西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
第7回でスポットが当たったのは、西郷隆盛の最初の妻のスガ(須賀)と母のマサ(満佐)でした。
西郷はその生涯において三人の妻を持ちました。スガ、愛加那、イトの三人ですが、『西郷どん』ではいずれの人物も大きく取り上げられる形となるそうです。
何せ「西郷隆盛は究極のモテ男」というのが、今年の大河のコンセプトですからね(笑)。

さて、まずはスガのことからですが、ドラマ内でも描かれていたとおり、西郷とスガが結婚したのは嘉永5(1852)年、西郷が24歳の時です。
前回のジョン万次郎話が嘉永4年のことでしたので、時系列的には一年進行したことになります。
スガは家老座書役・伊集院直五郎兼善の娘で、後の子爵・伊集院兼寛の姉にあたりますが、西郷が両親の勧めにより結婚したことは分かっています。
西郷は妹・琴の夫である市来正之丞に宛てた手紙の中で、

「両親よりめとらせ候妻を滅後追出し」

と、「両親の勧めにより娶った妻を両親の死後に離縁した」と書いているからです。

次回か次々回に描かれることになるかと思いますが、この手紙にもあるとおり、西郷とスガは結婚して2年後の安政元(1854)年に離婚しました。
ただ、二人の離婚の原因は定かでありません。
一般には、二人が結婚した頃の西郷家は経済的にとても厳しく、生活も苦しかったことから、スガの気苦労は絶えなかったと伝えられ、実家の伊集院家がそんなスガのことを見かねて、彼女を自主的に引き取ったと言われています。
また、西郷と離婚後のスガについては、どのような生涯を送ったのかも全く分かりません。

それにしても、今回は少しスガのことを悪く描き過ぎではないでしょうか?
まるで西郷家に嫁に来たことが不服であるかのように無愛想な態度を示すスガでしたから。
私は平成2年の大河ドラマ『翔ぶが如く』で同じくスガを演じた(作中では俊(トシ)という名前でした)南果歩さんの健気な奮闘ぶりが好印象でしたので、今回のようなスガの描き方は、ドラマを盛り上げるためにせよ、もう少しやり方があったのでは? と率直にそう感じました。
何せ次回のタイトルは「不吉な嫁」ですからね(苦笑)。

私が思うに、脚本家の中園ミホさんは、自身の作品である朝ドラ『花子とアン』と同じ手法を取ったのでしょう。
中園さんは同ドラマにおいて、ドラマのもう一人の主役でもある柳原白蓮を魅力的な女性とするため、その義母にあたる宮崎槌を大変意地悪な姑として描きました。
しかしながら、周知のとおり実際の槌はそのような人物ではなく、人柄も良く、宮崎家を支えた大変立派な女性であったからです。
おそらく今回の『西郷どん』において、中園さんは後の妻となるイトの器量良しを表現するために、同じような対比法を取り、スガをあのような女性に仕立てたのでしょう。

そして、西郷の母のマサも亡くなってしまいましたね。
ドラマ内でも描かれていましたが、嘉永5(1852)年という年は、西郷家にとって厄年とも言える一年でした。7月に祖父・龍右衛門、9月に父・吉兵衛、11月に母・マサの三人が相次いで亡くなったからです。
少し講談的な要素が強い書物ではありますが、明治31年に発行された村井弦斎『西郷隆盛一代記』によると、マサは死の数日前、西郷に対して次のように言ったとあります。(セリフを現代風にアレンジしました)

「私が元気な体であれば、つてを求めてお前を江戸に上らせるのですが、病のためにそれも叶わないので残念です。私が死んだ後、家が落ち着いたら、有村殿の後を追って江戸へ上り、名を上げるのですよ」

まさに溢れんばかりの母の愛を感じますよね。

また、『薩藩家庭教育の実際』という昭和13年に出版された小冊子には、マサの人物像が次のように書かれています。

「翁の母堂満佐子刀自は生れつき体格雄偉、而も男勝りの気象をもち、小事に齷齪(あくせく)せぬ人であった。加之、智あり、熱あり、果断勇決の点に至っては男子と雖も一歩を譲るやうな人物であったので、「男なりせば御家老にもなるべき人だ」と言はれる程であった」

少し大げさな書きようではありますが、西郷に負けず劣らず、マサも大変豪快な女性だったのかもしれませんね。
ちなみに西郷は、どんな多忙な日であっても、父母の命日には必ず木綿の紋付羽織を着て、粗末な小倉袴をはき、お墓参りをしたというエピソードも残っています。

最後に余談ですが、大久保の母・フクが亡くなった際、西郷は大久保に対し、元治元(1864)年9月15日付けで次のようなとても心のこもった悔やみ状を出しています。(旧字等は読みやすくしました)


「御賢母さま、御養生叶わせられざる段、驚き入る仕合いに御座候。追々承り候ところ、御難症の由は承り居り候得共、例の御持病強き方にて、肌持も能く罷り成り候に付き、追日御快方と相考え居り候ところ、存外の次第、さぞ御愁傷の筈と想像やる方なき事共に御座候。毎年の御不幸打ち続き、御悲心のところ、私共さえ堪え難き事に御座候」


大久保の母の死を伝え聞いた西郷が、まさに自分のことのように悲しんでいる様子がうかがえます。
大久保はその前年に父・次右衛門利世を亡くしていました。
相次いで父母を亡くした経験のある西郷だからこそ、その大久保の深い悲しみを痛いほど理解できたのではないでしょうか。

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【2018/02/18 20:46】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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第6回では、西郷と中濱万次郎、いわゆるジョン万次郎との交流が描かれました。
もちろん、この二人が「会った」という証拠はありませんが、「会わなかった」という証拠もないことから、あのような描き方をしたのでしょう。(大河ドラマは、基本そういうスタンスです)
ただ、後述しますが、薩摩にやって来たジョン万次郎は、厳戒な警備の下で保護されていたようですので、西郷が会える可能性はゼロに等しいものであったと思います。

前々回の斉興と斉彬のロシアンルーレットと言い、最近少し過剰な演出が目立ちますが、良くも悪くも、大河ドラマはもはや史実云々と細かく言うレベルの代物ではなく、あくまでもフィクションとして、寛容な気持ちで視聴しなければならないものであるということを改めて認識する時期が来たということでしょうね。
大河ドラマが放映されると、必ず「史実云々」という批判が生じますが、そのような無用な批判を受けないためにも、NHKは放送の最後に、「このドラマは事実を元に創作したフィクションです」というテロップを出すべきだと思います。この一言が全く無く、さも史実らしく見せかけた演出を行うので、世間が騒がしくなるのです。

また、第6回の話をする前に、今回の放送を見て率直に感じたのは、物語の進行が非常に遅いということです。
平成2年に放映された大河ドラマ『翔ぶが如く』と比べると、同ドラマの第6回目は「庭方役拝命」という話で、西郷はもう既に江戸に出ています。
はっきり言えば、今回のジョン万次郎との交流話は、西郷の生涯を描くために必ずしも必要とはしないものだと思いますので、このような遅い進行をとることにより、もっと掘り下げて描かなければならない肝心な部分がスルーされてしまうのではないかと少し心配になりました。

さて、ここから第6回に話を移しますが、相撲で斉彬を投げ飛ばした罪で牢獄に入れられた西郷は、そこでジョン万次郎こと中濱万次郎と出会い、その後に交流を深めます。(以下、全て万次郎で統一します)
ドラマ内で描かれていたとおり、万次郎が薩摩に来たことは間違いない事実です。
『鹿児島県史料 斉彬公史料 第一巻』に「中濱萬次郎申口」という文書が入っており、それを参考にして書きますが、万次郎が薩摩に到着したのは、嘉永4(1851)年7月29日のことです。当時西郷は23歳です。

万次郎は土佐の貧しい漁師の家に生まれ、仲間四人と共に鰹釣り船で漁に出た後、時化(しけ)にあって遭難し、無人島での漂流生活を経て、アメリカの捕鯨船に救助されたいう話は一般にも良く知られています。
少し話がそれますが、万次郎と同じく土佐の出身で、船で米を運搬中に万次郎と同じく遭難し、後に漂流生活を送った野村長平という人がいます。
長平の漂流は、万次郎の漂流より60年ほど前の話になりますが、この長平の漂流生活をリアルに描いたのが、吉村昭の小説『漂流』です。
当時の漂流生活がいかに過酷なものであったのかと長平の凄まじいばかりの強靭な精神力を知ることが出来ますので、ご興味のある方は是非読んでみてください。オススメの小説です。

話を戻しますが、アメリカ本土に渡った万次郎はそこで教育を受け、最終的には日本に帰国するためにカリフォルニアで金鉱夫となり、帰国のための資金を得た後、ハワイ経由で琉球(現在の沖縄県)に帰還します。
当時の琉球は薩摩藩が支配していた土地であったことから、当時の在番奉行の島津登(久包)は、万次郎を薩摩へと護送するのですが、その際に万次郎に与えた品が「中濱萬次郎申口」に次のように記されています。

