西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
 どんどん話が大きくそれていますが、林真理子さんの『西郷どん』(第11回)の中でも、西郷と久光の確執は通説通りの形で描かれていますが、そんなことよりも私が少し気になったのは、久光の率兵上京の目的が「雄藩連合」であるかのように描かれていることです。

 例えば、作中で西郷は、上京を計画する久光の考え方を「もはや幕府などあてにならぬ、自分(久光のこと)を含む有力諸藩が連合して、幕政を行なうというこっじゃ」と語ったり、また、「薩摩ら雄藩によって幕政を立て直す、天皇のお出ましにより、公武ご合体を実現させ、雄藩が深く結びつくことを考えちょっとじゃ」と代弁しています。
 後半の部分はまだしも、前半の「有力諸藩が連合して、幕政を行なう」という発言部分は、読者に少し誤解を与える書き方だと感じました。

 雄藩連合と言えば、後年、久光が「参預会議」を興したり、西郷が「四侯会議」の形でその実現に奔走することになりますが、久光が上京を計画した文久2(1862)年初頭の段階では、久光にそのような具体的なグランドプラン(構想)はなかったと思います。
 文久2(1862)年3月に久光が薩摩から兵を率いて上京した目的や趣旨については、町田明広先生が『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社選書メチエ)の中で詳しく検証されていますが、町田先生は久光上京の目的を「皇国復古(皇政回復)」というキーワードを使用して詳細に説明されています。

 久光が上京しようと考えた理由を私の考えを元に極々簡単に説明すると、「諸外国との修好通商条約の無勅許締結」や「安政の大獄」などで地に堕ちた朝廷の権威をまずは復権することを目的とし、その上で幕府に対し制度改革(幕政改革)を迫るというもので、後年考えられたような、雄藩が連合して幕政に参画することを意図したものではありません。
 端的に言えば、久光は「朝主幕従」の政治形態を取り戻そうと考えたということです。町田先生は「天皇親裁体制」と書かれていますが、つまり朝廷を中心とした政治体制の復活です。

 確かに、久光が上京する前、久光の命を受けた大久保一蔵が上京し、近衛家に対して提出した書付けには、長州藩や仙台藩など諸藩に対して、別途勅許を下すことを要望する項目がありますが、それはあくまでも幕府が久光の改革案を拒否した際に諸藩連合して事にあたるための備えであり、まだこの時点で久光の考えの中には「雄藩連合政権構想」は無かったと言えます。(時の孝明天皇の意向として、薩摩藩や長州藩など雄藩の藩主を五大老に任じるということなどもありましたが、これは雄藩連合政権構想と呼べるような代物では無いでしょう)
 それから考えると、『西郷どん』の中の西郷の語り口は、少し誤解を与えるようなものだと思います。

 ちなみに、またまた話がそれますが、先程紹介した『島津久光=幕末政治の焦点』の中で、久光が当初の上京出発日を文久2(1862)年2月25日から3月16日に変更したのは、従来から通説とされているように奄美大島から帰還した西郷が計画に反対したことが原因ではなく、久光の二の丸への移住(藩主待遇となった久光が重富邸から城内二の丸に移住することになった)が遅れたことによるものだとしています。
 確かに、『伊地知貞馨事歴』所収の小松帯刀の文久2(1862)年2月29日付け堀次郎(伊地知の前名)宛ての書簡には、


泉公去ル廿五日御發駕之御賦御座候處二丸御作事等相運譯共有之來月六日ニ御首途十六日ニ御發駕之儀被仰出最早無余日相成申候

現代語訳by tsubu
(久光公は去る二十五日(京都へ向けて)ご出発なされる予定でしたが、二の丸の普請が予定通りいかなかったことから、来月六日に(二の丸に)移り住むことになり、十六日にご出発なされると仰せ出されたため、最早余日いくばくもありません)


 と書かれており、久光の出発が遅れたのは二の丸普請が計画通り進まなかったからだと説明していますが、果たしてどうでしょうか。
 この小松の記述が、西郷の反対が原因で久光の出発が遅れたということを完全に否定できるものではないという風に私は感じています。
 確かに、表向きは「二の丸普請の遅延のため」だったのでしょうが、各諸書及び諸伝に伝えられている通り、西郷の反対が久光の上京を遅らせる一つの要因になったことまでを否定できるものではないと考えるからです。

 例えば、前回紹介しました、西郷がこの辺りの顛末を詳細に記した、文久2(1862)年7月の木場伝内宛ての書簡には、

「愚考の形行残さず申し上げ候処、二月廿五日御発駕召し延ばされ、三月十六日と相成り申し候(久光に対して自らの愚考を包み隠さず申し上げたところ、2月25日の出発を延期し、3月16日の出発に変更となった)」

