西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
 2018年NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』の原作、林真理子さんの『西郷どん』(月刊「本の旅人」(角川書店発行)に連載中)の第12回の感想です。

 第12回は、沖永良部島での西郷の遠島生活から物語が始まりますが、またもやアッと言う間に月日が進み、西郷が赦免されて京都に赴き、物語の後半には「池田屋事件」が起こり、「蛤御門の変」前夜までが描かれます。
 以前にも書きましたが、『西郷どん』は物語の進行が非常に早いです。この小説が西郷隆盛の生涯をダイジェスト的に描いているのは分かりますが、重要な歴史的事件や事項を、大久保が西郷に語って聞かせる形式で淡々と説明して進むので、幕末の歴史を知らない読者が、果たして話に付いていっているのかどうか少し心配です。

 鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏は、「西郷という人は、幕末・維新史全体の上に浮かべないと、真の姿がわからない」と、その著書『西郷隆盛』の中で語っていますが、まさに同感です。例えば、西郷が南島に潜居して不在であった頃の中央政局の動きをしっかりと押さえておかなければ、元治元(1864)年2月に西郷が復帰してからの行動を正確に理解することが出来ないと思います。海音寺氏は、従来の西郷伝はそのことをおざなりにして描かれているので、西郷の真の実像が歪む原因となっている、というような趣旨のことを書かれていますが、それから考えると、小説という形式で西郷隆盛の全生涯を描き切るのは、少し難しいような気がします。

 話を戻して、『西郷どん』第12回ですが、相変わらず西郷は久光のことを「らっきょう野郎」と呼び(苦笑。これ、何とかなりませんかね?)、その舌鋒はとても厳しいですが、それはさて置き、一点気になったのは、沖永良部島に流刑となった西郷の赦免を藩内の若手藩士たちが小松帯刀に頼み、小松が島津久光に願い出て許されたと描かれていることです。


若者たちが小松帯刀に頼んだところ、快く引き受けてくれた。交渉役として京で揉まれた彼は、人の心を読むことにたけていた。
「もはや国父さまは天下の中枢におつきにないもした」
 とおだてた後、
「こいからは小まわりのきく者が必要ではあいもはんか。あの西郷ならば京の公卿や宮家、江戸の大奥にも顔がききもす」
 と話を持っていったのである。粘り強く頼んだ結果、久光は最後には折れた。わが息子である藩主茂久(忠義)に聞いてみろと言ったのである。

(『西郷どん』第12回から抜粋)


 西郷の赦免については、通説では、久光の近臣であった高崎正風、高崎五六のいわゆる両高崎が、久光の面前において、「もし、西郷赦免の儀、お聞き届けなくば、有志一同、割腹つかまつる所存でございもす」と願い出て、それを聞いた久光が、

「左右みな(西郷のことを)賢なりと言うか……。しからば即ち愚昧の久光一人これを遮るのは公論ではあるまい。太守公(藩主・忠義)に伺いを立てるが良い」

 と言い、藩主・忠義の許可を得て決まったとされています。
 これは『大西郷全集 第三巻』の西郷隆盛伝の中に出てくる話ですが、勝田孫弥『西郷隆盛伝』ではその辺りの経緯がもっと簡潔に書かれています。


文久三年の末、久光の上京するや、諸藩有志の徒は悉く長州に走り公武合体党は皆京師に集まれり。然るに幕府の方針は益其勢権を維持するに傾向し、公武合体も亦佐幕の地位に陥るに及び薩藩の壮士輩は深く奮激する所あり。断然死を決して久光に面訴し、以て隆盛召喚の議を決せんと欲す。黒田清綱等其巨魁たり。高崎五六等之を聞知して大に驚き小松、大久保等に告げ久光に説かしむ。爰に於て隆盛放免の議漸く内定し、吉井友實を以て其使者と為すに決せり。
(読みやすくするため、旧字は改編。句読点は筆者が挿入しました)



 『西郷隆盛伝』によると、黒田清綱を中心とする壮士たちの死を決した西郷赦免運動を聞いた高崎五六らが、驚いて小松や大久保一蔵に告げ、そのことにより西郷の赦免が決まったとなっていますが、文面から察すると、久光を説得したのは、小松または大久保だったということでしょうか。林さんの『西郷どん』は、この記述を根拠として、小松が久光を説得したとしているのかもしれません。

