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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます     (大河ドラマ『西郷どん』の解説も是非お読みください)
前回に引き続き、物語は西郷の最初の妻であるスガ(須賀)が中心でした。
最後は西郷を江戸に行かせるために自ら潔く身を引いた女性として、スガの悲哀が描かれていましたが、私自身の感想を述べると、あのような形で彼女が描かれたのは少し残念な気がしました。

前回のブログでも、西郷が妹のコト(琴)の夫である市来正之丞に宛てた手紙の中で、「両親の勧めにより娶った妻を両親の死後に離縁した」と書いた手紙があることは触れましたが、西郷は同手紙の中で次のようにも書いています。

「再び此の期に相成り迎え申すべき存慮全く御座なく候」

つまり、西郷はスガとの離婚を経験し、「再び結婚するつもりは全くない」と書いており、この記述から想像を膨らませて、あのような形でスガとの別れを描いたのかもしれません。
あくまでもドラマですので細かく言うつもりはありませんが、ただ、今回は私の考えるスガ像とは少し離れていましたので、当時の西郷家の家計事情を絡めながら、スガと西郷の離婚の原因について、少し迫りたいと思います。

『西郷どん』では、当初から西郷家の貧窮について描かれていますが、スガが嫁入りした当時の西郷家は、経済的に逼迫した状況にあったことは間違いありません。
なぜなら、前回も書きましたが、嘉永5(1852)年9月に一家の大黒柱でもあり、稼ぎ頭でもあった父・吉兵衛が急逝したからです。
吉兵衛の死により、西郷家の財政は全て西郷の双肩にかかりました。
ただ、当時の西郷はまだ24歳の若者です。役職も郡方書役助のままで薄給でしたから、ドラマ内でも描かれていたとおり、当時の西郷はお金に大変苦労したことでしょう。
そして、西郷に背負わされた苦労は、一家の台所を預かることになったスガに対しても、遠慮なく降りかかったことは想像に難くありません。

そんな最中、2年後の嘉永7(1854)年1月に、西郷は斉彬と共に江戸へと旅立ってしまいます。
西郷が江戸に出た後、残った家族を一つにまとめ、そして経済的にも支えたのは次弟の吉二郎でした。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、吉二郎は西郷が江戸に出発する前年の嘉永6(1853)年に勘定所支配方書役助の役職に就いていますが、吉二郎の就職が西郷の江戸行きを後押ししたと言えます。

鹿児島県史料集(29)『要用集(下)』の中に、「諸御役座書役小役人持高依員数役料米並支度料銀等不被下候事」という文書が収められています。
この文書は藩士が役職に就いた際、藩から支払われた支度金の概要等を記したものですが、そこには「高五拾石以下家督部屋栖共支度料銀三枚三拾二匁御扶持米被下候」とあり、50石以下の武士で小役人に就いた藩士には、家督を継ぐ者や部屋住みの者に関わらず、支度料として「銀三枚三十二匁と扶持米」が下されたとあります。
当時の西郷家は41石の持ち高でしたので、吉二郎が就職したことにより、藩から西郷家に対して、同様の支度金と扶持米が支給されたことがこの文書から分かります。
当時経済的に困窮していた西郷家にとって、吉二郎の就職による支度金等の受給は、まさに大きな助け舟となったことは想像に難くありません。
経済的に苦しい状況にありながらも、西郷が江戸行きを決意したのは、このように吉二郎の就職が非常に大きかったと言えます。
少し想像を膨らませるならば、家庭の事情で江戸行きを断念しようとしていた西郷に対し、

「兄さあは何も心配することはなか。留守はおいが引き受けもんで、兄さあは江戸へ行ってくいやい」

と吉二郎が言い、その弟の言葉に涙を浮かべながらうなずく西郷の姿が目に浮かぶようです。

しかしながら、吉二郎が就職したとは言え、西郷家の家計が依然として苦しいものであったことは容易に想像がつきます。
西郷家の家政上の記録である「万留」(『西郷隆盛全集 第四巻』所収)によると、西郷が江戸に旅立った翌年の安政2(1855)年12月12日、西郷家は持ち家であった加治屋町の家屋敷を売り払っている事実があるからです。
おそらく持ち家は既に借金の抵当などに入っており、当時の西郷家は家屋敷を手放さなければどうにもならないような状態に陥っていたのでしょう。
これは西郷が江戸に出て留守中の出来事ですから、当時の西郷家がいかに困窮していたのかがよく分かります。

