西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
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 2018年NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』の原作、林真理子さんの『西郷どん』(月刊「本の旅人」(角川書店発行)に連載中)の第12回の感想です。

 第12回は、沖永良部島での西郷の遠島生活から物語が始まりますが、またもやアッと言う間に月日が進み、西郷が赦免されて京都に赴き、物語の後半には「池田屋事件」が起こり、「蛤御門の変」前夜までが描かれます。
 以前にも書きましたが、『西郷どん』は物語の進行が非常に早いです。この小説が西郷隆盛の生涯をダイジェスト的に描いているのは分かりますが、重要な歴史的事件や事項を、大久保が西郷に語って聞かせる形式で淡々と説明して進むので、幕末の歴史を知らない読者が、果たして話に付いていっているのかどうか少し心配です。

 鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏は、「西郷という人は、幕末・維新史全体の上に浮かべないと、真の姿がわからない」と、その著書『西郷隆盛』の中で語っていますが、まさに同感です。例えば、西郷が南島に潜居して不在であった頃の中央政局の動きをしっかりと押さえておかなければ、元治元(1864)年2月に西郷が復帰してからの行動を正確に理解することが出来ないと思います。海音寺氏は、従来の西郷伝はそのことをおざなりにして描かれているので、西郷の真の実像が歪む原因となっている、というような趣旨のことを書かれていますが、それから考えると、小説という形式で西郷隆盛の全生涯を描き切るのは、少し難しいような気がします。

 話を戻して、『西郷どん』第12回ですが、相変わらず西郷は久光のことを「らっきょう野郎」と呼び(苦笑。これ、何とかなりませんかね?)、その舌鋒はとても厳しいですが、それはさて置き、一点気になったのは、沖永良部島に流刑となった西郷の赦免を藩内の若手藩士たちが小松帯刀に頼み、小松が島津久光に願い出て許されたと描かれていることです。


若者たちが小松帯刀に頼んだところ、快く引き受けてくれた。交渉役として京で揉まれた彼は、人の心を読むことにたけていた。
「もはや国父さまは天下の中枢におつきにないもした」
 とおだてた後、
「こいからは小まわりのきく者が必要ではあいもはんか。あの西郷ならば京の公卿や宮家、江戸の大奥にも顔がききもす」
 と話を持っていったのである。粘り強く頼んだ結果、久光は最後には折れた。わが息子である藩主茂久(忠義)に聞いてみろと言ったのである。

(『西郷どん』第12回から抜粋)


 西郷の赦免については、通説では、久光の近臣であった高崎正風、高崎五六のいわゆる両高崎が、久光の面前において、「もし、西郷赦免の儀、お聞き届けなくば、有志一同、割腹つかまつる所存でございもす」と願い出て、それを聞いた久光が、

「左右みな(西郷のことを)賢なりと言うか……。しからば即ち愚昧の久光一人これを遮るのは公論ではあるまい。太守公(藩主・忠義)に伺いを立てるが良い」

 と言い、藩主・忠義の許可を得て決まったとされています。
 これは『大西郷全集 第三巻』の西郷隆盛伝の中に出てくる話ですが、勝田孫弥『西郷隆盛伝』ではその辺りの経緯がもっと簡潔に書かれています。


文久三年の末、久光の上京するや、諸藩有志の徒は悉く長州に走り公武合体党は皆京師に集まれり。然るに幕府の方針は益其勢権を維持するに傾向し、公武合体も亦佐幕の地位に陥るに及び薩藩の壮士輩は深く奮激する所あり。断然死を決して久光に面訴し、以て隆盛召喚の議を決せんと欲す。黒田清綱等其巨魁たり。高崎五六等之を聞知して大に驚き小松、大久保等に告げ久光に説かしむ。爰に於て隆盛放免の議漸く内定し、吉井友實を以て其使者と為すに決せり。
(読みやすくするため、旧字は改編。句読点は筆者が挿入しました)



 『西郷隆盛伝』によると、黒田清綱を中心とする壮士たちの死を決した西郷赦免運動を聞いた高崎五六らが、驚いて小松や大久保一蔵に告げ、そのことにより西郷の赦免が決まったとなっていますが、文面から察すると、久光を説得したのは、小松または大久保だったということでしょうか。林さんの『西郷どん』は、この記述を根拠として、小松が久光を説得したとしているのかもしれません。

 ただ、西郷の赦免については、小松や大久保が関与しなかったことを裏付ける話もいくつか残されています。
 前出の『大西郷全集 第三巻』所収の西郷隆盛伝には、次のようにその経緯が書かれています。


 元治元年正月、柴山龍五郎、三島源兵衛、福山清蔵、相田要蔵、井上弥八郎等十数名、丸山の某楼に集まって相談した結果、西郷赦免を願ひ出でて若し聴かれずば、一同君前に割腹死諌しようと決し、黒田嘉右衛門(後の清綱)伊地知正治の二人が有志の総代となって久光侯に哀訴しようということになった。
 しかし最初から久光侯に申出るよりか、小松、大久保に説いて、予め同意を得た上で、都合によってはこの二人の何れかから哀訴させようというのであった。
 黒田、伊地知の二人は、先ず小松を訪ねた。小松は大賛成であるが、自分からは願ひ出難い事情があるという。大久保を訪ねた、大久保も大賛成ではあるが、当時嫌疑を受けた一人であるから願ひ出の責に任ずることは出来ぬという。
 そこで、久光近士の高崎佐太郎、高崎五六がよかろうということになり、久光に拝謁の上、先君の御寵臣という一点張で、とうとう赦免を許さるることとなった。
(読みやすくするため、旧字等は筆者が改編しました)



 この記述によると、小松や大久保は、「趣旨は大賛成だが、自分たちからは西郷の赦免を願い出ることが出来ない」として、黒田たちの依頼を断ったことが分かります。
 また、「寺田屋事件」の生き残りの一人である柴山龍五郎(景綱)の事歴を記した『柴山景綱事歴』にも、次のように書かれています。


 西郷ヲ沖ノ江良部島ヨリ帰サンコトヲ久光公ノ御前ヘ出テ嘆願シ、萬一聴ルサレザル時ハ皆割腹シテ以テ死諌セント議ス。其集リシ人々ニハ三島通庸、柴山景綱、永山弥一郎、篠原國幹、椎原小弥田、宮内彦次(此時彦次ハ異論アリ)、吉田清右衛門等なナリ(綱記憶)。
 爾来又三島通庸、福山清蔵、井上弥八郎、折田要蔵、柴山景綱等ヲ始メ、拾何人丸山ニ會シ、是非御帰シアル様公ニ申上萬一聴ルシナクンバ御前ニテ直ニ腹ヲ切ラント決シタリ(正風、五六の記憶)。
 然ルニ其頃君侯ノ御前ニ出テ何事ニ限ラズ申上ル者モ少ナカリシガ、高崎正風、高崎五六ハ御近習通ヲ相勤メ君侯ノ御側近ク出ツル者ナレバ、黙視シ難クヤアリケン共ニ小松、大久保ニ謀ルニ両氏ハ故障アリ、大久保曰ク伏見一挙列ノ沸騰モ甚ダくどい(其時、綱ノ覚エ)ト茲ニ於テ五六自カラ久光公ノ御前ニ出テ、懇願シ
(読みやすくするため、旧字は改編、句読点等は筆者が挿入しました)