 と書かれており、西郷自身は自らの発言により、久光が上京を延期することになったとしています。

 確かに、対外的に考えても、藩として「一家臣の反対があったので」とは口が裂けても言えません。
 もちろん久光の二の丸移住が遅れていたことも大きな原因であったでしょうが、それだけではなく、西郷の反対もまた、久光の出発が遅れる一つの要因になったと解釈した方が当時の状況を考えると自然のような気がします。

 またもや話がそれましたが、『西郷どん』第11回では、久光の率兵上京計画を深く掘り下げることも無く……、淡々と話は進み、西郷が久光の逆鱗に触れ、徳之島へ遠島となった後、沖永良部島に流され、過酷な待遇を受ける様子が描かれます。
 このような話の進み方から考えれば、確かに既に連載を半分くらいは終えているのかもしれませんね。

 私は最初から『西郷どん』を読んでいるわけではありませんが、これまで読んだ率直な感想を書くと、このような女性目線での西郷隆盛像を描くのであれば、昔、作家の阿井景子さんが執筆された『西郷家の女たち』のように、西郷に関わった女性たちを堂々と主役に据えた方が良かったと思います。
 それこそ西郷周辺の女性たちを列伝風にして短編で書いた方がより効果的で、かつ面白くもあったような気がします。

 この展開で話が淡々と進むのであれば、この『西郷どん』を原作として大河ドラマを構成するのは少し難しいのではないかな……、という気がしてきました。
 確かに、平成2(1990)年の大河ドラマ『翔ぶが如く』も、司馬遼太郎氏の原作が明治期だけの話であるため、脚本家の小山内美江子さんは、他の司馬作品(『竜馬がゆく』、『酔って候』など)を参考にして脚本をお書きになられていましたが、どう考えても今回の原作『西郷どん』だけで脚本を書くのは、少し難しいような気がします。
 おそらく脚本家の中園ミホさんの創作が、かなり色濃く入らざるを得ないのではないでしょうか。
 以前温かく見守りましょうと言った矢先から少し懐疑的なことを書いてしまいましたが、非常にボリュームのある西郷の生涯を一年間のドラマにすることを考えれば、正直林さんの原作では短すぎるような気がします。(単発の二~三時間ドラマなら全然オッケーなのでしょうが)

 と言う訳で、『西郷どん』の感想を書いている内に全然違う方向に話がそれてしまいましたが、今年の書き込みはこれで終了したいと思います。
 今年もあと少しで終わりですね。
 このブログについては、なかなか訪問者(閲覧者)が増えず、かなり苦戦しておりますが、今年一年もご愛読頂きましてありがとうございました。
 これからも頑張って色々な話題を書いていきたいと考えておりますので、来年もどうぞよろしくお願いいたします。

 それでは、皆さま、良いお年を!

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【2016/12/30 12:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 私自身の考えを書くと、奄美大島から帰還後、西郷が久光に対して反抗的な態度を取ったのは、久光に対する嫌悪感もさることながら、「久光内閣」、つまり小松帯刀や大久保一蔵、中山尚之助などの久光周辺のブレーンたちに対する不信感が大きな原因になっていると思います。

 前述しましたが、西郷の心中には「久光が由羅の方の子供である」という、元来生理的に受け付けられない嫌悪感があったとは思いますが、おそらく斉彬からも久光が一角の人物である旨聞いていたと思いますので、その久光が斉彬の遺志を受け継いだことを当初は大変喜ばしく感じていました。
 そのことから、西郷は久光のことを「周公旦」と褒め称えたり、斉彬の遺志を受け継いだことを「本朝の大幸」と喜んだわけですが、一転、西郷が畏敬の念をもって接していた家老の島津下総(佐衛門久徴)を始めとする、桂久武、蓑田伝兵衛といった「日置派」と呼ばれる面々を久光が更迭したことにより、西郷の感情は著しく悪化し、西郷は久光やそのブレーンたちに対して、大きな不信感を持つに到ったのだと考えています。

 日置派とは日置領主の日置島津家を中心にしたグループの総称で、西郷と日置派は非常に縁が深い間柄です。
 元々西郷家は、日置島津家出身の赤山靱負(あかやまゆきえ)の用頼(御用人のこと。世話係)を勤めていたのですが、その赤山が「お由羅騒動」に連座し、切腹することになると、西郷は父の吉兵衛から赤山が切腹の際に着用していた血染めの肌着を受け取り、終夜それを抱き、涙を流しながら赤山の志を継ぐことを決意したと伝えられています。西郷にとって、赤山という人物は特別な存在だったのです。

