西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
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 新年、明けまして、おめでとうございます。
 本年も西郷隆盛のホームページ「敬天愛人」をよろしくお願いいたします。


 私がこの西郷隆盛のホームページ「敬天愛人」を開設したのは、今から17年以上前の1999年9月24日のことです。途中体調を崩し、なかなか更新できない時期もありましたが、振り返れば長い間やってきたものです。
 私がホームページを開設した当時は、他にも幕末の歴史系ページがたくさんありましたが、今やそのほとんどが活動停止状態に陥っています。
 確かに、今のネット社会は、ホームページからブログ、フェイスブック、ツイッター、インスタグラムなどに媒体自体が移行し、個人でホームページを作成・運営することが流行らない時代となりましたが、私としましては、西郷生誕200年にあたる2027年を目指して、これからも頑張っていきたいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 さて、新年が始まったばかりなのに来年のことを言うのは鬼が笑いますが、来年平成30(2018)年は、明治維新150周年にあたる年です。
 昨年くらいから、鹿児島では大々的に「明治維新150周年」を謳い、シンポジウムを始めとする様々なイベントが企画・開催されています。
 また、来年はNHKの大河ドラマとして『西郷(せご)どん』が決まり、鹿児島はとても盛り上がっている状態ですが、以前、平成28年9月1日付けのブログ「週末は歴史漬け①-五代友厚のチャレンジとイノベーション-」の中でも少し触れたとおり、明治維新150周年の節目を迎えるにあたって、「鹿児島における明治維新史の再検証」が重要なポイントになってくるのではないかと思っています。

 時はだいぶ遡り、明治維新100周年を迎えた年、つまり昭和43(1968)年はどうであったかと言うと、やはり鹿児島における明治維新と言えば、西郷隆盛であり、大久保利通が全てであったと思います。
 当時「明治百年」という言葉が頻繁に使われ、それに伴う記念事業がたくさん行われ、また、関連書籍なども多数出ましたが、今それらを読み返してみても、やはり「薩摩藩=西郷と大久保」がキーワードとなっているものが多く、鹿児島で語られ、そして研究されてきた明治維新史は、どちらかと言えば、西郷と大久保が中心であり、彼らの「英雄伝」的な側面が色濃く出ていたように思います。
 少し言葉が過ぎますが、彼らが明治維新における「スーパーマン」のような存在として描かれ、さも二人の活躍で明治維新が成立したと言わんばかりの勢いで語られる傾向がややもすればあったのではないでしょうか。

 確かに、西郷と大久保の二人が薩摩藩の明治維新の原動力となったことは間違いありません。彼らの残した功績は偉大と言えます。
 しかしながら、西郷や大久保の二人の活躍だけで歴史を動かせたわけがなく、彼らを取り巻く様々な人物、例えば、島津斉彬であり、島津久光であり、そして小松帯刀といった数多くの存在があってこそ、二人は縦横無尽に活躍でき、幕末という大きな歴史を動かしたと言えます。
 平成30年に明治維新150周年の節目を迎えるにあたり、薩摩藩の明治維新を少し違う角度からも眺め、多角的にそして多面的に見つめ直すことが重要なのではないでしょうか。

 誤解されては困りますが、これは西郷や大久保を否定しているわけではありません。そのような狭小な考え方ではなく、

「薩摩藩の明治維新史を正確に理解するためには、新たな視点を持つことが重要になってくる」

 ということを意味していると、ご理解頂ければと思います。
 また、もちろんそれに併せて、西郷と大久保の再検証も必要となってくるでしょう。
 彼らは明治維新における偉人と崇め奉られたことから、実像以上に虚像部分が肥大化し、独り歩きしている面も多々あることから、彼らの生涯を再度点検し直し、「新たな西郷像や大久保像を再構築する」ということも併せて必要になってくるのではないかと感じています。


 少し前置きが長くなりましたが、薩摩藩における明治維新史を捉えなおすにあたり、私自身が考える、幕末の薩摩藩における西郷と大久保以外の新たなキーパーソンを前期と後期の二期に分けて挙げるとすれば、やはりこの四人ではないかと思います。

(前期)島津斉興と調所広郷
(後期)島津久光と小松帯刀


 小松を除き他の三名は、どちらかと言うとこれまでの歴史では「悪者」として扱われ、数ある幕末関係の小説の中でも、余り良い形では描かれていません。
 しかしながら、明治維新において、薩摩藩があれだけの大きな存在感を示し、そして多くの人材を輩出して活躍できたのは、その元を質せば、やはり島津斉興と調所広郷の二人が窮地に陥っていた薩摩藩の財政を立て直したことに尽きると言えます。
 その点から言えば、二人の功績は薩摩藩の幕末維新史において非常に大きかったと言えますが、英名君主と謳われた斉彬との関係から、二人は悪者という風に捉えられ、常に悪人扱いです。
 小説であればそういった描き方も致し方ないのかもしれませんが、薩摩藩の明治維新史を正確に理解するにあたっては、二人の功績を再認識することは最も重要なことなのではないかと思っています。
 特に調所に関して言えば、後年完膚なきまでに否定され続けた人物ですので、調所の復権は必要不可欠になってくるのではないかと思っています。

 幕末初期の薩摩藩と言えば、やはりどうしても島津斉彬という人物がキーパーソンとして挙げられがちですが(私も若い頃はそう考えていました)、斉彬の活躍は、斉興と調所が作り上げた基礎があったればこそであり、もし斉興と調所が作り上げた財政的な基盤が無ければ、斉彬は幕末期にあれほどの存在感を示し得なかったのではないでしょうか。
 斉興と調所が耕した土地に斉彬が良質な肥料を巻き、そしてその肥沃な土地を背景に国事に参画していったのが島津久光であり、そしてそれを支えたのが小松帯刀でした。
 随分昔からこれまでホームページの掲示板等にも書いてきましたが、西郷と大久保の活躍は、小松帯刀や桂久武といった、とても頭脳明晰で優秀な門閥家老が居たからこそ可能であったということを決して忘れてはなりません。

 つい先日も本ブログ内で書きましたが、幕末という時代は純然たる封建制の世の中です。いかに西郷や大久保が優秀であったとしても、彼らの力には限界があり、桂や小松といった上級武士層の協力なしには、藩政を動かすことなど到底叶わなかったのです。
 そのため、薩摩藩の幕末史を見ていると、要所で必ず小松や桂の存在が出てきます。薩長同盟しかり、薩摩藩の倒幕路線しかりです。
 その点から言えば、薩摩藩の明治維新史における小松の功績というのは、とてつもなく大きなものだったと言えます。
 また、島津久光ですが、彼は西郷との確執で、どうしても悪者として見られがちですが、もし久光が凡庸な人物であったとしたならば、薩摩藩はあれほど幕末史において活躍することは出来なかったと思います。それは他藩の状況を見れば明らかです。
 久光が聡明で、かつ薩摩藩を一つに束ねられる能力があったからこそ、薩摩藩は水戸藩のように空中分解することもなく、明治維新史に多くの人材を輩出し得たと言えるのではないでしょうか。

