西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
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宮崎史跡巡りの旅の6回目です。
最後に紹介するのは、「島津寒天工場跡」です。

幕末の薩摩藩が500万両という多額の負債(借金)に苦しみ、財政難に陥っていたことは有名な話ですが、それを立て直したのが、茶坊主上がりの調所笑左衛門広郷という人物です。
調所は、当時大隠居であった島津家25代当主の重豪(しげひで)の庇護を受け、徹底的な財政改革を行い、積もりに積もった負債を全て整理したばかりか、多額の予備金を作ることに成功しました。
調所が生み出したそのお金が、28代当主・斉彬の藩政改革に使用され、ひいては薩摩藩の倒幕資金に使われたことは、非常に有名な話です。

ただ、薩摩藩が負債を全て整理した、つまり「借金を全て返した」と言うのは少し語弊があるかもしれません。
どちらかと言えば、「借金を踏み倒した」という方が適切な表現です。
大坂を中心とした商人達から多額の借金をしていた薩摩藩は、天保6(1835)年11月、「無利息250年賦払い」という、とてつもない悪条件を商人達に押しつけ、これまでの溜まりに溜まった負債の整理を行いました。
この薩摩藩の一方的な処置を受け、当時の大坂経済は一種の恐慌を起こしたそうです。
実際この踏み倒しを行ったのは、重豪や調所の意を受けた、大坂商人の出雲屋孫兵衛こと、後に薩摩藩士となる浜村孫兵衛なのですが、彼はそのことの咎を受け、幕府から「大坂三郷所払い」という処分を受けました。
いわゆる大坂の町から追放されたということです。

芳即正『調所広郷』(吉川弘文館)によると、大坂商人達にこのような理不尽な仕打ちを行った元凶の薩摩藩が、浜村の三郷払いという処分だけで、この時他には何のお咎めも受けなかったのは、単なる重豪の威光(重豪は11代将軍・家斉の岳父)によるものだけではなく、幕府に対して10万両という多額の献金していたことも大きかったようです。
つまり、大鉈を振るう代わりに、幕府に対する機嫌取りは忘れていなかったということですね。
江戸時代を通じて言えることですが、こういった時に泣き寝入りするのは、いつも商人達です。
大名は居直ればそれで済む、というようなところがありますからね。
ただ、この「無利息250年賦払い」という悪逆非道な仕打ちを受けた大坂商人達の薩摩藩に対する恨みは相当根深かったようです。
この後、薩摩藩関係者が大坂の町に足を踏み入れることを憚ったという話も残されているくらいですから。

さて、こんな風に調所は大胆な方法で借金の整理を行ったわけですが、その他にも殖産興業とでも言いましょうか、多種多彩な経済政策を立てて、財政の立て直しを行っていますが、その中でも薩摩藩に莫大な利益をもたらしたのが、「抜け荷」、いわゆる「密貿易」です。
幕末当時、薩摩藩は琉球や長崎を通じて、当時の清(中国)などと交易し、巨万の富を得ていました。
ただ、これら貿易の全てが密貿易であったのか? と言うと、決してそうではありません。
薩摩藩は、幕府から一定額(年間銀千七百二十貫)まで正式の許可を得て、貿易を行っていましたので、その額を超えて密かに行っていたのが密貿易であったということです。
特にその貿易の中でも、薩摩藩は「俵物」(いわゆる海産物の乾物。煎海鼠・乾鮑・干貝柱等)の取り引きで大きな利益を得ていたのですが、その一つとして取り引きされていたのが「寒天」です。
薩摩藩の寒天作りがいつ頃から始まったのかは浅学のため知りませんが、幕末当時には、都城市の山之口町という場所に工場を建て、積極的に寒天作りを行っていたようです。

インターネットで地図を検索して頂ければ分かりますが、都城市山之口町というのは、海沿いにある町ではなく、内地も内地、簡単に言えば山の中にあります。
寒天とは、主に「テングサ」という海草を煮沸して作るものですので、通常その製作工場も海辺の方が望ましいのではないかと思います。
しかしながら、薩摩藩がこの山深い土地に寒天工場を作ったのは、山之口が寒天製造に適した自然条件であったこともさることながら、やはり寒天作りが一種人目をはばかる作業だったということも、大きな理由の一つであったかもしれません。

