西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
 7月は別府、そして8月は宮崎・鹿児島に行くのが、最近では私の夏のルーティーンのようになっています。
 今年も8月のお盆休みを利用して、宮崎・鹿児島に行ってきましたので、今回からその旅行記を書きたいと思います。

 別府と同様に、今回も神戸からフェリーに車を乗せて、まずは一路宮崎へと向かいました。
 神戸から宮崎へは「宮崎カーフェリー」という船会社がフェリーを運航しています。
 ただ、個人的な見解ですが、船内設備や乗客に対するサービスの点から比較すると、同じ九州でも大分や鹿児島に向けて就航している「フェリーさんふらわあ」の方が、宮崎カーフェリーよりも断然上だと思います。
 私はこれまで宮崎カーフェリーを何十回と利用しましたが、まず船賃が他のフェリー会社に比べて割高なのに加え、船体が古いため部屋や設備が汚い、そして係員の態度や対応が余り良くないなど、サービスの点がイマイチと思えるからです。

 と、またもや話がそれてしまいそうになりましたが、今回の宮崎・鹿児島旅のメインは、鹿児島イベント情報にも掲載していますが、鹿児島県歴史資料センター黎明館で開催されていた企画展『幕末薩摩外交-情報収集の担い手たち-』を見学することと、それに併せて開催された『青少年「薩長同盟」フォーラム』という催し物を観覧することでした。

 鹿児島へはいつものとおり宮崎を拠点にして車で向かいましたが、今回は鹿児島市内に入る前に、霧島市国分の「敷根火薬製造所跡」に立ち寄る計画を立てました。
 鹿児島県霧島市国分の敷根火薬製造所跡については、その存在は随分以前から知ってはいたのですが、なかなか訪れる機会に恵まれませんでした。
 また、先日紹介した南日本新聞連載の「さつま人国誌」に、同火薬製造所に関する記事(後述)が掲載され、それを読んで以来、日増しに行きたい気持ちは高じていました。
 そのため、今回鹿児島市内に入る前に国分に立ち寄り、同火薬製造所跡を訪ねることにしたのですが、現地に行ってみると、特に案内板も設置されていなかったため、場所が分からず大変苦労しました。
 ネット上で見つけた簡単な地図を頼りに、取りあえず国分の敷根周辺まで車で行き、車を駐車してから、該当する場所と考えられるところに向かって、田んぼのあぜ道を歩いて行ったのですが、なかなか火薬製造所らしき跡は見つかりません……。
 当日の鹿児島は30度を超える猛暑日……。滝のように汗が流れ、着ていた服はまたたく間にびしょ濡れになりました。
 さて、どうしたものか……と、田んぼの真ん中で少し途方に暮れていると、偶然農作業をされていた方が車で通りかかったので場所を尋ねると、何と車で近くまで行けるとのこと!
 急いで車を駐車した場所まで引き返し、教えて頂いた場所へと車で向かいました。

※敷根火薬製造所跡の場所については、最後に簡単な行き方と地図を書いておきたいと思いますので、これから訪れる方は是非参考にして下さい。

 敷根火薬製造所跡の入口には、昭和53年8月に建立された石碑があり、また、その横には由来を示した案内板も建てられています。案内板を見ると、篤姫のイラストが描かれていましたので、おそらく平成20(2008)年に建てられたものでしょう。
 車を降りると、まず大きな水の流れてくる音が聞こえてくることに気づきます。
 実はこの水がとても大事な要素で、近くを流れる高橋川から引いたこの水脈が、敷根火薬製造所の動力となっていました。
 つまり、敷根火薬製造所は水力で操業していたのです。
 それを示すかのように、林の中に入っていくと水路があり、そこには小川のように、今でも勢いよく水が流れています。
 そして、さらに奥へと進むと、水車小屋が設置されていた跡が見えてきます。
 当時の遺構ですが、一段と高くした石組みの水路から、まるで滝のように激しい水が流れ落ちており、それはまさに圧巻の光景です。(画像参照)

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 敷根火薬製造所は、この石組みの水路上に小屋を建て、その中に水車を設置し、その動力を利用して、硫黄や硝石を砕き、火薬の原料としていたのです。
 私はこの水車小屋の跡を見て、少し鳥肌が立ちました。
 とても小さな遺構ですが、それはまさしく薩摩藩が推進した近代工業事業の一端を垣間見る光景であったからです。

 敷根火薬製造所のことについては、私が語るより、下記「さつま人国誌」を読んで頂く方が良いかと思いますが、簡単に概略だけ書きたいと思います。

さつま人国誌(第231回)敷根火薬製造所 西南戦争で破壊、炎上
http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=1519

 敷根火薬製造所が設置されたのは、文久3(1863)年のことです。
 薩摩藩にとって、文久3(1863)年という年は、大きな転換期となった年であると言えます。
 そうです、7月にイギリス海軍と砲火を交えた「薩英戦争」が起こったからです。
 この薩英戦争により、薩摩藩の藩論は大きく転回したと言っても過言ではないでしょう。
 薩英戦争では、薩摩藩はこれまで築き上げてきた砲台や磯の工業地帯をイギリス艦隊の激しい艦砲射撃により、ことごとく破壊され、城下町は火の海となるなど甚大な被害を被りました。
 薩英戦争により、薩摩藩が失ったものは大きかったと言えますが、それにも増して別の大きな力を得ることになったと言えます。

 それは「西洋技術と知識の導入」です。

 薩摩藩は薩英戦争でイギリスの軍事力の強大さを体感したことにより、これまでの方針を一大転換し、イギリスと密接に繋がることにより、軍艦や武器の購入、留学生の派遣、さらには西洋技術や機器を積極的に導入し、藩内の洋式化を進めることとなるのです。

 敷根火薬製造所が国分に設置されたのが、薩英戦争の前か後かまでは定かではありませんが、おそらく本格的な設置は後だったような気がします。
 薩摩藩は薩英戦争により、イギリス海軍の持つ強力な軍事力をまざまざと見せつけられたわけですから、軍制改革、つまり軍事力と海防の強化は大きな課題となりました。当然、軍事力を強化することに伴い、火薬は必要不可欠な存在となります。

 薩摩藩は、敷根火薬製造所を設置する以前から、既に城下の滝之上に火薬製造所を作っており、また、谷山にも煙硝倉を設けて、火薬製造を行っていました。
 しかしながら、やはり薩英戦争をきっかけとして、大量に火薬を製造できる施設を建造する必要があると感じ、火薬の増産を試みるため、新たに敷根に火薬製造所を設けることとしたのではないでしょうか。
 ちなみに、下記の画像は、島津斉彬が谷山に設けた煙硝倉の跡です。

DSCF0064.jpg

 ただ、「さつま人国誌」にも書かれていますが、敷根での火薬製造は思ったほど上手くはいかなかったようです。
 しかしながら、敷根火薬製造所が、薩摩藩の軍事力の下支えとなったことは間違いないと言えるのではないでしょうか。
 ちなみに、この敷根火薬製造所は、明治10(1877)年の西南戦争で焼失した後は、民間会社が製粉所を作り、操業していたそうです。
 硫黄や硝石を砕く役割を果たした水車が、今度は小麦粉などの食物をひくことになるとは、水車自体も思ってもみなかったことだったのではないでしょうか(笑)。

 平成27(2015)年7月、鹿児島県の磯の集成館などが、「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に認定されたことは記憶に新しいかと思いますが、この敷根火薬製造所跡をそれに加えるべく、追加登録を求める運動があるのだそうです。
 確かに、敷根火薬製造所跡は、日本の産業革命遺産として相応しい、薩摩藩が興した近代工業事業の一端を肌で感じることが出来る、本当に素晴らしい場所だと感じてなりません。

