西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
今年の夏も宮崎に帰省したのですが、その際に宮崎県児湯郡都農町の赤木家住宅(写真)を訪ねました。

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都農とは「つの」と読みますが、宮崎県中部に位置する人口一万人程度の小さな町です。
藩政時代、都農は以前ブログでも書きました高鍋藩秋月家の領地でした。
豊後街道沿いにあった赤木家は山林業で財を成した商家で、その建物は高鍋藩主が参勤交代する際の本陣としても利用されたそうです。

設置されている案内板によると、文久三(1863)年とその翌年(元治元年)、この赤木家には薩摩藩の島津久光も宿泊したのだそうです。
詳しく調べていませんが、久光の二回目か三回目の上京の時でしょうか。
ただ、案内板には久光のことを「薩摩藩主」と書いていました……。
初歩的なミスですが、案外そのように誤記している本やテレビ番組をたまに見かけます。(久光は薩摩藩主の実父です)
確かに、幕末時の久光の立ち位置と言うのは、外部から見れば少しややこしいのかもしれませんね。
現在、赤木家住宅の建物内部は非公開ですが、往事を偲ぶことが出来る外観を維持していますので、都農に行く機会があれば必見のスポットです。

そして、いつものことですが、宮崎に来たら、やっぱり「うなぎ」を食べないといけないでしょう!
と意気込んで、同じく都農の国道十号線に沿いにある「新田うなぎ」さんに行ってきました。
写真は「うな重(大)3,300円」です。

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値段が少し高いと思われるかもしれませんが、このうな重には秘密があります。
何と! うなぎが二段になって入っているのです!
つまり、「うなぎ・ごはん・うなぎ・ごはん」という四層構造になっています。
これがボリューム満点で美味しい!
このうなぎの量ならば、この値段は良心的と言えるのではないでしょうか。おそらく都会で食べれば、その倍は取られると思いますので。
宮崎はほんとうなぎが美味しいところです♪

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【2017/09/08 12:10】 | 史跡巡り
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今年のゴールデンウィークも宮崎の妻の実家に帰省したのですが、いつものとおり宮崎周辺の史跡巡りをしてきました。
私自身も宮崎には三年間住んでいましたので、宮崎は庭みたいなものです。
簡単ですが、今回から数回に分けて、その時のことを書きたいと思います。
まず、第一回目は、宮崎県児湯郡高鍋町(こゆぐんたかなべちょう)です。

高鍋は宮崎市の北方、人口2万人ほどの小さな町ですが、江戸藩政時代には高鍋藩2万7千石の城下町でした。
高鍋を治めていた大名は秋月家です。
初代の秋月種長(たねなが)に始まり、最後の藩主種殷(たねとみ)に至るまで、秋月家は10代に渡って高鍋を支配しましたが、その中で最も著名な人物は、6代藩主種美(たねみつ)の次男直松でしょう。
直松と言ってもピンと来ないと思いますが、直松は後に東北の米沢藩に養子に入り、上杉治憲となります。

「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」

の歌で有名な、あの名君・上杉鷹山です。

恥ずかしながら、鷹山が宮崎出身だったということを私も宮崎に住んだ時に初めて知ったのですが、現在、高鍋町と米沢市とは姉妹都市の関係にあり、高鍋町歴史総合資料館には、鷹山に関連する史料の展示もあります。

ただ、私自身の興味は、鷹山と言うよりも、やはり幕末・維新史にあり、そしてその中でも西南戦争です。
高鍋は西南戦争においても戦場となっていますが、高鍋からは「高鍋隊」と称する軍隊が組織され、薩軍に合流して政府軍と戦っています。

『高鍋町史』(第五編近代)によると、明治維新以来、高鍋では何か重要問題が生じると、旧高鍋城内の千歳亭という建物に旧士族たちが集まり、そこで討論の上、進退等を決するという、衆議決定の方法が取られていたそうです。
高鍋ではそのことを「演説会」と呼んでいたそうですが、西郷隆盛が鹿児島で挙兵したことにより、高鍋も動揺し、演説会が開催され、薩軍側に参戦するか、それとも政府側に付くかが討議されたそうです。
その時の演説会には、約800名もの士族が集まったそうですが、議論は紛糾したようです。

そして、ここに秋月種樹(たねたつ)という人物がキーマンとして登場します。
種樹は、高鍋藩9代藩主種任(たねただ)の子として生まれていますが、兄で最後の藩主となった種殷(たねとみ)の養子となりました。
しかし、廃藩置県で高鍋藩は無くなったため、種樹は言わば幻の高鍋藩主となったのです。

種樹は明治天皇侍読を務めていたことから、詩歌に秀で、書家として有名です。
宮崎県内の資料館や顕彰碑などを巡ると、必ず種樹の書に出会うと言っても過言ではないくらい、宮崎県内には種樹の書があちこちにあります。
実際、私の妻の親戚の家にも種樹が書いた書があり、それほど種樹は宮崎に縁が深い人物と言えますが、この種樹が旧高鍋士族の薩軍への参戦に反対しました。
西南戦争勃発当時、種樹は元老院議員を務め、東京に居たようですが、旧高鍋藩が賊軍に加担することを心配し、挙兵に反対する密書を高鍋に送ったようです。
しかしながら、最終的に旧高鍋藩士族は、「高鍋隊」を組織して薩軍に加わり、政府軍と戦うことになるのです。

簡単ですが、以上のような経緯を経て、高鍋隊は組織され、薩軍内の舞台として九州各地を転戦するのですが、高鍋隊組織後も旧高鍋藩士族の中には薩軍への加担に反対する者が多く居たため、その代表格であった旧高鍋藩家老の秋月種節以下九名が、薩軍側に捕縛され、投獄されています。
この時九人が入れられた牢獄は、牢と言っても旧藩の籾蔵だったのですが、実はその籾蔵が現存しています。
「黒水家住宅」という、旧高鍋藩家老の屋敷跡の敷地内に移設されているのです。(写真)

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この籾蔵に閉じ込められた人々を地元では「九烈士」と呼んでいるそうです。
実はこの時私も初めてその建物を見学したのですが、内部は想像した以上に広かったです。
ただ、当時は米俵や道具なども貯蔵されていたでしょうから、九人で生活するにはかなり狭かったかもしれません。
ご多聞に漏れず、高鍋も近代的な街へと変化し、往時を忍ぶことが出来る古い建物はほぼ残っていませんが、この籾蔵だけは、旧高鍋藩時代を偲べるものと言えるかもしれません。

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【2017/05/17 18:00】 | 史跡巡り
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最近ブログの更新が滞ってしまい、申し訳ありません。

実は現在、西郷隆盛に関わるプロジェクトと申しますか、ある計画に着手しておりまして、そちらに全神経を集中しているため、ブログの更新まで手が回らないような状態です。
この計画につきましては、はっきりしたことが決まり次第、またホームページやブログ等で告知させて頂く予定です。

