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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます     (大河ドラマ『西郷どん』の解説も是非お読みください)
最近の『西郷どん』を見ていて感じるのは、「脚本家の中園ミホさんは、果たして史実をちゃんと綿密に調べたうえで創作しているのか?」という点です。

もちろん、大河ドラマは時代劇ですから、史実を忠実になぞる必要はありませんし、創作、演出するのは当然です。
つまり、ドラマである以上フィクションであるのは当たり前ではありますが、ただ、史実を理解したうえで創作されたものとそうでないものとは、幕末史を少しでもかじったことのある者からしてみれば、見ていて何となくその違いが分かるものです。
あくまで個人的な感想ですが、中園さんは幕末史をちゃんと理解したうえで創作していないような気がするのです。

また、ドラマが史実から大きくそれると、必ずネット上では「時代考証は何をやってるんだ!」みたいな批判が起こりますが、私は時代考証の先生方を批判するつもりは毛頭ありません。
実はその逆で、時代考証の先生方は被害者とすら思っています。
おそらく『西郷どん』においても、史実と相違する点については、時代考証の先生方が懇切丁寧に、そのことを指摘されていると思います。
しかしながら、少し小耳に挟んだところでは、それでも最終的には脚本家や演出家の意向が優先されるのだそうです。
結局そのように脚本家らの意向が通るのだとしたら、時代考証なんていう仰々しい役目は不要なのではないでしょうか?

時代考証の先生方が、実際に史実との相違点を指摘しているにもかかわらず、ドラマが史実から大きくかけ離れると、世間から「史実無視」だと真っ先に叩かれるのは、時代考証の先生方です。それは、先生方にとっても本意ではないはずです。
結局、大河ドラマの時代考証とは、NHKが「歴史家のお墨付きを得ていますよ」とアピールしたいだけの(実際そんなわけではないのに)、いわゆる「単なる箔づけ」に過ぎないのだと感じられてなりません。
大河ドラマに限らず、どんなドラマもそうですが、脚本家が自身の責任において勝手に創作すれば良いだけの話なのです。
専門家の意見を聞きたければ、個人的かNHKを通じて聞けば良いだけの話で、まるでドラマにお墨付きを与えているかのように錯覚させる、仰々しい時代考証という役目は、最早必要ないと私は思います。
作品に対する批判は、時代考証の先生方が受けるものではなく、脚本家が一身に背負うべきものなのです。

(第一次長州征討における西郷の功績)
今回の『西郷どん』も物語の進行がとても速かったように感じました。
前回「禁門の変」が終わったと思いきや、あれよあれよと言う間に「第一次長州征討」まで話が進み、そしてそれがいとも簡単に終わってしまいました……。
第一次長州征討における西郷の働きは、彼の生涯の中においても、最も輝かしい功績の一つであり、また、西郷の存在感を世に知らしめた、まさに西郷の真骨頂を発揮したものであったと言えます。

禁門の変後の長州藩内は、俗に「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」という言葉で表現されるように、薩摩藩や会津藩を憎むこと甚だしかったと言えます。
少しさかのぼると、文久3(1863)年12月24日、下関海峡を通航していた薩摩藩の商船・長崎丸が、長州藩から砲撃を加えられ、焼失する事件が生じるなど、八月十八日の政変をきっかけとした薩長両藩の確執は、とても根深いものがありました。
このような状況下の最中、西郷は第一次長州征討の談判のために、周囲の反対を押し切って、奇兵隊をはじめとする長州諸隊の幹部連中と会うため、小倉から長州の下関へと渡りました。
勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、「馬關の海峡は薩人の為めには正に三途の川なり」と、征長副総督らが西郷の身を危ぶんだとあるほど、それは非常に危険な行動であったのです。

西郷が下関に渡ったのは、征長軍の解兵条件の一つであった、三条実美以下五卿の動座(移転)を実現するため、それに反対している諸隊の幹部連中に直接会い、彼らを説得するためでした。
西郷の行動は、まさに「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」という故事を実践するかのような、死を賭した大胆なものであったと言えます。
しかしながら、西郷は「薩摩憎し」で凝り固まっていた諸隊の幹部連中を説得することに成功し、五卿動座を承諾させ、第一次長州征討を平和的な解決へと導いたのです。