家屋敷を売り払った西郷家は、甲突川を挟んだ対岸の上之園町の借家に移り住むことになりますが、以上のような事実は、当時の西郷家の生活が依然として改善していなかったことを如実に物語っています。
このように苦しい状況に置かれていた西郷家の家計をスガは新婚当初から切り盛りせざるを得ない状況に置かれていたのですから、彼女が背負った重責は、想像するに余りあります。

ここで少し視点を変えますが、『伊集院兼寛関係文書』所収の「伊集院兼寛履歴」によると、スガの実家である伊集院家は200石取りの城下士であったようです。

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(尚友倶楽部、山崎有恒編『伊集院兼寛関係文書』芙蓉書房出版)

薩摩藩内で200石取りはかなりの高禄です。西郷家と比べても、伊集院家の身代は約5倍もあったのです。
先日、薩摩藩の歴史に造詣の深い歴史作家の桐野作人先生がツイッター上で、「伊集院家は西郷・大久保と同じ御小姓与の家格ではないかもしれない」との趣旨の発言をされ、さらに「(伊集院家は)御小姓与の上の小番か新番ではないか」と呟かれていましたが、私も同感です。
薩摩藩の武士の家格は、上から御一門、一所持、一所持格、寄合、寄合並、無格、小番、新番、御小姓与、与力という形で階級付けされていました。
西郷家が属した御小姓与(おこしょうぐみ)は、士分では下から二番目の低い家格となるわけですが、伊集院家はその禄高から考えると、西郷家と同家格ではなく、その上の新番か小番であった可能性が高いと思われます。

『鹿児島県史 第二巻』によると、在国の馬廻りの武士たち、いわゆる騎馬衆を小番と称したとあり、また「二百石以上を乗馬(後の小番)」、「百石以上二百石未満を小荷駄(後の新番)」としたとあることから、おそらく伊集院家は小番であったのではないでしょうか。
また、スガの父である伊集院直五郎は家老座書役を務めていましたが、後に西郷の妻となるイトの父・岩山八郎太も同役の家老座書役でした。岩山家の家格が小番であったことから考えると、伊集院家も同様の小番であった可能性が高いと思われます。
もし、このように伊集院家が小番であったとすると、スガは家格の低い西郷家に嫁入りしたことになりますが、このような縁組は普通に行われていたようです。
例えば、西郷家に限って言えば、西郷の妹で次女のタカ(鷹)は、嘉永7年(1854)に三原伝左衛門に嫁いでいますが、三原家の家格は小番であったと伝えられているからです。

『伊集院兼寛関係文書』所収の伊集院家の家系図によると、スガは天保3(1832)年4月生まれとあります。
前回も書きましたが、西郷とスガは嘉永5(1852)年に結婚したと伝えられていることから、スガは20歳の若さで西郷家に嫁入りしたことになります。
比較的裕福な家庭で育ったスガが、結婚当初からいきなり経済状況の厳しい大家族の中に入り込み、そしてその家計を預からざるを得なかったのですから、当時のスガはかなり苦労したのではないでしょうか。
そしてまた、唯一頼りとする夫の西郷はと言えば、江戸に出て長らく不在にしていましたので、彼女は心細い日々を過ごしたに違いありません。
あくまでも想像ですが、スガは西郷家で心労を重ねる日々を過ごしたように感じられてなりません。

そんな状況に置かれていたスガの窮状を見かねて、実家の伊集院家は彼女の身柄を自主的に引き取ろうとした、という通説通りの解釈が、西郷とスガが離婚せざるを得なかった最も自然な理由であったと私は思います。
そして、西郷は後にこの結婚について敢えて何も語ろうとしなかったのは、スガに対する申し訳なさや罪の意識がそうさせたと考えるのが適切ではないでしょうか。

以上のように考えると、西郷とスガの離婚の原因は、やはり西郷家の経済的事情に端を発する、スガの心労によるものが大きく、西郷は両親が骨折って娶ってくれた若妻に対して、そのような苦い経験を課してしまったという経験から、離婚直後、二度と妻帯しないと決心したように思えてならないのです。


