西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
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前回に引き続き、また安井息軒の話です。

実は今、息軒関係で一つ調べていることがあります。
息軒が江戸で開いた「三計塾」からは、その後、歴史に名を留める著名な人物が数多く出ているのですが、その中に後の外務大臣・陸奥宗光がいます。

陸奥については、歴史の教科書にも「不平等条約の改正に尽力した人」という形で紹介されていますし、坂本龍馬と親交が深く、龍馬が結成した海援隊にも入っていたことから、一般にもその名が知られているかと思います。
陸奥は元々紀州藩士の出ですが、その後脱藩して江戸へ出て、息軒に入門するのですが、三計塾に居た頃の話を作家の池波正太郎が『戦国と幕末』という著書の中で書かれています。
少し長いですが、その部分を抜粋すると以下のとおりです。


 十四歳の陸奥宗光が江戸へ出て、儒者・安井息軒の門へ入ったことは、よく知られているが、
「そのころから、どうも体は丈夫ではなかったのだね。だから必然、武術よりも学問を、ということになったのだ」
 と、後に宗光は語っている。
(中略)
「きょうも、皆は小介に負けたようじゃな」
 と、安井息軒は、この小さな塾生の頭脳のひらめきを愛してくれたが、
「人というものはな、おのれの長所を隠すことをくふうしなければいかぬよ。よいかな、小介。弁舌に長じたる者は、つとめて寡黙なるべしと、古人も教えている。おまえも、そのことをよくよく考えてみぬといかん。それでないと、おまえは自分の長所のために身を滅ぼすことになろう」
 繰り返し、繰り返し、同じことを宗光にいった。だが、この師のことを当時の宗光は理解していたわけではない。だから、口の達者な、生意気な彼は、他の塾生の鉄拳をくらい、やせて細い彼の顔が、
「なぐられて南瓜のようにはれ上がったことも何度かあったよ」
 と、後年の宗光が述懐している。
(池波正太郎『戦国と幕末』(東京文藝社)から抜粋)



この『戦国と幕末』については、角川文庫から再刊されていますので、読まれた方も多いのではないかと思いますが、実はこの陸奥が後年述懐したというエピソードの原典を今調べています。

と、言うのは、前回少し書きましたが、「きよたけ歴史館」に行った際、そこの職員の方と話す機会があったのですが、その時、このエピソードの原典が分からないという話になったことがきっかけです。
私自身、こういった話を調べるのが好きな方、いや無性に調べたくなるタイプですので(笑)、大阪に帰ってから、陸奥の伝記や回想録等を調べてみたのですが、今のところその原典を見つけることが出来ていません。

ただ、一つだけ分かったのは、この話は池波さんの創作ではないということです。
池波さんよりかなり前に、伊藤仁太郎(痴遊)が『快傑伝』(昭和10年、平凡社刊)という書籍の中に、ほぼ同じことを書いています。
その部分を抜粋してみます。


 息軒は、その度毎に、微笑を含みながら、
「今日も、小介にやられたな」
 と、いって、愉快そうに観て居るが、しかし、人の居らぬ時は、小介を呼んで、
「過ぎたるは猶及ばざるが如し、という事を知って居るか。人は、己れの長所を匿し得ることを、工夫しなければいかんよ。弁舌に長じて居るものは、努めて寡黙なるべし、と古人は教えて居る。お前は、それを考えて居らぬとその長所のために、身を誤る事があろう」
 さすがに、先生は、よく小介の長所を知ると同時に、その短所も知って居られた。
(伊藤仁太郎『快傑伝』(平凡社刊)から抜粋。旧字は読みやすく変更)



息軒が陸奥に対して、「殊更に自分が才あることをひけらかすのは、己の身を滅ぼすことになる」とたしなめているところは、池波さんと使っている言葉こそ違えども、意味は全く同じだと思います。

では、この痴遊の『快傑伝』が池波さんの種本(原典)かと考えると、少し疑問が生じてきます。
池波さんの文章には、「体が丈夫ではなかったので学問に励んだ」や「殴られて南瓜のようになった」など、後年の陸奥が述懐した話が書かれてありますが、痴遊の『快傑伝』には、それに類することは一切書かれていないからです。
と、なると、池波さんは別の原典を参考に書いたことになりますが、そうなると、痴遊も別の原典を使用したことになり、つまり、痴遊と池波さんは同じ原典を参考にして書いたことになります。

ただ、私が調べた限りでは、その原典に行き当たることは出来ませんでした。
陸奥宗光は、明治30年に亡くなっていますので、もし回顧録を残すのであればそれ以前ということになりますが、この話に類する陸奥の回想録が見つからないのです。
また、痴遊は『快傑伝』を書く以前の明治44年、『陸奥宗光』という伝記も書いているのですが、調べてみると、何故かそこには息軒が陸奥をたしなめる話は一切書かれていませんでした。

以上のように、現在のところ原典が見つからない状況なのですが、この件について、もし何かご存知の方がおられましたら、お知らせ頂けると嬉しいです。
しかし、こういう風に色々と調べてみることが、歴史の楽しさであり、醍醐味であると思いますね(^^)
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【2015/05/26 12:44】 | 幕末・維新
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「宮崎で有名な歴史上の人物と言えば?」

