西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
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 大久保利通の伝記、勝田孫弥『大久保利通伝』(上巻)には、大久保の名前について次のように書かれています。


利通、幼名は正袈裟、後、正助と云ひ一蔵と称す、諱は利済、後、利通と改む、甲東は其号なり
(旧字は改めました)



 大久保に関して言えば、幕末の頃は「一蔵(いちぞう)」、明治後は「利通(としみち)」という呼び名が、最もしっくり来るのではないかと思いますが、前回のブログでも書きましたとおり、西郷隆盛が奄美大島に潜居していた万延元(1860)年の時点では、大久保はまだ「一蔵(いちぞう)」ではなく、「正助(しょうすけ)」と名乗っていました。

 では、一体、大久保はいつ「正助」から「一蔵」へと改名したのか?

 実は私自身、大久保の改名の時期について、これまで余り深く考えたことが無かったため、これを機会に簡単ですが少し調べてみました。

 先に結論から書きますが、残念ながら大久保が「正助」から「一蔵」に改名した詳しい日付までは特定できませんでした。
 ただ、その時期については、かなり絞ることが出来ました。

 まず、大久保の改名の時期を知るにあたって、最初に紹介した勝田孫弥『大久保利通伝』から調べてみましたが、大久保が一蔵に改名した日を特定できる記述は、残念ながらありませんでした。
 ただ、他の様々な史料から総合して判断すると、大久保は、文久元(1861)年12月18日から同年12月27日までの10日間の間に、正助から一蔵に改名したことは間違いなさそうです。
 その根拠について、これから順を追って書きたいと思います。


 大久保の書簡(手紙)が掲載されている『大久保利通文書』を調べてみると、「大久保正助」の名前が出てくる一番最後の書簡は、文久元(1861)年12月14日付けで、筑前浪士の平野国臣(ひらのくにおみ)が大久保に宛てて出したものです。(『大久保利通文書 第一巻』P72)

 その4日前の文久元(1861)年12月10日、平野国臣(当時の変名:藤井五兵衛)は、自ら執筆した倒幕論策とも言える「尊攘英断録」を当時兵を率いて上京することを計画していた島津久光に対して提出することを企て、元薩摩藩士の伊牟田尚平(当時の変名:善積慶介)と共に鹿児島城下に潜入しました。
 薩摩藩政府はその情報を聞きつけると、すぐさま平野たちを拘束しましたが、2日後の12月12日、大久保は平野と面会し、今回の来鹿の目的等を尋ねました。
 そして、その2日後の12月14日、平野は大久保に宛てて書簡を出しているのですが、その時の宛名が「大久保正助」となっています。
 『大久保利通文書』を調べた限り、この書簡以降、大久保正助の名前で出された、もしくは受け取ったものが他に見当たらないため、少なくとも文久元(1861)年12月14日までは、大久保は正助と名乗っていたと推測できます。

 ただ、平野と大久保は、僧月照が薩摩入りした安政5(1858)年11月に、既に面識がある間柄ですので、この文久元(1861)年12月14日の時点で大久保が既に一蔵と改名していたとしても、他藩出身の平野が以前の通称の「正助」と書く可能性も無いとは言い切れません。
 しかしながら、実際に平野が大久保と再会した文久元(1861)年12月12日の段階で、大久保がまだ一蔵に改名していなかったことは確証があります。
 この日、小松帯刀が大久保に宛てた書簡の宛名が、「大久保正助」となっているからです。(立教大学日本史研究会編『大久保利通関係資料 三』P174)