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【2018/02/25 20:46】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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第7回でスポットが当たったのは、西郷隆盛の最初の妻のスガ(須賀)と母のマサ(満佐)でした。
西郷はその生涯において三人の妻を持ちました。スガ、愛加那、イトの三人ですが、『西郷どん』ではいずれの人物も大きく取り上げられる形となるそうです。
何せ「西郷隆盛は究極のモテ男」というのが、今年の大河のコンセプトですからね(笑)。

さて、まずはスガのことからですが、ドラマ内でも描かれていたとおり、西郷とスガが結婚したのは嘉永5(1852)年、西郷が24歳の時です。
前回のジョン万次郎話が嘉永4年のことでしたので、時系列的には一年進行したことになります。
スガは家老座書役・伊集院直五郎兼善の娘で、後の子爵・伊集院兼寛の姉にあたりますが、西郷が両親の勧めにより結婚したことは分かっています。
西郷は妹・琴の夫である市来正之丞に宛てた手紙の中で、

「両親よりめとらせ候妻を滅後追出し」

と、「両親の勧めにより娶った妻を両親の死後に離縁した」と書いているからです。

次回か次々回に描かれることになるかと思いますが、この手紙にもあるとおり、西郷とスガは結婚して2年後の安政元(1854)年に離婚しました。
ただ、二人の離婚の原因は定かでありません。
一般には、二人が結婚した頃の西郷家は経済的にとても厳しく、生活も苦しかったことから、スガの気苦労は絶えなかったと伝えられ、実家の伊集院家がそんなスガのことを見かねて、彼女を自主的に引き取ったと言われています。
また、西郷と離婚後のスガについては、どのような生涯を送ったのかも全く分かりません。

それにしても、今回は少しスガのことを悪く描き過ぎではないでしょうか?
まるで西郷家に嫁に来たことが不服であるかのように無愛想な態度を示すスガでしたから。
私は平成2年の大河ドラマ『翔ぶが如く』で同じくスガを演じた(作中では俊(トシ)という名前でした)南果歩さんの健気な奮闘ぶりが好印象でしたので、今回のようなスガの描き方は、ドラマを盛り上げるためにせよ、もう少しやり方があったのでは? と率直にそう感じました。
何せ次回のタイトルは「不吉な嫁」ですからね(苦笑)。

私が思うに、脚本家の中園ミホさんは、自身の作品である朝ドラ『花子とアン』と同じ手法を取ったのでしょう。
中園さんは同ドラマにおいて、ドラマのもう一人の主役でもある柳原白蓮を魅力的な女性とするため、その義母にあたる宮崎槌を大変意地悪な姑として描きました。
しかしながら、周知のとおり実際の槌はそのような人物ではなく、人柄も良く、宮崎家を支えた大変立派な女性であったからです。
おそらく今回の『西郷どん』において、中園さんは後の妻となるイトの器量良しを表現するために、同じような対比法を取り、スガをあのような女性に仕立てたのでしょう。

そして、西郷の母のマサも亡くなってしまいましたね。
ドラマ内でも描かれていましたが、嘉永5(1852)年という年は、西郷家にとって厄年とも言える一年でした。7月に祖父・龍右衛門、9月に父・吉兵衛、11月に母・マサの三人が相次いで亡くなったからです。
少し講談的な要素が強い書物ではありますが、明治31年に発行された村井弦斎『西郷隆盛一代記』によると、マサは死の数日前、西郷に対して次のように言ったとあります。(セリフを現代風にアレンジしました)

「私が元気な体であれば、つてを求めてお前を江戸に上らせるのですが、病のためにそれも叶わないので残念です。私が死んだ後、家が落ち着いたら、有村殿の後を追って江戸へ上り、名を上げるのですよ」

まさに溢れんばかりの母の愛を感じますよね。

また、『薩藩家庭教育の実際』という昭和13年に出版された小冊子には、マサの人物像が次のように書かれています。

「翁の母堂満佐子刀自は生れつき体格雄偉、而も男勝りの気象をもち、小事に齷齪(あくせく)せぬ人であった。加之、智あり、熱あり、果断勇決の点に至っては男子と雖も一歩を譲るやうな人物であったので、「男なりせば御家老にもなるべき人だ」と言はれる程であった」