(2)に続く

※敷根火薬製造所への行き方(アクセス)
 宮崎市方面から行くと、まずは国道10号線を鹿児島市内に向けて走ります。
 都城市を過ぎ、そして鹿児島県に入って曽於市を通り抜け、霧島市福山を過ぎると、国分の中心部に入る少し手前に国分南小学校という小学校があるのですが、この国分南小学校前交差点を左折し、県道472号線に入ります。(鹿児島方面から来た場合は、もちろんその交差点を右折です)
 宮崎から鹿児島に向けて国道10号線を走ったことがある方なら分かると思いますが、福山を過ぎて国分に入る前に、ものすごく長い下り坂が続きます。
 「亀割バイパス」という名前の道路だと後で知りましたが、アクセルを踏む必要が全く無いくらい、とにかく長く急な下り坂が続くので、ピンと来られる方も多いのではないでしょうか。
 この長い下り坂を抜けて、ようやく前方に国分の町や海がひらけてきたところにサンクスというコンビニが左手にあるのですが、私はここで間違いなくトイレ休憩をします。そのサンクスがあるのが国分南小学校前交差点です。交差点には歩道橋も設置されているのですぐに分かると思います。
 と、全く関係ない話のようですが、この辺りでトイレ休憩したい方はここですると良いでしょう。意外にそんな人は多いような気がします。(地図1参照)


(地図1)
敷根火薬製造所map1

 さて、宮崎方面から、そのサンクスのある交差点を左折し、県道472号線を走ると、大隅方面に向かう国道220号線に突き当たるのですが、そのすぐ手前に高橋川という川が流れています。その高橋川には橋がかかっており、その左前方に田園地帯が広がって見えるのですが、この付近が敷根火薬製造所があった場所なのです。
 車で行く場合は、高橋川にかかる橋の手前に、農道に降りる小さな道(車で入られる道)がありますので、それを降りて、前方右側に見える山の方に向かって走っていくと、右手に「敷根火薬製造所跡」と彫られた石碑と案内板が設置されており、若干ですが車を止められるスペースもあります。(地図2参照)


(地図2)
敷根火薬製造所map2

(言うまでもありませんが、車を駐車される際は、付近の方々の迷惑にならないよう、マナーはお守りください)

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【2016/09/27 12:15】 | 史跡巡り
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 先日、2018年NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』の西郷隆盛役を誰がするか? という予想を立てましたが、やはり大久保利通役も予想しておかないと不公平になりますので、今回は大久保編を書きたいと思います。
 ざっとですが、思いついたところを挙げると、

伊勢谷友介
谷原章介
大沢たかお
西島秀俊
浅野忠信
森山未來
玉木 宏
佐々木蔵之介
鈴木亮平
斎藤 工
柄本 佑


 以上のような感じになりましたが、いかがでしょうか? 少しイケメンが多すぎるかもしれませんが(^^;
 私的には、大久保は伊勢谷友介さんがすごく似合いそうなので、伊勢谷さんを本命◎としたいところなのですが、西郷役を誰が演じるかでバランスを取る必要が出てくるでしょうから、なかなか難しいところです。
 取りあえず、私の希望を入れて予想しますと、次のような感じです。

 本命◎:伊勢谷友介さん
 対抗○:鈴木亮平さん
 単穴▲:森山未來さん
 連下△:柄本 佑さん
 大穴 :ディーン・フジオカ


 西郷と違い、大久保役の方は配役しやすいと思いますし、顔つきが精悍で体型も細いタイプがピッタリだと思いますが、果たして誰になるでしょうか?

 また、ふと思ったのですが、島津斉彬役については、朝ドラ繋がりで、『あさが来た』で主人公・あさの父親役を演じた升 毅さんか、『花子とアン』で柳原白蓮の夫を演じた吉田鋼太郎さんのどちらかがやりそうな気がします。
 根拠も無く、全くの勘ですが、両者とも割としっくり来るのではないかと。

 あと、大河ドラマについては、必ず舞台となった場所の出身俳優が何人か登場することがお決まりです。
 例えば、これまで薩摩藩が舞台となった大河ドラマを見ても、

1990年『翔ぶが如く』
坂上二郎(西郷吉兵衛)、草野大悟(第一部はナレーター、第二部は海老原穆)、
国生さゆり(西郷清)、西田聖志郎(篠原国幹)

2008年『篤姫』
沢村一樹(小松清猷)、山口祐一郎(島津久光)、稲森いずみ(滝山)、
榎木孝明(肝付兼善)、西田聖志郎(板倉勝静)


 と、たくさんの鹿児島出身者が出演されています。

 私の個人的な希望を言いますと、島津久光は是非榎木孝明さんにやって欲しいです。イメージにピッタリ合うような気がします。
 また、哀川 翔さん、小西真奈美さん、はしのえみさん、この辺りも配役されるのでは? と勝手に予想しています。

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【2016/09/20 18:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 「いっちゃんラーメン」を食べ終えた後、今度は大分の有名な観光スポット、水族館「うみたまご」へと向かいました。史跡巡り、そしてラーメンの後は家族サービスです。
 連休中だったせいか、「うみたまご」は、人・人・人の超満員!
 駐車場に止められた車のナンバーを見ても、九州圏内だけでなく、全国各地から来ている人が多いようです。
 そんな人混みを見れば、本来ならすぐ帰りたくなるところですが、家族サービスのためと水族館は建物内が涼しいと自分自身に言い聞かせ(笑)、何とか入場しました。

 私自身、「うみたまご」は初めて行ったのですが、ここのイルカショーは必見だと思います。
 とにかく演技をするイルカたちと観客の距離が近い!
 イルカの泳ぐプールが小さい上に、周りを取り巻く観客席も少なく、観客のほとんどが立ち見の状態でしたので、人気の水族館にしては設備が不十分だな、と思っていたのですが、ショーが始まって、その理由が分かりました。
 臨場感を大事にするため、敢えて席数を少なくし、イルカとの距離を近くしているようです。
 ショーを見ているだけで、イルカの跳ねた海水がバシャバシャと降りかかってきますから注意が必要ですが、とても良いものが見られました。

 と、うみたまごで遊んでいる内に、現地1泊、船中2泊という旅行も残りあとわずかとなりました。
 大分県と言えば、別名「おんせん県」。
 最後は、やっぱり温泉でしめようと思い、フェリー乗り場付近で貸切の家族風呂がある温泉を探したところ、一軒の温泉施設を見つけました。

神崎温泉 天海の湯
http://tenkainoyu.com/

 神戸行きのフェリーが発着する西大分港の近くにあるこの温泉施設は、貸切の家族風呂専門の温泉なのですが、とにかく景色が最高です!
 場所が高台の上にあるため、湯船から豊後灘が一望できます。(画像)

14714805519385.jpg

 また、家族風呂も内湯と露天風呂がついていて、1時間3000円ですから安いですよね。
 大分の真っ青な海と空を眺めながら、ゆったりまったりと露天風呂に浸かる……。
 まさに最高の贅沢を味わいました。

 そして、帰りのフェリーに乗船……の前に、忘れちゃいけないでしょう!
 大分に来たら「鶏のから揚げ」を食べないと!
 近年、「中津から揚げ」が有名になり、大分県が鶏王国であることが世に知られましたが、肉好きの私としては、最後にどこかでから揚げは食べて帰らないと、と思い、スマホで色々と検索した結果、

ポッポおじさんの大分からあげ
https://oita-karaage.com/

 というお店(チェーン店)を見つけ、フェリーの乗船前に、約5キロ近く車を飛ばして買いに行きました。
 大分県は鶏の消費量が全国一位だそうで、街のいたる所にから揚げ屋さんがあるのですが、フェリーの出航時間も迫っていたため、とにかく行って戻って来られるお店をと思い、ここをチョイスしました。
 ここのお店だけでなく、大分では当たり前のようですが、注文してから鶏肉を揚げてくれますので、アツアツでジューシーなから揚げが食べられます。
 ポッポおじさんの大分からあげは、チェーン店とは言え、味も良く、とても美味しかったです!(食べるので必死だったので、画像がありません^^;)

 と、そんなこんなで、慌ただしく2016年7月の別府旅行は終わりを告げましたが、また別府に行きたいですね。

 I want to go to Beppu again!!