こういう質問をされると、宮崎県人は少し考え込んでしまうことが多いようです。
以前ブログにも少し書きましたが、江戸藩政時代、宮崎というところは、鹿児島や熊本といった大藩に挟まれる形で、いくつかの小藩に分割されて統治されていた土地でした。
そのためか、政局に絡むこともなく、中央に聞こえるような有名な人材を輩出しにくかったことが原因の一つと言えるかもしれません。
また、戦国時代の争乱期や西南戦争の時にも象徴されるように、宮崎というところは、どちらかと言うと他藩から侵略される地になると言いますか、戦場になってしまう傾向がありましたからね。

ただ、このような状況にあったとしても、私は「宮崎に人なし」とは思っていません。
有名な歴史上の人物を挙げろと言われれば、もちろん挙げることは出来ますが、歴史に親しみのない方にとっては、最初のような質問をぶつけられると、なかなか答えるのが難しくなってしまうのかな、という風に解釈しています。

さて、ここまで書いたのであれば、宮崎で有名な歴史上の人物を紹介するべきだと思いますが、江戸期に絞って言うならば、以前、延岡に「胤康(いんこう)」という勤王僧が居たことを紹介しましたが、胤康では余りにもマイナー過ぎると思います。
やはり江戸期を通じて一番有名な人物と言えるのは、安井息軒(やすいそっけん)ではないでしょうか。
「安井息軒って誰?」という声も聞こえなくはないですが(苦笑)、私はやはり安井息軒だと思います。

息軒の人となりについては、以前、エッセイで書いたことがありますので、下記URLを参考にして頂ければと思います。

(我が愛すべき幕末)第20回「三計と半九-安井息軒-」

息軒の業績をごく簡単に説明すると、江戸に「三計塾(さんけいじゅく)」という有名な私塾を主宰した学者となりますが、元は現在の宮崎市清武(きよたけ)町の生まれです。
清武という町は、現在は宮崎市に編入されていますが、江戸藩政当時は、宮崎の南方、飫肥藩の領地の一つでした。
ちなみに明治期の外交官で、日露戦争後のポーツマス条約締結に尽力した小村寿太郎も飫肥の生まれですし、「飫肥西郷」と異名をとり、大学南校(東京大学の前身)で学んだ秀才・小倉処平も同じく飫肥の生まれです。
飫肥藩は、学問奨励の気風が非常に高い藩だったと言われていますね。
その名残りを示すかのように、現在も飫肥藩の藩校であった振徳堂と呼ばれる建物が現存し、その往時を偲ぶことが出来ます。

少し息軒から離れてしまいましたが、現在、飫肥の地で息軒の足跡を辿るのは難しくなっていますが、息軒が生まれ育った清武には、「きよたけ歴史館」という立派な歴史資料館が建てられており、息軒の足跡や業績を詳しく知ることが出来ます。
先日紹介した「佐伯市歴史資料館」と同じく、この歴史館も息軒関係の生の原資料が数多く見られる資料館ですのでオススメです。

ちなみに、今回久しぶりに「きよたけ歴史館」を訪れ、職員の方と話す機会があったのですが、息軒に関しては、まとまった活字化された資料が少なく、何か一つ調べるにも苦労することが多いらしいです。
著名な小説家が息軒を主人公に作品でも書いていたら違っていたんでしょうけどね。(ちなみに、森鴎外は息軒の奥さんを主人公とした『安井夫人』を書いています)

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安井息軒旧宅(宮崎市清武町)

【2015/05/19 12:36】 | 幕末・維新
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今年のゴールデンウィークは、いつものように宮崎に帰っていたのですが、今回は少し遠出して、大分県佐伯市(さいきし)に行ってきました。
佐伯市と言えば、大分県の中でも新鮮な海の幸が味わえる港町として有名ですね。
もちろん地元で有名な寿司店で海の幸は存分に味わいましたが、忘れてはならないもう一つの名物である「ごまだしうどん」もちゃんと食べてきました。

「ごまだしうどん」とは、『ごまだし』と呼ばれる、魚のすり身や胡麻、醤油などを一緒にすり潰したペースト状の調味料を温かいうどん(冷たいのでもOKです)に溶かして食べるものなのですが、これがすごく美味しいです(^^)
『ごまだし』がうどんの出汁に深いコクを加えると言うか、ほんとクセになる味ですよ。
「名物に旨いものなし」なんて言いますが、「ごまだしうどん」は美味しい名物だと思います。

少し食べ物の話に偏りましたが、今回宮崎からわざわざ佐伯まで足を運んだのは、ゴールデンウィーク中の5月1日に、「佐伯市歴史資料館」が開館したというニュースを聞いたからです。
宮崎から大分への車のアクセスは、東九州自動車道の開通により、格段に良くなりました。
宮崎市から佐伯市までは、高速で約2時間半もあれば行けます。
ほんと便利になりましたよね。