 登場人物に差異はありますが、内容は『大西郷全集 第三巻』とほぼ同じです。
 『大西郷全集』、『柴山景綱事歴』の記述を信用するならば、西郷召還を待ち望む藩士たちは、西郷赦免を実現させるため、小松や大久保にその取り成しを依頼したが、二人に断られたため、久光お気に入りの高崎正風、高崎五六の二人に対し、そのことを依頼したということです。『柴山景綱事歴』には、両高崎が久光の側近の者であるため、彼らから久光に願い出れば、久光も黙止することは出来ないだろうと考えたと書かれています。

 私自身の考えとしては、やはり『大西郷全集』、『柴山景綱事歴』の記述の方が真相のように感じます。久光近くに仕える小松や大久保の立場からすれば、二人は久光の西郷嫌いを身をもって経験していますから、西郷赦免を願い出ることは、火に油を注ぐような行為であると考えたに違いありません。特に大久保は、西郷を召還したい気持ちは強かったでしょうが、文久2(1862)年の久光の率兵上京計画の時のこともありますから、久光に対して容易に西郷の赦免を言いだせるような状況には無かったと思います。

 以上のようなことを考え合わせると、やはり小松や大久保は、久光に西郷赦免のことを話すことで、久光の不興を被ることを恐れ、自重したと考えるのが自然だと思います。
 西郷赦免の動きは、通説のとおり、黒田清綱や柴山景綱ら西郷の復帰を待望する若手の藩士たちが中心となり、小松や大久保ではなく、久光お気に入りの近臣であった高崎正風、高崎五六の二人に依頼したというのが真相だったように思います。
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【2017/01/24 12:30】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 どんどん話が大きくそれていますが、林真理子さんの『西郷どん』(第11回)の中でも、西郷と久光の確執は通説通りの形で描かれていますが、そんなことよりも私が少し気になったのは、久光の率兵上京の目的が「雄藩連合」であるかのように描かれていることです。

 例えば、作中で西郷は、上京を計画する久光の考え方を「もはや幕府などあてにならぬ、自分(久光のこと)を含む有力諸藩が連合して、幕政を行なうというこっじゃ」と語ったり、また、「薩摩ら雄藩によって幕政を立て直す、天皇のお出ましにより、公武ご合体を実現させ、雄藩が深く結びつくことを考えちょっとじゃ」と代弁しています。
 後半の部分はまだしも、前半の「有力諸藩が連合して、幕政を行なう」という発言部分は、読者に少し誤解を与える書き方だと感じました。

 雄藩連合と言えば、後年、久光が「参預会議」を興したり、西郷が「四侯会議」の形でその実現に奔走することになりますが、久光が上京を計画した文久2(1862)年初頭の段階では、久光にそのような具体的なグランドプラン(構想)はなかったと思います。
 文久2(1862)年3月に久光が薩摩から兵を率いて上京した目的や趣旨については、町田明広先生が『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社選書メチエ)の中で詳しく検証されていますが、町田先生は久光上京の目的を「皇国復古(皇政回復)」というキーワードを使用して詳細に説明されています。

 久光が上京しようと考えた理由を私の考えを元に極々簡単に説明すると、「諸外国との修好通商条約の無勅許締結」や「安政の大獄」などで地に堕ちた朝廷の権威をまずは復権することを目的とし、その上で幕府に対し制度改革(幕政改革)を迫るというもので、後年考えられたような、雄藩が連合して幕政に参画することを意図したものではありません。
 端的に言えば、久光は「朝主幕従」の政治形態を取り戻そうと考えたということです。町田先生は「天皇親裁体制」と書かれていますが、つまり朝廷を中心とした政治体制の復活です。

 確かに、久光が上京する前、久光の命を受けた大久保一蔵が上京し、近衛家に対して提出した書付けには、長州藩や仙台藩など諸藩に対して、別途勅許を下すことを要望する項目がありますが、それはあくまでも幕府が久光の改革案を拒否した際に諸藩連合して事にあたるための備えであり、まだこの時点で久光の考えの中には「雄藩連合政権構想」は無かったと言えます。(時の孝明天皇の意向として、薩摩藩や長州藩など雄藩の藩主を五大老に任じるということなどもありましたが、これは雄藩連合政権構想と呼べるような代物では無いでしょう)
 それから考えると、『西郷どん』の中の西郷の語り口は、少し誤解を与えるようなものだと思います。

 ちなみに、またまた話がそれますが、先程紹介した『島津久光=幕末政治の焦点』の中で、久光が当初の上京出発日を文久2(1862)年2月25日から3月16日に変更したのは、従来から通説とされているように奄美大島から帰還した西郷が計画に反対したことが原因ではなく、久光の二の丸への移住(藩主待遇となった久光が重富邸から城内二の丸に移住することになった)が遅れたことによるものだとしています。
 確かに、『伊地知貞馨事歴』所収の小松帯刀の文久2(1862)年2月29日付け堀次郎(伊地知の前名)宛ての書簡には、


泉公去ル廿五日御發駕之御賦御座候處二丸御作事等相運譯共有之來月六日ニ御首途十六日ニ御發駕之儀被仰出最早無余日相成申候

現代語訳by tsubu
(久光公は去る二十五日(京都へ向けて)ご出発なされる予定でしたが、二の丸の普請が予定通りいかなかったことから、来月六日に(二の丸に)移り住むことになり、十六日にご出発なされると仰せ出されたため、最早余日いくばくもありません)


 と書かれており、久光の出発が遅れたのは二の丸普請が計画通り進まなかったからだと説明していますが、果たしてどうでしょうか。
 この小松の記述が、西郷の反対が原因で久光の出発が遅れたということを完全に否定できるものではないという風に私は感じています。
 確かに、表向きは「二の丸普請の遅延のため」だったのでしょうが、各諸書及び諸伝に伝えられている通り、西郷の反対が久光の上京を遅らせる一つの要因になったことまでを否定できるものではないと考えるからです。

