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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます     (大河ドラマ『西郷どん』の解説も是非お読みください)
前回の続きで、今回が完結編です。

前回は、島津豊後の達書から、安永3(1774)年に穆佐(むかさ。現在の宮崎市高岡町)の悟性寺から遺骨が発掘されたが、それを島津久豊の物と断定することが出来なかったため、遺骨を元通りに埋め戻して石碑を建てた事実があったこと。
さらに、その約70年後の天保12(1841)年に同じく悟性寺から義天(久豊のこと)の二文字が刻まれた石塔が発掘されたことを機に、「やはり悟性寺が久豊の墓所なのではないか?」との説が再燃したが、久豊が逝去した場所が鹿児島であったことなどから、薩摩藩は「久豊の墓所は鹿児島の福昌寺に相違ない」と、結論づけたことまでを書きました。
しかしながら、同達書を読み進めると、久豊の墓所を巡る真贋論争は、その後も薩摩藩内で決着をみなかったことが分かります。

まず、同達書には、「右甚太夫掘出候御石塔片付方之儀、去ル丑年所役々得差図候付」と、薩摩藩が「天保12(1841)年に相良甚太夫が掘り出した石塔を片付けるよう、去る丑年に諸役所へ指図した」との文言が出てきます。
この「去る丑年」とは、前後の記述から判断すると、天保12(1841)年の丑年を指しているのではなく、その12年後の嘉永6(1853)年の丑年、つまり島津豊後の達書が出される3年前を指しているものと思われます。

同達書によれば、その際、藩は糺方(いわゆる調査官)として、上村休兵衛榎本新兵衛の二人を悟性寺に派遣し、石塔を再調査させています。
その時の調査結果が同達書内に記されていますが、それは次のようなものです。

「古代之墳墓と相見得候得共、多年埋居、諸所蝕損、文字聢と分兼候儀共有之、今更決着難致(古代の墳墓であると見受けられるが、長年埋没していたことから、石塔は所々浸蝕され、破損しており、文字もはっきりと分からないため、今さら決着するのは難しい)」

つまり、二人は藩に対して、「再度調べてはみたが、久豊の墓所を示す石塔であるかどうかは分からない」と報告したわけです。

そしてまた、二人は安永3(1774)年に発掘された遺骨もその時併せて調べたようです。
それに関しても次のように同達書に書かれています。

「安永之度掘出候骸骨之儀も旧記等相糺候得共不相知、右枯骨は全体相備居、頭骨大振りニ相見得、土葬之取置ニ有之」

つまり、「安永期に発掘された遺骨についても、古文書などで調べてみたがよく分からない。また、その遺骨は全体的に揃っており、頭蓋骨も大きなまま残されているところを見ると、土葬されたものであると思われる」ということです。
この「遺骨が土葬されたもの」という事実が、実は久豊の遺骨の真偽を決定づける重要な証拠となりました。
同達書は次のように続きます。

御元祖様より
實陽院様迄
御代々火葬被為執行候御事候処、右通土葬之取置、付ては旁以
義天様御遺骸ニては有之間敷

つまり、

「元祖様(島津家初代・忠久のこと)から實陽院様(島津家第19代・光久)まで、死後は代々火葬にしているが、安永3(1774)年に悟性寺から発掘された遺骨は土葬のものである。よって、その遺骨は久豊公のものではないと思われる」

ということです。
久豊の遺骨かどうかを判断するために、歴代当主の遺体の埋葬方法から判断しているあたり、大変興味深い事実です。
このように、安永3(1774)年に発掘された遺骨については久豊の物ではない、ということが粗方分かりましたが、天保12(1841)年に発掘された石塔については、久豊の墓所を示すものかどうかは結局分からなかったのです。

また、同達書によると、「遺骨が埋葬されている場所(つまり悟性寺のこと)が日向伊東家ゆかりの由緒正しき寺院であり、遺骨については埋葬方法も念入りで、とても一般人のものとは考えられないこと」などから総合的に判断した結果、

「是以彼是今更御治定難被成趣共申出(これをもって、かれこれ今さら決定するのは難しいとの申し出)」

というのが、調査の結論でした。
つまり、完璧な確証が得られない以上、結論は出せないということです。

以上のように、嘉永6(1853)年になっても、久豊の墓所を巡る論争は、またも振り出しのような様相を呈したため、その3年後の安政3(1856)年、ようやく藩はある決断を下しました。
同達書には、次のようにあります。

「是迄数十年御糺方有之候上之事候間、最早此末御証拠等慥ニ可相顕訳迚も無覚束、無是非御次第(これまで数十年に渡って調べてはきたけれども、最早こうなっては確かな証拠が出てくることも覚束なく、もう是非も無い次第である)」

つまり、「これまで数十年に渡り続いている、久豊の墓所に関する真贋論争は、最早意味が無い」ものとしたわけです。

これまで島津豊後の達書を元に、久豊の墓を巡って生じた出来事を時系列に沿って書いてきました。
それは同達書の前半部分が、久豊の墓所論争の経緯に言及したものであったからですが、実はこの達書が出された目的、つまり本論はその後半部分にあります。
前述のとおり、薩摩藩は久豊の墓所が鹿児島の福昌寺なのか、それとも日向高岡の悟性寺なのかを数十年に渡って調べてきましたが、悟性寺論を完全に否定出来るだけの材料に乏しかったことから、なかなか結論を出すことが出来ませんでした。
そのため、薩摩藩はこのままズルズルと論争が長引くことを良しとせず、この事態を終息させるための四つの解決策を示すことにしました。
前述のとおり、同達書は安政3(1856)年1月21日付けで書かれたものですが、この日は久豊の命日です。
つまり、島津豊後の達書が出された真の目的とは、久豊の命日にあたり、その墓所論争を終息させるためであったのです。

それでは、同達書から、藩が示した四つの解決策をここで抜き出してみます。

まず、一つ目。

「前条掘出候石塔は、此節発遣之上文字摺消、後年紛敷無之様、寺内江堀埋候」

つまり、「天保12(1841)年に発掘された石塔は、後年紛らわしいことがないように、彫刻された義天の文字を削って消し、寺の敷地内に埋める」ということです。
もし、後年またその石塔が発掘された際、「久豊の墓所を示す石塔ではないか?」と勘違いされることがないように、誤解が生じる「義天」と刻まれた文字を削って、寺の敷地内に埋めることにしたのです。
また、藩は安永3(1774)年に遺骨が発見された際に建てた石碑に関しても、「故障之儀も有之候間、取除」と、合わせて取り除くことを決定しました。

そして、二つ目。

「悟性寺之儀は、為御菩堤所御再興」

つまり、「悟性寺は久豊の墓所ではなく、菩提所として再興する」ということです。
墓所と菩提所の違いが私にはよく分かりませんが、藩はそれを明確に違うものと位置づけたのでしょう。
「菩提を弔う=墓がある」とは限らない、という理屈からでしょうか。
つまり裏を返せば、「久豊の墓所は鹿児島の福昌寺である」ということを明確にしたということです。

そして、三つ目。

「此節別段御石塔一基御建立」

文字通り「この節、別に石塔を一基建立する」ということです。
安永3(1774)年に建てた石碑と天保12(1841)年に発掘された石塔を取り除くにあたり、藩は新しい石碑を建立することにしました。
現在、宮崎市高岡町に遺されている「島津久豊の墓」と呼ばれる石塔(画像)は、この新規に建てられた石塔を指すものと考えられます。

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島津久豊の墓(宮崎市高岡町)

また、同達書には、「穆佐中は勿論一統奉尊信、御祭式等是迄之通入念執行いたし候様被仰付候」とあり、藩は地元高岡郷の人々に対し、その石塔を敬い奉り、祭式などもこれまで通り入念に行うよう併せて命じることを決定しました。

そして、最後の四つ目です。

「枯骨之儀は前条通慥成証拠無之候付、右之処江瘞骨塔と銘文彫刻之石被建置候」

つまり、「安永3(1774)年に発掘された遺骨については、確かな証拠は無いので、瘞骨塔(えいこつとう)と銘文・彫刻した石塔を建立し、そこに納骨する」ということです。
現在、宮崎市高岡町に遺されている「瘞骨塔」(画像)は、安永3(1774)年に発掘された遺骨を納めるために、この時、新たに建てられた石塔であったということです。

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瘞骨塔(宮崎市高岡町)