 また、もう少し詳しく調べてみると、平野の伝記である春山育次郎『平野国臣伝』の中に、大久保とは誠忠組の同志であった薩摩藩士・柴山愛次郎が、平野が大久保に書簡を出した同日の12月14日に、平野と共に鹿児島に入った伊牟田尚平宛てに書簡を出していますが、その文中に「正印」という言葉が使われています。
 文字通り「正印」とは「正助」のことを指しており、つまり大久保のことを言っています。
 この書簡には日付の記載が無いのですが、『平野国臣伝』にも書かれているとおり、その文中に「今晩は義士伝読差し越し候」という言葉があることから、文久元(1861)年12月14日付けのものであることは、ほぼ間違いないでしょう。鹿児島城下では、いわゆる「赤穂浪士」が吉良邸に討ち入った12月14日に、『赤穂義士伝』を輪読することが習慣としてあったからです。(現在も伝統行事の一つとして継承されています)
 以上のことから、文久元(1861)年12月14日の段階で、大久保はまだ正助と名乗っていたことは間違いないと思います。

 ちなみに、柴山愛次郎は、後に起こる薩摩藩士同士が相討った「寺田屋事件」で横死することになりますが、どうやら大久保の事を快く思っていなかったようです。前述した伊牟田尚平宛ての書簡の中で、柴山は「正印すかさん男にて」と書いています。
 文字通り捉えれば、柴山は「大久保は好かん男だ」と言っているのです。
 文面から察すると、単なる好き嫌いだけを言っているのではなく、「信用ならない男」みたいなニュアンスも含まれているかとは思いますが、柴山が罵ってこの言葉を使用していることは間違いありません。
 この書簡からも、有馬新七以下、誠忠組の激派と呼ばれた人々と大久保ら久光派との間に大きな確執があったことが想像できます。


(二)に続く
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【2016/11/28 12:30】 | 幕末・維新
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 最近続いていますが、2018年NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』の話です。
 原作の林真理子さんの『西郷どん』(月刊「本の旅人」(角川書店発行)に連載中)を第9回から読み始めたのですが、先日その第10回目を読みました。

 第10回は、第9回に引き続き、西郷隆盛が奄美大島に潜居中だった頃の話です。
 愛加那を妻として迎えた西郷に、待望の男子・菊次郎が誕生し、幸せな生活を続ける二人の交流を中心に物語は進みます。
 また、砂糖きび生産のノルマを達成できなかった農民たちを西郷が救済する有名なエピソードも描かれており、西郷の奄美での暮らしぶりが、上手く凝縮されて描かれているように感じました。
 物語の後半には、西郷に召還命令が届きます。愛加那との別れが近いですね。

 林さんの『西郷どん』を読んでいて思うのは、作中の登場人物のセリフが、薩摩弁あるいは奄美弁で書かれているので、私は好きです。
 林さん自身がかなり勉強されたのか、それともセリフを薩摩弁等に直す方が他にいるのかは定かでありませんが、作中で使われている奄美弁は、読んでいてとても耳触りが良く、南国情緒溢れる雰囲気を一層際立たせ、大変効果的に使われているように思います。
 西郷関係の小説でも、セリフが標準語で書かれているものを多々見受けますが、私個人の意見としては、標準語を使うと、物語の情緒を損なうような気がします。
 小説にとってセリフというものは、物語の雰囲気を決定づける、とても大事な要素だと思いますので。
 もちろん完全なる薩摩弁で書いて欲しいとまでは言いませんが(そうなると、今度は理解不能になるでしょうから^^;)、語尾くらいは変化させ、多少なりとも薩摩弁らしくして欲しいな、と思います。
 その点から言えば、『西郷どん』はとても好感度が高い小説だと感じています。

 ただ、この連載は何回まで続くのでしょうか。
 最近見たネットニュースによると、連載は半分くらいまで進んでいるとありましたので、この時点で半分となりますと、やはり西郷の全生涯を描くのではなく、かなり絞らざるを得なくなりますね。
 やはり、女性の目から見た西郷の人間性を中心に、物語が構成されるのでしょう。

 昨今、先日の脚本家・中園さんの発言(大河ドラマ内でBL(ボーイズラブ)を描く)や西郷と篤姫の恋愛を描く云々の話から、物語の構成自体に懐疑的な意見が多々出ていますが、とにかく実際に映像を見るまでは、温かい目で見守りましょう。
 私自身も「?」が付く部分が正直ありましたが、とにかく今は温かい目で見るように心がけたいと思います。
 折角一年間を通して西郷隆盛、そして薩摩藩にスポットが当たるのですから、始まる前に水を差すことは止めようと、私自身そう考え直しました。
 ですが……、実際始まってめちゃくちゃな話でしたら、遠慮なく批判したいと思います(笑)。

