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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます     (大河ドラマ『西郷どん』の解説も是非お読みください)
最初に私事から入りますが、実は先日、病院に入院そして手術を受けまして、『西郷どん』の第20回は退院した日の夜に自宅で見ました。
術後の痛みに堪えながら、傷口に触るので、なるべく興奮しないように見ようと心がけましたが、大久保の妻・満寿が、お由羅主催のお茶会に招かれたシーンを見て、笑いすぎて傷口が開きそうになりました。
あれでは、まるでドラマ『白い巨塔』で描かれた「教授婦人会」ですね(笑)。

と、冗談はさて置き、以上のような状態で、まだ体が本調子ではないことから、今回の感想&小解説はいつもより簡単になることをどうぞご了解願います。

(国父・島津久光)
さて、今回のドラマでは、前藩主・斉興の死や誠忠組内部の対立、誠忠組への藩主の諭告書降下、最後は桜田門外の変などなど、様々なトピックスが一気に描かれましたが、今回も時系列がかなり入れ替わっていました。

ここで少し整理すると、まず前藩主の斉興が亡くなったのは、安政6(1859)年9月12日のことです。そして、誠忠組への藩主・茂久直筆の諭告書が下されたのは、その約二ヶ月後の11月5日、桜田門外の変はさらに翌安政7(1860)年3月3日のことです。
今回のドラマ内では、斉興が亡くなってすぐに久光が国父となり、大久保の尽力によって誠忠組へ諭告書が下され、最後に桜田門外の変が起こるという流れとなっていましたが、実際に久光が国父の称号を得たのは、だいぶ先のこと、文久元(1861)年4月22日のことですので、実は桜田門外の変よりもさらに一年後のことになります。

久光が国父の称号を得ることになったのは、その二ヶ月前の同年2月18日、幕府が久光の薩摩藩政への関与を正式に認めたことが大きなきっかけとなっています。

「島津周防儀、其方家督之節ヨリ、国政向万端心添致精勤候趣相聞候ニ付、来年其方参府之上ハ、国許国政向猶厚ク、万事行届候様可取計旨可被申聞置、此段内々可達トノ御沙汰ニ候」(『鹿児島県史料 忠義公史料』一)

これが藩主・茂久へ与えられた幕府の達書の内容ですが、幕府はこれまで藩政を補佐してきた久光の勤務態度を評価し、翌年の参勤交代の折りには、留守となる藩主に成り代わり、国政諸事全般を預かることを許可したのです。
しかしながら、実際その翌年、幕府が留守を任せようとした久光自身が、藩主・茂久に代わって江戸に出てくることになるとは、この時の幕府は夢にも思っていなかったことでしょう。

安政5(1858)年7月16日に斉彬が逝去した後、『西郷どん』でも描かれたように、久光ではなく、前藩主の斉興が藩主・茂久(当時は又次郎)の後見となりましたが、『島津久光公實紀』一には、「斉彬公既ニ薨ス公猶ホ重富邸ニ在リ隔日城ニ入テ藩政ヲ参決ス」とあり、久光も隔日に登城して、政務に携わっていたことが分かります。
第16回の感想&小解説において、久光が当時京都に居た西郷からの手紙を見たことから、家老の新納久仰と島津下総を呼び出し、その善後策を講じようとしたことについては書きましたが、新納の雑譜を見ると、このような形で当時周防と名乗っていた久光が藩政に深く関与していた様子がうかがえますので、斉彬の死後の久光は、藩政顧問のような形で実際に政務に携わっていたのです。

斉彬はその生前、久光のことを「博聞強記我カ及ハサル所、亦其志操方正厳格是モマタ我ニ勝レリ」と、鹿児島を訪れた幕臣・勝海舟に対して紹介したことは拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』においても書きましたが、また、斉彬は嘉永元(1848)年5月29日付けで家臣の山口定救に宛てた手紙の中で、次のように久光のことを評しています。

「柔和ニは候得共、内心は柔和計りニは有ましき様子と存申候、此人政事ニ差はまり候へは、よろしくと存申候」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』一)

この記述を見ると、斉彬は久光の人物をよく見抜いているなと感心してなりません。
つまり、「(久光は)性格は一見優しく、穏やかそうには見えるが、内心は温和だけの人物ではない。この人は政治に携わるのが良いのではないかと思う」と、斉彬は久光を政治向きの人物だと評しているからです。

斉彬はまさにそのことを確認・実現するかのように、藩主に在任中、久光に対して、当時の政治的な課題について相談していた形跡をうかがえる書簡も実際残っています。
例えば、安政5年4月12日付けで斉彬が久光に宛てた手紙には、「外夷之事に付て京都より申来候事有之、急に御相談申度儀も有之候間」(『斉彬公史料』三)との文言があり、当時生じていた外交問題について、斉彬が久光に相談しようとしていたことが分かります。

このように、久光は元来政治力に長けた人物であったことから、斉彬の死後、藩内における久光の力は自然と大きくなっていったことは想像に難くありません。
また、藩主に就いた子の茂久も久光を頼りにしていたことから、幕府が久光の藩政関与を正式に認めたことを受けて、茂久は名実共に久光の身分回復を図ろうと考えました。
これが久光が国父と称される所以なのです。

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島津久光銅像(鹿児島市)

文久元(1861)年4月22日、茂久は久光を国父として処遇する旨を藩内に布告しました。
その布告書には次のようにあります。

「順聖公ノ御眷顧ヲ蒙リ、家督相続被仰付候処、当時ヨリ武鑑ニモ、実ハ島津周防嫡子ト有之、天下ニ押出シテ顕然ノ事ニ候、然ルニ只今ニテハ所謂名不正言不順ト可申哉、親子ノ情於孝義難黙止次第ニ候間、拙者之内存ニハ、当家督ハ又次郎ヘ申付、重富家ヲ出テ国父ト云処ヲ以、朝夕自ラ定省イタシ、為子ノ礼ヲ取テ孝義ヲ尽シ、臣子ニ先シ度候、左候ハ名義モ相立候事ト存候」(『忠義公史料』一)

つまり、茂久は、「自分が斉彬公から特別に目をかけられ、家督を相続したとは言え、自分が島津周防の実子であるということは、既に周知の事実である。にもかかわらず、このように実父をこのまま臣籍の状態に置くことは名実共に順序が逆で、親子の情や孝義において黙止がたいものがある。私の考えでは、重富家の家督は弟の又次郎(珍彦)に引き継がせ、父を本家に復し、国父として処遇することで、私は子として孝義の礼を尽くしたいと考えている」と藩内に布告したということです。

