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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます     (大河ドラマ『西郷どん』の解説も是非お読みください)
今回のクライマックスは、西郷と篤姫のラブロマンスでした。
篤姫が西郷に対して、「このまま私を連れて逃げておくれ……」と言った時、「もちろんです」と、思わず真顔で独り言をつぶやいた私がいました(笑)。
時代の風潮でしょうか、最近は大河ドラマもほんとエンタメ色が強くなりましたね。
たまに韓流時代劇を見ているような気分になります(笑)。

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(篤姫の故郷・今和泉島津家屋敷跡)

今回のドラマでは、安政2(1855)年10月2日の夜に生じた大地震が描かれていました。
いわゆる「安政の大地震」と呼ばれるものです。
北原糸子『地震の社会史 安政大地震と民衆』によると、この地震による死者は4,293名、負傷者2,759名、倒壊家屋は14,346軒とあり、いかに巨大地震が江戸を襲ったのかが分かります。
昨今では阪神大震災、東日本大震災と未曾有の災害が生じましたが、このような歴史を見せられると、やはり日本は昔から地震大国であったということを改めて認識させられますね。

さて、「安政の大地震」ですが、『鹿児島県史料 斉彬公史料』第二巻に「江戸大地震ノ事実並布達」(以下、「江戸大地震ノ事実」と略)という文書が収められており、そこには地震当日の薩摩藩邸内の様子やその被害状況等が詳述されています。
同文書には、

「江戸大地震、加之各所ニ出火、其惨状筆舌ニ述ヘ尽スコト能ハス、芝本邸ノ御式台大御書院ヲ初メ、御殿ノ内外諸局長屋等破壊シ、圧死・負傷者モ寡ナカラス」

とあり、この大地震により、薩摩藩邸も甚大な被害を受けたことが分かります。

「江戸大地震ノ事実」によれば、地震が生じた日の夜、斉彬は芝の薩摩藩上屋敷に居たようですが、地震が生じた直後、邸内の庭に避難したようです。
その後、斉彬は庭を立ち退いて馬場へと移り、「布屋ヲ張リ、押巻ノ上ニ御座ナサレ、御湯水サヘ行届カサリシト云フ」とあります。
つまり、今で言うテントのようなものを張り、一時的にそこで過ごしたようですが、押巻とは一体何のことでしょうか?
浅学のため、私はその言葉自体を知らないのですが、おそらく掻巻(かいまき)のことではないかと思います。いわゆる着物状の寝具のことです。
地震直後で物品が不足していたからでしょう、家臣たちは厚手の着物を持ち寄ってそれを敷きつめ、その上に斉彬を座らせたのかもしれません。

また、地震の揺れが少しおさまった時、斉彬は近習たちに対して、藩邸内に死傷者が居ないか、見廻りを命じたようです。
しかし、その斉彬の命を受けた者たちは、死傷者の状況よりも、建物の損傷状況ばかりを報告してきたため、斉彬は次のような言葉を発したと同文書にあります。

「家ノ破壊ハ修造スルニ仔細ナシ、行キ廻ラスルハ死傷ヲ調ヘンカ為ナリ、大切ナル人軽我アリテハ不憫ナルカ故、其救助療治ニ怠ナキコソ肝要ナリ」

つまり、「建物の損壊などはどうでも良い。壊れたら直せば良いだけだ。お前たちに見廻りを命じたのは、死傷者を調べるためだ。大切な人たちに怪我などあっては大変なので、まずはその救助・治療にあたることの方が大事だ」と斉彬は言ったのです。
さすがは斉彬ですね。こういう逸話からも斉彬の人柄がうかがい知れます。

また、「江戸大地震ノ事実」には、他にも斉彬の聡明さを示す逸話が記されています。
例えば、大地震が起こる前、ある学者が「江戸市中の井戸水に塩分が多く含まれている。これは地震の予兆だ」と主張していることを知った斉彬は、「如何ニモ震災ニテモアラン、晴雨計ノ度ニ顕ハレタリト、予メ心スベシ」と言って、あらかじめ避難用の布屋等を準備させていたというのです。
さすがに晴雨計(いわゆる気象観測用の気圧計)の数値だけで地震を予見できたとは思えませんが、贔屓目に見れば、西洋の文物を好み、常日頃からそれを考究していた斉彬だからこそ、何か感ずるものがあったのかもしれません。

また、斉彬は地震直後から頻りに高輪邸の様子を気にしていたようです。
前回の『西郷どん』でも描かれていましたが、高輪邸には父の斉興が居たからです。
「江戸大地震ノ事実」には、斉彬は父のことを心配し、高輪邸に三、四回使者を送り、斉興の無事を確認すると安心したとあります。
『西郷どん』では両者の対立ばかりが全面的に描かれていますが、やはり親子は親子、切っても切り離せない間柄なのです。

さて、ここで西郷に話を移しますが、今回のドラマにおいて、西郷は自ら身体を張り、地震から篤姫を守りました。
そしてラブシーンがあったわけですが、それはさて置き、実は西郷本人ではありませんが、地震の当日、薩摩藩邸内でこれと似たようなことがあったようです。
安政二年「総覧」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第二巻所収)の10月2日の条には、

