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今回の『西郷どん』ですが、いつぞやのロシアンルーレット以来のぶっ飛びようでしたね。
西郷が井伊直弼に呼ばれ、「自分の手下となれ」と言われるとか、慶喜が西郷と左内を連れて井伊のところに殴り込みに行くなどなど。
『西郷どん』は回を増すごとにエンタメ色が強くなってきていますが、もう少し歴史上の事件を深く掘り下げても良いのではないかと思います。折角の阿部正弘登場も、ほとんど何もしないまま死んでしまいましたから、何だかもったいなかったですね。
また、第14回では、引き続き将軍家定の継嗣問題が描かれましたが、この時期の西郷を描くには、それは避けて通れません。西郷の前半生は、「将軍継嗣問題→斉彬の死→戊午の密勅→月照との入水」という流れとなり、これから前半のクライマックスへと入っていきます。

さて、将軍継嗣問題において、ヒー様こと一橋慶喜を家定の跡継ぎとして推す斉彬ですが、第14回でも描かれたとおり、安政4(1857)年12月25日、幕府に対して提出した建白書の中で、慶喜を将軍継嗣に相応しいと次のように建言しました。

「皇国ノ御鎮護モ弥根深ニ相成可申、勿論御血筋御近キ御方当然ノ御事ニハ御座候ヘ共、斯ル御時節ニ御座候ヘハ、少モ御年増ノ御方、天下人心ノ固メニモ可相成、然ハ一橋殿御事、御器量・御年輩、旁人望ニ相叶可被成奉存候」(「齊彬公米国使節登営事件建言」『鹿児島県史料 斉彬公史料』二所収)

この一文には、斉彬の将軍継嗣問題に対する考え方が端的に述べられています。
つまり、「将軍継嗣は血筋が近い人間であるのは当然のことであるが、この多難な時節柄、天下の人心を得るためには少しでも年長者が望ましい。その点から言えば、慶喜公が、器量、年長、人望の点において最も適任である」ということです。

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(島津斉彬銅像)

また、斉彬は同建白書に、「御臺様御入輿被為在候御事故、偏ニ御出生可奉待上儀当然ニ御座候得共、当時ノ形勢ニテハ、一日モ早キク御養君不被仰出候テハ、難相済御時節ト奉存候」と述べ、「篤姫様が将軍家に輿入れされたので、家定公との間に子が誕生するのを待つのが当然であるが」と前置きし、家定や篤姫への配慮も示していますが、後段では「時節柄、一日も早く養子を決めるべきだ」としています。
斉彬自身は、篤姫が子を産む可能性が低いことを重々承知していましたから、このような言い回しにならざるを得なかったのでしょう。

以上のように、安政4年12月末時点で、斉彬ははっきりと一橋という名前を出し、慶喜を将軍継嗣とするよう建白したわけですが、その斉彬が慶喜と初めて会ったのは、それから遡ること九ヶ月前の安政4年3月27日のことです。
斉彬が同年4月2日付けで、当時福井に帰国していた越前藩主・松平慶永(春嶽)に宛てた書簡には、「扨又廿七日ニ橋公へ初而寛ゝ拝眉」とあり、また、同日付けで斉彬は慶喜の父・斉昭にも書簡を書き送っていますが、そこにも「先日は一橋江罷出、初て寛々ト拝顔仕」とあります(『鹿児島県史料 斉彬公史料』三)。
斉彬はその翌4月3日に江戸を発ち、鹿児島に向けて帰国しています。
つまり、帰国直前に慶喜と初めて面会したわけですが、斉彬としては江戸を離れるにあたり、慶喜の人となりや資質などを直接会って確かめたかったのでしょう。

また、斉彬は慶永に宛てた書簡の中で、慶喜の印象について、「実に早く西城に奉仰候御人物」と、慶喜が将軍継嗣に相応しい人物であると述べていますが、それに加えて、「御慢心之処を折角御つゝしみ御座候様、被仰上候て可然と奉存候」と書いています。
つまり、「慶喜公は少し驕り高ぶるきらいがある。それを慎むよう申し上げてはいかがでしょうか」と、慶喜の欠点を指摘し、慶永にそれを諫めるよう助言しています。
『西郷どん』で慶喜を演じている松田翔太さんは、その少し高慢な雰囲気が出ていて、ハマリ役と言えるかもしれませんね。

さて、斉彬は慶喜と直接会ったことで、彼を将軍継嗣と据えることに確信を持ち、薩摩に帰国したわけですが、その反面、慶喜を擁立するにあたり、斉彬が最も危惧したのは、慶喜の実家・水戸徳川家の評判の悪さであったと言えます。
安政3年から同4年にかけて、斉彬が慶永宛てに発信した書簡を越前藩の記録『昨夢紀事』と『鹿児島県史料 斉彬公史料』を使って少し追ってみると、例えば安政4(1858)年4月2日に送った書簡(慶永からの安政3年11月5日付けの書簡に朱字で返答を記したもの)には、

「先比之一橋之事並に此節御逝去一条にて、水府之事誠大不評候間、(中略)、当時之光景にては水戸え掛り候義は、中々むつかしくと奉存候」(『斉彬公史料』三)

との文言があります。
この「先頃の一橋の事」「この節の御逝去一条」とは、簡単に言うと、水戸家にかかる女性関係のスキャンダルを指しています。

まず、前者の「一橋の事」とは、慶喜の正室・美賀子が自殺未遂をはかった事件のことです。
これは越前藩の記録『昨夢紀事』に詳しく出て来ますが、一橋家の先々代の当主慶壽の正室・徳信院が慶喜と親密な関係にあったことから、その二人の仲を疑った慶喜の正室・美賀子が自殺をはかったとされる一件です。
この件については、斉彬が慶永に宛てた安政3年7月5日付けの書簡に、「一橋刑部卿御簾中之儀去ル十六日御自害可被成處漸ゝ取留ニ相成候由」とあり、当時そのような噂が公然と世間に流れていたことが分かります(『昨夢紀事』一)。

そして、後者の「御逝去一条」とは、水戸藩主・徳川慶篤の正室・線姫(いとひめ)が亡くなったことを指していますが、実はこれも自殺であったという噂があったようです。
また、その自殺の原因は、慶喜と慶篤の父・斉昭が彼女に手を出したことにあったと噂されていました。
これも前出の安政3年7月5日付けの慶永宛て斉彬の書簡に、「老公之事此節大奥向評判ニ而は線姫君と如何之儀被為在候」と出てくるほか、それを受けて宇和島藩主・伊達宗城の慶永宛て書簡にも、「老龍公線君と密接云々麟兄より御伝聞の由」(『昨夢紀事』一。麟兄とは斉彬のこと)との文言が出てきます。
宗城曰く「密接」とは、つまり斉昭と線姫が不義密通の仲であるということです。
ただ、この噂について斉彬は、「老公之事悪様ニ申度もの有之申ふらさせ候事かと被存候」と、斉昭の評判を悪くするために仕組まれたものではないかと推測しています。

以上のような噂話が真実であったのかどうかは定かでありませんが、ただ、斉昭は昔から女性問題には事欠かない好色の人物として世間に知られていましたので、大奥ではその破廉恥な話が真実だという風に受け取っていたのでしょう。
第14回では、家定の実母・本寿院が、斉彬が斉昭の子の慶喜を将軍継嗣にと建白したことについて激怒していましたが、それは斉昭の女性問題が要因の一つとなっていたと言えます。
『徳川慶喜公伝』では、このような大奥の斉昭嫌いについて、斉昭が質素倹約を旨とする上書を出し、それを大奥にも適用するよう求めたことがあったことから、大奥が斉昭のことを忌み嫌うようになったと説明されていますが、実際それは表向きのことであり、その裏には、こうした水戸家にまつわる一連の女性に関わるスキャンダルな事件が、大奥の水戸家に対する心象を大きく悪くし、慶喜への拒否反応を生んでいたとも言えるのです。

このように水戸家関連のスキャンダルが立て続けに生じていたことから、斉彬は当面の間、慶喜を将軍継嗣とする運動を控えるべきだと考えていたようです。
安政4年3月15日付けの慶永宛て斉彬の書簡には、

「折角申出候て不都合之節は、却て以後之障にも可相成と、小子は勿論藍山君同様に被存候間、(中略)、其上に水老・当公共何分評判不宜、申出候て調候とも、紀之方必定と被存候間、今少し様子見合候方可然哉(慶喜公を将軍継嗣にと申し出ても、それが不都合となれば、却って後に支障が出ます。これは宇和島の伊達公も同じ考えです。(中略)その上、水戸の老公・斉昭と藩主・慶篤の評判が共に良くないため、今将軍継嗣のことを申し出ても、紀州藩の慶福に決まるのは必定ですので、今少し様子を見合わせた方が良いのではないでしょうか)」

とあります。

また、その二週間後の同年3月29日付けの慶永宛て斉彬書簡には、「御當人様もつほねも能ヽ相心得居候事ながら無理被仰出候而も詮立候事有間敷却而害ニ相成候而ハ不宜との御模様ニ御座候まヽ御忠志之處ハ御同意候得共今少し御猶豫之方却而可然と奉存候」(『昨夢紀事』二)とあり、「篤姫や局(『西郷どん』で言えば幾島ですね)も、現時点で無理に慶喜を推すことは却って害となることを分かっています。慶永公の御忠心は理解できますが、慶喜公を推すことについては、少し猶予してはいかがでしょうか」と斉彬は書いています。

さらに、斉彬は同書簡の中で、慶永に対し、次のような助言をしています。

「折角之御忠志も時節あしき節被仰候而ハ同列共にも如何存候も難計り却而一橋貴君之御為にも不相成、(中略)、又爰ニ大秘之事ハ水老公と余り御文通等無之御遠ヽしき方天下之為かと被存申候委細筆紙ニ難申上西城之為にも第一可然と奉存候」

斉彬は、「今、慶喜公擁立に動くのは時期が悪く、慶喜や慶永のためにはならない。また、極内密に申すと、斉昭と手紙のやり取りなどの交際は余りしない方が良い。手紙には書きにくいが、天下のため、そして将軍継嗣のためにも、それが専要かと思う」との趣旨を述べています。
つまり、慶喜を将軍継嗣にするためには、評判の悪い水戸家、特に斉昭や慶篤から、慶喜を切り離すことが必要だと斉彬は考えていたということです。
そしてまた、慶永にも斉昭と疎遠になるよう勧めたのは、慶永の慶喜擁立運動には、斉昭が陰で糸を引いているとの噂が絶えなかったからでしょう。

これまで書いてきたとおり、斉昭は大奥の受けが非常に悪く、また、幕閣も彼の存在を煙たがっていましたので、将軍継嗣問題を円滑に進めるためには、慶喜擁立と斉昭とは無関係であるということをアピールしておいた方が良いと斉彬は考えていたことが分かります。
安政4年7月29日付けの慶永宛て斉彬書簡でも、「老公と御遠々敷相成候方、却て御双方之御為と存申上候(斉昭と距離をおいた方が双方のため)」とあり、斉彬は慶永に対し、再度斉昭と距離を置くように助言しています。

以上のような斉彬の書簡から見ると、将軍継嗣問題における斉彬の悩みの種は、斉昭と慶篤といった水戸藩関係者にあり、水戸家の評判が悪い今、当面の間は慶喜擁立運動を控えるべきだと考えていたことが分かります。
また、その斉彬の意を受け、慶永自体も、「兼而之御示教ニ従ひ火急ニ周旋は不致復又鎮静ニ機會を相俟ち可申考ニ御坐候」(安政4年10月16日付け斉彬宛書簡。『昨夢紀事』二)と書いており、その意見に従おうとしていたことが分かります。