さて、話は変わりますが、先月鹿児島に行った折、ついでと言っては何ですが、宮崎県児湯郡(こゆぐん)都農町(つのちょう)の報恩寺というお寺を見てきました。
一般には知られていませんが、この報恩寺には、西南戦争時に西郷隆盛が宿所とした「西郷の間」と呼ばれる部屋が遺されています。

この「西郷の間」、私もその存在を全く知らなかったのですが、三又喬『日向灘沿岸をゆく 黒潮路ロマン三九七キロ』(海鳥社)という本を読み、その存在を知りました。
同書によると、明治十(一八七七)年七月に政府軍の攻撃により宮崎が陥落した際、西郷は北上して高鍋から都農に到り、現在報恩寺がある場所に宿所を置いたそうです。
当時はまだ報恩寺ではなく、枡屋と呼ばれた家だったようですが、『古今宮崎史談』には「七月二十九日の夕方、宮崎北方の帝釈寺を発って広瀬に達し、さらに高鍋から都農に至り、枡屋河野宗平方に一泊した」とあるそうです。

また、その西郷が宿所とした枡屋は、その後正覚寺というお寺が建物を購入し、昭和十二年に報恩寺が譲り受けたそうですが、その際、「この家は西郷さんの泊まった家だから大切に保存してもらいたい」と念を押されたことから、現在も「西郷の間」として大切に保存されているとのことです。

ただ、残念ですが、報恩寺さんに電話で確認したところ、「西郷の間」は現在居住スペースとして使用されているため、建物内部を見学することは出来ません。
ただ、家屋は当時に近い状態で保存されているので、外観を見るだけでも一見の価値があります。
宮崎には、まだまだ知られていない西南戦争関係史跡がありますね。

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報恩寺「西郷の間」がある建物外観

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【2017/04/28 18:00】 | 史跡巡り
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 今年の正月も妻の実家の宮崎で過ごしたのですが、そのついでに少しだけですが島津家ゆかりの城下町である佐土原(さどわら)の史跡を巡ってきました。
 下記の画像(写真)は、その際に立ち寄った「島津御殿跡」の石碑です。

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 佐土原藩最後の藩主である島津忠寛(ただひろ)は、明治4(1871)年7月の廃藩置県により、藩知事を免ぜられ、10月に東京に移住することになったのですが、その際に旧領の佐土原にも別邸が必要ということで新たに屋敷が建てられました。
 これが「島津御殿」と呼ばれるものですが、現在は石碑のみが建てられているだけで、往時を偲べるような建物は何も残っていません。石碑の前に建てられた木札によると、島津御殿は戦後移築されたようで、現在は玄関の石垣のみが少し残っているような状態です。
 ただ、島津御殿跡のすぐ前には、御殿下医院なる病院もあり、御殿という名が土地に根付いたものであることが想像できました。今では石碑と石垣だけになってしまいましたが、当時はさぞかし大きな屋敷が建っていたのでしょう。
 ちなみに移築された建物は「臨江亭」と呼ばれたそうですが、昔、宮崎市内に「ホテル臨江亭」という宿泊施設があり(現在は取り壊されてありません)、それと何か関連があるような気がしますが、詳細は調べていないので分かりません。(ご存知の方はご教授ください)

 佐土原は宮崎市の北方に位置する小さな町ですが、江戸時代には佐土原藩2万7千石の城下町でした。
 江戸藩政時代、佐土原藩の城主は島津家でした。佐土原島津家は、いわゆる薩摩藩の島津家の分家筋にあたります。
 佐土原藩の藩祖(初代藩主)は、島津以久(もちひさ)という人物です。
 この「もちひさ」を「ゆきひさ」と読んでいる書物が多数ありますが、名前の読み方は諸説あってどちらが正しいとは言えないようです。
 佐土原町教育委員会発行の『佐土原藩史』では、「ゆきひさ」とルビをふっていますが、「ゆきひさ」という読み方は、以久の前名の「幸久」から来ているものと推測されるのと、個人的には「以」の字を「ゆき」と読むのは少し無理があるような気がしますので、ここでは便宜上以久(もちひさ)とします。

 さて、その以久の父は、島津家中興の祖と呼ばれる島津貴久の弟・島津忠将(ただまさ)です。
 つまり、以久は、戦国期の武将として名高い島津義久、義弘兄弟の従兄弟にあたります。
 以久の父の忠将は、智勇共に優れた武将で、兄の貴久をよく支えましたが、永禄4(1561)年、大隅の豪族・肝付省釣(兼続)との戦いで戦死しています。
 私も詳しくは知りませんが、前出の『佐土原藩史』によると、以久も父に劣らず、知勇兼備の武将であったそうです。
 この辺りの簡単な家系図を書くと次の通りです。


忠良(日新斎)

貴久-忠将
│    │
義久  以久(佐土原藩祖)
義弘
家久

豊久


 佐土原という土地は、元々は義久や義弘の弟である家久が治め、家久の死後はその子の豊久が治めていました。
 しかしながら、その豊久が「関ヶ原の戦い」で戦死したため、以久がその所領を引き継ぐことになりました。これが幕藩体制下における佐土原藩の誕生です。
 佐土原藩が薩摩藩の分家と言われるのはこういった所以からですが、以久をもって始まった佐土原藩は、幕末を迎えた頃には11代を数え、最後の藩主が最初に紹介した島津忠寛です。

 島津忠寛という人物は、薩摩藩の幕末史の中でもちょくちょく名前が出てくる人物です。
 例えば、昨年末にこのブログでも書きましたが、文久2(1862)年3月、島津久光が薩摩から兵を率いて上京した際、当時江戸にいた島津忠寛は、京・大坂に浪士たちが集結し、不穏な企みがあることを知り、大坂に入った久光に対して使者を送りました。
 忠寛は久光に対し、京には入らずに、そのまま直接江戸に参府するよう意見したことが『島津久光公実記』の中に出てきます。


淡路守君忠寛亦使者ヲ馳セ公ニ勧めムルニ京師に入ラスシテ直ニ参府スヘキヲ以テス


 これがその部分ですが、忠寛は久光がある京に入ることにより、不測の事態が生じることを案じたのです。
 結局、久光の入京後、薩摩藩士同士が相討つ「寺田屋事件」が生じたのですから、忠寛の見通しは正しかったと言えましょう。
 ただ、忠寛に限らず、久光が京に入ることで、何かしらの騒動が生じるであろう危惧は、他の大名にも少なからずありました。

 ちなみに、その後久光は勅使・大原重徳と共に江戸に下り、幕府に対して幕政改革を要求するに到りますが、その江戸滞在中、藩主・忠義の名代として働いたのが、島津忠寛でした。
 久光は薩摩藩内では藩主・忠義の実父として身分が高い人物でしたが、当時は無位無官、幕府から見れば、単なる陪臣の身分に過ぎません。そのため、江戸城に登城する資格も無い久光に代わって、忠寛が薩摩藩主の名代となったわけです。

