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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます     (大河ドラマ『西郷どん』の解説も是非お読みください)
その1の前置きが随分と長くなってしまいました(^^;

前回の続きですが、延岡藩には胤康という僧がいて、宮崎の幕末・維新史にその名を残しているのですが、その存在は一般には余り知られていません。
しかしながら、前回少し触れましたが、胤康の思想の影響を受けた小河一敏以下岡藩の人々が、「寺田屋事件」という、幕末史上の大きな事件に関わることになるのです。
一地方の在野にいた人物が、こういった大きな影響を与えることになるのですから、歴史というものはほんと面白いですよね。

さて、胤康が住職(正式には看主です)を務めていた慈眼寺(慈眼禅寺)は、今も現存しており、その境内には「胤康禅師史料館」が建てられ、胤康関連の数多くの遺品や資料を見学することが出来ます。

宮崎市の中心部から延岡市までは、今では東九州自動車道の開通により、高速を使えば1時間半程度で行くことが出来ます。
ほんと便利になりましたよね。
昔は国道10号線をひたすら北上するしかなかったので、宮崎県内の北と南を結ぶ交通インフラは、かなり良くなったのではないかと思います。
九州は新幹線と言い、高速道路と言い、西側ばかりがひらけている状況で、東側の宮崎・大分は寂れる一方なので、せめて交通面だけでも、分け隔て無く整備して欲しいと願うばかりです。

さて、慈眼禅寺がある延岡市北方(きたかた)という町は、延岡市の西方、山間部に入ったところにありますが、別名「干支の町」と言われています。
住所表記が干支、つまり「ネ(子)、ウ(牛)、ト(虎)~」といったような干支の呼び名で表記されている、全国的にも珍しい町なのです。
例えば、慈眼禅寺は、宮崎県延岡市北方町曽木子(ね)という場所にあります。
面白いですよね。

慈眼禅寺には事前に見学の電話予約を入れていたので、住職の奥様に対応して頂き、「胤康禅師史料館」と境内を見学しました。
史料館内には所狭しと胤康関連の資料が展示されています。
胤康直筆の日記や遺墨、愛用していた印章や木剣、また関連した人物の略歴の説明板など、館内はたくさんの胤康関連資料で溢れていますが、その中でも特に私の目をひいたのは、正式名称が出てこないですが、背中に背負う背負子(しょいこ)のような、現代で言うところのリュックサックと呼べるものでしょうか。
驚く無かれ、それは木製で、見た目はちょっとした小さな家具です。
高さは1.5メートルくらいはあるでしょうか、簡単に言えば小さな木製の仏壇か靴箱のようなものを背中に背負い、胤康は各地を旅していたのです。
おそらくその中には、経文や書籍、日用雑貨などを入れていたのでしょうね。
そんな大きなものを背負いながら、北方から豊後岡へと続く険しい山道を歩いて行ったのですから、ほんと昔の人の健脚ぶりには驚かされます。

また、慈眼禅寺の境内には、胤康の業績を讃える大きな顕彰碑や記念碑が建てられています。
顕彰碑は、小河一敏の撰文です。
胤康にとって、小河は最大の理解者であり、また一番の同志とも言える存在でした。
小河が胤康の顕彰碑の撰文を行ったのもうなずけますね。
ちなみに、小河は西郷隆盛とも親交が深かった人物ですから、もしかすると小河の口から胤康のことが、西郷に伝わっていたやもしれません。
記念碑の方は内藤政挙(最後の延岡藩主)の筆です。
前回書きましたが、胤康を捕縛したのは、政挙の前の代の政義の時のことですので、政挙は直接関与していないのですが、それでもわざわざ筆を取ったのは、その罪滅ぼしを兼ねてかもしれません。

胤康を目的として、慈眼禅寺を訪れる人は今では少ないそうですが、このような気骨溢れる人物が延岡の山間部に小さな居を持ち、そして大きな幕末・維新史に足跡を残したことを改めてその目で実感できる場所であると思います。
宮崎、そして延岡に行かれた際には、是非立ち寄って頂きたいですね。

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胤康禅師史料館

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顕彰碑

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記念碑


【2014/08/29 12:08】 | 史跡巡り
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久しぶりのブログ更新です。

7月のことですが、宮崎に行き(と言うか、もう「帰り」ですね・笑)、色々と幕末関係の史跡巡りをしてきましたので、その時の話を何回かに分けて書きたいと思います。

まず、最初は、宮崎県の北方、延岡市北方町の曽木にある慈眼禅寺のことです。

宮崎という土地は、数々の神話が残る歴史的にも非常に古いところですが、幕末・維新史に関して言えば、特に目立った動きなどもなく、歴史的にはほとんど登場しないと言っても過言ではありません。
周囲の鹿児島や熊本といった場所に比べても、やはり地味な存在に扱われがちですが、ただ、幕末期に宮崎という土地が中央政局にほとんど登場・関係しなかったのは、ひとえにそこに大藩が無かったことが大きいと言えるでしょう。
南北に長く、そして広い宮崎の土地は、江戸時代、天領や小藩に分断されており、まとまって大きな力を発揮することがありませんでした。
例えば、現在の宮崎県内に存在した藩を挙げると以下のとおりです。