 例えば、前回紹介しました、西郷がこの辺りの顛末を詳細に記した、文久2(1862)年7月の木場伝内宛ての書簡には、

「愚考の形行残さず申し上げ候処、二月廿五日御発駕召し延ばされ、三月十六日と相成り申し候(久光に対して自らの愚考を包み隠さず申し上げたところ、2月25日の出発を延期し、3月16日の出発に変更となった)」

 と書かれており、西郷自身は自らの発言により、久光が上京を延期することになったとしています。

 確かに、対外的に考えても、藩として「一家臣の反対があったので」とは口が裂けても言えません。
 もちろん久光の二の丸移住が遅れていたことも大きな原因であったでしょうが、それだけではなく、西郷の反対もまた、久光の出発が遅れる一つの要因になったと解釈した方が当時の状況を考えると自然のような気がします。

 またもや話がそれましたが、『西郷どん』第11回では、久光の率兵上京計画を深く掘り下げることも無く……、淡々と話は進み、西郷が久光の逆鱗に触れ、徳之島へ遠島となった後、沖永良部島に流され、過酷な待遇を受ける様子が描かれます。
 このような話の進み方から考えれば、確かに既に連載を半分くらいは終えているのかもしれませんね。

 私は最初から『西郷どん』を読んでいるわけではありませんが、これまで読んだ率直な感想を書くと、このような女性目線での西郷隆盛像を描くのであれば、昔、作家の阿井景子さんが執筆された『西郷家の女たち』のように、西郷に関わった女性たちを堂々と主役に据えた方が良かったと思います。
 それこそ西郷周辺の女性たちを列伝風にして短編で書いた方がより効果的で、かつ面白くもあったような気がします。

 この展開で話が淡々と進むのであれば、この『西郷どん』を原作として大河ドラマを構成するのは少し難しいのではないかな……、という気がしてきました。
 確かに、平成2(1990)年の大河ドラマ『翔ぶが如く』も、司馬遼太郎氏の原作が明治期だけの話であるため、脚本家の小山内美江子さんは、他の司馬作品(『竜馬がゆく』、『酔って候』など)を参考にして脚本をお書きになられていましたが、どう考えても今回の原作『西郷どん』だけで脚本を書くのは、少し難しいような気がします。
 おそらく脚本家の中園ミホさんの創作が、かなり色濃く入らざるを得ないのではないでしょうか。
 以前温かく見守りましょうと言った矢先から少し懐疑的なことを書いてしまいましたが、非常にボリュームのある西郷の生涯を一年間のドラマにすることを考えれば、正直林さんの原作では短すぎるような気がします。(単発の二~三時間ドラマなら全然オッケーなのでしょうが)

 と言う訳で、『西郷どん』の感想を書いている内に全然違う方向に話がそれてしまいましたが、今年の書き込みはこれで終了したいと思います。
 今年もあと少しで終わりですね。
 このブログについては、なかなか訪問者(閲覧者)が増えず、かなり苦戦しておりますが、今年一年もご愛読頂きましてありがとうございました。
 これからも頑張って色々な話題を書いていきたいと考えておりますので、来年もどうぞよろしくお願いいたします。

 それでは、皆さま、良いお年を!

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【2016/12/30 12:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 私自身の考えを書くと、奄美大島から帰還後、西郷が久光に対して反抗的な態度を取ったのは、久光に対する嫌悪感もさることながら、「久光内閣」、つまり小松帯刀や大久保一蔵、中山尚之助などの久光周辺のブレーンたちに対する不信感が大きな原因になっていると思います。

 前述しましたが、西郷の心中には「久光が由羅の方の子供である」という、元来生理的に受け付けられない嫌悪感があったとは思いますが、おそらく斉彬からも久光が一角の人物である旨聞いていたと思いますので、その久光が斉彬の遺志を受け継いだことを当初は大変喜ばしく感じていました。
 そのことから、西郷は久光のことを「周公旦」と褒め称えたり、斉彬の遺志を受け継いだことを「本朝の大幸」と喜んだわけですが、一転、西郷が畏敬の念をもって接していた家老の島津下総(佐衛門久徴)を始めとする、桂久武、蓑田伝兵衛といった「日置派」と呼ばれる面々を久光が更迭したことにより、西郷の感情は著しく悪化し、西郷は久光やそのブレーンたちに対して、大きな不信感を持つに到ったのだと考えています。

 日置派とは日置領主の日置島津家を中心にしたグループの総称で、西郷と日置派は非常に縁が深い間柄です。
 元々西郷家は、日置島津家出身の赤山靱負(あかやまゆきえ)の用頼(御用人のこと。世話係)を勤めていたのですが、その赤山が「お由羅騒動」に連座し、切腹することになると、西郷は父の吉兵衛から赤山が切腹の際に着用していた血染めの肌着を受け取り、終夜それを抱き、涙を流しながら赤山の志を継ぐことを決意したと伝えられています。西郷にとって、赤山という人物は特別な存在だったのです。

 赤山が亡き後も、西郷と日置島津家との関係は続き、西郷は赤山の実弟である桂久武と親しく付き合い、二人の仲は「刎頚の友」とも呼べる間柄でした。
 その桂が慶應年間に家老に就任すると、同じく家老であった小松帯刀と共に、西郷や大久保といった藩内の革新派の活動を全面的にバックアップしました。西郷や大久保が薩摩藩を背景にして縦横無尽に活躍できたのは、門閥出身家老の桂や小松の協力あってこその偉業だったと言えます。
 忘れてはならないのは、当時は純然たる封建制の世の中です。いかに西郷や大久保が優秀であったとしても、その力には限りがあり、桂や小松といった上級武士層の協力なしには、藩政を動かすことなど到底叶わなかったという点は、改めて再認識しておく必要があると思います。
 ちなみに、桂は西南戦争で西郷と共に鹿児島の城山で戦死しています。二人の仲は終生変わらなかったと言えましょう。

 話を戻しますが、前々藩主の斉興の死によって藩政に力を持つこととなった久光は、当初、日置派の長である島津下総を主席家老に据えました。これは久光やその子の藩主・忠義が、前藩主・斉彬の遺志を受け継ぐ覚悟を人事に反映した結果と言えますが、西郷はそのことを安政6(1859)年12月26日、奄美大島の代官であった吉田七郎宛ての書簡の中で、

「佐殿(下総のこと)御帰職の由申し来り、偏に祝い奉り候儀に御座候」

 と書き、島津下総の復職を我が事のように喜んでいます。
 この記述からも、西郷と日置派の深い関係が窺われます。

 しかしながら、久光は後にその島津下総を更迭するに到ります。日置派は久光の国政乗り出しに懐疑的な意見を持っていたためです。
 久光は島津下総を更迭、日置派の面々を閑職に異動し、自らの意のままに動く面々を藩政府の中心に据える藩政改革を行なったのですが、このことが、西郷が久光やそのブレーンたちに対して不信感を持つに到る大きな要因となったと考えられます。
 後年、西郷は当時の大久保ら久光のブレーンたちのことを