この布告書にも如実に表れていますが、茂久、のちの忠義ですが、彼はとても親孝行な人物で、自らが藩主の座にありながらも、その在任中は常に実父・久光の意向・指示に忠実に従い行動しました。
歴史上、親子が仲違いし、それがお家騒動に発展するというのはよくある話ですが、幕末の薩摩藩が一糸乱れぬ形で動くことが出来たのは、久光の統率力もさることながら、久光と忠義の仲が大変良好であったことも大きかったと言えます。
明治維新後、復古思想を抱く久光が死ぬまで髷を切らなかったことは有名な話ですが、子の忠義もそんな父に見習い、最後まで断髪しませんでした。また、久光と同様に、死ぬまで西洋医にはかからず、漢方医の処方を受けたと伝えられています。
忠義は孝道という概念を第一義に考えた人物だと言えると思います。

こうして国父となった久光は、通称を周防から和泉に変え、また、その諱を忠教(ただゆき)から久光へと改めました。
ここに国父・島津久光が誕生したのです。


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【2018/05/29 15:36】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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はじめまして
甘党猫
はじめまして。毎回『西郷どん』終了後、貴ブログを楽しみにしている者です。今回少し更新が遅れて心配しておりましたが、手術をされていたとのこと、お見舞い申し上げます。

私は歴史好きではありますが、知識が浅いため大河ドラマを見ていても、よく理解できないことが多くて困っておりました。貴ブログは読みやすく、それでいて深いところまで解説してくださるのでとても助かっております。一日も早く本復されることをお祈りいたします。

ありがとうございます
粒山樹
甘党猫さま

はじめまして、こんばんは。
この度は大変ありがたいコメントを頂戴いたしまして、本当にありがとうございます。
また、私の体調を気遣うお言葉も頂戴し、重ねてありがとうございました。

私の書くブログをご愛読頂いているとお聞きし、大変嬉しいですし、光栄です。

少しでも多くの方々に、西郷隆盛、そして幕末の薩摩藩の世界に興味を持って頂けるよう、これからも読みやすく・分かりやすいをモットーにして頑張って書いていきたいと考えておりますので、これからも応援の程どうぞよろしくお願いいたします。

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物語は引き続き奄美大島編です。
私のツイッターでも呟きましたが、島編に入ってから際立っているのが、愛加那演じる二階堂ふみさんの好演ですね。
個人的な感想ですが、これまで演じられた愛加那像の中で私は一番好きです。
見た目は華奢ですが、芯のしっかり通った愛加那を見事に演じきっており、主役の鈴木亮平さんを食う勢いすら感じます。
まさに今回はタイトル通り「愛加那」一色だったと言えるのではないでしょうか。

(薩摩藩と砂糖)
さて、今回は前回と同様に、奄美大島の砂糖にまつわる話が中心でした。
砂糖隠しの嫌疑を受けて代官所に捕らわれた龍佐民と富堅の二人を西郷が救いましたが、少し歴史を紐解くと、『鹿児島県史』二によれば、薩摩藩が奄美大島での砂糖買い入れを積極的に始めたのは、元禄年間のことであったとされています。

『改訂名瀬市誌』1巻歴史編(以下、『改訂名瀬市誌』と略す)によると、元禄11(1698)年、奄美大島では従来置かれていた間切横目(警察・監察役)の他に、黍横目、竹木横目、津口横目、田地横目が置かれることになったとあります。
同市誌によれば、黍横目とは甘蔗(サトウキビ)を司る役職のことで、甘蔗の植え付け、施肥、手入れ、取り入れから製糖、樽拵、船積みまでを取り締まったそうです。
薩摩藩がこの時甘蔗専門の役職を設けたということは、本格的に砂糖製造に力を入れるためであったのでしょう。

薩摩藩の砂糖買い入れ制度については、二つの方式がありました。

「定式買入」「惣買入」です。

定式買入とは、藩が砂糖の買い入れ額をあらかじめ設定し、それを甘蔗を栽培する島民に割り当て、定めた量の砂糖を藩が買い入れる方式です。
それに対して、惣買入とは、藩が甘蔗を栽培する土地をあらかじめ決め、その面積を甘蔗を栽培する島民に割り当て、そこで生産される全ての砂糖を藩が買い入れる方式です。
つまり、定式買入は、割り当てられた生産量を藩に対して差し出せば、残りは島民のものとなりますが、惣買入は生産される全ての砂糖を藩が買い入れることになることから、島民の手には一切残りません。
また、定式買入にも「買重糖(かいかさみとう)」と呼ばれる、臨時で割り当てられるノルマが導入されていたことから、結局甘蔗を栽培する島民の手に残る砂糖は、皆無に等しかったと言えるでしょう。

薩摩藩はこの定式買入と惣買入の制度を交互に導入していたようです。
『改訂名瀬市誌』によれば、それぞれ二回ずつ交互に実施され、その実施時期を表にすると次のとおりです。

 第一次定式買入:享保、元文頃から安永6(1777)年まで
 第一次惣買入 :安永6(1777)年から天明7(1787)年まで
 第二次定式買入:天明7(1787)年から天保元(1830)年まで
 第二次惣買入 :天保元(1830)年から明治5(1872)年まで

上記のとおり、第二次の定式買入が天明7(1787)年以来40年以上も長きに渡って続いていたにもかかわらず、天保元(1830)年を境にして、生産される全ての砂糖が藩庫に入る惣買入に変更されたのは、薩摩藩士・調所笑左衛門(広郷)が推進した「天保の改革」と呼ばれる藩政改革と深く関連しています。

薩摩藩は斉彬の曾祖父で第八代藩主・島津重豪(しげひで)の放漫財政により、多額の借金を背負うことになったのはよく知られています。
その借金の額は、一時期「500万両」(1両を現代の5万円と換算すると2500億円)にも膨れあがり、当時の薩摩藩にとって、財政再建こそが喫緊の課題となったわけですが、そこで登場したのが調所です。
調所は西郷と同じく藩内での身分が低い御小姓組の出身で、元々は茶坊主として出仕していましたが、重豪に目をかけられ、財政改革の責任者として抜擢されました。

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調所広郷銅像(鹿児島市)

調所は重豪とその孫にあたる第十代藩主・島津斉興の信任を得て、藩内に様々な財政改革を実施しましたが、とりわけ力を注いだのが、奄美大島、喜界島、徳之島などで行われていた製糖についてです。
調所は藩の収入を増やすため、当時大坂などで高価に取引されていた砂糖の生産量を上げることを考え、買い取り方式を定式買入から惣買入へと切り替えました。
前述のとおり、惣買入は甘蔗を栽培する島民が生産した全ての砂糖を藩が買い上げる制度ですので、島民に対して出来るだけ多くの土地に甘藷を栽培させ、彼らを厳しく追い込めば追い込むほど、砂糖の生産量は増加し、藩の財政は潤うことになるからです。

(砂糖地獄)
『改訂名瀬市誌』と『鹿児島県史』二を参照して書きますが、薩摩藩は三島方という部署を新たに設け、奄美大島、喜界島、徳之島での製糖業を管轄させました。
三島方は、奄美大島の島民各自に割り当てられた甘蔗の栽培面積から次年度の砂糖の生産予定額をあらかじめ定めたうえで、その生産予定額から島民が藩に差し出す租税額を控除し、その残余について、生活必需品と交換することを決定しました。
つまり、島民が必要な生活用品は、全て砂糖での交換としたのですが、それらの品々は藩が一手に引き受けて渡すわけですから、もちろん藩は交換率(相場)を高く設定しますので、島民はたくさんの砂糖を生産しなければ、生活はどんどん苦しくなります。