伊東家・飫肥藩5万1千石
島津家・佐土原藩2万7千石
秋月家・高鍋藩2万7千石
内藤家・延岡藩7万石

他にも現在の宮崎県内の一部が薩摩藩の領地になっていましたが、このように10万石にも満たない小藩分立の状態が、中央政界に大きな力を発し得なかった大きな原因になっているかと思います。

ただ、細かい部分を見ていけば、例え小藩であったとしても、当然幕末という動乱の時期があり、そこをいかに乗り切るかを苦慮した歴史があるわけです。
一言に幕末・維新史と言っても、諸藩にある小さな歴史の積み重ねにより、形成されているものだと言えましょう。
また、こういった小さな歴史を調べるのが、実は面白いんですよね。
地方に隠されている小さな事象が、実は大きな歴史的大事件へと発展するというような例も数多くありますので。
その点から言うならば、郷土史というものは大切にしていかなければなりませんね。

と、少々前置きが長くなりましたが、最初に紹介した慈眼禅寺も、その大きな幕末・維新史の中の小さな1コマを彩る存在として登場します。

幕末期、この慈眼禅寺(当時は慈眼寺)に胤康(いんこう)という僧がいました。
胤康は、文政4(1821)年、武蔵国豊嶋郡赤塚村に生まれています。
今で言うところの東京都内で生まれたということです。
つまり、元々胤康と宮崎とは縁もゆかりも無かったのですが、故郷の赤塚村に松月院という寺院があり、そこの住職をしていた大隣天休を師と仰いで出家したことが、胤康と宮崎を結びつける大きなきっかけとなりました。
天保6(1835)年、大隣が延岡の慈眼寺へ住職として入ることになり、胤康はそれに付き従い、延岡に行くことになったからです。

宮崎に入った胤康は、その後延岡を拠点に熊本や長崎にも遊学し、兵学を中心に学び始めますが、その中で彼は徐々に勤王の志を深めていくことになります。
時は幕末に向かう導入期です。
諸外国の脅威が間近に迫り、世情が騒がしくなってきた時期でしたから、胤康もそんな中で独自の思想を身につけていくことになったのでしょう。

師匠の大隣が病に倒れた後、胤康は慈眼寺を継ぐことになりますが、そこから彼の活動は活発化します。
特に、隣藩とも呼べる豊後岡藩には頻繁に出入りし、そこで私塾を興して、岡藩の家臣達に勤王思想を説きました。
豊後の岡と言えば、「荒城の月」でお馴染みの滝廉太郎の故郷で、今や豊後の小京都と呼ばれる風情のある城下町です。
そこで胤康は、熱心に勤王思想を説くのですが、彼の思想に感化された岡藩士達の中には、後に「軍神」として崇められた広瀬武夫(日露戦争で戦死した軍人)の父・重武なんかもいます。
また、特に岡藩の重臣であった小河一敏とは、積極的に交わりを持ち、交流を深めました。

後のことになりますが、文久2(1862)年、薩摩藩の島津久光が兵を率いて上京する計画を立てた際、小河は藩をあげてこれを機に倒幕運動に入ろうと画策した経歴の持ち主です。
結局、その計画は薩摩藩士同士が相討つことになった「寺田屋事件」で未遂に終わってしまいますが、胤康の思想が小河に与えた影響というものは非常に大きかったと思います。

このように胤康は豊後岡藩の勤王化に一役買ったのですが、彼が自藩の延岡藩ではなく、豊後岡藩に積極的に介入しようとしたのは、当時の延岡藩の複雑な事情に起因していると言えましょう。
延岡藩の七代藩主・内藤政義は、彦根藩・井伊家の出身で、あの大老・井伊直弼の実弟であったからです。
そのため、延岡藩は思想的に分類すれば「佐幕(幕府擁護側)」であり、胤康の思想を受入れる余地は無かったのです。

結局、胤康は、延岡藩からその急進的な思想を咎められ、藩に捕縛され、元治2(1865)年、京都町奉行所へ引き渡されることになります。
延岡藩としては、胤康の存在を持て余したというのが実情ではないでしょうか。
そして、胤康は明治維新を迎えることなく、慶応2(1866)年に京都で獄死するのです。

(その2に続く)


【2014/08/26 15:07】 | 史跡巡り
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