ここで話をまとめると、島津久豊の命日にあたる安政3(1856)年1月21日、薩摩藩の城代家老・島津豊後は達書を出し、これまで数十年に渡り決着がつかなかった「久豊の墓所に関する真贋論争」を終息させようとしました。
薩摩藩は、高岡の悟性寺を久豊の墓所ではなく、菩提所として位置づけ、新たに石塔一基と瘞骨塔と銘打った石塔を建立することを決定しました。
現在、宮崎市高岡町に遺されている二つの石塔は、以上のような理由から建てられたものであったのです。
(1)で書きましたが、瘞骨塔の裏面には「安政四年丁己九月二十四日建之」との文字が刻まれています。
つまり、島津豊後の達書が出された約一年半後の安政4(1857)年9月24日に、二つの石塔は建立されたということです。
そして、瘞骨塔には、安永3(1774)年に発掘された遺骨を納骨しました。
また、その際に、島津豊後の名で灯籠が寄進されたことは言うまでもありません。

これまで全三回に渡って書いてきましたが、応永32(1425)年に亡くなった久豊の墓が430年以上も経った安政4(1857)年に宮崎市高岡町に創建されたのは、それまでに長く続いていた墓所の真贋論争を終息させる意味があったということです。
このような経緯や理由を知った上で、現在の「島津久豊の墓」を見ると、また少し違った感慨が沸いてくるような気がします。
是非、宮崎市に史跡巡りに行かれた際には、郊外の高岡町まで足を延ばし、島津久豊の墓を見て頂ければと思います。
私も今年の夏、宮崎に帰省した際には、再度久豊の墓を訪ね、もう一度じっくりと見学したいと、今ではそう思っています。

(終わり)

(追記)
1.島津久豊が亡くなった場所について
前述しましたが、現在、宮崎市高岡町の「島津久豊の墓所」に設置されている案内板には、「(久豊は)応永32年(1425年)、穆佐城に51歳で逝去しています」とあり、また、喜田貞吉『日向國史』上にも、「同三十二年正月二十一日、久豊穆佐城に卒す、年五十一」と同様の記述があります。
しかしながら、島津豊後の達書には、

「義天様御事、於鹿兒嶋御逝去」

との文言があり、久豊が亡くなった場所を鹿児島とし、そしてその理由から、久豊の墓所は鹿児島の福昌寺だと結論づけています。

また、先日、Twitter上において、『室町期島津氏領国の政治構造』(戒光祥出版、2015)の著書・新名一仁先生から、「應永記」にも久豊が鹿児島で亡くなったとの記述があることを教えて頂きました。
『鹿児島県史料 旧記雑録前編』二を調べると、確かに久豊は日向から鹿児島に帰城後、病が重くなって亡くなったようです。
以上のような点から、久豊は鹿児島で亡くなったと解釈する方が適切なのではないかと考えます。

2.鹿児島への合葬について
同じく、現在、宮崎市高岡町の久豊の墓所に設置されている案内板には、「遺骨は昭和になり島津氏によって発掘され、鹿児島に葬られています」とあります。
つまり、瘞骨塔に納められた遺骨は、鹿児島に葬られたということです。

ただ、ここでまたもや一つの疑問がわきます。
本文中にも書きましたが、瘞骨塔に納められた安永3(1774)年に発掘された遺骨は、基本的に久豊の物であるという証拠に乏しく、つまり「誰のものであるか分からない」というのが、藩が最終的に下した結論でした。
では、昭和に入り、島津家によって発掘されたその遺骨は、鹿児島のどこに埋葬されたのでしょうか?
福昌寺にある久豊の墓に合葬されたということでしょうか?
それとも、別の場所に埋葬されているのでしょうか?
もし、今回のような経緯を考慮せずに、久豊の墓に合葬したのであれば、現在、久豊の墓には、別人の遺骨が混ざっている可能性があるということです。
瘞骨塔に納められた遺骨は、最終的にどうなったのか?
この点について何かご存じの方は、向学のため、是非ご教示ください。


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【2019/06/16 15:45】 | 史跡巡り
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前回の続きです。

前回は、宮崎市高岡町島津家第8代当主・島津久豊の墓があり、その墓が安政4(1857)年に創建されたものであることまでを書きました。

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島津久豊の墓(宮崎市高岡町)

久豊は中世期(室町時代)の武将であり、薩摩・大隅・日向の三ヶ国の守護を務めた人物ですが、その久豊の墓が400年以上も経過した幕末期、しかも島津斉彬の治世に建てられたことに疑問を持った私は、大阪に帰ってから、その理由について、改めて調べてみました。

島津斉彬に関する史料については、斉彬の旧臣であり、後年島津家関係の史料編纂に力を尽くした市来四郎という人物が「斉彬公史料」としてまとめています。
後年、鹿児島県が『鹿児島県史料 斉彬公史料』として活字化し、全四巻にまとめてそれを刊行していますが、この『斉彬公史料』は斉彬研究、ひいては薩摩藩研究のための基礎史料というべきものです。
宮崎から大阪に帰った私は、本棚からその『斉彬公史料』を取り出し、幕末期に島津久豊の墓が創建された理由について書かれたものがないかを調べたところ、同史料の第三巻に、

「島津久豊墓所について家老達 安政三年正月二十一日」(文書番号五九五)

という文書が収載されていることに気付きました。(『鹿児島県史料 旧記雑録追録』八にも同様の文書が入っています)

同文書は、題目にあるとおり、安政3(1856)年1月21日付けで発信された、島津久豊の墓所に関する薩摩藩家老からの達書(書面による申し渡し)ですが、宛名は「御記録奉行江」とあり、発信者は「豊後」と書かれています。
つまり、豊後とは、前回紹介した薩摩藩家老の島津豊後久寳(久宝。ひさたか)のことです。
島津豊後は斉彬時代の城代家老であり、久豊の墓所に設置されている灯籠に、その名が刻まれていたことは前回書きました。

では、島津豊後は記録奉行に対し、島津久豊の墓について、当時どのようなことを申し渡したのでしょうか?
この達書には、宮崎の高岡に島津久豊の墓が創建された経緯やその理由等が事細かく記されており、興味深いものですので、今回はその島津豊後の達書を元にして、「島津久豊の墓がなぜ幕末に建てられたのか?」について紹介したいと思います。

まず、島津豊後の達書は、次のような文言から始まります。(同達書は全て『斉彬公史料』三から引用します)

御八代
久豊公御事、應永三十二年正月廿一日被遊御逝去、義天存忠大禪定門と奉号候処、御遺骸御葬埋之地不被遊御知、安永三年穆佐悟性寺境内
義天様御塚と申伝之場所より、骸骨相蔵居候大甕掘出、焼物之香炉一器・唐金之鈴一入付有之、至極疑敷、細密相糺候得共、証拠可相成廉無之、御遺骸と難見定候付、本之通致埋方、其節石碑被建置


文頭には前回紹介した内容、つまり島津久豊が島津家第8代の当主にあたり、応永32(1425)年1月21日に亡くなったこと、そして、久豊の法号が「義天存忠大禪定門」であったことが記されていますが、注目すべきは「御遺骸」から以降の部分です。
概略すると、次のようなことが書かれています。

「久豊公のご遺骸が埋葬された地は知られていなかったが、安永3(1774)年に穆佐(現在の高岡町)の悟性寺の境内にある、義天様(久豊のこと)の塚と伝わる場所から、遺骨の入った大甕や香炉、鈴が出土した。しかし、それは大変疑わしいものであり、精査して調べてみたが、証拠となるようなものは無く、久豊公の遺骨とは認められなかったため、遺骨は元通りに埋め戻し、その際に石碑を建立することにした」

つまり、安永3(1774)年に高岡の悟性寺から、久豊の遺骨らしき物が発見されたが、当時薩摩藩はその遺骨を久豊の物とは認めず、それを元に埋め戻した事実があったことが記されているのです。

また、これは後日のことですが、高岡町発行の『高岡町史』を調べたところ、この安永3(1774)年の遺骨発掘の件について、「國史 義天公 大岳公」という文書内に同様の記述があることを知りました。
そこで久豊時代のことが記されている『鹿児島県史料 旧記雑録前編』二を調べたところ、確かに次のような記述がありました。

「安永三年春正月、有堀地於悟性寺界内者、入七尺、得石槨、中有大甕、枯骨存焉、邑人皆意為義天公墓、(中略)、悉如邑人状、然無銘誌、名字世代不可得而知也、因命寺僧、仍其故處、営歛座埋、立石為表」(「國史 義天公 大岳公」文書番号1036)(附記・國史とは『島津國史』のことです)

概略すると、「安永3(1774)年正月に悟性寺の境内から大甕に入った枯渇した骨が見つかった。村人は皆「義天公(久豊)の墓」だとしたが、それは無銘で年代もよく分からないものであったため、寺僧に命じて埋め戻させ、そこに石碑を建てた」ということです。
つまり、島津豊後の達書内に出てくる安永3(1774)年の遺骨発掘の件については、ここに記された事実を元にして書かれたということです。