 赤山が亡き後も、西郷と日置島津家との関係は続き、西郷は赤山の実弟である桂久武と親しく付き合い、二人の仲は「刎頚の友」とも呼べる間柄でした。
 その桂が慶應年間に家老に就任すると、同じく家老であった小松帯刀と共に、西郷や大久保といった藩内の革新派の活動を全面的にバックアップしました。西郷や大久保が薩摩藩を背景にして縦横無尽に活躍できたのは、門閥出身家老の桂や小松の協力あってこその偉業だったと言えます。
 忘れてはならないのは、当時は純然たる封建制の世の中です。いかに西郷や大久保が優秀であったとしても、その力には限りがあり、桂や小松といった上級武士層の協力なしには、藩政を動かすことなど到底叶わなかったという点は、改めて再認識しておく必要があると思います。
 ちなみに、桂は西南戦争で西郷と共に鹿児島の城山で戦死しています。二人の仲は終生変わらなかったと言えましょう。

 話を戻しますが、前々藩主の斉興の死によって藩政に力を持つこととなった久光は、当初、日置派の長である島津下総を主席家老に据えました。これは久光やその子の藩主・忠義が、前藩主・斉彬の遺志を受け継ぐ覚悟を人事に反映した結果と言えますが、西郷はそのことを安政6(1859)年12月26日、奄美大島の代官であった吉田七郎宛ての書簡の中で、

「佐殿(下総のこと)御帰職の由申し来り、偏に祝い奉り候儀に御座候」

 と書き、島津下総の復職を我が事のように喜んでいます。
 この記述からも、西郷と日置派の深い関係が窺われます。

 しかしながら、久光は後にその島津下総を更迭するに到ります。日置派は久光の国政乗り出しに懐疑的な意見を持っていたためです。
 久光は島津下総を更迭、日置派の面々を閑職に異動し、自らの意のままに動く面々を藩政府の中心に据える藩政改革を行なったのですが、このことが、西郷が久光やそのブレーンたちに対して不信感を持つに到る大きな要因となったと考えられます。
 後年、西郷は当時の大久保ら久光のブレーンたちのことを

「少年国柄を弄し候姿にて、事々物物無暗な事のみ出候て、政府は勿論諸官府一同疑迷いたし、為す処を知らざる勢いに成り立ち」
(文久2(1862)年7月、木場伝内宛書簡)


 と、「若者たちが国の政治をもてあそんでいるような状態で、結果や是非を考えないようなことばかりをし、藩政府はもちろん役所全ては疑心暗鬼となり、為すべきところが分からないような状況になっている」と酷評しており、時の久光内閣を痛烈に批判しています。

 また、西郷は同書簡の中で、

「是非一致して御国勤王に相成り候様成されたく、頻に切論に及び候」

 と、「日置派とも一致団結し、国論を勤王化するべく、(小松や大久保、中山と)激しく議論に及んだ」とも書いており、奄美大島帰還後の西郷が日置派の復権に動いたことも窺えます。
 これらの西郷の書簡の記述は、西郷が日置派の更迭に大きな不満を抱いていたことへの傍証にもなりましょう。

 以上のように、日置派の更迭を引き金にして、西郷の心中で複雑に入り交じって生じた久光やそのブレーンたちに対する不信感が、前々回に書いた「地五郎(じごろ)発言」へと繋がっていくわけですが、これまでの経緯を考え、冷静に判断するならば、西郷の久光たちに対する嫌悪感とも言える悪感情は、言わば西郷の一方的なものであり、久光の立場からしてみれば、それは一種逆恨みと取られても仕方のないことだったと思います。

 前回書きましたが、久光にとっては、西郷に感謝されこそすれ、恨まれる理由は何一つありません。
 久光としては、先君・斉彬が寵愛し、国事に奔走した西郷を召還し、彼の力を得ることで、自らが計画した率兵上京計画を円滑に進めようと考えていたのです。そのためにわざわざ西郷を奄美大島から呼び寄せたにもかかわらず、西郷からいきなり噛みつかれるような反抗的な態度を示されたのですから、久光にとっては心外のことであり、大いに気分を害したことでしょう。
 西郷は、対人関係という観点から言えば、一種「潔癖症」とも言えるくらい、非常に神経質な人物です。また、西郷は性格的にも少し頑固な部分もあります。
 西郷の中にあった久光への生理的な嫌悪感が、日置派更迭をきっかけにして、不満が爆発し、久光やそのブレーンたちに対する悪感情に繋がったと考えるのが妥当だと思います。