一、単物 一枚
一、袷 一枚
一、帯 一
一、蚊帳 二張
一、焼酎 一斗


与えた品の中に焼酎が入っているのが、薩摩らしいと言えば、薩摩らしいですよね(笑)。

さて、琉球から薩摩本土へと送られた万次郎は、薩摩半島の南方、指宿に近い山川港に着き、そこから鹿児島城下へと護送され、ドラマでも字幕が出ていましたが、城下西田町の下会所に収容されました。

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西田橋御門(復元)

第6回では、西郷は万次郎と獄中で出会っていましたが、「中濱萬次郎申口」によると、万次郎には、

「御侍一人、平役人、御組ノ者共五人ツゝ付ケラレ」

とあり、その身辺は厳重に警備されていたことは間違いありませんが、おそらく投獄されたのではなく、屋敷内に隔離・保護されていたものと思われます。

また、少し書きそびれましたが、万次郎は伝蔵と五右衛門という、二人の漂流仲間と一緒に日本に帰国しました。
万次郎と共に遭難した四人の仲間の内、一名はハワイに残り(寅右衛門)、もう一名はハワイで病死していたからです(重助)。
そのため、万次郎は三人で薩摩にやって来たのですが、ドラマ内ではその辺りの事情は描かれていませんでしたね。

万次郎一行は、薩摩において約一ヶ月半拘留され、後に長崎へ送られたのですが、薩摩に滞在している間、斉彬の特命により、彼らに対して様々な聞き取りを行ったようです。
「中濱萬次郎申口」には、次のようにあります。(漢字等を改めて読みやすくしました)

「事情質問のため、田原直助及び船大工等三、四名を日々居所に遣わし、専ら造船、あるいは航海術、あるいは捕鯨のことを聞き、筆記し、あるいは捕鯨船の模型を作らしめたり」

斉彬は万次郎の訪薩を「しめた!」とばかりに喜んだのではないでしょうか。
この時とばかりに、後に薩摩藩で造船業に携わることになる田原直助や船大工を派遣し、造船法を聴きだそうとしていることからも、斉彬の西洋式造船への強い意欲がうかがえます。
そして、そこで得た知識が、後に薩摩藩が完成させた西洋式軍艦・昇平丸の建造に役立ったことは改めて言うまでもありません。

斉彬にとって、万次郎らは生ける教材であったと言えるかもしれませんね。
ちなみに、後に万次郎は、薩摩藩が設立した洋学校・開成所に教授として招聘されています。
もしかして、開成所で西郷と再会するシナリオを考えているのかもしれませんね。


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【2018/02/12 17:05】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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なんと!?
日高建男
万次郎に漂流仲間が居たとば知りませんでした・・というか日本人の多くの人は知らないのではないでしょうか?さすが幕末、提示すべき一級の情報は山とありますね。相撲とっている場合ではないかもしれません(笑)

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ドラマでは、島津斉彬がようやく藩主に就任しました。
前回の感想&小解説では触れませんでしたが、第4回で描かれた斉興と斉彬のロシアンルーレットは、まさに「おったまげ~!」でしたね。(←平野ノラ風・笑)

私のツイッターでも少し呟きましたが、あのロシアンルーレットの話は、おそらく平戸藩主・松浦静山が書いた『甲子夜話』を基にして創作されたものではないかと思います。
この話は海音寺潮五郎『西郷隆盛』(朝日新聞社刊)の第一巻でも触れられていますが、その昔、薩摩の城下では武士たちが集まると、座敷に円陣を組んで座り、その真ん中に天井から縄で吊るした鉄砲をぶら下げ、その縄をくるくると巻いた後、鉄砲に点火して手を放すという、度胸試しのような行為(遊び?)があったというのです。
当然、巻かれた縄は回転し、どこかで鉄砲が暴発することになりますが、周りに居座る武士たちは平然と談笑し、微動だにしてはいけません。鉄砲の暴発を恐れて、狼狽えたりでもしようものなら、仲間から卑怯未練と罵られ、薩摩武士の風上にも置けぬ輩として、吊るし上げを喰うからです。
誠に身の毛もよだつような恐ろしい話ですが、おそらく第4回の斉興と斉彬のロシアンルーレットは、この話から着想したものではないでしょうか。

さて、この辺りで第5回に話を移しますが、今回は「相撲」にスポットが当てられた話でした。
急きょ御前相撲に出場できなくなった村田新八に代わり、西郷が相撲に挑む話でしたが、元々薩摩は相撲が盛んな土地柄です。
西郷の相撲好きはかなり有名な話として伝わり、諸書にたくさん取り上げられていますので、今回は少し視点を変えて、相撲とはほど遠いと思われる大久保と相撲について書きたいと思います。

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(大久保利通生い立ちの地)

明治43年に刊行された勝田孫弥『大久保利通伝』は、大久保利通研究の基礎資料とも言えるものですが、その勝田が書いた別の書に『甲東逸話』(甲東は大久保の雅号)という、大久保にまつわる様々な逸話をまとめたものがあるのですが、その中に「相撲好」という話が収載されています。
この逸話によると、昔から薩摩において相撲は、士気の養成や身体の鍛錬のために武士たちの間で最も奨励されたものであり、大久保の父・次右衛門利世は、大の相撲好きであったそうです。
同書には、

「甲東は幼い時より父に伴はれて龍虎相撃つの状を見物するを常とした。甲東が父に劣らぬ相撲好であったのはこれが為である」

とあり、少年時代の大久保は、父に連れられて相撲見物に出かけることが多かったことから、父に劣らぬほどの相撲好きになったと書かれています。

この大久保の相撲好きの逸話を証明するかのように、若き日の大久保の日記を見ると、相撲見物に出かけたという記述がいくつか出てきます。
例えば、嘉永元(1848)年1月15日、つまり大久保がまだ弱冠18歳の青年であった頃の日記には、

「今日は横井氏の石壇の内江、例年有之候角力ある由に而、北原氏・山田氏被差越候付、拙者江も被進候」(『鹿児島県史料 大久保利通史料一』。以下同史料集から抜粋)

との記述があります。
つまり、「横井氏の屋敷内で例年相撲が催されており、北原氏と山田氏が来て、相撲見物に誘われた」ということです。

また、その後の日記の記述を読むと、大久保は日頃から親しく交際していた五歳年上の得能良助(日記の注には新助とあります)を誘い、結局四人で相撲見物に出かけたようですが、興味深いのは、相撲会場に到着した時のことです。
大久保は次のように書いています。

「八ツ近行着、加冶ヤ町方黒木氏・亀山氏・西郷氏杯参り被居、緩々致見物候」

つまり、大久保は「午後二時近くに相撲会場に着くと、加治屋町方限の黒木氏、亀山氏、西郷氏なども見に来ており、ゆっくりと相撲見物した」と書いているのです。
もちろん、西郷氏とは若き日の西郷隆盛のことです。
相撲という場において、西郷と大久保が邂逅しているのは、大変面白いですよね。

少し話がそれますが、この大久保の嘉永元(1848)年の日記を見ると、この相撲見物の時のように「加治屋町の○○が居た」や「加治屋町へ行った」という記述が散見されることから、当時の大久保は、西郷と同じ加治屋町に住んでいなかったものと思われます。
加治屋町に住んでいる人間が、わざわざ「加治屋町へ行った」と日記に書くことはまずあり得ないでしょう。
一般には、大久保は幼少期に生誕地の高麗町から、甲突川を挟んだ対岸の加治屋町に引っ越してきたと言われていますが、嘉永元(1848)年当時は、加治屋町ではなく、別の場所に居住していたものと推察されます。
おそらくまだ高麗町に住んでいたか、もしくは父が琉球館詰めの役人であったため、その役宅に住んでいたのかもしれません。(加治屋町にも屋敷を持っていたが、当時は他所に住んでいたという可能性もあります)

また、このことは既に私のホームページ内にも書いていますが、嘉永元(1848)年当時の大久保の日記は、約120日間の記録が残されていますが、西郷という記述が出てくるのはわずか4日しかありません。
しかも、そのいずれもが「西郷と出会った」や「西郷も来ていた」という、偶然西郷と顔を合わせたという風に書かれていることから、当時の西郷と大久保は、それほど親しく付き合っていなかったことが分かります。
逆に、一緒に相撲見物に出かけた得能良助や税所喜三左衛門(後の篤)といった人たちは、大久保の日記中に頻繁にその名が出てきますので、大久保との親密な交際がうかがい知れます。
おそらく西郷と大久保が親しく交流するようになったのは、大久保の父がお由羅騒動の影響で嘉永3(1850)年4月にお役御免となり、喜界島に遠島されて以後のことではないかと思います。
大久保は父の遠島により、自らも記録所書役助を免職となっていますが、その頃に加治屋町に居を移し、本格的に西郷との交流を深めたのではないでしょうか。
つまり、お由羅騒動は、西郷と大久保の仲を取り持つきっかけともなったと言えるのです。