また、同文書には、「據島津系圖、義天公木主安置、一在鹿児島恵燈院、一在穆佐悟性寺」ともあり、「島津系図によると、久豊の木像が鹿児島の恵燈院(福昌寺の塔頭)と高岡の悟性寺にそれぞれ一体ずつある」ことが記されています。
これを見る限り、高岡の悟性寺が久豊ゆかりの寺院であったことは間違いはありません。

ちなみに、『高岡町史』は、以前私が宮崎に住んでいた頃、高岡町の「天ケ城歴史民俗資料館」で購入したものですが、買ったはいいものの、それ以来、ほとんど開く機会が無かったのですが、こういう時に役に立つのですから、市町村史や資料集の類いは、気になったら買うべきですね。いつどこで将来役に立つか分かりませんから。

閑話休題。
島津豊後の達書に戻ります。
達書はさらに次のように続きます。

其後天保十二年丑年相良甚太夫穆佐江被差越候節、悟性寺境内より義天之二字彫刻有之候石塔、并右之笠石掘出、旧文書等は勿論、古老之者共申伝等迄も巨細相糺、万端及勘考、義天様御廟所無相違旨吟味申出候

概略すると、

「その後、天保12(1841)年に相良甚太夫が穆佐に赴いた際、悟性寺の境内から「義天」の二字が刻まれた石塔と笠石が発掘された。古文書類はもちろん、古老の口伝なども詳しく調べあげ、勘考したところ、悟性寺は久豊公の廟所(墓所)に違いないと思われるので吟味して欲しいとの申し出があった」

ということですが、この辺り、なかなか面白いですね。
安永3(1774)年に遺骨の入った大甕が発掘された際には、それは久豊の物ではないと否定され、遺骨は元通り埋め戻されましたが、その約70年後の天保12(1841)年に、今度は「義天」という、久豊を指す文字が刻まれた石塔が発掘されたことを機に、「悟性寺が久豊の墓所なのではないか?」という説が再燃したというのです。

しかしながら、同達書によると、このような報告が現地からなされてもなお、薩摩藩内においては、「悟性寺が久豊の墓所であるという説」に関して懐疑的であったようです。
その根拠が同達書内に長々と記されていますが、概略すると、次の3つの理由からです。

1.久豊は鹿児島で亡くなっており、葬儀も島津家の菩提寺である鹿児島の福昌寺で行われている。また、久豊の四十九日から十三回忌法要まで、法事は全て福昌寺で執り行われ、その時の祭文も残っている。
2.「義天」の二文字を彫刻した石塔は他所にも見られる。
3.福昌寺に相廟されている(共に葬られている)先代(第7代当主)の元久(久豊の兄)の石塔に遺骨や遺髪が納められているかは定かで無いが、久豊の石塔には疑念は見当たらない。(注・福昌寺跡に建立されている久豊の墓は、元久の墓のすぐ横に建てられている)


このような理由から、この時は「御廟所は福昌寺ニ相違無之哉ニ相見得候段、御記録奉行申出、御決着調兼」との結論に達したと、同達書に記されています。
つまり、「墓所は鹿児島の福昌寺に相違ないと思われることを記録奉行に申し出て、調べに決着をつけた」という意味であり、「悟性寺が久豊の墓所なのではないか?」という説は再度否定され、この時、一応の決着が付けられたのです。

以上のように、島津豊後の達書を読むと、安永3(1774)年、天保12(1841)年の二度に渡り、薩摩藩内で「久豊の墓所を巡る真贋論争」が生じていたことが分かります。
久豊の墓所の場所に関して、それを示す証拠となる文書が藩内には一切残っていなかったため、藩内で真贋論争が生じたと言えますが、実はその後、話はまた二転三転することになるのです。

(3に続く)


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【2019/06/13 18:30】 | 史跡巡り
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国富町の本庄を後にして次に向かったのは、宮崎市高岡町小山田にある「島津久豊の墓」です。

島津久豊という名を聞いて、「関ヶ原の戦いで戦死した武将」と勘違いされる方がいるかもしれませんが、それは島津豊久の誤りです。(実は、久豊にも豊久という子供がいますが、それはまた別人です)
島津豊久は島津家第15代・島津貴久の四男・家久の子で、後に日向の佐土原城主となった人物ですが、関ヶ原の戦いにおいて、叔父の義弘を助けるべく奮戦し、そして戦死しました。その結果、佐土原は一時期幕府領となりますが、最終的には貴久の弟・忠将の子の以久(もちひさ)、つまり豊久から見ると父の従兄弟にあたる人物が受け継ぐことになります。
このように、島津豊久は戦国島津の一ページを彩る武将として有名ですが、他方の島津久豊はと言うと、中世期の武将です。
久豊は島津家第8代当主にあたり、薩摩・大隅・日向の守護を務め、当時奥州家(いわゆる島津宗家)と総州家に分かれて内紛状態にあった島津家中の争いに終止符を打った人物として知られています。

その久豊の墓が宮崎市郊外の高岡町にあるということを、恥ずかしながら、私は今年のゴールデンウィークに入るまで知りませんでした。
実は、その数日前に車で「高岡温泉やすらぎの郷」という温泉施設に行った際、偶然に「市指定史跡 島津久豊の墓」という看板(画像)を目にし、その存在を知ったのです。

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高岡温泉は妻の実家からも近く、宮崎に帰省した折にはよく行く温泉施設だったのですが、こんな近くに島津家関係の史跡があり、それを見逃していたとは……。
まさに「灯台下暗し」とは、こういうことを言うのですね。

その時は既に夕方を過ぎていましたので、久豊の墓には日を改めて訪ねようと考えたのですが、そこで素朴な疑問がわきました。

「島津家当主である久豊の墓が、なぜ日向のこんな片田舎にあるのか?」

私のかすかな記憶では、島津家の菩提寺である鹿児島の福昌寺跡にも久豊の墓があったように記憶していましたので、単純にそう感じたのです。

中世から近世の島津家に関して疎い私は、その日の夜、大阪から持参していた島津顕彰会『島津歴代略記』という小冊子の久豊の項をめくると、久豊が亡くなったのは、豊久の死からさかのぼること175年前の応永32(1425)年1月21日のことであり、鹿児島で歿したとありました。
また、同書によれば、久豊の墓は二つ存在し、

長谷場御墓(福昌寺跡。鹿児島市池之上町)
穆佐小山田御墓(悟性寺跡。宮崎県東諸県郡高岡町小山田)も長谷場御墓へ合葬


との記載がありました。
つまり、後者の「穆佐小山田御墓」というのが、私が看板を見つけた宮崎市高岡町の久豊の墓ということです。(ちなみに、穆佐とは「むかさ」と読みます)

同書には、高岡町の久豊の墓は「長谷場御墓へ合葬」とありますので、遺骨は鹿児島へ移されて、現在は空墓になるわけですが、久豊の墓が高岡町に建てられている由縁も同書を読んで何となく理解しました。
久豊は、当時日向を拠点にして勢力を伸ばしていた伊東氏の抑えのために、穆佐城に入り、伊東氏と交戦していたからです。
つまり、高岡町の穆佐は、久豊ゆかりの地でもあるわけです。

以上のような簡単な予備知識を入れ、私は日を改めて、義父を連れて高岡町の「島津久豊の墓」へと向かいました。
高岡町は現在宮崎市に編入されていますが、江戸藩政時代には薩摩藩領であったところです。
高岡町は日向と薩摩の国境に位置していたことから、そこに麓(武士の集落)が築かれ、「去川の関(さるかわのせき)」と呼ばれる関所を設けて、薩摩への出入国を厳しく取り締まっていました。
余談ですが、若き日の西郷隆盛が藩から僧・月照の国外退去を命じられ、それに絶望して入水自殺をはかったことは有名な話ですが、その際、藩当局は月照一行を去川の関から領外に出し、高岡方面に落ち延びさせることを意図していました。
高岡町は現在も周囲を山に囲まれた片田舎です。
おそらく藩当局は、山深い高岡の地であれば、月照を隠匿出来ると考えたのではないでしょうか。

ちなみに、薩摩藩ではいわゆる「東目送り」と呼ばれる、東目筋(高岡筋)の藩境で罪人を斬る処置があり、この時、西郷は藩から月照を斬れと命じられたという逸話がありますが、これは単なる俗説に過ぎないと私は考えています。
そのことについては、大河ドラマ『西郷どん』の解説ブログ内(下記)で詳しく書きましたので、是非そちらもご覧ください。