 さて、話を原作『西郷どん』に戻しますが、第10回で私が少し気になったのは、西郷が大久保のことを「一どん(大久保一蔵)」と呼んでいることです。
 大老井伊直弼が江戸城桜田門外で白昼堂々暗殺されたことを西郷が知る場面で、大久保のことをそう呼んでいるのですが、時期は万延元(1860)年のことです。大久保は、この時はまだ「一蔵(いちぞう)」ではなく、「正助(しょうすけ)」と名乗っていましたので、厳密に言えば、「正どん」か「正助どん」の方が正しいですね。

 では、大久保がいつ「正助」から「一蔵」に改名したのか?

 そのことについて、私はこれまで余り深く考えたことがありませんでしたので、これを機会に少し調べてみました。
 次回のブログで、そのことについて書いてみたいと思います。

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【2016/11/22 12:45】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 先週末、娘の七五三参りで大阪の住吉大社に行ってきました。
 11月の七五三の時期もあってか、境内は七五三参りの人たちで溢れかえっていました。

 折角来たのでご祈祷もお願いしましたが、最近の七五三はプレゼントも豪華ですね。定番の千歳飴はもちろんのこと、鉛筆、消しゴムといった文具、そして今NHKの朝ドラ「べっぴんさん」でも注目されているファミリア(子供服メーカー)のカバンが2つと、さすがは大阪の有名神社のプレゼントです。(と、言いながら、祈祷料は一万円もします^^;)
 ちなみになせか協賛品と称して「三ツ矢サイダー」の缶ジュースまで配られました。炭酸ジュース好きの私にとっては嬉しいプレゼントです。(←親が飲むんかい!笑)

 と、七五三目的で住吉大社に行きましたが、ここは島津家ゆかりの神社でもあります。
 島津家の始祖・島津忠久は、この住吉大社で生まれたという伝承があり、その境内には忠久ゆかりの「誕生石」が残されています。

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(住吉大社境内の島津忠久誕生地)

 忠久が源頼朝のご落胤(隠し子)であったとする伝承がありますが、現代では否定されることが多いですね。
 私は忠久の誕生について詳しく語ることのできる知識は全くありませんので、島津顕彰会発行の『島津歴代略記』を参考にして書きますと、忠久誕生の経緯は次のとおりです。

 『島津氏正統系図』や『島津国史』によると、忠久は源頼朝の長庶子で、母は比企判官能員(よしかず)の妹丹後局と伝えられています。
 丹後局は頼朝の寵愛を受けて懐妊しますが、正妻の北条政子に疎んじられたため、密かに西国に脱出することになったのですが、摂津国住吉において急に産気づき、治承3(1179)年12月晦日、住吉大社の境内で男子を出産しました。これが忠久ということです。

 丹後局が出産する際、雨が激しく降って産前産後を浄め、末社の稲荷神社の使いの狐が火を灯して丹後局の身を守ったと伝えられていることから、これが「島津雨」と「島津氏の稲荷信仰」の始まりとなったと言われています。
 鹿児島ではお祝いごとの際に降る雨を「島津雨」と言って、大変縁起の良いものとする習わしがあるのですが、その始まりはこの忠久出産にまつわる伝承から来ているものです。

 また、丹後局は境内にあった大きな石を抱いて出産したと伝えられていることから、住吉神社の境内には、「誕生石」と名の付いた石が今でも大切に祭られています。(写真)
 忠久の出産伝説の真偽はさて置き、住吉神社は大阪で薩摩藩の歴史に触れることが出来る貴重な場所の一つだと思います。
 ちなみに、住吉大社の近くには、幕末期、土佐藩が大坂警護のため、住吉陣屋を築いていたことから、坂本龍馬もここを訪れています。

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(島津忠久の誕生石)

