと言いますか、約7~8年ぶりの更新です。

私にとってこの約8年間というのは、大きな転機となったことは確かです。
7年前に思いもかけない形で心臓に難病が見つかり、長期入院したのをきっかけに、一度その病気が原因で死の淵を彷徨うことにもなり、自分で振り返っても、ほんと大変な年月だったなと思います。

これは言い訳にしか過ぎませんが、このような状態であったことから、正直、ホームページの更新まで気が回りませんでした。
なかなかやる気が起こらないと言いますか、ホームページ用の文章はいくつも出来上がっているのに、更新の作業をすることが、一種億劫になっていたような気がします。

おそらく気持ちの問題なのでしょうね。
心に余裕が無いと、他のことに気が回らなくなると言いますか。
そう考えると、改めて「健康」って大事だことだな、と思います。
健康であるか否かによって、人間のモチベーションは、自ずから変わってくるものでしょうから。
また、私のように元気で飛び跳ねていた人間が、急にそういう状態に陥ることになるのですから、人生ってほんと不思議なものです。

と、何だか暗い話になってしまいましたが、私もそう悲観的には捉えておらず、毎日前向きに過ごしておりますのでご心配なく(^^)

さて、今回、ホームページ内にアップしたのは、下記の4つの内容です。


テーマ随筆第16回「征韓論について(前編)及び(後編)」
我が愛すべき幕末第22回「大政奉還について」
西南戦争の十一人第6回「天性の軍略家・野村忍介」
走れ!吉之助「使徒襲来―ドリンクバーを巡る攻防戦」


いずれも随分以前に書き終えていたものばかりで、征韓論からドリンクバーで起こった事件のことまで、硬軟入り混ぜていますが、ご興味のあられる方は是非お読み頂けると嬉しいです。


【2016/05/02 19:18】 | 西郷隆盛
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先日、と言っても、かなり前のことですが、BS-日テレで放映された、

「西南戦争をめぐる新推理! 西郷隆盛暗殺計画の真相を追え!」

というテレビ番組を見ました。
この番組は、歌舞伎俳優の片岡愛之助さんが司会進行を務める「解明 片岡愛之助の歴史捜査」の第2回目で、だいぶ前に録画していたものをようやく見たのですが、今回はその感想を少し書きたいと思います。

まず、番組タイトルから、かなり期待して見たのですが、「西郷隆盛暗殺計画の真相を追え」という副題が付いているわりには、そのことに関する言及が少なかったように思います。
番組の約4割くらいは「西郷隆盛の写真の謎」の話でしたので。
ご覧になられた方はお分かりかと思いますが、その内容は、近年出版された、

斎藤充功『消された「西郷写真」の謎:写真がとらえた禁断の歴史』

を元にした考証でした。

西郷写真の有無に関しては、これまで数えきれないほど話題にのぼった話ですが、「結局は一枚も存在しない」というのが真相であり、結論であるかと思います。
非常に有名なエピソードですが、西郷は明治天皇から写真を所望された際にもそれを断っています。
西郷が敬愛した明治天皇にさえ、そのような態度をとっていることからしても、やはり西郷は、写真を一枚も撮っていないというのが真相だと思います。

また、西郷写真の有・無が、どうして西郷暗殺計画に繋がるのか? そもそも疑問ですが、番組内では、

「西郷という人物を直接見たことのある、あるいは知っている人物は、鹿児島にはそうたくさん居なかった。実際に西郷を見て、知っている数少ない人物の中に、密偵の一人で、西郷暗殺計画を自供した中原尚雄がいる。彼が暗殺者として選ばれるに到ったのは、西郷の顔を知っていたからだった」

みたいな話になっていましたが、少しこじつけに近いですね。。。

いわゆる「東獅子」と呼ばれる、警視庁から派遣された密偵による「西郷暗殺計画」が本当にあったのかどうかについてですが、番組内では、当時の鹿児島県裁判所の判事7人が、停戦と暗殺事件の真相解明を直訴した明治天皇宛の上奏文(密訴)を証拠としてあげ、暗殺計画は真実であり、また、その黒幕は、大久保利通だったという解釈をおこなっていました。

判事が西南戦争解決訴え 明治天皇宛て文書発見
(2012/06/24 付け「47トピックス」)
http://www.47news.jp/47topics/e/230817.php

まず、当時の裁判所の判事がそういった直訴をおこなった点ですが、はっきり言ってしまえば、当時の鹿児島県は、行政機関のトップであった県庁を筆頭に、警察などの組織も全て私学校党に握られている状況でしたから、裁判所の判事が揃って直訴したことをもってして、それが真実であったとするのは、少し無理がある解釈だと言えましょう。

また、大久保が暗殺計画の黒幕であったという説についても同じです。
西郷と言えば大久保、西郷対大久保、大久保対西郷と、明治維新後は常に対立構図で話されがちですが、二人は政治的に対立し、袂を分かったとは言え、お互いに憎しみの気持ちを抱くほど、険悪な関係であったとは考えられません。
いかに大久保が策士であったとは言え、簡単に西郷暗殺命令を出すような軽率な人物ではなかったでしょうし、大久保がそのような愚策を考えるはずも無かったと思います。
鹿児島の尚古集成館副館長の松尾千歳氏も、番組内で同じような趣旨の発言をされていましたが、もし、西郷を暗殺したとしたならば、その影響は計り知れなく、鹿児島全域が暴徒化することは必定だったでしょうから、大久保がそのような指令を出すことはあり得なかったと私も思います。

ただ、西郷暗殺計画が全く根拠が無かった話であったとも思えません。
暗殺計画を自供した中原尚雄やその話を直接聞いたとされる谷口登太の話などを総合して考えれば、密偵達に対し、「いざとなれば、西郷や私学校幹部と刺し違えてでも目的を果たせ」くらいの話は、大久保ではなく、大警視の川路利良からあったようには思います。
いわゆる「西郷暗殺計画」というものは、全く根も葉もない「シロ」と言う訳ではなく、「グレー」に近いものはあったと思うのですが、その指令が大久保から出ていたということは、やはり考えづらいですね。


【2015/08/17 12:14】 | 西郷隆盛
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