『西郷どん』感想&小解説(第17回) ―月照の薩摩入りと西郷の入水―

閑話休題。
前出の『島津歴代略記』にも記されていますが、島津久豊の墓は、高岡の悟性寺という寺院に建てられていたようです。
同書には「跡」とあるように、現在、悟性寺という寺は高岡には存在していません。詳しく調べたわけではありませんが、おそらく明治初年の廃仏毀釈によって、廃寺になったのではないでしょうか。
旧薩摩藩領においては、廃仏毀釈が徹底して行われました。
そのことは、島津家の菩提寺であった福昌寺が取り壊されたことをもってしても、その徹底ぶりがよく分かります。
おそらく悟性寺もまた、その煽りを受け、廃寺となったのでしょう。私が訪れた時は、寺の建物らしきものは一切なく、現在は共同墓地だけが残されている状態でした。

悟性寺跡へと続く長い階段を登り終えると、正面に久豊の墓が見えてきます。(画像)

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島津久豊の墓(宮崎市高岡町)

墓自体はとても小さなもので、「義天存忠大禪定門」という、久豊の戒名が刻まれていました。
そして、墓の両脇には、いわゆる「丸に十字」の島津家の家紋がついた灯籠があり、そこに刻まれた文字を見ると、「島津豊後久寳」とあり、私は驚きました。(画像)

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島津豊後久寳(久宝。ひさたか)とは、島津斉彬時代の城代家老であり、斉彬の死後は前々藩主の島津斉興によって、主席家老に据えられた重臣です。
島津豊後は、藩内でも保守派、いわゆるお家大事派と呼ばれる代表格の人物で、西郷や斉彬が登場する小説では、必ず悪役としてその名が出てきます。

中世期の武将である久豊の墓に設置された灯籠に、幕末の薩摩藩家老・島津豊後の名が刻まれていることは、私にとって、とても意外なことでした。
そこで墓の脇に設置されている案内板を見ると、「久豊の墓は安政4(1857)年に島津氏によって創建されたもので、その遺骨は昭和になり、島津氏によって発掘され、鹿児島に葬られた」との記述がありました。
つまり、久豊の墓は、幕末の頃、斉彬の治世に建てられたということです。
昭和に入り鹿児島に葬られたというのは、『島津歴代略記』内の「長谷場御墓へ合葬」を指しているものと考えられます。

また、案内板には、久豊の墓の背後、少し小高い丘の上に「瘞骨塔(えいこつとう)」と刻まれた石碑が建てられているとあったため、私はそこへ通じる長い階段を登り、見に行くことにしました。
案内板には「瘞骨塔」の説明が一切書かれていなかったため、どんな目的でこの石塔が建立されたのか、また久豊の墓との関連がイマイチよく分からなかったのですが、瘞骨塔を見てみると、碑の裏面に「安政四年丁己九月二十四日建之」とあり(画像)、瘞骨塔も幕末期に建てられたものであることが分かりました。

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瘞骨塔

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瘞骨塔の裏面

しかし、私は疑問に思いました。

「応永32(1425)年に亡くなった久豊の墓が、なぜ430年以上も経った安政4(1857)年に創建されることになったのか?」

また、しかもその墓は久豊が没した鹿児島ではなく、日向の高岡の地にわざわざ建てられたのはなぜか? ということも同時に気になりました。
案内板によると、久豊は穆佐城で亡くなったとあり、『島津歴代略記』の記述と内容が相違しています。
私はこれらの疑問について、現地ではその答えを導き出せなかったのですが、大阪に戻ってから、少し調べてみると、その謎がようやく解けたのです。

(2に続く)


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【2019/06/10 17:30】 | 史跡巡り
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宮崎は、私にとって第二の故郷とも言える街です。
私は大阪生まれの大阪育ち、厳密に言えば、出生地は母の故郷の香川県小豆島なのですが、当時、母は大阪に住んでおり、帰省しての出産でした。
そんな大阪で生まれ育った私が、大阪を出て初めて移り住んだところが宮崎県でした。
2005年4月から宮崎で過ごした3年間は、今でも忘れられない貴重な時間となり、今では宮崎に対してとても愛着を持っています。

宮崎は素晴らしいところです。
まず、食に関して言えば、肉・野菜どれをとっても新鮮なものが溢れており、そして美味しい。
また、物価や家賃も安く、経済的にとても暮らしやすい土地です。
レジャー関連でいえば、温泉が県内各所の至る所にあり、入浴料も低価格で湯質も良い。
自然は一杯で風光明媚、空気は澄んでおり、なおかつ一年中温暖な気候なので、毎日清々しい気分で過ごすことが出来ます。
そして何よりも強調したいのが、宮崎の人の良さです。
宮崎の人たちは温和で親切な方が多く、生活するにおいて、とても過ごしやすいです。
私が育った大阪では、仕事においても、対人間関係で苦労することがしばしばありましたが(苦笑)、宮崎に行って実感したことは、宮崎には温厚でかつ性根の優しい人が多いということでした。
かつて私が宮崎に住んでいた頃、人間関係で嫌なことは一度も無かったと言えるくらい、とても住みやすかったという記憶しかありません。
宮崎は本当に最高の場所なのです。

と、宮崎自慢はこれくらいにしておいて(笑)、こんな風に宮崎が第二の故郷と自負する私は、毎年、ゴールデンウィーク、お盆、正月の三回は宮崎市に帰省し、妻の実家で過ごすのですが、その間は宮崎を中心にして、鹿児島などの南九州の史跡巡りによく出かけます。
私のパートナーは、誰あろう元高校教師の義父なのですが、今回も義父を連れて、宮崎市周辺の史跡巡りへと出かけました。

今回最初に向かったのは、宮崎県東諸県郡国富町の義門寺です。
国富町は宮崎市の北西部に位置する町ですが、町の中心である本庄と言う場所は、かつて幕府の天領でした。
宮崎という土地は、江戸藩政時代、鹿児島や熊本のように大藩がなく、天領と小藩に分断されていたところでした。
その名残りからか、国富町では現在でも「天領大綱引き大会」なる行事が開かれていますが、かつての町の中心である本庄は、東諸県郡の物流や交通の要衝であり、江戸時代はかなり栄えた土地であったようです。
その本庄に義門寺という小さな寺院があるのですが、ここはかつて羽柴(豊臣)秀吉の「九州征伐」に際し、秀吉の弟・秀長が本陣を構えた場所でした。
本庄史談會編纂『本庄郷土史摘要』には、次のようにあります。

「天正十五年豊臣氏討薩に際し、豊後より島津の兵を追撃しつつ日向に侵入した羽柴秀長が、此地に來て軍を駐め、當寺を以て本営とした。其時一軍を誡めた厳とした軍令の一書が今に寺寶の一として残されてある」

秀吉の九州征伐、つまり島津氏討伐にあたり、秀長が兵を進めた場所が本庄であったというわけですが、この『本庄郷土史摘要』の記述にある秀長の軍令書については、宮崎県編『日向古文書集成』の中に、義門寺文書(豊臣秀長制札)として収載されています。
次のようなものです。

 義門寺前
一、當手軍勢亂妨狼藉之事
一、陣取放火之事
一、伐採竹木之事
右之條々堅停止畢、若違犯之輩有之者、可處嚴科者也、
 天正十五年五月三日 中納言(花押)


この文書を見ると、秀長は乱暴狼藉や放火、伐採を厳しく取り締まっていたことが分かります。
秀長は誉れ高き名将と謳われた人物ですが、この軍令書の中にも、そういった一面が表れていると言えるかもしれません。

国富町は今では大変のどかな田舎町に変貌しています。
宮崎県の県庁所在地である宮崎市と隣接してはいますが、町の大半は山野に覆われ、かつて羽柴軍が軍を進め、駐留した街だとは想像できないほど、のどかな田園風景が広がっています。
ただ、町の中心部である本庄地区は、往年賑わいを見せていたであろう面影が見てとれます。
前出の『本庄郷土史摘要』によれば、江戸時代の本庄には、和泉屋と枡屋という、他郷にまでその名が響き渡るような大きな商家があり、商人財閥を作って、京・大坂と直接取引を行うなど隆盛を極めたそうです。

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本庄驛を示す標柱

宮崎市から国富町へと続く、のどかな田舎道を運転すること約20分。
義父と私は目的地である義門寺へと到着しました
寺の駐車場に車を止めると、駐車場の壁面に、前述した秀長の軍令書を彫った石版が飾られていました(画像)。

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秀長の軍令書(石版)

また、義門寺の門前には、「史蹟 豊臣軍本営地址」という大きな石碑が建てられており、この地が秀長の本陣であったことが分かります。
『本庄郷土史摘要』によると、義門寺は貞和2(1346)年の創建で、日向を治めていた伊東氏ともゆかりの深い寺院であったようですが、慶長年間には島津義久の位牌が一時期祀られていたことがあったと舊記に記されている、ともあります。
私はその真偽について判断できませんが、「なぜ義久の位牌が遠く離れた日向にあったのか?」と考えると大変興味深い話ですね。
義門寺は、建物自体は既に建て替えられており、秀長が駐留した往時を偲べるものは少ないと言えますが、私のように遠く離れた京阪の地から、秀長がこの地を訪れたかと思うと感慨もひとしおでした。