また、ヒドイのは、天保10(1839)年から、生活必需品と交換しなかった砂糖の残余について、藩は島民に対して「羽書」と呼ばれる手形を交付することに決めたのですが、その羽書が使用できるのは、毎年五月から七月までの三ヶ月間のみとしました。
つまり、藩は島民が貯蓄出来ないようにしたのです。

調所が推進した藩政改革によって、このような制度が構築された結果、前回の『西郷どん』から描かれているように、奄美大島では非常に過酷な取り立てが島民に対して行われました。
『鹿児島県史』二によると、黍横目や黍見廻の指揮に背く者、甘蔗の刈り株が高い者、製糖が粗悪な者に対しては、道路修繕等の科役を課したり、罪人の札をかぶせたり、あるいは首枷足械の罰を受けさせたとあります。この様子は今回の『西郷どん』でも描かれていました。
また、抜砂糖、つまり隠れて砂糖を生産することを企てた者に対しては死罪、そのことを知っていた者には遠島などの重い処分を科し、前回の『西郷どん』でも描かれていましたが、子供が甘蔗を舐めたり、食べたりでもすれば、棒に縛り上げて曝しものにしたとまであります。

このような島民に対する苛斂誅求な仕打ちは、まさに「砂糖地獄」と呼ぶに相応しいものであったと言えるでしょう。
前回の感想&小解説でも書きましたが、西郷は奄美大島において、このような過酷な取り立てが行われていることを知り、大変驚きました。
今回のドラマ内で、砂糖隠しの嫌疑を受け、柄本明さん演じる龍佐民と愛加那の兄・富堅が代官所に捕縛され、それを西郷が助けるシーンがありましたが、これは東郷中介『南洲翁謫所逸話』に収められている逸話を参考に構成したものだと思います。

同書には、あらかじめ決められた砂糖の生産量に達しなかった者に対しては、「島民カ隠蔽スルモノトナシ甚シキ苛責ヲ加フ」とあり、島民が砂糖を隠し持っているとして、拷問等を加えたとありますが、それを憂いた西郷は、「直ニ旅装ヲ整ヘ行程四里餘ヲ急行」し、当時在番役(代官)を務めていた相楽角兵衛に面会を求め、「具ニ條理ニ訴ヘ島民ノ宥恕ヲ乞フ」たとあります。
結局、相楽は西郷の言を入れて、捕らえていた農民たちを解放し、「島民皆苦責ヲ免レテ各其業ニ就キ居タリト云フ」と同書にありますが、このようなことがあったことから、西郷は島民の信頼を得ることになったのです。
今回はこの逸話を大きく脚色して、ドラマに仕立てたのでしょう。

(武士と農民の関係)
このように奄美大島での砂糖の生産は、峻烈極まりない、非常に過酷なものであったと言えます。
『西郷どん』において、その様子が描かれていることは、奄美大島の砂糖生産の歴史を知る上で、とても有意義なことであると言えるのではないでしょうか。

ただ、『西郷どん』に限らず、大河ドラマの主人公は、よく人権を尊重し、平和主義、ジェンダーフリーなどの思想を持っていたかのように描かれることが多いですが、結局のところ、奄美大島での砂糖地獄の例を見れば分かるように、当時の武士とは「消費階級」に過ぎず、農民たちを搾取することでしか生活が成り立たない人々であったということを忘れてはなりません。
前回の『西郷どん』で、愛加那が斉彬のことを批判し、そして「私らは民のうちには入ってなかった」とこぼすシーンがありましたが、当時の奄美大島の島民たちにとって、それは本音であったことでしょう。いかに斉彬が世間で名君と謳われていようとも、農民たちにとっては、斉彬は支配者であり、搾取層でしか無かったということです。

そして、それは西郷も同様の立場です。
今回の『西郷どん』で描かれたとおり、西郷は奄美大島の島民のために立ち上がり、彼らを助けようと力を尽くしました。それは現代に遺る数々の逸話によって明らかです。
しかし、西郷が砂糖地獄に陥る島民をその苦役から解放しようと考えていたわけではありません。
確かに、西郷は農民たちに対して、愛情をもって接し、彼らのことを労り、そして哀れむ精神を持っており、その溢れんばかりの憐憫の情で常に行動した人物であったと言えますが、少し厳しい表現をするならば、そこまでが彼の限界であったとも言えます。

拙著『維新を作った男 西郷隆盛の実像』(扶桑社、2017年)でも引用しましたが、のちに西郷が沖永良部島に遠島された際、同島の間切横目の職にあった土持政照に対し、「与人役大躰(よひとやくだいたい)」(『西郷隆盛全集』一)という、役人の心がけを記した文書を手渡していますが、その中に次のような一節があります。(拙著の現代語訳版から引用します)

「百姓は力を労して天意に報いるのが職分であり、役人は心を労して天意に報いるのが職分です。力を労するとは、農作業に勤しみ、年貢を滞納せず、あるいは課役を勤めるということです。また、心を労するとは、百姓の頼りになるように諸事取り扱い、凶作のための対策をし、農作業の時節を失うことがないよう配慮してやることです」(P46)

この一文には、西郷の理想が語られています。
つまり、「農民とは、農作業や課役に励み、藩ひいては国のために尽くすのが本分であり、役人とは、私利私欲を一切絶ち、そんな農民たちを慈しんで、彼らが働きやすい環境を整えてあげる」ということです。
西郷はそれが「天意に報いる行為である」と規定していますが、この一節にあるとおり、西郷の理想とは、農民たちの解放ではありません。
民は国のために働き、そして役人(つまり武士階級)は民に思いやりをもって配慮してあげる、ということに過ぎないのです。

大河ドラマは所詮フィクションですので、どのように描いても問題ありません。私は『西郷どん』で描かれている西郷像をいつも楽しく見ています。
しかしながら、もし真の西郷像を掴もうとするのであれば、西郷をまるでスーパーマンであるかのような、救世主扱いするのは、少し注意が必要で、筋が違っていると言えます。西郷といえども、やはり彼は為政者側に居た人間だからです。

ただ、私はこのことをもって西郷を責めているのでは決してありません。
当時の西郷が搾取層である武士階級の一員である以上、当然のことながら、その域を脱することは難しかったと言えるからです。
また、このことで西郷の評価を下げるのは間違っており、それは別次元の話と言えます。
なぜならば、幕末という、いわゆる封建社会の中において、ここまで農民たちを慈しむ心を持っていた人が、消費階級であった武士、つまり為政者側に居たというのは奇跡に近いと思うからです。
言葉は悪いですが、農民たちのことを屁とも思っていなかった人たちが大半を占める世の中で、西郷という人間は、その限界を大きく超えようとしていたのですから。
私はその点が西郷の凄さであり、偉大さでもあると思います。
そして、そういう部分が、西郷が誰からも愛された最大の理由であると、私は心からそう思っています。