しかしながら、安政4年12月に入ると、斉彬はその態度を大きく変え、幕府に対して公然と「一橋慶喜公を将軍継嗣に」との建白書を提出しました。
このように斉彬が方針転換したのは、第14回でも描かれたように、やはりハリスの登営一件の影響が大きかったと言えるでしょう。
おそらく斉彬は、水戸家の評判を気にしているような、そんな悠長なことを言っている場合ではないと考え、将軍継嗣問題に本気で取り組む覚悟を持ったものと思われます。

ちなみに、斉彬は建白書の提出と同時に、老中筆頭の堀田正睦に対して書簡を送っていますが、その中で「一橋殿御事は、老卿とは、御人物抜群御相違ニて、此儀は乍憚御請合申上候」と、「慶喜は斉昭とは違って抜群によく出来た人物です。そのことは私が保証いたします」と述べています(『斉彬公史料』三)。
この斉彬の書簡からも、斉彬にとって斉昭という人物は、将軍継嗣問題において障害以外の何者でも無かったことが分かります。

最後に、このように将軍継嗣候補として、斉彬や慶永の期待を一身に担った慶喜ですが、彼自身はそのことをどう思っていたのでしょうか。
『昨夢紀事』二の安政4年12月23日の条に、越前藩士・橋本左内が慶喜の腹心・平岡円四郎を訪ねた際、平岡は当時の慶喜の心境について、次のように語ったと記されています。

「我等不肖にして大任には堪えられず、且つ我等を西城などと申す沙汰もありとか聞きし、左あらんには唯我等が命期を短うする迄の事にて、天下のため何の益があらん。我等が如き不才にて斯く傾きかたなる天下の如何かわなるべき、心を苦しめ思いを焦して死するより外はあるべからず」(字句を読みやすく直して抜粋しました)

この『昨夢紀事』の記述は、『徳川慶喜公伝』でも引用されており、慶喜自身に将軍職就任への欲は無かったとされていますが、その慶喜を擁立した慶永は、そうは見ていなかったようです。
慶永は自身の回顧録『逸事史補』の中で、

「慶喜公は、衆人に勝れたる人才なり。しかれども自ら才略のあるをしりて、家定公の嗣とならん事を、ひそかに望めり。この事は、余の想像論なれども、我信ずる所にして、決て疑を入れざる所なり」

と語っています。
『徳川慶喜公伝』は、「慶喜公は幕府の衰亡の兆しを看破していたので、将軍職を受けるつもりは無かった」という趣旨で固められていますが、さすがにそれは後付けの説明に過ぎないでしょう。
慶喜としては、一人で火中に栗を拾う気はなかったかもしれませんが、やはり一種将軍職に魅力を感じていたことは、否定できないのではないでしょうか。


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【2018/04/17 16:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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『西郷どん』も一週スペシャルを挟んで今回で13回目です。
以前も同じようなことを書きましたが、平成2年の大河ドラマ『翔ぶが如く』に比べると、『西郷どん』は物語の進行が少し遅いように思います。
ただ、『西郷どん』は若き日の西郷に重点を置き、かつ、西郷を取り巻く女性たちにも新たにスポットを当てるというコンセプトの元に、『翔ぶが如く』で濃厚に描かれていたような歴史的な事項よりも、それに関わった人たちの人間模様を描くことに重点が置かれているような気がしますので、このような進行になるのは致し方ないと言えるかもしれません。

ちなみにですが、『翔ぶが如く』の第13回は「正助の布石」というタイトルで、西郷は今回初登場した月照と既に投身自殺をはかっており、後事を託された大久保が囲碁を通じて久光に近づこうと布石を打つ回でした。
前回の放送において、大久保は久光に渡した宝島事件関係書類の中に密かに書を忍ばせ、久光に対して自らの存在をアピールしていたため、大久保が囲碁を通じて久光に近づこうとするエピソードは割愛されるのかと思いきや、大久保の妻・満寿が囲碁教室仲間という驚くべき設定が出てきましたので、囲碁のエピソードも描かれるかもしれません。
ちなみに『翔ぶが如く』では、大久保が満寿から囲碁の手習いを受ける設定になっていましたが、実際の大久保は、青年時代から既に囲碁を嗜んでいたことが、大久保の日記により分かっています。

さて、今回のドラマ後半では、安政4(1857)年5月、約三年四ヶ月ぶりに薩摩に帰国した西郷と大久保の確執と言いますか、二人の気持ちがすれ違う様子が描かれていました。
西郷が大久保を肥後熊本に連れて行こうとしたことに対して、まるで西郷に同情されたかのような扱いを受けた大久保が、余計なことをするなとばかりに怒り、そして反発するシーンがありました。(最後は円満に友情回復でしたが)
少し描き方は異なりますが、平成20年の大河ドラマ『篤姫』においても、西郷が大久保を連れて熊本の長岡監物を訪ねた際、西郷が大久保に席を外すよう促したことから、大久保がそのことを屈辱として受け留めるような演出がありましたね。

一般的に西郷は斉彬に登用され、大久保は久光に登用されたかのようなイメージがありますが、それはある意味誤解で、実際大久保は斉彬時代に西郷と同役の徒目付に任じられています
『大久保利通文書 十』所収の大久保の年譜によれば、大久保は安政4年11月1日に「西郷と共に徒目付となる」とありますが、西郷家の家政上の記録である「万留」(『西郷隆盛全集』第四巻所収)によると、西郷が徒目付に任じられたのは、それより一ヶ月早い同年10月1日のことです。
そのため、大久保の年譜の記述は誤りと言えますが、「西郷と共に」という言葉を重視すれば、二人は同じく10月1日付けで徒目付になった可能性が高いと思われ、身分的に言えば、安政4年当時の二人の間に差があったとは言えません。

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(大久保利通銅像)

しかしながら、安政4年当時の西郷は大久保と違い、既に鹿児島を出て江戸で勤務した経験があり、しかも斉彬の手足となって政治工作にも携わり、既に他藩士との交流もありましたので、政治活動家としてのキャリアという点から言えば、当時の二人には大きな差があったと言っても過言ではないでしょう。
そのような点から、今回描かれたように大久保が帰国した西郷に対し、一種劣等感や嫉妬とも取れるような感情から、西郷が自分のことを見下したと感じ、反発したと捉えられなくもないですが、私は少し違う見方をしています。
当時の薩摩藩内における西郷と大久保の立ち位置や置かれた立場の違いについて、少し違う角度から比較・検討したうえで、これから当時の大久保の心事を読み解いてみたいと思います。

今回、ドラマ内でも描かれていたとおり、西郷が久しぶりに薩摩に帰国したのは安政4(1857)年5月24日のことですが、その翌日、二人の越前藩士が鹿児島城下に入りました。
村田巳三郎(後の氏寿)と安陪又三郎ですが、二人は斉彬の政治上の同志でもあった越前藩主・松平慶永(春嶽)の命を受け、幸吉という従者を伴い、鹿児島を訪れたのです。
そもそもこの二人は、肥後藩士・横井平四郎(小楠)を越前藩に招聘するために遣わされた使者の役目を担っていましたが、慶永からは熊本から足を延ばし、薩摩藩や肥前藩の状況も見聞してくるよう指示されていたようです。
村田の年譜「氏壽年譜」(『関西巡回記』所収)には、

「平四郎此表ヘ参リ呉候様致シ度此使其方エ申付候間早速罷越可致心配候。(中略)且此折柄鹿児嶋佐賀ヘモ参リ、学校台場其他ノ事ヲモ見分致シ候ハゝ可然トノ御事ニテ、嶋津齊彬侯鍋嶋閑叟侯ヘノ御直書ヲ御渡シアリタリ」

とあります。

村田が書いた「西遊日誌」(『関西巡回記』所収)によると、二人は安政4年3月28日に福井を出発し、目的の熊本へ入って小楠と会った後、西郷が鹿児島に帰国した翌日の5月25日に鹿児島城下に到着しました。
その鹿児島滞在中に書かれた「西遊日誌」を読むと、西郷という言葉がたくさん出てくることに気づきます。
例えば、村田が鹿児島に到着して2日後の5月27日の条に、「西郷吉兵衛ヘ紙面遣候所返書有之」とあるのを皮切りに、

 5月晦日「西郷ヘ書面遣ス」
 閏5月2日「西郷ヨリ返書遣ス、夜、西郷氏面会」
 閏5月9日「西郷ヘ手紙贈答」
 閏5月11日「西郷氏相見ユ」
 閏5月12日「夕方西郷ヘ手紙」
 閏5月13日「西郷氏来訪」
 閏5月15日「西郷氏手紙遣シ豚肉多葉粉被送之」 ※多葉粉とはタバコのことです。
 閏5月18日「西郷来ル」

と綴られ、村田が頻繁に西郷と書簡のやり取りを行ない、そして面談していたことが分かります。
しかしながら、その一方、これだけ西郷という言葉が並んでいるにも関わらず、村田が鹿児島に着いた5月25日から閏5月18日までの24日間に、大久保の名前が一切出てきません。

村田は当時将軍継嗣問題で西郷と共に活動していた橋本左内とも親交が深く、薩摩藩と歩調を合わせ連携していた越前藩内の様子や国内外の政治情勢など、貴重な情報を得るには打ってつけの人物であったため、西郷も村田と頻繁に手紙をやり取りし、足繁く彼の元を訪ねて情報を収集しようとしたことは容易に想像出来ますが、その一方で大久保は、そんな村田と一度も面会すらした形跡がないのです。
大久保は西郷と同じ志を抱く同志であり、そして友人でもあります。
西郷と大久保の関係を考えれば、西郷は村田の元に大久保を一緒に連れて行きそうなものですが、不思議なことに西郷が大久保を同行させた様子が全く見られません。

ただ、一度だけ村田が書いた日誌の中に、大久保の名が出てくる箇所があります。
村田が鹿児島城下を去る日の閏5月19日に、「正介子ウチハ扇子朱子スリ物被送之」との記述です。
村田が記した「関西巡回記」には、彼が鹿児島で面会した人たちの名が記されており、その中に大久保の名もありますが、そこには「伊集院ニテ 大久保正介」とだけあります。
つまり、村田が大久保に会ったのは、閏5月19日に村田が鹿児島城下を離れる際のたった一度だけ、大久保が同志たちと一緒に伊集院まで村田らを見送りに来た時だけだったということです。
「西遊日誌」によると、大久保はその時村田に対し、「うちわ」と「扇子」と「朱子の摺物」を餞別として渡したことが分かりますが、村田にとって当時の大久保という人物は、見送りに来てくれた多くの薩摩藩士たちの中の一人に過ぎなかったと言えるでしょう。

以上のように、西郷が帰国していた安政4年5月に鹿児島を訪れた村田の記録を元に考えると、当時の西郷と大久保の差、と言うよりも、薩摩藩内における二人の置かれた立場や立ち位置の違いが明確に浮かび上がってくるように感じます。
そしてまた、西郷が大久保を肥後熊本に連れて行こうとしたことへのヒントが隠されているような気がするのです。