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義門寺

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秀長の本陣であったことを示す石碑

義門寺を見終えて駐車場に戻った際、最初気づかなかったのですが、秀長の軍令書の石板の傍らに、種田山頭火の句碑が彫られている石板がありました。
そこに刻まれた文字を読むと、昭和5年10月18日、山頭火が国富町の本庄仲町に宿泊したということが記されていました。
大阪に帰ってから少し調べてみると、確かに山頭火は本庄に宿泊したようです。
山頭火が自らの放浪の様子を記録した日記「行乞記(ぎょうこつき)」によると、旧薩摩藩領の高岡町に宿泊した山頭火は、その後、東諸県郡綾町へと向かい、そして本庄に到着し、その日は「さぬきや」という、大正十五年にも宿泊したことのある宿屋に泊まったとあります。
その日、山頭火は、「カフェのようなところに入り、久しぶりにビールを味わった」とも記していますが、当時の本庄は、まだ江戸時代と同様に賑やかな街であったのでしょうね。


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【2019/06/06 18:30】 | 史跡巡り
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今年の夏も宮崎に帰省したのですが、その際に宮崎県児湯郡都農町の赤木家住宅(写真)を訪ねました。

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都農とは「つの」と読みますが、宮崎県中部に位置する人口一万人程度の小さな町です。
藩政時代、都農は以前ブログでも書きました高鍋藩秋月家の領地でした。
豊後街道沿いにあった赤木家は山林業で財を成した商家で、その建物は高鍋藩主が参勤交代する際の本陣としても利用されたそうです。

設置されている案内板によると、文久三(1863)年とその翌年(元治元年)、この赤木家には薩摩藩の島津久光も宿泊したのだそうです。
詳しく調べていませんが、久光の二回目か三回目の上京の時でしょうか。
ただ、案内板には久光のことを「薩摩藩主」と書いていました……。
初歩的なミスですが、案外そのように誤記している本やテレビ番組をたまに見かけます。(久光は薩摩藩主の実父です)
確かに、幕末時の久光の立ち位置と言うのは、外部から見れば少しややこしいのかもしれませんね。
現在、赤木家住宅の建物内部は非公開ですが、往事を偲ぶことが出来る外観を維持していますので、都農に行く機会があれば必見のスポットです。

そして、いつものことですが、宮崎に来たら、やっぱり「うなぎ」を食べないといけないでしょう!
と意気込んで、同じく都農の国道十号線に沿いにある「新田うなぎ」さんに行ってきました。
写真は「うな重(大)3,300円」です。

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値段が少し高いと思われるかもしれませんが、このうな重には秘密があります。
何と! うなぎが二段になって入っているのです!
つまり、「うなぎ・ごはん・うなぎ・ごはん」という四層構造になっています。
これがボリューム満点で美味しい!
このうなぎの量ならば、この値段は良心的と言えるのではないでしょうか。おそらく都会で食べれば、その倍は取られると思いますので。
宮崎はほんとうなぎが美味しいところです♪


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【2017/09/08 12:10】 | 史跡巡り
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今年のゴールデンウィークも宮崎の妻の実家に帰省したのですが、いつものとおり宮崎周辺の史跡巡りをしてきました。
私自身も宮崎には三年間住んでいましたので、宮崎は庭みたいなものです。
簡単ですが、今回から数回に分けて、その時のことを書きたいと思います。
まず、第一回目は、宮崎県児湯郡高鍋町(こゆぐんたかなべちょう)です。

高鍋は宮崎市の北方、人口2万人ほどの小さな町ですが、江戸藩政時代には高鍋藩2万7千石の城下町でした。
高鍋を治めていた大名は秋月家です。
初代の秋月種長(たねなが)に始まり、最後の藩主種殷(たねとみ)に至るまで、秋月家は10代に渡って高鍋を支配しましたが、その中で最も著名な人物は、6代藩主種美(たねみつ)の次男直松でしょう。
直松と言ってもピンと来ないと思いますが、直松は後に東北の米沢藩に養子に入り、上杉治憲となります。

「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」

の歌で有名な、あの名君・上杉鷹山です。

恥ずかしながら、鷹山が宮崎出身だったということを私も宮崎に住んだ時に初めて知ったのですが、現在、高鍋町と米沢市とは姉妹都市の関係にあり、高鍋町歴史総合資料館には、鷹山に関連する史料の展示もあります。

ただ、私自身の興味は、鷹山と言うよりも、やはり幕末・維新史にあり、そしてその中でも西南戦争です。
高鍋は西南戦争においても戦場となっていますが、高鍋からは「高鍋隊」と称する軍隊が組織され、薩軍に合流して政府軍と戦っています。

『高鍋町史』(第五編近代)によると、明治維新以来、高鍋では何か重要問題が生じると、旧高鍋城内の千歳亭という建物に旧士族たちが集まり、そこで討論の上、進退等を決するという、衆議決定の方法が取られていたそうです。
高鍋ではそのことを「演説会」と呼んでいたそうですが、西郷隆盛が鹿児島で挙兵したことにより、高鍋も動揺し、演説会が開催され、薩軍側に参戦するか、それとも政府側に付くかが討議されたそうです。
その時の演説会には、約800名もの士族が集まったそうですが、議論は紛糾したようです。

そして、ここに秋月種樹(たねたつ)という人物がキーマンとして登場します。
種樹は、高鍋藩9代藩主種任(たねただ)の子として生まれていますが、兄で最後の藩主となった種殷(たねとみ)の養子となりました。
しかし、廃藩置県で高鍋藩は無くなったため、種樹は言わば幻の高鍋藩主となったのです。

種樹は明治天皇侍読を務めていたことから、詩歌に秀で、書家として有名です。
宮崎県内の資料館や顕彰碑などを巡ると、必ず種樹の書に出会うと言っても過言ではないくらい、宮崎県内には種樹の書があちこちにあります。
実際、私の妻の親戚の家にも種樹が書いた書があり、それほど種樹は宮崎に縁が深い人物と言えますが、この種樹が旧高鍋士族の薩軍への参戦に反対しました。
西南戦争勃発当時、種樹は元老院議員を務め、東京に居たようですが、旧高鍋藩が賊軍に加担することを心配し、挙兵に反対する密書を高鍋に送ったようです。
しかしながら、最終的に旧高鍋藩士族は、「高鍋隊」を組織して薩軍に加わり、政府軍と戦うことになるのです。

簡単ですが、以上のような経緯を経て、高鍋隊は組織され、薩軍内の舞台として九州各地を転戦するのですが、高鍋隊組織後も旧高鍋藩士族の中には薩軍への加担に反対する者が多く居たため、その代表格であった旧高鍋藩家老の秋月種節以下九名が、薩軍側に捕縛され、投獄されています。
この時九人が入れられた牢獄は、牢と言っても旧藩の籾蔵だったのですが、実はその籾蔵が現存しています。
「黒水家住宅」という、旧高鍋藩家老の屋敷跡の敷地内に移設されているのです。(写真)

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この籾蔵に閉じ込められた人々を地元では「九烈士」と呼んでいるそうです。
実はこの時私も初めてその建物を見学したのですが、内部は想像した以上に広かったです。
ただ、当時は米俵や道具なども貯蔵されていたでしょうから、九人で生活するにはかなり狭かったかもしれません。
ご多聞に漏れず、高鍋も近代的な街へと変化し、往時を忍ぶことが出来る古い建物はほぼ残っていませんが、この籾蔵だけは、旧高鍋藩時代を偲べるものと言えるかもしれません。


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【2017/05/17 18:00】 | 史跡巡り
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最近ブログの更新が滞ってしまい、申し訳ありません。

実は現在、西郷隆盛に関わるプロジェクトと申しますか、ある計画に着手しておりまして、そちらに全神経を集中しているため、ブログの更新まで手が回らないような状態です。
この計画につきましては、はっきりしたことが決まり次第、またホームページやブログ等で告知させて頂く予定です。

さて、話は変わりますが、先月鹿児島に行った折、ついでと言っては何ですが、宮崎県児湯郡(こゆぐん)都農町(つのちょう)の報恩寺というお寺を見てきました。
一般には知られていませんが、この報恩寺には、西南戦争時に西郷隆盛が宿所とした「西郷の間」と呼ばれる部屋が遺されています。