 ただ、西郷の赦免については、小松や大久保が関与しなかったことを裏付ける話もいくつか残されています。
 前出の『大西郷全集 第三巻』所収の西郷隆盛伝には、次のようにその経緯が書かれています。


 元治元年正月、柴山龍五郎、三島源兵衛、福山清蔵、相田要蔵、井上弥八郎等十数名、丸山の某楼に集まって相談した結果、西郷赦免を願ひ出でて若し聴かれずば、一同君前に割腹死諌しようと決し、黒田嘉右衛門(後の清綱)伊地知正治の二人が有志の総代となって久光侯に哀訴しようということになった。
 しかし最初から久光侯に申出るよりか、小松、大久保に説いて、予め同意を得た上で、都合によってはこの二人の何れかから哀訴させようというのであった。
 黒田、伊地知の二人は、先ず小松を訪ねた。小松は大賛成であるが、自分からは願ひ出難い事情があるという。大久保を訪ねた、大久保も大賛成ではあるが、当時嫌疑を受けた一人であるから願ひ出の責に任ずることは出来ぬという。
 そこで、久光近士の高崎佐太郎、高崎五六がよかろうということになり、久光に拝謁の上、先君の御寵臣という一点張で、とうとう赦免を許さるることとなった。
(読みやすくするため、旧字等は筆者が改編しました)



 この記述によると、小松や大久保は、「趣旨は大賛成だが、自分たちからは西郷の赦免を願い出ることが出来ない」として、黒田たちの依頼を断ったことが分かります。
 また、「寺田屋事件」の生き残りの一人である柴山龍五郎(景綱)の事歴を記した『柴山景綱事歴』にも、次のように書かれています。


 西郷ヲ沖ノ江良部島ヨリ帰サンコトヲ久光公ノ御前ヘ出テ嘆願シ、萬一聴ルサレザル時ハ皆割腹シテ以テ死諌セント議ス。其集リシ人々ニハ三島通庸、柴山景綱、永山弥一郎、篠原國幹、椎原小弥田、宮内彦次(此時彦次ハ異論アリ)、吉田清右衛門等なナリ(綱記憶)。
 爾来又三島通庸、福山清蔵、井上弥八郎、折田要蔵、柴山景綱等ヲ始メ、拾何人丸山ニ會シ、是非御帰シアル様公ニ申上萬一聴ルシナクンバ御前ニテ直ニ腹ヲ切ラント決シタリ(正風、五六の記憶)。
 然ルニ其頃君侯ノ御前ニ出テ何事ニ限ラズ申上ル者モ少ナカリシガ、高崎正風、高崎五六ハ御近習通ヲ相勤メ君侯ノ御側近ク出ツル者ナレバ、黙視シ難クヤアリケン共ニ小松、大久保ニ謀ルニ両氏ハ故障アリ、大久保曰ク伏見一挙列ノ沸騰モ甚ダくどい(其時、綱ノ覚エ)ト茲ニ於テ五六自カラ久光公ノ御前ニ出テ、懇願シ
(読みやすくするため、旧字は改編、句読点等は筆者が挿入しました)



 登場人物に差異はありますが、内容は『大西郷全集 第三巻』とほぼ同じです。
 『大西郷全集』、『柴山景綱事歴』の記述を信用するならば、西郷召還を待ち望む藩士たちは、西郷赦免を実現させるため、小松や大久保にその取り成しを依頼したが、二人に断られたため、久光お気に入りの高崎正風、高崎五六の二人に対し、そのことを依頼したということです。『柴山景綱事歴』には、両高崎が久光の側近の者であるため、彼らから久光に願い出れば、久光も黙止することは出来ないだろうと考えたと書かれています。

 私自身の考えとしては、やはり『大西郷全集』、『柴山景綱事歴』の記述の方が真相のように感じます。久光近くに仕える小松や大久保の立場からすれば、二人は久光の西郷嫌いを身をもって経験していますから、西郷赦免を願い出ることは、火に油を注ぐような行為であると考えたに違いありません。特に大久保は、西郷を召還したい気持ちは強かったでしょうが、文久2(1862)年の久光の率兵上京計画の時のこともありますから、久光に対して容易に西郷の赦免を言いだせるような状況には無かったと思います。