 新年早々またもや長くなりましたが、来年明治維新150周年の節目を迎えるにあたって、私自身も新たな視点から薩摩藩の明治維新史を見つめ直したいと思っています。
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【2017/01/06 18:30】 | 幕末・維新
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 島津久光は、自らが兵を率いて上京する計画を立てるに際し、朝廷工作を試みるため、当時、股肱の家臣の一人であった中山尚之介を、文久元(1861)年11月9日、京都に派遣しました。
 久光の腹心であった小松帯刀の日記、『小松帯刀日記』(鹿児島県史料集22)には、11月9日の項に、「中山岸良上京被仰付今日出立ニ相成候事」と書き記されています。
 実は、大久保の改名の時期を解き明かす大きなヒントは、『大久保利通伝』や『大久保利通文書』ではなく、この『小松帯刀日記』にありました。

 大久保が久光から深意を聞いた2日後の文久元(1861)年12月18日、久光は大久保に対して、中山に続いて上京し、公家の近衛家と折衝するように命じました。
 実はこのことも『小松帯刀日記』の12月18日の項に記されているのですが、そこには、


一 大久保正助殿上京被仰付候事


 と書かれており、この記述から、12月18日の段階においても、大久保がまだ正助と名乗っていたことが分かります。
 そして、大久保はその一週間後の文久元(1861)年12月25日、準備を整えて、京都に向けて出発しました。
 実は、この上京は大久保にとって初めてのことでした。いわゆる初上京ということです。この上京は、大久保にとって外交官としての本格的な対外デビューとも言えます。

 鹿児島城下を出発した大久保は、出水筋(西目筋)を通り、肥後の水俣にさしかかると、偶然にも京都から帰国途中の中山尚之介とばったり出くわしました。
 中山から京都の情勢について詳しく話を聞いた大久保は、一度鹿児島に戻って久光や小松の指示を仰ぐ必要があると判断し、翌12月26日、二人は揃って鹿児島に戻りました。
 その後、大久保は小松や中山と相談のうえ、善後策を講じた後、2日後の12月28日、京都に向けて再び出発することになるのですが、注目すべきは、その前日の12月27日に書かれた小松の日記です。
 小松の日記には次のように記されています。


一 大久保一蔵御用ニ而呼返シ八ツ前ヨリ被参居候


 大久保が鹿児島に引き返し、小松の屋敷に相談に来たことが書かれた箇所ですが、この小松の日記では、大久保の名前が「正助」ではなく、「一蔵」に変わっています。
 つまり、12月18日、京都に行くよう命じられた大久保の名前は「正助」であったにもかかわらず、12月27日、一旦鹿児島に戻った時の大久保は「一蔵」になっていたということです。

 この『小松帯刀日記』の記述から判断すると、おそらく大久保は、久光から上京を命じられるに際し、「一蔵」と改名したものと考えられます。鹿児島を出発後、いきなり改名することなどあり得ないでしょうから、おそらく最初に鹿児島を出発した12月25日の段階で、大久保は既に「一蔵」に改名していたと考えるのが自然だと思います。

 となると、上京の命令を受けた文久元(1861)年12月18日から、鹿児島を出発した12月25日までの約1週間の間に、大久保は「正助」から「一蔵」に改名していた可能性が高いと言えます。
 前述しましたが、この時の上京は、大久保の外交官として本格的なデビュー戦のようなものです。大久保自身、気負い立つような状態であったと思いますので、その決意を込めての改名だったのかもしれません。
 また、久光から改名するように言われた可能性もありますね。

 文久元(1861)年12月28日、既に正助から一蔵へと改名していた大久保は、鹿児島を再出発した後、年が明けた文久2(1862)年1月5日に下関に到着しました。
 大久保はその足で白石正一郎の屋敷に立ち寄ったことから、白石はその日の日記に、「正月五日薩州大久保一蔵君上下四人來駕急ニ御上京ナリ」と記したということで、前回紹介した『白石正一郎日記』の記述と完全に辻褄が合います。

 大久保は大変筆まめな人物で、その生涯で膨大な日記を書き残していますが、残念ながら文久元(1861)年に書かれた日記は、12月1日から12月16日までしか現存していません。12月16日と言えば、大久保が久光の深意を聞いて感激したというあの日です。
 大久保の性格から考えると、改名したのであれば必ず日記に書き残していたでしょうし、また、もし上京にあたって久光から改名するように命じられたのであれば、必ずその旨を記していると思われますので、12月16日以降の日記が残っていないのは、大変残念です。

 以上、少し長くなりましたが、私の調べた限りでは、大久保が「正助」から「一蔵」に改名したのは、文久元(1861)年12月18日から同年12月27日までの10日間の間で間違いないと思いますが、可能性としては12月25日までの約1週間の間が高いと思います。
 その期間、もちろん西郷は奄美大島に居る状態ですから、そんなことは知る由もありません。

 最後に、一つだけ余話を。
 生前の大久保を知る関係者から、大久保の逸話などを聴き取り、それをまとめたものに、松原致遠『大久保利通』という書籍がありますが、この中で元薩摩藩士で海軍中将の松村淳蔵が、「一蔵と言ったのはズッと後ぢゃ。お側役になってからの事ぢゃ」と語っていますが、これは完全な記憶違いです。大久保が側役に昇進したのは、文久3(1863)年2月10日のことですから、一蔵に改名して既に一年以上月日が経っています。

 以上、私が調べた結果ですが、何分手持ちの資料で調べた結果ですので、もし大久保が改名した詳しい日付が書かれている史料をご存知の方は、是非ご教示願います。


おわり

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【2016/12/08 18:00】 | 幕末・維新
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 前回は、文久元(1861)年12月14日の段階で、大久保がまだ「正助」を名乗っていた根拠を書きましたが、実はそのわずか22日後の年が明けた文久2(1862)年1月5日、大久保の名前が「一蔵」に改名されていたことが分かる記録があります。

 これは『大久保利通伝』にも引用されているものですが、幕末期、数多くの志士たちを経済的に支援したことでも知られる、下関の豪商・白石正一郎の日記の文久2(1862)年1月5日の項に、次のような記述があります。


正月五日薩州大久保一蔵君上下四人來駕急ニ御上京ナリ
(『維新日乗纂輯1 白石正一郎日記』より抜粋)



 これは、大久保が久光の命を受けて京都に向かう途中、下関の白石邸に立ち寄ったことを示す記録ですが、年が明けて文久2(1862)年になった途端、大久保の名は「正助」ではなく、「一蔵」となっていることに注目すべきです。

 では、なぜこの短期間に大久保が改名することになったのか?