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【2016/11/18 12:30】 | 大阪周辺歩き
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 前回まで、夏の鹿児島旅行のことを書いてきましたが、今回は夏の旅の最後の締めくくりとして、宮崎でのグルメ&史跡巡りについて書きたいと思います。

 西郷隆盛と言えば、ご存じのとおり鹿児島生まれの鹿児島育ちですから、その関連するゆかりの場所や史跡の多くが鹿児島県にあるのは当たり前ですが、実はその隣県である宮崎県にも、西郷関係の史跡が数多く残っています。
 ただ、正確に表現するならば、西郷隆盛関係と言うよりも、西南戦争関係と言った方が適切かもしれません。

 明治10(1877)年に起こった西南戦争(西南の役)については、熊本、大分、宮崎、鹿児島と九州の広範囲が戦場となったため、九州県内には数多くの関連史跡が点在しています。
 西南戦争末期、宮崎も薩軍が政府軍と激しい戦いを続けた土地であるため、県内の各所には、戦場を含めて関連する史跡がたくさん存在しています。
 それら西南戦争関連の史跡の中でも、宮崎特有のものを挙げるとするならば、それは西郷隆盛の敗走関係の史跡だと言えましょう。

 明治10(1877)年8月15日、現在の宮崎県延岡市の北方、和田越(わだごえ)の地で繰り広げられた「和田越の決戦」で敗れた薩軍は、翌8月16日に軍を正式に解散しました。
 この和田越の戦いは、西郷隆盛が初めて陣頭指揮をとった戦いでもあったことから、現在その地には、「西郷隆盛陣頭指揮之地」という木製の碑が建てられていますが、この戦いは薩軍が勝利を期して挑んだ最後の決戦でもありました。

 しかしながら、薩軍はこの戦いで敢え無く敗退し、西郷は軍の解散を指示した後、大きな決断を下します。
 それは、鹿児島への帰還です。
 西郷は残った薩軍将兵たちを率いて、鹿児島に帰ることを決意したのです。
 薩軍の鹿児島への帰還は、鹿児島に戻り、再起を図ったと言えなくもないですが、実質的には、薩軍は既に敗軍であり、西郷以下薩軍将兵たちは、軍を解散したその日から敗走の道を辿ったと言えるのではないでしょうか。

 しかしながら、当時の延岡は政府軍が既に占領し、延岡沖には軍艦が鎮座して、延岡の北方、現在の北川町付近に宿陣していた薩軍は、四方八方を政府軍に取り囲まれている状態でした。
 そのため薩軍は、まさに網の目を潜り抜けるように、密かに可愛岳の峻嶮を越えて、政府軍の囲みを突破し、一路鹿児島に向けて南下を始めました。
 いわゆる鹿児島に向けての「逃避行」が始まったわけですが、人目を忍び、道なき道を進む過酷な敗走は、その後、約半月に渡り続きます。

 このように西郷以下薩軍将兵たちは、延岡の北方から鹿児島に向けて敗走の道を辿ったことから、宮崎県の各地には、「西郷隆盛敗走の道」と呼ばれる街道や「西郷隆盛宿営の地」と呼ばれる宿泊跡などの史跡がたくさん残されているのです。
 私も宮崎に住んでいた頃、それらの史跡をいくつか巡ったことがありますが、特に西郷隆盛が宿営したと伝えられる場所は、伝承を含めて、非常にたくさんあります。
 今年の夏、その中の一つの宮崎県小林市須木にある「西郷隆盛宿営之地」に行く機会がありましたので、夏の旅行記の最後の締めくくりとして、今回はその時のことを書きたいと思います。


 実は今回、小林市の須木に行ったのは、西郷隆盛が宿営した場所を見に行くことだけが目的ではありませんでした。
 須木に天然のうなぎを出すお店があると聞いた私の義父が、うなぎ好きの私のためにわざわざ予約を入れておいてくれたからです。
 私は史跡巡りに絡めて、その土地土地の名産や名物を味わう「グルメ巡り」をするのが大好きです。
 史跡+グルメ。まさに最高の取り合わせではないでしょうか(^^)
 と言う訳で、今回は「天然うなぎ」「西郷隆盛宿営之地」を目的に、宮崎市から一路小林市の須木を目指すことになりました。