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【2016/09/16 18:00】 | 旅行
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 私は晴れ男です。
 いきなり何のこっちゃと言われるかもしれませんが、私の場合、旅行する際は雨だったことがほとんどなく、たとえ雨の予報が出ていたとしても、外に出ると次第に晴れてくることが多いので、かなりの晴れ男だと自負しています。
 実は今年の別府旅行も雨の予報続きでしたが、1日目は見事な快晴、そして2日目は朝から雨が降っていましたが、昼頃には止み、後に快晴となりました。

 やっぱり、俺は晴れ男だ!

 と、調子に乗り、気分が良かったせいかどうかは分かりませんが、その反動からか、別府市内を車で運転中、交通違反(一時停止違反)で警察に捕まりました(^^;
 言い訳かもしれませんが、はっきり言って、初めて通る観光客にはめちゃくちゃ分かりにくい一時停止が必要な道で、おそらく地元でも有名な検挙スポットなのでしょう、パトカーが物陰に隠れていたのです。
 世の警察に言いたいですが、ほんと待ち伏せして検挙するのは止めませんか?
 本来、警察とは事故や事件を防止するために存在しているのではないでしょうか?
 そうであれば、違反しそうな危ないポイントに堂々とパトカーを止めて姿を見せていれば、それなりに抑止力になり、事故等も減るはずなのに、そんな場所にコソコソ隠れ、待ち伏せして検挙するなんて、何だかおかしいと思うんですよね。
 待ち伏せしていた時に、もし事故が生じたら、警察は何と説明するのでしょうか?
 「たまたまそこに居ただけ」とでも言うんでしょうかね……。

 話がまたそれますが、私が住んでいる場所の近所にも有名な「警察待ち伏せスポット」があります。
 とある片側一車線同士の小さな交差点なのですが、交差点の手前の左右に一本ずつ路地があり、そこからも車が交差点の手前に進入してくるため、夕方はその交差点を左折する車でものすごく渋滞するところなのですが、その割には信号の青の時間がものすごく短いのです。
 そのため、いつも信号を2、3回待たないことにはその交差点を左折できないのですが、当然そうなってくると、黄色や赤になる直前・直後で左折しようとする車が増えますよね。
 もうお分かりだと思いますが、その交差点を左折したところに警官が隠れているのです。
 そして、そんな微妙なタイミング(?)で左折した車に対し、「はい、信号無視」と検挙するわけです……。

 これもおかしいですよね?
 そんなところに隠れるより前に、信号の時間を調整しろ! って言いたいです。

 青の信号がもう少し長ければ、渋滞もだいぶ緩和され、赤で進入する車も減ると思うんですよね。
 しかも警察が隠れているのは、渋滞する夕方の時間帯だけですから、何だか悪意さえ感じてしまいます。
 また、検挙された車が止まることにより、さらに交差点の渋滞が増すと言う悪循環。。。
 地元では有名なスポットなので、地元の人は引っかかりませんが、地元以外の人は数回の信号待ちでイライラするためか、検挙されている人が多いです。

「左折したところに警官が隠れてますよ~!」

 って、交差点手前でプラカードを持って立ちたいくらい、ほんと捕まる人が気の毒で仕方ないです。
 確かに、交通違反を犯した者が悪いのは当たり前で、まずはそれを反省するべきではありますが、何だか警察の検挙の仕方が、本来の警察の趣旨・目的と違っていると言うか、納得がいかないことが多いです。

 と、またもや話は大きくそれましたが、2日目の朝から油屋熊八関連の史跡めぐりをして、警察に捕まった後、お口直しに(←不適切な表現ですが^^;)お昼はラーメンを食べに行くことにしました。
 向かった先は、別府の北方、亀川温泉にある「ラーメンいっちゃん」です。

 ここは元幕内力士の琴別府関がラーメンを作っているということで、地元では有名なお店です。
 実は昨年、このお店近くの宿に宿泊したので、夜に食べに出かけたことがあるのですが、残念ながらその時はスープが品切れということで食べられず、今回はそのリベンジも兼ねて再訪することにしました。
 お店の入口に入るとすぐに、現役時代の琴別府関の化粧まわしが飾られています。
 お店自体はカウンター中心の小さなお店なのですが、お昼時だったせいもあり、たくさんのお客さんで賑わっていました。

 私が注文したのは、このお店イチオシの「いっちゃんラーメン」(大盛り)です。

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 このお店のラーメンは、「豚骨」か「味噌豚骨」のどちらかを選べるようになっているのですが、今回はノーマルの「豚骨」にしました。
 カウンター越しに厨房の中を覗き見ると、際立って大柄な男性、そう琴別府関がラーメンを作られています。
 元力士と言えば、やはり「ちゃんこ鍋」を想像しますが、ラーメンを作る様もピッタリと板についていましたね。

 さて、待つこと約5分。待望の「いっちゃんラーメン」が登場!
 画像を見て頂ければ分かりますが、「いっちゃんラーメン」はボリューム満天です!
 他のお店の大盛りラーメンよりも麺自体が多いこともさることながら、丼の上にはデカいチャーシューが一枚鎮座し、その他、キクラゲ、味付け卵、もやし、ワンタンまで入っている豪華絢爛なラーメンです。
 でも、値段は大盛りで750円(ノーマルなら650円)です。
 大阪・東京あたりだと大盛りにすれば1000円もするラーメンもザラにありますから、とても良心的と言えるのではないでしょうか。

 麺ですが、中太のストレート麺でコシがあり、少し噛みごたえがあるものです。
 スープは、おそらく熊本系でしょうね、少々こってりした味ですが、麺との相性は抜群で、何よりもチャーシューが大きいだけではなく、とても柔らかくて美味しかったです。
 味そしてコストパフォーマンス共に、とても優れたお店だと思いました。家の近所にあったら、常連になりたい味ですね(^^)


(4)に続く

【2016/09/14 18:00】 | 旅行
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 またまた2018年NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』についての話ですが、主役(なんでしょうね?)の西郷隆盛を誰が演じるのかについて、ネット上で色々と騒がれていますね。
 ちなみに、私が考える(希望している訳ではなく)西郷隆盛役は誰か? を少し予想してみました。


(演技派枠)阿部 寛、唐沢寿明、渡辺 謙、上川隆也、内野聖陽

(顔が南国系枠)坂口憲二、北村一輝、伊藤英明

(ジャニーズ枠)長瀬智也、山口達也

(歌舞伎俳優枠)中村勘九郎、中村獅童、市川海老蔵

(朝ドラor過去大河に出演アリ枠)鈴木亮平、玉山鉄二、池内博之

(鹿児島出身者枠)沢村一樹、山田孝之

(若手演技派枠)濱田 岳

(まさか?枠)AKIRA(EXILE)、池松壮亮



 いかがでしょうか?
 こうやって挙げてみて思ったのですが、鹿児島出身者枠の山田孝之さん、何だか可能性が高いように感じてきました。
 顔つきも西郷が似合いそうですし、30代の演技派俳優から選ぶとしたら、可能性が大いにあるような気がします。