 を考える必要が出てきますが、それは当時の歴史的な背景を押さえる必要がありそうです。


 大久保が改名するに至った、文久元(1861)年末から文久2(1862)年初頭にかけた時期は、薩摩藩主の実父で、当時藩政を掌握していた島津久光が、いよいよ薩摩から中央政局に乗り出そうとしていた時期と重なります。
 この辺りの状況は、次に示す大久保の日記に全てが集約されていると言えます。
 文久元(1861)年12月16日の項に、大久保は次のように書き記しています。


順聖院様御忌日故御廟所エ参詣心祈丹誠ヲ凝シ
大事云々泉公江奉願候處
別而克御都合御深意段々承知仕
感激落涙嗚呼難盡言語
(『大久保利通日記上巻』より抜粋。一部旧字等を変換)



 読みやすくするために改行しましたが、この日は前藩主斉彬の月命日であったことから(斉彬は安政5(1858)年7月16日逝去)、大久保は斉彬(順聖院)の墓所福昌寺に参詣し、心をこめて祈念した後、久光(泉公)に対し、大事云々(久光の率兵上京計画について)を言上したところ、久光が自らの意気込みや考えなどの深意を話してくれたので、言葉には尽くしがたいほどの感激・感動を覚えたと、大久保は書いています。
 おそらく斉彬の月命日にあたり、国政に乗り出す不退転の決意とでも言いましょうか、亡兄斉彬の遺志を受け継ぎ、国事周旋に乗り出す強い決意を、久光は大久保に打ち明けたのでしょう。大久保はそのことを聞いて、感涙にむせんだということです。

 実はこの久光の考えが、前回書いた平野らいわゆる志士連中に、「薩摩藩が倒幕に踏み切る」ものと誤解され、挙句の果てには薩摩藩士同士が京都伏見の寺田屋で斬り合う事件(寺田屋事件)に発展します。
 平野が自ら執筆した倒幕論策「尊攘英断録」を久光に対して提出しようと鹿児島に潜入したのは、こういった理由からなのです。

 大久保の改名から少し話がそれたように感じますが、実は大きく関係があります。
 大久保が「正助」から「一蔵」に改名したのは、この久光の率兵上京計画と密接な関係があると言えるからです。


(三)に続く

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【2016/12/05 12:38】 | 幕末・維新
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 大久保利通の伝記、勝田孫弥『大久保利通伝』(上巻)には、大久保の名前について次のように書かれています。


利通、幼名は正袈裟、後、正助と云ひ一蔵と称す、諱は利済、後、利通と改む、甲東は其号なり
(旧字は改めました)



 大久保に関して言えば、幕末の頃は「一蔵(いちぞう)」、明治後は「利通(としみち)」という呼び名が、最もしっくり来るのではないかと思いますが、前回のブログでも書きましたとおり、西郷隆盛が奄美大島に潜居していた万延元(1860)年の時点では、大久保はまだ「一蔵(いちぞう)」ではなく、「正助(しょうすけ)」と名乗っていました。

 では、一体、大久保はいつ「正助」から「一蔵」へと改名したのか?

 実は私自身、大久保の改名の時期について、これまで余り深く考えたことが無かったため、これを機会に簡単ですが少し調べてみました。

 先に結論から書きますが、残念ながら大久保が「正助」から「一蔵」に改名した詳しい日付までは特定できませんでした。
 ただ、その時期については、かなり絞ることが出来ました。

 まず、大久保の改名の時期を知るにあたって、最初に紹介した勝田孫弥『大久保利通伝』から調べてみましたが、大久保が一蔵に改名した日を特定できる記述は、残念ながらありませんでした。
 ただ、他の様々な史料から総合して判断すると、大久保は、文久元(1861)年12月18日から同年12月27日までの10日間の間に、正助から一蔵に改名したことは間違いなさそうです。
 その根拠について、これから順を追って書きたいと思います。


 大久保の書簡(手紙)が掲載されている『大久保利通文書』を調べてみると、「大久保正助」の名前が出てくる一番最後の書簡は、文久元(1861)年12月14日付けで、筑前浪士の平野国臣(ひらのくにおみ)が大久保に宛てて出したものです。(『大久保利通文書 第一巻』P72)

 その4日前の文久元(1861)年12月10日、平野国臣(当時の変名:藤井五兵衛)は、自ら執筆した倒幕論策とも言える「尊攘英断録」を当時兵を率いて上京することを計画していた島津久光に対して提出することを企て、元薩摩藩士の伊牟田尚平(当時の変名:善積慶介)と共に鹿児島城下に潜入しました。
 薩摩藩政府はその情報を聞きつけると、すぐさま平野たちを拘束しましたが、2日後の12月12日、大久保は平野と面会し、今回の来鹿の目的等を尋ねました。
 そして、その2日後の12月14日、平野は大久保に宛てて書簡を出しているのですが、その時の宛名が「大久保正助」となっています。
 『大久保利通文書』を調べた限り、この書簡以降、大久保正助の名前で出された、もしくは受け取ったものが他に見当たらないため、少なくとも文久元(1861)年12月14日までは、大久保は正助と名乗っていたと推測できます。

 ただ、平野と大久保は、僧月照が薩摩入りした安政5(1858)年11月に、既に面識がある間柄ですので、この文久元(1861)年12月14日の時点で大久保が既に一蔵と改名していたとしても、他藩出身の平野が以前の通称の「正助」と書く可能性も無いとは言い切れません。
 しかしながら、実際に平野が大久保と再会した文久元(1861)年12月12日の段階で、大久保がまだ一蔵に改名していなかったことは確証があります。
 この日、小松帯刀が大久保に宛てた書簡の宛名が、「大久保正助」となっているからです。(立教大学日本史研究会編『大久保利通関係資料 三』P174)

 また、もう少し詳しく調べてみると、平野の伝記である春山育次郎『平野国臣伝』の中に、大久保とは誠忠組の同志であった薩摩藩士・柴山愛次郎が、平野が大久保に書簡を出した同日の12月14日に、平野と共に鹿児島に入った伊牟田尚平宛てに書簡を出していますが、その文中に「正印」という言葉が使われています。
 文字通り「正印」とは「正助」のことを指しており、つまり大久保のことを言っています。
 この書簡には日付の記載が無いのですが、『平野国臣伝』にも書かれているとおり、その文中に「今晩は義士伝読差し越し候」という言葉があることから、文久元(1861)年12月14日付けのものであることは、ほぼ間違いないでしょう。鹿児島城下では、いわゆる「赤穂浪士」が吉良邸に討ち入った12月14日に、『赤穂義士伝』を輪読することが習慣としてあったからです。(現在も伝統行事の一つとして継承されています)
 以上のことから、文久元(1861)年12月14日の段階で、大久保はまだ正助と名乗っていたことは間違いないと思います。

 ちなみに、柴山愛次郎は、後に起こる薩摩藩士同士が相討った「寺田屋事件」で横死することになりますが、どうやら大久保の事を快く思っていなかったようです。前述した伊牟田尚平宛ての書簡の中で、柴山は「正印すかさん男にて」と書いています。
 文字通り捉えれば、柴山は「大久保は好かん男だ」と言っているのです。
 文面から察すると、単なる好き嫌いだけを言っているのではなく、「信用ならない男」みたいなニュアンスも含まれているかとは思いますが、柴山が罵ってこの言葉を使用していることは間違いありません。
 この書簡からも、有馬新七以下、誠忠組の激派と呼ばれた人々と大久保ら久光派との間に大きな確執があったことが想像できます。


(二)に続く

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【2016/11/28 12:30】 | 幕末・維新
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 五代友厚の講座を聞きに行ったのが8月26日(金)のことですが、一日はさんで、28日(日)は、大阪龍馬会主催の歴史作家・桐野作人先生の講演「薩長同盟論の現在」を聞きに行ってきました。