 確かに、西郷がこの辺りの顛末を詳細に記した、文久2(1862)年7月の木場伝内宛ての書簡を読めば、西郷が鹿児島に帰還した当時の久光の率兵上京計画については、まだまだ不備が多く、不完全なものであり、計画が粗かった一面もあったと言えますが、奄美大島から帰還後の西郷の言動を考えると、西郷は率兵上京計画の内容に無理があると考え、それに反対したというよりも、感情的な部分(つまり久光内閣への不信感や悪感情)が先に立って、計画に反対したと解釈されても仕方のないことだという風に感じています。
 西郷とて一人の人間です。感情的なしこりが全く無かったという解釈は無理があると思いますし、鹿児島帰還後の西郷の言動は、少し感情的になっているように私には感じられます。

 少し西郷に批判的なことを書きましたが、私は西郷が好きだからこそ、西郷の褒め称えるべき部分は大いに称賛し、疑問がある部分は大いに批判するなどして、その両面をはっきりと書いていくことこそが、真の西郷評価に繋がるものと信じていますので、ご了承ください。

 私の感想を述べるならば、この時点での西郷は、人間的にも未完成、まだまだ若かったと思わざるを得ません。当時、西郷は三十代半ばですが、まだ一人の志士としての気概や気負いが抜けていない状況と言いますか、まだまだ荒々しい部分が残る人物だったと思います。
 ただ、それは西郷一人に限ったことではなく、人間としては当たり前のことです。人間は年を重ねる毎に成長してこそ人間なのであり、最初から完璧な人間など居るはずがないのですから。
 西郷のこのような態度は、奄美大島において三年にも渡る長期の潜居生活を経験したことが一つの要因になっているかと思いますが、彼が人間的にも深みを増し、研ぎ澄まされて円熟期に入り、一種達観した考えや極地に到達するのは、徳之島・沖永良部島への遠島を経て後のことだと思います。

 また、話が大きくそれましたが、以上のように、様々な要素が入り交じり、西郷は久光に対して反抗的な態度を取るに到り、また、その西郷の態度に対して、久光は大きな不満を持ちました。
 初対面からしこりの残る出会いをした結果、その後、二人の関係は益々悪化し、西郷の命令違反(下関で久光の行列の到着を待てという命令を違反したこと)に激怒した久光は、西郷を遠島処分にし、そして、二人の関係はお互いが死ぬ瞬間まで相容れぬものとなりました。
 贔屓目に見ても、その最初の原因を作ったのは、やはり西郷であったと思いますが、そんな西郷自身も、それから延々と久光との関係が悪くなるとは夢にも思っていなかったことでしょう。
 それを考えると、一つの運命であったとは言え、二人の出会いはとても不幸なものであったと思います。


(5)に続く

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【2016/12/28 12:30】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 話はどんどん林真理子さんの原作『西郷どん』から大きくそれてしまいますが、これまで書いてきたとおり、西郷と久光は、険悪なムードの中、お互いに初めて顔を合わしたわけですが、西郷が抱いていた久光に対する嫌悪感は、西郷の一方的な思いであって、久光自身は西郷に対して何も悪いことはしていません。
 逆に、西郷は久光の許しを得て奄美大島から鹿児島本土に戻ってこられたわけですから、西郷にとって久光は、恨みの対象ではなく、恩人であるとも言えます。

 西郷が久光に対して嫌悪感を持つに到ったのは、ひとえに「お由羅騒動」と呼ばれる一連のお家騒動(島津家27代藩主・斉興の後継争いに起因したお家騒動。当時正室の子で世子であった斉彬を擁立する派と側室・由羅の方の子である久光を押す派が対立した)に起因すると思われますが、このお家騒動に関して言えば、当時藩主であった斉興と斉彬擁立派との対立であって、久光自身が自ら藩主になるために陰で何か動いていたと言うことはありません。この騒動に関してのみ言えば、久光は一種蚊帳の外に置かれていた状況で、傍観せざるを得ない立場でした。

 ただ、久光が藩内にこのような騒動が生じていることを全く知らなかったという伝承もありますが、さすがにそれはあり得ないでしょう。当時は切腹者や遠島者など多数の処罰者が出て、城下は少なからず騒然としていたでしょうから。
 しかしながら、久光がこの騒動の中心に居なかった(中心人物でなかった)ことは確かです。それを示すかのように、斉彬が藩主に就任してからも、斉彬と久光の仲は良好以上の関係でした。藩主の座を争った二人でしたが、それはあくまでも間接的なものであったため、お互いにわだかまりは全く無かったと言えます。おそらく西郷も、斉彬の口から久光が非常に頼もしき人物であるとの評価を耳にしていたのではないでしょうか。