少し大げさな書きようではありますが、西郷に負けず劣らず、マサも大変豪快な女性だったのかもしれませんね。
ちなみに西郷は、どんな多忙な日であっても、父母の命日には必ず木綿の紋付羽織を着て、粗末な小倉袴をはき、お墓参りをしたというエピソードも残っています。

最後に余談ですが、大久保の母・フクが亡くなった際、西郷は大久保に対し、元治元(1864)年9月15日付けで次のようなとても心のこもった悔やみ状を出しています。(旧字等は読みやすくしました)


「御賢母さま、御養生叶わせられざる段、驚き入る仕合いに御座候。追々承り候ところ、御難症の由は承り居り候得共、例の御持病強き方にて、肌持も能く罷り成り候に付き、追日御快方と相考え居り候ところ、存外の次第、さぞ御愁傷の筈と想像やる方なき事共に御座候。毎年の御不幸打ち続き、御悲心のところ、私共さえ堪え難き事に御座候」


大久保の母の死を伝え聞いた西郷が、まさに自分のことのように悲しんでいる様子がうかがえます。
大久保はその前年に父・次右衛門利世を亡くしていました。
相次いで父母を亡くした経験のある西郷だからこそ、その大久保の深い悲しみを痛いほど理解できたのではないでしょうか。

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【2018/02/18 20:46】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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第6回では、西郷と中濱万次郎、いわゆるジョン万次郎との交流が描かれました。
もちろん、この二人が「会った」という証拠はありませんが、「会わなかった」という証拠もないことから、あのような描き方をしたのでしょう。(大河ドラマは、基本そういうスタンスです)
ただ、後述しますが、薩摩にやって来たジョン万次郎は、厳戒な警備の下で保護されていたようですので、西郷が会える可能性はゼロに等しいものであったと思います。

前々回の斉興と斉彬のロシアンルーレットと言い、最近少し過剰な演出が目立ちますが、良くも悪くも、大河ドラマはもはや史実云々と細かく言うレベルの代物ではなく、あくまでもフィクションとして、寛容な気持ちで視聴しなければならないものであるということを改めて認識する時期が来たということでしょうね。
大河ドラマが放映されると、必ず「史実云々」という批判が生じますが、そのような無用な批判を受けないためにも、NHKは放送の最後に、「このドラマは事実を元に創作したフィクションです」というテロップを出すべきだと思います。この一言が全く無く、さも史実らしく見せかけた演出を行うので、世間が騒がしくなるのです。

また、第6回の話をする前に、今回の放送を見て率直に感じたのは、物語の進行が非常に遅いということです。
平成2年に放映された大河ドラマ『翔ぶが如く』と比べると、同ドラマの第6回目は「庭方役拝命」という話で、西郷はもう既に江戸に出ています。
はっきり言えば、今回のジョン万次郎との交流話は、西郷の生涯を描くために必ずしも必要とはしないものだと思いますので、このような遅い進行をとることにより、もっと掘り下げて描かなければならない肝心な部分がスルーされてしまうのではないかと少し心配になりました。

さて、ここから第6回に話を移しますが、相撲で斉彬を投げ飛ばした罪で牢獄に入れられた西郷は、そこでジョン万次郎こと中濱万次郎と出会い、その後に交流を深めます。(以下、全て万次郎で統一します)
ドラマ内で描かれていたとおり、万次郎が薩摩に来たことは間違いない事実です。
『鹿児島県史料 斉彬公史料 第一巻』に「中濱萬次郎申口」という文書が入っており、それを参考にして書きますが、万次郎が薩摩に到着したのは、嘉永4(1851)年7月29日のことです。当時西郷は23歳です。

万次郎は土佐の貧しい漁師の家に生まれ、仲間四人と共に鰹釣り船で漁に出た後、時化(しけ)にあって遭難し、無人島での漂流生活を経て、アメリカの捕鯨船に救助されたいう話は一般にも良く知られています。
少し話がそれますが、万次郎と同じく土佐の出身で、船で米を運搬中に万次郎と同じく遭難し、後に漂流生活を送った野村長平という人がいます。
長平の漂流は、万次郎の漂流より60年ほど前の話になりますが、この長平の漂流生活をリアルに描いたのが、吉村昭の小説『漂流』です。
当時の漂流生活がいかに過酷なものであったのかと長平の凄まじいばかりの強靭な精神力を知ることが出来ますので、ご興味のある方は是非読んでみてください。オススメの小説です。

