西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
今回は「番外編」として、少し旅のグルメの話を(^^)

宮崎という場所は、鰻の一大生産地であるのをご存じでしょうか?
平成25年度の統計によると、養殖鰻の生産量は、一位が鹿児島、二位が愛知、そして三位が宮崎です。
宮崎と鰻って、なかなか結びつかないとは思いますが、宮崎では鯉や鰻などの川魚を出す料理屋が結構多いんですよね。

と、言うわけで、宮崎県内には鰻の養殖場や鰻料理を出すお店が多いのですが、私は宮崎に帰ると必ず鰻を食べに行くと言って良いくらい、大の鰻好きです(^^)
そう言えば、西郷隆盛も大の鰻好きだったと伝えられていますね。
最近は鰻の稚魚が取れなくなったため、鰻自体の値段が高騰する傾向にあります。(先日の報道によると、鰻の稚魚の漁獲量を制限する方向で進んでいるとか)
東京や大阪なんかで鰻重なんか食べた折には、それこそ3千円から5千円くらい、結構なお金がかかったりしますが、その点、宮崎では割と手頃な価格で食べることが出来ます。

宮崎の鰻ですが、焼き方は大阪と同じく腹開きで蒸さずに焼くものが多いのですが、少しだけ異なることがあります。
それは鰻に付けられる汁物(椀物)です。
鰻の汁物と言えば、「肝吸い」とくるのが普通ですが、宮崎では肝吸いが付いてくるお店は、ほぼありません。
宮崎の定番は、肝吸いではなく、「呉汁」と呼ばれている味噌汁なのです。
「呉汁」は、大豆を水に浸してすり潰したものに味噌を加えて作る味噌汁のことですが、宮崎で鰻と言えば呉汁が定番なんですよね。
これがまた美味しいのです(^^)
では、肝はどうなるの? と思われる方がいるかもしれませんが、宮崎ではだいたいが「肝焼き」として、串に刺して食べることが多いです。
そうそう、鰻の白焼きを酢味噌につけて食べるのも、宮崎流と言えるかもしれませんね。

と、前置きが長くなりましたが、今回私が宮崎でチョイスしたお店は、

「うなぎ一福」

というお店です。
お店は宮崎神宮駅から徒歩で15分程度、場所的には車があった方が行きやすいかもしれませんが、旧国道10号線沿いにあります。

この「一福」、非常に手頃な値段で美味しい鰻がたくさん食べられます。
私は「うな丼(上)」(写真)を食べましたが、何とこれで2050円です!
鰻が一匹分入って2千円ちょっとと言うのは、今のご時世かなりお値打ちなのではないでしょうか。
他に白焼きや肝焼きなんかもついた定食も3千円いかないくらいですから、ほんと安いと思いますよ。
また、鰻自体もふっくらと焼けていて、とても美味しかったです(^^)

最後にもう一店、私のオススメのお店を紹介しますと、新富町にある

「うなぎの比恵島」

というお店です。
ここは市内からは離れていますので、車が無いと行きづらい場所にありますが、私がよく食べに行くお店です。
養鰻場直営のお店なので、ここでも割とリーズナブルに鰻を食べることが出来ます。
私はここのお店のご飯が好きなんですよね。
少し固めに炊いているのですが、香ばしく焼かれた鰻ととても良く合っています(^^)
「うなぎの比恵島」もオススメですよ!

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一福のうな丼(上)

【2014/09/19 08:34】 | グルメ・食べ歩き
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宮崎史跡巡りの旅の4回目です。
「榎田の関」を見た後、近くの「山椒茶屋」(宮崎では有名なそば屋さんです^^)で昼食をとり、近くの「木崎原(きさきばる)古戦場跡」に向かいました。

「木崎原の戦い」は、南九州の覇権を争う「関ヶ原の戦い」とも呼べる非常に重要な戦いで、元亀3(1572)年5月3日、日向国真幸院木崎原(現在の宮崎県えびの市)において、薩摩の島津家と日向を拠点に勢力を伸ばしていた伊東家が激突した戦いです。
先程「関ヶ原の戦い」と書きましたが、結果的には兵力少数であった島津側が圧倒的な兵数を誇っていた伊東家を打ち破ったため、九州の「桶狭間の合戦」とも言われることがあります。

恥ずかしながら、島津家の話とは言え、私は戦国時代には余り詳しくないため、まずは基礎的な知識を入れようと、「えびの市歴史民俗資料館」を訪れました。
さすがは地元の資料館ですね。館内には、「木崎原の戦い」に関する資料やビデオ上映などが豊富にあり、戦国時代ファンならずとも、なかなか見応えがあります。

少し話がそれますが、実はこの資料館で、西郷隆盛関連の大変珍しい資料を見つけました。

「南洲翁の足軽籠かつぎ飯炊き 西南役従軍 深江権太郎記」

というものなのですが、これがなかなか面白いのです。
資料館のご厚意により、内容をコピーさせて頂いたのですが、この資料は西南戦争において、西郷隆盛や桐野利秋といった薩軍幹部の身の回りの世話をしていた深江権太郎という人物の話を、えびの市に住む深江武夫という人物が聞き、それを書き留めたものなのです。
いわゆる回顧録のようなものですが、西郷の近辺にいた人物の話ですので、西南戦争中の西郷の言動などが詳しく書かれていて、非常に興味深いです。
この資料については、またいずれ機会を見つけて、ご紹介したいと考えています。