閑話休題。
大久保と相撲に話を戻しますが、大久保の日記には、他にも嘉永元(1848)年10月10日に「明日は角力有之候付」という記述があるのですが、面白いのはその翌日、相撲当日の日記です。大久保は次のように書いています。

「今日は未大鐘近より起上り相仕舞、六ツ時船出し、四ツ時有村江着船いたし候、五時初り誠ニ以面白終日見物いたし、夜入近相済候」

この記述から分かるのは、大久保は船に乗って桜島の有村へ渡り、相撲見物に出かけたということです。
日記には「未大鐘近より起上り相仕舞、六ツ時船出し」とあることから、当日は未の刻(午後2時頃)近くに起きて、夕方の午後6時頃に船出したのでしょう。
当初この記述を見た時、「六ツ時船出」とあることから、朝の午前6時頃に気張って出発したのかと思ったのですが、四ツ時に桜島に着き、相撲が始まったのが五時(五ツ)で、夜に入って終わったとありますので、相撲の始まりは夜の午後8時ではなく、朝の午前8時頃だということでしょうね。
友人と共に夕方に船で出発した大久保は、夜の午後9~10時頃に桜島の有村に着き、そこから相撲会場の横井氏の屋敷まで移動し、翌朝午前8時頃から始った相撲を終日見物したということです。

大久保の相撲好きたるや、まさに恐るべしです!


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【2018/02/04 21:44】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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とうとう西郷たちが慕う赤山先生こと赤山靭負が亡くなってしまいました。
赤山の切腹シーンは見ごたえがありましたね。
沢村一樹さんの演技は鬼気迫るものがあり、素晴らしかったです。

赤山の切腹に際し、その介錯を西郷の父である吉兵衛が務めていました。
西郷家は赤山の実家・日置島津家の「用頼(ようだのみ。御家人のこと)」を務めていた関係から、両家は非常に縁深い間柄であったからです。
これまでも吉兵衛が赤山の側仕えとして働くシーンが描かれていましたが、池田米男『南洲先生新逸話集』(以下『新逸話集』と略す)によると、日置島津家と西郷家の繋がりは、西郷の祖母の実家・四本家を通じて、吉兵衛が同家に出入りしたことから始まったとあります。

このような縁から、赤山の切腹の介錯を吉兵衛が引き受けたと一般に伝えられていますが、厳密に言うと、赤山を介錯したのは吉兵衛ではなさそうです。
『新逸話集』によると、介錯人は加藤新平という撃剣家であったそうで、吉兵衛は赤山の死後の後処理を行ったとあります。
赤山は死の直前に吉兵衛を側近くに呼び、

「斉彬公が一日も早く七十五万石の薩、隅、日、琉球領地の太守たる御家督を継承されんことを我は死して祈らん。お方も斉彬公御家督の事を神仏に祈ってくれよ」

と言い残し、介錯人の加藤には、

「介錯誠に御苦労千万である。其の介錯の刀は永く其方の家に収めて呉れ」

と遺言を残して、切腹したとあります。

また、『新逸話集』には、西郷が吉兵衛から赤山の形見である血染めの肌着(同書は肩衣)を受け取ったという有名な逸話にも触れられており、この話は膨大な薩摩藩史料を編纂したことでも有名な市来四郎が、介錯人の加藤から直接聞いたものとあります。

さて、ここで赤山の簡単な経歴をまとめておくと、彼は島津家の流れをくむ日置島津家の当主で家老を務めた島津久風の次男として生まれました。
赤山の実兄には、久光、忠義のもとで主席家老を務めた経験もある島津久徴(ひさなが)がいる、薩摩藩内では名門の生まれです。
ちなみに赤山が日置島津家出身であるにもかかわらず、島津姓でないのは、日置島津家六代・久竹の次男・久辰が赤山姓を名乗って以来、次男以下の妾腹の子供は島津姓を名乗ることを憚り、赤山姓を名乗るようになったからだと伝えられています。

赤山は西郷より五歳年上ですので、西郷にとっては、先生と言うよりは兄貴分に近い存在だったと言えるのではないでしょうか。
また、赤山の実弟には、西南戦争において西郷と共に城山で戦死した元薩摩藩家老の桂久武が居ることは有名ですね。
桂は久風の五男にあたりますが、西郷とは刎頸の友とも呼べる間柄で、終生その仲は大変良好でした。『西郷どん』では、漫才コンビ・スピードワゴンの井戸田潤さんが桂を演じます。
ちなみに、桂の兄で、久風の四男にあたる田尻務(つとむ、またはつかさ)もまた、薩摩藩の重臣であり、明治後は霧島神宮の初代宮司となりましたが、西南戦争勃発後、西郷率いる薩軍を支援したため、戦後は長崎監獄に投獄されています。
このように見ると、島津久徴、赤山靭負、田尻務、桂久武の四兄弟は、いずれも西郷とは縁深い人物だったと言えます。

赤山に話を戻しますが、彼の人柄を知るものとして、とても興味深い文書が現代に残されています。
『鹿児島県史料 斉彬公史料 第四巻』(斉彬公は「せいひんこう」と読みます)の中に、「内訌記」という、お由羅騒動に関するたくさんの史料が収められた文書があるのですが、その中に赤山の人となりを知る貴重な証言が含まれています。

嘉永2(1849)年末から3年にかけて、斉彬派に対する処罰が始まると、薩摩を出奔した斉彬派の人たちがいます。
井上出雲守、木村仲之丞、竹内伴右衛門、岩崎千吉の四名です。
彼らは各々薩摩を脱出すると筑前福岡に奔り、福岡藩主・黒田長溥(ながひろ)に庇護を求めました。
長溥は薩摩藩第八代藩主・島津重豪の子供で、斉彬からすると大叔父(祖父の兄弟)にあたる人物です。
ただ、大叔父とは言え、実際の年齢は斉彬の方が二歳年上で、親類であり年が近かったことから、二人は大変親交が深い間柄でした。
そのため、四名の出奔者は亡命先として長溥の元を選び、筑前福岡に逃げ込みました。
彼らは長溥に対してお由羅騒動の顛末を事細かく話し、この騒動が斉彬の藩主就任に悪影響を及ぼさぬよう、長溥に尽力を願い出たのです。

以上のようなことから、筑前福岡藩にはお由羅騒動に関する文書がたくさん残っているのですが、その中に亡命者の一人である井上出雲守が福岡藩の求めに応じて提出した書類が収められています。
井上は鹿児島の諏訪神社の神職を務めた人物ですが、のちに藤井良節と名乗って近衛家に仕え、薩摩藩の政治活動を後援した人物としても有名ですね。
ちなみに、この井上は福岡に亡命後、工藤左門と改名し、安政の大獄の余波を受けて、京都から月照が九州に落ち延びた際、月照の薩摩入りに尽力することになるのですが、それは大河ドラマでは描かれないかもしれません。

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(玉里邸庭園)

さて、その井上が福岡藩に提出した書類の中に、お由羅騒動で処罰された人たちの略歴等を記したものがあるのですが、その中に赤山について次のように記しています。(漢字等を改めて読みやすくしました)


「右は先の家老嶋津和泉二男にて御座候。二男は嶋津を名乗申さず故、和泉家にて往古より二男以下赤山と名乗り申す事に御座候。此者は至極一体おとなしきものにて、勿論学才もこれあり、善悪邪正之決断も宜しく、急速楚忽之事などはこれなきものと、屹と見込罷在り申し候」(「内訌記三」『鹿児島県史料 斉彬公史料 第四巻』)


島津和泉とは島津久風のことで、前段では赤山姓を名乗る経緯が記され、そして後段において赤山の人柄について触れられています。
井上は、赤山はとても温厚な人柄で学識もあり、また正邪の分別もある、とても真面目な人だった、と書いています。
ドラマの中でも、沢村一樹さんが同じような感じで、非常に温和な人物として赤山を好演されていましたが、それは真実であり、赤山は心優しい人だったのでしょうね。
そして、西郷はそんな赤山の人柄に惚れ込み、心服していたからこそ、遺品の血染めの肌着を授けられ、その志を継ぐことを決心したのだと思います。

ちなみに、井上自身は赤山との直接の面識はどうやら無かったようです。井上は「尤いまた面会対談仕らずものに御座候得共」と書いてあるからです。
しかしながら、井上は、赤山を幼少時からよく知っている高崎五郎右衛門(お由羅騒動で切腹した一人。お由羅騒動が別名「高崎崩れ」と言われるのはこの人物が由来)から聞いた話を基にして赤山の人柄を述べたと記していますので、実際の赤山の人柄と差異は無いものと判断しても良いでしょう。

長くなりましたので、今回はこの辺で。


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【2018/01/28 21:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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赤山靭負
日高建男
赤山靭負が生きて明治政府の重要ポジションに居れば西南戦争は起きなかったでしょうか。