「少年国柄を弄し候姿にて、事々物物無暗な事のみ出候て、政府は勿論諸官府一同疑迷いたし、為す処を知らざる勢いに成り立ち」
(文久2(1862)年7月、木場伝内宛書簡)


 と、「若者たちが国の政治をもてあそんでいるような状態で、結果や是非を考えないようなことばかりをし、藩政府はもちろん役所全ては疑心暗鬼となり、為すべきところが分からないような状況になっている」と酷評しており、時の久光内閣を痛烈に批判しています。

 また、西郷は同書簡の中で、

「是非一致して御国勤王に相成り候様成されたく、頻に切論に及び候」

 と、「日置派とも一致団結し、国論を勤王化するべく、(小松や大久保、中山と)激しく議論に及んだ」とも書いており、奄美大島帰還後の西郷が日置派の復権に動いたことも窺えます。
 これらの西郷の書簡の記述は、西郷が日置派の更迭に大きな不満を抱いていたことへの傍証にもなりましょう。

 以上のように、日置派の更迭を引き金にして、西郷の心中で複雑に入り交じって生じた久光やそのブレーンたちに対する不信感が、前々回に書いた「地五郎(じごろ)発言」へと繋がっていくわけですが、これまでの経緯を考え、冷静に判断するならば、西郷の久光たちに対する嫌悪感とも言える悪感情は、言わば西郷の一方的なものであり、久光の立場からしてみれば、それは一種逆恨みと取られても仕方のないことだったと思います。

 前回書きましたが、久光にとっては、西郷に感謝されこそすれ、恨まれる理由は何一つありません。
 久光としては、先君・斉彬が寵愛し、国事に奔走した西郷を召還し、彼の力を得ることで、自らが計画した率兵上京計画を円滑に進めようと考えていたのです。そのためにわざわざ西郷を奄美大島から呼び寄せたにもかかわらず、西郷からいきなり噛みつかれるような反抗的な態度を示されたのですから、久光にとっては心外のことであり、大いに気分を害したことでしょう。
 西郷は、対人関係という観点から言えば、一種「潔癖症」とも言えるくらい、非常に神経質な人物です。また、西郷は性格的にも少し頑固な部分もあります。
 西郷の中にあった久光への生理的な嫌悪感が、日置派更迭をきっかけにして、不満が爆発し、久光やそのブレーンたちに対する悪感情に繋がったと考えるのが妥当だと思います。

 確かに、西郷がこの辺りの顛末を詳細に記した、文久2(1862)年7月の木場伝内宛ての書簡を読めば、西郷が鹿児島に帰還した当時の久光の率兵上京計画については、まだまだ不備が多く、不完全なものであり、計画が粗かった一面もあったと言えますが、奄美大島から帰還後の西郷の言動を考えると、西郷は率兵上京計画の内容に無理があると考え、それに反対したというよりも、感情的な部分(つまり久光内閣への不信感や悪感情)が先に立って、計画に反対したと解釈されても仕方のないことだという風に感じています。
 西郷とて一人の人間です。感情的なしこりが全く無かったという解釈は無理があると思いますし、鹿児島帰還後の西郷の言動は、少し感情的になっているように私には感じられます。

 少し西郷に批判的なことを書きましたが、私は西郷が好きだからこそ、西郷の褒め称えるべき部分は大いに称賛し、疑問がある部分は大いに批判するなどして、その両面をはっきりと書いていくことこそが、真の西郷評価に繋がるものと信じていますので、ご了承ください。

 私の感想を述べるならば、この時点での西郷は、人間的にも未完成、まだまだ若かったと思わざるを得ません。当時、西郷は三十代半ばですが、まだ一人の志士としての気概や気負いが抜けていない状況と言いますか、まだまだ荒々しい部分が残る人物だったと思います。
 ただ、それは西郷一人に限ったことではなく、人間としては当たり前のことです。人間は年を重ねる毎に成長してこそ人間なのであり、最初から完璧な人間など居るはずがないのですから。
 西郷のこのような態度は、奄美大島において三年にも渡る長期の潜居生活を経験したことが一つの要因になっているかと思いますが、彼が人間的にも深みを増し、研ぎ澄まされて円熟期に入り、一種達観した考えや極地に到達するのは、徳之島・沖永良部島への遠島を経て後のことだと思います。

 また、話が大きくそれましたが、以上のように、様々な要素が入り交じり、西郷は久光に対して反抗的な態度を取るに到り、また、その西郷の態度に対して、久光は大きな不満を持ちました。
 初対面からしこりの残る出会いをした結果、その後、二人の関係は益々悪化し、西郷の命令違反(下関で久光の行列の到着を待てという命令を違反したこと)に激怒した久光は、西郷を遠島処分にし、そして、二人の関係はお互いが死ぬ瞬間まで相容れぬものとなりました。
 贔屓目に見ても、その最初の原因を作ったのは、やはり西郷であったと思いますが、そんな西郷自身も、それから延々と久光との関係が悪くなるとは夢にも思っていなかったことでしょう。
 それを考えると、一つの運命であったとは言え、二人の出会いはとても不幸なものであったと思います。


(5)に続く

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【2016/12/28 12:30】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 話はどんどん林真理子さんの原作『西郷どん』から大きくそれてしまいますが、これまで書いてきたとおり、西郷と久光は、険悪なムードの中、お互いに初めて顔を合わしたわけですが、西郷が抱いていた久光に対する嫌悪感は、西郷の一方的な思いであって、久光自身は西郷に対して何も悪いことはしていません。
 逆に、西郷は久光の許しを得て奄美大島から鹿児島本土に戻ってこられたわけですから、西郷にとって久光は、恨みの対象ではなく、恩人であるとも言えます。

 西郷が久光に対して嫌悪感を持つに到ったのは、ひとえに「お由羅騒動」と呼ばれる一連のお家騒動(島津家27代藩主・斉興の後継争いに起因したお家騒動。当時正室の子で世子であった斉彬を擁立する派と側室・由羅の方の子である久光を押す派が対立した)に起因すると思われますが、このお家騒動に関して言えば、当時藩主であった斉興と斉彬擁立派との対立であって、久光自身が自ら藩主になるために陰で何か動いていたと言うことはありません。この騒動に関してのみ言えば、久光は一種蚊帳の外に置かれていた状況で、傍観せざるを得ない立場でした。