「夜江戸大地震及ヒ出火、公其他御夫人御子方等一同庭中ニ御避難、御広鋪御用人小森新蔵ハ御夫人ヲ背負ヒ難ヲ避ク」

とあり、御広敷御用人の小森新蔵が、斉彬の夫人(誰でしょうか?)を背負い、地震の難から避けたと記録されています。

『職掌紀原』(鹿児島県史料集6)や『鹿児島県史』第二巻によると、御広敷御用人とは、元は奥家老や納殿代官、納殿役人と呼ばれていた役職で、いわゆる奥向きの御用を務めていた役職だったようです。
確かに、藩主の寝所近くに控えていた役人しか、斉彬の夫人を背負い邸外に脱出することは出来なかったことでしょう。

ちなみに、この小森新蔵という名前を聞いてピンときた方は立派な西郷通です。
鹿児島県いちき串木野市の羽島、ここは後年「薩摩藩英国留学生」と呼ばれる留学生たちがイギリスへ向けて旅立った港町としても有名な場所ですが、そこに万福池と呼ばれる灌漑用のため池があります。
若き日の西郷が郡方書役助を務めていた頃、このため池の造成に携わったという逸話が遺されているのですが、その時の郡奉行が小森新蔵と言う人物でした。
長谷場純孝『西郷南洲』には、次のように書かれています。

「先生が此郡方書役の時代に郡奉行小森新蔵氏に従って日置郡串木野郷字羽島萬福の溜池工事に出張し居られし際、著者の祖父は串木野郷の年寄役を勤め、終始其工事を監督し居たり」

同書によると、著者の長谷場純孝の父・藤蔵は、西郷と年齢が近く、実際に交際もあり、西郷が長谷場家に宿泊することもあったそうです。
西郷がため池の造成のため、小森と共に羽島まで出張してきたことを裏付ける史料はありませんが、この逸話は割と信用できるものではないかと思います。

ちなみに、小森新蔵という人物は、勝田孫弥『西郷隆盛伝』では、なぜか小の字が無くなって森新蔵という名前になっています。(誤記でしょうか?)
ただ、この万福池の造成に携わった小森新蔵と斉彬の夫人を背負って逃げた小森新蔵が同一人物であったのかどうかについては、実はまだ調べがついていないため不明です。

小森新蔵という人物は、大久保の日記の安政6(1859)年12月15日の条に、「小森新蔵 御趣法方御用人席」と一度だけ名前が出てくるほか(『大久保利通日記』一)、『鹿児島県史料 旧記録拾遺記録所史料二』所収の「薩藩役職補任」によると、「御兵具奉行席」に「御役料米七拾三俵 小森新蔵 文久三亥五月九日」とあります。
また、『諸家大慨』(鹿児島県史料集6)には「藤原姓小森氏は鎌田氏の庶流の由候」とあるので、『鹿児島県史料 鎌田正純日記』をざっと調べてみたのですが、やはり両者は縁戚であったらしく、小森新蔵の名前が出てくる箇所があります。

さらに、『鹿児島県史料 名越時敏史料四』の「常不止集二十四」(名越の日記)には、「小森新蔵殿江戸詰之節子息被相果事国元より申来候時之詠歌」という記述があり、小森新蔵が息子の死を江戸で聞いた時の悲歌が収められています。
また、塩満郁夫・友野春久編『鹿児島城下絵図散歩』(高城書房)を調べると、小森家は上之園町に屋敷があったようで、小森新蔵の先代は小森八左衛門という人物のようです。
この小森八左衛門という人物も鎌田正純日記内に出てきます。

このように小森新蔵の名前が出てくるものをざっと調べてはみたのですが、御広敷御用人の小森と郡奉行の小森を結びつける史料は見つかりませんでした。(手持ち史料だけで調べるのは、やはり限界があります。鹿児島に行きたい^_^;)
果たして、西郷が仕えた郡奉行の小森新蔵と同一人物なのでしょうか?
私は調べきれませんでしたが、ご存じの方は是非ご教授願います。

最後に話が思わぬ方向にそれましたが、村井弦斎『西郷隆盛一代記』には、安政の大地震の際の西郷の武勇伝が次のように書かれています。

「此時吉之助は例の大力を現はし倒れかかりたる柱を支え、或は手に余る長持類を担き出だすなど目醒き働をなしたれば、人々何れも舌を巻き、彼の慶長の大地震に加藤上計頭清正が桃山御殿の働きも之には過ぎしなど語りける」

さすがにこれは大げさ過ぎますね(笑)。
しかし、「例の大力を現はし倒れかかりたる柱を支え」なんてありますので、案外この話から篤姫の救出劇が着想されたのかもしれません。


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【2018/03/25 21:06】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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今年の1月、これまで幻と言われていた薩摩藩の岡崎屋敷の正確な場所や規模等が判明したとの新聞報道(下記)が出ました。

幻の薩摩藩京都「岡崎屋敷」発見(産経ニュース2018年1月26日)
http://www.sankei.com/region/news/180126/rgn1801260007-n1.html

薩摩藩の京都岡崎屋敷については、鹿児島出身の歴史作家・桐野作人先生が、南日本新聞紙上で連載されていた「さつま人国誌」でも「知られざる京都の岡崎藩邸」と題して取り上げられたことがありましたが(『さつま人国誌』幕末・明治編3に収録)、関係史料が極端に少ないため、その存在自体が幻の藩邸と言われていました。
その岡崎屋敷について、前記の新聞記事に書かれている規模(面積)を補足できる史料があることに気づきましたので、今回はそれを紹介します。