 以上のようなことを考え合わせると、やはり小松や大久保は、久光に西郷赦免のことを話すことで、久光の不興を被ることを恐れ、自重したと考えるのが自然だと思います。
 西郷赦免の動きは、通説のとおり、黒田清綱や柴山景綱ら西郷の復帰を待望する若手の藩士たちが中心となり、小松や大久保ではなく、久光お気に入りの近臣であった高崎正風、高崎五六の二人に依頼したというのが真相だったように思います。

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【2017/01/24 12:30】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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 今年の正月も妻の実家の宮崎で過ごしたのですが、そのついでに少しだけですが島津家ゆかりの城下町である佐土原(さどわら)の史跡を巡ってきました。
 下記の画像(写真)は、その際に立ち寄った「島津御殿跡」の石碑です。

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 佐土原藩最後の藩主である島津忠寛(ただひろ)は、明治4(1871)年7月の廃藩置県により、藩知事を免ぜられ、10月に東京に移住することになったのですが、その際に旧領の佐土原にも別邸が必要ということで新たに屋敷が建てられました。
 これが「島津御殿」と呼ばれるものですが、現在は石碑のみが建てられているだけで、往時を偲べるような建物は何も残っていません。石碑の前に建てられた木札によると、島津御殿は戦後移築されたようで、現在は玄関の石垣のみが少し残っているような状態です。
 ただ、島津御殿跡のすぐ前には、御殿下医院なる病院もあり、御殿という名が土地に根付いたものであることが想像できました。今では石碑と石垣だけになってしまいましたが、当時はさぞかし大きな屋敷が建っていたのでしょう。
 ちなみに移築された建物は「臨江亭」と呼ばれたそうですが、昔、宮崎市内に「ホテル臨江亭」という宿泊施設があり(現在は取り壊されてありません)、それと何か関連があるような気がしますが、詳細は調べていないので分かりません。(ご存知の方はご教授ください)

 佐土原は宮崎市の北方に位置する小さな町ですが、江戸時代には佐土原藩2万7千石の城下町でした。
 江戸藩政時代、佐土原藩の城主は島津家でした。佐土原島津家は、いわゆる薩摩藩の島津家の分家筋にあたります。
 佐土原藩の藩祖(初代藩主)は、島津以久(もちひさ)という人物です。
 この「もちひさ」を「ゆきひさ」と読んでいる書物が多数ありますが、名前の読み方は諸説あってどちらが正しいとは言えないようです。
 佐土原町教育委員会発行の『佐土原藩史』では、「ゆきひさ」とルビをふっていますが、「ゆきひさ」という読み方は、以久の前名の「幸久」から来ているものと推測されるのと、個人的には「以」の字を「ゆき」と読むのは少し無理があるような気がしますので、ここでは便宜上以久(もちひさ)とします。

 さて、その以久の父は、島津家中興の祖と呼ばれる島津貴久の弟・島津忠将(ただまさ)です。
 つまり、以久は、戦国期の武将として名高い島津義久、義弘兄弟の従兄弟にあたります。
 以久の父の忠将は、智勇共に優れた武将で、兄の貴久をよく支えましたが、永禄4(1561)年、大隅の豪族・肝付省釣(兼続)との戦いで戦死しています。
 私も詳しくは知りませんが、前出の『佐土原藩史』によると、以久も父に劣らず、知勇兼備の武将であったそうです。
 この辺りの簡単な家系図を書くと次の通りです。


忠良(日新斎)

貴久-忠将
│    │
義久  以久(佐土原藩祖)
義弘
家久

豊久


 佐土原という土地は、元々は義久や義弘の弟である家久が治め、家久の死後はその子の豊久が治めていました。
 しかしながら、その豊久が「関ヶ原の戦い」で戦死したため、以久がその所領を引き継ぐことになりました。これが幕藩体制下における佐土原藩の誕生です。
 佐土原藩が薩摩藩の分家と言われるのはこういった所以からですが、以久をもって始まった佐土原藩は、幕末を迎えた頃には11代を数え、最後の藩主が最初に紹介した島津忠寛です。