ここからはあくまでも私の推測ですが、西郷は村田に会えたのに対し、大久保は会えなかった。
西郷と大久保の関係性から言えば、西郷は大久保を村田の元に連れて行きそうなものですが、それをしなかった、いや出来なかったと言えるかもしれません。
西郷が安政4年閏5月3日付けで、妹・琴の夫である市来正之丞に宛てた書簡には、「越前藩面会の儀は御世話成し下され誠に有難く」という文言があり(『西郷隆盛全集』第一巻)、西郷が村田と面会できたのは、家老座書役として勤務していた妹婿・市来の導きがあったことが分かります。
同じく西郷の市来宛書簡から察すると、村田らは鹿児島到着後一種隔離された状態にあったようですので、大久保については藩から面会の許可が下りなかったのかもしれません。
当時の薩摩藩内において、大久保の立場は、斉彬の股肱の臣として活動していた西郷とは違い、言わば一薩摩藩士に過ぎません。西郷は大久保を連れて行きたかったかもしれませんが、藩は大久保に対し、越前藩士たちとの接触を認めなかった可能性も考えられます。

また、越前藩士側から考えると、村田にとって西郷は名の知れた政治活動家であり、斉彬の意図を汲み取る寵臣であったことから、積極的に交流すべき相手でしたが、極論を言えば、安政4年当時の大久保は、村田にとって会うに値する人間ではなかったと言えるかもしれません。

以上のようなことから考え合せると、当時の薩摩藩内における西郷と大久保の置かれた立場や扱いは大きく異なっていたと思われ、そのことから大久保が西郷に対して、一種劣等感や嫉妬のような感情を抱き、今回のドラマで描かれたように反発することがあったやもしれません。
しかしながら、大久保という人物の性格を考えると、大久保自身は冷静に自分の置かれた立場をしっかりと認識し、西郷に政治活動家として差をつけられていることを自覚していたのではないでしょうか。

これはあくまでも私の推測に過ぎませんが、西郷が熊本に大久保を連れて行こうとしたのは、通説のような西郷の発案と言うよりも、大久保からの積極的な働きかけがあったからではないかと思っています。
大久保という人物は、目的達成のためには向上心を持って一歩ずつ着実に、地道に努力できる強靭な精神力を持った人です。
そのため、大久保は西郷との立場の違いやその差について、劣等感や嫉妬を抱くよりも先に、「その差を埋めるにはどうすれば良いのか?」ということを考えたような気がします。

以上のように推測すると、大久保は西郷に対し、「向学のため、是非熊本まで一緒に連れて行っていってたもんせ!」と積極的に頼んだと考えた方が、私には大久保らしく思えるのですが、いかがでしょうか。


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【2018/04/08 20:47】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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今回のクライマックスは、西郷と篤姫のラブロマンスでした。
篤姫が西郷に対して、「このまま私を連れて逃げておくれ……」と言った時、「もちろんです」と、思わず真顔で独り言をつぶやいた私がいました(笑)。
時代の風潮でしょうか、最近は大河ドラマもほんとエンタメ色が強くなりましたね。
たまに韓流時代劇を見ているような気分になります(笑)。

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(篤姫の故郷・今和泉島津家屋敷跡)

今回のドラマでは、安政2(1855)年10月2日の夜に生じた大地震が描かれていました。
いわゆる「安政の大地震」と呼ばれるものです。
北原糸子『地震の社会史 安政大地震と民衆』によると、この地震による死者は4,293名、負傷者2,759名、倒壊家屋は14,346軒とあり、いかに巨大地震が江戸を襲ったのかが分かります。
昨今では阪神大震災、東日本大震災と未曾有の災害が生じましたが、このような歴史を見せられると、やはり日本は昔から地震大国であったということを改めて認識させられますね。

さて、「安政の大地震」ですが、『鹿児島県史料 斉彬公史料』第二巻に「江戸大地震ノ事実並布達」(以下、「江戸大地震ノ事実」と略)という文書が収められており、そこには地震当日の薩摩藩邸内の様子やその被害状況等が詳述されています。
同文書には、

「江戸大地震、加之各所ニ出火、其惨状筆舌ニ述ヘ尽スコト能ハス、芝本邸ノ御式台大御書院ヲ初メ、御殿ノ内外諸局長屋等破壊シ、圧死・負傷者モ寡ナカラス」

とあり、この大地震により、薩摩藩邸も甚大な被害を受けたことが分かります。

「江戸大地震ノ事実」によれば、地震が生じた日の夜、斉彬は芝の薩摩藩上屋敷に居たようですが、地震が生じた直後、邸内の庭に避難したようです。
その後、斉彬は庭を立ち退いて馬場へと移り、「布屋ヲ張リ、押巻ノ上ニ御座ナサレ、御湯水サヘ行届カサリシト云フ」とあります。
つまり、今で言うテントのようなものを張り、一時的にそこで過ごしたようですが、押巻とは一体何のことでしょうか?
浅学のため、私はその言葉自体を知らないのですが、おそらく掻巻(かいまき)のことではないかと思います。いわゆる着物状の寝具のことです。
地震直後で物品が不足していたからでしょう、家臣たちは厚手の着物を持ち寄ってそれを敷きつめ、その上に斉彬を座らせたのかもしれません。

また、地震の揺れが少しおさまった時、斉彬は近習たちに対して、藩邸内に死傷者が居ないか、見廻りを命じたようです。
しかし、その斉彬の命を受けた者たちは、死傷者の状況よりも、建物の損傷状況ばかりを報告してきたため、斉彬は次のような言葉を発したと同文書にあります。

「家ノ破壊ハ修造スルニ仔細ナシ、行キ廻ラスルハ死傷ヲ調ヘンカ為ナリ、大切ナル人軽我アリテハ不憫ナルカ故、其救助療治ニ怠ナキコソ肝要ナリ」

つまり、「建物の損壊などはどうでも良い。壊れたら直せば良いだけだ。お前たちに見廻りを命じたのは、死傷者を調べるためだ。大切な人たちに怪我などあっては大変なので、まずはその救助・治療にあたることの方が大事だ」と斉彬は言ったのです。
さすがは斉彬ですね。こういう逸話からも斉彬の人柄がうかがい知れます。

また、「江戸大地震ノ事実」には、他にも斉彬の聡明さを示す逸話が記されています。
例えば、大地震が起こる前、ある学者が「江戸市中の井戸水に塩分が多く含まれている。これは地震の予兆だ」と主張していることを知った斉彬は、「如何ニモ震災ニテモアラン、晴雨計ノ度ニ顕ハレタリト、予メ心スベシ」と言って、あらかじめ避難用の布屋等を準備させていたというのです。
さすがに晴雨計(いわゆる気象観測用の気圧計)の数値だけで地震を予見できたとは思えませんが、贔屓目に見れば、西洋の文物を好み、常日頃からそれを考究していた斉彬だからこそ、何か感ずるものがあったのかもしれません。

また、斉彬は地震直後から頻りに高輪邸の様子を気にしていたようです。
前回の『西郷どん』でも描かれていましたが、高輪邸には父の斉興が居たからです。
「江戸大地震ノ事実」には、斉彬は父のことを心配し、高輪邸に三、四回使者を送り、斉興の無事を確認すると安心したとあります。
『西郷どん』では両者の対立ばかりが全面的に描かれていますが、やはり親子は親子、切っても切り離せない間柄なのです。

さて、ここで西郷に話を移しますが、今回のドラマにおいて、西郷は自ら身体を張り、地震から篤姫を守りました。
そしてラブシーンがあったわけですが、それはさて置き、実は西郷本人ではありませんが、地震の当日、薩摩藩邸内でこれと似たようなことがあったようです。
安政二年「総覧」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第二巻所収)の10月2日の条には、

「夜江戸大地震及ヒ出火、公其他御夫人御子方等一同庭中ニ御避難、御広鋪御用人小森新蔵ハ御夫人ヲ背負ヒ難ヲ避ク」

とあり、御広敷御用人の小森新蔵が、斉彬の夫人(誰でしょうか?)を背負い、地震の難から避けたと記録されています。

『職掌紀原』(鹿児島県史料集6)や『鹿児島県史』第二巻によると、御広敷御用人とは、元は奥家老や納殿代官、納殿役人と呼ばれていた役職で、いわゆる奥向きの御用を務めていた役職だったようです。
確かに、藩主の寝所近くに控えていた役人しか、斉彬の夫人を背負い邸外に脱出することは出来なかったことでしょう。

ちなみに、この小森新蔵という名前を聞いてピンときた方は立派な西郷通です。
鹿児島県いちき串木野市の羽島、ここは後年「薩摩藩英国留学生」と呼ばれる留学生たちがイギリスへ向けて旅立った港町としても有名な場所ですが、そこに万福池と呼ばれる灌漑用のため池があります。
若き日の西郷が郡方書役助を務めていた頃、このため池の造成に携わったという逸話が遺されているのですが、その時の郡奉行が小森新蔵と言う人物でした。
長谷場純孝『西郷南洲』には、次のように書かれています。

「先生が此郡方書役の時代に郡奉行小森新蔵氏に従って日置郡串木野郷字羽島萬福の溜池工事に出張し居られし際、著者の祖父は串木野郷の年寄役を勤め、終始其工事を監督し居たり」

同書によると、著者の長谷場純孝の父・藤蔵は、西郷と年齢が近く、実際に交際もあり、西郷が長谷場家に宿泊することもあったそうです。
西郷がため池の造成のため、小森と共に羽島まで出張してきたことを裏付ける史料はありませんが、この逸話は割と信用できるものではないかと思います。

ちなみに、小森新蔵という人物は、勝田孫弥『西郷隆盛伝』では、なぜか小の字が無くなって森新蔵という名前になっています。(誤記でしょうか?)
ただ、この万福池の造成に携わった小森新蔵と斉彬の夫人を背負って逃げた小森新蔵が同一人物であったのかどうかについては、実はまだ調べがついていないため不明です。

小森新蔵という人物は、大久保の日記の安政6(1859)年12月15日の条に、「小森新蔵 御趣法方御用人席」と一度だけ名前が出てくるほか(『大久保利通日記』一)、『鹿児島県史料 旧記録拾遺記録所史料二』所収の「薩藩役職補任」によると、「御兵具奉行席」に「御役料米七拾三俵 小森新蔵 文久三亥五月九日」とあります。
また、『諸家大慨』(鹿児島県史料集6)には「藤原姓小森氏は鎌田氏の庶流の由候」とあるので、『鹿児島県史料 鎌田正純日記』をざっと調べてみたのですが、やはり両者は縁戚であったらしく、小森新蔵の名前が出てくる箇所があります。

さらに、『鹿児島県史料 名越時敏史料四』の「常不止集二十四」(名越の日記)には、「小森新蔵殿江戸詰之節子息被相果事国元より申来候時之詠歌」という記述があり、小森新蔵が息子の死を江戸で聞いた時の悲歌が収められています。
また、塩満郁夫・友野春久編『鹿児島城下絵図散歩』(高城書房)を調べると、小森家は上之園町に屋敷があったようで、小森新蔵の先代は小森八左衛門という人物のようです。
この小森八左衛門という人物も鎌田正純日記内に出てきます。

このように小森新蔵の名前が出てくるものをざっと調べてはみたのですが、御広敷御用人の小森と郡奉行の小森を結びつける史料は見つかりませんでした。(手持ち史料だけで調べるのは、やはり限界があります。鹿児島に行きたい^_^;)
果たして、西郷が仕えた郡奉行の小森新蔵と同一人物なのでしょうか?
私は調べきれませんでしたが、ご存じの方は是非ご教授願います。

最後に話が思わぬ方向にそれましたが、村井弦斎『西郷隆盛一代記』には、安政の大地震の際の西郷の武勇伝が次のように書かれています。

「此時吉之助は例の大力を現はし倒れかかりたる柱を支え、或は手に余る長持類を担き出だすなど目醒き働をなしたれば、人々何れも舌を巻き、彼の慶長の大地震に加藤上計頭清正が桃山御殿の働きも之には過ぎしなど語りける」