鹿児島県が刊行している史料集に『鹿児島県史料 名越時敏史料』というものがあります。
名越時敏とは、通称を名越左源太と言い、文政2(1819)年生まれの薩摩藩士です。
名越家の家格は薩摩藩内でも高く、寄合の身分で、名越は物頭を務めていましたが、「高崎崩れ」、いわゆる「お由羅騒動」に連座し、謹慎・御役御免となり、最終的に奄美大島への遠島処分を受けました。(西郷が尊敬していた赤山靱負も名越と同じく物頭でした)
その遠島中の名越が奄美大島で記した『南島雑話』は、当時の奄美大島の風土等を知るための貴重な史料としても有名ですね。

その名越が書き残した史料を集めたものが、『鹿児島県史料 名越時敏史料』なのですが、その七に所収されている「自文久三年 至慶応三年 藩達留(名越氏)全」(P400)に、岡崎屋敷について次のよう記述があります。

一、岡崎御屋敷
惣坪五万五千六百拾七坪三合
内、三千三百三拾坪四合五勺四才
右ハ、京都岡崎御屋敷惣坪之内家主より願之訳有之、内書之通御返却相成、村方エ引渡方相済候段申来候、此旨可承向エ可被申渡候、
閏五月 式部

この文書は、慶応元年閏五月に家老・川上式部久美の名で出された達書を名越氏が写しとったものだと思いますが、とても注目すべきことが書かれています。
薩摩藩の京都岡崎屋敷は、総坪数「五万五千六百拾七坪三合」であったが、その内の「三千三百三拾坪四合五勺四才」を家主からの願い出により、村方へ返却することになり、その引き渡しが済んだとあるからです。
つまり、元々薩摩藩の岡崎屋敷の規模は、「五万五千六百拾七坪三合」であったということです。

前記の新聞報道によると、発見された地図には、岡崎屋敷の面積が「凡 五万二千二百拾坪」と記載されているようですが、それは前述の川上式部の達書にあるとおり、約三千三百坪の土地を慶応元年閏五月に家主に引き渡していたからだと言うことが、この史料により分かります。
つまり、地図に記載のある坪数に関しては、実数値に近いものだということが裏付けられたというわけです。
岡崎屋敷の全容が一歩ずつ明らかになっていくのは、大変ワクワクしますね。
また、何か発見があれば書き込みたいと思います。


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【2018/03/22 23:06】 | 幕末・維新
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今回の『西郷どん』のタイトルは「斉彬暗殺」でした。
斉彬の死については、古来「毒殺説」があることから、おそらくそれを意識したものでしょうが、それにしても今回は思い切ったタイトルを付けましたね。

まず、ドラマ内では斉彬が倒れることをまるで暗示するかのように、篤姫や西郷と仲睦まじく遊んでいた斉彬の五男・虎寿丸の早逝が描かれていました。
『鹿児島県史料 旧記雑録追録八』によると、虎寿丸は嘉永2(1849)年閏4月2日生まれで、同4(1851)年3月3日に世子に立てられたとあり、実母は「田宮氏女」とあります。
ドラマ内では斉彬の側室・喜久(四番目の側女・寿満をモデルとした女性)の子供のように描かれていましたが、実際はそうではなく、田宮安知の娘で斉彬の三番目の側女となった女性(名は不詳)が虎寿丸の生母です。
彼女は斉彬の三男・盛之進の実母でもありますが、盛之進は既に嘉永3(1850)年10月4日に数え三歳の若さで亡くなっていましたので、彼女は虎寿丸の死により、二人の息子を失ったことになります。

虎寿丸の死については、安政元年「総覧」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第二巻所収)の閏7月24日の条に、次のように書かれています。

「世子虎壽丸公、昨朝御習書常ノ如クナリシニ、劇然御発熱、剰へ下痢ヲ催シ、遂ニ本日丑之刻御夭亡、時ニ御年六歳(嘉永二年巳酉閏四月二日、江戸邸ニ御誕生)」

この記述によると、虎寿丸は亡くなる前日の朝は普段と変わりなく手習いをしていたようですが、突然発熱して下痢の症状がでて、その翌日の深夜に急逝したのです。
「劇然御発熱」とあるあたり、虎寿丸の体調が急に激変したことがうかがえます。

「竪山利武公用控」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第四巻所収)によれば、「昼後より少々御服(腹)痛被遊、追々御熱気御発御下し強被為在」とあり、虎寿丸が腹痛をきっかけに、発熱や強烈な下痢に襲われたことが分かります。
当時の虎寿丸はまだ数え六歳の幼子です。急な発熱と下痢によって、一気に体力を奪われてしまったのでしょう。

また、当時の虎寿丸は右大臣・近衛忠煕の娘・信君と既に婚約が成立していました。
『鹿児島県史料 旧記雑録追録八』には、その時の交渉記録が収められていますが、虎寿丸の死から遡ること半年前の2月には、島津家は近衛家から婚約の内諾を得ていたようです。
虎寿丸は薩摩藩の正式な跡取りでしたので、斉彬は島津家と大変縁深い近衛家から正室を招こうとしたわけですが、虎寿丸の早逝により、斉彬の願いも儚く消えてしまったと言えます。

当時、江戸薩摩藩邸において庭方役を務めていた西郷も、虎寿丸の死から約一週間後の嘉永7(1854)年8月2日付けで、鹿児島の同志・福島矢三太(大河ドラマには登場しません)に宛てた手紙に、

「若殿様には去る二十三日昼九ツ時より御瀉しにて、昼の内十二度、夜二十五度位の儀にて、八ツ時分終に御卒去遊ばされ候」(『西郷隆盛全集』第一巻所収)