 あと、濱田 岳さん。
 NHKの公式発表から推測されるアットホームな西郷像を描くとしたならば、ユーモアな演技も出来る濱田さんの可能性もあるのではないかとも感じられます。(大河ドラマに出演経験もありますし)

 と、言う訳で、私のサイトでは、

 本命◎:山田孝之さん
 対抗○:濱田 岳さん
 単穴▲:鈴木亮平さん(大久保の可能性もある)

 としたいと思います。(競馬みたいですが・笑)

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【2016/09/12 18:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 もう既に巷に溢れかえっているニュースかと思いますが、2018年NHK大河ドラマとして、西郷隆盛を主役とした『西郷(せご)どん』が正式に決定されました!
 原作は、林真理子氏の『西郷どん!』で、脚本は朝ドラ『花子とアン』の脚本家としても知られる中園ミホ氏です。

2018年の大河ドラマは「西郷どん」!(NHK公式サイト)
http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/252141.html

 ほんとに決定してしまいましたね。
 心中少し複雑なのですが、一年間、薩摩藩や西郷隆盛、ひいては幕末維新史が注目を浴びることになるのですから、まずは喜ぶべき出来事だと思います。

 しかしながら、それに合わせて、もっと残念なニュースが飛び込んできました!

18年大河ドラマ「西郷どん」に決定 堤真一は出演断る
http://www.daily.co.jp/gossip/2016/09/09/0009470264.shtml

 嘘かまことかは分かりませんが、堤さんが西郷隆盛役を断ったとか。。。
 う~ん……、やっぱり堤さんの中にも『翔ぶが如く』での西田・西郷と加賀・大久保のイメージが強かったのではないかなあ、と勝手に想像してしまいます。
 先日書きましたが、堤さんは『翔ぶが如く』(第二部)にも重要な役柄で出演され、お二方の演技を間近で見ておられたでしょうから。

 しかし、これはかなりショックなニュースですね……。
 堤さんの西郷ならアリだな、と思っていたのですが、堤さんが無理となると、そう簡単には良い人は見つからないのではないかと思います。
 そうなると、またあの最悪のパターンである、ロクに演技も出来ない「イケメン若手俳優orジャニーズの起用」ということにもなりかねませんから……。
 もしかすると、朝ドラ『花子とアン』繋がりで、花子の夫を演じた鈴木亮平さんが西郷役ということも十分にあり得ますね。朝ドラ出演から大河に、というパターンは多々ありますので。(すると、吉高由里子さんがイト夫人? あり得るかも?)

 あと、NHKの公式発表の内容、そして原作・脚本家ともに女性であるという点を考えれば、「女性目線からの西郷隆盛」や「西郷家の女性たち」という要素が組み込まれるのは間違いないと思います。
 例えば、西郷家に関わる女性たちをざっとあげると、

(西郷隆盛の妻)スガ、愛加那、イト
(西郷隆盛の妹)琴(市来家)、鷹(三原家)、安(大山家)
(西郷隆盛の義妹)マス、園(以上、吉二郎の妻)、清(従道の妻)、松(小兵衛の妻)
(西郷隆盛の娘)菊草


 以上のように、多彩になりますし、私も原作を読んでいないので判断がつきかねますが、いわゆる「西郷家を中心とした物語」という感じになるのではないかと予想されます。
 特に、これまで余りスポットが当たっていなかった愛加那については、物語の中盤の重要人物になりそうな気がしています。

 ただ、1990年のNHK大河ドラマで、西郷隆盛と大久保利通がW主演で話題となった『翔ぶが如く』でも、わりと女性に着目した描かれ方はしていました。
 例えば、隆盛の妻となるイトは、弟の従道や小兵衛、大山巌と仲の良い友達でお転婆な女性という設定でしたし(当時少し物議を醸しましたが)、大久保利通の妻・マスも重要な役柄として描かれ、例えば、島津久光に近づくために碁を覚えようとしていた大久保に、マスが碁を手ほどきするというシーンもありました。

 女性たちからの目線で西郷隆盛を描くのは良いと思うのですが、あの『花燃ゆ』のような形で、幕末の女性たちの活躍を描くのは、正直疑問が残ります。
 私もことある毎にサイト内に書いていますが、幕末に限らず、歴史上の人物や出来事を理解するためには、その時代の背景や風潮、常識、思想などの基準をもって判断するべきであって、

「今をもって歴史を見てはならない」

 ということです。
 現代の価値基準を流用して、当時の歴史的事項を解釈してはいけない、ということですが、『花燃ゆ』は根本的にそのことを無視していましたね。
 幕末とは言え、当時は純然たる「武家社会」、しかも男性中心であった社会の中、ああいった形で女性の活躍を描くのは、余りにも突拍子で違和感があり過ぎたのだと思います。

 こういう話を書いたのも、実はNHKの公式発表の中に、西郷が「篤姫との淡い恋」をする、みたいな話が書かれてあるのを見て、少し心配になったからです。

「西郷が篤姫に対して恋心を抱く……」

 ドラマとは言え、余りにも設定が無理すぎます(苦笑)。
 以前の2008年の大河ドラマ『篤姫』での、篤姫と小松帯刀のロマンスでも無理があったのに、西郷と篤姫の恋愛は、それ以上に無理があり過ぎるように思います。

 薩摩藩という藩は、郷中教育の影響で、幼少期から男女関係についてはものすごく厳しく育てられており、例えば、道端で女性と話しているのを誰かに見られようものなら、郷中の仲間から叱責を受け、言葉は悪いですがリンチ、悪ければ詰め腹を切らされることにもなりかねない行為でした。道端で話すどころか、女性と目を合わせるのも罪だ、みたいな風潮がある中、現代のように、女性が男性と気軽に話ができる時代ではなかったのです。
 ですので、私は大河ドラマ『篤姫』についても、余りにも違和感があり過ぎて受け付けられませんでした。
 篤姫が自由自在に城下を走り回り、下級藩士たちの中に交って会話をする、という設定が正直受け付けられなかったからです。

 西郷にとって、篤姫は主(あるじ)です。
 斉彬の分身とも言える篤姫に対し、一藩士である西郷がもし少しでも恋心を抱いたとしたら、西郷の性格から考えると、死に値するような行為だと自分自身を責めるような気がしますね。おそらく彼の性格上、正気ではいられなかったかもしれません。
 いわゆる封建制における身分格差というものは、現代の我々が考える以上に、非常に厳格であったことを我々はもっと認識しなければならないと思います。

 ただ、所詮ドラマ、時代劇ですので、以上のような時代背景を厳密に守ることは当然無理だと思いますし、そうした場合、確かにドラマとして成立しません。
 そのため、フィクションを交えるのは必要な要素ですし、当然だと思いますが、余りにも突拍子な設定だけは、止めて欲しいですね。
 それと前から言っていますが、大河ドラマは番組の最後に「このドラマはフィクションです」と入れるべきだと思います。

「このドラマは、実際の歴史上の人物や出来事を元に構成していますが、内容はフィクションです」

 と入れるべきですね。
 この文句が無いので、さも大河ドラマを史実通りだと勘違いする人が多い要因にもなっているかと思います。

 ともあれ、今は良い配役が決定することを祈ることと、時代考証をされる先生(おそらく鹿児島大学名誉教授の原口泉先生でしょう)に頑張って頂きたいと願うばかりです。
 また、今月号から、林真理子さんの原作を読み始めたいと思っていますので(先日、定期購読を申し込みました)、これからその感想などもちょくちょく書いていきたいと思っています。

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【2016/09/09 18:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 五代友厚の講座を聞きに行ったのが8月26日(金)のことですが、一日はさんで、28日(日)は、大阪龍馬会主催の歴史作家・桐野作人先生の講演「薩長同盟論の現在」を聞きに行ってきました。