私も佐伯を訪れるまで知らなかったのですが、佐伯という町は、藩政時代は佐伯藩と岡藩に分割されていた土地でした。
まず、先に岡藩のことから簡単に書くと、佐伯藩が佐伯の海側の中心部に城下町を形成していたのに対し、岡藩は佐伯市の南方、山側の宇目を領地に持っていた七万石の小藩です。
ただ、岡藩の城下町は、佐伯市の西方にある現在の大分県竹田市にありました。
私も何度か訪れましたが、竹田は豊後の小京都と呼ばれ、風情のある佇まいを今に残しています。
秋の紅葉の季節になると、岡城のモミジはとても鮮やかで綺麗ですよ。
「荒城の月」で知られる作曲家の滝廉太郎や日露戦争の英雄として崇められた広瀬武夫も竹田の生まれです。
また、幕末期の岡藩には小河一敏という人物が出て、西郷隆盛とも交流を持ち、寺田屋事件に間接的に関与するなどしたことでも有名ですが、一方の佐伯藩は余りその名が知られていません。

佐伯藩は、石高わずか二万石の小藩で、歴代城主は毛利氏でした。
毛利と言うと、長州藩の毛利家を想像しますが、佐伯藩は長州藩の分家であったというわけではありません。
ただ、佐伯毛利氏と長州毛利氏が全く関係が無かったというわけでもないのです。
佐伯藩の始祖となる毛利高政は、戦国時代においては豊臣秀吉配下の武将で、旧姓は森と言ったのですが、本能寺の変後、秀吉が明智光秀を討つために仕掛けた「中国大返し」と呼ばれる、当時敵対していた毛利方と和睦し、取って返すかのごとく上京策を取った際、高政は毛利方の人質となりました。
その際、毛利家の当主・輝元が高政の器量を気に入り、「毛利と森は名が同じようなものだから、今後は毛利と名乗れ」みたいな話をしたそうです。
それが縁となって、以後、高政は毛利姓を名乗ることとなったようです。
なかなか面白いですね。

その後の高政ですが、「関ヶ原の戦い」では石田三成方の西軍に付きますが、戦後は親交の深かった藤堂高虎の取り成しで許され、佐伯二万石の大名となります。
西軍に付いた武将の多くが改易や領地削減の憂き目にあう中、二万石を安堵されたのですから、破格の扱いを受けたと言っても過言ではないでしょうね。
このような形で高政は佐伯二万石を手に入れるのですが、毛利氏はその後も明治4(1871)年の廃藩に至るまで、佐伯の領主として君臨しました。

と、ここまで佐伯の歴史を簡単に書きましたが、いわゆる佐伯の歴史は毛利氏の歴史というわけで、その佐伯市に佐伯毛利氏の資料をふんだんに集める、「佐伯市歴史資料館」が開館しました。
オープンしてから数日後に見学したのですが、とても素晴らしい資料館でした。
なぜならば、展示されている資料のほとんど全てが「原資料」であったからです。
つまり、資料館にありがちの複製(レプリカ)の展示品がほとんどなく、生の資料が展示されており、それを間近で見られるのは、ほんと素晴らしいことですね。
(歴史資料館と名付けながら、展示品のほとんどがレプリカだらけのところは正直うんざりします)

佐伯市歴史資料館には毛利氏から受け継いだ貴重な資料が展示されていますが、特に幕末関係で言うならば、『亜墨利加条約写』という貴重な資料が展示されています。
これは1854(嘉永7)年3月に結ばれた日米和親条約の写しです。
この資料には「伊勢守殿御渡」と書かれているのですが、つまり、当時の筆頭老中であった阿部伊勢守正弘が、当時の佐伯藩主・毛利高泰に対して渡したものということですね。
日米和親条約締結後、諸大名に対して渡した条約内容の写しの一枚というわけです。

嘉永6(1853)年6月のペリーの来航により、幕府は「攘夷」か「開国」かという究極の二者選択の決断を迫られることになりますが、当時老中首座であった阿部正弘は、ペリー来航直後の嘉永6(1853)年6月26日、寺社奉行など評定所一座及び大番頭など三番頭に、27日には彦根藩や会津藩などの溜間詰大名に、7月1日には外様大名の薩摩藩など大広間詰等の諸大名に対して、ペリーが持参したアメリカ大統領・フィルモアの親書の訳文を回覧し、アメリカの開国要求に対し、幅広い意見を求める政策に出ました。
幕府が対外政策について、広く諸大名にまで意見を求めたのは、江戸幕府始まって以来、これが初めてのことです。
このことをもってしても、阿部正弘が間近に迫った国難に対し、いかに危機感を持って対処しようとしたことが分かるかと思います。

佐伯市歴史資料館に展示されている『亜墨利加条約写』は、そんな緊迫した時節を感じさせてくれるような、とても貴重な資料だと思いますので、佐伯に足を運ばれた際には、是非一度見て頂きたいものです。

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佐伯城三の丸櫓門

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佐伯市歴史資料館

【2015/05/12 17:24】 | 旅行
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