話を戻しますが、アメリカ本土に渡った万次郎はそこで教育を受け、最終的には日本に帰国するためにカリフォルニアで金鉱夫となり、帰国のための資金を得た後、ハワイ経由で琉球(現在の沖縄県)に帰還します。
当時の琉球は薩摩藩が支配していた土地であったことから、当時の在番奉行の島津登(久包)は、万次郎を薩摩へと護送するのですが、その際に万次郎に与えた品が「中濱萬次郎申口」に次のように記されています。

一、単物 一枚
一、袷 一枚
一、帯 一
一、蚊帳 二張
一、焼酎 一斗


与えた品の中に焼酎が入っているのが、薩摩らしいと言えば、薩摩らしいですよね(笑)。

さて、琉球から薩摩本土へと送られた万次郎は、薩摩半島の南方、指宿に近い山川港に着き、そこから鹿児島城下へと護送され、ドラマでも字幕が出ていましたが、城下西田町の下会所に収容されました。

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西田橋御門(復元)

第6回では、西郷は万次郎と獄中で出会っていましたが、「中濱萬次郎申口」によると、万次郎には、

「御侍一人、平役人、御組ノ者共五人ツゝ付ケラレ」

とあり、その身辺は厳重に警備されていたことは間違いありませんが、おそらく投獄されたのではなく、屋敷内に隔離・保護されていたものと思われます。

また、少し書きそびれましたが、万次郎は伝蔵と五右衛門という、二人の漂流仲間と一緒に日本に帰国しました。
万次郎と共に遭難した四人の仲間の内、一名はハワイに残り(寅右衛門)、もう一名はハワイで病死していたからです(重助)。
そのため、万次郎は三人で薩摩にやって来たのですが、ドラマ内ではその辺りの事情は描かれていませんでしたね。

万次郎一行は、薩摩において約一ヶ月半拘留され、後に長崎へ送られたのですが、薩摩に滞在している間、斉彬の特命により、彼らに対して様々な聞き取りを行ったようです。
「中濱萬次郎申口」には、次のようにあります。(漢字等を改めて読みやすくしました)

「事情質問のため、田原直助及び船大工等三、四名を日々居所に遣わし、専ら造船、あるいは航海術、あるいは捕鯨のことを聞き、筆記し、あるいは捕鯨船の模型を作らしめたり」

斉彬は万次郎の訪薩を「しめた!」とばかりに喜んだのではないでしょうか。
この時とばかりに、後に薩摩藩で造船業に携わることになる田原直助や船大工を派遣し、造船法を聴きだそうとしていることからも、斉彬の西洋式造船への強い意欲がうかがえます。
そして、そこで得た知識が、後に薩摩藩が完成させた西洋式軍艦・昇平丸の建造に役立ったことは改めて言うまでもありません。

斉彬にとって、万次郎らは生ける教材であったと言えるかもしれませんね。
ちなみに、後に万次郎は、薩摩藩が設立した洋学校・開成所に教授として招聘されています。
もしかして、開成所で西郷と再会するシナリオを考えているのかもしれませんね。


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【2018/02/12 17:05】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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なんと!?
日高建男
万次郎に漂流仲間が居たとば知りませんでした・・というか日本人の多くの人は知らないのではないでしょうか?さすが幕末、提示すべき一級の情報は山とありますね。相撲とっている場合ではないかもしれません(笑)

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先日もブログに書きましたが、1月22日(月)の読売新聞夕刊(全国版)に掲載された「よみうり堂」の記事がネットでも配信されました。
神田外語大学日本研究所の町田明広先生が、拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』をご紹介くださった記事です。

西郷どん 負の側面に迫る…研究者が驚く内容も
http://www.yomiuri.co.jp/life/book/news/20180123-OYT8T50018.html

現在、『維新を創った男 西郷隆盛の実像』は扶桑社から発売中です。
読みやすく、そして分かりやすくをモットーに、私の西郷に対する熱い情熱を込めて書き上げました。
是非この機会に一冊お買い求めくださると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。