と書き、虎寿丸の急逝について触れています。

前出の安政元年「総覧」によると、虎寿丸の遺体は2日後の閏7月26日、島津家の菩提寺である目黒の大圓寺に葬られ翌月8月26日にその遺髪が鹿児島へと送られましたが、『鹿児島県史料 鎌田正純日記』三によると、鹿児島に虎寿丸の逝去が伝わったのは、それより前の8月14日の夕方頃であったようです。
鎌田の日記の8月14日の条には、「若殿様御不例之処去月廿四日暁御夭亡之御左右今七ツ後御到来、書役佐々木眞兵衛・新納駿河殿方より承参候」との記述があります。

また、鎌田に虎寿丸の死を伝えた新納(久仰)の雑譜(『鹿児島県史料 新納久仰雑譜』一)によると、「今日七ツ半時分先月廿七日江戸被差立候極々急キ飛脚到着」という記述があることから、閏7月27日に江戸から差し立てられた急飛脚が8月14日に鹿児島に到着し、虎寿丸の死が伝わったことが分かります。

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(虎寿丸の遺髪が埋葬された鹿児島の「福昌寺跡」)

虎寿丸の突然の死は、斉彬に大きな衝撃を与えたことでしょう。
斉彬はそれまで長男・菊三郎、長女・澄姫、次女・邦姫、二男・寛之助、三男・盛之進、四男・篤之助と、既に四男二女を失っていましたが、いずれも三年に満たない内での早逝でした。
そのため、順調に六歳まですくすくと成長していた虎寿丸の死に、斉彬は精神的に大きなダメージを受けたに違いありません。
そして、その心労がたたったのか、虎寿丸の死から約一週間後の閏7月晦日、今度は斉彬が病におかされるのです。

「順聖公御事蹟並年譜」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第四巻所収)には、「公寝疾自哭世子悲傷、至此療薬効少、中外憂懼」とあり、斉彬の罹患は虎寿丸を失った悲しみが大きかったことがうかがえます。
また、西郷は前出の福島矢三太宛ての手紙の中で、

「太守様俄に御病気、一と通りならざる御煩い、大小用さえ御床の内にて御寝も成らせられず、先年の御煩いの様に相成る模様にて、至極御世話遊ばされ候儀に御座候」

と書いていることから、当時の西郷は、斉彬が重病であると聞かされていたのではないでしょうか。

ちなみに、この時の斉彬の病は胃病であったと伝えられていますが、斉彬が全快したことにより、翌安政2(1855)年3月17日に藩内に布告された「斉彬御病気御全快布告」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第二巻所収)によると、「太守様御事、去秋中ヨリ甲寅ノ秋、御疝癪気ニテ被遊」とありますので、胃痛だけではなく、胸痛などの症状も出ていたのかもしれません。

このように、斉彬が病に倒れたため、番組最後の「西郷どん紀行」でも取り上げられていましたが、西郷は目黒不動尊(瀧泉寺)に参詣し、斉彬の病気平癒を祈願しています。
西郷は同福島宛ての手紙の中で、「命に替えて祈願をこらし、昼夜祈り入る事に御座候」と書いています。

そんな西郷が、今回のドラマでは「斉彬の毒殺」を疑い、橋本左内に検査を依頼して、最後は斉興とお由羅の方のところに物申しに行くシーンが描かれていましたが、さすがの西郷も毒が原因で斉彬が病に倒れたとまでは、当時思っていなかったのではないでしょうか。
確かに、西郷は同福島宛て手紙の中で、

「熟思慮仕り候処、いずれなり奸女をたおし候外望みなき時と伺い居り申し候」

と、斉興の側室・お由羅の方を「奸女」と表現し、それを「倒すほかない」とまで過激な言葉を吐露していますが、それは先年のお由羅騒動の際に噂になった「お由羅一派による斉彬への呪詛・調伏」を疑ったからであり、さすがに毒殺レベルまでは考えていなかったような気がします。

今回のドラマにおいて、斉彬は食事の中にヒ素を盛られたという描き方をされていましたが、おそらくこれは鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏が唱えられた斉彬毒殺説を参考にしたものだと思われます。
海音寺氏は自身の著書『西郷隆盛』(朝日新聞社刊)の中で、

「この伝記の初版を出した後、ぼくの胸底にはいつも斉彬の死因について疑惑があった。その死がタイムリーにすぎると思われて、納得しかねるものがあって、考えつづけずにはいられなかった。ある日、「これは毒殺ではなかったか」と考えてみた。すると、一切が実によく納得の行く気がして来た」(『西郷隆盛』第二巻)

と書いたうえで、「ぼくはその毒物についても、大体の見当をつけている。亜砒酸系統の毒薬であったろう」と、斉彬がヒ素中毒で毒殺されたのではないかと推察しています。
また、海音寺氏は併せて、

「斉彬は政治と研究以外にはほとんど道楽のない人であったが、たった一つ釣魚を楽しんで、よく磯の別邸の前の海に舟を浮かべて糸を垂れ、釣った魚を自ら調理して少量の麹と塩とを混じて蓋物に入れ、居間の違い棚におき、練れて鮨になったところを食べるのが好きであった。だから、置毒することは、さして難事ではなかったはずである」

と、斉彬が作った鮨の蓋物に置毒したのではないかと、具体的な置毒方法についても言及していますが、これは松木弘安こと寺島宗則が明治に入って後、

「公ハ酒ヲ嫌ヒ、茶ヲ嗜マレタリ、或ハ自ラ釣漁セル魚ヲ以テ製セル酒醸ノ鮨ヲ嗜食セラレタリ、然ルニ安政五年戌午ノ夏、之レヲ一日貯ヘ醸シテ食セラレタルノ後、同年七月一二日の比、直ニ下痢ヲ発シ、之レカ為メ十五日後終ニ不治ナリシ」(「寺島宗則記述」『鹿児島県史料 斉彬公史料』第四巻所収)