この「西郷の間」、私もその存在を全く知らなかったのですが、三又喬『日向灘沿岸をゆく 黒潮路ロマン三九七キロ』(海鳥社)という本を読み、その存在を知りました。
同書によると、明治十(一八七七)年七月に政府軍の攻撃により宮崎が陥落した際、西郷は北上して高鍋から都農に到り、現在報恩寺がある場所に宿所を置いたそうです。
当時はまだ報恩寺ではなく、枡屋と呼ばれた家だったようですが、『古今宮崎史談』には「七月二十九日の夕方、宮崎北方の帝釈寺を発って広瀬に達し、さらに高鍋から都農に至り、枡屋河野宗平方に一泊した」とあるそうです。

また、その西郷が宿所とした枡屋は、その後正覚寺というお寺が建物を購入し、昭和十二年に報恩寺が譲り受けたそうですが、その際、「この家は西郷さんの泊まった家だから大切に保存してもらいたい」と念を押されたことから、現在も「西郷の間」として大切に保存されているとのことです。

ただ、残念ですが、報恩寺さんに電話で確認したところ、「西郷の間」は現在居住スペースとして使用されているため、建物内部を見学することは出来ません。
ただ、家屋は当時に近い状態で保存されているので、外観を見るだけでも一見の価値があります。
宮崎には、まだまだ知られていない西南戦争関係史跡がありますね。

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報恩寺「西郷の間」がある建物外観


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【2017/04/28 18:00】 | 史跡巡り
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 今年の正月も妻の実家の宮崎で過ごしたのですが、そのついでに少しだけですが島津家ゆかりの城下町である佐土原(さどわら)の史跡を巡ってきました。
 下記の画像(写真)は、その際に立ち寄った「島津御殿跡」の石碑です。

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 佐土原藩最後の藩主である島津忠寛(ただひろ)は、明治4(1871)年7月の廃藩置県により、藩知事を免ぜられ、10月に東京に移住することになったのですが、その際に旧領の佐土原にも別邸が必要ということで新たに屋敷が建てられました。
 これが「島津御殿」と呼ばれるものですが、現在は石碑のみが建てられているだけで、往時を偲べるような建物は何も残っていません。石碑の前に建てられた木札によると、島津御殿は戦後移築されたようで、現在は玄関の石垣のみが少し残っているような状態です。
 ただ、島津御殿跡のすぐ前には、御殿下医院なる病院もあり、御殿という名が土地に根付いたものであることが想像できました。今では石碑と石垣だけになってしまいましたが、当時はさぞかし大きな屋敷が建っていたのでしょう。
 ちなみに移築された建物は「臨江亭」と呼ばれたそうですが、昔、宮崎市内に「ホテル臨江亭」という宿泊施設があり(現在は取り壊されてありません)、それと何か関連があるような気がしますが、詳細は調べていないので分かりません。(ご存知の方はご教授ください)

 佐土原は宮崎市の北方に位置する小さな町ですが、江戸時代には佐土原藩2万7千石の城下町でした。
 江戸藩政時代、佐土原藩の城主は島津家でした。佐土原島津家は、いわゆる薩摩藩の島津家の分家筋にあたります。
 佐土原藩の藩祖(初代藩主)は、島津以久(もちひさ)という人物です。
 この「もちひさ」を「ゆきひさ」と読んでいる書物が多数ありますが、名前の読み方は諸説あってどちらが正しいとは言えないようです。
 佐土原町教育委員会発行の『佐土原藩史』では、「ゆきひさ」とルビをふっていますが、「ゆきひさ」という読み方は、以久の前名の「幸久」から来ているものと推測されるのと、個人的には「以」の字を「ゆき」と読むのは少し無理があるような気がしますので、ここでは便宜上以久(もちひさ)とします。

 さて、その以久の父は、島津家中興の祖と呼ばれる島津貴久の弟・島津忠将(ただまさ)です。
 つまり、以久は、戦国期の武将として名高い島津義久、義弘兄弟の従兄弟にあたります。
 以久の父の忠将は、智勇共に優れた武将で、兄の貴久をよく支えましたが、永禄4(1561)年、大隅の豪族・肝付省釣(兼続)との戦いで戦死しています。
 私も詳しくは知りませんが、前出の『佐土原藩史』によると、以久も父に劣らず、知勇兼備の武将であったそうです。
 この辺りの簡単な家系図を書くと次の通りです。


忠良(日新斎)

貴久-忠将
│    │
義久  以久(佐土原藩祖)
義弘
家久

豊久


 佐土原という土地は、元々は義久や義弘の弟である家久が治め、家久の死後はその子の豊久が治めていました。
 しかしながら、その豊久が「関ヶ原の戦い」で戦死したため、以久がその所領を引き継ぐことになりました。これが幕藩体制下における佐土原藩の誕生です。
 佐土原藩が薩摩藩の分家と言われるのはこういった所以からですが、以久をもって始まった佐土原藩は、幕末を迎えた頃には11代を数え、最後の藩主が最初に紹介した島津忠寛です。

 島津忠寛という人物は、薩摩藩の幕末史の中でもちょくちょく名前が出てくる人物です。
 例えば、昨年末にこのブログでも書きましたが、文久2(1862)年3月、島津久光が薩摩から兵を率いて上京した際、当時江戸にいた島津忠寛は、京・大坂に浪士たちが集結し、不穏な企みがあることを知り、大坂に入った久光に対して使者を送りました。
 忠寛は久光に対し、京には入らずに、そのまま直接江戸に参府するよう意見したことが『島津久光公実記』の中に出てきます。


淡路守君忠寛亦使者ヲ馳セ公ニ勧めムルニ京師に入ラスシテ直ニ参府スヘキヲ以テス


 これがその部分ですが、忠寛は久光がある京に入ることにより、不測の事態が生じることを案じたのです。
 結局、久光の入京後、薩摩藩士同士が相討つ「寺田屋事件」が生じたのですから、忠寛の見通しは正しかったと言えましょう。
 ただ、忠寛に限らず、久光が京に入ることで、何かしらの騒動が生じるであろう危惧は、他の大名にも少なからずありました。

 ちなみに、その後久光は勅使・大原重徳と共に江戸に下り、幕府に対して幕政改革を要求するに到りますが、その江戸滞在中、藩主・忠義の名代として働いたのが、島津忠寛でした。
 久光は薩摩藩内では藩主・忠義の実父として身分が高い人物でしたが、当時は無位無官、幕府から見れば、単なる陪臣の身分に過ぎません。そのため、江戸城に登城する資格も無い久光に代わって、忠寛が薩摩藩主の名代となったわけです。

 また、その忠寛ですが、久光が江戸に滞在中、何と久光を薩摩藩主にするべく運動を起こしています。
 越前福井藩の中根雪江が書き記した『再夢紀事』には、次のように書かれています。


七月廿六日今日御登城前御兼約にて島津淡路守殿へ御逢有之御内談之次第ハ當薩侯修理大夫殿幼年病身ニ付三郎殿當代に建度との修理大夫殿内願之由

現代語訳 by tsubu
文久2年7月26日、松平春嶽公が江戸城に登城する前、かねてからの約束で、島津淡路守忠寛殿とお会いになった。御内談の内容は、薩摩藩の当主である島津修理大夫忠義殿は幼年であり(と言っても、当時忠義は22歳)、かつ病身でもあるため、三郎殿(久光のこと)を当主に立てたいと、島津修理大夫忠義殿の内願があるとの話であった



 この記述によると、忠寛曰く、「久光の薩摩藩主就任」については、久光の子の藩主・忠義の内願であるとしていますが、鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏は、その著書『西郷隆盛』の中で、久光の意向だったと推測しています。
 私も同感です。久光の性格からして、忠寛が久光の指示なく、勝手にそのような訴えを起こすとは考えられないからです。
 ちなみに、この忠寛の話を聞いた前越前福井藩主の松平春嶽は、「倫理戻り候故御不同意之趣(倫理にもとる行為である故、同意しない)」と答えたと、『再夢紀事』には書かれています。
 確かにそうでしょう。自分の子供を廃して、父親自らが藩主に就任するということは、春嶽ならずとも、倫理上憚る行為であると感じたことでしょう。

 以上のように、久光が江戸に滞在中、忠寛は重要な役回りを演じていますが、その他にも佐土原藩全体で見れば、薩英戦争後に行われた横浜における薩摩藩とイギリスの講和談判においても、久光と忠寛の命を受けた佐土原藩士の樺山久舒(ひさのぶ)、能勢直陳(なおのぶ)が談判に参加し、重要な働きをしている事実もあり、当時の佐土原藩は、宗家である薩摩藩と密接な関係で結ばれ、共に一体となって幕末・明治維新という時代を行動したと言えます。