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【2018/02/10 12:00】 | 西郷隆盛
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平成30年3月10日(土)に、鹿児島県歴史資料センター黎明館におきまして、「平成29年度明治維新150周年若手研究者育成事業 研究成果発表会」が開催されます。

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2018年度は明治維新150周年を迎える記念すべき年です。
鹿児島県ではこの節目の年を迎えるにあたり、県内外の若手研究者に対して研究経費を助成し、明治維新期の薩摩藩に関する研究の活性化を図る事業を実施しています。
今回、その研究助成を受けられた方々の研究成果の発表会が開かれることとなりました。
とても興味深い研究成果が発表されるようですので、皆様是非ご参加ください!

日時:平成30年3月10日(土)13:30~16:40(開場13:00)
開場:鹿児島県歴史資料センター黎明館 講堂
備考:入場無料(申し込み不要、定員240名)

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【2018/02/08 13:50】 | 鹿児島
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ドラマでは、島津斉彬がようやく藩主に就任しました。
前回の感想&小解説では触れませんでしたが、第4回で描かれた斉興と斉彬のロシアンルーレットは、まさに「おったまげ~!」でしたね。(←平野ノラ風・笑)

私のツイッターでも少し呟きましたが、あのロシアンルーレットの話は、おそらく平戸藩主・松浦静山が書いた『甲子夜話』を基にして創作されたものではないかと思います。
この話は海音寺潮五郎『西郷隆盛』(朝日新聞社刊)の第一巻でも触れられていますが、その昔、薩摩の城下では武士たちが集まると、座敷に円陣を組んで座り、その真ん中に天井から縄で吊るした鉄砲をぶら下げ、その縄をくるくると巻いた後、鉄砲に点火して手を放すという、度胸試しのような行為(遊び?)があったというのです。
当然、巻かれた縄は回転し、どこかで鉄砲が暴発することになりますが、周りに居座る武士たちは平然と談笑し、微動だにしてはいけません。鉄砲の暴発を恐れて、狼狽えたりでもしようものなら、仲間から卑怯未練と罵られ、薩摩武士の風上にも置けぬ輩として、吊るし上げを喰うからです。
誠に身の毛もよだつような恐ろしい話ですが、おそらく第4回の斉興と斉彬のロシアンルーレットは、この話から着想したものではないでしょうか。

さて、この辺りで第5回に話を移しますが、今回は「相撲」にスポットが当てられた話でした。
急きょ御前相撲に出場できなくなった村田新八に代わり、西郷が相撲に挑む話でしたが、元々薩摩は相撲が盛んな土地柄です。
西郷の相撲好きはかなり有名な話として伝わり、諸書にたくさん取り上げられていますので、今回は少し視点を変えて、相撲とはほど遠いと思われる大久保と相撲について書きたいと思います。

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(大久保利通生い立ちの地)

明治43年に刊行された勝田孫弥『大久保利通伝』は、大久保利通研究の基礎資料とも言えるものですが、その勝田が書いた別の書に『甲東逸話』(甲東は大久保の雅号)という、大久保にまつわる様々な逸話をまとめたものがあるのですが、その中に「相撲好」という話が収載されています。
この逸話によると、昔から薩摩において相撲は、士気の養成や身体の鍛錬のために武士たちの間で最も奨励されたものであり、大久保の父・次右衛門利世は、大の相撲好きであったそうです。
同書には、

「甲東は幼い時より父に伴はれて龍虎相撃つの状を見物するを常とした。甲東が父に劣らぬ相撲好であったのはこれが為である」

とあり、少年時代の大久保は、父に連れられて相撲見物に出かけることが多かったことから、父に劣らぬほどの相撲好きになったと書かれています。

この大久保の相撲好きの逸話を証明するかのように、若き日の大久保の日記を見ると、相撲見物に出かけたという記述がいくつか出てきます。
例えば、嘉永元(1848)年1月15日、つまり大久保がまだ弱冠18歳の青年であった頃の日記には、

「今日は横井氏の石壇の内江、例年有之候角力ある由に而、北原氏・山田氏被差越候付、拙者江も被進候」(『鹿児島県史料 大久保利通史料一』。以下同史料集から抜粋)