 島津忠寛という人物は、薩摩藩の幕末史の中でもちょくちょく名前が出てくる人物です。
 例えば、昨年末にこのブログでも書きましたが、文久2(1862)年3月、島津久光が薩摩から兵を率いて上京した際、当時江戸にいた島津忠寛は、京・大坂に浪士たちが集結し、不穏な企みがあることを知り、大坂に入った久光に対して使者を送りました。
 忠寛は久光に対し、京には入らずに、そのまま直接江戸に参府するよう意見したことが『島津久光公実記』の中に出てきます。


淡路守君忠寛亦使者ヲ馳セ公ニ勧めムルニ京師に入ラスシテ直ニ参府スヘキヲ以テス


 これがその部分ですが、忠寛は久光がある京に入ることにより、不測の事態が生じることを案じたのです。
 結局、久光の入京後、薩摩藩士同士が相討つ「寺田屋事件」が生じたのですから、忠寛の見通しは正しかったと言えましょう。
 ただ、忠寛に限らず、久光が京に入ることで、何かしらの騒動が生じるであろう危惧は、他の大名にも少なからずありました。

 ちなみに、その後久光は勅使・大原重徳と共に江戸に下り、幕府に対して幕政改革を要求するに到りますが、その江戸滞在中、藩主・忠義の名代として働いたのが、島津忠寛でした。
 久光は薩摩藩内では藩主・忠義の実父として身分が高い人物でしたが、当時は無位無官、幕府から見れば、単なる陪臣の身分に過ぎません。そのため、江戸城に登城する資格も無い久光に代わって、忠寛が薩摩藩主の名代となったわけです。

 また、その忠寛ですが、久光が江戸に滞在中、何と久光を薩摩藩主にするべく運動を起こしています。
 越前福井藩の中根雪江が書き記した『再夢紀事』には、次のように書かれています。


七月廿六日今日御登城前御兼約にて島津淡路守殿へ御逢有之御内談之次第ハ當薩侯修理大夫殿幼年病身ニ付三郎殿當代に建度との修理大夫殿内願之由

現代語訳 by tsubu
文久2年7月26日、松平春嶽公が江戸城に登城する前、かねてからの約束で、島津淡路守忠寛殿とお会いになった。御内談の内容は、薩摩藩の当主である島津修理大夫忠義殿は幼年であり(と言っても、当時忠義は22歳)、かつ病身でもあるため、三郎殿(久光のこと)を当主に立てたいと、島津修理大夫忠義殿の内願があるとの話であった



 この記述によると、忠寛曰く、「久光の薩摩藩主就任」については、久光の子の藩主・忠義の内願であるとしていますが、鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏は、その著書『西郷隆盛』の中で、久光の意向だったと推測しています。
 私も同感です。久光の性格からして、忠寛が久光の指示なく、勝手にそのような訴えを起こすとは考えられないからです。
 ちなみに、この忠寛の話を聞いた前越前福井藩主の松平春嶽は、「倫理戻り候故御不同意之趣(倫理にもとる行為である故、同意しない)」と答えたと、『再夢紀事』には書かれています。
 確かにそうでしょう。自分の子供を廃して、父親自らが藩主に就任するということは、春嶽ならずとも、倫理上憚る行為であると感じたことでしょう。

 以上のように、久光が江戸に滞在中、忠寛は重要な役回りを演じていますが、その他にも佐土原藩全体で見れば、薩英戦争後に行われた横浜における薩摩藩とイギリスの講和談判においても、久光と忠寛の命を受けた佐土原藩士の樺山久舒(ひさのぶ)、能勢直陳(なおのぶ)が談判に参加し、重要な働きをしている事実もあり、当時の佐土原藩は、宗家である薩摩藩と密接な関係で結ばれ、共に一体となって幕末・明治維新という時代を行動したと言えます。

 以上のように、佐土原という町は、「もう一つの島津家の町」として、非常に歴史深い場所であるとも言えるのですが、残念ながら、明治10(1877)年の西南戦争において、佐土原も戦場となったため、今は往時を偲ばせるような建物は数少なく、城下町の風情を感じさせてくれる場所は余り残っていないのが現状です。
 また、佐土原という町は、元々「宮崎郡佐土原町」として独立した自治体だったのですが、2006年1月1日に宮崎市に編入されてしまいました。
 ただ、佐土原という地名は、まだちゃんと残っているので、それがせめてもの救いですね。