 以上のように、佐土原という町は、「もう一つの島津家の町」として、非常に歴史深い場所であるとも言えるのですが、残念ながら、明治10(1877)年の西南戦争において、佐土原も戦場となったため、今は往時を偲ばせるような建物は数少なく、城下町の風情を感じさせてくれる場所は余り残っていないのが現状です。
 また、佐土原という町は、元々「宮崎郡佐土原町」として独立した自治体だったのですが、2006年1月1日に宮崎市に編入されてしまいました。
 ただ、佐土原という地名は、まだちゃんと残っているので、それがせめてもの救いですね。

 最後に話はガラッと変わって、佐土原への史跡巡りのついでに、もちろん宮崎グルメも堪能してきました。
 下記の画像(写真)は、佐土原の隣町、宮崎県児湯郡新富町にある「うなぎの比恵島」さんの「うな丼 大(2,112円)」です

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 以前にもブログで書きましたが、宮崎のうなぎには「きも吸い」ではなく、「呉汁(ごじる)」が定番です。
 呉汁とは、水に浸して柔らかくした大豆をすり潰し、それを絞ったものを入れた味噌汁のことですが、これが濃厚で、味噌が引き立って風味が良く、美味しいんですよね。
 先に呉汁のことを書いてしまいましたが、「うなぎの比恵島」さんは養鰻場が経営しているお店ですので、もちろんここの「うなぎ」は最高に美味しいです。
 また、このお店はご飯がとても美味しいので、うな丼は最高です。宮崎に行かれた際には、是非味わって頂きたい「うなぎ」です。


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【2017/01/18 18:00】 | 史跡巡り
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 前回まで、夏の鹿児島旅行のことを書いてきましたが、今回は夏の旅の最後の締めくくりとして、宮崎でのグルメ&史跡巡りについて書きたいと思います。

 西郷隆盛と言えば、ご存じのとおり鹿児島生まれの鹿児島育ちですから、その関連するゆかりの場所や史跡の多くが鹿児島県にあるのは当たり前ですが、実はその隣県である宮崎県にも、西郷関係の史跡が数多く残っています。
 ただ、正確に表現するならば、西郷隆盛関係と言うよりも、西南戦争関係と言った方が適切かもしれません。

 明治10(1877)年に起こった西南戦争(西南の役)については、熊本、大分、宮崎、鹿児島と九州の広範囲が戦場となったため、九州県内には数多くの関連史跡が点在しています。
 西南戦争末期、宮崎も薩軍が政府軍と激しい戦いを続けた土地であるため、県内の各所には、戦場を含めて関連する史跡がたくさん存在しています。
 それら西南戦争関連の史跡の中でも、宮崎特有のものを挙げるとするならば、それは西郷隆盛の敗走関係の史跡だと言えましょう。

 明治10(1877)年8月15日、現在の宮崎県延岡市の北方、和田越(わだごえ)の地で繰り広げられた「和田越の決戦」で敗れた薩軍は、翌8月16日に軍を正式に解散しました。
 この和田越の戦いは、西郷隆盛が初めて陣頭指揮をとった戦いでもあったことから、現在その地には、「西郷隆盛陣頭指揮之地」という木製の碑が建てられていますが、この戦いは薩軍が勝利を期して挑んだ最後の決戦でもありました。

 しかしながら、薩軍はこの戦いで敢え無く敗退し、西郷は軍の解散を指示した後、大きな決断を下します。
 それは、鹿児島への帰還です。
 西郷は残った薩軍将兵たちを率いて、鹿児島に帰ることを決意したのです。
 薩軍の鹿児島への帰還は、鹿児島に戻り、再起を図ったと言えなくもないですが、実質的には、薩軍は既に敗軍であり、西郷以下薩軍将兵たちは、軍を解散したその日から敗走の道を辿ったと言えるのではないでしょうか。

 しかしながら、当時の延岡は政府軍が既に占領し、延岡沖には軍艦が鎮座して、延岡の北方、現在の北川町付近に宿陣していた薩軍は、四方八方を政府軍に取り囲まれている状態でした。
 そのため薩軍は、まさに網の目を潜り抜けるように、密かに可愛岳の峻嶮を越えて、政府軍の囲みを突破し、一路鹿児島に向けて南下を始めました。
 いわゆる鹿児島に向けての「逃避行」が始まったわけですが、人目を忍び、道なき道を進む過酷な敗走は、その後、約半月に渡り続きます。

 このように西郷以下薩軍将兵たちは、延岡の北方から鹿児島に向けて敗走の道を辿ったことから、宮崎県の各地には、「西郷隆盛敗走の道」と呼ばれる街道や「西郷隆盛宿営の地」と呼ばれる宿泊跡などの史跡がたくさん残されているのです。
 私も宮崎に住んでいた頃、それらの史跡をいくつか巡ったことがありますが、特に西郷隆盛が宿営したと伝えられる場所は、伝承を含めて、非常にたくさんあります。
 今年の夏、その中の一つの宮崎県小林市須木にある「西郷隆盛宿営之地」に行く機会がありましたので、夏の旅行記の最後の締めくくりとして、今回はその時のことを書きたいと思います。


 実は今回、小林市の須木に行ったのは、西郷隆盛が宿営した場所を見に行くことだけが目的ではありませんでした。
 須木に天然のうなぎを出すお店があると聞いた私の義父が、うなぎ好きの私のためにわざわざ予約を入れておいてくれたからです。
 私は史跡巡りに絡めて、その土地土地の名産や名物を味わう「グルメ巡り」をするのが大好きです。
 史跡+グルメ。まさに最高の取り合わせではないでしょうか(^^)
 と言う訳で、今回は「天然うなぎ」「西郷隆盛宿営之地」を目的に、宮崎市から一路小林市の須木を目指すことになりました。

 宮崎市から小林市の須木へは、車でのアクセスが二通りあります。

 一つ目は、国道268号線を通り、高岡町、野尻町、小林の市街地を抜けて行く方法。
 二つ目は、県道26号線を通り、綾町を抜けて行く方法。

 国道268号線を通る方法は、最もメジャーな行き方ですので、私も何度か経験済みでしたが、車のナビで検索すると、二つ目のルートである県道26号線を通る方が、距離も時間も短く、推奨ルートとして表示されましたので、今回は二つ目のルートを選択しました。
 しかし、この選択が後になって後悔を生むことになるのですが、その時の私は知る由もありませんでした。。。

 県道26号線は、宮崎市から綾町の中心部までは道路も綺麗に整備されており、スイスイと楽に行けるのですが、観光地として有名な綾の「照葉大吊橋」を通り過ぎると、様相が一変します。急に道幅が狭くなり、車の離合(「すれ違い」のことです)が難しい山道へと変貌し、何とそれが延々と15キロ以上に渡って続くのです。
 車を運転しながら、私は県道26号線を選択したことをものすごく後悔しましたが、後の祭りです。お店の予約の時間もありますので、今さら引き返すわけにはいきません。義父を乗せて私が運転する車は、そのまま険しい山道を進んでいったのですが、何と車がすれ違うことが出来ない極端に道幅が狭い場所で、運悪く対向車と6回も出くわすことになったのです!
 そして、その内何と! 5回も私が狭い山道をバックするハメになったのですから、この日はほんとツイテいませんでした。
 県道26号線はとにかく道幅が狭く、なおかつ車を離合させるポイントも少ないため、対向車と出会おうものなら、必ずどちらか一方がバックして、車を通さなくてはならなくなります。
 前から感じていましたが、車のナビって、何だか信用なりませんよね?

「えっ? 何で、この道を通るの???」

 なんていうことが、結構起こりますので。
 この狭い山道の県道26号線が推奨ルートだなんて、どう考えても間違ってます(苦笑)。

 また、こういう離合が必要な時に限って、対向車の運転手が女性だったりします。
 今回出会った6台の車の運転手の内5人が女性でしたが、その5人の女性たちは、明らかにそっちの方がバックしやすいだろ、と思うような場所でも、自らバックしようとはせず、全員がピクリとも車を動かしませんでした……(苦笑)。
 こういうのは男性・女性関係なく、バックしやすい方が先に動くべきだと思うのですが、実際なかなかそうはいかないようです。
 と言う訳で、ほんと神経をすり減らしながら、狭い山道をバックすること5回、何とか目的地の須木に無事に辿り着くことが出来ました。

 げんきんなもので、窮地を脱して平和な場所に来ると、人間という生き物は、急にお腹が減ってくるものです(笑)。
 今までの緊張から解き放たれた私は、いざ目的の「天然うなぎ」を食べに、義父と一緒に予約していたお店へと向かいました。

 今回、天然うなぎを食べたのは、「勝美館」というお店です。
 天然うなぎと聞くと、ものすごく高価な代物のように思いますが、勝美館は非常に良心的なお店で、うなぎ定食の特上でも2,200円です。
 ちなみに並は1,100円でしたから、天然うなぎを出すお店としては、破格の値段設定ではないでしょうか。おそらく都会で同じものを食べようものなら、確実にこの3倍以上は取られると思います。