 宮崎市から小林市の須木へは、車でのアクセスが二通りあります。

 一つ目は、国道268号線を通り、高岡町、野尻町、小林の市街地を抜けて行く方法。
 二つ目は、県道26号線を通り、綾町を抜けて行く方法。

 国道268号線を通る方法は、最もメジャーな行き方ですので、私も何度か経験済みでしたが、車のナビで検索すると、二つ目のルートである県道26号線を通る方が、距離も時間も短く、推奨ルートとして表示されましたので、今回は二つ目のルートを選択しました。
 しかし、この選択が後になって後悔を生むことになるのですが、その時の私は知る由もありませんでした。。。

 県道26号線は、宮崎市から綾町の中心部までは道路も綺麗に整備されており、スイスイと楽に行けるのですが、観光地として有名な綾の「照葉大吊橋」を通り過ぎると、様相が一変します。急に道幅が狭くなり、車の離合(「すれ違い」のことです)が難しい山道へと変貌し、何とそれが延々と15キロ以上に渡って続くのです。
 車を運転しながら、私は県道26号線を選択したことをものすごく後悔しましたが、後の祭りです。お店の予約の時間もありますので、今さら引き返すわけにはいきません。義父を乗せて私が運転する車は、そのまま険しい山道を進んでいったのですが、何と車がすれ違うことが出来ない極端に道幅が狭い場所で、運悪く対向車と6回も出くわすことになったのです!
 そして、その内何と! 5回も私が狭い山道をバックするハメになったのですから、この日はほんとツイテいませんでした。
 県道26号線はとにかく道幅が狭く、なおかつ車を離合させるポイントも少ないため、対向車と出会おうものなら、必ずどちらか一方がバックして、車を通さなくてはならなくなります。
 前から感じていましたが、車のナビって、何だか信用なりませんよね?

「えっ? 何で、この道を通るの???」

 なんていうことが、結構起こりますので。
 この狭い山道の県道26号線が推奨ルートだなんて、どう考えても間違ってます(苦笑)。

 また、こういう離合が必要な時に限って、対向車の運転手が女性だったりします。
 今回出会った6台の車の運転手の内5人が女性でしたが、その5人の女性たちは、明らかにそっちの方がバックしやすいだろ、と思うような場所でも、自らバックしようとはせず、全員がピクリとも車を動かしませんでした……(苦笑)。
 こういうのは男性・女性関係なく、バックしやすい方が先に動くべきだと思うのですが、実際なかなかそうはいかないようです。
 と言う訳で、ほんと神経をすり減らしながら、狭い山道をバックすること5回、何とか目的地の須木に無事に辿り着くことが出来ました。

 げんきんなもので、窮地を脱して平和な場所に来ると、人間という生き物は、急にお腹が減ってくるものです(笑)。
 今までの緊張から解き放たれた私は、いざ目的の「天然うなぎ」を食べに、義父と一緒に予約していたお店へと向かいました。

 今回、天然うなぎを食べたのは、「勝美館」というお店です。
 天然うなぎと聞くと、ものすごく高価な代物のように思いますが、勝美館は非常に良心的なお店で、うなぎ定食の特上でも2,200円です。
 ちなみに並は1,100円でしたから、天然うなぎを出すお店としては、破格の値段設定ではないでしょうか。おそらく都会で同じものを食べようものなら、確実にこの3倍以上は取られると思います。

