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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます     (大河ドラマ『西郷どん』の解説も是非お読みください)
(第16回を振り返って)
前回で斉彬が亡くなり、巷では「斉彬ロス」なんていう言葉もちらほら出てきているようですが、確かに渡辺謙さんの斉彬は存在感がありましたね。
大河ドラマ『翔ぶが如く』での加山雄三さん演じる斉彬は、江戸育ちの上品な、非常に凜とした斉彬で私は好きだったのですが、渡辺さんは新たな斉彬像を作り上げたと言えるかもしれません。

さて、今回は非常に慌ただしい展開でした。「戊午の密勅」から「安政の大獄」まで一気に描かれましたから。
前回に描かれた斉彬の死も「ナレーション死」(通称「ナレ死」)なんて世間で騒がれていましたが、西郷の濃密な全生涯を描くためには、この辺りでそろそろ駆け足にならざるを得ないのでしょう。
毎度『翔ぶが如く』と比べるのは何ですが、同ドラマの第16回は「吉之助帰る」で、西郷は奄美大島から帰還しています。『翔ぶが如く』でも、話を端折ってると感じることがあったくらいですから、『西郷どん』はどのくらい端折られるのだろう? と今から戦々恐々としています……。

そして、また少しだけ苦言を呈しますが、『西郷どん』でもう少し西郷の政治活動を描いて欲しいなと思います。
これまで描かれた西郷って、まともに政治活動をしていないと思いませんか?
磯田屋でヒー様と交遊したり、諸藩の役人を接待したり、左内と「橋公行状記」を写したり、井伊のところに殴り込みなんぞはしましたが、斉彬の指示を受け、使者として諸藩に出向き、諸藩士らと交際するなど、政治的な活動をしている姿は、ほとんど描かれていないように思います。
『西郷どん』における西郷は、とても人懐っこい性格で、誰からも愛されるキャラクターであることは伝わってくるのですが、人物の重みをイマイチ感じることが出来ないのは、こんなところにも原因があるのかもしれません。

(京坂における西郷の動き)
さて、今回はドラマで描かれた内容とは、少し異なる視点から始めたいと思います。
ドラマでは全く触れられませんでしたが、勝田孫弥『西郷隆盛伝』によると、安政5(1858)年7月14日、西郷は同じ薩摩藩士の吉井仁左衛門(後の幸輔、友実)と共に京都に入り、当時有志たちの輿望を集めていた梁川星巌を訪ねています。
斉彬の命を受け、6月18日に鹿児島を出発し、7月7日に大坂に到着した西郷は、当時大坂に居た吉井と共に、大坂城代の土浦藩主・土屋寅直の公用人であった大久保要人(かなめ)を訪ね、そこで関東(幕府周辺)の形勢について詳しく話を聞くとともに、今度は京都の情勢を探るため、吉井と一緒に上京したのです。
小河一敏の『明烏(あけからす)』によれば、江戸から伏見に下ってきた薩摩藩士・伊地知竜右衛門(後の正治)も二人に同道したようです。
吉井も伊地知も若い頃からの西郷の友人であり、同志でもありますが、『西郷どん』には登場しませんね。特に西郷と吉井は爾汝の交わりであったと伝えられていますので、登場しないのはとても残念な気がします。

話を戻すと、勝田孫弥『西郷隆盛伝』によると、星巌の寓居には、偶然、頼山陽の子の頼三樹三郎や長州藩の大楽源太郎といった、いわゆる志士と呼ばれる人たちも集まっていました。
そこで星巌は西郷らに対して、「今や国家危急の時に瀕せり。聞く、不日井伊大老自ら京師に上り、主上を要して関東に移し奉らんとす」と語ったと同伝にあります。
この星巌宅での会合については、『水戸藩史料』にも同様の記載があります。「星巌曰ク、兼テ関東ヘ間諜ヲ出シ置キシニ、不日井伊閣老上京、主上ヲ要シテ彦根ニ移シ奉ントノ確報アリ」とあり、同史料では「井伊大老は天皇を井伊家の本拠である彦根に移すつもりだ」と語ったとあります。

この井伊大老の孝明天皇遷座計画について、勝田孫弥『西郷隆盛伝』は、「当時通信の便利ならざる上に、亦幕府其政務を秘密にしたるを以て、動もすれば流言百出、事実の真相を詳にすること能はず。故に間部閣老の上京を誤聞して井伊大老の入京となし」としており、老中・間部詮勝の上京を誤聞したものだったと解釈していますが、当時京坂に集まっていた諸藩の有志たちは、この星巌の言葉を真実と受け止め、朝廷に大きな危機が迫っていると考えていたのです。

このように、京都は風雲急を告げる事態となっていたため、西郷は斉彬に対して、その状況を報告する書簡を送ったと諸書にあります。
例えば、勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、「隆盛は即日具さに関東の事情、諸藩の形勢を認め、之を斉彬に報せり」とあり、また、『水戸藩史料』には、「隆盛終夜一封ヲ認メテ斉彬君ニ贈ル(是則京師云云切迫故ニ東行ヲ止メ滞京スル等ノ書翰ナリ。其書鹿城ニ至レルヲ斉彬君既ニ逝去ノ後ナリシトゾ)」とあり、西郷が送った書簡は、斉彬の死後に届いたと書かれています。
この西郷が斉彬に送ったとされる書簡については、現存しておらず、どのようなことが書かれていたのかを知るすべはないのですが、『鹿児島県史料 新納久仰雑譜』二の中に、その西郷書簡の内容の一端を知るための手がかりとなる記述があります。

(西郷書簡と久光の反応)
『新納久仰雑譜』とは、当時薩摩藩家老の職にあった新納久仰(駿河)の覚え書き兼日記のような史料ですが、同雑譜の安政5(1858)年7月25日、つまり斉彬が逝去してから9日後の条に、「今日出勤、八ツ過退出、夫ヨリ御用有之左衛門殿一所ニ周防殿へ参上、極々重キ御用談ニテ七ツ過キ御暇イタシ」とあり、午後二時過ぎに勤務を終えた新納が、左衛門こと当時筆頭家老であった島津下総と一緒に、周防こと島津久光のところへ行き、午後四時過ぎまで要談したと書かれています。
また、新納の記述には、「今日周防殿ヘ参上之御用ハ、彼方ヨリ被召呼候事ニテ」とあることから、二人は久光に呼び出されたことが分かりますが、その要談の内容について、新納は次のように書き留めています。

「公辺御役方並ニ大々名方ト京都之御趣意齟齬イタシ、至テ不容易時宜成リ立居候哉ニ、京都伏見辺滞在之御徒目付西郷吉兵衛極内御側向ヘ申上越候御書付弐通御見セ被成、段々御内談致承知、誠ニ以当惑之次第也、就テハ爰元之儀モ何様手当有之可然哉、更ニ以不能愚慮心痛之事共也」