さすがにこれは大げさ過ぎますね(笑)。
しかし、「例の大力を現はし倒れかかりたる柱を支え」なんてありますので、案外この話から篤姫の救出劇が着想されたのかもしれません。


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【2018/03/25 21:06】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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今回の『西郷どん』のタイトルは「斉彬暗殺」でした。
斉彬の死については、古来「毒殺説」があることから、おそらくそれを意識したものでしょうが、それにしても今回は思い切ったタイトルを付けましたね。

まず、ドラマ内では斉彬が倒れることをまるで暗示するかのように、篤姫や西郷と仲睦まじく遊んでいた斉彬の五男・虎寿丸の早逝が描かれていました。
『鹿児島県史料 旧記雑録追録八』によると、虎寿丸は嘉永2(1849)年閏4月2日生まれで、同4(1851)年3月3日に世子に立てられたとあり、実母は「田宮氏女」とあります。
ドラマ内では斉彬の側室・喜久(四番目の側女・寿満をモデルとした女性)の子供のように描かれていましたが、実際はそうではなく、田宮安知の娘で斉彬の三番目の側女となった女性(名は不詳)が虎寿丸の生母です。
彼女は斉彬の三男・盛之進の実母でもありますが、盛之進は既に嘉永3(1850)年10月4日に数え三歳の若さで亡くなっていましたので、彼女は虎寿丸の死により、二人の息子を失ったことになります。

虎寿丸の死については、安政元年「総覧」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第二巻所収)の閏7月24日の条に、次のように書かれています。

「世子虎壽丸公、昨朝御習書常ノ如クナリシニ、劇然御発熱、剰へ下痢ヲ催シ、遂ニ本日丑之刻御夭亡、時ニ御年六歳(嘉永二年巳酉閏四月二日、江戸邸ニ御誕生)」

この記述によると、虎寿丸は亡くなる前日の朝は普段と変わりなく手習いをしていたようですが、突然発熱して下痢の症状がでて、その翌日の深夜に急逝したのです。
「劇然御発熱」とあるあたり、虎寿丸の体調が急に激変したことがうかがえます。

「竪山利武公用控」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第四巻所収)によれば、「昼後より少々御服(腹)痛被遊、追々御熱気御発御下し強被為在」とあり、虎寿丸が腹痛をきっかけに、発熱や強烈な下痢に襲われたことが分かります。
当時の虎寿丸はまだ数え六歳の幼子です。急な発熱と下痢によって、一気に体力を奪われてしまったのでしょう。

また、当時の虎寿丸は右大臣・近衛忠煕の娘・信君と既に婚約が成立していました。
『鹿児島県史料 旧記雑録追録八』には、その時の交渉記録が収められていますが、虎寿丸の死から遡ること半年前の2月には、島津家は近衛家から婚約の内諾を得ていたようです。
虎寿丸は薩摩藩の正式な跡取りでしたので、斉彬は島津家と大変縁深い近衛家から正室を招こうとしたわけですが、虎寿丸の早逝により、斉彬の願いも儚く消えてしまったと言えます。

当時、江戸薩摩藩邸において庭方役を務めていた西郷も、虎寿丸の死から約一週間後の嘉永7(1854)年8月2日付けで、鹿児島の同志・福島矢三太(大河ドラマには登場しません)に宛てた手紙に、

「若殿様には去る二十三日昼九ツ時より御瀉しにて、昼の内十二度、夜二十五度位の儀にて、八ツ時分終に御卒去遊ばされ候」(『西郷隆盛全集』第一巻所収)

と書き、虎寿丸の急逝について触れています。

前出の安政元年「総覧」によると、虎寿丸の遺体は2日後の閏7月26日、島津家の菩提寺である目黒の大圓寺に葬られ翌月8月26日にその遺髪が鹿児島へと送られましたが、『鹿児島県史料 鎌田正純日記』三によると、鹿児島に虎寿丸の逝去が伝わったのは、それより前の8月14日の夕方頃であったようです。
鎌田の日記の8月14日の条には、「若殿様御不例之処去月廿四日暁御夭亡之御左右今七ツ後御到来、書役佐々木眞兵衛・新納駿河殿方より承参候」との記述があります。

また、鎌田に虎寿丸の死を伝えた新納(久仰)の雑譜(『鹿児島県史料 新納久仰雑譜』一)によると、「今日七ツ半時分先月廿七日江戸被差立候極々急キ飛脚到着」という記述があることから、閏7月27日に江戸から差し立てられた急飛脚が8月14日に鹿児島に到着し、虎寿丸の死が伝わったことが分かります。

DSCF0015.jpg
(虎寿丸の遺髪が埋葬された鹿児島の「福昌寺跡」)

虎寿丸の突然の死は、斉彬に大きな衝撃を与えたことでしょう。
斉彬はそれまで長男・菊三郎、長女・澄姫、次女・邦姫、二男・寛之助、三男・盛之進、四男・篤之助と、既に四男二女を失っていましたが、いずれも三年に満たない内での早逝でした。
そのため、順調に六歳まですくすくと成長していた虎寿丸の死に、斉彬は精神的に大きなダメージを受けたに違いありません。
そして、その心労がたたったのか、虎寿丸の死から約一週間後の閏7月晦日、今度は斉彬が病におかされるのです。

「順聖公御事蹟並年譜」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第四巻所収)には、「公寝疾自哭世子悲傷、至此療薬効少、中外憂懼」とあり、斉彬の罹患は虎寿丸を失った悲しみが大きかったことがうかがえます。
また、西郷は前出の福島矢三太宛ての手紙の中で、

「太守様俄に御病気、一と通りならざる御煩い、大小用さえ御床の内にて御寝も成らせられず、先年の御煩いの様に相成る模様にて、至極御世話遊ばされ候儀に御座候」

と書いていることから、当時の西郷は、斉彬が重病であると聞かされていたのではないでしょうか。

ちなみに、この時の斉彬の病は胃病であったと伝えられていますが、斉彬が全快したことにより、翌安政2(1855)年3月17日に藩内に布告された「斉彬御病気御全快布告」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第二巻所収)によると、「太守様御事、去秋中ヨリ甲寅ノ秋、御疝癪気ニテ被遊」とありますので、胃痛だけではなく、胸痛などの症状も出ていたのかもしれません。

このように、斉彬が病に倒れたため、番組最後の「西郷どん紀行」でも取り上げられていましたが、西郷は目黒不動尊(瀧泉寺)に参詣し、斉彬の病気平癒を祈願しています。
西郷は同福島宛ての手紙の中で、「命に替えて祈願をこらし、昼夜祈り入る事に御座候」と書いています。

そんな西郷が、今回のドラマでは「斉彬の毒殺」を疑い、橋本左内に検査を依頼して、最後は斉興とお由羅の方のところに物申しに行くシーンが描かれていましたが、さすがの西郷も毒が原因で斉彬が病に倒れたとまでは、当時思っていなかったのではないでしょうか。
確かに、西郷は同福島宛て手紙の中で、

「熟思慮仕り候処、いずれなり奸女をたおし候外望みなき時と伺い居り申し候」

と、斉興の側室・お由羅の方を「奸女」と表現し、それを「倒すほかない」とまで過激な言葉を吐露していますが、それは先年のお由羅騒動の際に噂になった「お由羅一派による斉彬への呪詛・調伏」を疑ったからであり、さすがに毒殺レベルまでは考えていなかったような気がします。

今回のドラマにおいて、斉彬は食事の中にヒ素を盛られたという描き方をされていましたが、おそらくこれは鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏が唱えられた斉彬毒殺説を参考にしたものだと思われます。
海音寺氏は自身の著書『西郷隆盛』(朝日新聞社刊)の中で、

「この伝記の初版を出した後、ぼくの胸底にはいつも斉彬の死因について疑惑があった。その死がタイムリーにすぎると思われて、納得しかねるものがあって、考えつづけずにはいられなかった。ある日、「これは毒殺ではなかったか」と考えてみた。すると、一切が実によく納得の行く気がして来た」(『西郷隆盛』第二巻)

と書いたうえで、「ぼくはその毒物についても、大体の見当をつけている。亜砒酸系統の毒薬であったろう」と、斉彬がヒ素中毒で毒殺されたのではないかと推察しています。
また、海音寺氏は併せて、

「斉彬は政治と研究以外にはほとんど道楽のない人であったが、たった一つ釣魚を楽しんで、よく磯の別邸の前の海に舟を浮かべて糸を垂れ、釣った魚を自ら調理して少量の麹と塩とを混じて蓋物に入れ、居間の違い棚におき、練れて鮨になったところを食べるのが好きであった。だから、置毒することは、さして難事ではなかったはずである」

と、斉彬が作った鮨の蓋物に置毒したのではないかと、具体的な置毒方法についても言及していますが、これは松木弘安こと寺島宗則が明治に入って後、

「公ハ酒ヲ嫌ヒ、茶ヲ嗜マレタリ、或ハ自ラ釣漁セル魚ヲ以テ製セル酒醸ノ鮨ヲ嗜食セラレタリ、然ルニ安政五年戌午ノ夏、之レヲ一日貯ヘ醸シテ食セラレタルノ後、同年七月一二日の比、直ニ下痢ヲ発シ、之レカ為メ十五日後終ニ不治ナリシ」(「寺島宗則記述」『鹿児島県史料 斉彬公史料』第四巻所収)

と語り遺していることから、推測されたようです。
斉彬が鮨を食べて体調を崩したことは、『薩藩維新秘史 葛城彦一伝』にも、「七月九日城市の西南天保山の原に於て、大部隊の練兵を行ひ、磯濱の別館より船を命じ、自ら往いて督し、帰路綸を垂れて獲られたる魚鱠を食し、微しく痢を患へられたるを起因とし」と同様の記述があります。
おそらくこれも寺島の回想を参考にしたものであると言えましょう。

このような斉彬毒殺説については、実際に薩摩を訪れ、斉彬とも面会した経験があるオランダ軍医師のポンペが、自身の回顧録の中で、「まんざら偽りでもないらしいが、侯は毒殺されたのだともいう」(沼田次郎、荒瀬進共訳『ポンペ日本滞在見聞記―日本における五年間―』)と書いており、当時そのような毒殺の噂が流れていたことが分かりますが、斉彬毒殺説を裏付けるような史料は残っておらず、今となっては永遠の謎としか言いようがありません。

今回のドラマの最後では、斉彬の暗殺が井伊直弼の指令であったかのような大オチが付いていましたが、斉彬の周囲は彼を思慕する家臣たちで固められ、常に警戒されていたでしょうから、海音寺氏が指摘するような置毒が果たして可能であったかどうかについては、少し懐疑的にならざるを得ないと個人的には思っています。
ただ、一つだけ確かなことは、それだけ斉彬の死というものは、余りにもタイミングが良すぎたということです。
果たして、今回の大河ドラマにおいて、斉彬はどのような最期を遂げるのでしょうか?
今から興味津々です。

虎寿丸の死について、少し補足事項を書いておきます。

本文中において、虎寿丸の死が鹿児島に伝わったのは、『鹿児島県史料 鎌田正純日記』三と『鹿児島県史料 新納久仰雑譜』一の記述を引用して、嘉永7(1854)年8月14日としましたが、厳密に言いますと、新納久仰の雑譜によれば、その前の8月10日に江戸から急飛脚が到着し、虎寿丸の危篤を知ったとあります。
また、その急飛脚の知らせには、どうやら虎寿丸が既に亡くなっていたことは書いていたようです。
新納は虎寿丸に回復の見込みがないことを知り、「御残念之次第何共難尽筆紙奉存候」と書いています。
おそらく幕府への正式な届出が済んでいなかったため、虎寿丸の死はまだ極秘扱いとされていたのでしょう。
そして、その四日後の8月14日、正式な逝去の知らせが鹿児島に到着するのです。