 しかしながら、西郷自身の性格から考えると、やはり久光が斉興の側室・由羅の方の子供であったことが、大きなわだかまりとして残っており、そのことが、西郷が久光を生理的に受け付けられなかった大きな要因になっているような気がします。
 「お由羅騒動」は、若き日の西郷に多大な影響を与えました。西郷は同志への書簡の中で由羅の方を「奸女」とまで書いていますので(安政元(1854)年8月2日付け、福島矢三太宛書簡)、敵として考えていた由羅の方の子供である久光のことを生理的に受け付けられなかったのではないかと思います。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎し」の感覚ですね。

 ただ、その由羅の方の子供の久光が、西郷自らが神とも崇め奉った斉彬をまるで模倣するかのように、国事に参画しようとしたことが、西郷自身の感情を著しく悪化させたという論がありますが、この点は少し慎重に考える必要がありそうです。

 前々回に紹介しました、万延元(1860)年2月28日付けで、西郷が大久保正助他三名宛てに出した書簡、西郷が久光のことを「周公旦」になぞらえて褒め称えていることが書かれてある書簡ですが、この書簡の中で西郷は、

「主上確乎渉りなされ候との御事、何とも申し難く本朝の大幸と敬仰此の事に御座候」

 と、島津久光・忠義の父子が、斉彬の遺志を受け継いだことを「本朝の大幸」と手放しに喜んでいます。
 この書簡の記述から考えると、久光の国事乗り出し自体が、西郷の感情を悪化させたとは考えにくく、やはりその他の要因が複雑に交じり合った末、西郷が久光に悪感情を持つに到ったと解釈した方が良いと思います。

 以上のように、西郷と久光の関係を考えるにあたって、この辺りの状況判断は非常に難しいと言えます。
 つまり、西郷の書簡から見る久光像と西郷帰還後の久光への態度に大きな相違が生じているからです。


(4)に続く

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【2016/12/26 12:10】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 文久2(1862)年2月15日、西郷隆盛が島津久光に初めて拝謁した際、西郷が久光に対して、「地五郎(じごろ。田舎者の意味)」と言ったという逸話については、西郷関係書籍なら必ず記載のあるエピソードですが、その元となった元薩摩藩士の市来四郎が史談会で語った内容をそのまま引用して使用しているものが少ないと思いますので、これを機会にその箇所を全文抜粋してみたいと思います。
 明治26年10月16日に開かれた史談会の席上で、市来は次のように語り遺しています。


それから久光公は西郷に仰しゃるには、昨晩中山などと議論が合わなかったようだが、其方の論を腹蔵なく聞きたいと御仰ったようです。
西郷上申するには左様でござりました、少し暴言も申しましたと云った。
それは大略聞いたが繰り返して昨晩の大要を聞きたいと仰った所に、左様なら申上げましょうと云って第一に云うには、拙者は斉彬公の如くではなく地五郎だからひょっと出て、天下大小名を駕御することは出来ないという論であった。
其の所は西郷だけ明白に憚らず云ったと御話しでござりました。
(原書房『史談会速記録 合本四』第十九輯より抜粋)
(読みやすくするため、旧字や改行などは筆者が改変しました)



 確かに、市来の語るところでは、久光は「西郷だけ(に)明白に憚らず(地五郎と)云った」と話していたとなっていますが、この証言の前段に、久光が「昨晩中山などと議論が合わなかったようだが、其方の論を腹蔵なく聞きたい」と言い、西郷が「左様でござりました、少し暴言も申しました」と返し、さらに久光が「それは大略聞いたが繰り返して昨晩の大要を聞きたい」と言った部分が、この「地五郎発言」の重要な肝になるのではないかと私は考えています。

 もう少し具体的に言うと、西郷が久光に初めて拝謁した前日の晩に(実際は2日前の文久2(1862)年2月13日のことだと考えられますが)、西郷が「暴言も申しました」と久光に言った部分です。
 つまり、私が考えるに、西郷の「地五郎発言」は、西郷が久光に対して面と向かってそう言ったのではなく、西郷が久光と初めて拝謁した日の2日前、2月13日に、西郷が久光の腹心であった小松帯刀、中山尚之介、大久保一蔵ら三人と話し合いをもった席上で出た言葉だったのではないかということです。

 久光は、西郷と会う前に中山からその時の顛末を事前に聞いていたため、西郷と初めて会った際、「昨晩中山などと議論が合わなかったようだが、其方の論を腹蔵なく聞きたい」と言ったわけですが、その際に久光が、