この記述から推察すると、久光は下総と新納の二人に対し、西郷から送られてきた極内密の書簡二通を見せ、幕府の閣僚並びに大藩の大名と朝廷との考えが齟齬をきたしており、京都はいたって容易ならざる事態に陥っていることを告げ、「今後どのようにするつもりか?」と、二人に対して問うたのでしょう。
新納の書きぶりから察すると、新納自身は当惑の色を隠せず、また、特に良い方策も浮かばず、心を痛めていた様子が分かります。

おそらく、久光が下総と新納に見せた二通の西郷書簡とは、前述の西郷が斉彬に宛てた書簡と考えて、ほぼ間違いないでしょう。
宛名はもちろん斉彬本人ではなかったでしょうが、「京都伏見辺滞在之御徒目付西郷吉兵衛」との文言から、西郷が京都に滞在していた時に発信された書簡であることが分かるからです。

また、久光が新納と下総を「極々重キ御用談」があると言って呼び出したのは、その西郷書簡に、京都の緊迫した状況に加えて、容易ならぬことが書かれていたからではないでしょうか。
つまり、前回書きました斉彬の率兵上京計画についてです。
一般的に、西郷が京都から発信した書簡は、斉彬に対して率兵上京を求めたものであったと伝えられていますが、この時の久光の言動から察すると、西郷の書簡には、一刻も早い京都への出兵(率兵上京)を促す文言があったものと推察できます。

しかし、その率兵上京計画の生みの親である斉彬は既に亡くなっています。
斉彬から後事を託された久光は、その西郷の要求に対し、戸惑いを感じたであろうことは想像に難くありません。
久光が筆頭家老の島津下総と新納を呼び出したのは、斉彬が計画していた率兵上京をどうするか、いや、斉彬亡き今それをどう収束するか、という点を相談したかったからではないかと、私は推測します。

結局、斉彬が急逝した今となっては、未だ何の権力も持たない久光が、その率兵上京計画を引き継ぎ、それを実行に移すことが出来るはずもなく、久光としては、朝廷に危機が迫っている現状を知り、そしてそのことを憂いながらも、それを看過し、薩摩藩の出兵は中止せざるを得ない状況にあったと言えます。
あくまで想像ですが、斉彬亡き後、又次郎こと藩主・茂久(後の忠義)を支えるべき重職にある下総や新納が、何の対策も持っていなかったこと、そして自らが何の動きも取ることが出来なかったことに対して、久光は歯噛みする思いでいたかもしれません。

後年、久光が斉彬の遺志を受け継ぐ形で、率兵上京計画を強力に推し進めようとしたのは、こういう忸怩たる思いを経験したことにあったと考えるのは、少し私の想像が過ぎるでしょうか?
また、久光が率兵上京計画を実行するにあたり、西郷を奄美大島から召還することを決めたのは、久光自身が西郷の書簡、つまり率兵上京計画に関して記された書状をこの時読んでいたことが決め手の一つとなったと考えるのは、もっと想像が過ぎると言えるかもしれません。
しかしながら、この時久光が西郷の書簡を読んだことが、久光が西郷のことを知る一つのきっかけとなったことは想像に難くありません。

(斉彬の死と西郷)
このように薩摩藩内は、斉彬の死によって、全ての計画を白紙に戻さざるを得ない状況となっていたのですが、京坂で活動した西郷がそのことを知る由もありません。
西郷が斉彬の死を知ったのは、7月27日のことでした。
斉彬の訃報を受けた西郷の落胆は、想像するに余りあります。西郷は京都清水寺成就院の住職・月照に宛てた手紙の中で、

「船を失い唯孤島にたたずみ候故、如何ともしがたく、ヶ様成る事にいたり尚更残恨千万の儀に御座候(斉彬公という大きな船を失い、私はただ孤島にたたずむような状態で、如何ともしがたく、残念極まりありません)」

と書いており(『西郷隆盛全集』一)、その失意の大きさがうかがえます。
西郷は斉彬の率兵上京計画に全ての希望を賭けていたと言っても過言ではありませんので、そのショックは余りにも大きなものだったと思います。

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(西郷隆盛と月照が密議した採薪亭跡)

そのため、西郷は薩摩に帰り、斉彬の墓前で切腹し、殉死することを考えます。
しかしながら、今回描かれたとおり、月照に諌められ、西郷は再び国事に奔走することを決意するのです。
これは有村俊斎こと海江田信義の口述を元に書かれた西河称『維新前後実歴史伝』にある話です。
同書には、

「和尚慇懃に諭して曰く、公の長逝は、余固より邦家の為めに哀惜に耐へず。而して子が心情の如きも、亦深く了察せり。然れども無常転変は、人生の事なり。一悲一喜、本より期すべきに非ず。今や公は既に逝きぬ。追はんと欲するも及ふことなし。子は今より藩に就き、果して何をか為さんとするや。恐くは公の墓前に哭するの外、他事なかるべし。臣として君の霊前哭するは、義に於て固より好し。然れども公豈人の慟哭を聞て、泉下に瞑目するものならんや。吁公は已に逝けり、然れども公の至誠猶ほ未た亡ひざるなり。其れ誰か公の遺志を成す者ぞ。豈其人なくして可ならんや。(中略)其君にして志をもたらし逝かば、其臣にして其志をつぎ、其君をして泉下に欣慰せしむる者、是れ豈臣、君に尽すの本分ならずや。其れ奮然として帰心を停めよ。(中略)其言剴切、殆ど半身を截取せらるるの感あり。是に於て乎翻然として西帰の情を絶ち、直に東下の途に就けり」(読みやすくするため、句読点や濁点を入れました)

とあり、月照の熱心な説得により、西郷は翻意したとあります。

斉彬の突然の死によって、京坂で活動していた西郷ら薩摩藩士たちは孤立する形となりましたが、その後、ドラマ内でも描かれました「戊午の密勅」と呼ばれる、水戸藩への勅諚降下に加担します。
しかし、密勅は水戸藩に下されたものの、幕府の圧力により、水戸藩はそれを遵奉することが出来ず、結局その運動は破綻します。
そして、それを機に、幕府は密勅降下に携わった人々の処罰を始め、それがいわゆる「安政の大獄」へと発展していくのです。

この辺りの西郷の動向は、ドラマ内では端折られていて、全くと言って良いほど描かれていませんでしたが、やはり斉彬の死というのは、西郷の人生にとって、大きなターニングポイントとなったと言えるでしょう。
そして、安政の大獄の影響は、西郷と月照にも迫り、二人は京都を脱出し、薩摩を目指すことになるのですが、月照の薩摩入りについては、次回に書きたいと思います。