 また、その忠寛ですが、久光が江戸に滞在中、何と久光を薩摩藩主にするべく運動を起こしています。
 越前福井藩の中根雪江が書き記した『再夢紀事』には、次のように書かれています。


七月廿六日今日御登城前御兼約にて島津淡路守殿へ御逢有之御内談之次第ハ當薩侯修理大夫殿幼年病身ニ付三郎殿當代に建度との修理大夫殿内願之由

現代語訳 by tsubu
文久2年7月26日、松平春嶽公が江戸城に登城する前、かねてからの約束で、島津淡路守忠寛殿とお会いになった。御内談の内容は、薩摩藩の当主である島津修理大夫忠義殿は幼年であり(と言っても、当時忠義は22歳)、かつ病身でもあるため、三郎殿(久光のこと)を当主に立てたいと、島津修理大夫忠義殿の内願があるとの話であった



 この記述によると、忠寛曰く、「久光の薩摩藩主就任」については、久光の子の藩主・忠義の内願であるとしていますが、鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏は、その著書『西郷隆盛』の中で、久光の意向だったと推測しています。
 私も同感です。久光の性格からして、忠寛が久光の指示なく、勝手にそのような訴えを起こすとは考えられないからです。
 ちなみに、この忠寛の話を聞いた前越前福井藩主の松平春嶽は、「倫理戻り候故御不同意之趣(倫理にもとる行為である故、同意しない)」と答えたと、『再夢紀事』には書かれています。
 確かにそうでしょう。自分の子供を廃して、父親自らが藩主に就任するということは、春嶽ならずとも、倫理上憚る行為であると感じたことでしょう。

 以上のように、久光が江戸に滞在中、忠寛は重要な役回りを演じていますが、その他にも佐土原藩全体で見れば、薩英戦争後に行われた横浜における薩摩藩とイギリスの講和談判においても、久光と忠寛の命を受けた佐土原藩士の樺山久舒(ひさのぶ)、能勢直陳(なおのぶ)が談判に参加し、重要な働きをしている事実もあり、当時の佐土原藩は、宗家である薩摩藩と密接な関係で結ばれ、共に一体となって幕末・明治維新という時代を行動したと言えます。

 以上のように、佐土原という町は、「もう一つの島津家の町」として、非常に歴史深い場所であるとも言えるのですが、残念ながら、明治10(1877)年の西南戦争において、佐土原も戦場となったため、今は往時を偲ばせるような建物は数少なく、城下町の風情を感じさせてくれる場所は余り残っていないのが現状です。
 また、佐土原という町は、元々「宮崎郡佐土原町」として独立した自治体だったのですが、2006年1月1日に宮崎市に編入されてしまいました。
 ただ、佐土原という地名は、まだちゃんと残っているので、それがせめてもの救いですね。

 最後に話はガラッと変わって、佐土原への史跡巡りのついでに、もちろん宮崎グルメも堪能してきました。
 下記の画像(写真)は、佐土原の隣町、宮崎県児湯郡新富町にある「うなぎの比恵島」さんの「うな丼 大(2,112円)」です

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 以前にもブログで書きましたが、宮崎のうなぎには「きも吸い」ではなく、「呉汁(ごじる)」が定番です。
 呉汁とは、水に浸して柔らかくした大豆をすり潰し、それを絞ったものを入れた味噌汁のことですが、これが濃厚で、味噌が引き立って風味が良く、美味しいんですよね。
 先に呉汁のことを書いてしまいましたが、「うなぎの比恵島」さんは養鰻場が経営しているお店ですので、もちろんここの「うなぎ」は最高に美味しいです。
 また、このお店はご飯がとても美味しいので、うな丼は最高です。宮崎に行かれた際には、是非味わって頂きたい「うなぎ」です。

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【2017/01/18 18:00】 | 史跡巡り
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 前回まで、夏の鹿児島旅行のことを書いてきましたが、今回は夏の旅の最後の締めくくりとして、宮崎でのグルメ&史跡巡りについて書きたいと思います。

 西郷隆盛と言えば、ご存じのとおり鹿児島生まれの鹿児島育ちですから、その関連するゆかりの場所や史跡の多くが鹿児島県にあるのは当たり前ですが、実はその隣県である宮崎県にも、西郷関係の史跡が数多く残っています。
 ただ、正確に表現するならば、西郷隆盛関係と言うよりも、西南戦争関係と言った方が適切かもしれません。

 明治10(1877)年に起こった西南戦争(西南の役)については、熊本、大分、宮崎、鹿児島と九州の広範囲が戦場となったため、九州県内には数多くの関連史跡が点在しています。
 西南戦争末期、宮崎も薩軍が政府軍と激しい戦いを続けた土地であるため、県内の各所には、戦場を含めて関連する史跡がたくさん存在しています。
 それら西南戦争関連の史跡の中でも、宮崎特有のものを挙げるとするならば、それは西郷隆盛の敗走関係の史跡だと言えましょう。

 明治10(1877)年8月15日、現在の宮崎県延岡市の北方、和田越(わだごえ)の地で繰り広げられた「和田越の決戦」で敗れた薩軍は、翌8月16日に軍を正式に解散しました。
 この和田越の戦いは、西郷隆盛が初めて陣頭指揮をとった戦いでもあったことから、現在その地には、「西郷隆盛陣頭指揮之地」という木製の碑が建てられていますが、この戦いは薩軍が勝利を期して挑んだ最後の決戦でもありました。

 しかしながら、薩軍はこの戦いで敢え無く敗退し、西郷は軍の解散を指示した後、大きな決断を下します。
 それは、鹿児島への帰還です。
 西郷は残った薩軍将兵たちを率いて、鹿児島に帰ることを決意したのです。
 薩軍の鹿児島への帰還は、鹿児島に戻り、再起を図ったと言えなくもないですが、実質的には、薩軍は既に敗軍であり、西郷以下薩軍将兵たちは、軍を解散したその日から敗走の道を辿ったと言えるのではないでしょうか。

 しかしながら、当時の延岡は政府軍が既に占領し、延岡沖には軍艦が鎮座して、延岡の北方、現在の北川町付近に宿陣していた薩軍は、四方八方を政府軍に取り囲まれている状態でした。
 そのため薩軍は、まさに網の目を潜り抜けるように、密かに可愛岳の峻嶮を越えて、政府軍の囲みを突破し、一路鹿児島に向けて南下を始めました。
 いわゆる鹿児島に向けての「逃避行」が始まったわけですが、人目を忍び、道なき道を進む過酷な敗走は、その後、約半月に渡り続きます。