林先生の「西郷どん!」にもこれまでの読み物、映像作品同様、赤山はほとんど描かれていませんでしたが私の漫画「西郷どん!」には、西郷の兄貴分として描き込みました。“やんちゃな於一にせがまれ仕方なく馬に於一を乗せている赤山靭負が吉之助に「姫様を馬に乗せて万が一何かあってはどう致しましょう・・」と平伏しながら嗜められて赤山「まあ、それはそうなのだが・・(汗)」”というシーンなど・・この度の大河で赤山をそこそこ描いてくれたのは赤山好きとしてはウレシかったですねえ。

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第3回では、西郷家の貧窮と借金が描かれていましたね。
確かに、西郷家は多額の借金を背負っていたことが分かっています。

弘化4(1847)年12月、つまり西郷が19歳の時、父・吉兵衛と共に薩摩郡水引村(現在の薩摩川内市)の豪農であった板垣家を訪れ、百両というお金を借りています。
ドラマ内でも吉兵衛が板垣に対して、「百両貸して欲しい」と言っていましたが、これは史実どおりです。
ただ、ドラマでは赤山靭負の紹介で初めて板垣家を訪れたような形で描かれていましたが、実際西郷家と板垣家は昵懇の間柄であったそうです。

また、西郷家は板垣家から百両だけでなく、年が明けた嘉永元(1848)年正月にも追加で百両、つまり合計二百両借りています。
当時の一両を現代のお金に換算するのはなかなか難しいですが、便宜的に一両を八万円程度と見積もると、この時、西郷家は一千六百万円程度の多額の借金をしたことになります。
このような形で西郷家が大金を借りた理由は、基本的に生活苦によるものでしたが、一般には「高(知行地)の買い入れのため」だったと言われています。

『西郷隆盛全集』内に、西郷家「万留(よろずとどめ)」という、西郷家の家政上の記録をまとめた文書が掲載されています。
その「万留」を読むと、西郷家の経済状況の移り変わりが詳細に分かり、とても興味深いのですが、その文書によると、板垣家から借金をした弘化4年当時、西郷家は四十七石の禄高を有していたことが分かっています。
『鹿児島県史第二巻』の記述を少し借りると、薩摩領内は「蔵入高」と「給地高」に大別されました。蔵入高とはその貢租が藩庫に入る高、すなわち藩直轄の土地であり、給地高とは藩士が知行として与えられた土地のことを意味します。
一概には言えませんが、基本的に武家の家臣は藩主から知行地を与えられ、そこから生産される米などの収入と藩の役職等に就くことによって支払われる手当(いわゆる給与)により生計を立てていました。
西郷家の禄高が四十七石であったと聞くと、武家人口が多い薩摩藩の中では中流程度の生活をしていたかのように思われますが、当時その禄高は借金の抵当や生活費の工面のため既に売り払われるなどして、ほとんど名目上だけのものになっており、その実態はなかったものと考えられています。(芳即正「西郷家貧乏物語」『天を敬い人を愛す―西郷南洲・人と友―』参照)
つまり、弘化4年当時の西郷家は、実質的に「無高」の状態であったということです。

ここで弘化4年末の西郷家の家族構成を見てみると、

(祖父)龍右衛門
(祖母)名前不詳(日置郷士四本大清院の妹)(大河では「きみ」になっています)
(父)吉兵衛
(母)まさ
(弟)吉二郎、信吾、小兵衛
(妹)琴、鷹、安

と、西郷の他に十人もの家族が居ました。
また、「万留」によると、当時の西郷家は「現人数拾四人」とあることから、おそらく家族の他に使用人が三人居たのでしょう。
つまり、西郷家は十四人の大所帯だったのです。

DSCF0728.jpg
(西郷隆盛誕生地)

この大家族の生活費を一家の大黒柱である吉兵衛と西郷の役職手当だけで賄わなければならなかったのですから、その生活はさぞかし苦しかったに違いありません。
当時の西郷は郡方書役助の職に就いていたとは言え、役職柄薄給であり、父の勘定方小頭であった吉兵衛の稼ぎと合わせても、大家族が余裕をもって暮らしていけるような収入はなく、生活はとても苦しかったものと思われます。
『西郷隆盛全集 第四巻』付属の月報4に、吉元正幸「西郷家「万留」について」という論文が掲載されていますが、それによると、吉兵衛の役職手当は銀六枚であり、西郷は四石の給与を授かっていたようです。

このような事情から、西郷家は高(知行地)を購入し直すことを考えました。
薩摩藩では、武士による高の売買が認められていたことから、西郷家は少しでも生活費の足しにしようと、安定的な収入を得られる高を買い戻そうと考えたのです。
当然、高の購入のためには、お金が必要になってきますが、西郷家にはそのような費用を捻出する余力は無かったのでしょう。
西郷と吉兵衛は、高購入のためのお金を工面するため、日頃から懇意にしていた豪農の板垣家を訪れ、百両という大金の借金を申し込んだと言われています。

以上が西郷家が板垣家から借金をした理由なのですが、実はそんな西郷家の計画を全て台無しにするような事態が生じました。
芳即正「西郷家貧乏物語」『天を敬い人を愛す―西郷南洲・人と友―』を参照して書きますが、西郷家は板垣家から借りたお金で、高の値の相場が一石あたり十二貫文と安い時期に高を購入したのですが、薩摩藩は投機目的で高を購入する者が出ることを防ぐため、高一石あたり二十貫文という公定価格を設け、その公定価格を過去に売買のあった高に対しても適用するとの布令を出したのです。
この藩の政策により、西郷家は窮地に立たされました。
つまり、西郷家は高一石を十二貫文で購入していたため、一石あたり八貫文の追徴金を支払わなくてはならなくなったからです。
結果、西郷家はその追徴金の支払いのため、急きょお金が必要になり、年が改まった嘉永元年正月、西郷家は板垣家から追加で百両借りることになったと言われています。

西郷家の借金の話で終わってしまいましたが、実はこの借金話には後日談があります。
この時、西郷家が板垣家から借りた合計二百両のお金については、利息を一年ばかり払ったきり、長らく返済が滞っていたのですが、明治5年6月、西郷が明治天皇の行幸に付き従い鹿児島に帰国した際、板垣家に返金しているのです。
つまり、西郷は二十年以上前の借金をしっかり覚えていて、丁寧に礼状をつけて、板垣家に利子を付けて返金したのです。
このことは、拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』内にも書きましたが、西郷の西郷たる所以、その律儀な人柄を示す、とても良いエピソードではないでしょうか。

他にも色々と書きたかったのですが、今回は長くなりましたのでこの辺で。
次回から「お由羅騒動」が描かれそうですね。
楽しみです!


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【2018/01/22 17:20】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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大河ドラマも第2回に入り、少年だった小吉は、いよいよ青年・吉之助へと成長しましたね。
時は弘化3(1846)年まで進みました。西郷は18歳です。

この弘化3年という年は、日本にとって、そして薩摩にとっても重要なターニングポイントとなったと言えるかもしれません。
まず、この年の1月に仁孝天皇が崩御し、その翌月に孝明天皇に践祚されました。
政治的に言えば、孝明天皇の即位は幕末史の幕開けであったとも言えるかもしれません。

また、薩摩藩ですが、ドラマ内でも描かれていたとおり、この年の7月、島津斉彬が薩摩に帰国しました。
ドラマ内ではちゃんとした説明がありませんでしたが、斉彬が帰国したのは琉球で生じた外交問題を処理するためです。
その二年前の弘化元年3月、フランス軍艦・アルクメーヌ号が琉球の那覇に来航し、通信と交易、布教を要求したほか、翌弘化2年にもイギリスの測量船が那覇に来航、そして翌弘化3年にはイギリス人のベッテルハイムが那覇に上陸して勝手に居を構えるなど、琉球に諸外国の軍艦等が来航する外交問題が生じていました。
外国船の来航と言えば、嘉永6(1853)年6月のペリー来航が最も有名ですが、その約10年前から、琉球という場所を通じて、既に諸外国の外圧が日本に忍び寄ってきていたのです。

ドラマ内でも描かれていた通り、当時の斉彬はまだ世子(藩主の跡継ぎ)の立場でしたが、藩主の斉興に代わり、それら琉球において生じた外交問題に対処するため、薩摩に帰国することになったのですが、実際のところ薩摩に帰国した斉彬は、特段の手段を講じることなく、その翌年の弘化4年3月に、江戸に向けて帰国せざるを得ませんでした。
芳即正『島津斉彬』の記述を借りれば、斉彬に外交主導権をあたえまいとする斉興・調所の意図により、斉彬の帰国前に琉球問題処理のお膳立てが既に終わっていたからです。
このように、弘化3年の薩摩への帰国において斉彬が抱いた虚無感が、その後、一刻も早く藩主に就任したいという焦燥感へと転化し、そのことがその三年後に生じるお由羅騒動の萌芽となるのです。