 桐野作人先生と言えば、何と言っても、南日本新聞連載の「さつま人国誌」です。
 鹿児島の新聞社・南日本新聞に連載中の「さつま人国誌」は、鹿児島県出水市出身の歴史作家・桐野作人先生が執筆されている鹿児島県の歴史に関する連載ですが、これがものすごく面白く、大変勉強になります。私のような薩摩藩関係の歴史が好きな方なら必読の読み物だと思います。

南日本新聞連載「さつま人国誌」
http://373news.com/_bunka/jikokushi/

 まず、この「さつま人国誌」の何がスゴイのかと言いますと、記事に書かれている全ての事項について、ちゃんとした根拠史料を明示し、その史料を裏付けにした上で詳しい検証が行われているだけでなく、それに加えて、桐野先生独自の解釈や歴史観もプラスされているということです。
 そのため、とても面白く読めますし、大変勉強になります。

 この「さつま人国誌」を読むと分かりますが、桐野先生の持たれている圧倒的な知識量とその該博さには、驚きを禁じ得ません。
 現代の歴史作家の中で言えば、おそらく桐野先生は、薩摩藩の歴史のことを一番理解されている方なのではないでしょうか。
 とにかく「さつま人国誌」は必読の書だと思います。
 既にご存じの方も多いかとは思いますが、先に紹介したURLからネットでも読めるようになっていますので、是非一度読んでみてください。
 また、それをまとめた単行本も刊行されていますので超オススメです!

 と、言う訳で、その桐野先生の講演会が大阪で開かれ、かつ内容も「薩長同盟に関すること」と聞いたら、行かない選択肢はありません。
 私自身は大阪龍馬会に所属しているわけではありませんが、すぐに申し込みをしました。

 講演会が開かれた場所は、大阪の本町と堺筋本町の間にある「AAホール」というところで、私も初めて行ったのですが、何とその隣りは、幕末の頃、勝海舟が大坂に開いた「海軍塾」があった場所と言うのですから、龍馬ファンの方々に対しては、何とも粋な計らいですね。
 大阪龍馬会主催の講演会には、以前にも一度参加したことがあるのですが、会場には30名ほどの方がいらしており、熱気でムンムンでした。少し聞き耳を立ててみると、参加者の方々が口にする言葉は、「龍馬」や「幕末」、「石碑」などなど、幕末関係のことばかり。さすがは大阪龍馬会の講演会だなあ、と私は感心しきりでした。

 さて、講演に先立って配付されたレジュメは、B4サイズで何と11枚!
 また、裏表を使用して、薩長同盟に関する参考資料がびっしりと貼り付けられています。これを読むだけでも、異常なまでにテンションが上がってきました。

 さて、講演の内容についてですが、全てを書くのは難しいので、かいつまんで要点だけを書きたいと思います。
 講演のタイトルは「薩長同盟論の現在」と付けられ、最初は薩長同盟締結の地とも言える「御花畑(おはなばたけ)」のことから話が始まりました。

 現在、鹿児島県歴史資料センター黎明館で開催されている下記企画展「幕末薩摩外交-情報収集の担い手たち-」の一番の目玉として展示されているのが、近衛家の別邸で、薩摩藩家老の小松帯刀が宿舎としていた「御花畑」の絵図です。


幕末薩摩外交-情報収集の担い手たち-
開催期間:平成28年5月24日(火)~9月11日(日)
場所:鹿児島県歴史資料センター黎明館3階企画展示室

https://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/


 近年、薩長同盟が締結された場所は、小松帯刀が宿舎としていた近衛家の別邸「御花畑」であることが確認され、また、その場所や規模等が特定されました。
 鹿児島県歴史資料センター黎明館が所蔵している数多くの史料の中に、「玉里島津家史料」というものがありますが、今年に入り、この史料の中に「御花畑」の絵図があることが確認され、その絵図が今回の企画展で展示されています。
 これはまた後で予定している宮崎・鹿児島の旅編でも書きますが、私も8月に鹿児島を訪れた際、この絵図を見ましたが、地図からでも十分想像できるほど、とても立派な建物です。

 この「御花畑」は、小松の宿舎というだけではなく、準藩邸的な使われ方をしており、一種迎賓館的な側面もあった建物です。
 2016年8月8日付けの「さつま人国誌」(第421回)にも書かれていますが、桐野先生は随分以前からこの御花畑があった場所を探されており、2008年、薩摩藩士であった葛城彦一の伝記『薩藩維新秘史 葛城彦一伝』の中に、「近衛家室町頭之御花畠御屋敷」という記述を発見し、御花畑が「室町頭」にあるのを突き止められたのを皮切りに、「御花畑」の研究は一気に加速して進むことになったのですが、それらの経緯や最新情報などについて、講演で詳しくお話が聞けました。

 そして、次に本題の薩長同盟論に入っていったわけですが、薩長融和の動きは随分早い段階からあったという話から始まり、薩長同盟の締結日、そしてその性質などについて詳しいお話が聞けたのですが、一番印象深かったのは、

「なぜ薩長同盟の合意文書が存在しないのか?」

 という点でした。

 私も随分以前から疑問に感じていたことでしたが、薩長同盟というのは、薩摩藩と長州藩がお互いに交わした合意文書(協定書や調印した文書)が存在しません。
 唯一あるのは、慶應2(1866)年1月23日、長州藩の木戸孝允が土佐脱藩浪士の坂本龍馬に宛てた書簡、これはとても有名な書簡ですが、木戸が京都で結ばれた六ヶ条の薩長同盟の内容を詳しく記し、龍馬にその内容を保障してもらう意味で、裏書きを求めたものです。(後に龍馬が朱書きで裏書きして返送しました)
 薩長同盟の内容が分かる文書は、実はこの木戸の龍馬宛ての書簡のみしか無く、その他には一切文書の類は存在していません。
 この書簡については、2003年10月、鹿児島県歴史資料センター黎明館で開かれた特別展「激動の明治維新」で実物が展示され、私もその時初めて実物を見ましたが、現在でも、龍馬が裏書きを記した朱色の文字が鮮やかに残っており、感動したのを覚えています。

 少し話がそれましたが、薩長お互いの合意文書が存在しないことから、いわゆる「薩長同盟」というものは、それほど重い同盟ではなく、長州藩が薩摩藩に対して一方的に求めた、いわゆる薩摩藩の片務的な義務を書いただけの同盟であったとする説があります。
 合意文書が存在しないのは、そのことが原因だったということですが、果たしてそうと言えるでしょうか?
 桐野先生は、当時の薩摩藩の方針(いわゆる島津久光の方針)と薩摩藩と木戸との間で交わされた合意内容に、大きな齟齬(隔たり)があったことが原因で、薩長の合意文書が作成されなかったのではないかと、その背景を詳しく語られましたが、まさしく溜飲の下がる思いで、私はそれを聞いていました。

 これは幕末当時の西郷に見られる行動パターンの一つですが、西郷という人は、独断専行の気がある人物です。
 西郷の生涯をつぶさに見ていると、藩の方針、つまり久光の命令から逸脱した行為を独断で行おうとしているケースが、しばしば見受けられます。
 そのことが原因で、西郷は処罰され、沖永良部島に遠島となった経歴もあるわけですが、同島から帰藩後も、多少はマシになり、表向きは久光の方針には従いながらも、肝心な時には、独断で事を進める傾向が出てきます。
 いわゆるこれは西郷のクセのようなものですね(笑)。

 越前福井藩主であった松平春嶽は、そんな西郷の気性を表すべく、西郷の師であり、君主でもあった薩摩藩主・島津斉彬が西郷のことを、「独立の気象(気性)あるが故に、彼を使う者私ならではあるまじく」と語ったという逸話を語り残していますが、まさしく西郷という人物は、独断専行で果断に事を進める傾向のある人物だったと思います。