事の顛末を簡単に書きましたが、このように第一次長州征討における西郷の行動は、とてもドラマティックであり、時代劇で描くとしては格好の材料であったと言えます。
また、主役の鈴木亮平さんの存在感を際立たせる大きなシーンに仕上げられたにもかかわらず、今回の『西郷どん』において、そのことは余り強調されず、西郷が岩国に出かけて行って、吉川経幹(つねまさ。監物)と会う形だけで描かれたのですから、私的にはとても残念でした。
確かに、実際に西郷は吉川と会い、征長軍の解兵について談判していますが、むしろ強調すべきは下関渡海の方であったと言えるからです。

今回の『西郷どん』では、禁門の変の首謀者であった三家老の切腹が征長軍の解兵条件としてクローズアップされていましたが、第一次長州征討において西郷が最も苦労したこととは、前述した五卿動座についてでした。
八月十八日の政変によって、ともに都を落ち延びた七人の公卿たちは、長州藩にとって、これまで長州が朝廷に尽くしてきた証であり、そして一種象徴でもあったため、彼らを長州藩内から移転させようとする征長軍の方針に対し、奇兵隊などの諸隊を中心に根強い反対があったからです。(付記:七卿は当時病死等で二人減って五人になっていました)

しかしながら、そのような厳しい条件を西郷の果断な行動によって実現させたのですから、近世日本国民史の著者・徳富蘇峰が「何と申すも第一回征長の舞臺に於ける大役者は、西郷吉之助であった」と評しているとおり(『近世日本国民史』五十六 長州征伐)、第一次長州征討の平和的解決において果たした西郷の役割は、とても大きなものだったのですが、残念ながら、今回それらの経緯は全く描かれませんでした。

『西郷どん』では、人間同士の触れ合い(ドラマ)を描くことを重視しているからなのか、やたらヒー様こと慶喜とのやり取りに時間を割いているのが、どうも気になります。
前回のブログで書いたとおり、慶喜と西郷にそのような濃厚な接点はなかったのですから、第一次長州征討における西郷の果たした役割を描かずして、一体西郷の何を描こうとしているのか?
私的には、今回は正直理解不能な展開でした。

(西郷と勝の対面)
人間同士の触れ合いを描くという点において、今回の『西郷どん』で重要なキーマンとなったのは、幕臣・勝海舟の存在です。
ドラマの中では、西郷と勝は慶喜の屋敷で顔をあわせていましたが、実際は西郷が当時大坂に滞在していた勝を訪ねたというのが真相です。
『西郷どん』では、慶喜が西郷に対して勝のところに行くよう命じていましたが、勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、

「越藩堤正誼、青山貞等隆盛を訪ひ両藩の連合を以て勝に談判し以て将軍の上洛を計畫せんことを謀れり」

とあり、越前藩士の堤正誼青山貞の二人が、西郷の元を訪ねたことが西郷と勝の出会いのそもそものきっかけです。
当時、長州征討を実施するにあたり、越前藩や薩摩藩は将軍・家茂の上洛を求めていましたが、上手く事が運ばなかったため、堤と青山の二人は、近く江戸に戻る予定であった勝に直談判して、将軍の上洛を実現させようと考え、西郷を誘ったのです。

元治元(1864)年9月11日、西郷は勝に対し、「分けて御談合申し上げたき儀これあり」(『西郷隆盛全集』一。以後西郷書簡は全て同全集一からの引用)との書簡を送り、勝の都合を尋ねたうえで、薩摩藩士・吉井幸輔と前出の越前藩士二名を伴って、大坂の勝の宿所を訪ねました。
これが西郷と勝の初対面であったのですが、今回の『西郷どん』で描かれたような、坂本龍馬たちが出てきて西郷を威嚇するなど、そんな殺伐としたものではなく、両者ともに打ち解けて、様々な政治課題について話したようです。

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勝海舟寓居跡(大阪市)

この時の会合の様子は、その5日後の9月16日付けで、西郷が大久保に宛てた書簡に詳しく出て来ます。
西郷は大久保に対して、「越藩より勝安房守殿へ相談いたし、幸い、関東下向の由に候間、将軍上洛を尽力致し呉られ候処、両藩より願い入れ候わでは如何これあるべきやとの趣これあり候に付き、直様同意いたし、吉井と私下坂いたし」と、勝と面会することになった経緯を説明したうえで、「両藩より段々攻め掛り候」と、越前・薩摩両藩で勝に対して、当時の政治課題について質問攻めにしたと書いています。