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【2018/03/18 20:46】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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今回のドラマの中心は、前回に引き続きヒー様と篤姫、そして初登場した越前藩士・橋本左内でした。
特に、13代将軍・徳川家定との婚礼を控えた篤姫にスポットが当てられた回でしたが、篤姫については以前大河ドラマが放映されていて、既にその時に話は出尽くされた感があり、私自身も正直何か目新しいことは書けないように思います(^-^;)

今回の『西郷どん』においても、「将軍継嗣問題(家定の跡目相続を巡る問題)」との関係で、島津斉彬がヒー様こと一橋慶喜を将軍継嗣に据えるため、篤姫を将軍御台所に送り込んだという形で描かれていますが、現在それは完全否定されており、もはや通説とは呼べないレベルの話になっています。
この将軍継嗣問題と篤姫入輿との関連について疑問を呈し、そして否定説に先鞭を付けたのは、今は亡き芳即正先生です。
ここで将軍継嗣問題と篤姫の入輿が無関係であったことを知るための芳先生の著作等を紹介しますと、

芳即正『島津斉彬』(吉川弘文館)
芳即正「研究余禄 天璋院入輿は本来継嗣問題と無関係」(『日本歴史』1994年4月号)
芳即正「天璋院篤姫入輿問題の通説への疑問」(尚古集成館講座・講演集No.12)
※この講演集は、芳即正『鹿児島史話』(高城書房)に同じものが収録されています。


の三つが挙げられます。

少しおさらいの意味で、上記三つの資料を基にして、簡単に概略を書きますが、芳即正『島津斉彬』によると、将軍家から島津家に対し、家定の正室を迎えたいとの要望が出たのは、嘉永3(1850)年6月、家定の二番目の妻が亡くなった時期にまでさかのぼります。
余り知られてはいませんが、家定は篤姫を妻に迎える前、既に二人の女性との結婚歴がありました。
一人目は鷹司家から輿入れした任子(天親院)、そして二人目は一条家の秀子(澄心院)です。
つまり、家定は二回も公家出身の女性を娶ったわけです。

しかし、その二人が相次いで早逝したことにより、家定の実母・本寿院などの将軍家周辺は、家定の後妻として武家出身の娘を探し始めました。
嘉永6(1854)年7月10日付けで斉彬が近衛忠煕に宛てた手紙には、「御再縁被為在候ハゝ、京都は御好ミ不被遊御模様より事起り候」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第一巻)という言葉があり、将軍家が家定の再婚に際して、公家出身の女性を嫌ったことが事の発端だったと書かれています。

そして、最終的にその花嫁候補に島津家出身の女性が選ばれたわけですが、その理由は重豪の三女であり、11代将軍・徳川家斉の正室であった茂姫(広大院)の影響が大きかったと言われています。
芳先生は、「嘉永三年当時には、その広大院の血を引く大名や大名夫人が全国に十五人もいた」と書かれており、広大院の血筋は子孫が繁栄していたことから、その出身である島津家に将軍家の白羽の矢が立ったのです。
当然、当時、いわゆる将軍継嗣問題は全く影も形も無いような状態ですから、将軍継嗣問題と篤姫の入輿は、本来無関係だったと言うことです。

と言うわけで、実際篤姫の将軍家への嫁入りは、将軍継嗣問題とは無関係だったのですが、どうしてもドラマになると、篤姫の悲哀を描くために関係があるように描かざるを得ないのかもしれません。
また、余談ですが、篤姫を斉彬の実子とする説が昔からありますが、以前私のホームページの中で、

「天璋院篤姫は島津斉彬の実子?―篤姫斉彬実子説の検証―」
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/theme12a.htm

というものを書きました。
また、

「天璋院篤姫の婚礼-薩摩藩からの珍しい献上品-」
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/zatsuwa8.htm

というエッセイも書いたことがありますので、ご興味のある方は読んでみてください。(昔書いたものなので、文章及び内容が拙劣ではありますが^_^;)

さて、次に初登場したのが、ドラマ前半の重要人物ともなる越前藩士・橋本左内です。

image.jpg
(橋本左内銅像)

西郷はフキの居る「磯田屋」を訪れ、そこで偶然に左内と出会っていましたが、左内が書いた「備忘録」(『橋本景岳全集』上所収)によると、二人の最初の出会いは、安政2(1855)年12月27日、水戸藩士・原田八兵衛の居所であったとあります。
「備忘録」には次のように書かれています。

「薩 芝上屋敷御庭方 西郷吉兵衛 鮫島正人友人、卯年極月廿七日始於原八宅相會す、燕趙悲歌之士なり」

左内が西郷のことを「燕趙悲歌之士なり」と評していることからみると、当時の西郷は時世を慷慨する、かなり熱い男だったのでしょう。
この左内の評価から考えると、『西郷どん』で描かれている西郷像は、かなり近いと言えるかもしれませんね。

ちなみに、この備忘録には、同じく薩摩藩士の「御小姓 伊藤才蔵」という人物の名も記されていますが、左内は彼についても西郷と同様に「鮫島友人之由」と書いています。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』において、西郷を斉彬に推挙したのは、一般的に言われている福崎七之丞ではなく、伊藤才蔵ではないかとしたのは、このように西郷と伊藤に当時の接点が見出せるからでもあります。

一方、左内ですが、山田秋甫編『橋本左内言行録』に収められている、元越前藩士・堤正誼の談話によると、

「橋本の風采は躯幹漸く五尺、小男の方で色の白い痩せた優しい姿で、殆んど婦人の如くであった」

とありますので、今回『西郷どん』で演じる風間俊介さんは、ピッタリのハマリ役と言えるかもしれませんね。
また、堤は同『橋本左内言行録』の中で、次のような話も語り遺しています。

「左内は幼少の時より人を御し人に長たるの資格を備えて居た。小姓頭として藩公に仕へて居た時分、毎朝出仕するに裏庭傳ひに庭苑に廻るを常として居たが、木履の音高く飛石の上を歩むと、小姓部屋でワイワイ騒いで居た小姓達が「ソレ橋本が来た来た、下駄の音が聞える、静かにせえ、静かにせえ」と一同粛然として容を改めたと云ふ」

この話、誰かさんの逸話と似てませんか?
そうです、大久保利通です。
大久保が内務卿だった頃、毎朝内務省の廊下に響く大久保の靴音が聞こえてくると、職員一同が雑談や笑い声を止め、水を打ったように静まり返ったという逸話は有名です。
これは勝田孫弥『甲東逸話』内の「甲東の足音内務省を粛然たらしむ」という話が元になっていますが、左内はその下駄バージョンですね(笑)。
堤は「橋本の下駄の音」として、当時小姓仲間の間で有名であったと言っています。

ちなみに、左内は蘭方医として登場していましたが、左内自身は自分が医者の家に生まれたことがかなり嫌だったようです。
左内が15歳の時に著した「啓発録」(『橋本景岳全集』上所収)には、次のような言葉があります。

「嗚呼如何セン、吾身刀圭ノ家ニ生レ、賤技ニ局々トシテ吾初年ノ志ヲ遂ル事ヲ不得ヲ」

刀圭とは医術をつかさどる者、つまり医者の意味で、左内は「ああ、なぜ私は医者の家に生まれてしまったのだ。そのために我が志を遂げることが出来ないではないか」と15歳の頃に嘆いているのです。
幕末期には、左内と同じく医家に生まれながらも、後に国事に奔走する人物が結構いますね。長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞なども医者の家の生まれですが、現代と違って当時の医者の地位は高くありませんでしたので、医者の身では志を叶えられないと考えた人が多かったのかもしれません。

前述のとおり、安政2(1855)年末に出会った西郷と左内ですが、左内が書いた日記(「安政丙辰日記」『橋本景岳全集』上所収)の安政3(1856)年5月15日の条には、「西郷ニて馳走ニ相成」という記述などもあり、その後二人が交流を深めていったことが分かります。


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【2018/03/11 21:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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ukoji
藤田東湖が出てくると予想してましたが
きれいに割愛されましたね

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いよいよ西郷が江戸に行くことになりました。
江戸では「ヒー様」こと一橋慶喜との出会いやフキとの再会などがあって、今回はとても賑やかな展開で、まさにTHE時代劇でしたね(笑)。
早くもこの時点で慶喜を登場させたのは、やはりドラマ後半への伏線でしょう。
この後、西郷は斉彬の命により、「将軍継嗣問題(13代将軍・徳川家定の跡継ぎを巡る問題)」において、一橋派、つまり慶喜を次期将軍に擁立することに尽力することになり、また、慶応期において、西郷と慶喜は政治的に対立することになります。
そんな西郷と慶喜の数奇な運命を描くために、この段階から二人の接点を作ったのではないでしょうか。

さて、西郷が江戸に向けて鹿児島を出発したのは、嘉永7(1854)年1月21日のことです。
西郷は「中御小姓、定御供、江戸詰」を命じられ、いよいよ江戸へと旅立ったわけですが、出発前の西郷の役職を郡方書役助ではなく、郡方書役に昇進していたとする書籍が散見されます。
この点については昔から議論があったところなのですが、西郷家の家政上の記録である「万留」(『西郷隆盛全集 第四巻』所収)によると、嘉永7(1854)年8月に次弟・吉二郎が提出した「御奉公役目届」には、

「善兵衛事当正月迄ハ郡方書役助相勤居候処、同月中御小姓被仰付、御供ニ而同廿一日出立仕、当分江戸江罷居申候」

とあり、吉二郎は当時善兵衛と名乗っていた兄の役職を郡方書役助と書いています。
この記述を信用するならば、江戸出立時において、西郷はまだ郡方書役には昇進していなかったものと思われます。

今回、鹿児島を出発した斉彬の行列は、アッという間に江戸に到着し、あの有名な水上坂(みつかんざか)でのエピソードは描かれませんでした。
水上坂のエピソードは、西郷の伝記類には必ずと言って出てくる逸話です。江戸参府の行列が鹿児島郊外の水上坂において休息中、斉彬が近臣に対し、西郷のことを尋ね、そして西郷のことを初めて見たという逸話です。
例えば、『大西郷全集 第三巻』の「西郷隆盛伝」には、

「斉彬は乗物から立出でて四顧しつつ暫し離れ去る郷土の風光に名残を惜む如く見えた。ややあって従者に向ひ、西郷吉兵衛といふのは来てをるか、孰れぞ、との訊ね。隋士は直ちに偉丈夫隆盛を指した。斉彬が隆盛を眼のあたり見たのは此の時が始めてであった」

とあり、勝田孫弥『西郷隆盛伝』にも同様の記述があります。
『西郷どん』では、斉彬が西郷と相撲をとったりと、二人は既に面識があったという設定でしたので、この逸話は端折られたのでしょう。

ちなみに、水上坂とは鹿児島城下の西郊、出水筋(薩摩街道)にあった水上(西田村字水上)のことを指し、ここには藩主が休息する御茶屋がありました。江戸参府の際には、藩主はこの水上の御茶屋で休息を取ることが慣例となっていたのです。
西郷が供として加わった嘉永7(1854)年の斉彬の行列もまた、同じように水上で休息を取っています。
「照國公日記」(『鹿児島県史料 斉彬公史料 第四巻』所収)には、