 桐野先生は、薩長同盟が締結される約1ヶ月前、慶應元(1865)年12月18日、薩摩から家老の桂久武が上京してきたのは、当時京都藩邸に居た西郷を中心とした重役達が、ややもすれば自分の意志とは反する行動に出ていると知ったため、彼らの行動を軌道修正するべく、自分の考えや方針を守り、命令を遵法させるための意図があったということを根拠資料を交えながら丁寧に語られていました。
 通常は国詰めの家老であった桂が、わざわざ薩摩から上京してきたのは、当時京都に居た西郷が、また勝手な行動に突っ走らないかどうかを監視させる意味もあったということです。

 ここからは、直接的には桐野先生の講演の内容ではなく、今回の講演を聞いた上で、私が感じたこと、考えたことなどを交えて書きたいと思いますが、薩長同盟と言うのは、木戸が帰国する間際(直前)に慌ただしく口頭で合意したものであったため、文書には残っていない、というのが真相に最も近いのではないかと思います。
 私が薩長同盟締結について最も重要だと考えているポイントは、先程紹介した木戸が坂本龍馬に裏書きを求めた書簡の中に、龍馬自身が、

「表に御記被成候六條は小西両氏及び老兄龍等も御同席にて議論せし所にて毛も相違無之候」

 と書いている部分です。

 坂本龍馬が、

「(木戸が)表に記載した六ヶ条の盟約の内容は、小松帯刀と西郷の二人と木戸と自分が同席して話した内容に寸分も間違いありません」

 と書いた箇所ですが、龍馬の文面をそのまま理解するならば、薩長同盟締結の際に同席した薩摩藩関係者は、小松と西郷の二人だけだったということになります。
 当時は、小松と西郷の他にも、大久保や吉井(幸輔)、桂、奈良原(繁)なんかも居たにも関わらず、小松と西郷の二人だけが同盟締結の場に同席したというのは、どうも不自然な印象を持ちます。

 『桂久武日記』という史料集が鹿児島県立図書館から刊行されていますが、その中の慶應2(1866)年1月18日の項に、「小松家(御花畑のこと)に居た木戸から会って話がしたいとの誘いを受け、そこに島津伊勢(薩摩藩家老)、西郷、大久保、吉井、奈良原らも集まり、皆で国事について話し合った」と書かれているのですが、おそらくこの席上で同盟の話は出たのではないでしょうか。
 しかしながら、これだけ薩摩藩の重役達が揃いながらも、この日に同盟は結ばれませんでした。
 なぜならば、話が相当揉めたからだと思います。

 桐野先生が講演で話されていましたが、久光の考える方針とは、寛大な長州処分を引き出すことにより、長州藩がそれを受諾し、第二次長州征伐を回避することにあったわけですが、その一方で、長州藩を代表して上京してきた木戸の考えは違いました。
 木戸はいかなる処分も受けるつもりは毛頭なく、一歩も引かず、幕府との対決は止む無し、という考え方だったからです。

 最新の2016年9月5日付け「さつま人国誌」(第425回)「薩長同盟の成立(下)」において、桐野先生が『吉川経幹周旋記四』の記述を元に書いていますが、


「木戸の申し分は、昨年の首級(禁門の変の責任者として三家老と四参謀の首級を差し出したこと)によってすべて完了したと述べて、長州処分を遵奉する口ぶりではなかったので、西郷から今日はまずこれを忍ぶべきである。他日、雲霧が晴れて、(久光公が)ご上京の節に(長州への寛大な処分を)嘆願したいと伝えたが、(木戸は)同意する色を見せなかったという」
(「さつま人国誌」(第425回)より抜粋)


 木戸は以上のようなで考え方であったため、久光の方針(長州征伐回避論)と木戸の考え(幕長決戦論)には、当然大きな差があり、薩摩藩関係者としては、久光の意向を逸脱した、長州藩を支援するような軍事的な同盟は結べなかったというのが真相だと桐野先生は語られていましたが、まさしくその通りだと思います。

 桂の日記には、その日は「深更迄相咄」と書かれており、話は深夜まで及んだことが窺えますので、両者の間でかなりの長時間話し合いが続いたが、結局は物別れに終わったというのが真相ではないでしょうか。
 また、もう少し考察するならば、この会合に出席していた奈良原喜八郎(後の繁)という人物は、いわゆる久光の意向を信奉し、忠実に実行する、言葉は悪いですが久光の僕(しもべ)のような存在であり、後年、西郷や大久保と事ある毎に意見が相違し、衝突した人物です。
 彼はいわゆる藩内における保守派の代表的人物であった人ですから、おそらく彼が席上に居ては、まとまる話もまとまらなかっただろうな、とそんな風に私は感じています。

 この慶應2(1866)年1月18日~19日深夜にかけて行われた御花畑での話し合いは、薩長同盟の事前交渉であったと考えるべきでしょうね。
 しかしながら、木戸はここで薩摩藩との考え方に大きな溝があることを悟り、帰国の決意を抱きます。
 このまま京都に居ても話し合いは平行線に終わると踏んだからでしょう。

 そして、いよいよここで坂本龍馬の登場です。
 龍馬は翌1月20日に薩摩藩の二本松藩邸に入るわけですが、おそらくその足で木戸の元を訪ね、18日から19日の深夜にかけて話し合われた内容を聞いたのではないでしょうか。
 そして、当然、龍馬は西郷の元を訪れたはずです。
 全くの想像ですが、木戸は翌21日に京都を去る予定になっていましたので、龍馬は「このまま木戸を手ぶらで帰しても良いのか」みたいな話を西郷にしたやもしれません。
 龍馬に言われるまでもなく、おそらく西郷もそして一番の同志でもある大久保も、そのことを相当悩んでいたのではないでしょうか。
 木戸の考え方に同調して長州支援の軍事的な同盟を結ぶことは、いわゆる久光の方針(趣旨)に反することにも繋がるからです。

 先程紹介した『桂久武日記』の1月20日の項に、桂が「体調不良のため、木戸の送別会(「別盃」と書かれています)に出られないということを大久保が西郷に会うようなので言付けた」という記述が出てきますが、この記述からも、大久保は何らかの理由で西郷と会う約束をしていたことが窺えます。
 おそらくですが、大久保自身も、このまま木戸を長州に帰すべきかどうかを思案していたのではないでしょうか。

 そして、翌21日、事態は急転直下します。
 小松帯刀と西郷の二人と木戸と龍馬が同席のうえ、御花畑において、六ヶ条の薩長同盟が無事に結ばれたのです。
 ここに大久保が入っていないのは、大久保も木戸と一緒に帰国するメンバーに入っており、忙しかったからだと理解できなくもないですが、想像を膨らませるならば、大久保の役回りは、奈良原ら保守派の押さえに動いていたからだと考えられなくもありません。

 また、もっと想像するならば、西郷との話し合いで、久光の意思に反する軍事的側面が強い同盟を結ぶため、どちらに転んでも(つまり、結果的に久光の怒りを買ったとしても)、どちらかが生き残れるようにしたのかもしれません。
 これはあくまでも想像ですが、寺田屋事件前の二人のやり取りの前例もありますから、あり得ない話では無いと思います。