 このように西郷以下薩軍将兵たちは、延岡の北方から鹿児島に向けて敗走の道を辿ったことから、宮崎県の各地には、「西郷隆盛敗走の道」と呼ばれる街道や「西郷隆盛宿営の地」と呼ばれる宿泊跡などの史跡がたくさん残されているのです。
 私も宮崎に住んでいた頃、それらの史跡をいくつか巡ったことがありますが、特に西郷隆盛が宿営したと伝えられる場所は、伝承を含めて、非常にたくさんあります。
 今年の夏、その中の一つの宮崎県小林市須木にある「西郷隆盛宿営之地」に行く機会がありましたので、夏の旅行記の最後の締めくくりとして、今回はその時のことを書きたいと思います。


 実は今回、小林市の須木に行ったのは、西郷隆盛が宿営した場所を見に行くことだけが目的ではありませんでした。
 須木に天然のうなぎを出すお店があると聞いた私の義父が、うなぎ好きの私のためにわざわざ予約を入れておいてくれたからです。
 私は史跡巡りに絡めて、その土地土地の名産や名物を味わう「グルメ巡り」をするのが大好きです。
 史跡+グルメ。まさに最高の取り合わせではないでしょうか(^^)
 と言う訳で、今回は「天然うなぎ」「西郷隆盛宿営之地」を目的に、宮崎市から一路小林市の須木を目指すことになりました。

 宮崎市から小林市の須木へは、車でのアクセスが二通りあります。

 一つ目は、国道268号線を通り、高岡町、野尻町、小林の市街地を抜けて行く方法。
 二つ目は、県道26号線を通り、綾町を抜けて行く方法。

 国道268号線を通る方法は、最もメジャーな行き方ですので、私も何度か経験済みでしたが、車のナビで検索すると、二つ目のルートである県道26号線を通る方が、距離も時間も短く、推奨ルートとして表示されましたので、今回は二つ目のルートを選択しました。
 しかし、この選択が後になって後悔を生むことになるのですが、その時の私は知る由もありませんでした。。。

 県道26号線は、宮崎市から綾町の中心部までは道路も綺麗に整備されており、スイスイと楽に行けるのですが、観光地として有名な綾の「照葉大吊橋」を通り過ぎると、様相が一変します。急に道幅が狭くなり、車の離合(「すれ違い」のことです)が難しい山道へと変貌し、何とそれが延々と15キロ以上に渡って続くのです。
 車を運転しながら、私は県道26号線を選択したことをものすごく後悔しましたが、後の祭りです。お店の予約の時間もありますので、今さら引き返すわけにはいきません。義父を乗せて私が運転する車は、そのまま険しい山道を進んでいったのですが、何と車がすれ違うことが出来ない極端に道幅が狭い場所で、運悪く対向車と6回も出くわすことになったのです!
 そして、その内何と! 5回も私が狭い山道をバックするハメになったのですから、この日はほんとツイテいませんでした。
 県道26号線はとにかく道幅が狭く、なおかつ車を離合させるポイントも少ないため、対向車と出会おうものなら、必ずどちらか一方がバックして、車を通さなくてはならなくなります。
 前から感じていましたが、車のナビって、何だか信用なりませんよね?

「えっ? 何で、この道を通るの???」

 なんていうことが、結構起こりますので。
 この狭い山道の県道26号線が推奨ルートだなんて、どう考えても間違ってます(苦笑)。

 また、こういう離合が必要な時に限って、対向車の運転手が女性だったりします。
 今回出会った6台の車の運転手の内5人が女性でしたが、その5人の女性たちは、明らかにそっちの方がバックしやすいだろ、と思うような場所でも、自らバックしようとはせず、全員がピクリとも車を動かしませんでした……(苦笑)。
 こういうのは男性・女性関係なく、バックしやすい方が先に動くべきだと思うのですが、実際なかなかそうはいかないようです。
 と言う訳で、ほんと神経をすり減らしながら、狭い山道をバックすること5回、何とか目的地の須木に無事に辿り着くことが出来ました。

 げんきんなもので、窮地を脱して平和な場所に来ると、人間という生き物は、急にお腹が減ってくるものです(笑)。
 今までの緊張から解き放たれた私は、いざ目的の「天然うなぎ」を食べに、義父と一緒に予約していたお店へと向かいました。

 今回、天然うなぎを食べたのは、「勝美館」というお店です。
 天然うなぎと聞くと、ものすごく高価な代物のように思いますが、勝美館は非常に良心的なお店で、うなぎ定食の特上でも2,200円です。
 ちなみに並は1,100円でしたから、天然うなぎを出すお店としては、破格の値段設定ではないでしょうか。おそらく都会で同じものを食べようものなら、確実にこの3倍以上は取られると思います。

 私と義父は、うなぎ定食の特上(写真)を頼みましたので、うなぎがまるごと一匹付いてきました。
 私は天然うなぎ初体験でしたが、うなぎは養殖と天然とでは全く別の食べ物のように感じました。天然は歯ごたえがあり、一般で言う「うなぎ」を食べている触感とは全く別物です。私の義姉が、「ゴムを食べているみたいだったでしょ?」と言っていましたが(笑)、それは言い過ぎにしても、確かにそれに通じるものはありました。
 天然と養殖のどちらが美味しいか。これは好みの問題だと思いますが、私は食べ慣れているせいか、脂が乗っている養殖の方が好きですね。天然はさっぱりし過ぎているように感じました。また、天然を食べるのなら、かば焼きよりも白焼きの方が良いと思います。わさびを乗せて、醤油か塩で、なんていう方が合うような気がします。

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(うなぎを一切れ食べちゃった後の写真です^^;)

 さて、天然うなぎを堪能した後は、ようやく歴史探訪の時間です。
 小林市の須木は、西南戦争の末期、鹿児島に向けて逃避行を続けていた西郷隆盛が宿泊した場所の一つです。
 延岡出身で、西南戦争関連、特に薩軍の可愛岳突破に関して貴重な著作を残された香春健一(かはる けんいち)氏の『西郷臨末記』によると、西郷が須木に入ったのは、明治10(1877)年8月27日のことです。西郷が軍を解散したのが8月16日のことですから、それから約10日後に須木まで南下したことになります。
(西郷が軍を解散した北川町と須木との位置関係は、下記地図をご覧ください)

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 同じく『西郷臨末記』からの引用ですが、西郷は27日午後、須木村大字夏木字中藪の川添源佐衛門方に投宿し、そこで一夜を過ごしました。
 香春氏は、その時の西郷の様子を次のように記しています。


かくて先きに書いた堂屋敷の農家川添方に一行が到着すると、近くを南流する須木川を前にながめ得る同家の、南向きの座敷の縁の上に輿が据えられと、西郷はそのまゝ輿から這い出て奥の六畳の間に入った。すると護衛の薩兵が出て来て、すぐ次の間との隔てに幕を下した。「『翌朝出発までの間に、誰もその姿を見た者はなかった。』と、亡父源佐衛門がいつも話していた。」とは、当主群治氏の話であった。
(香春健一『西郷臨末記』から抜粋)