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【2018/04/30 12:06】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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大河ドラマ『西郷どん』も、いよいよ前半の佳境に入ってきました。
大老・井伊直弼が誕生し、そして将軍継嗣がヒー様ではなく紀州徳川藩の慶福に決定するなど、薩摩藩にとって事態は悪化の一途を辿ったことから、薩摩に帰国した西郷が斉彬に向かって、京都への出兵を促すシーンが今回の大きな見どころでした。

この斉彬の率兵上京計画については、古来から諸説あり、根本的に斉彬が出兵するつもりであったのかどうかさえ懐疑的に捉える向きもありますが、明治32年に刊行された『照国公感舊録』には、

「西郷隆盛密命を帯びて関東の動静を窺ひしが、翌年五月此帰国、一日公に磯の別邸に謁し、密かに関東の動静を演述し、井伊掃部頭直弼候大老となり、威権赫燿之に抗する者なく、有為の諸侯も屏息す。勤王の策、将に尽き、亦他に施すの道なしとて失望大息して其実勢を陳べたりしに、公之を聞き従容として色を動かさず。時勢斯くなりては致し方なしとて外に策なきやと問われしに、西郷応て曰く、今日の極に及んでは別に策なし。止むなくんば姑く御思望止めさせられずば叶ふまじと。公曰く、否予は猶ほ一策の在るあり。予が策を云へば、此上は緩手段に仍り難し。予親ら精兵三千を率いて京洛に出で、禁闕を守護して、諸侯をして其去就を決せしめば、天下の大勢茲に定まらん」(読みやすくするため、旧字をなおし、句読点を入れました)

とあり、「万策尽きた」と嘆く西郷に対して、斉彬が秘策として出兵することを打ち明けています。
今回の『西郷どん』では、その立場が逆になり、斉彬が西郷に促されて、出兵の決意を固めていましたが、この『照国公感舊録』に代表されるように、斉彬が京都への出兵によって諸藩を糾合し、幕府と武力で対峙しようとしたという説に関しては、今も昔も否定的な意見が多いと言えます。

例えば、勝田孫弥『西郷隆盛伝』では、「斉彬は最早尋常の手段を以ては国内の塵埃を掃攘し、公武合体、国家統一の精神を貫く能はざるを看破し、自ら兵を率いて京師に出で、断然勅命を以て幕政を改革し、以て公武一和の実を挙げんと欲したり。(中略)当時斉彬大軍を率いて京師に出で、王室を守護して諸侯の去就を決するの精神ありしが如く世に伝ふるは、蓋し此事実を誤りたるなり」とあり、斉彬の目的とは、幕府との対決ではなく、公武一和のためであったとしています。
今回の『西郷どん』は、この勝田説を基に構成したと言えましょう。

この勝田説を支持しているのが、芳即正『島津斉彬』です。
芳氏は同書の中で、斉彬が幕府と武力対決を決意したとする説に否定的な見解を述べられており、斉彬が西郷に語った一策とは、「朝廷の力を借りて幕府の政策を変更させ「公武一和」をはかろうとしたものであり、京都の意向で朝幕対決となり、「幕府の暴威が朝廷におよびそうなとき」には、出兵もありうることを言い含めたと考えたがよかろう」と書いています。
つまり、斉彬は積極的に京都へ出兵しようとしたわけではなく、また、その目的も「公武一和=合体」(同書からの引用)にあったということです。

また、近著から引くと、松尾千歳『島津斉彬』には、「斉彬は西郷に密命を与え、江戸に向かわせた。なにを命じたかは定かではない。斉彬自ら兵を率いて上京するつもりで、西郷にその準備を命じたといわれている。武力を背景に事態の打開を図ろうとしたのだというような説もあるが、前述のように、斉彬は南紀派の勝利を受け入れていた。対立を蒸し返し、状況を悪化させるようなことを計画していたとは思えない。むしろ、朝幕関係が悪化しつつある状況を憂い、内乱状態に陥らないように、抑止力として兵を送ろうとしていたのではないだろうか」とあり、幕府との武力対峙説を否定しながらも、抑止力としての出兵を考えていたのではないかとしています。

ここで少し整理しますが、この斉彬の率兵上京計画において一番重要な点とは、斉彬が西郷に対して、どのような指示を下したのかということです。
この点については、斉彬や西郷が直接書き記した文書等が何も残っていないため、他の史料等から想像する他ありません。

まず、斉彬が出兵を計画したとされる安政5(1858)年夏、西郷と共に京・大坂で活動していた吉井仁左衛門(後の幸輔、友実)の手記によると、西郷は斉彬から、

「鹿城ヲ発セントスルノ日、齊彬殿密ニ隆盛ニ語テ謂テ曰、事成ラサレハ他ニ一策アリ、自ラ闕ニ詣テ為ス所アラン、汝モ亦臨機入京スヘシ」

との指示を受けていたとあります(「考証 吉井友實手記」『鹿児島県史料 斉彬公史料』三所収)。
この話は、豊後岡藩士で西郷とも交流のあった小河一敏の『明烏(あけからす)』という実歴談にも、吉井の談話として同様のことが記されています。

また、この話を補完するものとして、当時斉彬の腹心の一人であった市来四郎が、明治27年に史談会の席上で語った速記録には、

「吉井友實が言ふ所では三千餘の兵を引ひて出かけると云ふことを西郷が密かに云って聞かせたから、唯々飛び立って愉快として聞いたとの話でござりました」(史談会速記録第二十六輯「島津斉彬公国事鞅掌に関する事実附二十四話」『史談会速記録』(原書房)合本五所収)

とあり、当時の西郷が吉井に対して、「斉彬公は三千の兵を率いて上京する予定」と密かに話したと、市来は語り遺しています。

また、これも有名な文書ですが、西郷が僧・月照と入水後、奄美大島にて潜居中であった安政6(1859)年11月、大久保ら精忠組の同志たちが藩に差し出した「順聖院様御遺志」の文言が出てくる上書には、「菊池源吾(西郷のこと)が斉彬の腹心であったこと」を前置きし、西郷は斉彬から、「萬一モ姦策ニ陥紀州エ西上之義相決候ハ天下之禍乱ト相成候ハ顕然タル事候(焼損)被遊御出馬天朝御奉護可被為在」との命を受けていたと書かれています(『大久保利通文書』一)。
つまり、将軍継嗣が紀州藩の慶福に決まり、天下騒乱の様相を呈せば、斉彬自ら出馬して、朝廷を守護しようとの考えを西郷は斉彬から打ち明けられていたと、大久保たちは書いているのです。