 また、桐野先生も講演で話されていましたが、薩長同盟締結の場に小松が立ち会ったのは非常に重要だったということです。
 おそらく西郷と大久保は、最終的な結論を小松に相談して委ねたのでしょう。木戸の考える方向性を飲んで同盟を結んで良いかどうかを小松に相談したということです。
 小松自身は、久光の考える方針から逸脱していることは認識していながらも、結果的には木戸が帰国する直前に、おそらくGOサインを出したのでしょうね。
 小松としては、久光に対して何とか言い訳が出来るレベルだと考えたのかもしれません。
 以上のように考えると、薩長同盟を結ぶかどうかのイニシアチブは、西郷や大久保ではなく、実は小松が握っていたと考えるべきだと思います。

 これは私の持論でもありますが、西郷や大久保は、当時は薩摩藩の重役の身分にあったとは言え、それは「一代限りの特例」であり、結局、藩を動かすことが出来るのは、小松や桂といった門閥家老であったということは、絶対に押さえておかなければならない事実だと思います。
 西郷や大久保がいかに藩士達に慕われていたとしても、小松や桂の協力なしには、何も出来なかったというのが現実だったのです。
 それは、後の倒幕のための挙兵を画策するに際しても言えることです。

 そして、坂本龍馬ですが、「実は、龍馬は薩長同盟には余り関与しなかった」みたいなことを言われた時期がありましたが、これまで書きましたとおり、薩長同盟の締結にあたっては、龍馬も非常に重要な役回りを演じたことは明白だと思います。
 これも想像ですが、「木戸の帰国」という、最悪のシナリオを前にして、龍馬が薩摩藩関係者に働きかけたことが、最終的に小松のOKが出た要因になったとも考えられるからです。

 小松と西郷は、帰国する間際の木戸を呼び止めたかどうかまでは分かりませんが、とにかく木戸が帰る直前に最後の話し合いを持ち、とても慌ただしかったでしょうが、お互いに口頭で了承に至ったのが、「薩長同盟」であったと考えるのが、最も素直に理解できるような気がします。
 このような別れ間際に短時間で話をまとめた同盟であったため、木戸は後日それが履行されるかどうか不安に思い(この辺りが神経質な木戸らしいと思いませんか?)、龍馬に裏書きを求める書簡を送った、という風に考えるのが、一番理解しやすいように思います。

 と、ものすごく長くなりましたが、今回の桐野先生の講演会を聞いて、これまで頭の中にあったモヤモヤが一気に晴れたような気がしました。
 今回の講演は、午後1時半前から始まり、午後5時過ぎまで、途中10分間の休憩を挟んで3時間半以上ありましたが、余りにも面白くて、アッという間に時間が過ぎ去りました。
 このような講演なら、24時間でも聴いていられますね。いつまでも聞いていたい感覚を持ちましたし、とても貴重な話が聞けたと思っています。

 しかし、私のホームページもだいぶ書き直さなくてはならない時期にきましたね。結構間違いが多いような気がします(^^;

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講演「薩長同盟の現在」の様子

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【2016/09/07 12:25】 | 幕末・維新
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 いやあ~、ビックリしました。このニュースを聞いて。
 まさか、また西郷隆盛主役の大河ドラマが放映されることになるとは……。
 とにかくビックリ仰天、玉手箱です!(←古い表現ですが・笑)

堤真一、西郷隆盛役で18年NHK大河主演!7作目出演内定
(yahooニュースより)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160902-00000146-spnannex-ent

 まだNHKの公式発表ではないようですが、週刊誌やネットでは既にニュースになっていますので、ほぼ本決まりではないでしょうか。
 ちなみに主役の西郷隆盛役は、俳優の堤 真一さんとのこと。
 良かった~、安心しました。ジャニーズとか、若手イケメン俳優とかだったら、頭が痛くなるところでしたから(^^;

 ちなみに、堤さんは、1990年のNHK大河ドラマで、西郷隆盛と大久保利通がW主演で話題となった『翔ぶが如く』にも出演され、第二部から登場する矢崎八郎太という役を好演されています。
 ドラマの中の矢崎は、司法卿の江藤新平の書生となり、第二部を彩る重要な役柄でしたが、ちなみに矢崎は、いわゆる西南戦争で戦死した宮崎八郎をモデルとした役です。
 嘘かまことかは定かではありませんが、当時流布された噂によると、『翔ぶが如く』で宮崎役を作ることについて、宮崎家の子孫の方の了承が取れなかったことから、架空の矢崎役を作らざるを得なかったとか。
 また、矢崎の恋人役となる芦名千絵を演じた有森也実さんと堤さんとの掛け合いは記憶に新しいところ、と言っても、もう25年以上前の話ですね(笑)。

 私にとって、このNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』は、とても思い出深いドラマです。
 毎週欠かさずに見ていましたし、当時、初めて鹿児島に史跡巡りのためだけの旅行に行き、西郷や大久保の史跡を見て歩いたことが、今日の私の第一歩にもなっていますので。
 当時は、「翔ぶが如く 舞台は鹿児島!」という旗が鹿児島市内の町中に飾られ、鹿児島駅前(←中央駅ではないですよ)には、「翔ぶが如く館」という、NHK大河ドラマのセットや衣装を展示しているテーマ館が臨時で建てられ、私もそこで食い入るように展示品を見た記憶が蘇ります。
 当時宿泊していた鹿児島市内のビジネスホテルの100円を入れて見るテレビ(懐かしい)で見た『翔ぶが如く』は、実際に舞台となった場所や史跡を見てまわった後のことでしたから、大興奮で見たのを覚えています。

 話は少し横道にそれますが、私がこの『翔ぶが如く』の中で一番好きなシーンが、確か第5話「江戸へ」だったと思いますが、この中で、西郷が大久保からの餞別を受け取るシーンです。
 このシーンは、何度見ても、涙が出ます。概略を書くと、こんなシーンです。

 西郷は島津斉彬のお供として江戸へ行くことが決まるのですが、一番の友で同じ志を持つ大久保は一人薩摩に取り残されることになります。
 西郷は自分一人だけが江戸に行くことになったことを気まずく思い始め、西郷は大久保に対して、そんな自分の気持ちを説明しようとするのですが、大久保はそんな西郷を避けるかのように、なかなか会う機会が出来ません。
 西郷はそのことを気に病み、大久保は自分の江戸行きに不満を持っているのではないかと感じるのですが、実はそうではなく、大久保が西郷を避けるようになかなか会うことが出来なかったのは、西郷のための餞別作りに奔走しており、多忙を極めていたからだったのです。
 いよいよ江戸へ出発する日の朝、西郷は妹の琴から大久保の手紙と餞別を受け取り、ようやく全ての事情を理解します。そして、その足で大久保のもとへ会いに行き、別れの挨拶を交わします。
 このシーンが、ものすごく泣けます。
 当時、私はテレビの前で号泣しました。
 何というのでしょうか、「熱い男同士の友情」を表現しているとでもいうのでしょうか、「何も言わなくても、分かってる。吉之助さあ、おいの分まで頑張ってきてくれ!」という大久保の気持ちを黙って受け取る西郷に、二人の友情の大きさを感じ取れるシーンだからです。
 さすがは、3年B組「金八先生」を書いた、脚本家の小山内美江子さんならではのシーンですね。
 このシーンだけでも是非見て頂きたいくらいです。

 何だか私も熱くなって書いてしまいましたが(汗)、私の中での西郷隆盛の大河ドラマは、この『翔ぶが如く』で完全に完結していたので、まさかまた西郷が主役の大河ドラマが作られることになるとは夢にも思わなかったです。
 そのためか、喜びよりも心中少し複雑な気持ちの方が先に来ます。『翔ぶが如く』を超えるようなドラマが本当に作れるのか? なと。
 西田敏行さんの西郷と加賀丈史さんの大久保は抜群でしたからね。二人の友情と後年に訪れる対決を見事に演じ切っていましたから。