都城市山之口町の「島津寒天工場跡」に設置された案内板によると、この工場で使われた原料のテングサは、主に甑島(こしきじま)を中心に、薩摩半島の西海岸から運ばれてきたものだそうです。
甑島や薩摩半島西岸からわざわざ遠く離れた山中の都城まで運んだのですから、大変労力のかかる輸送だったに違いありません。
それを考えると、やはり寒天作りは、人目を忍んでの作業だったからだと言えるかもしれませんね。

さて、現在の薩摩藩の寒天工場跡には、当時テングサを煮た九基の窯跡が残されている他、その礎石なども残されており、建物自体はありませんが、ある程度往時を偲ぶことが出来るように整備されています。
この山之口の寒天工場は、調所の指示を受けて、指宿の豪商である浜崎太平次が深く経営に携わっていたそうです。
ヤマキ(太平次の屋号)は、俵物や海産物を主要な商品として取り扱っていましたから、太平次自身もおそらく寒天は儲かるとふんだのでしょうね。
「島津寒天工場跡」は、車が無いと行けない、少し不便な場所にありますが、行ってみるだけの価値はありますよ。
この地で製造された寒天が、薩摩藩政の原動力となったかと思うと、感慨もひとしおです。

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島津寒天工場跡(都城市山之口町)
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【2014/10/28 12:44】 | 史跡巡り
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福太郎
こんにちは。体調いかがですか?

この寒天工場、もう20年ほど前ですが行ったことがあります。

本当によくこんな所で造ったなと思うばかりでした。

いつもありがとうございます
tsubu
福太郎さん、こんにちは。
いつもありがとうございます!
お陰さまで体調の方は割と良く、今ではあちこちに出かけられるようになっています。

寒天工場跡、行かれたことがあるんですね。
ほんとあの山奥に寒天工場なんてよく作ったものだなあ、と思います。
運ぶのも大変だったでしょうし。

宮崎は一部が薩摩藩領でしたから、割と薩摩藩関係の史跡が多く残されていますよね。
地道に一つずつ訪れてみたいと思っています。

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少し間が空きましたが、宮崎史跡巡りの旅の5回目です。
「木崎原の戦い」関連の史跡を訪ねた後、折角えびのまで来たのですから、温泉に入って帰ろうと、京町温泉近くにある吉田温泉へと向かいました。

えびのの吉田温泉は、島津義弘とも縁が深く、宮崎県内でもとても古い温泉として知られています。
現在の吉田温泉には「鹿の湯」と「亀の湯」という二つの浴場があるのですが、吉田温泉「亀の湯」のwebページの説明によると、吉田温泉は、天文23(1554)年に霧島の大噴火により、昌明寺村山麓に大量の湯が湧出したところ、ある日矢傷を負った牝鹿が傷を癒していたころから「鹿の湯」という名がつけられたのが起こりとのことです。
島津義弘が戦で傷ついた戦傷病者をこの湯で治療させていたことから湯治場となり、現在に至るとのことです。
また、「亀の湯」の名の由来は、温泉の床が湯の成分により亀の甲羅のような姿をしていることから呼ばれるようになったそうですね。

実は、この吉田温泉に私が行こうと考えたのは、西郷隆盛が湯治に訪れたことのある温泉だからです。

時は遡って、明治2(1869)年5月18日。
この日は、箱館・五稜郭にたてこもって抗戦を続けていた榎本武揚以下旧幕府軍が新政府軍に対して降伏した日です。
これにより戊辰戦争と呼ばれる一連の内戦は終わりを告げたのですが、西郷隆盛も箱館まで薩摩藩兵を率いて出陣しています。
しかしながら、西郷が箱館に到着したのが5月25日のことで、つまり既に戦いは終わっていました。
そのため、西郷はすぐに箱館から引き返して、6月には神奈川の浦賀に戻ったのですが、新政府の残留命令を無視して、すぐに鹿児島へ向けて帰国しました。
その西郷が鹿児島に到着後、湯治に出かけたのが、この吉田温泉なのです。

西郷が吉田温泉に到着した正確な日付は分かりませんが、おそらく明治2(1869)年6月半ばあたりのことだったでしょう。
その当時の様子は、吉田温泉に滞在していた西郷が、7月8日に親友の桂久武宛てに出した手紙に詳しく書かれています。
以下、その手紙の内容を抜粋してみます。


長船中にて大いに草臥(くたびれ)候に付き、一封の御届も申し上げず、直様湯治御暇申し上げ候儀に御座候。(中略)暑気相避け候場所見合わせ、当所へ参り候処、大いに相応致すべしと此のたびの湯治は本道のはまりに相成り、先ず楽しみ事はつぎに相成り居り申し候。
(大和書房『西郷隆盛全集第三巻』より抜粋)


