西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
少し間が空きました。

「薩摩金山蔵」を見学した後、向かったのは、いちき串木野市の照島にある「驪龍巖」です。
「驪龍巖」は、「りりょうがん」と読むのですが、一般的に余り知られていない史跡かもしれません。
今回から2回に渡って、この「驪龍巖」に関する話を書きたいと思います。

薩摩藩の幕末史を語る上で重要な藩主の名を挙げろと言われれば、大抵が島津家28代の斉彬やその跡を継いだ29代の忠義(茂久)、そして藩主ではありませんが、忠義の実父である久光といった人物の名が挙がるかと思いますが、それに加えて斉彬との関係から、実父の27代・斉興(なりおき)や曾祖父の25代・重豪(しげひで)の名前もよく出てきます。
斉彬の曾祖父にあたる重豪は、気性は豪放磊落、進取気鋭に富んだ藩主で、特に中国や西洋の文物に著しい興味を持った人物であったことから、その「新しいもの好き」の性格が、ひ孫の斉彬に影響を与えたと言われています。
先日、世界遺産にも登録されましたが、「集成館事業」と呼ばれる、斉彬が行った薩摩藩の西洋化(近代化)事業は、重豪の影響が大きかったと言われていますね。

ただ、斉彬の実父の斉興は、そんな重豪譲りの斉彬の性格を忌み嫌いました。
その原因については、webサイト内の薩摩的幕末雑話(第二十二話「島津斉興の密書 -斉興と斉彬と久光の関係-」)内で詳しく書いていますので、そちらを読んで頂ければと思いますが、結果、斉興は妾・お由羅の方の子供である久光を愛して藩主に据えようとしたことから、藩内に「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動が起こります。

こういった点から、重豪や斉興は頻繁にその名が出てくるのですが、ここで一つ気づきませんか?
25代の重豪から28代の斉彬までの間に、一人だけ人物が抜けていることに。
そうです、それは26代の斉宣(なりのぶ)です。

重豪、斉興、斉彬、忠義、久光という人物は、薩摩藩を扱った様々な本の中でその名が数多く登場しますが、斉宣の名は余り出てきません。
それは斉宣の生い立ちとその末路に原因があると言えます。

斉宣が父・重豪の跡を継ぎ薩摩藩主となったのは、天明7(1787)年1月29日、わずか13歳の時です。
芳即正『島津重豪』(吉川弘文館)によると、当時43歳で、気力・体力ともにまだまだ衰えていなかった重豪が急に隠居することになったのは、その前年に10代将軍の徳川家治が死去し、重豪の娘婿であった家斉が将軍職を継ぐことになったが大きかったようです。
つまり、薩摩藩の現藩主が将軍の岳父となることは、色々と差支えが出ることが予想されたため、重豪は幕府から暗に隠居を迫られたようです。

このように重豪が隠居し、嫡子の斉宣が藩主に就任したとは言え、隠居は形ばかりのもので、その強大な権力は依然として重豪が握っていました。
幼かった斉宣には実権はなく、いわゆる飾りの藩主にしか過ぎなかったのです。
斉宣はこのような状況で藩主に就任したわけですが、前述の通り、重豪は中国・西洋の文物に傾倒し、それらに対して湯水の如くお金を使いましたので、薩摩藩の財政は日増しに悪くなる一方でした。
後年その借金は500万両という、途方も無い金額に膨れ上がるのですが、青年時の斉宣は藩主であったとは言え、そのことをただじっと黙って見ているしかなかったわけです。

しかしながら、斉宣が31歳の時、彼は『亀鶴問答』という、一つの文章を著しました。
この書の中で斉宣は、理想の君主のあり方を説き、重豪によって行われていた放漫財政を暗に批判し、藩政改革を行うことを宣言したのです。
斉宣は、秩父太郎や樺山主税といった若手藩士を登用して、重豪によって行き詰った藩財政を改革させようとしたのですが、これが重豪の逆鱗に触れました。
論語にある「三年父の道を改むる無なきは、孝と謂ふべし」を破ったわけでもなく、既に20年近くも我慢していたにもかかわらず、重豪は斉宣の改革が、自分を全否定しているという風に捉え、気に入らなかったのです。
これが「文化朋党事件」、いわゆる「近思録崩れ」や「秩父崩れ」と呼ばれるお家騒動に発展し、秩父や樺山は切腹、斉宣は強制隠居させられることになりました。
時に斉宣35歳の時です。

少し前置きが長くなりましたが、斉宣は強制隠居後、32年間の長きに渡り生き続けました。
しかも薩摩に帰国することを許されず、生涯江戸で、いわゆる捨扶持をもらって余生を過ごしたのです。
このように、斉宣は結果的に重豪に逆らった形で強制隠居させられたことから、斉宣の存在は、一種薩摩の黒歴史となりました。

薩摩藩の幕末史がややもすれば、

重豪-斉興-斉彬-忠義(久光)

という構図で語られ、斉宣の名が抜け落ちることが多い要因はそこにあるわけですが、私は、斉宣はもっと見直されてしかるべき人物だと思います。
いずれ斉宣が主役の小説を書きたいな、なんて思っていますが、それはさて置き、私がこれまで長々と斉宣の話を書いたのは、いちき串木野市の照島の「驪龍巖」は、斉宣ゆかりの史跡だからです。
私もこれまで数多くの鹿児島県内の幕末関連史跡を巡りましたが、斉宣絡みのものは、この他に余り聞いたことがありません。
それゆえに「驪龍巖」はとても貴重な史跡と言えます。

つづく

【2015/10/20 17:17】 | 史跡巡り
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