「鹿児島 十時過三時一分マヘ立、(中略)、十一時過三時一分マヘ水上着、十二時過二時二分マヘ立」

とあり、鹿児島を出発した行列が、水上の御茶屋で一時間程度の休憩を取っていることが分かります。

ちなみに、この日記の時間の記述が少し変わっていると思いませんか?
江戸時代の時間と言えば、普通は巳の刻や四ツなどの表現を使うものですが、この時どうやら斉彬は、時計を使用して時間を記録させていたようです。
芳即正『島津斉彬』によると、この時使用された時計は長崎の写真家・上野彦馬からの進物品で、当時の斉彬は、藩内の巡検や参勤交代の際にはいつも時計師の内野太左衛門を同行させていたそうで、先に書かれている時間は時計の短針を示し、後の時間は長針を指していると解説されています。
つまり、斉彬の行列は、「鹿児島を午前10時14分に出発し、午前11時14分に水上に着き、お昼の午後12時8分に水上を出発した」ということです。「三時一分マエ」という記録は、長針が3を指す1分前、つまり14分を意味しているということです。
このような記述を見ても、斉彬の西洋好みと言いますか、そのハイカラさがよく分かりますね。ちなみに、斉彬という人物は、ローマ字を使って日記も書いています。

この時の斉彬の江戸参勤ルートについては、「照國公日記」と当時斉彬の側近(御小納戸役)であった山田壮右衛門為正が書いた日記「安政元年島津齊彬参府御供日記」(『鹿児島県史料 斉彬公史料 第四巻』所収)に詳しいのですが、この山田壮右衛門為正という人物は、『西郷どん』において、徳井優さんが演じている山田為久のモデルだと思います。
でも、なぜ敢えて山田だけ名前を変えたのでしょうか?
その理由はよく分かりませんが、少しネタバレを書きますと、山田為正は後に斉彬の遺言を直接聞くこととなる、とても重要な人物なのです。

この山田為正の日記によると、斉彬一行が江戸に着いたのは、嘉永7(1854)年3月6日のことです。
つまり、鹿児島から江戸まで約一ヶ月半かかったわけですが、江戸に着いた西郷はその一ヶ月後、藩から「庭方役」を拝命します。
ドラマ内では、西郷は庭掃除ばかりをし、少々ガッカリした様子が描かれていましたが、ドラマで描かれたとおり、斉彬が西郷に期待したのは、自分の手足となって動ける使者の役目であったと伝えられています。

この西郷の庭方役就任について、西郷とも直接親交のあった元薩摩藩士で歴史家でもあった重野安繹(しげのやすつぐ)は、

「其時南洲ノ地位ハ御庭方ト云フモノデ、是ハ幕府ノ御庭番ト云フニ擬シタモノ、藩ニ於テハ昔ハナカッタモノダガ順聖院ノ時ニ始メテ其役目ヲ拵ヘタ」

と語っており(「重野安繹演説筆記第二」『鹿児島県史料 斉彬公史料 第三巻』所収)、御庭方は斉彬が幕府の御庭番(つまり隠密)を模して始めた制度だと言っています。
芳即正『島津斉彬』にも「重野安繹によると御庭方は斉彬の創設というが」という記述があり、その証言が紹介されていますが、それに対して、勝田孫弥『西郷隆盛伝』では、

「元来庭方役に有為の人材を任じ、直接に密事を談ずるの便に供したるは斉彬に始りし事にあらず、斉彬を薫陶したる榮翁の世に幕府の庭掃除番に擬し創始したるものにして其長を庭奉行と称したり」

とあり、庭方役に有為な人材を就けるようになったのは榮翁、すなわち斉彬の曽祖父である八代藩主・島津重豪の御世であったと書かれています。
確かに、勝田孫弥の言うとおり、文政11(1828)年に改編された『薩藩政要録』(鹿児島県史料集(1))の「御側支配並若年寄大目附支配諸御役座等之事」という文書には、若年寄支配として「御庭方」という役職があったことが記されていますので、御庭方は斉彬時代に始まったものではなかったのです。

また、『職掌紀原』(鹿児島県史料集(6))によれば、「御庭奉行之儀、天明三癸卯十月初被相建」とあり、御庭方の長である御庭奉行は、天明3(1783)年10月に初めて設けられた役職であったことが分かります。
天明3(1783)年と言えば、重豪が藩主の時代でしたので、やはり勝田孫弥の言うとおり、西郷が拝命した御庭方は重豪が創設した役職と言えるでしょう。

重豪が御庭方という役職を創設した理由については、「参考御薬園ノ由来」(『鹿児島県史料 斉彬公史料 第一巻』文書番号三四一)という文書に次のように書かれています。

「天明三癸卯十二月御庭奉行・御薬園掛創置セラレタルハ、重豪公夙にニ開物殖産ノ業ヲ好セ玉ヒ、和漢洋ノ草木ヲ蒐集・栽培セシメ玉ヘリ、(中略)、之ヲ鹿児島其他各郷ニアル御薬園地ニ栽培セシメ玉ヒ」

つまり、御庭奉行は重豪が収集した和漢洋の草木コレクションを栽培する薬園の管理を行うために設けられたということです。
薬園の管理については別に薬園掛が置かれましたが、それを統括するために御庭奉行を置いたということでしょう。
重豪は『成形図説』と呼ばれる様々な草木類を集録した百科事典を編纂したことでも有名で、特に薬園の経営については、とても熱心な藩主だったからです。
また、同「参考御薬園ノ由来」には、「御庭奉行・御薬園掛兼役ナリシカ其後凡ソ九年程ヲ経テ、寛政四壬子十二月分離シテ、御薬園奉行ヲ置レタリ」ともあり、元々御庭奉行は御薬園掛を兼務していたが、寛政4(1792)年12月、御庭奉行からその役目を分離して、専任の御薬園奉行という役職が新設されたとあります。(当時は重豪の子の九代藩主・斉宣の治世です)

以上のような記録から考えると、重豪が御庭方という制度を創設したのは、幕府の御庭番を模したのではなく、薬園掛を統括する部署として設けたものであったと言うことです。
そして、勝田孫弥『西郷隆盛伝』にあるように、その御庭方に有為の人材を登用し、藩主と直接密談できるような機能を持たせたのは、斉彬の発案であったと言えるかもしれません。
斉彬が身分の低い者でも気軽に庭先で会って話が出来る御庭方の利便性に目を付け、御庭方の制度を応用的、発展的に使ったのではないでしょうか。
斉彬は、市来四郎や中原猶介といった、自らが重用した家臣たちを庭方役に付けていることから考えると、斉彬は近臣から推挙のあった西郷を庭方役に就任させ、モノになる人物かどうかを試そうとしたのではないでしょうか。
そのように考えると、重野安繹が「庭方は斉彬が初めてその役目をこしらえたものであった」と言っていることも、あながち誤りではないように思います。
庭方役というものに新たな機能を付与したのは斉彬と言えますので。

今回は長くなりましたので、この辺で。


(後記)
島津重豪は、山川、佐多、吉野の三つの薬園を熱心に経営しました。
山川薬園跡には今でも大きなリュウガンの木が残り、また、佐多薬園跡には、たくさんの薬木が残っており、往時の姿を想像することが出来ます。
また、吉野薬園跡は現在鹿児島市立吉野小学校になっていますが、その校庭には薬園時代の名残りとも言える、大きなアキニレの木が立っています。
これら薩摩藩の薬園跡は、鹿児島でもオススメの史跡巡りスポットですよ!


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(吉野薬園跡・現在の吉野小学校の校庭に残るアキニレの木)


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【2018/03/04 21:20】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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前回に引き続き、物語は西郷の最初の妻であるスガ(須賀)が中心でした。
最後は西郷を江戸に行かせるために自ら潔く身を引いた女性として、スガの悲哀が描かれていましたが、私自身の感想を述べると、あのような形で彼女が描かれたのは少し残念な気がしました。

前回のブログでも、西郷が妹のコト(琴)の夫である市来正之丞に宛てた手紙の中で、「両親の勧めにより娶った妻を両親の死後に離縁した」と書いた手紙があることは触れましたが、西郷は同手紙の中で次のようにも書いています。

「再び此の期に相成り迎え申すべき存慮全く御座なく候」

つまり、西郷はスガとの離婚を経験し、「再び結婚するつもりは全くない」と書いており、この記述から想像を膨らませて、あのような形でスガとの別れを描いたのかもしれません。
あくまでもドラマですので細かく言うつもりはありませんが、ただ、今回は私の考えるスガ像とは少し離れていましたので、当時の西郷家の家計事情を絡めながら、スガと西郷の離婚の原因について、少し迫りたいと思います。

『西郷どん』では、当初から西郷家の貧窮について描かれていますが、スガが嫁入りした当時の西郷家は、経済的に逼迫した状況にあったことは間違いありません。
なぜなら、前回も書きましたが、嘉永5(1852)年9月に一家の大黒柱でもあり、稼ぎ頭でもあった父・吉兵衛が急逝したからです。
吉兵衛の死により、西郷家の財政は全て西郷の双肩にかかりました。
ただ、当時の西郷はまだ24歳の若者です。役職も郡方書役助のままで薄給でしたから、ドラマ内でも描かれていたとおり、当時の西郷はお金に大変苦労したことでしょう。
そして、西郷に背負わされた苦労は、一家の台所を預かることになったスガに対しても、遠慮なく降りかかったことは想像に難くありません。

そんな最中、2年後の嘉永7(1854)年1月に、西郷は斉彬と共に江戸へと旅立ってしまいます。
西郷が江戸に出た後、残った家族を一つにまとめ、そして経済的にも支えたのは次弟の吉二郎でした。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、吉二郎は西郷が江戸に出発する前年の嘉永6(1853)年に勘定所支配方書役助の役職に就いていますが、吉二郎の就職が西郷の江戸行きを後押ししたと言えます。

鹿児島県史料集(29)『要用集(下)』の中に、「諸御役座書役小役人持高依員数役料米並支度料銀等不被下候事」という文書が収められています。
この文書は藩士が役職に就いた際、藩から支払われた支度金の概要等を記したものですが、そこには「高五拾石以下家督部屋栖共支度料銀三枚三拾二匁御扶持米被下候」とあり、50石以下の武士で小役人に就いた藩士には、家督を継ぐ者や部屋住みの者に関わらず、支度料として「銀三枚三十二匁と扶持米」が下されたとあります。
当時の西郷家は41石の持ち高でしたので、吉二郎が就職したことにより、藩から西郷家に対して、同様の支度金と扶持米が支給されたことがこの文書から分かります。
当時経済的に困窮していた西郷家にとって、吉二郎の就職による支度金等の受給は、まさに大きな助け舟となったことは想像に難くありません。
経済的に苦しい状況にありながらも、西郷が江戸行きを決意したのは、このように吉二郎の就職が非常に大きかったと言えます。
少し想像を膨らませるならば、家庭の事情で江戸行きを断念しようとしていた西郷に対し、

「兄さあは何も心配することはなか。留守はおいが引き受けもんで、兄さあは江戸へ行ってくいやい」

と吉二郎が言い、その弟の言葉に涙を浮かべながらうなずく西郷の姿が目に浮かぶようです。

しかしながら、吉二郎が就職したとは言え、西郷家の家計が依然として苦しいものであったことは容易に想像がつきます。
西郷家の家政上の記録である「万留」(『西郷隆盛全集 第四巻』所収)によると、西郷が江戸に旅立った翌年の安政2(1855)年12月12日、西郷家は持ち家であった加治屋町の家屋敷を売り払っている事実があるからです。
おそらく持ち家は既に借金の抵当などに入っており、当時の西郷家は家屋敷を手放さなければどうにもならないような状態に陥っていたのでしょう。
これは西郷が江戸に出て留守中の出来事ですから、当時の西郷家がいかに困窮していたのかがよく分かります。