さて、ドラマ内でも紹介されていましたが、青年になった西郷は、藩の郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)の職に就きました。
他藩に比べて武士の人口比率が高かった薩摩藩では(約四人に一人が武士であったと言われています)、武家の子弟がある程度の年齢に達すると、各自家計の助けとなるように低い役職に付ける慣習がありました。

西郷は前回でも描かれましたが、幼少期に負った右腕のケガのため、武芸を諦めて学問に精を出していたことから、同世代の中でも読み書きや算盤に秀でていたのでしょう。西郷はその能力を買われて、郡方の事務職に任命されたものと思われます。
大久保も記録所の書役助に任命されていましたが、大久保も西郷と同じく、武芸者と言うよりも能筆家だったからでしょう。
また、西郷が勤めた郡方は、藩内各地に巡視(出張)することも多く、体力のいる役職でもありました。西郷の生まれついての雄大な体格も、郡方の事務官に任命された理由の一つだったと言えるかもしれません。

そして、今回の一番の見どころは、借金のかたに売られようとしていた農家の娘を西郷が必死に助けようとしたシーンでしょう。
まさに感動の名シーンでしたね! 鈴木亮平さんの熱演が光っていました。
もちろんこの話は創作でしょうが、若き日の西郷にはこれに類する逸話がたくさん残されています。
例えば、勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、

「隆盛の各地方を巡回するや、つぶさに人民艱難の状況を視察し、往々救助するところあり。(中略)人民飢餓に迫り、あるいはその牛馬を売却して租税に宛てなお足らざるものあり。隆盛その惨状を目撃し、深く憫憐の情に堪へず、わずかに受くるところの俸給をなげうちて、ことごとく窮民にほどこし」(句読点を挿入し、難解な漢字は平仮名に直しました)

とあり、このような話は「枚挙すべからず」と勝田は書いています。
また、勝田は「故に地方の人民深く其徳を欽慕したりと云ふ」とも書いていますが、後の西郷の言動等を鑑みても、これらの逸話は史実に近いものだったと考えても良いのではないでしょうか。
こういった愛農、愛民主義を西郷は終生変わらず持ち続けていたと思います。

また、農民たちの窮状を見かねて、西郷が家老の調所のところに物申しに行くシーンがありましたが、大河ドラマ『篤姫』にも篤姫が調所のところに行くシーンがありませんでしたっけ?
ただ、少し固いことを言えば、もし西郷が本当に直訴するとすれば、やはりまずは郡奉行のところでしょう。
西郷は郡方書役助です。筋から言えば、上役の郡奉行のところに訴えなければなりません。
それをいきなり飛び越えて、家老のところに上訴することは、薩摩藩のヒエラルキーから考えても絶対にあり得ません。そんなことをしたら切腹間違いなしです。
ですので、まずは郡奉行に農村の窮状を訴え、それでもらちが開かなかったので、

「こげんなったら、ご家老に直訴するほかなか!」

と、調所のところに行くとした方が、ドラマとしても自然だったと思うんですけどね。

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(鹿児島市・調所広郷屋敷跡)

ちなみに調所と西郷は52も年が離れており、調所が亡くなった時、西郷はまだ20歳の若者でした。
調所は幕末の薩摩藩史の中でも悪役として描かれがちですが、彼が借金まみれの薩摩藩財政を立て直さなければ、後に斉彬が興した集成館事業も実施することは叶わず、また、薩摩藩が幕末史上あれだけの存在感を示すことは出来なかったと言えるかもしれません。
それほど調所の行った藩政改革は、薩摩藩にとって重要なものであったのです。
これは長州藩において「天保の改革」と呼ばれる藩政改革を推進した村田清風の功績も同様ですね。

そのように考えると、調所は大変悲劇的な人物です。
斉彬は実父の斉興を直接の攻撃対象にすることが出来ないことから、その腹心である調所にターゲットを絞ったという一面が多分にありますので。
本来なら、調所の功績は、薩摩において永遠に語り継がれるべきものでありましたが、斉彬と斉興の関係が悪かったことから、調所はその身代わりとなり、悪役に仕立てあげられたからです。

少し長くなりましたので今回はこの辺で。
次回も楽しみです!


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【2018/01/14 20:45】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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少し遅れましたが、明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、いよいよNHK大河ドラマ『西郷どん』が始まりましたね。
先日の第一回目の放送を見ましたが、これからどう展開していくのかがとても楽しみです。
大河が放映されると、史実云々の話が必ず出ますが、大河ドラマは所詮エンターテイメント性を重視したフィクションですので、史実を大きく踏み外していない限り、面白く描けば良いのではないかと思います。

さて、今回の設定では、西郷家と大久保家が隣り同士ということになっています。
無論これはフィクションで、両家は下加治屋町の中でも少し離れた場所にありました。
と言っても、ものすごく近い距離です。約100mくらいでしょうか。現地を訪れればその距離を実感できますので、是非大河ドラマの放映を機に、鹿児島に出かけて体験してみてください。

また、先日見たテレビ番組によると、大久保家は西郷家よりも土台が高く盛られ、一段上に西郷家を少し見下ろすような形で作られているとか。
これは大久保家が西郷家よりも裕福であったことを暗に示すためだそうです。
確かに、大久保の父である次右衛門(利世)は、琉球など南島諸島からの産物が集まる琉球館詰めの役人を務めていましたので、西郷家よりも比較的裕福であったことは間違いありません。
ただ、そんな大久保家も、次右衛門が「お由羅騒動」に巻き込まれ、喜界島に遠島になると、大久保自身も記録所書役助を免職の憂き目にあい、急激に家計が逼迫します。
このあたりは次回以降に描かれることになるでしょう。
ちなみに、次右衛門が勤務していた琉球館は、現在の鹿児島市立長田中学校の場所にあり、その敷地内にそれを示す石碑が建っています。(写真)

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(琉球館跡)

さて、第一回目では、妙円寺詣りと後の妻となるイトや斉彬との出会い、そして幼少期に刀傷を負ったことが中心に描かれていましたね。

妙円寺詣りとは、関ヶ原の合戦に出陣し、敵中突破を果たした島津義弘の遺徳を偲ぶ伝統行事です。
旧暦の9月14日になると、鎧や兜に身をかためた城下の侍たちが集まり、鹿児島市内から伊集院にある義弘の菩提寺・妙円寺(現・徳重神社)までの往復約40㎞の道のりを夜を徹して歩き、当時の苦難を偲びながら参拝するもので、現在も鹿児島の伝統行事の一つとして行われています。
若き日の西郷や大久保たちがこの行事に参加していたことは間違いありません。若き日の大久保の日記に妙円寺に参拝した記述が出てくるからです。

ドラマ内では、男装したイトがその集団に混じっていましたが、西郷とイトとは15歳も年が離れています。
イトの男装を見て思い出したのが、27年前の大河ドラマ『翔ぶが如く』のことです。
『翔ぶが如く』においても、イトは西郷信吾(後の従道)や大山弥助(後の巌)と共に鉄砲をぶっ放すなど、男勝りな人物として描かれていましたね。
そのイト像に対し、『西郷家の女たち』の著作でも有名な作家の阿井景子さんが、当時強く反論されていたことを思い出しました。

しかしながら、西郷が刀傷を受けたのは11~13歳の頃であったと伝えられていますので、単純に考えれば、当時イトはまだこの世に生まれていないことになります。
まあ、これはドラマですから仕方ありませんね。
ちなみに、この後、大久保がイトに恋をしてふられる設定のようですよ(苦笑)。

最後に西郷が負った刀傷について。
ドラマでは肩に傷を負っていましたが、伝承では右ひじであったと言われています。
それ以来、西郷は右ひじを真っ直ぐに伸ばすことが出来なくなり、剣術を諦め、学問に精を出すことになったと伝えられていますが、あくまでも伝承レベルの話と言えるかもしれません。
歴史上の人物の幼少時の話は不確かなものが多く、少し話が盛られている可能性もありますので。

また、西郷に刀傷を負わしたのは、横堀三助という人物だと伝えられています。
これは明治31年に発行された村井弦斎『西郷隆盛一代記』が元になっているものでしょう。
ただ、同書には横堀三郎とあり、三助ではありません。
どこで三郎が三助になったのか浅学のため知りませんが、明治27年に発行された勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、「聖堂の帰途に友人と議論せしが終に争闘と為り」とあるだけで人物名までは言及されていないところを見ると、よく分からないというのが実態かもしれません。
ちなみに聖堂の帰途と言うのは、藩校・造士館の帰り道ということでしょうね。
今で言うと、学校帰りにケンカを売られたということです。