 私と義父は、うなぎ定食の特上(写真)を頼みましたので、うなぎがまるごと一匹付いてきました。
 私は天然うなぎ初体験でしたが、うなぎは養殖と天然とでは全く別の食べ物のように感じました。天然は歯ごたえがあり、一般で言う「うなぎ」を食べている触感とは全く別物です。私の義姉が、「ゴムを食べているみたいだったでしょ?」と言っていましたが(笑)、それは言い過ぎにしても、確かにそれに通じるものはありました。
 天然と養殖のどちらが美味しいか。これは好みの問題だと思いますが、私は食べ慣れているせいか、脂が乗っている養殖の方が好きですね。天然はさっぱりし過ぎているように感じました。また、天然を食べるのなら、かば焼きよりも白焼きの方が良いと思います。わさびを乗せて、醤油か塩で、なんていう方が合うような気がします。

14791100363840.jpg
(うなぎを一切れ食べちゃった後の写真です^^;)

 さて、天然うなぎを堪能した後は、ようやく歴史探訪の時間です。
 小林市の須木は、西南戦争の末期、鹿児島に向けて逃避行を続けていた西郷隆盛が宿泊した場所の一つです。
 延岡出身で、西南戦争関連、特に薩軍の可愛岳突破に関して貴重な著作を残された香春健一(かはる けんいち)氏の『西郷臨末記』によると、西郷が須木に入ったのは、明治10(1877)年8月27日のことです。西郷が軍を解散したのが8月16日のことですから、それから約10日後に須木まで南下したことになります。
(西郷が軍を解散した北川町と須木との位置関係は、下記地図をご覧ください)

mapsuki.png

 同じく『西郷臨末記』からの引用ですが、西郷は27日午後、須木村大字夏木字中藪の川添源佐衛門方に投宿し、そこで一夜を過ごしました。
 香春氏は、その時の西郷の様子を次のように記しています。


かくて先きに書いた堂屋敷の農家川添方に一行が到着すると、近くを南流する須木川を前にながめ得る同家の、南向きの座敷の縁の上に輿が据えられと、西郷はそのまゝ輿から這い出て奥の六畳の間に入った。すると護衛の薩兵が出て来て、すぐ次の間との隔てに幕を下した。「『翌朝出発までの間に、誰もその姿を見た者はなかった。』と、亡父源佐衛門がいつも話していた。」とは、当主群治氏の話であった。
(香春健一『西郷臨末記』から抜粋)



 香春氏は、昭和の初期から中期にかけて、宮崎県の西南戦争の戦跡を丹念に踏査された方ですので、その著作には非常に貴重な話が盛りだくさんに詰まっています。
 この一節も、須木に入った西郷の様子が、関係者の口伝を利用して、非常にリアリティ溢れる形で描かれているのではないでしょうか。

 西郷が宿泊した川添源佐衛門の屋敷ですが、残念ながら現存していません。
 現在その地には、「西郷隆盛宿営之地」(写真)と刻まれた大きな石碑が建てられているだけです。

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(小林市須木「西郷隆盛宿営之地」)

 私が訪れたのは、西郷が宿泊した日に比較的近い、平成28年8月13日のことでした。
 現在の屋敷跡の前にはコンクリートの道路が整備され、往年の姿を偲べるものは何も残されていませんでしたが、西郷が眺めたであろう須木川には、今も昔と変わらず、透明度の高い綺麗な水が流れていました。
 部屋から一歩も外に出なかった西郷は、この須木川のせせらぎの音を聞きながら、一体何を考えていたのでしょうか。
 今となっては想像することしか出来ませんが、来たるべき鹿児島での最後の戦いに備えて、心を静めていたのかもしれません。

 最後に、またグルメの話に戻りますが、須木は栗の産地としても有名です。須木産の栗はとても甘くて美味しいですよ。
 また、須木から小林市の市街地に向かう途中に「ダイワファーム」という乳製品の直売所があるのですが、ここのソフトクリームがめちゃくちゃ美味しいです!
 特に、須木の栗を使っているのだと思いますが、ここの「マロンソフト」は、西郷ならぬ、最高です!(笑)

ダイワファーム
http://www.daiwafarm.net/index.html

※須木の「西郷隆盛宿営之地」は、宮崎交通の中藪バス停を降りてすぐの場所にありますが、アクセスが悪いため、車で行くことをオススメします。

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【2016/11/14 18:00】 | 史跡巡り
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とってもお久しぶりです
あやママ
ご無沙汰しております
篤姫の放送の頃書き込みしてました あやママです!
大河西郷どん、楽しみですね!
私の住んでる熊本は震災で大変ですが
お陰様で我が家は何とか無事でした。
また、時々お邪魔させて下さい!