 私と義父は、うなぎ定食の特上(写真)を頼みましたので、うなぎがまるごと一匹付いてきました。
 私は天然うなぎ初体験でしたが、うなぎは養殖と天然とでは全く別の食べ物のように感じました。天然は歯ごたえがあり、一般で言う「うなぎ」を食べている触感とは全く別物です。私の義姉が、「ゴムを食べているみたいだったでしょ?」と言っていましたが(笑)、それは言い過ぎにしても、確かにそれに通じるものはありました。
 天然と養殖のどちらが美味しいか。これは好みの問題だと思いますが、私は食べ慣れているせいか、脂が乗っている養殖の方が好きですね。天然はさっぱりし過ぎているように感じました。また、天然を食べるのなら、かば焼きよりも白焼きの方が良いと思います。わさびを乗せて、醤油か塩で、なんていう方が合うような気がします。

14791100363840.jpg
(うなぎを一切れ食べちゃった後の写真です^^;)

 さて、天然うなぎを堪能した後は、ようやく歴史探訪の時間です。
 小林市の須木は、西南戦争の末期、鹿児島に向けて逃避行を続けていた西郷隆盛が宿泊した場所の一つです。
 延岡出身で、西南戦争関連、特に薩軍の可愛岳突破に関して貴重な著作を残された香春健一(かはる けんいち)氏の『西郷臨末記』によると、西郷が須木に入ったのは、明治10(1877)年8月27日のことです。西郷が軍を解散したのが8月16日のことですから、それから約10日後に須木まで南下したことになります。
(西郷が軍を解散した北川町と須木との位置関係は、下記地図をご覧ください)

mapsuki.png

 同じく『西郷臨末記』からの引用ですが、西郷は27日午後、須木村大字夏木字中藪の川添源佐衛門方に投宿し、そこで一夜を過ごしました。
 香春氏は、その時の西郷の様子を次のように記しています。


かくて先きに書いた堂屋敷の農家川添方に一行が到着すると、近くを南流する須木川を前にながめ得る同家の、南向きの座敷の縁の上に輿が据えられと、西郷はそのまゝ輿から這い出て奥の六畳の間に入った。すると護衛の薩兵が出て来て、すぐ次の間との隔てに幕を下した。「『翌朝出発までの間に、誰もその姿を見た者はなかった。』と、亡父源佐衛門がいつも話していた。」とは、当主群治氏の話であった。
(香春健一『西郷臨末記』から抜粋)



 香春氏は、昭和の初期から中期にかけて、宮崎県の西南戦争の戦跡を丹念に踏査された方ですので、その著作には非常に貴重な話が盛りだくさんに詰まっています。
 この一節も、須木に入った西郷の様子が、関係者の口伝を利用して、非常にリアリティ溢れる形で描かれているのではないでしょうか。

 西郷が宿泊した川添源佐衛門の屋敷ですが、残念ながら現存していません。
 現在その地には、「西郷隆盛宿営之地」(写真)と刻まれた大きな石碑が建てられているだけです。

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(小林市須木「西郷隆盛宿営之地」)

 私が訪れたのは、西郷が宿泊した日に比較的近い、平成28年8月13日のことでした。
 現在の屋敷跡の前にはコンクリートの道路が整備され、往年の姿を偲べるものは何も残されていませんでしたが、西郷が眺めたであろう須木川には、今も昔と変わらず、透明度の高い綺麗な水が流れていました。
 部屋から一歩も外に出なかった西郷は、この須木川のせせらぎの音を聞きながら、一体何を考えていたのでしょうか。
 今となっては想像することしか出来ませんが、来たるべき鹿児島での最後の戦いに備えて、心を静めていたのかもしれません。

 最後に、またグルメの話に戻りますが、須木は栗の産地としても有名です。須木産の栗はとても甘くて美味しいですよ。
 また、須木から小林市の市街地に向かう途中に「ダイワファーム」という乳製品の直売所があるのですが、ここのソフトクリームがめちゃくちゃ美味しいです!
 特に、須木の栗を使っているのだと思いますが、ここの「マロンソフト」は、西郷ならぬ、最高です!(笑)

ダイワファーム
http://www.daiwafarm.net/index.html

※須木の「西郷隆盛宿営之地」は、宮崎交通の中藪バス停を降りてすぐの場所にありますが、アクセスが悪いため、車で行くことをオススメします。


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【2016/11/14 18:00】 | 史跡巡り
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とってもお久しぶりです
あやママ
ご無沙汰しております
篤姫の放送の頃書き込みしてました あやママです!
大河西郷どん、楽しみですね!
私の住んでる熊本は震災で大変ですが
お陰様で我が家は何とか無事でした。
また、時々お邪魔させて下さい!

ご無沙汰しています!
tsubu
あやママさん

こちらこそ大変ご無沙汰しております!
いやあ~、懐かしいです。
お元気でいらっしゃいますか?

地震、大変でしたね……。
ご無事で本当に何よりです。
まだまだ不便な生活が強いられているかと思いますが、一日も早い完全復旧を祈っております。
また、いつでも書き込んでくださいね。

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 前回は歴史話が全く無く、とんかつの話だけに終始してしまいましたが、今回、私が鹿児島を訪れたのは、黎明館で開催されていた企画展『幕末薩摩外交-情報収集の担い手たち-』を見学することがメインだったのですが、当日、併せて開催された『青少年「薩長同盟」フォーラム』という催し物にも参加して来ました。

 まず、青少年「薩長同盟」フォーラムのことから書きますが、全体が一部と二部の構成で、第一部は萩博物館の道迫真吾学芸員による講演、第二部は「現代版薩摩ステューデント」と「現代版長州ファイブ」によるフォーラムから成り立っていました。

 まず、「現代版薩摩ステューデント」と「現代版長州ファイブ」って何のこと?

 と、素朴な疑問を持たれる方も多いのではないでしょうか。

 昨年、平成27(2015)年は、薩摩藩から19名の留学生(正確には15名の留学生+4名の視察員)がイギリスに向けて旅立った150年目を迎える節目の年であったことから、そのことを記念するための事業の一環で、平成27年7月19日から29日の間、現代版の薩摩スチューデント(薩摩藩英国留学生)として、鹿児島からイギリスに向けて19名の学生を派遣したのです。
 同じく現代版長州ファイブというのも、長州藩から5名の留学生がイギリスに留学したことにあやかって行われている学生の海外派遣事業なのですが、それら二つの海外研修に参加した学生たちが集まり、第二部で『青少年「薩長同盟」フォーラム』と称して、報告会を兼ねたフォーラムが開催されました。
 コーディネーターは、以前黎明館で学芸員をされていた、現在は鹿児島県知事公室政策調整課で、明治維新150周年記念事業を担当されておられる吉満庄司さんでした。

 まず、第一部のことから書きますが、萩博物館の道迫真吾学芸員による講演については、長州藩士のイギリス留学に関する歴史的な背景や留学生たちの現地での生活、そして同じく薩摩藩から派遣されていた留学生たちとの交流などを中心に、分かりやすく話されていた印象です。
 次に、第二部のフォーラムですが、海外研修に出かけた学生諸君というのは、やはりしっかりした学生が多いですね。海外研修で得た経験や将来の夢などを熱っぽく語っていました。

 私自身も学生と触れ合う仕事をしている関係もあるので実感がありますが、海外留学を経験した学生の海外留学前と帰国後では、人間的に成長すると言いますか、海外で大きくもまれて一皮むけたとでも言いましょうか、その違いを感じることが多いです。
 今回の現代版薩摩ステューデントや現代版長州ファイブについては、派遣期間が非常に短いため、その効果は少ないと言えば少ないのでしょうが、海外に行くと行かないとでは大違いだと思います。

 私は、昨今流行りの「グローバル化」という言葉は余り好きではないのですが(何でもかんでも「グローバル」と名を付けりゃ良いと勘違いしていると思います。何事も中身が肝心!)、若者たちの海外留学や研修に関しては、積極的にどんどん行うべきだと思っています。
 海外の学生たちと積極的に交流を持つことは、日本の学生たちにとっても、ものすごく刺激になりますし、また、海外の学生と意見交換することで、自らの能力や考え方が今どれくらいのレベルであるのかを自分自身で再認識できる良い機会であると思います。
 現代版薩摩ステューデントと現代版長州ファイブの諸君には、若き日の西郷や大久保のように、青雲の志を持って、これから頑張って頂きたいですね。

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※写っているのは、三反園鹿児島県知事

(4)に続く


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【2016/10/11 12:30】 | 史跡巡り
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