しかし、それを受けた勝は、幕府の内情を「誠に手の附け様もこれなき形勢と罷り成り候」と、最早手の付けようもない状況に陥っていると発言し、一つ一つ丁寧に西郷らの問いに答えました。
幕臣でありながら、そのように胸襟を開いた勝の態度に、西郷は感動を覚えました。
大久保宛ての同書簡には、

「勝氏へ初めて面会仕り候処、実に驚き入り候人物にて最初は打叩く賦にて差し越し候処、頓と頭を下げ申し候。どれ丈ケか智略のあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」

とあり、最初は勝をやっつけるつもりで議論をふきかけたが、勝の慧眼と深い知識に圧倒され、最後はこちらが頭を下げることになったと書いています。

また、西郷は勝の人柄についても、

「先ず英雄肌合の人にて、佐久間より事の出来候儀は一層も越え候わん。学問と見識においては佐久間抜群の事に御座候得共、現時に臨み候ては、此の勝先生とひどくほれ申し候」

と、英雄のような人物であるとし、当時高名な学者でもあった佐久間象山よりも、実務家としては勝の方が上だと評し、勝にひどく惚れ込んだと書いています。

このような西郷の印象は、今回の『西郷どん』でも同様に描かれましたが、西郷は勝に対し、一種心酔するような気持ちを抱いたのです。
後に「江戸無血開城」関連の談判において、勝の意を受けた山岡鉄太郎(のちの鉄舟)を西郷が全面的に信頼し、そしてその後の交渉が上手く運んだのも、このように西郷が勝に対し、全幅の信頼を寄せていたことが一因となっているように思います。

(西郷の長州征討に関する方針転換)
この西郷と勝の会談については、西郷の対長州政策に関する考え方を大きく変化させたと言われています。
これまで熱心に武力による長州征討を主張してきた西郷が、勝と面談したことによって、長州藩を潰すことは日本の国益にならないことを悟り、武力討伐の考えを翻意することになったと言われているからです。
つまり、通説では、第一次長州征討において、西郷が持論であった武力征伐論を引っ込め、平和的な解決を目指したのは、勝との出会いがきっかけであったとされているのです。

ただ、その通説に対し、『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社)の著者である神田外語大学の町田明広先生は、異を唱えられています。
論文「第一次長州征伐における薩摩藩―西郷吉之助の動向を中心に―」(神田外語大学日本研究所紀要第8号、2016年)において、

「なお、西郷が大久保に対し、「然しながら、次第して申さば、長征の処第一の訳に御座候間、折角促し立て、油断は致さず候間、左様御納心下さるべく候」と述べていることから、勝との会談は長征強硬路線からの後退を触媒したものではない」

と述べ、さらに「勝が西郷や吉井に幕府の内情を暴露したと同時に、その後の薩摩藩の国事周旋への示唆を与えたことに重要性があり、だからこそ西郷は勝を深甚に信頼したのである」と論じられています。

同論文によれば、西郷が武力討伐論から方針転換した理由を薩摩藩の藩論の変化に求めています。元治元年8月、鹿児島に向けて帰国した小松帯刀が「藩内の不満分子を抑えて人事・軍事改革を実行した」こと。さらに当時軍賦役であった黒田嘉右衛門(のちの清綱)が久光に対して、長州寛典論を記した上書(「黒田嘉右衛門ヨリ久光公へノ上書 征長ニ関スル軍略」『玉里島津家史料』三)を提出したことをきっかけに、薩摩藩が「抗幕的な政治姿勢に転換し、基本的には藩地に割拠して富国強兵を図り、諸藩連合を模索する体制に元治元年八月の段階から大きく藩是を修正した」ことを重要視し、さらに西郷に対して久光から鹿児島への召還命令が届いたことも相まって、「西郷は久光の方針である抗幕・富国強兵・長州藩寛典に従うことになった」とあります。

私自身も、西郷が勝との会談によって変心し、対長州政策を武力討伐論から平和的解決論に方針転換したという通説には、以前から疑問を持っていました
まず、西郷が勝との会談によって最も影響を受けたこととは、対長州政策に対する考え方ではなく、「共和政治(いわゆる雄藩連合的な政治体制)」への示唆であったということは、西郷が勝の人物評を記した前出の元治元(1864)年9月16日付け大久保宛て書簡内に色濃く顕われています。
この勝の示唆により、後に西郷は「四侯会議」の開催を模索することになるのですが、それは一先ず置き、西郷と勝の会談は、対長州政策に対する西郷の考え方を翻意させたものではなかったと思います。