次回は西郷も成長し、青年になるようですが、どのような展開になるのか今から楽しみです。


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【2018/01/09 12:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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鶴ヶ魂
西郷隆盛は決して義理人情に厚い一辺倒の人間ではない。
赤報隊の処分や暴徒を使った幕府への挑発など見ても分かるように思わず眉を顰めたくなるも持っている。
しかし最後には結局新政府軍と激戦を繰り広げて見事に散っていった。
西郷が挙兵という知らせに東京の人間が沸き上がったというがそれだけ当時の維新政府が腐りきっていたという証拠であろう。
公正な判断をしようとした江藤新平を邪険に扱い政府から追い出して反乱者としてさらし首にした藩閥政府の連中は身内に賄賂を垂れ流し、官有物を不当に廉価で自分の部下に払い下げ、女遊びに興じていた。

俺は「明治維新」ははっきりと日本にとって過ちであったと思っているが、この二人の最期の抵抗にはそれを帳消しにするほどの意義があったと思う。

ちゃんとこういう部分を長州びいきの政権下で描写できるか、NHKスタッフの気概に期待したいものです。


-
赤報隊の処分 -> 現在の研究では赤報隊は無法の徒であり政府の処断は妥当。
暴徒を使った幕府への挑発 ->江戸の暴走で西郷(京都)は止めようとしていた。
西郷が挙兵という知らせに東京の人間が沸き上がったというが ->そんな話はない。
江藤新平を邪険に扱い政府から追い出して -> 政争に敗れ自分で下野。
官有物を不当に廉価で自分の部下に払い下げ→西郷死後の開拓使官有物払下げ事件のことか。赤字事業の清算なので妥当な話。減価償却ぐらい知っておきましょう。


ukoji
赤報隊の処分や江戸挑発は後日聞いていたと思いますが
西郷がさせたとは性質上考えにくいです。
管理者の著書を熟読されることを願います

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 2018年NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』の原作、林真理子さんの『西郷どん』(月刊「本の旅人」(角川書店発行)に連載中)の第12回の感想です。

 第12回は、沖永良部島での西郷の遠島生活から物語が始まりますが、またもやアッと言う間に月日が進み、西郷が赦免されて京都に赴き、物語の後半には「池田屋事件」が起こり、「蛤御門の変」前夜までが描かれます。
 以前にも書きましたが、『西郷どん』は物語の進行が非常に早いです。この小説が西郷隆盛の生涯をダイジェスト的に描いているのは分かりますが、重要な歴史的事件や事項を、大久保が西郷に語って聞かせる形式で淡々と説明して進むので、幕末の歴史を知らない読者が、果たして話に付いていっているのかどうか少し心配です。

 鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏は、「西郷という人は、幕末・維新史全体の上に浮かべないと、真の姿がわからない」と、その著書『西郷隆盛』の中で語っていますが、まさに同感です。例えば、西郷が南島に潜居して不在であった頃の中央政局の動きをしっかりと押さえておかなければ、元治元(1864)年2月に西郷が復帰してからの行動を正確に理解することが出来ないと思います。海音寺氏は、従来の西郷伝はそのことをおざなりにして描かれているので、西郷の真の実像が歪む原因となっている、というような趣旨のことを書かれていますが、それから考えると、小説という形式で西郷隆盛の全生涯を描き切るのは、少し難しいような気がします。

 話を戻して、『西郷どん』第12回ですが、相変わらず西郷は久光のことを「らっきょう野郎」と呼び(苦笑。これ、何とかなりませんかね?)、その舌鋒はとても厳しいですが、それはさて置き、一点気になったのは、沖永良部島に流刑となった西郷の赦免を藩内の若手藩士たちが小松帯刀に頼み、小松が島津久光に願い出て許されたと描かれていることです。


若者たちが小松帯刀に頼んだところ、快く引き受けてくれた。交渉役として京で揉まれた彼は、人の心を読むことにたけていた。
「もはや国父さまは天下の中枢におつきにないもした」
 とおだてた後、
「こいからは小まわりのきく者が必要ではあいもはんか。あの西郷ならば京の公卿や宮家、江戸の大奥にも顔がききもす」
 と話を持っていったのである。粘り強く頼んだ結果、久光は最後には折れた。わが息子である藩主茂久(忠義)に聞いてみろと言ったのである。

(『西郷どん』第12回から抜粋)


 西郷の赦免については、通説では、久光の近臣であった高崎正風、高崎五六のいわゆる両高崎が、久光の面前において、「もし、西郷赦免の儀、お聞き届けなくば、有志一同、割腹つかまつる所存でございもす」と願い出て、それを聞いた久光が、

「左右みな(西郷のことを)賢なりと言うか……。しからば即ち愚昧の久光一人これを遮るのは公論ではあるまい。太守公(藩主・忠義)に伺いを立てるが良い」

 と言い、藩主・忠義の許可を得て決まったとされています。
 これは『大西郷全集 第三巻』の西郷隆盛伝の中に出てくる話ですが、勝田孫弥『西郷隆盛伝』ではその辺りの経緯がもっと簡潔に書かれています。


文久三年の末、久光の上京するや、諸藩有志の徒は悉く長州に走り公武合体党は皆京師に集まれり。然るに幕府の方針は益其勢権を維持するに傾向し、公武合体も亦佐幕の地位に陥るに及び薩藩の壮士輩は深く奮激する所あり。断然死を決して久光に面訴し、以て隆盛召喚の議を決せんと欲す。黒田清綱等其巨魁たり。高崎五六等之を聞知して大に驚き小松、大久保等に告げ久光に説かしむ。爰に於て隆盛放免の議漸く内定し、吉井友實を以て其使者と為すに決せり。
(読みやすくするため、旧字は改編。句読点は筆者が挿入しました)



 『西郷隆盛伝』によると、黒田清綱を中心とする壮士たちの死を決した西郷赦免運動を聞いた高崎五六らが、驚いて小松や大久保一蔵に告げ、そのことにより西郷の赦免が決まったとなっていますが、文面から察すると、久光を説得したのは、小松または大久保だったということでしょうか。林さんの『西郷どん』は、この記述を根拠として、小松が久光を説得したとしているのかもしれません。

 ただ、西郷の赦免については、小松や大久保が関与しなかったことを裏付ける話もいくつか残されています。
 前出の『大西郷全集 第三巻』所収の西郷隆盛伝には、次のようにその経緯が書かれています。


 元治元年正月、柴山龍五郎、三島源兵衛、福山清蔵、相田要蔵、井上弥八郎等十数名、丸山の某楼に集まって相談した結果、西郷赦免を願ひ出でて若し聴かれずば、一同君前に割腹死諌しようと決し、黒田嘉右衛門(後の清綱)伊地知正治の二人が有志の総代となって久光侯に哀訴しようということになった。
 しかし最初から久光侯に申出るよりか、小松、大久保に説いて、予め同意を得た上で、都合によってはこの二人の何れかから哀訴させようというのであった。
 黒田、伊地知の二人は、先ず小松を訪ねた。小松は大賛成であるが、自分からは願ひ出難い事情があるという。大久保を訪ねた、大久保も大賛成ではあるが、当時嫌疑を受けた一人であるから願ひ出の責に任ずることは出来ぬという。
 そこで、久光近士の高崎佐太郎、高崎五六がよかろうということになり、久光に拝謁の上、先君の御寵臣という一点張で、とうとう赦免を許さるることとなった。
(読みやすくするため、旧字等は筆者が改編しました)



 この記述によると、小松や大久保は、「趣旨は大賛成だが、自分たちからは西郷の赦免を願い出ることが出来ない」として、黒田たちの依頼を断ったことが分かります。
 また、「寺田屋事件」の生き残りの一人である柴山龍五郎(景綱)の事歴を記した『柴山景綱事歴』にも、次のように書かれています。


 西郷ヲ沖ノ江良部島ヨリ帰サンコトヲ久光公ノ御前ヘ出テ嘆願シ、萬一聴ルサレザル時ハ皆割腹シテ以テ死諌セント議ス。其集リシ人々ニハ三島通庸、柴山景綱、永山弥一郎、篠原國幹、椎原小弥田、宮内彦次(此時彦次ハ異論アリ)、吉田清右衛門等なナリ(綱記憶)。
 爾来又三島通庸、福山清蔵、井上弥八郎、折田要蔵、柴山景綱等ヲ始メ、拾何人丸山ニ會シ、是非御帰シアル様公ニ申上萬一聴ルシナクンバ御前ニテ直ニ腹ヲ切ラント決シタリ(正風、五六の記憶)。
 然ルニ其頃君侯ノ御前ニ出テ何事ニ限ラズ申上ル者モ少ナカリシガ、高崎正風、高崎五六ハ御近習通ヲ相勤メ君侯ノ御側近ク出ツル者ナレバ、黙視シ難クヤアリケン共ニ小松、大久保ニ謀ルニ両氏ハ故障アリ、大久保曰ク伏見一挙列ノ沸騰モ甚ダくどい(其時、綱ノ覚エ)ト茲ニ於テ五六自カラ久光公ノ御前ニ出テ、懇願シ
(読みやすくするため、旧字は改編、句読点等は筆者が挿入しました)