 香春氏は、昭和の初期から中期にかけて、宮崎県の西南戦争の戦跡を丹念に踏査された方ですので、その著作には非常に貴重な話が盛りだくさんに詰まっています。
 この一節も、須木に入った西郷の様子が、関係者の口伝を利用して、非常にリアリティ溢れる形で描かれているのではないでしょうか。

 西郷が宿泊した川添源佐衛門の屋敷ですが、残念ながら現存していません。
 現在その地には、「西郷隆盛宿営之地」(写真)と刻まれた大きな石碑が建てられているだけです。

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(小林市須木「西郷隆盛宿営之地」)

 私が訪れたのは、西郷が宿泊した日に比較的近い、平成28年8月13日のことでした。
 現在の屋敷跡の前にはコンクリートの道路が整備され、往年の姿を偲べるものは何も残されていませんでしたが、西郷が眺めたであろう須木川には、今も昔と変わらず、透明度の高い綺麗な水が流れていました。
 部屋から一歩も外に出なかった西郷は、この須木川のせせらぎの音を聞きながら、一体何を考えていたのでしょうか。
 今となっては想像することしか出来ませんが、来たるべき鹿児島での最後の戦いに備えて、心を静めていたのかもしれません。

 最後に、またグルメの話に戻りますが、須木は栗の産地としても有名です。須木産の栗はとても甘くて美味しいですよ。
 また、須木から小林市の市街地に向かう途中に「ダイワファーム」という乳製品の直売所があるのですが、ここのソフトクリームがめちゃくちゃ美味しいです!
 特に、須木の栗を使っているのだと思いますが、ここの「マロンソフト」は、西郷ならぬ、最高です!(笑)

ダイワファーム
http://www.daiwafarm.net/index.html

※須木の「西郷隆盛宿営之地」は、宮崎交通の中藪バス停を降りてすぐの場所にありますが、アクセスが悪いため、車で行くことをオススメします。

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【2016/11/14 18:00】 | 史跡巡り
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とってもお久しぶりです
あやママ
ご無沙汰しております
篤姫の放送の頃書き込みしてました あやママです!
大河西郷どん、楽しみですね!
私の住んでる熊本は震災で大変ですが
お陰様で我が家は何とか無事でした。
また、時々お邪魔させて下さい!

ご無沙汰しています!
tsubu
あやママさん

こちらこそ大変ご無沙汰しております!
いやあ~、懐かしいです。
お元気でいらっしゃいますか?

地震、大変でしたね……。
ご無事で本当に何よりです。
まだまだ不便な生活が強いられているかと思いますが、一日も早い完全復旧を祈っております。
また、いつでも書き込んでくださいね。

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 前回は歴史話が全く無く、とんかつの話だけに終始してしまいましたが、今回、私が鹿児島を訪れたのは、黎明館で開催されていた企画展『幕末薩摩外交-情報収集の担い手たち-』を見学することがメインだったのですが、当日、併せて開催された『青少年「薩長同盟」フォーラム』という催し物にも参加して来ました。

 まず、青少年「薩長同盟」フォーラムのことから書きますが、全体が一部と二部の構成で、第一部は萩博物館の道迫真吾学芸員による講演、第二部は「現代版薩摩ステューデント」と「現代版長州ファイブ」によるフォーラムから成り立っていました。

 まず、「現代版薩摩ステューデント」と「現代版長州ファイブ」って何のこと?

 と、素朴な疑問を持たれる方も多いのではないでしょうか。

 昨年、平成27(2015)年は、薩摩藩から19名の留学生(正確には15名の留学生+4名の視察員)がイギリスに向けて旅立った150年目を迎える節目の年であったことから、そのことを記念するための事業の一環で、平成27年7月19日から29日の間、現代版の薩摩スチューデント(薩摩藩英国留学生)として、鹿児島からイギリスに向けて19名の学生を派遣したのです。
 同じく現代版長州ファイブというのも、長州藩から5名の留学生がイギリスに留学したことにあやかって行われている学生の海外派遣事業なのですが、それら二つの海外研修に参加した学生たちが集まり、第二部で『青少年「薩長同盟」フォーラム』と称して、報告会を兼ねたフォーラムが開催されました。
 コーディネーターは、以前黎明館で学芸員をされていた、現在は鹿児島県知事公室政策調整課で、明治維新150周年記念事業を担当されておられる吉満庄司さんでした。

 まず、第一部のことから書きますが、萩博物館の道迫真吾学芸員による講演については、長州藩士のイギリス留学に関する歴史的な背景や留学生たちの現地での生活、そして同じく薩摩藩から派遣されていた留学生たちとの交流などを中心に、分かりやすく話されていた印象です。
 次に、第二部のフォーラムですが、海外研修に出かけた学生諸君というのは、やはりしっかりした学生が多いですね。海外研修で得た経験や将来の夢などを熱っぽく語っていました。

 私自身も学生と触れ合う仕事をしている関係もあるので実感がありますが、海外留学を経験した学生の海外留学前と帰国後では、人間的に成長すると言いますか、海外で大きくもまれて一皮むけたとでも言いましょうか、その違いを感じることが多いです。
 今回の現代版薩摩ステューデントや現代版長州ファイブについては、派遣期間が非常に短いため、その効果は少ないと言えば少ないのでしょうが、海外に行くと行かないとでは大違いだと思います。

 私は、昨今流行りの「グローバル化」という言葉は余り好きではないのですが(何でもかんでも「グローバル」と名を付けりゃ良いと勘違いしていると思います。何事も中身が肝心!)、若者たちの海外留学や研修に関しては、積極的にどんどん行うべきだと思っています。
 海外の学生たちと積極的に交流を持つことは、日本の学生たちにとっても、ものすごく刺激になりますし、また、海外の学生と意見交換することで、自らの能力や考え方が今どれくらいのレベルであるのかを自分自身で再認識できる良い機会であると思います。
 現代版薩摩ステューデントと現代版長州ファイブの諸君には、若き日の西郷や大久保のように、青雲の志を持って、これから頑張って頂きたいですね。

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※写っているのは、三反園鹿児島県知事

(4)に続く

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【2016/10/11 12:30】 | 史跡巡り
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 7月は別府、そして8月は宮崎・鹿児島に行くのが、最近では私の夏のルーティーンのようになっています。
 今年も8月のお盆休みを利用して、宮崎・鹿児島に行ってきましたので、今回からその旅行記を書きたいと思います。

 別府と同様に、今回も神戸からフェリーに車を乗せて、まずは一路宮崎へと向かいました。
 神戸から宮崎へは「宮崎カーフェリー」という船会社がフェリーを運航しています。
 ただ、個人的な見解ですが、船内設備や乗客に対するサービスの点から比較すると、同じ九州でも大分や鹿児島に向けて就航している「フェリーさんふらわあ」の方が、宮崎カーフェリーよりも断然上だと思います。
 私はこれまで宮崎カーフェリーを何十回と利用しましたが、まず船賃が他のフェリー会社に比べて割高なのに加え、船体が古いため部屋や設備が汚い、そして係員の態度や対応が余り良くないなど、サービスの点がイマイチと思えるからです。