ここで少しだけ苦言を呈しますが、今回の『西郷どん』では、上京した西郷が「もうすぐ殿が京へ登ってこられるぞ~!」なんて大声を張り上げていましたが、本来このような機密事項を軽々しく口にするはずはなく、何だか西郷の品格を下げる演出のような気がしました。
事実、市来四郎はこの率兵上京計画が藩の「一大機密」であったとして、西郷がその計画を話したのは、岩下方平、大久保利通、吉井友実の二、三人に過ぎなかったと書いています(「考証 吉井友實手記」『鹿児島県史料 斉彬公史料』三所収)。
毎回感じるのですが、『西郷どん』で描かれている西郷像は、大きな志を持った情熱ある男であるのは、すごく伝わってくるのですが、何だか人物的に軽すぎるような気がしてなりません。年を重ねるごとに風格が備わってくるという演出なのかもしれませんが……。

閑話休題。
以上のような事実から、斉彬の率兵上京計画は存在したと考えられますが、この出兵計画をいわゆる「5W1H」、つまり「Who(だれが)、What(なにを)、When(いつ)、Where(どこで)、Why(なぜ)、How(どのように)」から考えると、最初の4Wは容易に想像がつきますが、最後のWhyとHowが問題となります。

まず、先にHowについてですが、「斉彬はどうやって出兵しようとしていたのか?」、つまり「斉彬の出兵の名目は何だったのか?」という点です。
これについては、『鹿児島県史』第三巻や前述の市来の談話等に出て来ますが、市来は史談会の席上で、

「齊彬が内命を蒙って守護の為め多数の供方を引連れて上京云々の計畫は此年の八月琉球人を引連れて参府の積でございましたから、其名を以て多数の供方で参府の計畫は確乎とした事でござりまする」

と語り遺しています。
つまり、斉彬は琉球使節の江戸参府を口実(名目)にして、京都への出兵を考えていたということです。

このことは『斉彬公史料』に収められている他の文書でも確認できます。
例えば、『斉彬公史料』三の「参考 寺島宗則自記抄」には、「安政五年戊午齊彬公此年ノ秋琉球人ヲ率ヒテ、東観スヘキニ決シ、其準備アリ」とあるほか、『斉彬公史料』二の「丁巳閏五月御下国之事実」には、「此年八月、琉球王ハ家定公将軍宣下賀慶使ヲ従ヘラレ御参府ノ予定ニテ」と、安政5年8月に琉球王使節が将軍・家定の慶賀使として江戸へ参府する予定であったとし、「然ルニ此回ハ朝廷ノ密命ヲ奉セラレ、其実ハ御滞京、大ニ為スコトアラセラレムノ御計画ナリシ」と書かれています。
つまり、斉彬は琉球の慶賀使と共に江戸に参府する予定であったが、それはあくまでも表向きのことであり、実際は京都に滞在する計画であったということです。
また、『斉彬公史料』三の「江夏干城記事抄」にも、「安政五年ノ秋八月末、琉人被召列御参府ノ賦ニテ、琉球ヨリモ其手当ナリシニ、内実ハ京都迄御出掛ノ御密定」とあり、同様に琉球使節を口実として、斉彬が京都への出兵をはかったとあります。

この琉球の慶賀使については、結局8月になって延期されることが決まり、家老・新納駿河の名でその旨藩内に布告されています。
その達書には、「御国事多端ノ折柄ニ付、琉球人参府ノ儀ハ先被成御差延候旨被仰出候」とあり(「中山王使参府猶予達書」『斉彬公史料』三所収)、琉球使節の参府中止は、将軍家定の病気や異船来航が原因との記述がありますが、7月16日に斉彬が急死したことが大きく関係していることは間違いないでしょう。

以上のような記述から考え合わせると、斉彬は琉球使節の江戸参府を隠れ蓑として、京都への出兵を視野に入れ、計画を練っていたと考えられますが、では斉彬がそこまでして京都へ出兵する目的とは一体何だったのでしょうか?(つまり、Why?です)

冒頭において、『照国公感舊録』の武力対峙説を紹介しましたが、斉彬の京都出兵の目的が幕府と武力で対峙することにあったのかと考えると、やはりそれは懐疑的にならざるを得ません。
芳即正『島津斉彬』において詳しく検証されていますが、斉彬は常日頃から内乱の発生を強く危惧しており、幕府と武力で対峙するような強攻策を取るようには思えないからです。
事実、安政5年6月5日付けで斉彬が近衛忠煕に宛てた書簡の別紙には、「京師近海江異船渡来仕候ハヽ、防御之儀相心得候様尊命之趣奉承知候、此義乍恐關東嫌疑御座候間、充分之手当は御請難申上、勿論御奉公之事故可怖訳ニは無御座候得共、か様之事より内乱之媒ニも相成候間被聞食置度」とあり、「京摂への出兵は幕府の嫌疑をこうむり、それが内乱のきっかけともなりかねないので、お引き受けすることは出来ない」と述べています。

しかしながら、斉彬は同書簡の中で、次のように続けています。

「尤様子ニより難差置儀到来仕候ハヽ、早速御奉公可仕心底に御座候間、御内々奉言上候」

つまり、「差し置きがたい事態(容易ならざる事態)が到来すれば、直ぐにでもご奉公に駆けつける所存でおりますので、その旨内々に申し上げます」と、斉彬は書いているのです。

私は、当時の斉彬の考えを表現するのは、この近衛に宛てた一文に尽きるのでは無いかと考えています。
この文言は単に摂海の異船対策だけを意味しているのでは無く、これ以上朝廷が幕府に大きな圧力をかけられるような緊急事態が生じれば、京都へ出兵する考えがある、という斉彬の内心が表現されているのではないかということです。

斉彬がこの近衛への書簡を書いた二日後の6月7日、西郷が薩摩に帰国しました。
そこで斉彬は、今回の『西郷どん』でも描かれたように、西郷から将軍継嗣が紀州の慶福に決まったことを聞かされます。
そして、その4日後の6月11日、斉彬は再度近衛忠煕に対して書簡を書いていますが、その中に「以後関東より之申上ニ相成候て、万々一御不満之御都合ニも御座候ハヽ早々伺度奉存候」との文言があります。
つまり、斉彬は近衛に対して、「以後、幕府からの申し出について、万一不満や不都合があれば早々に伺いたい」と述べており、それは前述した6月5日の近衛宛書簡内の「差し置きがたい事態が到来すれば、直ぐにでもご奉公に駆けつける所存」と繋がっているように私は考えます。

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(斉彬が死の直前まで兵を調練した陣屋跡)

以上のようなことから考えると、前述の松尾千歳氏の「抑止力のための出兵」という言葉が、当時の斉彬の考えを表現するのに一番適している言葉のような気がします。
あくまでも私見ですが、大老・井伊直弼を中心とした幕府の圧力が日に日に強まっていく現状を憂慮した斉彬は、近衛に対して、朝廷に不都合なこと、つまり容易ならぬ事態が生じた場合は早々に報告して欲しいとの書簡を送ると共に、西郷に対しては、