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【2018/05/20 21:02】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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k
いつも勉強させてもらってます。


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(第18回を振り返って)
いよいよドラマは「島編」に入りました。
月照と共に寒中の海に身を投げた西郷でしたが、奇跡的に息を吹き返し、失意の中、奄美大島へと旅立ちました。
『西郷どん』は、これまで描かれることの少なかった西郷の南島生活や愛加那との関係に重点を置くようですが、私は大賛成です。
西郷の思想の根底、つまりその源流にあるのは、奄美大島や徳之島、沖永良部島で過ごした約四年半に渡る南島生活にあると考えているからです。

よく西郷の人生は、幕末と明治に分けて論じられることが多いですが、西郷の人生は沖永良部島から帰還した年、つまり元治元(1864)年を境にして論ずべきであると私は考えています。
安政期から文久期までの西郷は、どちらかと言えば志士的気概が抜けきっておらず、血気盛んで、荒々しい部分が目立つ人物でしたが、徳之島そして沖永良部島での過酷な流刑生活を経験したことで、人間的にも格段に成長を遂げ、成熟期に入ったと言えます。
そんな西郷の成長のきっかけとなった南島生活をどのように描くのか、そして西郷が自殺未遂や流刑を機に、どのように再生していくのか、いや覚醒していくのか。
ここが『西郷どん』の真の見せどころだという風に感じています。

その点から言えば、今回の放送は本当に素晴らしかったと感じました。
個人的な感想ですが、これまでの回の中で一番の出来と言えるのではないでしょうか。
奄美大島の自然の素晴らしさ、そして愛加那の神秘的な美しさと自殺を遂げられなかった西郷の失意が、まるで「陽」「陰」をあらわすかのように、とても対照的に描かれていました。
また、その奄美大島の陽の中にも、実は砂糖地獄という大きな陰の要素が含まれていることも印象的でしたし、さらに失意のどん底にある西郷に、愛加那という一縷の希望の光が射し込むラストも大変心に響きました。

(西郷と月照の入水)
さて、ドラマ内では描かれませんでしたが、西郷と月照の入水を少し振り返ってみたいと思います。
西郷と月照が入水したのは、安政5(1858)年11月16日のことですが、家老・新納久仰はその日の日記に次のように書いています。

「三助小用ニ立候姿ニ見得候処鑁水モ同様立アカリ候得ハ、直ニ鑁水ト三助モツレ合海中ヘ飛入候」(『鹿児島県史料 新納久仰雑譜』二)

つまり、三助こと西郷が小便をすると言って立ち上がり、それに続いて鑁水こと月照も立ち上るや否や、二人はもつれ合うようにして海中に飛び込んだとの報告を新納は受けていたようです。
また、その翌17日の記述を見ると、亡骸となった月照の懐中から、鼻紙に記された次のような歌二首が出てきたとあります。

「曇りなき心の月の薩摩かた 沖の波間にやがて入りぬる」
「大君の為には何かおしからん 薩摩の瀬戸に身は沈むとも」

新納は「当分三助モ病気言語不通之由ニ候ヘハ、誰カ詠トモ不知候」と、「当分西郷は話せるような状態ではないようなので、誰が詠んだものか分からないが」と書いていますが、これらはいずれも月照が詠んだ辞世の句でした。

「清水成就院住僧忍向和尚之僕重助西行物語」(『野史臺維新史料叢書』三十三所収。以下、「西行物語」と略す)によれば、「濱近くに船を止め、酒宴致し候處、隠居の申さるヽには、此月明にて歌一首詠し候とて半紙に認めて西郷氏に差出さる」とあり、下僕の重助は、月照が船中で詠んだ歌を西郷に差し出したと証言していますが、勝田孫弥『西郷隆盛伝』によれば、その時月照が詠んだ歌は前記の辞世の句ではなく、

「舟人の心尽くしに波風の あやうき中を漕ぎて出でにき」
「答ふべき限りは知らで不知火の つくしに尽くす人の情けに」

の二首であったと書かれています。
つまり、月照は自分を逃がしてくれることへの感謝の意を歌にして詠んだということですが、その歌とは裏腹に、その時月照は既に死ぬ覚悟が出来ていたのです。
そう考えると、前記の辞世の句は、月照が舟に乗船する前にあらかじめ認めていたと考えた方が良いのではないかと思います。
西郷と月照、どちらから死ぬことを言い出したのかは定かでありませんが、想像するならば、お互いに語らずとも、じっと目を見つめ合い、死ぬ覚悟を伝えあったのかもしれません。

「西行物語」によると、西郷と月照が海中に身を投げた際、周囲の人々は驚き、目印として「歩み板三枚」を海に投げ込み、さらに海に飛び込んで二人を探したとあります。
同船には西郷と月照の他に、平野と重助、そして藩から付き添いを命じられた坂口周右衛門(新納は用右衛門と書いています)の三人が居ましたが、もちろん船頭や水夫たちも数人乗船していたと思いますので、海に飛び込んだのは水夫たちであったことでしょう。
春山育次郎『平野国臣伝』によると、西郷と月照はお互いに抱き合ったまま、海中から忽然と浮かび上がってきたとあります。

また、船上に引き揚げた西郷や月照に対して、平野が鼻の下に灸を据えて潮水を吐かせたりするなどして様々な介抱をしたと「西行物語」にありますが、西郷が一命を取り留めたのも、平野の迅速な手当てがあったからだと言っても過言ではありません。

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西郷隆盛蘇生の家(鹿児島市)

少し後のことになりますが、文久2(1862)年3月、島津久光が兵を率いて薩摩から上京するに際し、西郷は先発を命じられ、下関において平野と再会していますが、その際西郷は平野に対して、「いずれ決策立て候わば、共に戦死致すべしと申し置き候」と語ったと、後に奄美大島の見聞役・木場伝内宛ての書簡に書いています(『西郷隆盛全集』一)。
この時、西郷が平野に対して、胸に秘めた決死の覚悟を打ち明けたのは、自分の命が平野によって助けられたことと無縁ではないでしょう。西郷は平野に対して、その時の借りを返すべく、その心中を吐露したに違いありません。
このように、西郷と平野はとても縁深い間柄であったと言えますが、そんな平野が『西郷どん』に出てこなかったのは、返す返すも残念で仕方ありません。

(奄美大島へ)
平野らの懸命の介抱の甲斐あって、息を吹き返した西郷は、親類預かりとなり、そこから失意の日々を過ごすこととなります。
その失意を西郷自身は「土中の死骨」という言葉で表現しています。
安政5(1858)年12月19日付けで、西郷が肥後藩家老・長岡監物宛てに書いた書簡の中に、

「随って私事土中の死骨にて、忍ぶべからざる儀を忍び罷り在り候次第、早御聞届け下され候わん。天地に恥ヶ敷儀に御座候え共、今更に罷り成り候ては皇国のために暫く生を貪り居り候事に御座候」(『西郷隆盛全集』一)