と語り遺していることから、推測されたようです。
斉彬が鮨を食べて体調を崩したことは、『薩藩維新秘史 葛城彦一伝』にも、「七月九日城市の西南天保山の原に於て、大部隊の練兵を行ひ、磯濱の別館より船を命じ、自ら往いて督し、帰路綸を垂れて獲られたる魚鱠を食し、微しく痢を患へられたるを起因とし」と同様の記述があります。
おそらくこれも寺島の回想を参考にしたものであると言えましょう。

このような斉彬毒殺説については、実際に薩摩を訪れ、斉彬とも面会した経験があるオランダ軍医師のポンペが、自身の回顧録の中で、「まんざら偽りでもないらしいが、侯は毒殺されたのだともいう」(沼田次郎、荒瀬進共訳『ポンペ日本滞在見聞記―日本における五年間―』)と書いており、当時そのような毒殺の噂が流れていたことが分かりますが、斉彬毒殺説を裏付けるような史料は残っておらず、今となっては永遠の謎としか言いようがありません。

今回のドラマの最後では、斉彬の暗殺が井伊直弼の指令であったかのような大オチが付いていましたが、斉彬の周囲は彼を思慕する家臣たちで固められ、常に警戒されていたでしょうから、海音寺氏が指摘するような置毒が果たして可能であったかどうかについては、少し懐疑的にならざるを得ないと個人的には思っています。
ただ、一つだけ確かなことは、それだけ斉彬の死というものは、余りにもタイミングが良すぎたということです。
果たして、今回の大河ドラマにおいて、斉彬はどのような最期を遂げるのでしょうか?
今から興味津々です。

虎寿丸の死について、少し補足事項を書いておきます。

本文中において、虎寿丸の死が鹿児島に伝わったのは、『鹿児島県史料 鎌田正純日記』三と『鹿児島県史料 新納久仰雑譜』一の記述を引用して、嘉永7(1854)年8月14日としましたが、厳密に言いますと、新納久仰の雑譜によれば、その前の8月10日に江戸から急飛脚が到着し、虎寿丸の危篤を知ったとあります。
また、その急飛脚の知らせには、どうやら虎寿丸が既に亡くなっていたことは書いていたようです。
新納は虎寿丸に回復の見込みがないことを知り、「御残念之次第何共難尽筆紙奉存候」と書いています。
おそらく幕府への正式な届出が済んでいなかったため、虎寿丸の死はまだ極秘扱いとされていたのでしょう。
そして、その四日後の8月14日、正式な逝去の知らせが鹿児島に到着するのです。


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【2018/03/18 20:46】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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今回のドラマの中心は、前回に引き続きヒー様と篤姫、そして初登場した越前藩士・橋本左内でした。
特に、13代将軍・徳川家定との婚礼を控えた篤姫にスポットが当てられた回でしたが、篤姫については以前大河ドラマが放映されていて、既にその時に話は出尽くされた感があり、私自身も正直何か目新しいことは書けないように思います(^-^;)

今回の『西郷どん』においても、「将軍継嗣問題(家定の跡目相続を巡る問題)」との関係で、島津斉彬がヒー様こと一橋慶喜を将軍継嗣に据えるため、篤姫を将軍御台所に送り込んだという形で描かれていますが、現在それは完全否定されており、もはや通説とは呼べないレベルの話になっています。
この将軍継嗣問題と篤姫入輿との関連について疑問を呈し、そして否定説に先鞭を付けたのは、今は亡き芳即正先生です。
ここで将軍継嗣問題と篤姫の入輿が無関係であったことを知るための芳先生の著作等を紹介しますと、

芳即正『島津斉彬』(吉川弘文館)
芳即正「研究余禄 天璋院入輿は本来継嗣問題と無関係」(『日本歴史』1994年4月号)
芳即正「天璋院篤姫入輿問題の通説への疑問」(尚古集成館講座・講演集No.12)
※この講演集は、芳即正『鹿児島史話』(高城書房)に同じものが収録されています。


の三つが挙げられます。

少しおさらいの意味で、上記三つの資料を基にして、簡単に概略を書きますが、芳即正『島津斉彬』によると、将軍家から島津家に対し、家定の正室を迎えたいとの要望が出たのは、嘉永3(1850)年6月、家定の二番目の妻が亡くなった時期にまでさかのぼります。
余り知られてはいませんが、家定は篤姫を妻に迎える前、既に二人の女性との結婚歴がありました。
一人目は鷹司家から輿入れした任子(天親院)、そして二人目は一条家の秀子(澄心院)です。
つまり、家定は二回も公家出身の女性を娶ったわけです。

しかし、その二人が相次いで早逝したことにより、家定の実母・本寿院などの将軍家周辺は、家定の後妻として武家出身の娘を探し始めました。
嘉永6(1854)年7月10日付けで斉彬が近衛忠煕に宛てた手紙には、「御再縁被為在候ハゝ、京都は御好ミ不被遊御模様より事起り候」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第一巻)という言葉があり、将軍家が家定の再婚に際して、公家出身の女性を嫌ったことが事の発端だったと書かれています。