 桐野作人先生と言えば、何と言っても、南日本新聞連載の「さつま人国誌」です。
 鹿児島の新聞社・南日本新聞に連載中の「さつま人国誌」は、鹿児島県出水市出身の歴史作家・桐野作人先生が執筆されている鹿児島県の歴史に関する連載ですが、これがものすごく面白く、大変勉強になります。私のような薩摩藩関係の歴史が好きな方なら必読の読み物だと思います。

南日本新聞連載「さつま人国誌」
http://373news.com/_bunka/jikokushi/

 まず、この「さつま人国誌」の何がスゴイのかと言いますと、記事に書かれている全ての事項について、ちゃんとした根拠史料を明示し、その史料を裏付けにした上で詳しい検証が行われているだけでなく、それに加えて、桐野先生独自の解釈や歴史観もプラスされているということです。
 そのため、とても面白く読めますし、大変勉強になります。

 この「さつま人国誌」を読むと分かりますが、桐野先生の持たれている圧倒的な知識量とその該博さには、驚きを禁じ得ません。
 現代の歴史作家の中で言えば、おそらく桐野先生は、薩摩藩の歴史のことを一番理解されている方なのではないでしょうか。
 とにかく「さつま人国誌」は必読の書だと思います。
 既にご存じの方も多いかとは思いますが、先に紹介したURLからネットでも読めるようになっていますので、是非一度読んでみてください。
 また、それをまとめた単行本も刊行されていますので超オススメです!

 と、言う訳で、その桐野先生の講演会が大阪で開かれ、かつ内容も「薩長同盟に関すること」と聞いたら、行かない選択肢はありません。
 私自身は大阪龍馬会に所属しているわけではありませんが、すぐに申し込みをしました。

 講演会が開かれた場所は、大阪の本町と堺筋本町の間にある「AAホール」というところで、私も初めて行ったのですが、何とその隣りは、幕末の頃、勝海舟が大坂に開いた「海軍塾」があった場所と言うのですから、龍馬ファンの方々に対しては、何とも粋な計らいですね。
 大阪龍馬会主催の講演会には、以前にも一度参加したことがあるのですが、会場には30名ほどの方がいらしており、熱気でムンムンでした。少し聞き耳を立ててみると、参加者の方々が口にする言葉は、「龍馬」や「幕末」、「石碑」などなど、幕末関係のことばかり。さすがは大阪龍馬会の講演会だなあ、と私は感心しきりでした。

 さて、講演に先立って配付されたレジュメは、B4サイズで何と11枚!
 また、裏表を使用して、薩長同盟に関する参考資料がびっしりと貼り付けられています。これを読むだけでも、異常なまでにテンションが上がってきました。

 さて、講演の内容についてですが、全てを書くのは難しいので、かいつまんで要点だけを書きたいと思います。
 講演のタイトルは「薩長同盟論の現在」と付けられ、最初は薩長同盟締結の地とも言える「御花畑(おはなばたけ)」のことから話が始まりました。

 現在、鹿児島県歴史資料センター黎明館で開催されている下記企画展「幕末薩摩外交-情報収集の担い手たち-」の一番の目玉として展示されているのが、近衛家の別邸で、薩摩藩家老の小松帯刀が宿舎としていた「御花畑」の絵図です。


幕末薩摩外交-情報収集の担い手たち-
開催期間:平成28年5月24日(火)~9月11日(日)
場所:鹿児島県歴史資料センター黎明館3階企画展示室

https://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/


 近年、薩長同盟が締結された場所は、小松帯刀が宿舎としていた近衛家の別邸「御花畑」であることが確認され、また、その場所や規模等が特定されました。
 鹿児島県歴史資料センター黎明館が所蔵している数多くの史料の中に、「玉里島津家史料」というものがありますが、今年に入り、この史料の中に「御花畑」の絵図があることが確認され、その絵図が今回の企画展で展示されています。
 これはまた後で予定している宮崎・鹿児島の旅編でも書きますが、私も8月に鹿児島を訪れた際、この絵図を見ましたが、地図からでも十分想像できるほど、とても立派な建物です。

 この「御花畑」は、小松の宿舎というだけではなく、準藩邸的な使われ方をしており、一種迎賓館的な側面もあった建物です。
 2016年8月8日付けの「さつま人国誌」(第421回)にも書かれていますが、桐野先生は随分以前からこの御花畑があった場所を探されており、2008年、薩摩藩士であった葛城彦一の伝記『薩藩維新秘史 葛城彦一伝』の中に、「近衛家室町頭之御花畠御屋敷」という記述を発見し、御花畑が「室町頭」にあるのを突き止められたのを皮切りに、「御花畑」の研究は一気に加速して進むことになったのですが、それらの経緯や最新情報などについて、講演で詳しくお話が聞けました。

 そして、次に本題の薩長同盟論に入っていったわけですが、薩長融和の動きは随分早い段階からあったという話から始まり、薩長同盟の締結日、そしてその性質などについて詳しいお話が聞けたのですが、一番印象深かったのは、

「なぜ薩長同盟の合意文書が存在しないのか?」

 という点でした。

 私も随分以前から疑問に感じていたことでしたが、薩長同盟というのは、薩摩藩と長州藩がお互いに交わした合意文書(協定書や調印した文書)が存在しません。
 唯一あるのは、慶應2(1866)年1月23日、長州藩の木戸孝允が土佐脱藩浪士の坂本龍馬に宛てた書簡、これはとても有名な書簡ですが、木戸が京都で結ばれた六ヶ条の薩長同盟の内容を詳しく記し、龍馬にその内容を保障してもらう意味で、裏書きを求めたものです。(後に龍馬が朱書きで裏書きして返送しました)
 薩長同盟の内容が分かる文書は、実はこの木戸の龍馬宛ての書簡のみしか無く、その他には一切文書の類は存在していません。
 この書簡については、2003年10月、鹿児島県歴史資料センター黎明館で開かれた特別展「激動の明治維新」で実物が展示され、私もその時初めて実物を見ましたが、現在でも、龍馬が裏書きを記した朱色の文字が鮮やかに残っており、感動したのを覚えています。

 少し話がそれましたが、薩長お互いの合意文書が存在しないことから、いわゆる「薩長同盟」というものは、それほど重い同盟ではなく、長州藩が薩摩藩に対して一方的に求めた、いわゆる薩摩藩の片務的な義務を書いただけの同盟であったとする説があります。
 合意文書が存在しないのは、そのことが原因だったということですが、果たしてそうと言えるでしょうか?
 桐野先生は、当時の薩摩藩の方針(いわゆる島津久光の方針)と薩摩藩と木戸との間で交わされた合意内容に、大きな齟齬(隔たり)があったことが原因で、薩長の合意文書が作成されなかったのではないかと、その背景を詳しく語られましたが、まさしく溜飲の下がる思いで、私はそれを聞いていました。