「その方、わしを地五郎だと申したそうじゃな」

 というようなことを、久光は西郷に向かって言ったのではないでしょうか。
 そして、その久光の言葉を受けた西郷が、

「恐れ入りつかまつりもす。誠に失礼ではございもしたが、そのように申しあげもした」

 という感じで、西郷が久光に返答したのではないでしょうか。
 つまり、西郷が自発的に久光に対して「地五郎」と言ったのではなく、久光がその前の発言を持ち出す形で、西郷に確認する、一種仕向けるような形でそう言ったのではないかと推測しているのです。

 ただ、これはあくまでも私の推測であり、そのことを裏付ける証拠は全くありません。
 しかしながら、

 1.この逸話を語ったのが、久光本人ではなく、西郷嫌いで有名な市来であること。
 2.久光が二日前の出来事を前日の晩と記憶違いしているなど、この談話は正確性に欠ける部分があること。


 など、この市来の談話には少し懐疑的な部分もあるため、市来が語った内容をそのまま額面通りに受け取るのはいかがなものかと考えています。
 平たく言えば、市来によって、話が盛られている可能性があるということです。

 薩摩藩研究史の大家で、薩摩藩関連の膨大な研究論文を書き遺された芳即正氏は、「西郷隆盛と島津久光」(西郷南洲顕彰会発行『敬天愛人誌』第6号所収)の中で、

「私もこの時西郷が初めて会見した国父久光に、軽蔑の意を込めてこんな表現をしたとはどうしても思えない」

 とお書きになられていますが、私も同感です。
 いかに西郷と言えども、言わば君主であった久光に対して、面と向かって「地五郎(田舎者)」と言ったとは、私にはどうしても考えづらいのです。


(3)に続く

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【2016/12/21 12:10】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 先日、2018年NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』の原作、林真理子さんの『西郷どん』(月刊「本の旅人」(角川書店発行)に連載中)の第11回を読み終えました。

 前回の第10回は、西郷に本土・鹿児島から召喚状が届くところで話は終わっていましたが、今回の第11回は、アッと言う間に月日は進み、西郷が徳之島に遠島となったことを奄美大島に居る愛加那が知るところから話は始まります。
 やはり、この小説は西郷隆盛の生涯をダイジェスト的に描いていますね。
 鹿児島出身の歴史作家で、西郷関係の小説や史伝を数多く書き遺した海音寺潮五郎氏が、西郷の生涯を全て小説の形式で描くのは無理があると考え、史伝での執筆に切り替えたことは有名な話ですが、やはり西郷の全生涯を事細かに小説で描き切るのは、かなり難しいことだと思います。
 おそらく林さんもそのように考え、西郷の人間性にスポットを当て、女性目線からの西郷像を描こうと思われたのでしょう。そうしたスタンスは、作中に色濃く表れていると感じています。

 さて、第11回では、西郷が奄美大島から鹿児島本土へと戻り、再び徳之島に流されるまでの出来事を西郷自身が徳之島に訪ねてきた愛加那に対して語るという形で描かれています。
 独白ではありませんが、それに近い形で、西郷が愛加那に対して、流刑となった経緯を説明します。

 いわゆる久光の率兵上京計画を巡っての「久光との確執」、「大久保との心中(刺し違い)未遂」、そして「寺田屋事件」の経緯が西郷の口から語られるわけですが、基本的にこれまでの西郷伝と変わりのない解釈で描かれています。
 ただ、西郷が久光のことを必要以上にケチョンケチョンにけなしています(苦笑)。「少しけなし過ぎなのでは?」と思うほど、作中における西郷の久光評は非常に手厳しいです。何せ、久光のことを「らっきょうのような顔の小男」とまで罵っていますからね……。ちょっとやり過ぎなのではないでしょうか。

 確かに、西郷は久光のことを好意的に思っていなかったことは事実だと思いますが、少し異なった観点から見てみると、例えば、万延元(1860)年2月28日付けで、西郷が大久保正助他三名宛てに出した書簡の中で、西郷は久光のことを「周公旦の御忠胆実に感佩奉り候」と書いており、中国・周王朝建国の功臣であった周公旦になぞらえて賞賛しています。
 これは一般に伝えられているような西郷の久光に対する悪感情からかけ離れた書きぶりであると言えます。
 周公旦は中国の歴史上においても賢人として崇められている人物です。西郷は久光のことをそんな人物と比べて、褒め称えているわけですから。

 この記述だけを見れば、西郷は久光に対して悪感情を持っていなかったとも判断可能ですが、ただ、鹿児島に帰還後の西郷の言動を考え合わせると、やはり西郷は久光に対して一種冷めた目で見ていたことは確かだと思います。
 例の「地五郎(じごろ)発言」(西郷が久光に対し、面と向かって「地五郎(田舎者の意味)」と言ったこと)と言い、久光の率兵上京計画を真っ向から否定したことから考えても、そう判断するのが妥当のような気がします。