 ただ、久光が藩内にこのような騒動が生じていることを全く知らなかったという伝承もありますが、さすがにそれはあり得ないでしょう。当時は切腹者や遠島者など多数の処罰者が出て、城下は少なからず騒然としていたでしょうから。
 しかしながら、久光がこの騒動の中心に居なかった(中心人物でなかった)ことは確かです。それを示すかのように、斉彬が藩主に就任してからも、斉彬と久光の仲は良好以上の関係でした。藩主の座を争った二人でしたが、それはあくまでも間接的なものであったため、お互いにわだかまりは全く無かったと言えます。おそらく西郷も、斉彬の口から久光が非常に頼もしき人物であるとの評価を耳にしていたのではないでしょうか。

 しかしながら、西郷自身の性格から考えると、やはり久光が斉興の側室・由羅の方の子供であったことが、大きなわだかまりとして残っており、そのことが、西郷が久光を生理的に受け付けられなかった大きな要因になっているような気がします。
 「お由羅騒動」は、若き日の西郷に多大な影響を与えました。西郷は同志への書簡の中で由羅の方を「奸女」とまで書いていますので(安政元(1854)年8月2日付け、福島矢三太宛書簡)、敵として考えていた由羅の方の子供である久光のことを生理的に受け付けられなかったのではないかと思います。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎し」の感覚ですね。

 ただ、その由羅の方の子供の久光が、西郷自らが神とも崇め奉った斉彬をまるで模倣するかのように、国事に参画しようとしたことが、西郷自身の感情を著しく悪化させたという論がありますが、この点は少し慎重に考える必要がありそうです。

 前々回に紹介しました、万延元(1860)年2月28日付けで、西郷が大久保正助他三名宛てに出した書簡、西郷が久光のことを「周公旦」になぞらえて褒め称えていることが書かれてある書簡ですが、この書簡の中で西郷は、

「主上確乎渉りなされ候との御事、何とも申し難く本朝の大幸と敬仰此の事に御座候」

 と、島津久光・忠義の父子が、斉彬の遺志を受け継いだことを「本朝の大幸」と手放しに喜んでいます。
 この書簡の記述から考えると、久光の国事乗り出し自体が、西郷の感情を悪化させたとは考えにくく、やはりその他の要因が複雑に交じり合った末、西郷が久光に悪感情を持つに到ったと解釈した方が良いと思います。

 以上のように、西郷と久光の関係を考えるにあたって、この辺りの状況判断は非常に難しいと言えます。
 つまり、西郷の書簡から見る久光像と西郷帰還後の久光への態度に大きな相違が生じているからです。


(4)に続く

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【2016/12/26 12:10】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 文久2(1862)年2月15日、西郷隆盛が島津久光に初めて拝謁した際、西郷が久光に対して、「地五郎(じごろ。田舎者の意味)」と言ったという逸話については、西郷関係書籍なら必ず記載のあるエピソードですが、その元となった元薩摩藩士の市来四郎が史談会で語った内容をそのまま引用して使用しているものが少ないと思いますので、これを機会にその箇所を全文抜粋してみたいと思います。
 明治26年10月16日に開かれた史談会の席上で、市来は次のように語り遺しています。


それから久光公は西郷に仰しゃるには、昨晩中山などと議論が合わなかったようだが、其方の論を腹蔵なく聞きたいと御仰ったようです。
西郷上申するには左様でござりました、少し暴言も申しましたと云った。
それは大略聞いたが繰り返して昨晩の大要を聞きたいと仰った所に、左様なら申上げましょうと云って第一に云うには、拙者は斉彬公の如くではなく地五郎だからひょっと出て、天下大小名を駕御することは出来ないという論であった。
其の所は西郷だけ明白に憚らず云ったと御話しでござりました。
(原書房『史談会速記録 合本四』第十九輯より抜粋)
(読みやすくするため、旧字や改行などは筆者が改変しました)



 確かに、市来の語るところでは、久光は「西郷だけ(に)明白に憚らず(地五郎と)云った」と話していたとなっていますが、この証言の前段に、久光が「昨晩中山などと議論が合わなかったようだが、其方の論を腹蔵なく聞きたい」と言い、西郷が「左様でござりました、少し暴言も申しました」と返し、さらに久光が「それは大略聞いたが繰り返して昨晩の大要を聞きたい」と言った部分が、この「地五郎発言」の重要な肝になるのではないかと私は考えています。

 もう少し具体的に言うと、西郷が久光に初めて拝謁した前日の晩に(実際は2日前の文久2(1862)年2月13日のことだと考えられますが)、西郷が「暴言も申しました」と久光に言った部分です。
 つまり、私が考えるに、西郷の「地五郎発言」は、西郷が久光に対して面と向かってそう言ったのではなく、西郷が久光と初めて拝謁した日の2日前、2月13日に、西郷が久光の腹心であった小松帯刀、中山尚之介、大久保一蔵ら三人と話し合いをもった席上で出た言葉だったのではないかということです。

 久光は、西郷と会う前に中山からその時の顛末を事前に聞いていたため、西郷と初めて会った際、「昨晩中山などと議論が合わなかったようだが、其方の論を腹蔵なく聞きたい」と言ったわけですが、その際に久光が、

「その方、わしを地五郎だと申したそうじゃな」

 というようなことを、久光は西郷に向かって言ったのではないでしょうか。
 そして、その久光の言葉を受けた西郷が、

「恐れ入りつかまつりもす。誠に失礼ではございもしたが、そのように申しあげもした」

 という感じで、西郷が久光に返答したのではないでしょうか。
 つまり、西郷が自発的に久光に対して「地五郎」と言ったのではなく、久光がその前の発言を持ち出す形で、西郷に確認する、一種仕向けるような形でそう言ったのではないかと推測しているのです。

 ただ、これはあくまでも私の推測であり、そのことを裏付ける証拠は全くありません。
 しかしながら、

 1.この逸話を語ったのが、久光本人ではなく、西郷嫌いで有名な市来であること。
 2.久光が二日前の出来事を前日の晩と記憶違いしているなど、この談話は正確性に欠ける部分があること。


 など、この市来の談話には少し懐疑的な部分もあるため、市来が語った内容をそのまま額面通りに受け取るのはいかがなものかと考えています。
 平たく言えば、市来によって、話が盛られている可能性があるということです。

 薩摩藩研究史の大家で、薩摩藩関連の膨大な研究論文を書き遺された芳即正氏は、「西郷隆盛と島津久光」(西郷南洲顕彰会発行『敬天愛人誌』第6号所収)の中で、

「私もこの時西郷が初めて会見した国父久光に、軽蔑の意を込めてこんな表現をしたとはどうしても思えない」

 とお書きになられていますが、私も同感です。
 いかに西郷と言えども、言わば君主であった久光に対して、面と向かって「地五郎(田舎者)」と言ったとは、私にはどうしても考えづらいのです。