「これ以上、幕府の大きな圧力が朝廷にかかるようであれば、琉球使節の参府と併せて、兵を率いて上京することも考えている。そのことを暗に含んだ上で行動せよ」

と指示して、西郷を送り出した。
斉彬の目的は、後年島津久光が行ったような、幕政改革の詔勅を得るためと言うよりも、まずは公武間の周旋を目的として、上京しようとしたのではないかと考えます。
そこに斉彬が兵を引き連れて行こうとしたのは、やはり幕府と政治的な駆け引きをする以上、ある程度の武力による背景が必要だと考えたからではないでしょうか。
当時の斉彬は、幕府との交渉がこじれた場合、幕政改革の詔勅を得ることも視野に入れていたかもしれませんが、その前にまずは公武周旋に力を注ぐことを目的としていたような気がします。


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【2018/04/22 21:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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今回の『西郷どん』ですが、いつぞやのロシアンルーレット以来のぶっ飛びようでしたね。
西郷が井伊直弼に呼ばれ、「自分の手下となれ」と言われるとか、慶喜が西郷と左内を連れて井伊のところに殴り込みに行くなどなど。
『西郷どん』は回を増すごとにエンタメ色が強くなってきていますが、もう少し歴史上の事件を深く掘り下げても良いのではないかと思います。折角の阿部正弘登場も、ほとんど何もしないまま死んでしまいましたから、何だかもったいなかったですね。
また、第14回では、引き続き将軍家定の継嗣問題が描かれましたが、この時期の西郷を描くには、それは避けて通れません。西郷の前半生は、「将軍継嗣問題→斉彬の死→戊午の密勅→月照との入水」という流れとなり、これから前半のクライマックスへと入っていきます。

さて、将軍継嗣問題において、ヒー様こと一橋慶喜を家定の跡継ぎとして推す斉彬ですが、第14回でも描かれたとおり、安政4(1857)年12月25日、幕府に対して提出した建白書の中で、慶喜を将軍継嗣に相応しいと次のように建言しました。

「皇国ノ御鎮護モ弥根深ニ相成可申、勿論御血筋御近キ御方当然ノ御事ニハ御座候ヘ共、斯ル御時節ニ御座候ヘハ、少モ御年増ノ御方、天下人心ノ固メニモ可相成、然ハ一橋殿御事、御器量・御年輩、旁人望ニ相叶可被成奉存候」(「齊彬公米国使節登営事件建言」『鹿児島県史料 斉彬公史料』二所収)

この一文には、斉彬の将軍継嗣問題に対する考え方が端的に述べられています。
つまり、「将軍継嗣は血筋が近い人間であるのは当然のことであるが、この多難な時節柄、天下の人心を得るためには少しでも年長者が望ましい。その点から言えば、慶喜公が、器量、年長、人望の点において最も適任である」ということです。

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(島津斉彬銅像)

また、斉彬は同建白書に、「御臺様御入輿被為在候御事故、偏ニ御出生可奉待上儀当然ニ御座候得共、当時ノ形勢ニテハ、一日モ早キク御養君不被仰出候テハ、難相済御時節ト奉存候」と述べ、「篤姫様が将軍家に輿入れされたので、家定公との間に子が誕生するのを待つのが当然であるが」と前置きし、家定や篤姫への配慮も示していますが、後段では「時節柄、一日も早く養子を決めるべきだ」としています。
斉彬自身は、篤姫が子を産む可能性が低いことを重々承知していましたから、このような言い回しにならざるを得なかったのでしょう。

以上のように、安政4年12月末時点で、斉彬ははっきりと一橋という名前を出し、慶喜を将軍継嗣とするよう建白したわけですが、その斉彬が慶喜と初めて会ったのは、それから遡ること九ヶ月前の安政4年3月27日のことです。
斉彬が同年4月2日付けで、当時福井に帰国していた越前藩主・松平慶永(春嶽)に宛てた書簡には、「扨又廿七日ニ橋公へ初而寛ゝ拝眉」とあり、また、同日付けで斉彬は慶喜の父・斉昭にも書簡を書き送っていますが、そこにも「先日は一橋江罷出、初て寛々ト拝顔仕」とあります(『鹿児島県史料 斉彬公史料』三)。
斉彬はその翌4月3日に江戸を発ち、鹿児島に向けて帰国しています。
つまり、帰国直前に慶喜と初めて面会したわけですが、斉彬としては江戸を離れるにあたり、慶喜の人となりや資質などを直接会って確かめたかったのでしょう。

また、斉彬は慶永に宛てた書簡の中で、慶喜の印象について、「実に早く西城に奉仰候御人物」と、慶喜が将軍継嗣に相応しい人物であると述べていますが、それに加えて、「御慢心之処を折角御つゝしみ御座候様、被仰上候て可然と奉存候」と書いています。
つまり、「慶喜公は少し驕り高ぶるきらいがある。それを慎むよう申し上げてはいかがでしょうか」と、慶喜の欠点を指摘し、慶永にそれを諫めるよう助言しています。
『西郷どん』で慶喜を演じている松田翔太さんは、その少し高慢な雰囲気が出ていて、ハマリ役と言えるかもしれませんね。

さて、斉彬は慶喜と直接会ったことで、彼を将軍継嗣と据えることに確信を持ち、薩摩に帰国したわけですが、その反面、慶喜を擁立するにあたり、斉彬が最も危惧したのは、慶喜の実家・水戸徳川家の評判の悪さであったと言えます。
安政3年から同4年にかけて、斉彬が慶永宛てに発信した書簡を越前藩の記録『昨夢紀事』と『鹿児島県史料 斉彬公史料』を使って少し追ってみると、例えば安政4(1858)年4月2日に送った書簡(慶永からの安政3年11月5日付けの書簡に朱字で返答を記したもの)には、

「先比之一橋之事並に此節御逝去一条にて、水府之事誠大不評候間、(中略)、当時之光景にては水戸え掛り候義は、中々むつかしくと奉存候」(『斉彬公史料』三)

との文言があります。
この「先頃の一橋の事」「この節の御逝去一条」とは、簡単に言うと、水戸家にかかる女性関係のスキャンダルを指しています。

まず、前者の「一橋の事」とは、慶喜の正室・美賀子が自殺未遂をはかった事件のことです。
これは越前藩の記録『昨夢紀事』に詳しく出て来ますが、一橋家の先々代の当主慶壽の正室・徳信院が慶喜と親密な関係にあったことから、その二人の仲を疑った慶喜の正室・美賀子が自殺をはかったとされる一件です。
この件については、斉彬が慶永に宛てた安政3年7月5日付けの書簡に、「一橋刑部卿御簾中之儀去ル十六日御自害可被成處漸ゝ取留ニ相成候由」とあり、当時そのような噂が公然と世間に流れていたことが分かります(『昨夢紀事』一)。