 最後に話はガラッと変わって、佐土原への史跡巡りのついでに、もちろん宮崎グルメも堪能してきました。
 下記の画像(写真)は、佐土原の隣町、宮崎県児湯郡新富町にある「うなぎの比恵島」さんの「うな丼 大(2,112円)」です

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 以前にもブログで書きましたが、宮崎のうなぎには「きも吸い」ではなく、「呉汁(ごじる)」が定番です。
 呉汁とは、水に浸して柔らかくした大豆をすり潰し、それを絞ったものを入れた味噌汁のことですが、これが濃厚で、味噌が引き立って風味が良く、美味しいんですよね。
 先に呉汁のことを書いてしまいましたが、「うなぎの比恵島」さんは養鰻場が経営しているお店ですので、もちろんここの「うなぎ」は最高に美味しいです。
 また、このお店はご飯がとても美味しいので、うな丼は最高です。宮崎に行かれた際には、是非味わって頂きたい「うなぎ」です。

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【2017/01/18 18:00】 | 史跡巡り
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 新年、明けまして、おめでとうございます。
 本年も西郷隆盛のホームページ「敬天愛人」をよろしくお願いいたします。


 私がこの西郷隆盛のホームページ「敬天愛人」を開設したのは、今から17年以上前の1999年9月24日のことです。途中体調を崩し、なかなか更新できない時期もありましたが、振り返れば長い間やってきたものです。
 私がホームページを開設した当時は、他にも幕末の歴史系ページがたくさんありましたが、今やそのほとんどが活動停止状態に陥っています。
 確かに、今のネット社会は、ホームページからブログ、フェイスブック、ツイッター、インスタグラムなどに媒体自体が移行し、個人でホームページを作成・運営することが流行らない時代となりましたが、私としましては、西郷生誕200年にあたる2027年を目指して、これからも頑張っていきたいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 さて、新年が始まったばかりなのに来年のことを言うのは鬼が笑いますが、来年平成30(2018)年は、明治維新150周年にあたる年です。
 昨年くらいから、鹿児島では大々的に「明治維新150周年」を謳い、シンポジウムを始めとする様々なイベントが企画・開催されています。
 また、来年はNHKの大河ドラマとして『西郷(せご)どん』が決まり、鹿児島はとても盛り上がっている状態ですが、以前、平成28年9月1日付けのブログ「週末は歴史漬け①-五代友厚のチャレンジとイノベーション-」の中でも少し触れたとおり、明治維新150周年の節目を迎えるにあたって、「鹿児島における明治維新史の再検証」が重要なポイントになってくるのではないかと思っています。

 時はだいぶ遡り、明治維新100周年を迎えた年、つまり昭和43(1968)年はどうであったかと言うと、やはり鹿児島における明治維新と言えば、西郷隆盛であり、大久保利通が全てであったと思います。
 当時「明治百年」という言葉が頻繁に使われ、それに伴う記念事業がたくさん行われ、また、関連書籍なども多数出ましたが、今それらを読み返してみても、やはり「薩摩藩=西郷と大久保」がキーワードとなっているものが多く、鹿児島で語られ、そして研究されてきた明治維新史は、どちらかと言えば、西郷と大久保が中心であり、彼らの「英雄伝」的な側面が色濃く出ていたように思います。
 少し言葉が過ぎますが、彼らが明治維新における「スーパーマン」のような存在として描かれ、さも二人の活躍で明治維新が成立したと言わんばかりの勢いで語られる傾向がややもすればあったのではないでしょうか。

 確かに、西郷と大久保の二人が薩摩藩の明治維新の原動力となったことは間違いありません。彼らの残した功績は偉大と言えます。
 しかしながら、西郷や大久保の二人の活躍だけで歴史を動かせたわけがなく、彼らを取り巻く様々な人物、例えば、島津斉彬であり、島津久光であり、そして小松帯刀といった数多くの存在があってこそ、二人は縦横無尽に活躍でき、幕末という大きな歴史を動かしたと言えます。
 平成30年に明治維新150周年の節目を迎えるにあたり、薩摩藩の明治維新を少し違う角度からも眺め、多角的にそして多面的に見つめ直すことが重要なのではないでしょうか。