 ただ、私自身の解釈では、もう15年以上も前の「テーマ随筆」でも書きましたが、西郷が久光に面と向かって「地五郎」と言ったとは到底思えないのです。
 確かに久光の家臣であった元薩摩藩士の市来四郎は、久光からそう聞いたと語り残していますが(『史談会速記録』第十九輯)、その証言自体がだいぶ後年のことであることと西郷と久光の関係が悪かったを踏まえての発言ですので、私は事実が少し捻じ曲げられているような気がしています。


(2)に続く

【2016/12/16 13:20】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 島津久光は、自らが兵を率いて上京する計画を立てるに際し、朝廷工作を試みるため、当時、股肱の家臣の一人であった中山尚之介を、文久元(1861)年11月9日、京都に派遣しました。
 久光の腹心であった小松帯刀の日記、『小松帯刀日記』(鹿児島県史料集22)には、11月9日の項に、「中山岸良上京被仰付今日出立ニ相成候事」と書き記されています。
 実は、大久保の改名の時期を解き明かす大きなヒントは、『大久保利通伝』や『大久保利通文書』ではなく、この『小松帯刀日記』にありました。

 大久保が久光から深意を聞いた2日後の文久元(1861)年12月18日、久光は大久保に対して、中山に続いて上京し、公家の近衛家と折衝するように命じました。
 実はこのことも『小松帯刀日記』の12月18日の項に記されているのですが、そこには、


一 大久保正助殿上京被仰付候事


 と書かれており、この記述から、12月18日の段階においても、大久保がまだ正助と名乗っていたことが分かります。
 そして、大久保はその一週間後の文久元(1861)年12月25日、準備を整えて、京都に向けて出発しました。
 実は、この上京は大久保にとって初めてのことでした。いわゆる初上京ということです。この上京は、大久保にとって外交官としての本格的な対外デビューとも言えます。

 鹿児島城下を出発した大久保は、出水筋(西目筋)を通り、肥後の水俣にさしかかると、偶然にも京都から帰国途中の中山尚之介とばったり出くわしました。
 中山から京都の情勢について詳しく話を聞いた大久保は、一度鹿児島に戻って久光や小松の指示を仰ぐ必要があると判断し、翌12月26日、二人は揃って鹿児島に戻りました。
 その後、大久保は小松や中山と相談のうえ、善後策を講じた後、2日後の12月28日、京都に向けて再び出発することになるのですが、注目すべきは、その前日の12月27日に書かれた小松の日記です。
 小松の日記には次のように記されています。


一 大久保一蔵御用ニ而呼返シ八ツ前ヨリ被参居候


 大久保が鹿児島に引き返し、小松の屋敷に相談に来たことが書かれた箇所ですが、この小松の日記では、大久保の名前が「正助」ではなく、「一蔵」に変わっています。
 つまり、12月18日、京都に行くよう命じられた大久保の名前は「正助」であったにもかかわらず、12月27日、一旦鹿児島に戻った時の大久保は「一蔵」になっていたということです。

 この『小松帯刀日記』の記述から判断すると、おそらく大久保は、久光から上京を命じられるに際し、「一蔵」と改名したものと考えられます。鹿児島を出発後、いきなり改名することなどあり得ないでしょうから、おそらく最初に鹿児島を出発した12月25日の段階で、大久保は既に「一蔵」に改名していたと考えるのが自然だと思います。

 となると、上京の命令を受けた文久元(1861)年12月18日から、鹿児島を出発した12月25日までの約1週間の間に、大久保は「正助」から「一蔵」に改名していた可能性が高いと言えます。
 前述しましたが、この時の上京は、大久保の外交官として本格的なデビュー戦のようなものです。大久保自身、気負い立つような状態であったと思いますので、その決意を込めての改名だったのかもしれません。
 また、久光から改名するように言われた可能性もありますね。

 文久元(1861)年12月28日、既に正助から一蔵へと改名していた大久保は、鹿児島を再出発した後、年が明けた文久2(1862)年1月5日に下関に到着しました。
 大久保はその足で白石正一郎の屋敷に立ち寄ったことから、白石はその日の日記に、「正月五日薩州大久保一蔵君上下四人來駕急ニ御上京ナリ」と記したということで、前回紹介した『白石正一郎日記』の記述と完全に辻褄が合います。

 大久保は大変筆まめな人物で、その生涯で膨大な日記を書き残していますが、残念ながら文久元(1861)年に書かれた日記は、12月1日から12月16日までしか現存していません。12月16日と言えば、大久保が久光の深意を聞いて感激したというあの日です。
 大久保の性格から考えると、改名したのであれば必ず日記に書き残していたでしょうし、また、もし上京にあたって久光から改名するように命じられたのであれば、必ずその旨を記していると思われますので、12月16日以降の日記が残っていないのは、大変残念です。