(3)に続く

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【2016/12/21 12:10】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 先日、2018年NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』の原作、林真理子さんの『西郷どん』(月刊「本の旅人」(角川書店発行)に連載中)の第11回を読み終えました。

 前回の第10回は、西郷に本土・鹿児島から召喚状が届くところで話は終わっていましたが、今回の第11回は、アッと言う間に月日は進み、西郷が徳之島に遠島となったことを奄美大島に居る愛加那が知るところから話は始まります。
 やはり、この小説は西郷隆盛の生涯をダイジェスト的に描いていますね。
 鹿児島出身の歴史作家で、西郷関係の小説や史伝を数多く書き遺した海音寺潮五郎氏が、西郷の生涯を全て小説の形式で描くのは無理があると考え、史伝での執筆に切り替えたことは有名な話ですが、やはり西郷の全生涯を事細かに小説で描き切るのは、かなり難しいことだと思います。
 おそらく林さんもそのように考え、西郷の人間性にスポットを当て、女性目線からの西郷像を描こうと思われたのでしょう。そうしたスタンスは、作中に色濃く表れていると感じています。

 さて、第11回では、西郷が奄美大島から鹿児島本土へと戻り、再び徳之島に流されるまでの出来事を西郷自身が徳之島に訪ねてきた愛加那に対して語るという形で描かれています。
 独白ではありませんが、それに近い形で、西郷が愛加那に対して、流刑となった経緯を説明します。

 いわゆる久光の率兵上京計画を巡っての「久光との確執」、「大久保との心中(刺し違い)未遂」、そして「寺田屋事件」の経緯が西郷の口から語られるわけですが、基本的にこれまでの西郷伝と変わりのない解釈で描かれています。
 ただ、西郷が久光のことを必要以上にケチョンケチョンにけなしています(苦笑)。「少しけなし過ぎなのでは?」と思うほど、作中における西郷の久光評は非常に手厳しいです。何せ、久光のことを「らっきょうのような顔の小男」とまで罵っていますからね……。ちょっとやり過ぎなのではないでしょうか。

 確かに、西郷は久光のことを好意的に思っていなかったことは事実だと思いますが、少し異なった観点から見てみると、例えば、万延元(1860)年2月28日付けで、西郷が大久保正助他三名宛てに出した書簡の中で、西郷は久光のことを「周公旦の御忠胆実に感佩奉り候」と書いており、中国・周王朝建国の功臣であった周公旦になぞらえて賞賛しています。
 これは一般に伝えられているような西郷の久光に対する悪感情からかけ離れた書きぶりであると言えます。
 周公旦は中国の歴史上においても賢人として崇められている人物です。西郷は久光のことをそんな人物と比べて、褒め称えているわけですから。

 この記述だけを見れば、西郷は久光に対して悪感情を持っていなかったとも判断可能ですが、ただ、鹿児島に帰還後の西郷の言動を考え合わせると、やはり西郷は久光に対して一種冷めた目で見ていたことは確かだと思います。
 例の「地五郎(じごろ)発言」(西郷が久光に対し、面と向かって「地五郎(田舎者の意味)」と言ったこと)と言い、久光の率兵上京計画を真っ向から否定したことから考えても、そう判断するのが妥当のような気がします。

 ただ、私自身の解釈では、もう15年以上も前の「テーマ随筆」でも書きましたが、西郷が久光に面と向かって「地五郎」と言ったとは到底思えないのです。
 確かに久光の家臣であった元薩摩藩士の市来四郎は、久光からそう聞いたと語り残していますが(『史談会速記録』第十九輯)、その証言自体がだいぶ後年のことであることと西郷と久光の関係が悪かったを踏まえての発言ですので、私は事実が少し捻じ曲げられているような気がしています。


(2)に続く

【2016/12/16 13:20】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 最近続いていますが、2018年NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』の話です。
 原作の林真理子さんの『西郷どん』(月刊「本の旅人」(角川書店発行)に連載中)を第9回から読み始めたのですが、先日その第10回目を読みました。

 第10回は、第9回に引き続き、西郷隆盛が奄美大島に潜居中だった頃の話です。
 愛加那を妻として迎えた西郷に、待望の男子・菊次郎が誕生し、幸せな生活を続ける二人の交流を中心に物語は進みます。
 また、砂糖きび生産のノルマを達成できなかった農民たちを西郷が救済する有名なエピソードも描かれており、西郷の奄美での暮らしぶりが、上手く凝縮されて描かれているように感じました。
 物語の後半には、西郷に召還命令が届きます。愛加那との別れが近いですね。

 林さんの『西郷どん』を読んでいて思うのは、作中の登場人物のセリフが、薩摩弁あるいは奄美弁で書かれているので、私は好きです。
 林さん自身がかなり勉強されたのか、それともセリフを薩摩弁等に直す方が他にいるのかは定かでありませんが、作中で使われている奄美弁は、読んでいてとても耳触りが良く、南国情緒溢れる雰囲気を一層際立たせ、大変効果的に使われているように思います。
 西郷関係の小説でも、セリフが標準語で書かれているものを多々見受けますが、私個人の意見としては、標準語を使うと、物語の情緒を損なうような気がします。
 小説にとってセリフというものは、物語の雰囲気を決定づける、とても大事な要素だと思いますので。
 もちろん完全なる薩摩弁で書いて欲しいとまでは言いませんが(そうなると、今度は理解不能になるでしょうから^^;)、語尾くらいは変化させ、多少なりとも薩摩弁らしくして欲しいな、と思います。
 その点から言えば、『西郷どん』はとても好感度が高い小説だと感じています。

 ただ、この連載は何回まで続くのでしょうか。
 最近見たネットニュースによると、連載は半分くらいまで進んでいるとありましたので、この時点で半分となりますと、やはり西郷の全生涯を描くのではなく、かなり絞らざるを得なくなりますね。
 やはり、女性の目から見た西郷の人間性を中心に、物語が構成されるのでしょう。

 昨今、先日の脚本家・中園さんの発言(大河ドラマ内でBL(ボーイズラブ)を描く)や西郷と篤姫の恋愛を描く云々の話から、物語の構成自体に懐疑的な意見が多々出ていますが、とにかく実際に映像を見るまでは、温かい目で見守りましょう。
 私自身も「?」が付く部分が正直ありましたが、とにかく今は温かい目で見るように心がけたいと思います。
 折角一年間を通して西郷隆盛、そして薩摩藩にスポットが当たるのですから、始まる前に水を差すことは止めようと、私自身そう考え直しました。
 ですが……、実際始まってめちゃくちゃな話でしたら、遠慮なく批判したいと思います(笑)。

 さて、話を原作『西郷どん』に戻しますが、第10回で私が少し気になったのは、西郷が大久保のことを「一どん(大久保一蔵)」と呼んでいることです。
 大老井伊直弼が江戸城桜田門外で白昼堂々暗殺されたことを西郷が知る場面で、大久保のことをそう呼んでいるのですが、時期は万延元(1860)年のことです。大久保は、この時はまだ「一蔵(いちぞう)」ではなく、「正助(しょうすけ)」と名乗っていましたので、厳密に言えば、「正どん」か「正助どん」の方が正しいですね。

 では、大久保がいつ「正助」から「一蔵」に改名したのか?