 登場人物に差異はありますが、内容は『大西郷全集 第三巻』とほぼ同じです。
 『大西郷全集』、『柴山景綱事歴』の記述を信用するならば、西郷召還を待ち望む藩士たちは、西郷赦免を実現させるため、小松や大久保にその取り成しを依頼したが、二人に断られたため、久光お気に入りの高崎正風、高崎五六の二人に対し、そのことを依頼したということです。『柴山景綱事歴』には、両高崎が久光の側近の者であるため、彼らから久光に願い出れば、久光も黙止することは出来ないだろうと考えたと書かれています。

 私自身の考えとしては、やはり『大西郷全集』、『柴山景綱事歴』の記述の方が真相のように感じます。久光近くに仕える小松や大久保の立場からすれば、二人は久光の西郷嫌いを身をもって経験していますから、西郷赦免を願い出ることは、火に油を注ぐような行為であると考えたに違いありません。特に大久保は、西郷を召還したい気持ちは強かったでしょうが、文久2(1862)年の久光の率兵上京計画の時のこともありますから、久光に対して容易に西郷の赦免を言いだせるような状況には無かったと思います。

 以上のようなことを考え合わせると、やはり小松や大久保は、久光に西郷赦免のことを話すことで、久光の不興を被ることを恐れ、自重したと考えるのが自然だと思います。
 西郷赦免の動きは、通説のとおり、黒田清綱や柴山景綱ら西郷の復帰を待望する若手の藩士たちが中心となり、小松や大久保ではなく、久光お気に入りの近臣であった高崎正風、高崎五六の二人に依頼したというのが真相だったように思います。


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【2017/01/24 12:30】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 どんどん話が大きくそれていますが、林真理子さんの『西郷どん』(第11回)の中でも、西郷と久光の確執は通説通りの形で描かれていますが、そんなことよりも私が少し気になったのは、久光の率兵上京の目的が「雄藩連合」であるかのように描かれていることです。

 例えば、作中で西郷は、上京を計画する久光の考え方を「もはや幕府などあてにならぬ、自分(久光のこと)を含む有力諸藩が連合して、幕政を行なうというこっじゃ」と語ったり、また、「薩摩ら雄藩によって幕政を立て直す、天皇のお出ましにより、公武ご合体を実現させ、雄藩が深く結びつくことを考えちょっとじゃ」と代弁しています。
 後半の部分はまだしも、前半の「有力諸藩が連合して、幕政を行なう」という発言部分は、読者に少し誤解を与える書き方だと感じました。

 雄藩連合と言えば、後年、久光が「参預会議」を興したり、西郷が「四侯会議」の形でその実現に奔走することになりますが、久光が上京を計画した文久2(1862)年初頭の段階では、久光にそのような具体的なグランドプラン(構想)はなかったと思います。
 文久2(1862)年3月に久光が薩摩から兵を率いて上京した目的や趣旨については、町田明広先生が『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社選書メチエ)の中で詳しく検証されていますが、町田先生は久光上京の目的を「皇国復古(皇政回復)」というキーワードを使用して詳細に説明されています。

 久光が上京しようと考えた理由を私の考えを元に極々簡単に説明すると、「諸外国との修好通商条約の無勅許締結」や「安政の大獄」などで地に堕ちた朝廷の権威をまずは復権することを目的とし、その上で幕府に対し制度改革(幕政改革)を迫るというもので、後年考えられたような、雄藩が連合して幕政に参画することを意図したものではありません。
 端的に言えば、久光は「朝主幕従」の政治形態を取り戻そうと考えたということです。町田先生は「天皇親裁体制」と書かれていますが、つまり朝廷を中心とした政治体制の復活です。

 確かに、久光が上京する前、久光の命を受けた大久保一蔵が上京し、近衛家に対して提出した書付けには、長州藩や仙台藩など諸藩に対して、別途勅許を下すことを要望する項目がありますが、それはあくまでも幕府が久光の改革案を拒否した際に諸藩連合して事にあたるための備えであり、まだこの時点で久光の考えの中には「雄藩連合政権構想」は無かったと言えます。(時の孝明天皇の意向として、薩摩藩や長州藩など雄藩の藩主を五大老に任じるということなどもありましたが、これは雄藩連合政権構想と呼べるような代物では無いでしょう)
 それから考えると、『西郷どん』の中の西郷の語り口は、少し誤解を与えるようなものだと思います。

 ちなみに、またまた話がそれますが、先程紹介した『島津久光=幕末政治の焦点』の中で、久光が当初の上京出発日を文久2(1862)年2月25日から3月16日に変更したのは、従来から通説とされているように奄美大島から帰還した西郷が計画に反対したことが原因ではなく、久光の二の丸への移住(藩主待遇となった久光が重富邸から城内二の丸に移住することになった)が遅れたことによるものだとしています。
 確かに、『伊地知貞馨事歴』所収の小松帯刀の文久2(1862)年2月29日付け堀次郎(伊地知の前名)宛ての書簡には、


泉公去ル廿五日御發駕之御賦御座候處二丸御作事等相運譯共有之來月六日ニ御首途十六日ニ御發駕之儀被仰出最早無余日相成申候

現代語訳by tsubu
(久光公は去る二十五日(京都へ向けて)ご出発なされる予定でしたが、二の丸の普請が予定通りいかなかったことから、来月六日に(二の丸に)移り住むことになり、十六日にご出発なされると仰せ出されたため、最早余日いくばくもありません)


 と書かれており、久光の出発が遅れたのは二の丸普請が計画通り進まなかったからだと説明していますが、果たしてどうでしょうか。
 この小松の記述が、西郷の反対が原因で久光の出発が遅れたということを完全に否定できるものではないという風に私は感じています。
 確かに、表向きは「二の丸普請の遅延のため」だったのでしょうが、各諸書及び諸伝に伝えられている通り、西郷の反対が久光の上京を遅らせる一つの要因になったことまでを否定できるものではないと考えるからです。

 例えば、前回紹介しました、西郷がこの辺りの顛末を詳細に記した、文久2(1862)年7月の木場伝内宛ての書簡には、

「愚考の形行残さず申し上げ候処、二月廿五日御発駕召し延ばされ、三月十六日と相成り申し候(久光に対して自らの愚考を包み隠さず申し上げたところ、2月25日の出発を延期し、3月16日の出発に変更となった)」

 と書かれており、西郷自身は自らの発言により、久光が上京を延期することになったとしています。

 確かに、対外的に考えても、藩として「一家臣の反対があったので」とは口が裂けても言えません。
 もちろん久光の二の丸移住が遅れていたことも大きな原因であったでしょうが、それだけではなく、西郷の反対もまた、久光の出発が遅れる一つの要因になったと解釈した方が当時の状況を考えると自然のような気がします。

 またもや話がそれましたが、『西郷どん』第11回では、久光の率兵上京計画を深く掘り下げることも無く……、淡々と話は進み、西郷が久光の逆鱗に触れ、徳之島へ遠島となった後、沖永良部島に流され、過酷な待遇を受ける様子が描かれます。
 このような話の進み方から考えれば、確かに既に連載を半分くらいは終えているのかもしれませんね。

 私は最初から『西郷どん』を読んでいるわけではありませんが、これまで読んだ率直な感想を書くと、このような女性目線での西郷隆盛像を描くのであれば、昔、作家の阿井景子さんが執筆された『西郷家の女たち』のように、西郷に関わった女性たちを堂々と主役に据えた方が良かったと思います。
 それこそ西郷周辺の女性たちを列伝風にして短編で書いた方がより効果的で、かつ面白くもあったような気がします。

 この展開で話が淡々と進むのであれば、この『西郷どん』を原作として大河ドラマを構成するのは少し難しいのではないかな……、という気がしてきました。
 確かに、平成2(1990)年の大河ドラマ『翔ぶが如く』も、司馬遼太郎氏の原作が明治期だけの話であるため、脚本家の小山内美江子さんは、他の司馬作品(『竜馬がゆく』、『酔って候』など)を参考にして脚本をお書きになられていましたが、どう考えても今回の原作『西郷どん』だけで脚本を書くのは、少し難しいような気がします。
 おそらく脚本家の中園ミホさんの創作が、かなり色濃く入らざるを得ないのではないでしょうか。
 以前温かく見守りましょうと言った矢先から少し懐疑的なことを書いてしまいましたが、非常にボリュームのある西郷の生涯を一年間のドラマにすることを考えれば、正直林さんの原作では短すぎるような気がします。(単発の二~三時間ドラマなら全然オッケーなのでしょうが)

 と言う訳で、『西郷どん』の感想を書いている内に全然違う方向に話がそれてしまいましたが、今年の書き込みはこれで終了したいと思います。
 今年もあと少しで終わりですね。
 このブログについては、なかなか訪問者(閲覧者)が増えず、かなり苦戦しておりますが、今年一年もご愛読頂きましてありがとうございました。
 これからも頑張って色々な話題を書いていきたいと考えておりますので、来年もどうぞよろしくお願いいたします。

 それでは、皆さま、良いお年を!