とあります。
この書簡は西郷が投身自殺を試みてから約一ヶ月後に書かれたものですが、「私は土中に埋まる死骨(屍)」や「天地に対して恥ずかしい」という言葉からも、西郷の失意の大きさがうかがい知れます。

先日、私のツイッターでも少し呟いたのですが、西郷が月照と共に投身自殺をはかったのは、前述のとおり安政5年11月16日のことですが、この日は斉彬の月命日にあたります。(斉彬は同年7月16日に死去)
その点から考えると、西郷の自殺は四ヶ月遅れの殉死だったとも言えるかもしれません。
あくまでも想像ですが、奇しくもその殉死に立ち会ったのが、西郷に殉死を止めるよう諭した月照であったことに、西郷は奇妙な縁を感じ取っていたのではないでしょうか。

さて、西郷家の家政上の記録である「万留」(『西郷隆盛全集』四所収)によると、西郷は同年12月14日に徒目付・鳥預・庭方兼務の職を解かれ、その後、奄美大島へと旅立ちます。
西郷はよく二度の島流しにあったと言われますが、この一度目の奄美大島行きは、藩から年六石(後に十二石に加増)の扶持米が支給されていることから、いわゆる「遠島」という処罰ではありません。奄美大島での潜居は、安政の大獄の影響で幕府から嫌疑を受けた西郷を保護するための藩公認の処置でした。

西郷が奄美大島の名瀬港に着いたのは、翌安政6(1859)年1月11日のことですが、その約一ヶ月後、税所喜三左衛門(のちの篤)と大久保に宛てた書簡には、「一日晴天と申すなるは御座無く雨勝ちに御座候。一体雨はげしき所の由に候得共、誠にひどいものに御座候」とあり、雨が降りしきる中、西郷は鬱屈した日々を過ごしていたことがうかがえます。

今回のドラマ内で、二階堂ふみさん演じる「とぅま(愛加那)」の手の甲に入れ墨が彫られていましたが、このことも前述の西郷書簡の中に出てきます。

「島のよめじょたちうつくしき事、京、大阪杯がかなう丈に御座無く候。垢のけしょ一寸計、手の甲より先はぐみをつきあらよう」

ドラマ内でも説明がありましたが、「はぐみ」とは入れ墨のことで、この記述を見る限り、西郷は奄美大島の女性たちの美しさに惹かれたようです。
しかしながら、西郷は同書簡の中で、

「誠にけとう人には込り入り申し候。矢張りはぶ性にて食い取ろうと申す念計り、然しながら至極御丁寧成る儀にて、とうがらしの下なる塩梅にて痛み入る次第に御座候」

と書いています。
「けとう人(毛唐人)」とは、島民の蔑称です。
この文言から西郷の蔑視感情がうかがえますが、それは何も西郷に限ったことではありません。当時本土(鹿児島)に住む人間のほとんどは、このように南島に住む人々を差別していたのです。
西郷は「島民には困っている。ハブのように隙あらば食いついてくるような目で見てくるのに、とても丁寧に取り扱ってくれることが逆に不快でならない」と書いているのです。
島民たちの親切な態度が逆に不快と感じるほど、当時の西郷の心は荒んでいたと言えましょう。

また、同書簡の中で西郷は、「重野両三日参り居り候」と書いており、当時同じく奄美大島に流謫中であった薩摩藩士・重野厚之丞(のちの安繹)が訪ねて来たことを記していますが、後年重野はその時西郷が次のような話をしたと語り遺しています。

「和尚を独り死なして、自分一人死に損い活きて居るのは残念至極だ。士の剣戟を用いずして身を投げるなどと云うことは、女子のしそうなことで、誠に天下の人に対しても言い訳がない。唯和尚は法体のことであれば剣戟を用いずして死んだ方が宜しかろうと云う考えで投身したけれども、寧ぞ死するならば初めから剣戟を用いたらばよかったに、女子のなすような真似をして、自分独り活き残って面目次第もない」(「重野安繹演説筆記第三」『鹿児島県史料 斉彬公史料』三所収)(読みやすくするため、片仮名を平仮名に直しました)

重野はその時西郷が「歯噛ヲナシ涙ヲ流シテ拙者ニ話シタ」と言っていますが、当時の西郷は月照一人だけを死なせてしまった自責の念に苛まれていたのでしょう。
そんな西郷の心の荒みようは、今回のドラマでとてもよく描かれていたと思います。

ただ、そんな西郷でさえも、今回ドラマ内で描かれたように、奄美大島の島民に対する砂糖の取り立てについて、心を痛めていたようです。
同書簡には、「何方においても苛政の行われ候儀、苦心の至りに御座候(どこにおいても苛烈極まりない政治が行なわれており、心苦しいです)」とあるほか、

「当島の体誠に忍びざる次第に御座候。松前の蝦夷人捌きよりはまだ甚敷御座候次第、苦中の苦、実に是程丈けはこれある間敷と相考え居り候処驚き入る次第に御座候」

と、「奄美大島は誠に忍びざるを得ない状況です。松前のアイヌ人の扱いよりも甚だ酷く、それは苦中にさらに苦を生み出すほどで、これほど酷いものとは考えておらず、誠に驚きました」と書いています。

若き日の西郷は、郡方に勤めていたことから、藩内の農政事情に精通していました。
そんな西郷でしたから、奄美大島内の悲惨な現状を現地に来て初めて目の当たりにし、愕然としたのです。
そんな自らの失意をまるで吹き飛ばすかのような島民たちへの過酷な待遇は、西郷を再起させる一つのきっかけともなったと言えます。
それは、また次回以降に。


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【2018/05/14 17:15】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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ukoji
西郷隆盛の大河があるだけでありがたいと、
内容の飛躍や割愛は気にしないようにしてますが。
西郷が島人の作った食べ物をたたき捨てる
場面があり、西郷隆盛の行動原理からすると
ありえないので、さすがに あ~っと思いました

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(第17回を振り返って)
第17回では、京都を追われることになった月照を西郷と有村俊斎の二人が力を合わせて薩摩に連れて帰っていましたが、これは史実から大きくかけ離れています。それどころか、実際は西郷も俊斎も、月照を置いて先に薩摩に帰っているのです。
つまり、月照を薩摩に連れて行ったのは二人ではないということです。

月照と共に京都を脱出し、大坂から舟に乗って下関へと着いた西郷は、当時薩摩へ帰国途上にあった前藩主・斉興の行列が通過したことを知り、月照の受け入れ等を直訴するため、同行していた俊斎に月照の身を託し、先行してその行列を追いかけ、薩摩に帰国しました。
しかし、その俊斎は西郷に月照の庇護を頼まれておきながらも、月照を筑前藩士らに託し、西郷の後を追いかけて薩摩に帰国してしまったのです。
有村俊斎の口述を元に書かれた西河称『維新前後実歴史伝』には、「西郷と共に百事をととのへ、再ひ来り迎へんと欲するなり」と、俊斎が西郷を追いかけた理由が簡潔に記されていますが、藩境の警戒が厳しかった薩摩に入国するためには、いずれ薩摩人の力が必要であることは百も承知であったにもかかわらず、どんな理由があれ、先に月照を置いて行っちゃったのですから、はっきり言ってヒドイものです。
俊斎に関して言えば、月照を置き去りにしたとの誹りを免れないと私は思います。