そして、後者の「御逝去一条」とは、水戸藩主・徳川慶篤の正室・線姫(いとひめ)が亡くなったことを指していますが、実はこれも自殺であったという噂があったようです。
また、その自殺の原因は、慶喜と慶篤の父・斉昭が彼女に手を出したことにあったと噂されていました。
これも前出の安政3年7月5日付けの慶永宛て斉彬の書簡に、「老公之事此節大奥向評判ニ而は線姫君と如何之儀被為在候」と出てくるほか、それを受けて宇和島藩主・伊達宗城の慶永宛て書簡にも、「老龍公線君と密接云々麟兄より御伝聞の由」(『昨夢紀事』一。麟兄とは斉彬のこと)との文言が出てきます。
宗城曰く「密接」とは、つまり斉昭と線姫が不義密通の仲であるということです。
ただ、この噂について斉彬は、「老公之事悪様ニ申度もの有之申ふらさせ候事かと被存候」と、斉昭の評判を悪くするために仕組まれたものではないかと推測しています。

以上のような噂話が真実であったのかどうかは定かでありませんが、ただ、斉昭は昔から女性問題には事欠かない好色の人物として世間に知られていましたので、大奥ではその破廉恥な話が真実だという風に受け取っていたのでしょう。
第14回では、家定の実母・本寿院が、斉彬が斉昭の子の慶喜を将軍継嗣にと建白したことについて激怒していましたが、それは斉昭の女性問題が要因の一つとなっていたと言えます。
『徳川慶喜公伝』では、このような大奥の斉昭嫌いについて、斉昭が質素倹約を旨とする上書を出し、それを大奥にも適用するよう求めたことがあったことから、大奥が斉昭のことを忌み嫌うようになったと説明されていますが、実際それは表向きのことであり、その裏には、こうした水戸家にまつわる一連の女性に関わるスキャンダルな事件が、大奥の水戸家に対する心象を大きく悪くし、慶喜への拒否反応を生んでいたとも言えるのです。

このように水戸家関連のスキャンダルが立て続けに生じていたことから、斉彬は当面の間、慶喜を将軍継嗣とする運動を控えるべきだと考えていたようです。
安政4年3月15日付けの慶永宛て斉彬の書簡には、

「折角申出候て不都合之節は、却て以後之障にも可相成と、小子は勿論藍山君同様に被存候間、(中略)、其上に水老・当公共何分評判不宜、申出候て調候とも、紀之方必定と被存候間、今少し様子見合候方可然哉(慶喜公を将軍継嗣にと申し出ても、それが不都合となれば、却って後に支障が出ます。これは宇和島の伊達公も同じ考えです。(中略)その上、水戸の老公・斉昭と藩主・慶篤の評判が共に良くないため、今将軍継嗣のことを申し出ても、紀州藩の慶福に決まるのは必定ですので、今少し様子を見合わせた方が良いのではないでしょうか)」

とあります。

また、その二週間後の同年3月29日付けの慶永宛て斉彬書簡には、「御當人様もつほねも能ヽ相心得居候事ながら無理被仰出候而も詮立候事有間敷却而害ニ相成候而ハ不宜との御模様ニ御座候まヽ御忠志之處ハ御同意候得共今少し御猶豫之方却而可然と奉存候」(『昨夢紀事』二)とあり、「篤姫や局(『西郷どん』で言えば幾島ですね)も、現時点で無理に慶喜を推すことは却って害となることを分かっています。慶永公の御忠心は理解できますが、慶喜公を推すことについては、少し猶予してはいかがでしょうか」と斉彬は書いています。

さらに、斉彬は同書簡の中で、慶永に対し、次のような助言をしています。

「折角之御忠志も時節あしき節被仰候而ハ同列共にも如何存候も難計り却而一橋貴君之御為にも不相成、(中略)、又爰ニ大秘之事ハ水老公と余り御文通等無之御遠ヽしき方天下之為かと被存申候委細筆紙ニ難申上西城之為にも第一可然と奉存候」

斉彬は、「今、慶喜公擁立に動くのは時期が悪く、慶喜や慶永のためにはならない。また、極内密に申すと、斉昭と手紙のやり取りなどの交際は余りしない方が良い。手紙には書きにくいが、天下のため、そして将軍継嗣のためにも、それが専要かと思う」との趣旨を述べています。
つまり、慶喜を将軍継嗣にするためには、評判の悪い水戸家、特に斉昭や慶篤から、慶喜を切り離すことが必要だと斉彬は考えていたということです。
そしてまた、慶永にも斉昭と疎遠になるよう勧めたのは、慶永の慶喜擁立運動には、斉昭が陰で糸を引いているとの噂が絶えなかったからでしょう。

これまで書いてきたとおり、斉昭は大奥の受けが非常に悪く、また、幕閣も彼の存在を煙たがっていましたので、将軍継嗣問題を円滑に進めるためには、慶喜擁立と斉昭とは無関係であるということをアピールしておいた方が良いと斉彬は考えていたことが分かります。
安政4年7月29日付けの慶永宛て斉彬書簡でも、「老公と御遠々敷相成候方、却て御双方之御為と存申上候(斉昭と距離をおいた方が双方のため)」とあり、斉彬は慶永に対し、再度斉昭と距離を置くように助言しています。

以上のような斉彬の書簡から見ると、将軍継嗣問題における斉彬の悩みの種は、斉昭と慶篤といった水戸藩関係者にあり、水戸家の評判が悪い今、当面の間は慶喜擁立運動を控えるべきだと考えていたことが分かります。
また、その斉彬の意を受け、慶永自体も、「兼而之御示教ニ従ひ火急ニ周旋は不致復又鎮静ニ機會を相俟ち可申考ニ御坐候」(安政4年10月16日付け斉彬宛書簡。『昨夢紀事』二)と書いており、その意見に従おうとしていたことが分かります。

しかしながら、安政4年12月に入ると、斉彬はその態度を大きく変え、幕府に対して公然と「一橋慶喜公を将軍継嗣に」との建白書を提出しました。
このように斉彬が方針転換したのは、第14回でも描かれたように、やはりハリスの登営一件の影響が大きかったと言えるでしょう。
おそらく斉彬は、水戸家の評判を気にしているような、そんな悠長なことを言っている場合ではないと考え、将軍継嗣問題に本気で取り組む覚悟を持ったものと思われます。

ちなみに、斉彬は建白書の提出と同時に、老中筆頭の堀田正睦に対して書簡を送っていますが、その中で「一橋殿御事は、老卿とは、御人物抜群御相違ニて、此儀は乍憚御請合申上候」と、「慶喜は斉昭とは違って抜群によく出来た人物です。そのことは私が保証いたします」と述べています(『斉彬公史料』三)。
この斉彬の書簡からも、斉彬にとって斉昭という人物は、将軍継嗣問題において障害以外の何者でも無かったことが分かります。