 これは幕末当時の西郷に見られる行動パターンの一つですが、西郷という人は、独断専行の気がある人物です。
 西郷の生涯をつぶさに見ていると、藩の方針、つまり久光の命令から逸脱した行為を独断で行おうとしているケースが、しばしば見受けられます。
 そのことが原因で、西郷は処罰され、沖永良部島に遠島となった経歴もあるわけですが、同島から帰藩後も、多少はマシになり、表向きは久光の方針には従いながらも、肝心な時には、独断で事を進める傾向が出てきます。
 いわゆるこれは西郷のクセのようなものですね(笑)。

 越前福井藩主であった松平春嶽は、そんな西郷の気性を表すべく、西郷の師であり、君主でもあった薩摩藩主・島津斉彬が西郷のことを、「独立の気象(気性)あるが故に、彼を使う者私ならではあるまじく」と語ったという逸話を語り残していますが、まさしく西郷という人物は、独断専行で果断に事を進める傾向のある人物だったと思います。

 桐野先生は、薩長同盟が締結される約1ヶ月前、慶應元(1865)年12月18日、薩摩から家老の桂久武が上京してきたのは、当時京都藩邸に居た西郷を中心とした重役達が、ややもすれば自分の意志とは反する行動に出ていると知ったため、彼らの行動を軌道修正するべく、自分の考えや方針を守り、命令を遵法させるための意図があったということを根拠資料を交えながら丁寧に語られていました。
 通常は国詰めの家老であった桂が、わざわざ薩摩から上京してきたのは、当時京都に居た西郷が、また勝手な行動に突っ走らないかどうかを監視させる意味もあったということです。

 ここからは、直接的には桐野先生の講演の内容ではなく、今回の講演を聞いた上で、私が感じたこと、考えたことなどを交えて書きたいと思いますが、薩長同盟と言うのは、木戸が帰国する間際(直前)に慌ただしく口頭で合意したものであったため、文書には残っていない、というのが真相に最も近いのではないかと思います。
 私が薩長同盟締結について最も重要だと考えているポイントは、先程紹介した木戸が坂本龍馬に裏書きを求めた書簡の中に、龍馬自身が、

「表に御記被成候六條は小西両氏及び老兄龍等も御同席にて議論せし所にて毛も相違無之候」

 と書いている部分です。

 坂本龍馬が、

「(木戸が)表に記載した六ヶ条の盟約の内容は、小松帯刀と西郷の二人と木戸と自分が同席して話した内容に寸分も間違いありません」

 と書いた箇所ですが、龍馬の文面をそのまま理解するならば、薩長同盟締結の際に同席した薩摩藩関係者は、小松と西郷の二人だけだったということになります。
 当時は、小松と西郷の他にも、大久保や吉井(幸輔)、桂、奈良原(繁)なんかも居たにも関わらず、小松と西郷の二人だけが同盟締結の場に同席したというのは、どうも不自然な印象を持ちます。

 『桂久武日記』という史料集が鹿児島県立図書館から刊行されていますが、その中の慶應2(1866)年1月18日の項に、「小松家(御花畑のこと)に居た木戸から会って話がしたいとの誘いを受け、そこに島津伊勢(薩摩藩家老)、西郷、大久保、吉井、奈良原らも集まり、皆で国事について話し合った」と書かれているのですが、おそらくこの席上で同盟の話は出たのではないでしょうか。
 しかしながら、これだけ薩摩藩の重役達が揃いながらも、この日に同盟は結ばれませんでした。
 なぜならば、話が相当揉めたからだと思います。

 桐野先生が講演で話されていましたが、久光の考える方針とは、寛大な長州処分を引き出すことにより、長州藩がそれを受諾し、第二次長州征伐を回避することにあったわけですが、その一方で、長州藩を代表して上京してきた木戸の考えは違いました。
 木戸はいかなる処分も受けるつもりは毛頭なく、一歩も引かず、幕府との対決は止む無し、という考え方だったからです。

 最新の2016年9月5日付け「さつま人国誌」(第425回)「薩長同盟の成立(下)」において、桐野先生が『吉川経幹周旋記四』の記述を元に書いていますが、


「木戸の申し分は、昨年の首級(禁門の変の責任者として三家老と四参謀の首級を差し出したこと)によってすべて完了したと述べて、長州処分を遵奉する口ぶりではなかったので、西郷から今日はまずこれを忍ぶべきである。他日、雲霧が晴れて、(久光公が)ご上京の節に(長州への寛大な処分を)嘆願したいと伝えたが、(木戸は)同意する色を見せなかったという」
(「さつま人国誌」(第425回)より抜粋)


 木戸は以上のようなで考え方であったため、久光の方針(長州征伐回避論)と木戸の考え(幕長決戦論)には、当然大きな差があり、薩摩藩関係者としては、久光の意向を逸脱した、長州藩を支援するような軍事的な同盟は結べなかったというのが真相だと桐野先生は語られていましたが、まさしくその通りだと思います。

 桂の日記には、その日は「深更迄相咄」と書かれており、話は深夜まで及んだことが窺えますので、両者の間でかなりの長時間話し合いが続いたが、結局は物別れに終わったというのが真相ではないでしょうか。
 また、もう少し考察するならば、この会合に出席していた奈良原喜八郎(後の繁)という人物は、いわゆる久光の意向を信奉し、忠実に実行する、言葉は悪いですが久光の僕(しもべ)のような存在であり、後年、西郷や大久保と事ある毎に意見が相違し、衝突した人物です。
 彼はいわゆる藩内における保守派の代表的人物であった人ですから、おそらく彼が席上に居ては、まとまる話もまとまらなかっただろうな、とそんな風に私は感じています。

 この慶應2(1866)年1月18日~19日深夜にかけて行われた御花畑での話し合いは、薩長同盟の事前交渉であったと考えるべきでしょうね。
 しかしながら、木戸はここで薩摩藩との考え方に大きな溝があることを悟り、帰国の決意を抱きます。
 このまま京都に居ても話し合いは平行線に終わると踏んだからでしょう。

 そして、いよいよここで坂本龍馬の登場です。
 龍馬は翌1月20日に薩摩藩の二本松藩邸に入るわけですが、おそらくその足で木戸の元を訪ね、18日から19日の深夜にかけて話し合われた内容を聞いたのではないでしょうか。
 そして、当然、龍馬は西郷の元を訪れたはずです。
 全くの想像ですが、木戸は翌21日に京都を去る予定になっていましたので、龍馬は「このまま木戸を手ぶらで帰しても良いのか」みたいな話を西郷にしたやもしれません。
 龍馬に言われるまでもなく、おそらく西郷もそして一番の同志でもある大久保も、そのことを相当悩んでいたのではないでしょうか。
 木戸の考え方に同調して長州支援の軍事的な同盟を結ぶことは、いわゆる久光の方針(趣旨)に反することにも繋がるからです。

 先程紹介した『桂久武日記』の1月20日の項に、桂が「体調不良のため、木戸の送別会(「別盃」と書かれています)に出られないということを大久保が西郷に会うようなので言付けた」という記述が出てきますが、この記述からも、大久保は何らかの理由で西郷と会う約束をしていたことが窺えます。
 おそらくですが、大久保自身も、このまま木戸を長州に帰すべきかどうかを思案していたのではないでしょうか。