 以上、少し長くなりましたが、私の調べた限りでは、大久保が「正助」から「一蔵」に改名したのは、文久元(1861)年12月18日から同年12月27日までの10日間の間で間違いないと思いますが、可能性としては12月25日までの約1週間の間が高いと思います。
 その期間、もちろん西郷は奄美大島に居る状態ですから、そんなことは知る由もありません。

 最後に、一つだけ余話を。
 生前の大久保を知る関係者から、大久保の逸話などを聴き取り、それをまとめたものに、松原致遠『大久保利通』という書籍がありますが、この中で元薩摩藩士で海軍中将の松村淳蔵が、「一蔵と言ったのはズッと後ぢゃ。お側役になってからの事ぢゃ」と語っていますが、これは完全な記憶違いです。大久保が側役に昇進したのは、文久3(1863)年2月10日のことですから、一蔵に改名して既に一年以上月日が経っています。

 以上、私が調べた結果ですが、何分手持ちの資料で調べた結果ですので、もし大久保が改名した詳しい日付が書かれている史料をご存知の方は、是非ご教示願います。


おわり

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【2016/12/08 18:00】 | 幕末・維新
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 前回は、文久元(1861)年12月14日の段階で、大久保がまだ「正助」を名乗っていた根拠を書きましたが、実はそのわずか22日後の年が明けた文久2(1862)年1月5日、大久保の名前が「一蔵」に改名されていたことが分かる記録があります。

 これは『大久保利通伝』にも引用されているものですが、幕末期、数多くの志士たちを経済的に支援したことでも知られる、下関の豪商・白石正一郎の日記の文久2(1862)年1月5日の項に、次のような記述があります。


正月五日薩州大久保一蔵君上下四人來駕急ニ御上京ナリ
(『維新日乗纂輯1 白石正一郎日記』より抜粋)



 これは、大久保が久光の命を受けて京都に向かう途中、下関の白石邸に立ち寄ったことを示す記録ですが、年が明けて文久2(1862)年になった途端、大久保の名は「正助」ではなく、「一蔵」となっていることに注目すべきです。

 では、なぜこの短期間に大久保が改名することになったのか?

 を考える必要が出てきますが、それは当時の歴史的な背景を押さえる必要がありそうです。


 大久保が改名するに至った、文久元(1861)年末から文久2(1862)年初頭にかけた時期は、薩摩藩主の実父で、当時藩政を掌握していた島津久光が、いよいよ薩摩から中央政局に乗り出そうとしていた時期と重なります。
 この辺りの状況は、次に示す大久保の日記に全てが集約されていると言えます。
 文久元(1861)年12月16日の項に、大久保は次のように書き記しています。


順聖院様御忌日故御廟所エ参詣心祈丹誠ヲ凝シ
大事云々泉公江奉願候處
別而克御都合御深意段々承知仕
感激落涙嗚呼難盡言語
(『大久保利通日記上巻』より抜粋。一部旧字等を変換)



 読みやすくするために改行しましたが、この日は前藩主斉彬の月命日であったことから(斉彬は安政5(1858)年7月16日逝去)、大久保は斉彬(順聖院)の墓所福昌寺に参詣し、心をこめて祈念した後、久光(泉公)に対し、大事云々(久光の率兵上京計画について)を言上したところ、久光が自らの意気込みや考えなどの深意を話してくれたので、言葉には尽くしがたいほどの感激・感動を覚えたと、大久保は書いています。
 おそらく斉彬の月命日にあたり、国政に乗り出す不退転の決意とでも言いましょうか、亡兄斉彬の遺志を受け継ぎ、国事周旋に乗り出す強い決意を、久光は大久保に打ち明けたのでしょう。大久保はそのことを聞いて、感涙にむせんだということです。

 実はこの久光の考えが、前回書いた平野らいわゆる志士連中に、「薩摩藩が倒幕に踏み切る」ものと誤解され、挙句の果てには薩摩藩士同士が京都伏見の寺田屋で斬り合う事件(寺田屋事件)に発展します。
 平野が自ら執筆した倒幕論策「尊攘英断録」を久光に対して提出しようと鹿児島に潜入したのは、こういった理由からなのです。

 大久保の改名から少し話がそれたように感じますが、実は大きく関係があります。
 大久保が「正助」から「一蔵」に改名したのは、この久光の率兵上京計画と密接な関係があると言えるからです。


(三)に続く

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【2016/12/05 12:38】 | 幕末・維新
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