そして何よりも、月照の薩摩入りに関して言えば、筑前浪士の平野国臣を抜きにしては絶対に語られないのですが、何とドラマ内では平野が全く出てきませんでした……。
幕府の放った捕吏の目をかいくぐりながら、苦労に苦労を重ねて、いくつかの難を避けながら、やっとの思いで月照を薩摩に連れてきたのは、平野以外の何者でもなく、月照が無事に薩摩に入国できたのは、平野の活躍抜きには語られないのです。
もし、平野が居なければ、月照は薩摩に入る前に捕まっていたやもしれません。それほど平野の功績は大きいのですが、今回のように平野の存在を完全に無視するような演出は、あんまりではないでしょうか?
ドラマですから史実云々を細かく言うつもりは無いのですが、創作するにせよ、もう少し配慮があってしかるべきなのではないか、というのが私の正直な感想です。

(西郷の挙兵計画)
さて、今回の放送は、月照の薩摩入りについて、視聴者の方に誤解を与えかねない内容だと感じましたので、実際のところを私が分かりやすく解説したいと思います。

まず、小河一敏『明烏(あけからす)』に収録されている「清水寺忍向阿闍梨略伝」によると、西郷が月照を連れて京都を去ったのは、安政5(1858)年9月10日のことです。
同年9月3日、京都所司代の酒井若狭守忠義が入京し、その直後の9月7日には元小浜藩士で、いわゆる尊攘派のリーダーと目されていた梅田源次郎こと雲浜(うんびん)が捕縛されるなど、当時の京都にはいよいよ大獄の嵐が吹き荒れようとしていました。
前回の『西郷どん』でも描かれたように、その影響は月照にも及び、彼は自首することを考えたようです。
春山育次郎『平野国臣伝』には、

「到底いつまでも身を潜めて居られぬ形勢が見えるので、今は是非なしと考へまして、自ら名乗り出で幕吏の捕縛を受け、白洲の上に大義を説く他はあるまいと決心をして、その由を近衛公に申出てました」

と、その時の月照の気持ちが記されています。
しかしながら、近衛忠煕はその月照の申し出に応じませんでした。近衛としては、月照が捕縛されることにより、自らに大きな影響が出ることを懸念したのでしょう。また、月照を幕府に差し出すことが忍びなかったのかもしれません。
そのため、近衛は密かに西郷を呼び出し、月照の保護を依頼したのです。

こうして西郷は月照の身を託され、俊斎と共に京都を脱出して伏見へと向かったのですが、元々彼らは近衛からの依頼により、月照を奈良に避難させようとしていたようです。
当時江戸から京都に上ってきた有馬新七の「都日記」(『維新日乗纂輯』第二所収)の9月10日の条には、「和尚も所司代より嫌疑深く、探索ること厳重なれば、奈良に所縁有れば彼所に赴て難を避なむと思へる由にて、彼是かたらひけるにぞ」と、有馬は西郷から聞いた話を書いています。
海音寺潮五郎氏はその著作『西郷隆盛』の中で、奈良の興福寺や春日神社は、藤原氏ひいては近衛家に縁が深い神社仏閣であることから、近衛はその関連施設に月照を匿わせようとしたのではないかと推測されています。

しかしながら、伏見に到着した一行は、奈良も京都に近いため危険であると判断し、月照を遠く薩摩へ落ち延びさせた方が良いのではないかと考えました。
西郷は俊斎に対し、月照を大坂まで連れて行くよう頼み、自身はその足で一旦京都へと戻りました。
西郷が京都に戻ったのには理由があります。当時の西郷は、井伊大老や間部老中を中心とした幕府勢力に対抗するため、挙兵計画を企てていたからです。
この挙兵計画については、西郷が安政5年9月17日付けで、当時江戸に居た日下部伊三次と堀仲左衛門に宛てた書簡の中に出てきます(『西郷隆盛全集』一)。

「明日間閣着の賦に御座候間、若しや暴発仕り候わば直様義兵を挙げ申すべく、左候わば大坂土屋の兵は応じ申すべく、尾張も同様と相考え居り申し候。間若等の兵は柔弱故に打破り申すべく、左候て彦城を乗り落し候様仕るべく候間、其の節は関東にて兵を合せ打崩し候様、御責め下さるべく候」

西郷は、明日入京する予定の老中・間部詮勝が京都で暴発するようなことがあれば、すぐに義兵を挙げ、土浦藩や尾張藩の兵と共に間部や京都所司代の酒井の兵を打ち破り、彦根城を落とすとともに、関東でも同時に挙兵する計画を企てていたことが分かります。
西郷の計画はまことに大それたものですが、斉彬亡き今、当時苦境に立たされていた旧一橋派の形勢を逆転させるためには、西郷は東西呼応した挙兵しかないと当時考えていたのです。

しかしながら、この挙兵計画は結局上手く運びませんでした。
京都において幕府勢力の力は益々強まり、水戸藩の密勅降下に関連した人々が次々と捕縛される事態へと発展し、また、その余波は西郷にも及ぼうとしていたため、西郷は京都を脱出し、月照を連れて、大坂から一路下関へと向かうのです。

(元薩摩藩士たちの尽力)
前回の『西郷どん』では、大坂から舟を使って脱出したのは、月照、西郷、俊斎の三人で、それを橋本左内が見送っていましたが、厳密に言えば、実際は五人であり、また、左内は当時江戸に居たため立ち会っていません。
実際に月照を大坂から逃がすために尽力したのは、西郷の同志・吉井仁佐衛門(のちの幸輔、友実)であり、大坂から下関へと向かったのは、月照と西郷、俊斎の他に、月照の下僕・重助と筑前藩士・北条右門でした。

この時月照に同行した北条は、前名を木村仲之丞と言い、元薩摩藩士です。
『西郷どん』第4回の感想&小解説において、「お由羅騒動」の影響で薩摩を出奔し、筑前藩主・黒田長溥に庇護を求めた薩摩藩士が居たことを書きました。
井上出雲守、木村仲之丞、竹内伴右衛門、岩崎千吉の四名ですが、彼らはその後、井上は工藤左門(のちの藤井良節)、木村は北条右門(のちの村山松根)、竹内は竹内五百都(のちの葛城彦一)、岩崎は洋中藻平(のちの相良藤次)と名を変え、筑前藩士として活動していました。
後述しますが、彼ら四人は月照が筑前に入った際、月照を匿うことに尽力することになります。