 そして、翌21日、事態は急転直下します。
 小松帯刀と西郷の二人と木戸と龍馬が同席のうえ、御花畑において、六ヶ条の薩長同盟が無事に結ばれたのです。
 ここに大久保が入っていないのは、大久保も木戸と一緒に帰国するメンバーに入っており、忙しかったからだと理解できなくもないですが、想像を膨らませるならば、大久保の役回りは、奈良原ら保守派の押さえに動いていたからだと考えられなくもありません。

 また、もっと想像するならば、西郷との話し合いで、久光の意思に反する軍事的側面が強い同盟を結ぶため、どちらに転んでも(つまり、結果的に久光の怒りを買ったとしても)、どちらかが生き残れるようにしたのかもしれません。
 これはあくまでも想像ですが、寺田屋事件前の二人のやり取りの前例もありますから、あり得ない話では無いと思います。

 また、桐野先生も講演で話されていましたが、薩長同盟締結の場に小松が立ち会ったのは非常に重要だったということです。
 おそらく西郷と大久保は、最終的な結論を小松に相談して委ねたのでしょう。木戸の考える方向性を飲んで同盟を結んで良いかどうかを小松に相談したということです。
 小松自身は、久光の考える方針から逸脱していることは認識していながらも、結果的には木戸が帰国する直前に、おそらくGOサインを出したのでしょうね。
 小松としては、久光に対して何とか言い訳が出来るレベルだと考えたのかもしれません。
 以上のように考えると、薩長同盟を結ぶかどうかのイニシアチブは、西郷や大久保ではなく、実は小松が握っていたと考えるべきだと思います。

 これは私の持論でもありますが、西郷や大久保は、当時は薩摩藩の重役の身分にあったとは言え、それは「一代限りの特例」であり、結局、藩を動かすことが出来るのは、小松や桂といった門閥家老であったということは、絶対に押さえておかなければならない事実だと思います。
 西郷や大久保がいかに藩士達に慕われていたとしても、小松や桂の協力なしには、何も出来なかったというのが現実だったのです。
 それは、後の倒幕のための挙兵を画策するに際しても言えることです。

 そして、坂本龍馬ですが、「実は、龍馬は薩長同盟には余り関与しなかった」みたいなことを言われた時期がありましたが、これまで書きましたとおり、薩長同盟の締結にあたっては、龍馬も非常に重要な役回りを演じたことは明白だと思います。
 これも想像ですが、「木戸の帰国」という、最悪のシナリオを前にして、龍馬が薩摩藩関係者に働きかけたことが、最終的に小松のOKが出た要因になったとも考えられるからです。

 小松と西郷は、帰国する間際の木戸を呼び止めたかどうかまでは分かりませんが、とにかく木戸が帰る直前に最後の話し合いを持ち、とても慌ただしかったでしょうが、お互いに口頭で了承に至ったのが、「薩長同盟」であったと考えるのが、最も素直に理解できるような気がします。
 このような別れ間際に短時間で話をまとめた同盟であったため、木戸は後日それが履行されるかどうか不安に思い(この辺りが神経質な木戸らしいと思いませんか?)、龍馬に裏書きを求める書簡を送った、という風に考えるのが、一番理解しやすいように思います。

 と、ものすごく長くなりましたが、今回の桐野先生の講演会を聞いて、これまで頭の中にあったモヤモヤが一気に晴れたような気がしました。
 今回の講演は、午後1時半前から始まり、午後5時過ぎまで、途中10分間の休憩を挟んで3時間半以上ありましたが、余りにも面白くて、アッという間に時間が過ぎ去りました。
 このような講演なら、24時間でも聴いていられますね。いつまでも聞いていたい感覚を持ちましたし、とても貴重な話が聞けたと思っています。

 しかし、私のホームページもだいぶ書き直さなくてはならない時期にきましたね。結構間違いが多いような気がします(^^;

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講演「薩長同盟の現在」の様子

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【2016/09/07 12:25】 | 幕末・維新
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 先週末は歴史系の講座・講演会に出席して来ましたので、その感想や報告などを2回に分けて簡単に書きたいと思います。

 まず最初は、鹿児島イベント情報にも掲載していますが、先週8月26日(金)に大阪企業家ミュージアムで開催されました

大阪検定・大阪企業家ミュージアム連携事業
五代友厚を学ぶ連続講座
第1回「五代友厚のチャレンジとイノベーション(鹿児島編)」

 に出席してきたことについてです。

 同講座の講演者は、随分以前からお世話になっておりますが、以前鹿児島県歴史資料センター黎明館で学芸員をされており、現在は鹿児島県知事公室政策調整課で、明治維新150周年記念事業を担当されておられる吉満庄司先生です。

「五代友厚の経済感覚を育んだ 薩摩・長崎・ヨーロッパ」

 というタイトルを付しての講座だったのですが、とても分かりやすく、そして興味深い講座でした。

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講座の様子

 昨今、NHKの朝の連続ドラマ『あさが来た』で脚光を浴びている友厚(何だか才助と書く方がしっくり来るのですが)ですが、この講座の中では、その友厚の真像やその国家観についても詳しく触れられた他、総括として、これまでの鹿児島における明治維新観の再検証についても話が及び、私自身、とても貴重な話が聞けたと思っています。

「鹿児島における明治維新観の再検証」

 という言葉は、私が勝手に作った造語ですが、これまで鹿児島で語られ、研究されてきた幕末維新史はと言うと、どちらかと言えば西郷や大久保が中心であり、少し言葉が過ぎる点はありますが、いわゆる「英雄伝的」な側面が多かったように思います。
 しかしながら、西郷や大久保の二人の活躍だけで歴史を動かせたわけもなく、様々な人物、例えば、小松帯刀であったり、五代友厚であったり、そして島津久光であったりと、そういった数多くの人物が薩摩藩の原動力となり、大きな幕末の歴史を動かしたと言えます。
 平成30年に明治維新150周年を迎えるにあたり、これまでの薩摩藩の明治維新観を少し違う角度から眺め、多角的そして多面的に見ることで明治維新を捉えなおす、という観点から、現在、様々な明治維新150周年事業を進められているとの話を聞き、私もとても納得した次第です。

 また、同講座終了後、ものすごく貴重な史料を直接見ることが出来ましたので、その報告も書きたいと思います。
 
 その史料とは、五代秀堯筆写「新訂万国全図」です。

 五代友厚のことを語る際、必ずと言って良いほど出てくるエピソードが一つあります。

 友厚がまだ少年であった14歳の時、父である秀堯が外国から購入した世界地図の模写を島津斉彬から借用した際、友厚はこれを二枚書き写して、一枚は斉彬に対して献上し、残った一枚を自宅の書斎の壁に貼り、日夜これを眺めて過ごしました。
 友厚が西洋のことに関心を持ち、そして壮大な世界観を持つにいたったのは、この事が大きなきっかけとなったのです。