 と、またもや話がそれてしまいそうになりましたが、今回の宮崎・鹿児島旅のメインは、鹿児島イベント情報にも掲載していますが、鹿児島県歴史資料センター黎明館で開催されていた企画展『幕末薩摩外交-情報収集の担い手たち-』を見学することと、それに併せて開催された『青少年「薩長同盟」フォーラム』という催し物を観覧することでした。

 鹿児島へはいつものとおり宮崎を拠点にして車で向かいましたが、今回は鹿児島市内に入る前に、霧島市国分の「敷根火薬製造所跡」に立ち寄る計画を立てました。
 鹿児島県霧島市国分の敷根火薬製造所跡については、その存在は随分以前から知ってはいたのですが、なかなか訪れる機会に恵まれませんでした。
 また、先日紹介した南日本新聞連載の「さつま人国誌」に、同火薬製造所に関する記事(後述)が掲載され、それを読んで以来、日増しに行きたい気持ちは高じていました。
 そのため、今回鹿児島市内に入る前に国分に立ち寄り、同火薬製造所跡を訪ねることにしたのですが、現地に行ってみると、特に案内板も設置されていなかったため、場所が分からず大変苦労しました。
 ネット上で見つけた簡単な地図を頼りに、取りあえず国分の敷根周辺まで車で行き、車を駐車してから、該当する場所と考えられるところに向かって、田んぼのあぜ道を歩いて行ったのですが、なかなか火薬製造所らしき跡は見つかりません……。
 当日の鹿児島は30度を超える猛暑日……。滝のように汗が流れ、着ていた服はまたたく間にびしょ濡れになりました。
 さて、どうしたものか……と、田んぼの真ん中で少し途方に暮れていると、偶然農作業をされていた方が車で通りかかったので場所を尋ねると、何と車で近くまで行けるとのこと!
 急いで車を駐車した場所まで引き返し、教えて頂いた場所へと車で向かいました。

※敷根火薬製造所跡の場所については、最後に簡単な行き方と地図を書いておきたいと思いますので、これから訪れる方は是非参考にして下さい。

 敷根火薬製造所跡の入口には、昭和53年8月に建立された石碑があり、また、その横には由来を示した案内板も建てられています。案内板を見ると、篤姫のイラストが描かれていましたので、おそらく平成20(2008)年に建てられたものでしょう。
 車を降りると、まず大きな水の流れてくる音が聞こえてくることに気づきます。
 実はこの水がとても大事な要素で、近くを流れる高橋川から引いたこの水脈が、敷根火薬製造所の動力となっていました。
 つまり、敷根火薬製造所は水力で操業していたのです。
 それを示すかのように、林の中に入っていくと水路があり、そこには小川のように、今でも勢いよく水が流れています。
 そして、さらに奥へと進むと、水車小屋が設置されていた跡が見えてきます。
 当時の遺構ですが、一段と高くした石組みの水路から、まるで滝のように激しい水が流れ落ちており、それはまさに圧巻の光景です。(画像参照)

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 敷根火薬製造所は、この石組みの水路上に小屋を建て、その中に水車を設置し、その動力を利用して、硫黄や硝石を砕き、火薬の原料としていたのです。
 私はこの水車小屋の跡を見て、少し鳥肌が立ちました。
 とても小さな遺構ですが、それはまさしく薩摩藩が推進した近代工業事業の一端を垣間見る光景であったからです。

 敷根火薬製造所のことについては、私が語るより、下記「さつま人国誌」を読んで頂く方が良いかと思いますが、簡単に概略だけ書きたいと思います。

さつま人国誌(第231回)敷根火薬製造所 西南戦争で破壊、炎上
http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=1519

 敷根火薬製造所が設置されたのは、文久3(1863)年のことです。
 薩摩藩にとって、文久3(1863)年という年は、大きな転換期となった年であると言えます。
 そうです、7月にイギリス海軍と砲火を交えた「薩英戦争」が起こったからです。
 この薩英戦争により、薩摩藩の藩論は大きく転回したと言っても過言ではないでしょう。
 薩英戦争では、薩摩藩はこれまで築き上げてきた砲台や磯の工業地帯をイギリス艦隊の激しい艦砲射撃により、ことごとく破壊され、城下町は火の海となるなど甚大な被害を被りました。
 薩英戦争により、薩摩藩が失ったものは大きかったと言えますが、それにも増して別の大きな力を得ることになったと言えます。

 それは「西洋技術と知識の導入」です。

 薩摩藩は薩英戦争でイギリスの軍事力の強大さを体感したことにより、これまでの方針を一大転換し、イギリスと密接に繋がることにより、軍艦や武器の購入、留学生の派遣、さらには西洋技術や機器を積極的に導入し、藩内の洋式化を進めることとなるのです。

 敷根火薬製造所が国分に設置されたのが、薩英戦争の前か後かまでは定かではありませんが、おそらく本格的な設置は後だったような気がします。
 薩摩藩は薩英戦争により、イギリス海軍の持つ強力な軍事力をまざまざと見せつけられたわけですから、軍制改革、つまり軍事力と海防の強化は大きな課題となりました。当然、軍事力を強化することに伴い、火薬は必要不可欠な存在となります。

 薩摩藩は、敷根火薬製造所を設置する以前から、既に城下の滝之上に火薬製造所を作っており、また、谷山にも煙硝倉を設けて、火薬製造を行っていました。
 しかしながら、やはり薩英戦争をきっかけとして、大量に火薬を製造できる施設を建造する必要があると感じ、火薬の増産を試みるため、新たに敷根に火薬製造所を設けることとしたのではないでしょうか。
 ちなみに、下記の画像は、島津斉彬が谷山に設けた煙硝倉の跡です。

DSCF0064.jpg

 ただ、「さつま人国誌」にも書かれていますが、敷根での火薬製造は思ったほど上手くはいかなかったようです。
 しかしながら、敷根火薬製造所が、薩摩藩の軍事力の下支えとなったことは間違いないと言えるのではないでしょうか。
 ちなみに、この敷根火薬製造所は、明治10(1877)年の西南戦争で焼失した後は、民間会社が製粉所を作り、操業していたそうです。
 硫黄や硝石を砕く役割を果たした水車が、今度は小麦粉などの食物をひくことになるとは、水車自体も思ってもみなかったことだったのではないでしょうか(笑)。

 平成27(2015)年7月、鹿児島県の磯の集成館などが、「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に認定されたことは記憶に新しいかと思いますが、この敷根火薬製造所跡をそれに加えるべく、追加登録を求める運動があるのだそうです。
 確かに、敷根火薬製造所跡は、日本の産業革命遺産として相応しい、薩摩藩が興した近代工業事業の一端を肌で感じることが出来る、本当に素晴らしい場所だと感じてなりません。