先に私観から書くと、私は西郷が元々強硬的な武力討伐論者ではなかったと考えています
つまり、西郷は勝と会って、武力討伐論から平和的解決論に方針転換したのではなく、元々西郷に長州藩を武力で徹底的に討伐するまでの考えは、当初から無かったというのが私の見解です。
西郷は勝からの啓示によって、長州討伐の考え方を改めたと言うよりも、勝と会って話をしたことで、改めて長州を追い込むことの非を再認識したのではないかと考えています。

確かに、禁門の変後の西郷は、長州藩の処分について、非常に強硬的な言動をとっています。
例えば、元治元(1864)年9月7日付けで大久保に宛てた書簡には、

「是非兵力を以て相迫り、其の上降を乞い候わば、纔かに領地を与え、東国辺へ国替迄は仰せ付けられず候わでは、往先御国の災害を成し、御手の延び兼ね候儀も計り難く」

と過激な言葉を使い、「武力をもって長州藩を征討し、東国に国替えして、わずかな領地を与えるくらいの厳罰に処さないことには、ゆくゆく薩摩に危害をもたらすことになる」と主張しています。

ただ、ここで押さえておかなければならないことは、このような武力によって長州藩を征討するという方針は、何も西郷特有のものではなかったということです。
言わば当時の薩摩藩の方針そのものでもありました。

例えば、家老の小松帯刀が禁門の変の約10日後、元治元(1864)年7月晦日付けで大久保に宛てた書簡には、

「此後長州大挙之所は迚も六々敷、是程挫かれ候而は、頭之上り候丈ニ無之、其上対天朝、敵対之道無御座候、早々追討より外ニ道筋有之間敷候、長江探索も差出置申候間、帰次第ニは早々可申上候」(『玉里島津家史料』三)

とあり、小松自身も「早々に長州藩を追討するより他に道は無い」として、武力征討の意志を明確に顕わしています。

また、小松が書いた長州処分に対する意見書においても(「本藩国老小松帯刀於京師長州処分意見上申」『忠義公史料』三)、

「朝廷遵奉ノ志アラハ、直ニ暴論輩ハ厳重ノ処置イタシ、七卿モ早々差出候様、明日中否申出候様御達相成」

と長州藩に対して、朝廷遵奉の考えがあれば、すぐに禁門の変の首謀者らを厳重に処分し、七卿を早々に差し出すよう求めるべきだとし、そしてそれが出来ないようであれば、

「直様兵ヲ発シ、誅伐ヲ加ヘ可申外無御座儀ト奉存候」

「直ぐさま出兵し、討伐する他ない」と、強硬的な主張を行っています。

前回書きましたが、小松は当時の京における薩摩藩の実質的な最高責任者です。
小松がこのように武力での長州征討を主張しているということは、すなわちそれが京における薩摩藩の藩是であったことを意味しています。

以上の点から考えると、前述の西郷書簡にある長州藩に対する武力討伐論は、薩摩藩の方針に忠実に従って行動していることを報告しているに過ぎません。
西郷が京から発信する書簡は、久光を始めとする藩の重役連中が回し読む、一種の公文書のようなものですから、まだ遠島の罪を赦されて間もない西郷としては、藩の方針から逸脱せずに行動しているということは、当時強調して報告しておくべき大事な事柄であったと言えます。
なぜなら、前回書いたように、遠島の罪を赦されたとは言え、西郷は以前と変わらず久光から猜疑心をもって危険視されていたからです。

久光が藩主・茂久に宛てた書簡の中で、「其うらニ相成候得は以之外之事、国乱ハ必定ニ御坐候、治乱之界此事ニ御坐候」(『玉里島津家史料補遺 南部弥八郎報告書』二)と書き、「もし西郷が期待を裏切れば、国乱は必定である」と評していたことは、以前本ブログでも書いたとおりです。
このような状況下に置かれていた西郷としては、鹿児島に発信する書簡に関して、非常に気を配って書いていたことは想像に難くありません。
特にこの時期は、当時京における責任者であった小松が鹿児島に帰国していて、西郷が代わって実質的な責任者となっていた状態でした。
つまり、藩政の責任者であった西郷が、藩の方針とは違う言動はもちろん取れません。久光の監視の目が光る中、そのような行為をとりでもしたら、また罰せられる危険性がある微妙な時期でもあったからです。
実際この後、西郷は久光から越権行為を咎められ、京から鹿児島に帰国するようにとの召還命令が下っている事実もあります。
以上のような状況も勘案したうえで、元治元年のこの時期の西郷書簡は注意して読むべき必要があると私は考えます。