そして、最終的にその花嫁候補に島津家出身の女性が選ばれたわけですが、その理由は重豪の三女であり、11代将軍・徳川家斉の正室であった茂姫(広大院)の影響が大きかったと言われています。
芳先生は、「嘉永三年当時には、その広大院の血を引く大名や大名夫人が全国に十五人もいた」と書かれており、広大院の血筋は子孫が繁栄していたことから、その出身である島津家に将軍家の白羽の矢が立ったのです。
当然、当時、いわゆる将軍継嗣問題は全く影も形も無いような状態ですから、将軍継嗣問題と篤姫の入輿は、本来無関係だったと言うことです。

と言うわけで、実際篤姫の将軍家への嫁入りは、将軍継嗣問題とは無関係だったのですが、どうしてもドラマになると、篤姫の悲哀を描くために関係があるように描かざるを得ないのかもしれません。
また、余談ですが、篤姫を斉彬の実子とする説が昔からありますが、以前私のホームページの中で、

「天璋院篤姫は島津斉彬の実子?―篤姫斉彬実子説の検証―」
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/theme12a.htm

というものを書きました。
また、

「天璋院篤姫の婚礼-薩摩藩からの珍しい献上品-」
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/zatsuwa8.htm

というエッセイも書いたことがありますので、ご興味のある方は読んでみてください。(昔書いたものなので、文章及び内容が拙劣ではありますが^_^;)

さて、次に初登場したのが、ドラマ前半の重要人物ともなる越前藩士・橋本左内です。

image.jpg
(橋本左内銅像)

西郷はフキの居る「磯田屋」を訪れ、そこで偶然に左内と出会っていましたが、左内が書いた「備忘録」(『橋本景岳全集』上所収)によると、二人の最初の出会いは、安政2(1855)年12月27日、水戸藩士・原田八兵衛の居所であったとあります。
「備忘録」には次のように書かれています。

「薩 芝上屋敷御庭方 西郷吉兵衛 鮫島正人友人、卯年極月廿七日始於原八宅相會す、燕趙悲歌之士なり」

左内が西郷のことを「燕趙悲歌之士なり」と評していることからみると、当時の西郷は時世を慷慨する、かなり熱い男だったのでしょう。
この左内の評価から考えると、『西郷どん』で描かれている西郷像は、かなり近いと言えるかもしれませんね。

ちなみに、この備忘録には、同じく薩摩藩士の「御小姓 伊藤才蔵」という人物の名も記されていますが、左内は彼についても西郷と同様に「鮫島友人之由」と書いています。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』において、西郷を斉彬に推挙したのは、一般的に言われている福崎七之丞ではなく、伊藤才蔵ではないかとしたのは、このように西郷と伊藤に当時の接点が見出せるからでもあります。

一方、左内ですが、山田秋甫編『橋本左内言行録』に収められている、元越前藩士・堤正誼の談話によると、

「橋本の風采は躯幹漸く五尺、小男の方で色の白い痩せた優しい姿で、殆んど婦人の如くであった」

とありますので、今回『西郷どん』で演じる風間俊介さんは、ピッタリのハマリ役と言えるかもしれませんね。
また、堤は同『橋本左内言行録』の中で、次のような話も語り遺しています。

「左内は幼少の時より人を御し人に長たるの資格を備えて居た。小姓頭として藩公に仕へて居た時分、毎朝出仕するに裏庭傳ひに庭苑に廻るを常として居たが、木履の音高く飛石の上を歩むと、小姓部屋でワイワイ騒いで居た小姓達が「ソレ橋本が来た来た、下駄の音が聞える、静かにせえ、静かにせえ」と一同粛然として容を改めたと云ふ」

この話、誰かさんの逸話と似てませんか?
そうです、大久保利通です。
大久保が内務卿だった頃、毎朝内務省の廊下に響く大久保の靴音が聞こえてくると、職員一同が雑談や笑い声を止め、水を打ったように静まり返ったという逸話は有名です。
これは勝田孫弥『甲東逸話』内の「甲東の足音内務省を粛然たらしむ」という話が元になっていますが、左内はその下駄バージョンですね(笑)。
堤は「橋本の下駄の音」として、当時小姓仲間の間で有名であったと言っています。

ちなみに、左内は蘭方医として登場していましたが、左内自身は自分が医者の家に生まれたことがかなり嫌だったようです。
左内が15歳の時に著した「啓発録」(『橋本景岳全集』上所収)には、次のような言葉があります。

「嗚呼如何セン、吾身刀圭ノ家ニ生レ、賤技ニ局々トシテ吾初年ノ志ヲ遂ル事ヲ不得ヲ」

刀圭とは医術をつかさどる者、つまり医者の意味で、左内は「ああ、なぜ私は医者の家に生まれてしまったのだ。そのために我が志を遂げることが出来ないではないか」と15歳の頃に嘆いているのです。
幕末期には、左内と同じく医家に生まれながらも、後に国事に奔走する人物が結構いますね。長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞なども医者の家の生まれですが、現代と違って当時の医者の地位は高くありませんでしたので、医者の身では志を叶えられないと考えた人が多かったのかもしれません。

前述のとおり、安政2(1855)年末に出会った西郷と左内ですが、左内が書いた日記(「安政丙辰日記」『橋本景岳全集』上所収)の安政3(1856)年5月15日の条には、「西郷ニて馳走ニ相成」という記述などもあり、その後二人が交流を深めていったことが分かります。


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【2018/03/11 21:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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ukoji
藤田東湖が出てくると予想してましたが
きれいに割愛されましたね