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【2016/12/30 12:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 私自身の考えを書くと、奄美大島から帰還後、西郷が久光に対して反抗的な態度を取ったのは、久光に対する嫌悪感もさることながら、「久光内閣」、つまり小松帯刀や大久保一蔵、中山尚之助などの久光周辺のブレーンたちに対する不信感が大きな原因になっていると思います。

 前述しましたが、西郷の心中には「久光が由羅の方の子供である」という、元来生理的に受け付けられない嫌悪感があったとは思いますが、おそらく斉彬からも久光が一角の人物である旨聞いていたと思いますので、その久光が斉彬の遺志を受け継いだことを当初は大変喜ばしく感じていました。
 そのことから、西郷は久光のことを「周公旦」と褒め称えたり、斉彬の遺志を受け継いだことを「本朝の大幸」と喜んだわけですが、一転、西郷が畏敬の念をもって接していた家老の島津下総(佐衛門久徴)を始めとする、桂久武、蓑田伝兵衛といった「日置派」と呼ばれる面々を久光が更迭したことにより、西郷の感情は著しく悪化し、西郷は久光やそのブレーンたちに対して、大きな不信感を持つに到ったのだと考えています。

 日置派とは日置領主の日置島津家を中心にしたグループの総称で、西郷と日置派は非常に縁が深い間柄です。
 元々西郷家は、日置島津家出身の赤山靱負(あかやまゆきえ)の用頼(御用人のこと。世話係)を勤めていたのですが、その赤山が「お由羅騒動」に連座し、切腹することになると、西郷は父の吉兵衛から赤山が切腹の際に着用していた血染めの肌着を受け取り、終夜それを抱き、涙を流しながら赤山の志を継ぐことを決意したと伝えられています。西郷にとって、赤山という人物は特別な存在だったのです。

 赤山が亡き後も、西郷と日置島津家との関係は続き、西郷は赤山の実弟である桂久武と親しく付き合い、二人の仲は「刎頚の友」とも呼べる間柄でした。
 その桂が慶應年間に家老に就任すると、同じく家老であった小松帯刀と共に、西郷や大久保といった藩内の革新派の活動を全面的にバックアップしました。西郷や大久保が薩摩藩を背景にして縦横無尽に活躍できたのは、門閥出身家老の桂や小松の協力あってこその偉業だったと言えます。
 忘れてはならないのは、当時は純然たる封建制の世の中です。いかに西郷や大久保が優秀であったとしても、その力には限りがあり、桂や小松といった上級武士層の協力なしには、藩政を動かすことなど到底叶わなかったという点は、改めて再認識しておく必要があると思います。
 ちなみに、桂は西南戦争で西郷と共に鹿児島の城山で戦死しています。二人の仲は終生変わらなかったと言えましょう。

 話を戻しますが、前々藩主の斉興の死によって藩政に力を持つこととなった久光は、当初、日置派の長である島津下総を主席家老に据えました。これは久光やその子の藩主・忠義が、前藩主・斉彬の遺志を受け継ぐ覚悟を人事に反映した結果と言えますが、西郷はそのことを安政6(1859)年12月26日、奄美大島の代官であった吉田七郎宛ての書簡の中で、

「佐殿(下総のこと)御帰職の由申し来り、偏に祝い奉り候儀に御座候」

 と書き、島津下総の復職を我が事のように喜んでいます。
 この記述からも、西郷と日置派の深い関係が窺われます。

 しかしながら、久光は後にその島津下総を更迭するに到ります。日置派は久光の国政乗り出しに懐疑的な意見を持っていたためです。
 久光は島津下総を更迭、日置派の面々を閑職に異動し、自らの意のままに動く面々を藩政府の中心に据える藩政改革を行なったのですが、このことが、西郷が久光やそのブレーンたちに対して不信感を持つに到る大きな要因となったと考えられます。
 後年、西郷は当時の大久保ら久光のブレーンたちのことを

「少年国柄を弄し候姿にて、事々物物無暗な事のみ出候て、政府は勿論諸官府一同疑迷いたし、為す処を知らざる勢いに成り立ち」
(文久2(1862)年7月、木場伝内宛書簡)


 と、「若者たちが国の政治をもてあそんでいるような状態で、結果や是非を考えないようなことばかりをし、藩政府はもちろん役所全ては疑心暗鬼となり、為すべきところが分からないような状況になっている」と酷評しており、時の久光内閣を痛烈に批判しています。

 また、西郷は同書簡の中で、

「是非一致して御国勤王に相成り候様成されたく、頻に切論に及び候」

 と、「日置派とも一致団結し、国論を勤王化するべく、(小松や大久保、中山と)激しく議論に及んだ」とも書いており、奄美大島帰還後の西郷が日置派の復権に動いたことも窺えます。
 これらの西郷の書簡の記述は、西郷が日置派の更迭に大きな不満を抱いていたことへの傍証にもなりましょう。

 以上のように、日置派の更迭を引き金にして、西郷の心中で複雑に入り交じって生じた久光やそのブレーンたちに対する不信感が、前々回に書いた「地五郎(じごろ)発言」へと繋がっていくわけですが、これまでの経緯を考え、冷静に判断するならば、西郷の久光たちに対する嫌悪感とも言える悪感情は、言わば西郷の一方的なものであり、久光の立場からしてみれば、それは一種逆恨みと取られても仕方のないことだったと思います。

 前回書きましたが、久光にとっては、西郷に感謝されこそすれ、恨まれる理由は何一つありません。
 久光としては、先君・斉彬が寵愛し、国事に奔走した西郷を召還し、彼の力を得ることで、自らが計画した率兵上京計画を円滑に進めようと考えていたのです。そのためにわざわざ西郷を奄美大島から呼び寄せたにもかかわらず、西郷からいきなり噛みつかれるような反抗的な態度を示されたのですから、久光にとっては心外のことであり、大いに気分を害したことでしょう。
 西郷は、対人関係という観点から言えば、一種「潔癖症」とも言えるくらい、非常に神経質な人物です。また、西郷は性格的にも少し頑固な部分もあります。
 西郷の中にあった久光への生理的な嫌悪感が、日置派更迭をきっかけにして、不満が爆発し、久光やそのブレーンたちに対する悪感情に繋がったと考えるのが妥当だと思います。

 確かに、西郷がこの辺りの顛末を詳細に記した、文久2(1862)年7月の木場伝内宛ての書簡を読めば、西郷が鹿児島に帰還した当時の久光の率兵上京計画については、まだまだ不備が多く、不完全なものであり、計画が粗かった一面もあったと言えますが、奄美大島から帰還後の西郷の言動を考えると、西郷は率兵上京計画の内容に無理があると考え、それに反対したというよりも、感情的な部分(つまり久光内閣への不信感や悪感情)が先に立って、計画に反対したと解釈されても仕方のないことだという風に感じています。
 西郷とて一人の人間です。感情的なしこりが全く無かったという解釈は無理があると思いますし、鹿児島帰還後の西郷の言動は、少し感情的になっているように私には感じられます。

 少し西郷に批判的なことを書きましたが、私は西郷が好きだからこそ、西郷の褒め称えるべき部分は大いに称賛し、疑問がある部分は大いに批判するなどして、その両面をはっきりと書いていくことこそが、真の西郷評価に繋がるものと信じていますので、ご了承ください。

 私の感想を述べるならば、この時点での西郷は、人間的にも未完成、まだまだ若かったと思わざるを得ません。当時、西郷は三十代半ばですが、まだ一人の志士としての気概や気負いが抜けていない状況と言いますか、まだまだ荒々しい部分が残る人物だったと思います。
 ただ、それは西郷一人に限ったことではなく、人間としては当たり前のことです。人間は年を重ねる毎に成長してこそ人間なのであり、最初から完璧な人間など居るはずがないのですから。
 西郷のこのような態度は、奄美大島において三年にも渡る長期の潜居生活を経験したことが一つの要因になっているかと思いますが、彼が人間的にも深みを増し、研ぎ澄まされて円熟期に入り、一種達観した考えや極地に到達するのは、徳之島・沖永良部島への遠島を経て後のことだと思います。

 また、話が大きくそれましたが、以上のように、様々な要素が入り交じり、西郷は久光に対して反抗的な態度を取るに到り、また、その西郷の態度に対して、久光は大きな不満を持ちました。
 初対面からしこりの残る出会いをした結果、その後、二人の関係は益々悪化し、西郷の命令違反(下関で久光の行列の到着を待てという命令を違反したこと)に激怒した久光は、西郷を遠島処分にし、そして、二人の関係はお互いが死ぬ瞬間まで相容れぬものとなりました。
 贔屓目に見ても、その最初の原因を作ったのは、やはり西郷であったと思いますが、そんな西郷自身も、それから延々と久光との関係が悪くなるとは夢にも思っていなかったことでしょう。
 それを考えると、一つの運命であったとは言え、二人の出会いはとても不幸なものであったと思います。


(5)に続く


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【2016/12/28 12:30】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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