(西郷の意図とは)
前述のとおり、西郷は元治元(1864)年9月7日付けの大久保宛て書簡の中で、武力による長州征討論を主張していますが、当時西郷が置かれていた状況から勘案すると、西郷の意図すること、つまり本音は別にあったのではないかと私は推測しています。

前回のブログにおいて、西郷が禁門の変が生じる前、元治元(1864)年6月25日付けで大久保に宛てた書簡内に、

「一度長州挫き候わば幕命を奉ぜざる処を以て難論相成り候儀は差し見得候得共、夫等の煩いを顧みて無名の兵を挙げ後来の恥辱と相成り候儀共にては、却って其の罪も重かるべしと相考え居り申し候」

と述べていることは紹介しました。
この前段にある「一度長州挫き候わば幕命を奉ぜざる処を以て難論相成り候儀は差し見得候」という部分は最も大事なところで、「一度長州が叩かれれば、幕府の命令を聞かなかったとの理由で、今度は薩摩が論難されることは目に見えている」という意味ですが、それはすなわち「長州の次は薩摩が標的となる」という危機感を吐露しているということであり、それはこの時既に西郷がそのような危機意識を有していたことを示す傍証になると私は考えています。

この考えを元にして、少し角度を変えて検証すると、その約10日後の同年7月4日付けの大久保宛て書簡にも、「此のたび長州挫け候ても」と、また同じように長州藩が叩かれたことを前提とした言葉が出てきますが、それに続いて西郷は次のように書いています。

「此の末の処一橋に兵権相帰し申すべく候間、是非筋を正しく致し、朝威相立ち候処を趣意にいたし居り候処、此の期に相成り、些かとも遺恨の儀御座なく候」

つまり、「長州藩が叩かれた後は、慶喜に天下の兵権が移るであろうが、筋を正しく通し、朝廷の威光が立つ(朝廷の権威を高める)ことを目的としているので、この期に及んでは些かの心残りも無い」と論じているわけですが、これは戦後慶喜に対して兵権が移ることに、大きな懸念を示しているものであると言えます。
そこから西郷の意図を推しはかると、

「対長州戦が朝廷主導になっていれば、戦後慶喜が兵権を握ったとしても、勝手にそれを振りかざすようなことが出来なくなる。慶喜を抑止するためにも、今回は幕府主導による出兵ではなく、朝廷主導で何よりも朝威が立つことを第一としたい」

と読み取れます。
つまり、これは戦後の慶喜ひいては幕府と薩摩藩との関係を意識したうえでの発言であり、前述の「長州の次は薩摩が標的となる」という危機意識をもっての発言であると言えるのではないでしょうか。

そしてまた、このような考え方は、同年10月8日付けで書かれた大久保宛て書簡にも出てきます。
西郷は同書簡の中で、

「兵を以て相迫り候処にて降を免すとも、征伐の御扱いは相立てず候わでは済まざる儀に御座候間、夫等の処にて、纔か五・六万石にて国替とは相成らず候わでは、国を消し候迄にては往先御国の御煩いも出来候わんかと相考えられ居り申し候」

と、長州藩を「わずか五・六万石にして国替え」するという過激な言葉を吐いておきながらも、その後段において、「長州藩を滅亡させるまで追い詰めては、ゆくゆくは薩摩の禍と成りかねない」と論じています。
つまり、ここにも「長州の次は薩摩が標的となる」という、西郷の危機感が表われているということです。

このような「長州の次は薩摩が標的となる」という考え方は、前出の町田先生の論文で引用されている黒田嘉右衛門の久光に対する上書内にも出てきます。
黒田は、「幕府が薩長両藩を闘わそうとしたことは、これまでも往々にしてあったので、長州征伐の際には、薩摩をその先鋒軍にして国力を削ぎ、他日薩摩が幕府に害を及ぼさないように考えているかもしれない」と述べていますが、このような危機意識は、当時の薩摩藩要人の間では、一種共通認識としてあったのかもしれません。

以上のような西郷書簡の記述から考えると、西郷は長州藩を武力で討つことは、慶喜ひいては幕府に大きな利を与えることに繋がり、長州藩が潰された暁には、次は薩摩が幕府の標的になるとの危機意識を随分以前から持っていたと考えるべきではないでしょうか。
勝田孫弥『西郷隆盛』にも、