との記述があります。
つまり、「横井氏の屋敷内で例年相撲が催されており、北原氏と山田氏が来て、相撲見物に誘われた」ということです。

また、その後の日記の記述を読むと、大久保は日頃から親しく交際していた五歳年上の得能良助(日記の注には新助とあります)を誘い、結局四人で相撲見物に出かけたようですが、興味深いのは、相撲会場に到着した時のことです。
大久保は次のように書いています。

「八ツ近行着、加冶ヤ町方黒木氏・亀山氏・西郷氏杯参り被居、緩々致見物候」

つまり、大久保は「午後二時近くに相撲会場に着くと、加治屋町方限の黒木氏、亀山氏、西郷氏なども見に来ており、ゆっくりと相撲見物した」と書いているのです。
もちろん、西郷氏とは若き日の西郷隆盛のことです。
相撲という場において、西郷と大久保が邂逅しているのは、大変面白いですよね。

少し話がそれますが、この大久保の嘉永元(1848)年の日記を見ると、この相撲見物の時のように「加治屋町の○○が居た」や「加治屋町へ行った」という記述が散見されることから、当時の大久保は、西郷と同じ加治屋町に住んでいなかったものと思われます。
加治屋町に住んでいる人間が、わざわざ「加治屋町へ行った」と日記に書くことはまずあり得ないでしょう。
一般には、大久保は幼少期に生誕地の高麗町から、甲突川を挟んだ対岸の加治屋町に引っ越してきたと言われていますが、嘉永元(1848)年当時は、加治屋町ではなく、別の場所に居住していたものと推察されます。
おそらくまだ高麗町に住んでいたか、もしくは父が琉球館詰めの役人であったため、その役宅に住んでいたのかもしれません。(加治屋町にも屋敷を持っていたが、当時は他所に住んでいたという可能性もあります)

また、このことは既に私のホームページ内にも書いていますが、嘉永元(1848)年当時の大久保の日記は、約120日間の記録が残されていますが、西郷という記述が出てくるのはわずか4日しかありません。
しかも、そのいずれもが「西郷と出会った」や「西郷も来ていた」という、偶然西郷と顔を合わせたという風に書かれていることから、当時の西郷と大久保は、それほど親しく付き合っていなかったことが分かります。
逆に、一緒に相撲見物に出かけた得能良助や税所喜三左衛門(後の篤)といった人たちは、大久保の日記中に頻繁にその名が出てきますので、大久保との親密な交際がうかがい知れます。
おそらく西郷と大久保が親しく交流するようになったのは、大久保の父がお由羅騒動の影響で嘉永3(1850)年4月にお役御免となり、喜界島に遠島されて以後のことではないかと思います。
大久保は父の遠島により、自らも記録所書役助を免職となっていますが、その頃に加治屋町に居を移し、本格的に西郷との交流を深めたのではないでしょうか。
つまり、お由羅騒動は、西郷と大久保の仲を取り持つきっかけともなったと言えるのです。

閑話休題。
大久保と相撲に話を戻しますが、大久保の日記には、他にも嘉永元(1848)年10月10日に「明日は角力有之候付」という記述があるのですが、面白いのはその翌日、相撲当日の日記です。大久保は次のように書いています。

「今日は未大鐘近より起上り相仕舞、六ツ時船出し、四ツ時有村江着船いたし候、五時初り誠ニ以面白終日見物いたし、夜入近相済候」

この記述から分かるのは、大久保は船に乗って桜島の有村へ渡り、相撲見物に出かけたということです。
日記には「未大鐘近より起上り相仕舞、六ツ時船出し」とあることから、当日は未の刻(午後2時頃)近くに起きて、夕方の午後6時頃に船出したのでしょう。
当初この記述を見た時、「六ツ時船出」とあることから、朝の午前6時頃に気張って出発したのかと思ったのですが、四ツ時に桜島に着き、相撲が始まったのが五時(五ツ)で、夜に入って終わったとありますので、相撲の始まりは夜の午後8時ではなく、朝の午前8時頃だということでしょうね。
友人と共に夕方に船で出発した大久保は、夜の午後9~10時頃に桜島の有村に着き、そこから相撲会場の横井氏の屋敷まで移動し、翌朝午前8時頃から始った相撲を終日見物したということです。

大久保の相撲好きたるや、まさに恐るべしです!


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【2018/02/04 21:44】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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