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いよいよ西郷が江戸に行くことになりました。
江戸では「ヒー様」こと一橋慶喜との出会いやフキとの再会などがあって、今回はとても賑やかな展開で、まさにTHE時代劇でしたね(笑)。
早くもこの時点で慶喜を登場させたのは、やはりドラマ後半への伏線でしょう。
この後、西郷は斉彬の命により、「将軍継嗣問題(13代将軍・徳川家定の跡継ぎを巡る問題)」において、一橋派、つまり慶喜を次期将軍に擁立することに尽力することになり、また、慶応期において、西郷と慶喜は政治的に対立することになります。
そんな西郷と慶喜の数奇な運命を描くために、この段階から二人の接点を作ったのではないでしょうか。

さて、西郷が江戸に向けて鹿児島を出発したのは、嘉永7(1854)年1月21日のことです。
西郷は「中御小姓、定御供、江戸詰」を命じられ、いよいよ江戸へと旅立ったわけですが、出発前の西郷の役職を郡方書役助ではなく、郡方書役に昇進していたとする書籍が散見されます。
この点については昔から議論があったところなのですが、西郷家の家政上の記録である「万留」(『西郷隆盛全集 第四巻』所収)によると、嘉永7(1854)年8月に次弟・吉二郎が提出した「御奉公役目届」には、

「善兵衛事当正月迄ハ郡方書役助相勤居候処、同月中御小姓被仰付、御供ニ而同廿一日出立仕、当分江戸江罷居申候」

とあり、吉二郎は当時善兵衛と名乗っていた兄の役職を郡方書役助と書いています。
この記述を信用するならば、江戸出立時において、西郷はまだ郡方書役には昇進していなかったものと思われます。

今回、鹿児島を出発した斉彬の行列は、アッという間に江戸に到着し、あの有名な水上坂(みつかんざか)でのエピソードは描かれませんでした。
水上坂のエピソードは、西郷の伝記類には必ずと言って出てくる逸話です。江戸参府の行列が鹿児島郊外の水上坂において休息中、斉彬が近臣に対し、西郷のことを尋ね、そして西郷のことを初めて見たという逸話です。
例えば、『大西郷全集 第三巻』の「西郷隆盛伝」には、

「斉彬は乗物から立出でて四顧しつつ暫し離れ去る郷土の風光に名残を惜む如く見えた。ややあって従者に向ひ、西郷吉兵衛といふのは来てをるか、孰れぞ、との訊ね。隋士は直ちに偉丈夫隆盛を指した。斉彬が隆盛を眼のあたり見たのは此の時が始めてであった」

とあり、勝田孫弥『西郷隆盛伝』にも同様の記述があります。
『西郷どん』では、斉彬が西郷と相撲をとったりと、二人は既に面識があったという設定でしたので、この逸話は端折られたのでしょう。

ちなみに、水上坂とは鹿児島城下の西郊、出水筋(薩摩街道)にあった水上(西田村字水上)のことを指し、ここには藩主が休息する御茶屋がありました。江戸参府の際には、藩主はこの水上の御茶屋で休息を取ることが慣例となっていたのです。
西郷が供として加わった嘉永7(1854)年の斉彬の行列もまた、同じように水上で休息を取っています。
「照國公日記」(『鹿児島県史料 斉彬公史料 第四巻』所収)には、

「鹿児島 十時過三時一分マヘ立、(中略)、十一時過三時一分マヘ水上着、十二時過二時二分マヘ立」

とあり、鹿児島を出発した行列が、水上の御茶屋で一時間程度の休憩を取っていることが分かります。

ちなみに、この日記の時間の記述が少し変わっていると思いませんか?
江戸時代の時間と言えば、普通は巳の刻や四ツなどの表現を使うものですが、この時どうやら斉彬は、時計を使用して時間を記録させていたようです。
芳即正『島津斉彬』によると、この時使用された時計は長崎の写真家・上野彦馬からの進物品で、当時の斉彬は、藩内の巡検や参勤交代の際にはいつも時計師の内野太左衛門を同行させていたそうで、先に書かれている時間は時計の短針を示し、後の時間は長針を指していると解説されています。
つまり、斉彬の行列は、「鹿児島を午前10時14分に出発し、午前11時14分に水上に着き、お昼の午後12時8分に水上を出発した」ということです。「三時一分マエ」という記録は、長針が3を指す1分前、つまり14分を意味しているということです。
このような記述を見ても、斉彬の西洋好みと言いますか、そのハイカラさがよく分かりますね。ちなみに、斉彬という人物は、ローマ字を使って日記も書いています。

この時の斉彬の江戸参勤ルートについては、「照國公日記」と当時斉彬の側近(御小納戸役)であった山田壮右衛門為正が書いた日記「安政元年島津齊彬参府御供日記」(『鹿児島県史料 斉彬公史料 第四巻』所収)に詳しいのですが、この山田壮右衛門為正という人物は、『西郷どん』において、徳井優さんが演じている山田為久のモデルだと思います。
でも、なぜ敢えて山田だけ名前を変えたのでしょうか?
その理由はよく分かりませんが、少しネタバレを書きますと、山田為正は後に斉彬の遺言を直接聞くこととなる、とても重要な人物なのです。

この山田為正の日記によると、斉彬一行が江戸に着いたのは、嘉永7(1854)年3月6日のことです。
つまり、鹿児島から江戸まで約一ヶ月半かかったわけですが、江戸に着いた西郷はその一ヶ月後、藩から「庭方役」を拝命します。
ドラマ内では、西郷は庭掃除ばかりをし、少々ガッカリした様子が描かれていましたが、ドラマで描かれたとおり、斉彬が西郷に期待したのは、自分の手足となって動ける使者の役目であったと伝えられています。