(2)に続く

※敷根火薬製造所への行き方(アクセス)
 宮崎市方面から行くと、まずは国道10号線を鹿児島市内に向けて走ります。
 都城市を過ぎ、そして鹿児島県に入って曽於市を通り抜け、霧島市福山を過ぎると、国分の中心部に入る少し手前に国分南小学校という小学校があるのですが、この国分南小学校前交差点を左折し、県道472号線に入ります。(鹿児島方面から来た場合は、もちろんその交差点を右折です)
 宮崎から鹿児島に向けて国道10号線を走ったことがある方なら分かると思いますが、福山を過ぎて国分に入る前に、ものすごく長い下り坂が続きます。
 「亀割バイパス」という名前の道路だと後で知りましたが、アクセルを踏む必要が全く無いくらい、とにかく長く急な下り坂が続くので、ピンと来られる方も多いのではないでしょうか。
 この長い下り坂を抜けて、ようやく前方に国分の町や海がひらけてきたところにサンクスというコンビニが左手にあるのですが、私はここで間違いなくトイレ休憩をします。そのサンクスがあるのが国分南小学校前交差点です。交差点には歩道橋も設置されているのですぐに分かると思います。
 と、全く関係ない話のようですが、この辺りでトイレ休憩したい方はここですると良いでしょう。意外にそんな人は多いような気がします。(地図1参照)


(地図1)
敷根火薬製造所map1

 さて、宮崎方面から、そのサンクスのある交差点を左折し、県道472号線を走ると、大隅方面に向かう国道220号線に突き当たるのですが、そのすぐ手前に高橋川という川が流れています。その高橋川には橋がかかっており、その左前方に田園地帯が広がって見えるのですが、この付近が敷根火薬製造所があった場所なのです。
 車で行く場合は、高橋川にかかる橋の手前に、農道に降りる小さな道(車で入られる道)がありますので、それを降りて、前方右側に見える山の方に向かって走っていくと、右手に「敷根火薬製造所跡」と彫られた石碑と案内板が設置されており、若干ですが車を止められるスペースもあります。(地図2参照)


(地図2)
敷根火薬製造所map2

(言うまでもありませんが、車を駐車される際は、付近の方々の迷惑にならないよう、マナーはお守りください)

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【2016/09/27 12:15】 | 史跡巡り
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 だいぶ前の2月のことですが、家族で福岡旅行(博多および小倉)に行ったのですが、その時、博多の繁華街の中で、偶然にも西郷隆盛関係の石碑と出会いました。
 下記の写真がそうですが、石碑には「西郷南洲翁隠家乃跡」と書かれています。

 なぜ博多に西郷の隠れ家があるのか?

 と思い、大阪に戻ってから、インターネットで調べてみたところ、この石碑が建っている場所にはその昔醤油商の醤油蔵があり、そこを西郷が隠れ家としていたと書いてあるブログをいくつか発見しました。
 それらブログによると、「西郷と月照が隠れていたetc……」という感じで書かれているものもありましたが、厳密に史実から言えば、「安政の大獄」の影響で月照が薩摩に落ちのびた際、西郷は月照と一緒に福岡には入っていません。
 西郷は下関において、一緒に逃避行を続けていた有村俊斎と同志の福岡藩士・北条右門(元薩摩藩士の木村仲之丞)に月照の身を託し、月照受入れのために先行して薩摩に向かっていますので、二人が一緒に福岡に入ったという事実は無いと考えられます。
 西郷が先行して薩摩に向かった後、月照一行は九州に渡り、博多では北条右門の居宅等に潜居後、幕府の捕吏の目を避けるべく、博多近郊を転々として居を移しています。

 以上のような状況ですので、この石碑跡に建っていた建物に、西郷と月照が二人で潜んで隠れていたという事実は無さそうです。
 詳しく調べていないため確定的なことは言えませんが、この隠れ家と言われる場所は、西郷が先行して博多に入った際に宿泊した場所(または西郷が博多に滞在する際に定宿としていた場所)ということになるのかもしれませんが、遅れて博多に入った月照もここに隠れていたという可能性もありますね。
 ともあれ、「月照の薩摩入り」に縁の深い場所であったとしたならば、北条右門ゆかりの場所であったことは間違いないと言えるかもしれません。

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「西郷南洲翁隠家乃跡」碑

【2016/07/26 12:03】 | 史跡巡り
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寒い日と暖かい日が交互にくるようなおかしな天気が続いておりますが、先月、久しぶりに京都に行ってきました。
現在、京都では「第50回記念 京の冬の旅」というイベントが開催されており、通常は非公開となっている貴重な文化財等を見ることが出来るのですが、その中で東福寺「即宗院」が特別拝観出来ることを知り、久しぶりに京都まで足を運びました。

即宗院は東福寺の塔頭寺院ですが、薩摩藩・島津家の菩提寺でもあることから、薩摩藩にゆかりの物が数多く残されていますが、その中でも一番の見どころは、「東征戦亡之碑」でしょう。
「慶應之役」という文字から始まるこの碑は、いわゆる「戊辰戦争」で亡くなった人々を慰霊するために、西郷隆盛が書きあらわしたものです。
実は私、大阪という京都のすぐ近くに住んでおきながら、即宗院に行くのは、今回初めてのことでした。
近くに居るといつでも行けると思ってしまうのでしょうか、案外、灯台下暗しですね。

さて、東福寺ですが、秋は紅葉のシーズンで観光客もたくさん訪れますが、冬はシーズンオフだからなのでしょうか、土曜日であるにもかかわらず、観光客も少なめで、ゆっくりと時間をかけて見学することが出来ました。
今回の「京の冬の旅」では、即宗院だけでなく、国宝の「山門」も中に入って見学することが出来たのですが、まずはお目当ての即宗院に向かいました。

即宗院内には、特別に西郷隆盛の漢詩が床の間にかけられており、その他、薩摩藩ゆかりの火鉢などの展示もありましたが、見事な庭園も見学することが出来ます。
建物内を見終わった後、いよいよ「東征戦亡之碑」を見に行きました。
少し小高い丘の上に、大きな石碑が建てられているので、すぐに分かります。

西郷隆盛という人物は、その巨躯から想像されるような豪快で粗放な性格ではなく、どちらかと言うと几帳面で神経が細やかな人であったと言えます。
「東征戦亡之碑」には、たくさんの戊辰戦争戦没者の名が刻まれていますが、それらはいわゆる武士、つまり薩摩藩士だけではなく、例えば姓も無いような下働きの者や軍艦・春日丸の乗組員など、身分分け隔てなくその名が刻まれているのが特徴です。
後年の西南戦争においても、西郷は戦死者の名を手控えに書き残していたという逸話が残されていますが、おそらく戊辰戦争においても、西郷はマメに戦死者の名を控えていたのでしょうね。