さて、「木崎原の戦い」のことですが、300名ほどの少数であった島津兵が、3000名とも伝えられる大多数の伊東兵を完膚無きまでに倒したのは、やはり島津の戦上手と言いましょうか、島津義弘の差配の力が大きかったと言えるかもしれませんね。
この辺りは私もなかなか判断がつかないところですが(詳しい方、是非ご教授下さい)、この戦いに島津家が勝利したことにより、伊東家は衰退の一途を辿り、そして島津家は三州統一という悲願に突き進むことになります。

資料館で一通りの基礎的知識を得た後、私は早速「木崎原古戦場跡」へと向かいました。
古戦場跡は見事と言う他ない、大きな杉の木(写真)が目印として立っているので、すぐに見つけることが出来ます。
古戦場跡には、「木崎原古戦場跡」と書かれた大きな石碑と島津義弘の歌碑、そして島津義弘が多くの戦死者のために建立した「六地蔵塔」があります。
薩摩の古戦場跡には、こういった地蔵塔がたくさんありますね。
これは戦が終わった後は、敵・味方隔てることなく、戦死者を弔う薩摩の士風からくるものです。
250年以上前には血なまぐさい戦が繰り広げられた場所も、今ではのどかな田園風景が広がっています。

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「木崎原古戦場跡」碑

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「島津義弘歌碑」

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古戦場跡にある大きな杉の木

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「六地蔵塔」

【2014/09/11 12:43】 | 史跡巡り
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宮崎史跡巡りの旅の3回目です。
今回ご紹介するのは、宮崎県に残る薩摩藩の関所跡です。

宮崎県の薩摩藩の関所と言えば、まず思い浮かべられるのが、「去川の関(さるかわのせき)」ではないかと思います。
現在の宮崎市高岡町は、今でこそ宮崎県内に編入されていますが、江戸期には薩摩藩領でした。
そのため、高岡には薩摩藩士が居住して麓を形成していたわけですが、その高岡領から日向へと抜ける高岡筋(日向筋)、いわゆる東目筋には大きな関所が設けられ、そこで入出国する人々を厳しく検査していました。
これが「去川の関」と呼ばれるものなのですが、今回ご紹介するのは、宮崎県えびの市にある「榎田の関」と呼ばれる関所です。

薩摩藩領から他国に出る街道(道筋)と言えば、大きく分けて3つありました。

鹿児島城下から伊集院、川内、出水を通って肥後・水俣に出る出水筋(いわゆる西目筋。小倉筋とも呼ばれる)。
加治木、横川、大口を通って肥後・水俣に出る大口筋。
福山、都城、高岡を通って日向に出る高岡筋(いわゆる東目筋。日向筋とも呼ばれる)。

この3つが主要な街道だったのですが、その他にもいくつか薩摩領内から他国に通じる街道がありました。
「榎田の関」はそんな街道の1つ、加久藤(現在のえびの市)から肥後・人吉に抜ける球磨街道に設置された関所です。

関所で言うならば、西目筋に設けられたのが、有名な「野間の関」です。
高山彦九郎が、「薩摩びと いかにやいかに 刈萱(かるかや)の 関もとざさぬ 世とは知らずや」と、薩摩への入出国の厳しさを歌に詠んだ、あの関所です。
そして、大口筋に設けられたのが「小川内の関」で、東目筋に設けられたのが、先程紹介した「去川の関」なのですが、私自身この3つの関所跡を訪れたことはありましたが、「榎田の関」にはこれまで一度も行ったことがなく、今回初めて宮崎市内から車を飛ばして見に行くことにしました。

宮崎市内から西方のえびの市へは、高速を使えば40分程度で行くことが出来ますが、今回は下道の国道268号線を通り、小林市を抜けてえびのに入るルートで向かいました。
えびの市は、「えびの高原」で有名ですね。
霧島屋久国立公園に位置するえびの高原(標高1200m)は、韓国岳や甑岳といった山々や不動池、六観音御池、白紫池などの火山湖が点在する、とても風光明媚なところです。
秋の行楽シーズンになると、登山を楽しむ人々や紅葉を見に行く観光客で大いに賑わいます。
そんなえびの市に、シーズンオフの夏に、そして史跡巡り目的で行ったのですから、私も変わっていると言えば、変わっています(笑)。

さて、私の目的であった「榎田の関」ですが、鬱蒼とした森の中にひっそりとその跡が残っているのですが、関所の門に使ったであろう石柱がそのまま残されていて、他の関所跡に比べると、十分に往時を想像できる景色を見ることが出来ます。

石柱には「求麻(球磨)口番所」(後年刻まれたものだと思います)と書かれており、ここが薩摩から球磨(人吉)に抜ける玄関口であったことが分かります。
関所の説明板によると、延宝3(1675)年に加久藤郷士15戸の次男・三男を牧ノ原に移住させ、二人ずつ一日交代で番所に勤務させたようですね。

薩摩藩への入出国はとても厳しく取り締まられ、先に紹介した高山彦九郎もその厳しさに閉口したわけですが、全国各地がそういった厳しい取り締まられ方をしていた訳ではないようです。
海音寺潮五郎がどこかに書いていたと記憶していますが、関所手形を持たない人が関所を通ろうとした時、よっぽど不審な人物でない限りは、「ならぬ、ならぬ」と口では言いながら、関所の役人が関所の外に押し出してくれたり、押し入れたりしてくれたことがあったようです。
昔も今も、役人というものは面倒なトラブルを避けたがるものなんでしょうね(笑)。

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「榎田の関」跡

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「求麻口番所」と刻まれた標柱

【2014/09/05 12:02】 | 史跡巡り
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