 ちなみに、このエピソードについて、『五代友厚伝記資料第一巻』には次のように書かれています。

君年十四、太守斉彬公、曾て外国にて購ふ所の與地図の臨摹を、父秀堯君に委せらる。秀堯君、又之を君に命ず。君喜んで二葉を摹し、其一葉は公に呈し、一葉を常に書斎の壁間に掲げ、文武の余暇、日夜凝視して曰く、嗚呼、英国の盛んなる、眇焉たる一孤島を以て、克く全世界を雄視す、聞くが如きは、其版図に日没なりと。

 先程も書きましたが、このエピソードは五代友厚のことを紹介する際、必ずと言って良いほど語られるものなのですが、この度大阪において新たに発見された史料において、このエピソードはどうやら少し違っていることが分かりました。
 まず、下記の新聞記事を参考にご覧頂きたいのですが、

五代友厚の父が模写した世界地図確認 子孫「古里・鹿児島で保管を」(2016年8月24日付け、南日本新聞)
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=78208

 友厚の兄である徳夫の子孫宅で、二人の父の秀堯が書き写した世界地図(新訂万国全図)が見つかり、それに書き加えられた由緒書きによると、この世界地図は、天保10(1839)年9月朔日から晦日の30日間をかけて、当時13歳であった徳夫や妻(本田氏)の協力を得て、秀堯自身が書き写したものだということです。
 友厚は天保6(1835)年の生まれですので、当時はまだ4歳の幼子です。
 当然、世界地図の筆写に関与できるはずもなく、最初に紹介した有名なあのエピソードは、真実とは少し異なっていて、友厚が眺めていた世界地図とは、友厚自身が筆写したものではなく、父の秀堯が書き写したものだったということが、分かったということです。
(五代家には他にも別の世界地図があり、それが友厚が筆写したものだった、ということもあり得なくはないですが、現状では先程述べたことが真相のような気がします)

 この貴重な五代秀堯筆写「新訂万国全図」ですが、実は今回の講座終了後、実物を見ることが出来ました。
 感動でした。ほんと。
 この世界地図を友厚が日夜眺め、西洋諸国に思いを馳せていたと思うと、少し鳥肌が立ちました。
 今回、特別に撮影を許可して頂きましたので、その地図を本ブログにも掲載いたします。

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五代秀堯筆写「新訂万国全図」

 かなり大きな地図のため、全体像を撮影することは出来ませんでしたが、まさに時代の息吹を感じさせてくれるような史料でした。
 この五代秀堯筆写「新訂万国全図」については、鹿児島歴史資料センター黎明館に寄託されるようですので、またお目にかかれる機会があろうかと思います。公開の際は、是非ご覧になって頂きたい逸品です。

 最後に、この五代友厚を学ぶ連続講座は、大阪大学名誉教授の宮本又郎先生の講演で「第2回五代友厚のチャレンジとイノベーション(大阪編)」も開催予定ですが、参加申し込みをしたところ、現在満席で参加は難しいようです。
 ちなみに、宮本先生は、下記10月22日に開催される「明治維新150周年記念シンポジウム」でも基調講演をされる予定ですので、こちらは鹿児島近郊にお住まいの方は是非ご参加ください。

明治維新150周年記念シンポジウム
日時:平成28年10月22日(土)
場所:鹿児島市民文化ホール(第2ホール)
https://www.pref.kagoshima.jp/aa03/kensei/sesaku/m150sympo.html


 さて、次回は、8月28日(日)に開催された、大阪龍馬会主催の歴史作家・桐野作人先生の講演「薩長同盟論の現在」について書きたいと思います。
 この講演会、「勉強になりました」という簡単な言葉では片づけられないほどに、感動するレベルの講演会であったことだけは、先に書いておきます。
 とにかく、面白かったです!

【2016/09/01 17:20】 | 幕末・維新
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 2年後の平成30年(2018年)は、明治維新から数えて150年目の節目にあたる年です。
 明治維新150周年を迎えるにあたり、鹿児島県では明治維新に関連する様々な事業やイベントが予定されているのですが、その一環として、この度『明治維新と郷土の人々』という冊子が発行されました。

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 現在、私も読んでいる最中ですが、『明治維新と郷土の人々』は、薩摩藩の明治維新を新たな視点で捉えた良書です。
 薩摩藩の学問的背景に始まり、職制などの制度、そしてこれまで余り語られることのなかった武士以外の人々の生活や暮らしまで、とても幅広い範囲で記述され、そして分かりやすくまとめられています。
 この一冊を読めば、「薩摩藩のことが分かる」と言っても過言ではないくらいの仕上がりとなっています。

 特に、薩摩の市井(しせい)の人々に着目し、薩摩に暮らした女性や子供についての記述があるのは、特筆すべき点ではないかと思います。
 鹿児島は「男尊女卑」がとても厳しい土地柄であったと言われることが多く、薩摩藩の女性史に関して言えば、どちらかと言えば疎かにされていた面があったかと思いますが、『明治維新と郷土の人々』では、「明治維新と女性」という大項目を設け、薩摩に生きた女性たちのことや女性教育についても詳しい記述がなされています。
 また、『明治維新と郷土の人々』は、引用されている史料や図も非常に豊富なのも特徴の一つです。
 特に若い世代の方々が読みやすいよう配慮された内容となっていることも特筆すべき点ではないかと言えます。

 『明治維新と郷土の人々』は、インターネット上でも閲覧が可能です。
 下記URLからPDFファイルでダウンロードも可能となっていますので、是非一読をお勧めいたします。

明治維新150周年記念事業『明治維新と郷土の人々』について
https://www.pref.kagoshima.jp/aa03/kensei/sesaku/project/m150kyodonohitobito.html

【2016/05/20 12:58】 | 幕末・維新
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前回に引き続き、また安井息軒の話です。

実は今、息軒関係で一つ調べていることがあります。
息軒が江戸で開いた「三計塾」からは、その後、歴史に名を留める著名な人物が数多く出ているのですが、その中に後の外務大臣・陸奥宗光がいます。

陸奥については、歴史の教科書にも「不平等条約の改正に尽力した人」という形で紹介されていますし、坂本龍馬と親交が深く、龍馬が結成した海援隊にも入っていたことから、一般にもその名が知られているかと思います。
陸奥は元々紀州藩士の出ですが、その後脱藩して江戸へ出て、息軒に入門するのですが、三計塾に居た頃の話を作家の池波正太郎が『戦国と幕末』という著書の中で書かれています。
少し長いですが、その部分を抜粋すると以下のとおりです。


 十四歳の陸奥宗光が江戸へ出て、儒者・安井息軒の門へ入ったことは、よく知られているが、
「そのころから、どうも体は丈夫ではなかったのだね。だから必然、武術よりも学問を、ということになったのだ」
 と、後に宗光は語っている。
(中略)
「きょうも、皆は小介に負けたようじゃな」
 と、安井息軒は、この小さな塾生の頭脳のひらめきを愛してくれたが、
「人というものはな、おのれの長所を隠すことをくふうしなければいかぬよ。よいかな、小介。弁舌に長じたる者は、つとめて寡黙なるべしと、古人も教えている。おまえも、そのことをよくよく考えてみぬといかん。それでないと、おまえは自分の長所のために身を滅ぼすことになろう」
 繰り返し、繰り返し、同じことを宗光にいった。だが、この師のことを当時の宗光は理解していたわけではない。だから、口の達者な、生意気な彼は、他の塾生の鉄拳をくらい、やせて細い彼の顔が、
「なぐられて南瓜のようにはれ上がったことも何度かあったよ」
 と、後年の宗光が述懐している。
(池波正太郎『戦国と幕末』(東京文藝社)から抜粋)