 誤解されては困りますが、これは西郷や大久保を否定しているわけではありません。そのような狭小な考え方ではなく、

「薩摩藩の明治維新史を正確に理解するためには、新たな視点を持つことが重要になってくる」

 ということを意味していると、ご理解頂ければと思います。
 また、もちろんそれに併せて、西郷と大久保の再検証も必要となってくるでしょう。
 彼らは明治維新における偉人と崇め奉られたことから、実像以上に虚像部分が肥大化し、独り歩きしている面も多々あることから、彼らの生涯を再度点検し直し、「新たな西郷像や大久保像を再構築する」ということも併せて必要になってくるのではないかと感じています。


 少し前置きが長くなりましたが、薩摩藩における明治維新史を捉えなおすにあたり、私自身が考える、幕末の薩摩藩における西郷と大久保以外の新たなキーパーソンを前期と後期の二期に分けて挙げるとすれば、やはりこの四人ではないかと思います。

(前期)島津斉興と調所広郷
(後期)島津久光と小松帯刀


 小松を除き他の三名は、どちらかと言うとこれまでの歴史では「悪者」として扱われ、数ある幕末関係の小説の中でも、余り良い形では描かれていません。
 しかしながら、明治維新において、薩摩藩があれだけの大きな存在感を示し、そして多くの人材を輩出して活躍できたのは、その元を質せば、やはり島津斉興と調所広郷の二人が窮地に陥っていた薩摩藩の財政を立て直したことに尽きると言えます。
 その点から言えば、二人の功績は薩摩藩の幕末維新史において非常に大きかったと言えますが、英名君主と謳われた斉彬との関係から、二人は悪者という風に捉えられ、常に悪人扱いです。
 小説であればそういった描き方も致し方ないのかもしれませんが、薩摩藩の明治維新史を正確に理解するにあたっては、二人の功績を再認識することは最も重要なことなのではないかと思っています。
 特に調所に関して言えば、後年完膚なきまでに否定され続けた人物ですので、調所の復権は必要不可欠になってくるのではないかと思っています。

 幕末初期の薩摩藩と言えば、やはりどうしても島津斉彬という人物がキーパーソンとして挙げられがちですが(私も若い頃はそう考えていました)、斉彬の活躍は、斉興と調所が作り上げた基礎があったればこそであり、もし斉興と調所が作り上げた財政的な基盤が無ければ、斉彬は幕末期にあれほどの存在感を示し得なかったのではないでしょうか。
 斉興と調所が耕した土地に斉彬が良質な肥料を巻き、そしてその肥沃な土地を背景に国事に参画していったのが島津久光であり、そしてそれを支えたのが小松帯刀でした。
 随分昔からこれまでホームページの掲示板等にも書いてきましたが、西郷と大久保の活躍は、小松帯刀や桂久武といった、とても頭脳明晰で優秀な門閥家老が居たからこそ可能であったということを決して忘れてはなりません。

 つい先日も本ブログ内で書きましたが、幕末という時代は純然たる封建制の世の中です。いかに西郷や大久保が優秀であったとしても、彼らの力には限界があり、桂や小松といった上級武士層の協力なしには、藩政を動かすことなど到底叶わなかったのです。
 そのため、薩摩藩の幕末史を見ていると、要所で必ず小松や桂の存在が出てきます。薩長同盟しかり、薩摩藩の倒幕路線しかりです。
 その点から言えば、薩摩藩の明治維新史における小松の功績というのは、とてつもなく大きなものだったと言えます。
 また、島津久光ですが、彼は西郷との確執で、どうしても悪者として見られがちですが、もし久光が凡庸な人物であったとしたならば、薩摩藩はあれほど幕末史において活躍することは出来なかったと思います。それは他藩の状況を見れば明らかです。
 久光が聡明で、かつ薩摩藩を一つに束ねられる能力があったからこそ、薩摩藩は水戸藩のように空中分解することもなく、明治維新史に多くの人材を輩出し得たと言えるのではないでしょうか。

 新年早々またもや長くなりましたが、来年明治維新150周年の節目を迎えるにあたって、私自身も新たな視点から薩摩藩の明治維新史を見つめ直したいと思っています。

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【2017/01/06 18:30】 | 幕末・維新
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