 しかし、本当に西郷の大河が作られるとなると、やっぱり問題は脚本を誰が書くのかと、大久保を誰が演じるのかが肝でしょうね。あと、原作をどれから取るのか、と。
 yahooの記事にもありますが、最近は西郷隆盛を主役にした小説がいくつか新しく書かれていますので、原作も注目です。

 でも、何はともあれ、大久保役を誰が演じるのかが、一番重要ではないでしょうか。
 堤さんに対抗できる演技派俳優でないと心もとないですし、以前の加賀さんのイメージを超えられるような人が果たして出るのかな、と。(間違っても『篤姫』の時の原田泰造のような人物はダメですよ・苦笑)
 また、以前このブログにも大河ドラマ論を書きましたけど、ジャニーズorイケメン俳優の起用は最小限にしてもらいたいですね。
 『翔ぶが如く』を超えろ、とまでは言いませんが、『翔ぶが如く』にひけを取らないくらい、とにかく重厚なドラマにして欲しいと願うばかりです。

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【2016/09/05 12:02】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 先週末は歴史系の講座・講演会に出席して来ましたので、その感想や報告などを2回に分けて簡単に書きたいと思います。

 まず最初は、鹿児島イベント情報にも掲載していますが、先週8月26日(金)に大阪企業家ミュージアムで開催されました

大阪検定・大阪企業家ミュージアム連携事業
五代友厚を学ぶ連続講座
第1回「五代友厚のチャレンジとイノベーション(鹿児島編)」

 に出席してきたことについてです。

 同講座の講演者は、随分以前からお世話になっておりますが、以前鹿児島県歴史資料センター黎明館で学芸員をされており、現在は鹿児島県知事公室政策調整課で、明治維新150周年記念事業を担当されておられる吉満庄司先生です。

「五代友厚の経済感覚を育んだ 薩摩・長崎・ヨーロッパ」

 というタイトルを付しての講座だったのですが、とても分かりやすく、そして興味深い講座でした。

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講座の様子

 昨今、NHKの朝の連続ドラマ『あさが来た』で脚光を浴びている友厚(何だか才助と書く方がしっくり来るのですが)ですが、この講座の中では、その友厚の真像やその国家観についても詳しく触れられた他、総括として、これまでの鹿児島における明治維新観の再検証についても話が及び、私自身、とても貴重な話が聞けたと思っています。

「鹿児島における明治維新観の再検証」

 という言葉は、私が勝手に作った造語ですが、これまで鹿児島で語られ、研究されてきた幕末維新史はと言うと、どちらかと言えば西郷や大久保が中心であり、少し言葉が過ぎる点はありますが、いわゆる「英雄伝的」な側面が多かったように思います。
 しかしながら、西郷や大久保の二人の活躍だけで歴史を動かせたわけもなく、様々な人物、例えば、小松帯刀であったり、五代友厚であったり、そして島津久光であったりと、そういった数多くの人物が薩摩藩の原動力となり、大きな幕末の歴史を動かしたと言えます。
 平成30年に明治維新150周年を迎えるにあたり、これまでの薩摩藩の明治維新観を少し違う角度から眺め、多角的そして多面的に見ることで明治維新を捉えなおす、という観点から、現在、様々な明治維新150周年事業を進められているとの話を聞き、私もとても納得した次第です。

 また、同講座終了後、ものすごく貴重な史料を直接見ることが出来ましたので、その報告も書きたいと思います。
 
 その史料とは、五代秀堯筆写「新訂万国全図」です。

 五代友厚のことを語る際、必ずと言って良いほど出てくるエピソードが一つあります。

 友厚がまだ少年であった14歳の時、父である秀堯が外国から購入した世界地図の模写を島津斉彬から借用した際、友厚はこれを二枚書き写して、一枚は斉彬に対して献上し、残った一枚を自宅の書斎の壁に貼り、日夜これを眺めて過ごしました。
 友厚が西洋のことに関心を持ち、そして壮大な世界観を持つにいたったのは、この事が大きなきっかけとなったのです。

 ちなみに、このエピソードについて、『五代友厚伝記資料第一巻』には次のように書かれています。

君年十四、太守斉彬公、曾て外国にて購ふ所の與地図の臨摹を、父秀堯君に委せらる。秀堯君、又之を君に命ず。君喜んで二葉を摹し、其一葉は公に呈し、一葉を常に書斎の壁間に掲げ、文武の余暇、日夜凝視して曰く、嗚呼、英国の盛んなる、眇焉たる一孤島を以て、克く全世界を雄視す、聞くが如きは、其版図に日没なりと。

 先程も書きましたが、このエピソードは五代友厚のことを紹介する際、必ずと言って良いほど語られるものなのですが、この度大阪において新たに発見された史料において、このエピソードはどうやら少し違っていることが分かりました。
 まず、下記の新聞記事を参考にご覧頂きたいのですが、

五代友厚の父が模写した世界地図確認 子孫「古里・鹿児島で保管を」(2016年8月24日付け、南日本新聞)
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=78208

 友厚の兄である徳夫の子孫宅で、二人の父の秀堯が書き写した世界地図(新訂万国全図)が見つかり、それに書き加えられた由緒書きによると、この世界地図は、天保10(1839)年9月朔日から晦日の30日間をかけて、当時13歳であった徳夫や妻(本田氏)の協力を得て、秀堯自身が書き写したものだということです。
 友厚は天保6(1835)年の生まれですので、当時はまだ4歳の幼子です。
 当然、世界地図の筆写に関与できるはずもなく、最初に紹介した有名なあのエピソードは、真実とは少し異なっていて、友厚が眺めていた世界地図とは、友厚自身が筆写したものではなく、父の秀堯が書き写したものだったということが、分かったということです。
(五代家には他にも別の世界地図があり、それが友厚が筆写したものだった、ということもあり得なくはないですが、現状では先程述べたことが真相のような気がします)

 この貴重な五代秀堯筆写「新訂万国全図」ですが、実は今回の講座終了後、実物を見ることが出来ました。
 感動でした。ほんと。
 この世界地図を友厚が日夜眺め、西洋諸国に思いを馳せていたと思うと、少し鳥肌が立ちました。
 今回、特別に撮影を許可して頂きましたので、その地図を本ブログにも掲載いたします。

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五代秀堯筆写「新訂万国全図」

 かなり大きな地図のため、全体像を撮影することは出来ませんでしたが、まさに時代の息吹を感じさせてくれるような史料でした。
 この五代秀堯筆写「新訂万国全図」については、鹿児島歴史資料センター黎明館に寄託されるようですので、またお目にかかれる機会があろうかと思います。公開の際は、是非ご覧になって頂きたい逸品です。

 最後に、この五代友厚を学ぶ連続講座は、大阪大学名誉教授の宮本又郎先生の講演で「第2回五代友厚のチャレンジとイノベーション(大阪編)」も開催予定ですが、参加申し込みをしたところ、現在満席で参加は難しいようです。
 ちなみに、宮本先生は、下記10月22日に開催される「明治維新150周年記念シンポジウム」でも基調講演をされる予定ですので、こちらは鹿児島近郊にお住まいの方は是非ご参加ください。

明治維新150周年記念シンポジウム
日時:平成28年10月22日(土)
場所:鹿児島市民文化ホール(第2ホール)
https://www.pref.kagoshima.jp/aa03/kensei/sesaku/m150sympo.html


 さて、次回は、8月28日(日)に開催された、大阪龍馬会主催の歴史作家・桐野作人先生の講演「薩長同盟論の現在」について書きたいと思います。
 この講演会、「勉強になりました」という簡単な言葉では片づけられないほどに、感動するレベルの講演会であったことだけは、先に書いておきます。
 とにかく、面白かったです!

【2016/09/01 17:20】 | 幕末・維新
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