最後に、このように将軍継嗣候補として、斉彬や慶永の期待を一身に担った慶喜ですが、彼自身はそのことをどう思っていたのでしょうか。
『昨夢紀事』二の安政4年12月23日の条に、越前藩士・橋本左内が慶喜の腹心・平岡円四郎を訪ねた際、平岡は当時の慶喜の心境について、次のように語ったと記されています。

「我等不肖にして大任には堪えられず、且つ我等を西城などと申す沙汰もありとか聞きし、左あらんには唯我等が命期を短うする迄の事にて、天下のため何の益があらん。我等が如き不才にて斯く傾きかたなる天下の如何かわなるべき、心を苦しめ思いを焦して死するより外はあるべからず」(字句を読みやすく直して抜粋しました)

この『昨夢紀事』の記述は、『徳川慶喜公伝』でも引用されており、慶喜自身に将軍職就任への欲は無かったとされていますが、その慶喜を擁立した慶永は、そうは見ていなかったようです。
慶永は自身の回顧録『逸事史補』の中で、

「慶喜公は、衆人に勝れたる人才なり。しかれども自ら才略のあるをしりて、家定公の嗣とならん事を、ひそかに望めり。この事は、余の想像論なれども、我信ずる所にして、決て疑を入れざる所なり」

と語っています。
『徳川慶喜公伝』は、「慶喜公は幕府の衰亡の兆しを看破していたので、将軍職を受けるつもりは無かった」という趣旨で固められていますが、さすがにそれは後付けの説明に過ぎないでしょう。
慶喜としては、一人で火中に栗を拾う気はなかったかもしれませんが、やはり一種将軍職に魅力を感じていたことは、否定できないのではないでしょうか。


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【2018/04/17 16:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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『西郷どん』も一週スペシャルを挟んで今回で13回目です。
以前も同じようなことを書きましたが、平成2年の大河ドラマ『翔ぶが如く』に比べると、『西郷どん』は物語の進行が少し遅いように思います。
ただ、『西郷どん』は若き日の西郷に重点を置き、かつ、西郷を取り巻く女性たちにも新たにスポットを当てるというコンセプトの元に、『翔ぶが如く』で濃厚に描かれていたような歴史的な事項よりも、それに関わった人たちの人間模様を描くことに重点が置かれているような気がしますので、このような進行になるのは致し方ないと言えるかもしれません。

ちなみにですが、『翔ぶが如く』の第13回は「正助の布石」というタイトルで、西郷は今回初登場した月照と既に投身自殺をはかっており、後事を託された大久保が囲碁を通じて久光に近づこうと布石を打つ回でした。
前回の放送において、大久保は久光に渡した宝島事件関係書類の中に密かに書を忍ばせ、久光に対して自らの存在をアピールしていたため、大久保が囲碁を通じて久光に近づこうとするエピソードは割愛されるのかと思いきや、大久保の妻・満寿が囲碁教室仲間という驚くべき設定が出てきましたので、囲碁のエピソードも描かれるかもしれません。
ちなみに『翔ぶが如く』では、大久保が満寿から囲碁の手習いを受ける設定になっていましたが、実際の大久保は、青年時代から既に囲碁を嗜んでいたことが、大久保の日記により分かっています。

さて、今回のドラマ後半では、安政4(1857)年5月、約三年四ヶ月ぶりに薩摩に帰国した西郷と大久保の確執と言いますか、二人の気持ちがすれ違う様子が描かれていました。
西郷が大久保を肥後熊本に連れて行こうとしたことに対して、まるで西郷に同情されたかのような扱いを受けた大久保が、余計なことをするなとばかりに怒り、そして反発するシーンがありました。(最後は円満に友情回復でしたが)
少し描き方は異なりますが、平成20年の大河ドラマ『篤姫』においても、西郷が大久保を連れて熊本の長岡監物を訪ねた際、西郷が大久保に席を外すよう促したことから、大久保がそのことを屈辱として受け留めるような演出がありましたね。

一般的に西郷は斉彬に登用され、大久保は久光に登用されたかのようなイメージがありますが、それはある意味誤解で、実際大久保は斉彬時代に西郷と同役の徒目付に任じられています
『大久保利通文書 十』所収の大久保の年譜によれば、大久保は安政4年11月1日に「西郷と共に徒目付となる」とありますが、西郷家の家政上の記録である「万留」(『西郷隆盛全集』第四巻所収)によると、西郷が徒目付に任じられたのは、それより一ヶ月早い同年10月1日のことです。
そのため、大久保の年譜の記述は誤りと言えますが、「西郷と共に」という言葉を重視すれば、二人は同じく10月1日付けで徒目付になった可能性が高いと思われ、身分的に言えば、安政4年当時の二人の間に差があったとは言えません。

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(大久保利通銅像)

しかしながら、安政4年当時の西郷は大久保と違い、既に鹿児島を出て江戸で勤務した経験があり、しかも斉彬の手足となって政治工作にも携わり、既に他藩士との交流もありましたので、政治活動家としてのキャリアという点から言えば、当時の二人には大きな差があったと言っても過言ではないでしょう。
そのような点から、今回描かれたように大久保が帰国した西郷に対し、一種劣等感や嫉妬とも取れるような感情から、西郷が自分のことを見下したと感じ、反発したと捉えられなくもないですが、私は少し違う見方をしています。
当時の薩摩藩内における西郷と大久保の立ち位置や置かれた立場の違いについて、少し違う角度から比較・検討したうえで、これから当時の大久保の心事を読み解いてみたいと思います。

今回、ドラマ内でも描かれていたとおり、西郷が久しぶりに薩摩に帰国したのは安政4(1857)年5月24日のことですが、その翌日、二人の越前藩士が鹿児島城下に入りました。
村田巳三郎(後の氏寿)と安陪又三郎ですが、二人は斉彬の政治上の同志でもあった越前藩主・松平慶永(春嶽)の命を受け、幸吉という従者を伴い、鹿児島を訪れたのです。
そもそもこの二人は、肥後藩士・横井平四郎(小楠)を越前藩に招聘するために遣わされた使者の役目を担っていましたが、慶永からは熊本から足を延ばし、薩摩藩や肥前藩の状況も見聞してくるよう指示されていたようです。
村田の年譜「氏壽年譜」(『関西巡回記』所収)には、

「平四郎此表ヘ参リ呉候様致シ度此使其方エ申付候間早速罷越可致心配候。(中略)且此折柄鹿児嶋佐賀ヘモ参リ、学校台場其他ノ事ヲモ見分致シ候ハゝ可然トノ御事ニテ、嶋津齊彬侯鍋嶋閑叟侯ヘノ御直書ヲ御渡シアリタリ」