ご無沙汰しています!
tsubu
あやママさん

こちらこそ大変ご無沙汰しております!
いやあ~、懐かしいです。
お元気でいらっしゃいますか?

地震、大変でしたね……。
ご無事で本当に何よりです。
まだまだ不便な生活が強いられているかと思いますが、一日も早い完全復旧を祈っております。
また、いつでも書き込んでくださいね。

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 またまた2018年のNHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』の話題ですが、脚本家の中園ミホさんが、BL(ボーイズラブ)、いわゆる男性同士の愛を描く可能性を示唆したとやらで話題になっていますね。

『西郷どん』脚本・中園ミホさん、BL要素も描く可能性を示唆
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161103-00000031-sanspo-ent

 BL=薩摩の衆道(いわゆる男色)のことを言っているのかどうかは定かでありませんが、好意的に考えれば、おそらく誠忠組(精忠組)の同志間の結束と言うのでしょうか、友情とでも言うのでしょうか、そういった男同士の熱い心の通い合いのような要素を色濃くするような気がしているのですが、果たしてどうでしょうか?

 林真理子さんの原作『西郷どん!』については、つい最近第9回を読んだところなのですが、この回は奄美大島での愛加那との出会いと結婚に至るまでの話でした。
 最後にはキスシーンが盛り込まれるなど、多分に恋愛の要素が色濃く入っていましたので、今回の大河は、重厚な歴史物語を期待するのは少し難しいかもしれませんね。
 篤姫との恋愛と言い、今回のBLの件と言い、「東京ラブストーリー」ならぬ「薩摩ラブストーリー」みたいな形になるのかも?

 と、冗談はさて置き、また、伏線なのか、敢えて西郷が嘘をついているのかどうかは定かでありませんが、第9回の中で西郷が、

「おいは、まだ女を知らん」

 と、結婚初夜の愛加那に告白する場面があるのですが、「お前、一度結婚した経験あるやろ!」と、思わず通勤電車の中で小声を出して突っ込みました(笑)。
 何なんでしょうね? これって。第10回で真相が暴露され、愛加那がショックを受けることになるのですかね?
 第10回は既に届いているので、すぐに読みたいと思います。

 また、中園さんは「アクションシーンもあるのでお楽しみに」とも言ったそうですが、西郷のアクションシーンというのは何を指しているのでしょうか? これも謎です。
 まだ始まっていないので断定は出来ませんが、今回の大河は少し毛色が違うものになりそうですね。
 恋愛やアクションシーンがふんだんに盛り込まれた、韓流歴史ドラマみたいになるのでしょうか?

 中園さんが脚本を書いた朝ドラ『花子とアン』については私も毎日欠かさず見ていましたが、花子の終生の友である柳原白蓮の義母、つまり夫・宮崎龍介の母である槌の描き方に、私はかなり違和感を持ちましたので、少し心配ではあります。
 ドラマの中では、槌のことをいわゆる嫌な姑として描かれていましたが、宮崎滔天、いわゆる龍介の父であり、槌の夫ですが、彼は中国から逃れてきた革命家の孫文を全面的に支援するなど、全く家庭を顧みない、日本と中国を駆け回るような放蕩な生活を送った人物だったのですが、その留守をしっかりと守ったのが槌であり、実は大変立派な女性だったのです。
 それがあの描き方ですからね。ドラマですから話を面白くしようとしたのかもしれませんが、私はかなりの違和感を感じました。