前述のとおり、月照一行が下関に到着後、西郷は前藩主・斉興の行列が通過したことを聞きつけ、それを追いかけるため、俊斎と北条に月照を託して先行したのですが、残った四人は下関の豪商・白石正一郎の屋敷に入っています。
「白石正一郎日記」(『維新日乗纂輯』第一所収)には、「忍向上人西郷ノ来レルハ此ノ不在中十月朔日ナリ翌二日出発」とあり、正一郎が商用で薩摩に行って留守中の10月1日、忍向こと月照一行が白石家を訪れたとあります。
そして、その翌日、関門海峡を舟で渡った西郷を除く四人は、一路筑前の博多へと向かいました。博多には同行していた北条の居宅があったからです。

月照の薩摩入りに関して最も詳しい書物と言えば、春山育次郎『平野国臣伝』が挙げられます。
ここからは主にその『平野国臣伝』によって話を進めますが、月照一行が博多大浜の北条の居宅に着いたのは10月3日の暁方のことでした。
そしてその翌日、前述のとおり、俊斎は北条に月照を託し、西郷の後を追いかけるのですが、『明烏』には一人取り残された月照が詠じた和歌が記載されています。

「行く末は如何にならむ不知火の 筑紫の海によする白波」

『平野国臣伝』によれば、この和歌は月照がオランダから幕府に贈呈される汽船・観光丸と咸臨丸の二隻が博多湾に寄港する噂を聞いた際に詠じたものだとされていますが、月照はこの和歌に自らの境遇を重ね合わせたものと感じられてなりません。
このように不安に満ちていた月照を見知らぬ土地に一人置いて行ったのですから、俊斎の行動は軽率であったと感じられてなりません。

その後、月照は博多の北条宅で数日過ごし、太宰府に参詣するなどして平穏な日々を過ごしたようですが、そんな月照に対し、大きな危機が迫ろうとしていました。
『明烏』によると、「伏水ヨリ大坂ヲ歴テ中座(中座トハ町奉行ノ使役スル警察小吏ノ号ナリ、所謂目アカシノ類)甚助・徳蔵ノ両人、忍向ノ跡ヲ追テ今馬關ニ着セリ、不日ニ博多ニ至ラントス」とあり、京都町奉行支配の捕吏二名が月照の後を追い、博多に入ろうとしていたのです。

京都町奉行の放った捕吏二名が下関に到着したとの知らせは、下関の白石家から北条のところに入りました。
その一報を受けて北条は驚き、月照を他の安全な場所に移そうと考えましたが、既に捕吏が博多に入っている以上、近場で匿うことが出来ません。北条は同じ元薩摩藩士の工藤左門とも相談し、西郷や俊斎から何の連絡も無い今、ともかく月照を薩摩に向けて落ち延びさせる他ないと考え、洋中藻平に案内役を頼み、博多よりも南方に位置する上座郡大庭村(現在の福岡県朝倉市)の竹内五百都の元へ月照を逃がすことに決しました。

この辺りの状況を見る限り、元薩摩藩士の四名が互いに連携して、月照を必死に護ろうとしていたことがうかがえます。
『西郷どん』では全く描かれませんでしたが、月照が無事に薩摩にたどり着けたのは、西郷や俊斎の力ではなく、彼らの功績が非常に大きなものであったと言えるのです。

(平野国臣)
月照を竹内の元へ出発させたものの、北条の悩みの種は「どのようにして月照を薩摩に入国させるか?」でした。薩摩までの険しい道のりを月照と下僕・重助の二人だけで越えられるはずがなく、また、何よりも薩摩は藩境の警戒が非常に厳しい国柄として知られていたからです。

少し話がそれますが、つい先日、宮崎県小林市紙屋にある旧薩摩藩の関所「紙屋の関」を訪れたのですが、その案内板には「(紙屋の関を通るための)犬一匹の通行許可願が遺されている」とありました。
つまり、犬すらも通行証が必要なほど、薩摩藩は他国人の入国を厳しく取り締まっていたのです。

「薩摩びと いかにやいかに刈萱(かるかや)の 関もとざさぬ世とは知らずや」

これは全国を旅した事でも知られる高山彦九郎が、薩摩への入国を拒否された際に詠んだ歌です。
刈萱とは、筑前太宰府にあった古来の関所のことを意味しますが、彦九郎は出水筋沿いに設けられていた薩摩藩の関所「野間の関」において、厳しい取り締まりにあい、入国を拒否されたことがあったことから、このような歌を詠じたのです。
このように、薩摩行きは大変困難が伴うものと予想されたため、北条は案内人の人選に苦慮していたのですが、そんな北条の元に、偶然に平野国臣が突然訪ねて来たのです。

平野は筑前藩の足軽の家に生まれた軽輩ですが、若い時分に国事活動に目覚めたことから、人並み以上に学識にも秀で、それに加えて優れた胆力を持ち合わせていた人物でした。
当時の平野は浪人同然の身分でしたが、北条や西郷とも交流があり、そして何よりも、江戸や京都、長崎といった諸国を旅した経験が豊富にあったことから、北条はこれ幸いとばかりに、平野に事情を説明し、「月照を薩摩に連れて行って欲しい」と頼んだのです。

実はこの時、平野は筑後や肥後地方への旅行から帰ってきたばかりでしたが、平野は北条の依頼を二つ返事で引き受けたのです。その時の平野の様子を後に北条は、

「平野欣然トシテ領諾シ、直ニ旅装ヲ治メテ上座郡ヲ差シテ出発ス」

と書き残しています。
『平野国臣伝』は、「斯く頼まれて、一言の下に快諾し、宜しい参りませうと引受けた態度の立派さは、今からでも思い遣られます」と、平野の潔い態度を賞賛していますが、まさしく同感です。
旅行から帰ってきたばかりの疲れた身でありながらも、しかも困難が予想される薩摩への逃避行であったにもかかわらず、それを全く躊躇することなく引き受けたのですから、まさに幕末の快男児・平野国臣の面目躍如と言えます。

平野は旅の疲れを癒やす暇もなく、その翌日に大庭村へと向かい、竹内の居宅で月照主従と合流すると、二人を引き連れ、舟で筑後川を下り、久留米方面へと向かいました。これが10月20日のことです。
『平野国臣伝』によれば、平野は竹内と相談し、薩摩に入国するにあたり、月照を京都の醍醐山三宝院御門跡から鹿児島城下の修験僧・日高存龍院のところに使わされた御使僧と称して関所を通過する手はずを整え、通行証も偽造したようです。
平野と月照は山伏の格好に身をやつし、久留米から柳河へと入り、そこから舟を乗り換えて、有明海、八代海へと出て、薩摩に向けて一路南行するのです。

(薩摩への入国)
平野という力強い味方が加わった月照一行は、舟で薩摩領内の米ノ津港(現在の出水市)に上陸を試みますが、浦役人はそれを許しませんでした。浦役人は、出水筋沿いの「野間の関」を通って入国するよう指示したのです。高山彦九郎が薩摩に入国しようとして厳しい取り締まりを受けた、あの難関の関所です。