 そのことについて、私はこれまで余り深く考えたことがありませんでしたので、これを機会に少し調べてみました。
 次回のブログで、そのことについて書いてみたいと思います。

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【2016/11/22 12:45】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 またまた2018年のNHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』の話題ですが、脚本家の中園ミホさんが、BL(ボーイズラブ)、いわゆる男性同士の愛を描く可能性を示唆したとやらで話題になっていますね。

『西郷どん』脚本・中園ミホさん、BL要素も描く可能性を示唆
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161103-00000031-sanspo-ent

 BL=薩摩の衆道(いわゆる男色)のことを言っているのかどうかは定かでありませんが、好意的に考えれば、おそらく誠忠組(精忠組)の同志間の結束と言うのでしょうか、友情とでも言うのでしょうか、そういった男同士の熱い心の通い合いのような要素を色濃くするような気がしているのですが、果たしてどうでしょうか?

 林真理子さんの原作『西郷どん!』については、つい最近第9回を読んだところなのですが、この回は奄美大島での愛加那との出会いと結婚に至るまでの話でした。
 最後にはキスシーンが盛り込まれるなど、多分に恋愛の要素が色濃く入っていましたので、今回の大河は、重厚な歴史物語を期待するのは少し難しいかもしれませんね。
 篤姫との恋愛と言い、今回のBLの件と言い、「東京ラブストーリー」ならぬ「薩摩ラブストーリー」みたいな形になるのかも?

 と、冗談はさて置き、また、伏線なのか、敢えて西郷が嘘をついているのかどうかは定かでありませんが、第9回の中で西郷が、

「おいは、まだ女を知らん」

 と、結婚初夜の愛加那に告白する場面があるのですが、「お前、一度結婚した経験あるやろ!」と、思わず通勤電車の中で小声を出して突っ込みました(笑)。
 何なんでしょうね? これって。第10回で真相が暴露され、愛加那がショックを受けることになるのですかね?
 第10回は既に届いているので、すぐに読みたいと思います。

 また、中園さんは「アクションシーンもあるのでお楽しみに」とも言ったそうですが、西郷のアクションシーンというのは何を指しているのでしょうか? これも謎です。
 まだ始まっていないので断定は出来ませんが、今回の大河は少し毛色が違うものになりそうですね。
 恋愛やアクションシーンがふんだんに盛り込まれた、韓流歴史ドラマみたいになるのでしょうか?

 中園さんが脚本を書いた朝ドラ『花子とアン』については私も毎日欠かさず見ていましたが、花子の終生の友である柳原白蓮の義母、つまり夫・宮崎龍介の母である槌の描き方に、私はかなり違和感を持ちましたので、少し心配ではあります。
 ドラマの中では、槌のことをいわゆる嫌な姑として描かれていましたが、宮崎滔天、いわゆる龍介の父であり、槌の夫ですが、彼は中国から逃れてきた革命家の孫文を全面的に支援するなど、全く家庭を顧みない、日本と中国を駆け回るような放蕩な生活を送った人物だったのですが、その留守をしっかりと守ったのが槌であり、実は大変立派な女性だったのです。
 それがあの描き方ですからね。ドラマですから話を面白くしようとしたのかもしれませんが、私はかなりの違和感を感じました。

 色々と心配な要素は多々ありますが、それでも一年間、西郷隆盛にスポットが当たるのは大変嬉しいことですので、今は温かい目で見守りたいですね。

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【2016/11/04 12:30】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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miyukichi
こんにちは!西郷の遣韓論からコチラに来たました。
脚本の中園さん「語り合った者は皆、西郷に惚れた。一体どんな魅力だったのか!?」と書かれてましたが大河西郷どんどうなるでしょうね。
私は大河は見ませんが父が毎回見ていて、今度の西郷どんにBL要素があると伝えたところ、またいらんことするな最近はチャラチャラした大河ばかりで面白くないと言ってました。

西郷隆盛の実像・下竹原弘を読んでますが、黒田清網が西郷さん訪ねたら「朝鮮の事は心配は要らぬ。帰りにはロシヤに回って同盟を締結してくる」と答えていて、西郷さんのロマンを感じます。
勝海舟が言う竜馬さんが及ばないという西郷さんの大胆識と大誠意とはいったいどんなところなのか、もし今度の大河ドラマで知ることができるなら見てみたいと思ってます。

ほんとどうなるのでしょう?
tsubu
miyukichiさん
初めまして、こんにちは。
「敬天愛人」管理人のtsubuです。
この度はメッセージを書き込んで頂きまして、ありがとう
ございました!

ほんとどうなるのでしょうね、今度の大河。。。
私も心配しているのですが、先日ブログで「温かく見守り
ましょう」と言った手前、批判的なことを書くのがためら
われるのですが、先日、最新の原作を読んで、またもや
心配になってきました。

最近の大河は、確かにお父様のおっしゃるとおり、イケメン
・イケジョが盛りだくさんで、チャラチャラしております
からね(^^;
韓流歴史ドラマのようにフィクションを前提にして作るの
ならまだ許せるのですが、NHKは中途半端に本格的な歴史
ドラマを標榜するので、逆に面白くなくなっているような
気がします。

西郷の大胆識と大誠意……。
何だか今度の大河では望めない気がしますね(^^;


miyukichi
tsubu様お返事ありがとうございます!
私の文、読み返すと誤字脱字だらけで失礼しました。下竹原弘志さんの名前間違えてしまってました(汗)
この本ではたくさんの当時の人が西郷さんを語ってますが、高橋新吉のページでは西郷さんと会うと「直接自分の真心を人の肺腑に置いて、情と理が一緒にせまって来て」と書かれていて、いったいどんな人なんだろう!と、文字だけでは雲をつかむようだし、映像で知りたいという思いもありました。現代の俳優が演じてどこまでこの西郷さんを表現できるだろうと。
でもtsubu様は原作を読んで心配になられたということですね。。。演技うんぬんより以前のことでしょうか。う〜ん。