この西郷の庭方役就任について、西郷とも直接親交のあった元薩摩藩士で歴史家でもあった重野安繹(しげのやすつぐ)は、

「其時南洲ノ地位ハ御庭方ト云フモノデ、是ハ幕府ノ御庭番ト云フニ擬シタモノ、藩ニ於テハ昔ハナカッタモノダガ順聖院ノ時ニ始メテ其役目ヲ拵ヘタ」

と語っており(「重野安繹演説筆記第二」『鹿児島県史料 斉彬公史料 第三巻』所収)、御庭方は斉彬が幕府の御庭番(つまり隠密)を模して始めた制度だと言っています。
芳即正『島津斉彬』にも「重野安繹によると御庭方は斉彬の創設というが」という記述があり、その証言が紹介されていますが、それに対して、勝田孫弥『西郷隆盛伝』では、

「元来庭方役に有為の人材を任じ、直接に密事を談ずるの便に供したるは斉彬に始りし事にあらず、斉彬を薫陶したる榮翁の世に幕府の庭掃除番に擬し創始したるものにして其長を庭奉行と称したり」

とあり、庭方役に有為な人材を就けるようになったのは榮翁、すなわち斉彬の曽祖父である八代藩主・島津重豪の御世であったと書かれています。
確かに、勝田孫弥の言うとおり、文政11(1828)年に改編された『薩藩政要録』(鹿児島県史料集(1))の「御側支配並若年寄大目附支配諸御役座等之事」という文書には、若年寄支配として「御庭方」という役職があったことが記されていますので、御庭方は斉彬時代に始まったものではなかったのです。

また、『職掌紀原』(鹿児島県史料集(6))によれば、「御庭奉行之儀、天明三癸卯十月初被相建」とあり、御庭方の長である御庭奉行は、天明3(1783)年10月に初めて設けられた役職であったことが分かります。
天明3(1783)年と言えば、重豪が藩主の時代でしたので、やはり勝田孫弥の言うとおり、西郷が拝命した御庭方は重豪が創設した役職と言えるでしょう。

重豪が御庭方という役職を創設した理由については、「参考御薬園ノ由来」(『鹿児島県史料 斉彬公史料 第一巻』文書番号三四一)という文書に次のように書かれています。

「天明三癸卯十二月御庭奉行・御薬園掛創置セラレタルハ、重豪公夙にニ開物殖産ノ業ヲ好セ玉ヒ、和漢洋ノ草木ヲ蒐集・栽培セシメ玉ヘリ、(中略)、之ヲ鹿児島其他各郷ニアル御薬園地ニ栽培セシメ玉ヒ」

つまり、御庭奉行は重豪が収集した和漢洋の草木コレクションを栽培する薬園の管理を行うために設けられたということです。
薬園の管理については別に薬園掛が置かれましたが、それを統括するために御庭奉行を置いたということでしょう。
重豪は『成形図説』と呼ばれる様々な草木類を集録した百科事典を編纂したことでも有名で、特に薬園の経営については、とても熱心な藩主だったからです。
また、同「参考御薬園ノ由来」には、「御庭奉行・御薬園掛兼役ナリシカ其後凡ソ九年程ヲ経テ、寛政四壬子十二月分離シテ、御薬園奉行ヲ置レタリ」ともあり、元々御庭奉行は御薬園掛を兼務していたが、寛政4(1792)年12月、御庭奉行からその役目を分離して、専任の御薬園奉行という役職が新設されたとあります。(当時は重豪の子の九代藩主・斉宣の治世です)

以上のような記録から考えると、重豪が御庭方という制度を創設したのは、幕府の御庭番を模したのではなく、薬園掛を統括する部署として設けたものであったと言うことです。
そして、勝田孫弥『西郷隆盛伝』にあるように、その御庭方に有為の人材を登用し、藩主と直接密談できるような機能を持たせたのは、斉彬の発案であったと言えるかもしれません。
斉彬が身分の低い者でも気軽に庭先で会って話が出来る御庭方の利便性に目を付け、御庭方の制度を応用的、発展的に使ったのではないでしょうか。
斉彬は、市来四郎や中原猶介といった、自らが重用した家臣たちを庭方役に付けていることから考えると、斉彬は近臣から推挙のあった西郷を庭方役に就任させ、モノになる人物かどうかを試そうとしたのではないでしょうか。
そのように考えると、重野安繹が「庭方は斉彬が初めてその役目をこしらえたものであった」と言っていることも、あながち誤りではないように思います。
庭方役というものに新たな機能を付与したのは斉彬と言えますので。

今回は長くなりましたので、この辺で。


(後記)
島津重豪は、山川、佐多、吉野の三つの薬園を熱心に経営しました。
山川薬園跡には今でも大きなリュウガンの木が残り、また、佐多薬園跡には、たくさんの薬木が残っており、往時の姿を想像することが出来ます。
また、吉野薬園跡は現在鹿児島市立吉野小学校になっていますが、その校庭には薬園時代の名残りとも言える、大きなアキニレの木が立っています。
これら薩摩藩の薬園跡は、鹿児島でもオススメの史跡巡りスポットですよ!


DSCF0007.jpg
(吉野薬園跡・現在の吉野小学校の校庭に残るアキニレの木)


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【2018/03/04 21:20】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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