西郷が、戊辰戦争で無くなったたくさんの命、つまり数多くの犠牲があったうえで明治新政府が出来上がったという、非常に強い思いを抱いていたことは、庄内藩士らが編纂した『南洲翁遺訓』を読めば明らかです。
「東征戦亡之碑」は、そんな西郷の気持ちを代弁した貴重なものと言えるでしょう。

※第50回記念の「京の冬の旅」は、2016年1月9日(土)から3月18日(金)まで開催しているようです。(詳しくは主催者情報をお調べ下さい)

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「東征戦亡之碑」

【2016/03/08 17:37】 | 史跡巡り
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島津斉宣ゆかりの史跡「驪龍巖」を見学後、さらに車で北上し、今回の史跡巡りの最終目的地である、いちき串木野市の羽島の「薩摩藩英国留学生記念館」に向かいました。

一番最初にも書きましたが、2015年は薩摩藩から19名の留学生(正確には15名の留学生+4名の視察員)がイギリスに向けて旅立った150年目を迎える節目の年であり、そのことを記念するべく、2014年7月に留学生一行がイギリスに向けて旅立った羽島浦の地に、その業績を顕彰する記念館が建てられました。
私が羽島を訪れるのは10年以上ぶりのことでしたが、その時と比べると景色が一変しており、かなり驚きました。
私が最初に訪れた当時は、留学生たちが旅立ったことを示す記念碑以外は何もなかったのですが、それが今では西洋風の豪華な造りの記念館が建てられ、その周辺は綺麗に整備され、立派に観光地化されています。
今回私が訪れたのは夏休み(お盆休み)の最中であったためか、記念館前の駐車場も満車状態でした。
昔は訪ねる人などほとんどいなかった土地に、今ではこれだけ多くの観光客が訪れているのですから、ほんと不思議ですね。

さて、記念館のことですが、館内に入ってまず感じたことは、展示のトップを飾っていたのが、留学生の高見弥市と堀孝之の二人の紹介であったのを見て、私自身、溜飲が下がると言いますか、妙に納得したことです。

余り良い話ではないので長々とは書きませんが、九州新幹線の発着駅ともなっている鹿児島中央駅の駅前広場に、「若き薩摩の群像」と呼ばれる銅像が建てられています。
鹿児島を旅行されたことのある方なら、一度はご覧になられたことがあるのではないでしょうか。
この銅像は、薩摩藩からイギリスに旅立った留学生たちをモチーフにしたもので、留学生を一体ずつ銅像にし、それらを組み合わせて、「若き薩摩の群像」と名付けたものなのですが、留学生たちの銅像を指折り数えていくと、不思議なことにその銅像が17体しかないことに気が付きます。
イギリスに旅立った留学生の数は19名のはずなのに、なぜか銅像が17体しかないのです。
実は、これには一つの理由があります。
銅像が17体しかないのは、留学生19名の内の2名が薩摩出身者ではなかったためです。

薩摩からイギリスに旅立った留学生の中に、2名だけ薩摩出身ではない人物がいました。
それが高見弥市と堀孝之の二人です。
まず、高見弥市ですが、彼は非常に変わった経歴の持ち主です。
高見は元土佐藩士で、土佐藩の藩論が大きく変わるきっかけともなった、土佐藩参政・吉田東洋の暗殺に深く関わった人物でした。
そのため高見は土佐藩を脱藩せざるを得なくなったわけですが、その後、縁あって薩摩藩の庇護を受けることとなり、後に正式な薩摩藩士となるのです。
(このことについては、本Webサイトの「薩摩的幕末雑話」の中の

第十話「新生 -薩摩藩英国留学生・高見弥市の生涯-」

に簡単に書いていますので、ご興味のあられる方はお読みになってみてください)
また、もう一人の堀孝之は、長崎出身の通詞(通訳)であり、彼も薩摩藩とは非常に縁の深い人物でした。

そんな彼らが、純粋な薩摩出身者ではないとの理由で、鹿児島において「若き薩摩の群像」が製作されるに際し、対象から除外されてしまったのです。
このことがいわゆる鹿児島独特の「閉鎖性」を象徴していると、随分以前に物議を醸したことがありましたが、前述のとおり「薩摩藩英国留学生記念館」のトップを飾る展示を彼ら二人にしたのは、おそらくそういった経緯を踏まえてのこと、つまり意図的なものであろうと思います。
罪滅ぼしと言うと、少し聞こえは悪いですが、そういったことを配慮しての展示構成なのだろうと私は感じました。

さて、少し話がそれましたが、記念館は私が期待していた以上に素晴らしい展示がなされており、薩摩藩英国留学生一行の足跡や業績を詳しく知ることが出来る資料館でした。
今回私が訪れた時は、留学生の一人である長沢鼎(ながさわかなえ)関連の企画展示がなされていましたが、それらもとても興味深く見学することが出来ました。
ちなみに、長沢は本名を磯永彦輔と言うのですが、留学の際に藩から与えられた「長沢鼎」の変名が気に入り、その後もその名で通し、後にアメリカのカリフォルニアに渡って、「ワイン王」と呼ばれたことでも有名な人物です。

羽島に来るといつも思うのですが、イギリスへの渡航を前に、留学生一行はここでどのような気持ちで、そしてどんな思いをして過ごしていたのでしょうか。
現代の海外留学とは根本的に異なり、当時の海外留学は国禁を犯しての密航であり、死を賭した決死行でもありました。
彼らのイギリス渡航が人目を忍ぶ行為であったことを示す証拠として、薩摩藩が彼らに対して下した公式な藩命は、「甑島並びに大島(奄美大島)への出張」でした。
つまり、藩は対外的にもそして対内的にも、彼らを藩内の離島へ出張させるという名目でイギリスに派遣したのです。
彼らの渡航は、いわゆる藩の上層部や近親者しか知らない、秘密裏に行われたことでした。
当時の外国と言えば、日本人にとってまさに未知の領域であり世界です。
そんな未知の世界に、人目を憚るように踏み込もうとしていた彼らの胸中を思うと、察するに余りあります。

私は羽島を訪れると、留学生たちの希望に満ち溢れた明るい気持ちを感じることはなく、逆に大きな不安や恐怖と言った、一種暗い、憂いの気持ちの方を強く感じます。
羽島を訪れた際には、是非、当時の留学生たちの気持ちを慮り、自分なりの何かを感じ取って頂ければと思います。

最後に軽い話ですが、いちき串木野市は、鹿児島名物「さつま揚げ」の本場とも言えるところで、海岸沿いを中心に、さつま揚げの工場がたくさん建てられています。
当然、私も買って帰り、舌鼓を打ちました(^^)
機会があれば、歴史的な見どころも、そして土地の名産も満載のいちき串木野市に是非足を運んでみてください。

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薩摩藩英国留学生記念館(いちき串木野市)

【2016/01/26 17:25】 | 史跡巡り
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