子供の頃は父の解説を聞きながら父の横で大河を見ていました。内容は忘れてしまったけど歴史の事など色々聞くと教えてくれて、その情景は良い思い出です。私にとっては父の解説ありきの大河ドラマ。役者さんの演技もうなるような演技で、見終わった後の父もごきげんになるようなものでした。
今年の大河は人気あるらしいね、どう?と聞くと、嘘ばかりで軽いけど仕方ないと寂しそうでした。今の時代はどうしてそうなっちゃったんですかね。
大河は父が「良いよ」と言うかどうか反応がいつも気になります。西郷どんについても始まったら是非こちらでも解説をうかがいたいです。

今は待つしかないですよね
tsubu
miyukichiさん、こんにちは。

コメントありがとうございます。
誤字脱字なんて気になさらないでください。
私なんかもしょっちゅうありますので(笑)。

高橋新吉の西郷評ですが、それに相通じるものとして、元中津藩士の増田宗太郎は、西郷のことを「一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず」という言葉で表現しています。
西郷は、やはり直接会って話をしないとその良さが分からない(体感できない)人物なんでしょうね。

日本人にとって大河ドラマというものは、大変親しみ深く、そして時代劇における頂点のようなものですので、最近の大河ドラマの軽さは正直目に余るものがあります。
おそらく俳優も小粒になってしまったのも原因なのでしょうね。

大河ドラマ『西郷どん』が始まるまでかなりの日数がありますが、今は素晴らしい作品となることを願うしかありませんね。

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 2018年のNHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』ですが、主役の西郷隆盛役に、どうやら俳優の鈴木亮平さんが決まったようですね。
 脚本が朝ドラ『花子とアン』を書いた中園ミホさんなので、以前のブログにも書きましたが、花子の夫を好演した鈴木亮平さんが選ばれたのも納得です。
 私の予想では、鈴木さんは「▲(単穴)」でしたので、まあ一応は的中としておきましょう(^^)


18年大河「西郷どん」主演は鈴木亮平 中園ミホさんとタッグ再び(yahooニュース)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161031-00000079-spnannex-ent


 また、鈴木さんが西郷に決まったということは、朝ドラで花子を演じた吉高由里子さんが再び妻(イト夫人)を演じる可能性も現実味を帯びてきました。
 果たして、どうなるでしょうか?

 また、大久保利通役についてですが、鈴木さんは身長186㎝もあるようですので、釣り合いがとれる俳優となると、かなり限定されてきたような気がします。
 私は以前のブログで下記のとおり予想しましたが、

 本命◎:伊勢谷友介さん(180㎝)
 対抗○:鈴木亮平さん
 単穴▲:森山未來さん(172㎝)
 連下△:柄本 佑さん(182㎝)
 大穴 :ディーン・フジオカさん(180㎝)


 森山未來さんは完全にアウトですし、伊勢谷さん、ディーン・フジオカさんでも6㎝違ってきますから、どうでしょうか?

 そうなると、以前に予想したメンバーから言えば、斎藤 工さん(184㎝)、柄本 佑さん(182センチ)あたりの可能性もあるような気がします。
 特に、斎藤 工さんは、過去に大河ドラマの出演経験もあるので(江〜姫たちの戦国〜、八重の桜)、最近の「イケメン大河」から考えると、可能性はあるかと思います。(大久保役にしては線が細いと思いますが……)

 また、背が高く、以前に大河ドラマに出演経験がある若手俳優で絞れば、

 青木崇高さん(185㎝)
 速水もこみちさん(186㎝)
 要 潤さん(185㎝)
 小栗 旬さん(184㎝)
 松坂桃李(183㎝)
 向井理(182㎝)

 くらいかな、と思いますが、この中でも青木崇高さんは大久保役が似合いそうな気がしますね。

 と、言う訳で、再度、大久保役を予想し直しました。

 本命◎:青木崇高さん
 対抗○:斎藤 工さん
 単穴▲:柄本 佑さん
 連下△:要 潤さん、速水もこみちさん


 結果を楽しみに待ちたいと思います(^^)

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【2016/10/31 18:30】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 先日、2018年NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』の西郷隆盛役を誰がするか? という予想を立てましたが、やはり大久保利通役も予想しておかないと不公平になりますので、今回は大久保編を書きたいと思います。
 ざっとですが、思いついたところを挙げると、

伊勢谷友介
谷原章介
大沢たかお
西島秀俊
浅野忠信
森山未來
玉木 宏
佐々木蔵之介
鈴木亮平
斎藤 工
柄本 佑


 以上のような感じになりましたが、いかがでしょうか? 少しイケメンが多すぎるかもしれませんが(^^;
 私的には、大久保は伊勢谷友介さんがすごく似合いそうなので、伊勢谷さんを本命◎としたいところなのですが、西郷役を誰が演じるかでバランスを取る必要が出てくるでしょうから、なかなか難しいところです。
 取りあえず、私の希望を入れて予想しますと、次のような感じです。

 本命◎:伊勢谷友介さん
 対抗○:鈴木亮平さん
 単穴▲:森山未來さん
 連下△:柄本 佑さん
 大穴 :ディーン・フジオカ


 西郷と違い、大久保役の方は配役しやすいと思いますし、顔つきが精悍で体型も細いタイプがピッタリだと思いますが、果たして誰になるでしょうか?

 また、ふと思ったのですが、島津斉彬役については、朝ドラ繋がりで、『あさが来た』で主人公・あさの父親役を演じた升 毅さんか、『花子とアン』で柳原白蓮の夫を演じた吉田鋼太郎さんのどちらかがやりそうな気がします。
 根拠も無く、全くの勘ですが、両者とも割としっくり来るのではないかと。

 あと、大河ドラマについては、必ず舞台となった場所の出身俳優が何人か登場することがお決まりです。
 例えば、これまで薩摩藩が舞台となった大河ドラマを見ても、

1990年『翔ぶが如く』
坂上二郎(西郷吉兵衛)、草野大悟(第一部はナレーター、第二部は海老原穆)、
国生さゆり(西郷清)、西田聖志郎(篠原国幹)

2008年『篤姫』
沢村一樹(小松清猷)、山口祐一郎(島津久光)、稲森いずみ(滝山)、
榎木孝明(肝付兼善)、西田聖志郎(板倉勝静)


 と、たくさんの鹿児島出身者が出演されています。

 私の個人的な希望を言いますと、島津久光は是非榎木孝明さんにやって欲しいです。イメージにピッタリ合うような気がします。
 また、哀川 翔さん、小西真奈美さん、はしのえみさん、この辺りも配役されるのでは? と勝手に予想しています。

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【2016/09/20 18:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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