この手紙によると、西郷は箱館往復の船中旅で大いに疲労し、鹿児島に到着後すぐに避暑湯治に出たことが分かります。
また、その湯治場所として吉田温泉を選んだ理由は、「大いに相応致すべし」と書いていることから判断して、「大いに効能がある」ことを期待してのことだったことが、この後に続く文面から推測できます。
手紙は次のように続きます。


四五日跡より大熱発起いたし候に付き、如何成り行き候わんと案じ煩い居り申し候処、翌日より熱気相散じ腹痛に相変じ、難儀仕り候処、大瀉(くだ)しに相成り、是れ以て余程薄く相成り、所々腫物出来、湯当りの上腫物を発し候事にて、相応疑なしと至極相楽しみ居り候事共に御座候。
(大和書房『西郷隆盛全集第三巻』より抜粋)


この文面から察すると、湯治に来てからの西郷の体調は、ものすごく悪かったようです。
着いて4,5日経ってから高熱を発し、またそれが腹痛に変わったと思いきや、その後は腹をくだして、腫物まで出来ていると書いてあるのですから。
しかしながら、不思議なことに、西郷はそのことを「相応疑なしと至極相楽しみ居り候事共に御座候」と、「これからものすごく楽しみだ」、と書いています。
これはつまり、湯治を初めて数日後、体に変調をきたすのは、温泉の効果が出ているからだという説が昔からあるためで、西郷は発熱や腹痛、下痢は、逆に温泉の効能が出ている証だと捉えていたということです。
これは温泉の効能とも言われている「非特異的変調作用」の一つとでも言うのでしょうか。
つまり、自然治癒力が増したことによって、体が正常に戻る際のリバウンドが出ているという捉え方ですね。
西郷は続いて、24,5回は腹を下し、下血までしているが、「頓と気分は変わらず、却って快晴に相成り候」と書いていますので、西郷自身にとっては、体に変調が生じていても、とても気分の良い湯治生活だったのでしょう。

かなり前置きが長くなりましたが、こんな風に西郷が「気分快晴」と書いた吉田温泉には以前から行ってみたかったので、えびのまで足を伸ばしたついでに念願叶って行ってきました。

私が入浴したのは、「亀の湯」の方で、入浴料は何と300円です!
宮崎、鹿児島の温泉は、ほんと安いですね~。
大阪ならスーパー銭湯でも800円くらいしますし、ちょっとした日帰り温泉でも行こうものなら1000円は取られることを考えれば、ワンコイン(500円)でお釣りがくる南九州の温泉は、湯質・値段ともに最高だと思います。
現在の吉田温泉は、温泉街とは言えないほど、今ではものすごく寂れています。
温泉街と言うのもはばかられるくらい、ホテルや旅館などはなく、小さな町に二軒だけ浴場があるだけですので、そこが由緒ある湯治場であったことは、今では想像もつかないほどです。

さて、「亀の湯」ですが、扉を開けて建物に入ると、料金を支払うはずの番台には誰もいませんでした(笑)。
こういう緩さがまた宮崎・鹿児島の温泉の醍醐味ですね(^^)
脱衣場はおよそ八畳くらいでしょうか、当然更衣ロッカーなどあるはずもなく(笑)、脱衣籠が置かれた棚があるだけです。
浴場に入るドアを開けると、番台同様に人っ子一人いませんでした(笑)。
私が訪れたのは午後三時過ぎでしたから、中途半端な時間だったのでしょうね。
普段は賑わっているはずの地元の人もおらず、完全に貸し切り状態で入ることが出来ました。

温泉ですが、36度か37度くらいでしょうか、ほんと気持ちの良い、丁度良いぬるま湯です。
私は熱いお風呂よりもぬるいお風呂が大好きなので、まさに私が求めていた最高の温泉でした。
とにかく気持ちの良いの何の……。
これくらいの温度だといつまでも湯船に浸かっていられますね。
都会の喧噪を逃れて、片田舎で温泉に浸かる……。
まさに極楽気分を味わいました。

西郷が熱いお風呂が好きだったのか、ぬるいのが好きだったのかは知りませんが、きっとこの吉田温泉の何とも言えない心地良い湯の温度に酔いしれたのではないでしょうか。
私もまさに「気分快晴」な一日となりました(^^)

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吉田温泉「亀の湯」

【2014/10/10 17:15】 | 史跡巡り
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