平野は仕方なく船頭に命じて関所の手前に上陸し直し、月照は静渓院鑁水、平野は弟子の胎岳院雲外坊、下僕の重助は藤次郎と名乗り、前述のとおり、日高存龍院に使わされた御使僧と称して関所を通過しようとしたのですが、平野の必死の抗弁も虚しく、結局入国は許可されませんでした。
やはり、薩摩入国の壁は当時も未だ高かったと言えます。

平野はこの時のことを後年福岡で獄中に入っている際、紙縒(こより)を文字の形にし、紙に貼り付けて執筆した「藎志録」(『平野国臣伝記及び遺稿』所収)という回顧録の中で、「関吏点検、怪而不容、忌一向僧故歟」と、自分たちが一向宗の門徒と怪しまれたのではないかと書いています。薩摩藩は一向宗厳禁の土地柄であったからです。やはり、急ごしらえの山伏の格好では、関所の番人の目はごまかせなかったのでしょう。
また、『平野国臣伝』には、「僕重助の話によると、此時ばかりは月照も甚だ弱はつて、モウアカヌと言ったさうです」とあり、月照が薩摩への入国を拒否されて、絶望した様子がうかがえます。

しかしながら、平野は決して諦めませんでした。
あくまでも想像ですが、平野は月照を大いに励ましたうえで、野間の関から上陸した地点に戻ると、先程乗船した舟の船頭に向かって、「北(肥後)に戻る」と言って舟を漕がせましたが、出航するや否や船頭に対して、「南の薩摩の阿久根に行け」と命じたのです。
つまり、平野は関所を無視して、強引に薩摩領内に直接上陸しようと考えたのです。
「清水成就院住僧忍向和尚之僕重助西行物語」(『野史臺維新史料叢書』三十三所収)という、下僕・重助の口述を元に書かれた文書が残されていますが、それによると、船頭は平野の申し出に難色を示しましたが、「二郎殿刀を抜て、我申事聞事なりかたけれは其方の首を刎、我等楫(かじ)を取て往」と平野に言われ、船頭は恐れおののき薩摩へと向かったそうです。

ただ、米ノ津から阿久根方面に向かうには、長島と九州本土の間の海峡「黒之瀬戸」を通らなければなりません。
黒之瀬戸は日本三大急潮としても有名な海峡で、「一に玄海、二に鳴門、三に薩摩の黒之瀬戸」とうたわれたほどの難所です。
そんな潮流の急な難所を月照や平野は小舟で、しかも真っ暗闇の夜に通ったのですから、まさに命がけの薩摩入りであったと言えましょう。

(西郷の入水)
その後、月照と平野は無事に薩摩領内に上陸を果たし、11月10日の夜に鹿児島城下に入りました。月照と平野が大庭村を出発したのが10月20日のことですから、福岡から鹿児島まで20日かかったということです。その期間だけを見ても、いかに月照と平野が多くの苦労を重ねて薩摩にやって来たのかが容易に想像できると思います。
『西郷どん』では、西郷と有村が泥まみれになりながら、月照を薩摩に連れて帰っていましたが、はっきり言えば、実際彼らは何もしていないのです。

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(月照と平野が宿泊した鹿児島城下の俵屋跡)

このようにして、ようやく薩摩にたどり着いた月照一行でしたが、それを迎えた薩摩藩政府の対応は、非常に冷たいものでした。
月照が鹿児島に入った翌日の11月11日、家老の新納久仰は、次のように書き留めています(『鹿児島県史料 新納久仰雑譜』二)。

「彼是拙者共モ甚込リ入タル者ニ候間、何分厄害成者入来リタル事ニ候」

この新納の「甚だ困り入りたる者」「厄害なる者」という言葉が全てを物語っているのではないかと思います。
つまり、薩摩藩にとって、月照は「厄介者」以外の何者でも無かったということです。

また、新納の雑譜には、その後も月照をどのように扱うかを重役たちで協議していた様子が読み取れますが、11月15日の条には次のようにあります。

「乍去鑁水等三人其儘捕ヘサセ候テハ、近衛様御難題被成候儀モ差見得居候ヘハ、誠ニ以旧来之御由緒柄御本意候訳合ニ付、極内西郷三助ヘ致手都合、今晩中是非船ヨリ福山辺ヘ渡ラセ、夫ヨリ紙屋御番所カ也志布志之方ニテモ為忍、随分御関所出去リ候時分見合、筑前之者ヘハ最早立去リ候ニ付、足配承候処ヶ様ニ候間道筋追尋候様申達候ハヽ、其上之処ハ行形リニテ可有之致内評」

つまり、「月照や平野らを幕府の捕吏に捕らえさせては、近衛家の難題となり、これまでの近衛家との関係から考えるとそんなことは出来ない。そのため、極内密に西郷に手はずを整えさせ、今晩中に舟で福山辺りに渡らせ、そこから紙屋の関か志布志から藩外に退去させ、潜伏させてはどうか。また、関所を出たのを見計らって、筑前から来た捕吏たちには、「もはや月照は立ち去りました」と言おうではないか」というようなことを重役たちで協議していたということです。
また、新納は「路銀等モ会所在金ヨリ拾両位西郷ヘ相渡シ道案内ト唱ヘ」と、西郷に対して「路銀として十両くらい渡しておけば良いだろう」とも書いています。

これら新納の記述から考え合わせると、いわゆる「東目(日向)送り」と呼ばれる、藩境において罪人を斬るという処分、つまり西郷が月照を斬れとの処分を藩から言い渡されたという通説は、甚だ疑問です。
新納の記述からも分かりますが、薩摩藩は縁戚である近衛家との関係を非常に心配していることから、近衛家に所縁が深い月照を藩外で斬れと命じたとは到底考えられないからです。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、この月照の「東目送り」は、あくまでも伝承に過ぎないものと私は考えています。
簡単に言えば、薩摩藩庁は単に厄介払いをしたかっただけで、藩外への退去を西郷に命じたに過ぎないのではないかと言うことです。

あくまでも推測ですが、西郷は藩から十両のはした金を渡され、まるで臭いものにふたをし、外に追いやるかのような処分内容を聞き、怒りを通り越し、大きな絶望感に見舞われたと言えるのではないでしょうか。
当時の西郷は、自ら神とも崇め奉った斉彬という大きな存在を失い、ただでさえ心に大きな傷を負っていましたので、無慈悲とも思われる藩庁の処分を聞き、完全に希望を失ったように思えます。

また、それは月照も同様です。
京都を出てから二ヶ月以上にも渡る長い逃避行を続け、ようやく目的地の薩摩にたどり着いたと思いきや、また藩外に退去するよう迫られたのですから、心身共に限界の状態にあった月照は、大きな絶望感に襲われたに違いありません。

西郷と月照、それぞれを襲った二つの巨大な絶望感が、二人をして錦江湾の海に身を投じさせるきっかけとなったことは、想像に難くありません。
結果、安政5(1858)年11月16日、西郷と月照は、お互いに死を覚悟して、寒中の海に飛び込んだのです。


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【2018/05/07 18:25】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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