 色々と心配な要素は多々ありますが、それでも一年間、西郷隆盛にスポットが当たるのは大変嬉しいことですので、今は温かい目で見守りたいですね。

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【2016/11/04 12:30】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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miyukichi
こんにちは!西郷の遣韓論からコチラに来たました。
脚本の中園さん「語り合った者は皆、西郷に惚れた。一体どんな魅力だったのか!?」と書かれてましたが大河西郷どんどうなるでしょうね。
私は大河は見ませんが父が毎回見ていて、今度の西郷どんにBL要素があると伝えたところ、またいらんことするな最近はチャラチャラした大河ばかりで面白くないと言ってました。

西郷隆盛の実像・下竹原弘を読んでますが、黒田清網が西郷さん訪ねたら「朝鮮の事は心配は要らぬ。帰りにはロシヤに回って同盟を締結してくる」と答えていて、西郷さんのロマンを感じます。
勝海舟が言う竜馬さんが及ばないという西郷さんの大胆識と大誠意とはいったいどんなところなのか、もし今度の大河ドラマで知ることができるなら見てみたいと思ってます。

ほんとどうなるのでしょう?
tsubu
miyukichiさん
初めまして、こんにちは。
「敬天愛人」管理人のtsubuです。
この度はメッセージを書き込んで頂きまして、ありがとう
ございました!

ほんとどうなるのでしょうね、今度の大河。。。
私も心配しているのですが、先日ブログで「温かく見守り
ましょう」と言った手前、批判的なことを書くのがためら
われるのですが、先日、最新の原作を読んで、またもや
心配になってきました。

最近の大河は、確かにお父様のおっしゃるとおり、イケメン
・イケジョが盛りだくさんで、チャラチャラしております
からね(^^;
韓流歴史ドラマのようにフィクションを前提にして作るの
ならまだ許せるのですが、NHKは中途半端に本格的な歴史
ドラマを標榜するので、逆に面白くなくなっているような
気がします。

西郷の大胆識と大誠意……。
何だか今度の大河では望めない気がしますね(^^;


miyukichi
tsubu様お返事ありがとうございます!
私の文、読み返すと誤字脱字だらけで失礼しました。下竹原弘志さんの名前間違えてしまってました(汗)
この本ではたくさんの当時の人が西郷さんを語ってますが、高橋新吉のページでは西郷さんと会うと「直接自分の真心を人の肺腑に置いて、情と理が一緒にせまって来て」と書かれていて、いったいどんな人なんだろう!と、文字だけでは雲をつかむようだし、映像で知りたいという思いもありました。現代の俳優が演じてどこまでこの西郷さんを表現できるだろうと。
でもtsubu様は原作を読んで心配になられたということですね。。。演技うんぬんより以前のことでしょうか。う〜ん。

子供の頃は父の解説を聞きながら父の横で大河を見ていました。内容は忘れてしまったけど歴史の事など色々聞くと教えてくれて、その情景は良い思い出です。私にとっては父の解説ありきの大河ドラマ。役者さんの演技もうなるような演技で、見終わった後の父もごきげんになるようなものでした。
今年の大河は人気あるらしいね、どう?と聞くと、嘘ばかりで軽いけど仕方ないと寂しそうでした。今の時代はどうしてそうなっちゃったんですかね。
大河は父が「良いよ」と言うかどうか反応がいつも気になります。西郷どんについても始まったら是非こちらでも解説をうかがいたいです。

今は待つしかないですよね
tsubu
miyukichiさん、こんにちは。

コメントありがとうございます。
誤字脱字なんて気になさらないでください。
私なんかもしょっちゅうありますので(笑)。

高橋新吉の西郷評ですが、それに相通じるものとして、元中津藩士の増田宗太郎は、西郷のことを「一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず」という言葉で表現しています。
西郷は、やはり直接会って話をしないとその良さが分からない(体感できない)人物なんでしょうね。

日本人にとって大河ドラマというものは、大変親しみ深く、そして時代劇における頂点のようなものですので、最近の大河ドラマの軽さは正直目に余るものがあります。
おそらく俳優も小粒になってしまったのも原因なのでしょうね。

大河ドラマ『西郷どん』が始まるまでかなりの日数がありますが、今は素晴らしい作品となることを願うしかありませんね。

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