この『戦国と幕末』については、角川文庫から再刊されていますので、読まれた方も多いのではないかと思いますが、実はこの陸奥が後年述懐したというエピソードの原典を今調べています。

と、言うのは、前回少し書きましたが、「きよたけ歴史館」に行った際、そこの職員の方と話す機会があったのですが、その時、このエピソードの原典が分からないという話になったことがきっかけです。
私自身、こういった話を調べるのが好きな方、いや無性に調べたくなるタイプですので(笑)、大阪に帰ってから、陸奥の伝記や回想録等を調べてみたのですが、今のところその原典を見つけることが出来ていません。

ただ、一つだけ分かったのは、この話は池波さんの創作ではないということです。
池波さんよりかなり前に、伊藤仁太郎(痴遊)が『快傑伝』(昭和10年、平凡社刊)という書籍の中に、ほぼ同じことを書いています。
その部分を抜粋してみます。


 息軒は、その度毎に、微笑を含みながら、
「今日も、小介にやられたな」
 と、いって、愉快そうに観て居るが、しかし、人の居らぬ時は、小介を呼んで、
「過ぎたるは猶及ばざるが如し、という事を知って居るか。人は、己れの長所を匿し得ることを、工夫しなければいかんよ。弁舌に長じて居るものは、努めて寡黙なるべし、と古人は教えて居る。お前は、それを考えて居らぬとその長所のために、身を誤る事があろう」
 さすがに、先生は、よく小介の長所を知ると同時に、その短所も知って居られた。
(伊藤仁太郎『快傑伝』(平凡社刊)から抜粋。旧字は読みやすく変更)



息軒が陸奥に対して、「殊更に自分が才あることをひけらかすのは、己の身を滅ぼすことになる」とたしなめているところは、池波さんと使っている言葉こそ違えども、意味は全く同じだと思います。

では、この痴遊の『快傑伝』が池波さんの種本(原典)かと考えると、少し疑問が生じてきます。
池波さんの文章には、「体が丈夫ではなかったので学問に励んだ」や「殴られて南瓜のようになった」など、後年の陸奥が述懐した話が書かれてありますが、痴遊の『快傑伝』には、それに類することは一切書かれていないからです。
と、なると、池波さんは別の原典を参考に書いたことになりますが、そうなると、痴遊も別の原典を使用したことになり、つまり、痴遊と池波さんは同じ原典を参考にして書いたことになります。

ただ、私が調べた限りでは、その原典に行き当たることは出来ませんでした。
陸奥宗光は、明治30年に亡くなっていますので、もし回顧録を残すのであればそれ以前ということになりますが、この話に類する陸奥の回想録が見つからないのです。
また、痴遊は『快傑伝』を書く以前の明治44年、『陸奥宗光』という伝記も書いているのですが、調べてみると、何故かそこには息軒が陸奥をたしなめる話は一切書かれていませんでした。

以上のように、現在のところ原典が見つからない状況なのですが、この件について、もし何かご存知の方がおられましたら、お知らせ頂けると嬉しいです。
しかし、こういう風に色々と調べてみることが、歴史の楽しさであり、醍醐味であると思いますね(^^)

【2015/05/26 12:44】 | 幕末・維新
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「宮崎で有名な歴史上の人物と言えば?」

こういう質問をされると、宮崎県人は少し考え込んでしまうことが多いようです。
以前ブログにも少し書きましたが、江戸藩政時代、宮崎というところは、鹿児島や熊本といった大藩に挟まれる形で、いくつかの小藩に分割されて統治されていた土地でした。
そのためか、政局に絡むこともなく、中央に聞こえるような有名な人材を輩出しにくかったことが原因の一つと言えるかもしれません。
また、戦国時代の争乱期や西南戦争の時にも象徴されるように、宮崎というところは、どちらかと言うと他藩から侵略される地になると言いますか、戦場になってしまう傾向がありましたからね。

ただ、このような状況にあったとしても、私は「宮崎に人なし」とは思っていません。
有名な歴史上の人物を挙げろと言われれば、もちろん挙げることは出来ますが、歴史に親しみのない方にとっては、最初のような質問をぶつけられると、なかなか答えるのが難しくなってしまうのかな、という風に解釈しています。

さて、ここまで書いたのであれば、宮崎で有名な歴史上の人物を紹介するべきだと思いますが、江戸期に絞って言うならば、以前、延岡に「胤康(いんこう)」という勤王僧が居たことを紹介しましたが、胤康では余りにもマイナー過ぎると思います。
やはり江戸期を通じて一番有名な人物と言えるのは、安井息軒(やすいそっけん)ではないでしょうか。
「安井息軒って誰?」という声も聞こえなくはないですが(苦笑)、私はやはり安井息軒だと思います。

息軒の人となりについては、以前、エッセイで書いたことがありますので、下記URLを参考にして頂ければと思います。

(我が愛すべき幕末)第20回「三計と半九-安井息軒-」

息軒の業績をごく簡単に説明すると、江戸に「三計塾(さんけいじゅく)」という有名な私塾を主宰した学者となりますが、元は現在の宮崎市清武(きよたけ)町の生まれです。
清武という町は、現在は宮崎市に編入されていますが、江戸藩政当時は、宮崎の南方、飫肥藩の領地の一つでした。
ちなみに明治期の外交官で、日露戦争後のポーツマス条約締結に尽力した小村寿太郎も飫肥の生まれですし、「飫肥西郷」と異名をとり、大学南校(東京大学の前身)で学んだ秀才・小倉処平も同じく飫肥の生まれです。
飫肥藩は、学問奨励の気風が非常に高い藩だったと言われていますね。
その名残りを示すかのように、現在も飫肥藩の藩校であった振徳堂と呼ばれる建物が現存し、その往時を偲ぶことが出来ます。

少し息軒から離れてしまいましたが、現在、飫肥の地で息軒の足跡を辿るのは難しくなっていますが、息軒が生まれ育った清武には、「きよたけ歴史館」という立派な歴史資料館が建てられており、息軒の足跡や業績を詳しく知ることが出来ます。
先日紹介した「佐伯市歴史資料館」と同じく、この歴史館も息軒関係の生の原資料が数多く見られる資料館ですのでオススメです。

ちなみに、今回久しぶりに「きよたけ歴史館」を訪れ、職員の方と話す機会があったのですが、息軒に関しては、まとまった活字化された資料が少なく、何か一つ調べるにも苦労することが多いらしいです。
著名な小説家が息軒を主人公に作品でも書いていたら違っていたんでしょうけどね。(ちなみに、森鴎外は息軒の奥さんを主人公とした『安井夫人』を書いています)

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安井息軒旧宅(宮崎市清武町)

【2015/05/19 12:36】 | 幕末・維新
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