家屋敷を売り払った西郷家は、甲突川を挟んだ対岸の上之園町の借家に移り住むことになりますが、以上のような事実は、当時の西郷家の生活が依然として改善していなかったことを如実に物語っています。
このように苦しい状況に置かれていた西郷家の家計をスガは新婚当初から切り盛りせざるを得ない状況に置かれていたのですから、彼女が背負った重責は、想像するに余りあります。

ここで少し視点を変えますが、『伊集院兼寛関係文書』所収の「伊集院兼寛履歴」によると、スガの実家である伊集院家は200石取りの城下士であったようです。

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(尚友倶楽部、山崎有恒編『伊集院兼寛関係文書』芙蓉書房出版)

薩摩藩内で200石取りはかなりの高禄です。西郷家と比べても、伊集院家の身代は約5倍もあったのです。
先日、薩摩藩の歴史に造詣の深い歴史作家の桐野作人先生がツイッター上で、「伊集院家は西郷・大久保と同じ御小姓与の家格ではないかもしれない」との趣旨の発言をされ、さらに「(伊集院家は)御小姓与の上の小番か新番ではないか」と呟かれていましたが、私も同感です。
薩摩藩の武士の家格は、上から御一門、一所持、一所持格、寄合、寄合並、無格、小番、新番、御小姓与、与力という形で階級付けされていました。
西郷家が属した御小姓与(おこしょうぐみ)は、士分では下から二番目の低い家格となるわけですが、伊集院家はその禄高から考えると、西郷家と同家格ではなく、その上の新番か小番であった可能性が高いと思われます。

『鹿児島県史 第二巻』によると、在国の馬廻りの武士たち、いわゆる騎馬衆を小番と称したとあり、また「二百石以上を乗馬(後の小番)」、「百石以上二百石未満を小荷駄(後の新番)」としたとあることから、おそらく伊集院家は小番であったのではないでしょうか。
また、スガの父である伊集院直五郎は家老座書役を務めていましたが、後に西郷の妻となるイトの父・岩山八郎太も同役の家老座書役でした。岩山家の家格が小番であったことから考えると、伊集院家も同様の小番であった可能性が高いと思われます。
もし、このように伊集院家が小番であったとすると、スガは家格の低い西郷家に嫁入りしたことになりますが、このような縁組は普通に行われていたようです。
例えば、西郷家に限って言えば、西郷の妹で次女のタカ(鷹)は、嘉永7年(1854)に三原伝左衛門に嫁いでいますが、三原家の家格は小番であったと伝えられているからです。

『伊集院兼寛関係文書』所収の伊集院家の家系図によると、スガは天保3(1832)年4月生まれとあります。
前回も書きましたが、西郷とスガは嘉永5(1852)年に結婚したと伝えられていることから、スガは20歳の若さで西郷家に嫁入りしたことになります。
比較的裕福な家庭で育ったスガが、結婚当初からいきなり経済状況の厳しい大家族の中に入り込み、そしてその家計を預からざるを得なかったのですから、当時のスガはかなり苦労したのではないでしょうか。
そしてまた、唯一頼りとする夫の西郷はと言えば、江戸に出て長らく不在にしていましたので、彼女は心細い日々を過ごしたに違いありません。
あくまでも想像ですが、スガは西郷家で心労を重ねる日々を過ごしたように感じられてなりません。

そんな状況に置かれていたスガの窮状を見かねて、実家の伊集院家は彼女の身柄を自主的に引き取ろうとした、という通説通りの解釈が、西郷とスガが離婚せざるを得なかった最も自然な理由であったと私は思います。
そして、西郷は後にこの結婚について敢えて何も語ろうとしなかったのは、スガに対する申し訳なさや罪の意識がそうさせたと考えるのが適切ではないでしょうか。

以上のように考えると、西郷とスガの離婚の原因は、やはり西郷家の経済的事情に端を発する、スガの心労によるものが大きく、西郷は両親が骨折って娶ってくれた若妻に対して、そのような苦い経験を課してしまったという経験から、離婚直後、二度と妻帯しないと決心したように思えてならないのです。


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【2018/02/25 20:46】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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第7回でスポットが当たったのは、西郷隆盛の最初の妻のスガ(須賀)と母のマサ(満佐)でした。
西郷はその生涯において三人の妻を持ちました。スガ、愛加那、イトの三人ですが、『西郷どん』ではいずれの人物も大きく取り上げられる形となるそうです。
何せ「西郷隆盛は究極のモテ男」というのが、今年の大河のコンセプトですからね(笑)。

さて、まずはスガのことからですが、ドラマ内でも描かれていたとおり、西郷とスガが結婚したのは嘉永5(1852)年、西郷が24歳の時です。
前回のジョン万次郎話が嘉永4年のことでしたので、時系列的には一年進行したことになります。
スガは家老座書役・伊集院直五郎兼善の娘で、後の子爵・伊集院兼寛の姉にあたりますが、西郷が両親の勧めにより結婚したことは分かっています。
西郷は妹・琴の夫である市来正之丞に宛てた手紙の中で、

「両親よりめとらせ候妻を滅後追出し」

と、「両親の勧めにより娶った妻を両親の死後に離縁した」と書いているからです。

次回か次々回に描かれることになるかと思いますが、この手紙にもあるとおり、西郷とスガは結婚して2年後の安政元(1854)年に離婚しました。
ただ、二人の離婚の原因は定かでありません。
一般には、二人が結婚した頃の西郷家は経済的にとても厳しく、生活も苦しかったことから、スガの気苦労は絶えなかったと伝えられ、実家の伊集院家がそんなスガのことを見かねて、彼女を自主的に引き取ったと言われています。
また、西郷と離婚後のスガについては、どのような生涯を送ったのかも全く分かりません。

それにしても、今回は少しスガのことを悪く描き過ぎではないでしょうか?
まるで西郷家に嫁に来たことが不服であるかのように無愛想な態度を示すスガでしたから。
私は平成2年の大河ドラマ『翔ぶが如く』で同じくスガを演じた(作中では俊(トシ)という名前でした)南果歩さんの健気な奮闘ぶりが好印象でしたので、今回のようなスガの描き方は、ドラマを盛り上げるためにせよ、もう少しやり方があったのでは? と率直にそう感じました。
何せ次回のタイトルは「不吉な嫁」ですからね(苦笑)。

私が思うに、脚本家の中園ミホさんは、自身の作品である朝ドラ『花子とアン』と同じ手法を取ったのでしょう。
中園さんは同ドラマにおいて、ドラマのもう一人の主役でもある柳原白蓮を魅力的な女性とするため、その義母にあたる宮崎槌を大変意地悪な姑として描きました。
しかしながら、周知のとおり実際の槌はそのような人物ではなく、人柄も良く、宮崎家を支えた大変立派な女性であったからです。
おそらく今回の『西郷どん』において、中園さんは後の妻となるイトの器量良しを表現するために、同じような対比法を取り、スガをあのような女性に仕立てたのでしょう。

そして、西郷の母のマサも亡くなってしまいましたね。
ドラマ内でも描かれていましたが、嘉永5(1852)年という年は、西郷家にとって厄年とも言える一年でした。7月に祖父・龍右衛門、9月に父・吉兵衛、11月に母・マサの三人が相次いで亡くなったからです。
少し講談的な要素が強い書物ではありますが、明治31年に発行された村井弦斎『西郷隆盛一代記』によると、マサは死の数日前、西郷に対して次のように言ったとあります。(セリフを現代風にアレンジしました)

「私が元気な体であれば、つてを求めてお前を江戸に上らせるのですが、病のためにそれも叶わないので残念です。私が死んだ後、家が落ち着いたら、有村殿の後を追って江戸へ上り、名を上げるのですよ」

まさに溢れんばかりの母の愛を感じますよね。

また、『薩藩家庭教育の実際』という昭和13年に出版された小冊子には、マサの人物像が次のように書かれています。

「翁の母堂満佐子刀自は生れつき体格雄偉、而も男勝りの気象をもち、小事に齷齪(あくせく)せぬ人であった。加之、智あり、熱あり、果断勇決の点に至っては男子と雖も一歩を譲るやうな人物であったので、「男なりせば御家老にもなるべき人だ」と言はれる程であった」

少し大げさな書きようではありますが、西郷に負けず劣らず、マサも大変豪快な女性だったのかもしれませんね。
ちなみに西郷は、どんな多忙な日であっても、父母の命日には必ず木綿の紋付羽織を着て、粗末な小倉袴をはき、お墓参りをしたというエピソードも残っています。

最後に余談ですが、大久保の母・フクが亡くなった際、西郷は大久保に対し、元治元(1864)年9月15日付けで次のようなとても心のこもった悔やみ状を出しています。(旧字等は読みやすくしました)


「御賢母さま、御養生叶わせられざる段、驚き入る仕合いに御座候。追々承り候ところ、御難症の由は承り居り候得共、例の御持病強き方にて、肌持も能く罷り成り候に付き、追日御快方と相考え居り候ところ、存外の次第、さぞ御愁傷の筈と想像やる方なき事共に御座候。毎年の御不幸打ち続き、御悲心のところ、私共さえ堪え難き事に御座候」


大久保の母の死を伝え聞いた西郷が、まさに自分のことのように悲しんでいる様子がうかがえます。
大久保はその前年に父・次右衛門利世を亡くしていました。
相次いで父母を亡くした経験のある西郷だからこそ、その大久保の深い悲しみを痛いほど理解できたのではないでしょうか。

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【2018/02/18 20:46】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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第6回では、西郷と中濱万次郎、いわゆるジョン万次郎との交流が描かれました。
もちろん、この二人が「会った」という証拠はありませんが、「会わなかった」という証拠もないことから、あのような描き方をしたのでしょう。(大河ドラマは、基本そういうスタンスです)
ただ、後述しますが、薩摩にやって来たジョン万次郎は、厳戒な警備の下で保護されていたようですので、西郷が会える可能性はゼロに等しいものであったと思います。

前々回の斉興と斉彬のロシアンルーレットと言い、最近少し過剰な演出が目立ちますが、良くも悪くも、大河ドラマはもはや史実云々と細かく言うレベルの代物ではなく、あくまでもフィクションとして、寛容な気持ちで視聴しなければならないものであるということを改めて認識する時期が来たということでしょうね。
大河ドラマが放映されると、必ず「史実云々」という批判が生じますが、そのような無用な批判を受けないためにも、NHKは放送の最後に、「このドラマは事実を元に創作したフィクションです」というテロップを出すべきだと思います。この一言が全く無く、さも史実らしく見せかけた演出を行うので、世間が騒がしくなるのです。

また、第6回の話をする前に、今回の放送を見て率直に感じたのは、物語の進行が非常に遅いということです。
平成2年に放映された大河ドラマ『翔ぶが如く』と比べると、同ドラマの第6回目は「庭方役拝命」という話で、西郷はもう既に江戸に出ています。
はっきり言えば、今回のジョン万次郎との交流話は、西郷の生涯を描くために必ずしも必要とはしないものだと思いますので、このような遅い進行をとることにより、もっと掘り下げて描かなければならない肝心な部分がスルーされてしまうのではないかと少し心配になりました。

さて、ここから第6回に話を移しますが、相撲で斉彬を投げ飛ばした罪で牢獄に入れられた西郷は、そこでジョン万次郎こと中濱万次郎と出会い、その後に交流を深めます。(以下、全て万次郎で統一します)
ドラマ内で描かれていたとおり、万次郎が薩摩に来たことは間違いない事実です。
『鹿児島県史料 斉彬公史料 第一巻』に「中濱萬次郎申口」という文書が入っており、それを参考にして書きますが、万次郎が薩摩に到着したのは、嘉永4(1851)年7月29日のことです。当時西郷は23歳です。