とあります。

村田が書いた「西遊日誌」(『関西巡回記』所収)によると、二人は安政4年3月28日に福井を出発し、目的の熊本へ入って小楠と会った後、西郷が鹿児島に帰国した翌日の5月25日に鹿児島城下に到着しました。
その鹿児島滞在中に書かれた「西遊日誌」を読むと、西郷という言葉がたくさん出てくることに気づきます。
例えば、村田が鹿児島に到着して2日後の5月27日の条に、「西郷吉兵衛ヘ紙面遣候所返書有之」とあるのを皮切りに、

 5月晦日「西郷ヘ書面遣ス」
 閏5月2日「西郷ヨリ返書遣ス、夜、西郷氏面会」
 閏5月9日「西郷ヘ手紙贈答」
 閏5月11日「西郷氏相見ユ」
 閏5月12日「夕方西郷ヘ手紙」
 閏5月13日「西郷氏来訪」
 閏5月15日「西郷氏手紙遣シ豚肉多葉粉被送之」 ※多葉粉とはタバコのことです。
 閏5月18日「西郷来ル」

と綴られ、村田が頻繁に西郷と書簡のやり取りを行ない、そして面談していたことが分かります。
しかしながら、その一方、これだけ西郷という言葉が並んでいるにも関わらず、村田が鹿児島に着いた5月25日から閏5月18日までの24日間に、大久保の名前が一切出てきません。

村田は当時将軍継嗣問題で西郷と共に活動していた橋本左内とも親交が深く、薩摩藩と歩調を合わせ連携していた越前藩内の様子や国内外の政治情勢など、貴重な情報を得るには打ってつけの人物であったため、西郷も村田と頻繁に手紙をやり取りし、足繁く彼の元を訪ねて情報を収集しようとしたことは容易に想像出来ますが、その一方で大久保は、そんな村田と一度も面会すらした形跡がないのです。
大久保は西郷と同じ志を抱く同志であり、そして友人でもあります。
西郷と大久保の関係を考えれば、西郷は村田の元に大久保を一緒に連れて行きそうなものですが、不思議なことに西郷が大久保を同行させた様子が全く見られません。

ただ、一度だけ村田が書いた日誌の中に、大久保の名が出てくる箇所があります。
村田が鹿児島城下を去る日の閏5月19日に、「正介子ウチハ扇子朱子スリ物被送之」との記述です。
村田が記した「関西巡回記」には、彼が鹿児島で面会した人たちの名が記されており、その中に大久保の名もありますが、そこには「伊集院ニテ 大久保正介」とだけあります。
つまり、村田が大久保に会ったのは、閏5月19日に村田が鹿児島城下を離れる際のたった一度だけ、大久保が同志たちと一緒に伊集院まで村田らを見送りに来た時だけだったということです。
「西遊日誌」によると、大久保はその時村田に対し、「うちわ」と「扇子」と「朱子の摺物」を餞別として渡したことが分かりますが、村田にとって当時の大久保という人物は、見送りに来てくれた多くの薩摩藩士たちの中の一人に過ぎなかったと言えるでしょう。

以上のように、西郷が帰国していた安政4年5月に鹿児島を訪れた村田の記録を元に考えると、当時の西郷と大久保の差、と言うよりも、薩摩藩内における二人の置かれた立場や立ち位置の違いが明確に浮かび上がってくるように感じます。
そしてまた、西郷が大久保を肥後熊本に連れて行こうとしたことへのヒントが隠されているような気がするのです。

ここからはあくまでも私の推測ですが、西郷は村田に会えたのに対し、大久保は会えなかった。
西郷と大久保の関係性から言えば、西郷は大久保を村田の元に連れて行きそうなものですが、それをしなかった、いや出来なかったと言えるかもしれません。
西郷が安政4年閏5月3日付けで、妹・琴の夫である市来正之丞に宛てた書簡には、「越前藩面会の儀は御世話成し下され誠に有難く」という文言があり(『西郷隆盛全集』第一巻)、西郷が村田と面会できたのは、家老座書役として勤務していた妹婿・市来の導きがあったことが分かります。
同じく西郷の市来宛書簡から察すると、村田らは鹿児島到着後一種隔離された状態にあったようですので、大久保については藩から面会の許可が下りなかったのかもしれません。
当時の薩摩藩内において、大久保の立場は、斉彬の股肱の臣として活動していた西郷とは違い、言わば一薩摩藩士に過ぎません。西郷は大久保を連れて行きたかったかもしれませんが、藩は大久保に対し、越前藩士たちとの接触を認めなかった可能性も考えられます。

また、越前藩士側から考えると、村田にとって西郷は名の知れた政治活動家であり、斉彬の意図を汲み取る寵臣であったことから、積極的に交流すべき相手でしたが、極論を言えば、安政4年当時の大久保は、村田にとって会うに値する人間ではなかったと言えるかもしれません。

以上のようなことから考え合せると、当時の薩摩藩内における西郷と大久保の置かれた立場や扱いは大きく異なっていたと思われ、そのことから大久保が西郷に対して、一種劣等感や嫉妬のような感情を抱き、今回のドラマで描かれたように反発することがあったやもしれません。
しかしながら、大久保という人物の性格を考えると、大久保自身は冷静に自分の置かれた立場をしっかりと認識し、西郷に政治活動家として差をつけられていることを自覚していたのではないでしょうか。

これはあくまでも私の推測に過ぎませんが、西郷が熊本に大久保を連れて行こうとしたのは、通説のような西郷の発案と言うよりも、大久保からの積極的な働きかけがあったからではないかと思っています。
大久保という人物は、目的達成のためには向上心を持って一歩ずつ着実に、地道に努力できる強靭な精神力を持った人です。
そのため、大久保は西郷との立場の違いやその差について、劣等感や嫉妬を抱くよりも先に、「その差を埋めるにはどうすれば良いのか?」ということを考えたような気がします。

以上のように推測すると、大久保は西郷に対し、「向学のため、是非熊本まで一緒に連れて行っていってたもんせ!」と積極的に頼んだと考えた方が、私には大久保らしく思えるのですが、いかがでしょうか。


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【2018/04/08 20:47】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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鹿児島県では、明治維新150周年を契機に、県内外の若手研究者に対し、研究経費を助成することで、明治維新期の薩摩藩(鹿児島)に関する研究の深化を図る事業を行っています。

詳しくは下記チラシまたは募集要項等が掲載されている下記サイトをご覧ください。

若手研究者育成事業1

平成30年度 明治維新150周年若手研究者育成事業
https://kagoshima-ishin.com/osusumeevent/平成30年度-明治維新150周年若手研究者育成事業/


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【2018/04/05 13:08】 | 鹿児島
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