万次郎は土佐の貧しい漁師の家に生まれ、仲間四人と共に鰹釣り船で漁に出た後、時化(しけ)にあって遭難し、無人島での漂流生活を経て、アメリカの捕鯨船に救助されたいう話は一般にも良く知られています。
少し話がそれますが、万次郎と同じく土佐の出身で、船で米を運搬中に万次郎と同じく遭難し、後に漂流生活を送った野村長平という人がいます。
長平の漂流は、万次郎の漂流より60年ほど前の話になりますが、この長平の漂流生活をリアルに描いたのが、吉村昭の小説『漂流』です。
当時の漂流生活がいかに過酷なものであったのかと長平の凄まじいばかりの強靭な精神力を知ることが出来ますので、ご興味のある方は是非読んでみてください。オススメの小説です。

話を戻しますが、アメリカ本土に渡った万次郎はそこで教育を受け、最終的には日本に帰国するためにカリフォルニアで金鉱夫となり、帰国のための資金を得た後、ハワイ経由で琉球(現在の沖縄県)に帰還します。
当時の琉球は薩摩藩が支配していた土地であったことから、当時の在番奉行の島津登(久包)は、万次郎を薩摩へと護送するのですが、その際に万次郎に与えた品が「中濱萬次郎申口」に次のように記されています。

一、単物 一枚
一、袷 一枚
一、帯 一
一、蚊帳 二張
一、焼酎 一斗


与えた品の中に焼酎が入っているのが、薩摩らしいと言えば、薩摩らしいですよね(笑)。

さて、琉球から薩摩本土へと送られた万次郎は、薩摩半島の南方、指宿に近い山川港に着き、そこから鹿児島城下へと護送され、ドラマでも字幕が出ていましたが、城下西田町の下会所に収容されました。

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西田橋御門(復元)

第6回では、西郷は万次郎と獄中で出会っていましたが、「中濱萬次郎申口」によると、万次郎には、

「御侍一人、平役人、御組ノ者共五人ツゝ付ケラレ」

とあり、その身辺は厳重に警備されていたことは間違いありませんが、おそらく投獄されたのではなく、屋敷内に隔離・保護されていたものと思われます。

また、少し書きそびれましたが、万次郎は伝蔵と五右衛門という、二人の漂流仲間と一緒に日本に帰国しました。
万次郎と共に遭難した四人の仲間の内、一名はハワイに残り(寅右衛門)、もう一名はハワイで病死していたからです(重助)。
そのため、万次郎は三人で薩摩にやって来たのですが、ドラマ内ではその辺りの事情は描かれていませんでしたね。

万次郎一行は、薩摩において約一ヶ月半拘留され、後に長崎へ送られたのですが、薩摩に滞在している間、斉彬の特命により、彼らに対して様々な聞き取りを行ったようです。
「中濱萬次郎申口」には、次のようにあります。(漢字等を改めて読みやすくしました)

「事情質問のため、田原直助及び船大工等三、四名を日々居所に遣わし、専ら造船、あるいは航海術、あるいは捕鯨のことを聞き、筆記し、あるいは捕鯨船の模型を作らしめたり」

斉彬は万次郎の訪薩を「しめた!」とばかりに喜んだのではないでしょうか。
この時とばかりに、後に薩摩藩で造船業に携わることになる田原直助や船大工を派遣し、造船法を聴きだそうとしていることからも、斉彬の西洋式造船への強い意欲がうかがえます。
そして、そこで得た知識が、後に薩摩藩が完成させた西洋式軍艦・昇平丸の建造に役立ったことは改めて言うまでもありません。

斉彬にとって、万次郎らは生ける教材であったと言えるかもしれませんね。
ちなみに、後に万次郎は、薩摩藩が設立した洋学校・開成所に教授として招聘されています。
もしかして、開成所で西郷と再会するシナリオを考えているのかもしれませんね。


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【2018/02/12 17:05】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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なんと!?
日高建男
万次郎に漂流仲間が居たとば知りませんでした・・というか日本人の多くの人は知らないのではないでしょうか?さすが幕末、提示すべき一級の情報は山とありますね。相撲とっている場合ではないかもしれません(笑)

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ドラマでは、島津斉彬がようやく藩主に就任しました。
前回の感想&小解説では触れませんでしたが、第4回で描かれた斉興と斉彬のロシアンルーレットは、まさに「おったまげ~!」でしたね。(←平野ノラ風・笑)

私のツイッターでも少し呟きましたが、あのロシアンルーレットの話は、おそらく平戸藩主・松浦静山が書いた『甲子夜話』を基にして創作されたものではないかと思います。
この話は海音寺潮五郎『西郷隆盛』(朝日新聞社刊)の第一巻でも触れられていますが、その昔、薩摩の城下では武士たちが集まると、座敷に円陣を組んで座り、その真ん中に天井から縄で吊るした鉄砲をぶら下げ、その縄をくるくると巻いた後、鉄砲に点火して手を放すという、度胸試しのような行為(遊び?)があったというのです。
当然、巻かれた縄は回転し、どこかで鉄砲が暴発することになりますが、周りに居座る武士たちは平然と談笑し、微動だにしてはいけません。鉄砲の暴発を恐れて、狼狽えたりでもしようものなら、仲間から卑怯未練と罵られ、薩摩武士の風上にも置けぬ輩として、吊るし上げを喰うからです。
誠に身の毛もよだつような恐ろしい話ですが、おそらく第4回の斉興と斉彬のロシアンルーレットは、この話から着想したものではないでしょうか。

さて、この辺りで第5回に話を移しますが、今回は「相撲」にスポットが当てられた話でした。
急きょ御前相撲に出場できなくなった村田新八に代わり、西郷が相撲に挑む話でしたが、元々薩摩は相撲が盛んな土地柄です。
西郷の相撲好きはかなり有名な話として伝わり、諸書にたくさん取り上げられていますので、今回は少し視点を変えて、相撲とはほど遠いと思われる大久保と相撲について書きたいと思います。

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(大久保利通生い立ちの地)

明治43年に刊行された勝田孫弥『大久保利通伝』は、大久保利通研究の基礎資料とも言えるものですが、その勝田が書いた別の書に『甲東逸話』(甲東は大久保の雅号)という、大久保にまつわる様々な逸話をまとめたものがあるのですが、その中に「相撲好」という話が収載されています。
この逸話によると、昔から薩摩において相撲は、士気の養成や身体の鍛錬のために武士たちの間で最も奨励されたものであり、大久保の父・次右衛門利世は、大の相撲好きであったそうです。
同書には、

「甲東は幼い時より父に伴はれて龍虎相撃つの状を見物するを常とした。甲東が父に劣らぬ相撲好であったのはこれが為である」

とあり、少年時代の大久保は、父に連れられて相撲見物に出かけることが多かったことから、父に劣らぬほどの相撲好きになったと書かれています。

この大久保の相撲好きの逸話を証明するかのように、若き日の大久保の日記を見ると、相撲見物に出かけたという記述がいくつか出てきます。
例えば、嘉永元(1848)年1月15日、つまり大久保がまだ弱冠18歳の青年であった頃の日記には、

「今日は横井氏の石壇の内江、例年有之候角力ある由に而、北原氏・山田氏被差越候付、拙者江も被進候」(『鹿児島県史料 大久保利通史料一』。以下同史料集から抜粋)

との記述があります。
つまり、「横井氏の屋敷内で例年相撲が催されており、北原氏と山田氏が来て、相撲見物に誘われた」ということです。

また、その後の日記の記述を読むと、大久保は日頃から親しく交際していた五歳年上の得能良助(日記の注には新助とあります)を誘い、結局四人で相撲見物に出かけたようですが、興味深いのは、相撲会場に到着した時のことです。
大久保は次のように書いています。

「八ツ近行着、加冶ヤ町方黒木氏・亀山氏・西郷氏杯参り被居、緩々致見物候」

つまり、大久保は「午後二時近くに相撲会場に着くと、加治屋町方限の黒木氏、亀山氏、西郷氏なども見に来ており、ゆっくりと相撲見物した」と書いているのです。
もちろん、西郷氏とは若き日の西郷隆盛のことです。
相撲という場において、西郷と大久保が邂逅しているのは、大変面白いですよね。

少し話がそれますが、この大久保の嘉永元(1848)年の日記を見ると、この相撲見物の時のように「加治屋町の○○が居た」や「加治屋町へ行った」という記述が散見されることから、当時の大久保は、西郷と同じ加治屋町に住んでいなかったものと思われます。
加治屋町に住んでいる人間が、わざわざ「加治屋町へ行った」と日記に書くことはまずあり得ないでしょう。
一般には、大久保は幼少期に生誕地の高麗町から、甲突川を挟んだ対岸の加治屋町に引っ越してきたと言われていますが、嘉永元(1848)年当時は、加治屋町ではなく、別の場所に居住していたものと推察されます。
おそらくまだ高麗町に住んでいたか、もしくは父が琉球館詰めの役人であったため、その役宅に住んでいたのかもしれません。(加治屋町にも屋敷を持っていたが、当時は他所に住んでいたという可能性もあります)

また、このことは既に私のホームページ内にも書いていますが、嘉永元(1848)年当時の大久保の日記は、約120日間の記録が残されていますが、西郷という記述が出てくるのはわずか4日しかありません。
しかも、そのいずれもが「西郷と出会った」や「西郷も来ていた」という、偶然西郷と顔を合わせたという風に書かれていることから、当時の西郷と大久保は、それほど親しく付き合っていなかったことが分かります。
逆に、一緒に相撲見物に出かけた得能良助や税所喜三左衛門(後の篤)といった人たちは、大久保の日記中に頻繁にその名が出てきますので、大久保との親密な交際がうかがい知れます。
おそらく西郷と大久保が親しく交流するようになったのは、大久保の父がお由羅騒動の影響で嘉永3(1850)年4月にお役御免となり、喜界島に遠島されて以後のことではないかと思います。
大久保は父の遠島により、自らも記録所書役助を免職となっていますが、その頃に加治屋町に居を移し、本格的に西郷との交流を深めたのではないでしょうか。
つまり、お由羅騒動は、西郷と大久保の仲を取り持つきっかけともなったと言えるのです。

閑話休題。
大久保と相撲に話を戻しますが、大久保の日記には、他にも嘉永元(1848)年10月10日に「明日は角力有之候付」という記述があるのですが、面白いのはその翌日、相撲当日の日記です。大久保は次のように書いています。

「今日は未大鐘近より起上り相仕舞、六ツ時船出し、四ツ時有村江着船いたし候、五時初り誠ニ以面白終日見物いたし、夜入近相済候」

この記述から分かるのは、大久保は船に乗って桜島の有村へ渡り、相撲見物に出かけたということです。
日記には「未大鐘近より起上り相仕舞、六ツ時船出し」とあることから、当日は未の刻(午後2時頃)近くに起きて、夕方の午後6時頃に船出したのでしょう。
当初この記述を見た時、「六ツ時船出」とあることから、朝の午前6時頃に気張って出発したのかと思ったのですが、四ツ時に桜島に着き、相撲が始まったのが五時(五ツ)で、夜に入って終わったとありますので、相撲の始まりは夜の午後8時ではなく、朝の午前8時頃だということでしょうね。
友人と共に夕方に船で出発した大久保は、夜の午後9~10時頃に桜島の有村に着き、そこから相撲会場の横井氏の屋敷まで移動し、翌朝午前8時頃から始った相撲を終日見物したということです。

大久保の相撲好きたるや、まさに恐るべしです!


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【2018/02/04 21:44】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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