「元來征長の一擧は、隆盛の目的とする國是一定の議論には功なきものみならず、却て幕吏の勢威を増加せしめ、幕府に對して諸藩の恐怖心を生せしむるの媒介となるは勿論、征討せらるべき急激勤王黨は、寧ろ隆盛の國是論を決定するに後援となるべき味方なる事ハ、隆盛が長州争亂以前より夙に覚悟せし者にして」

とあり、西郷は以前から長州藩を滅亡に追い込むことは幕威を強めることに繋がると意識しており、「當時腹心たる吉井、大山、村田、伊集院等の如き幕僚に向って、勤王黨は日本の元氣なり、宜しく之を殺害せしむべからずと説きたる所なり」と、同僚たちにもその旨話していたとの記述があります。

西郷が自らの書簡において、武力による長州征討論を書いたのは、藩の方針に従った意見を述べているだけであって、本音としては、長州藩を追い込むことは薩摩にとっても利を生まず、長州が恭順の態度を示し、朝威が立つ形であれば、武力討伐には拘らないということであったように私は解釈しています。
第一次長州征伐において、西郷が平和的な解決を目論んで行動したのは、藩論が変化したこともさることながら、長州処分は後に薩摩にも大きな影響を与えるという、大きな危機意識を西郷が有していたからであると解釈しているというわけです。

西郷の対長州政策に対する主張が、その書簡内でどんどん緩やかなものになってきているのは、勝との会談がきっかけではなく、町田先生が論文で指摘されているとおり、薩摩藩の藩論の変化による影響が大きいと言えますが、ただ、それは西郷が藩論に従う、つまり変心する形で自説を引っ込め、対長州政策の考え方を転換したと言うよりも、西郷が藩論の変化に合わせて、徐々にその本音を出していったものと、私は解釈しています。
この西郷の方針転換については、もう少し深く検証したい点も多いのですが、それはまた別の機会に書きたいと思います。


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【2018/07/30 18:11】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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先日、私のツイッター内で、『西郷どん』における島津久光の描き方に疑問を感じるとの呟きをした際、大変多くの「いいね」を頂きました。(これまでの私のツイートの中で一番多くの「いいね」を頂いたかもしれません)
この結果を見る限り、同じような思いを抱いて『西郷どん』を見ている方が多く居るように感じました。
少し話がそれますが、私がなぜ久光の描き方に疑問を感じるのか、その理由について簡単に書いておきたいと思います。

ご存じのとおり、今年は明治維新150周年の節目を迎える年です。
全国各地で関連イベントや展示会の開催等が目白押しですが、今から50年前の昭和43(1968)年も同様に、当時「明治百年」という言葉がもてはやされ、それに伴う記念事業がたくさん企画されました。
今その時期に出版された書籍を読み返すと、薩摩藩の幕末史に関して言えば、西郷と大久保が中心であり、彼らの「英雄伝」的な側面が非常に色濃く出ていたように思います。
つまり、まるで彼らが明治維新における「スーパーマン」のような存在として描かれ、さも二人の活躍で明治維新が成立したと言わんばかりの勢いで語られていたということです。

確かに、西郷と大久保の二人が薩摩藩の明治維新の原動力となったことは間違いありません。そして、彼らの残した功績は偉大であると言えます。
しかしながら、最近の研究において、島津久光や小松帯刀といった、西郷と大久保の二人を導き、そして支えた存在がいかに大きく、そして重要であったのかが明らかになってきているように、西郷と大久保の活躍だけで歴史を動かせたわけがなく、彼らを取り巻く様々な人物の協力や支援があってこそ、二人は縦横無尽に活躍でき、幕末という大きな歴史を動かせたと言えます。

明治維新150周年の節目を迎えるにあたり、これまでのような西郷・大久保中心の史観から脱却し、薩摩藩の明治維新を少し違う角度から眺め、多角的にそして多面的に見つめ直すことが重要であると私は感じています。
誤解されては困りますが、これは西郷や大久保を否定しているわけではありません。
私は十代の頃に西郷に興味を持ち、そしてそれ以来その魅力の虜となった人物ですので、西郷の存在を否定するはずがありません。昨今流行りの西郷や大久保の業績を批判しようという、そのような狭小な考え方ではなく、

「薩摩藩の明治維新史を正確に理解するためには、新たな視点を持つことが重要である」

ということを意味していると、ご理解頂ければと思います。

また、それに併せて、西郷と大久保の再検証も必要となってくるでしょう。
彼らは後年明治維新における偉人と崇め奉られたことから、実像以上に虚像部分が肥大化し、独り歩きしている面も多いことから、二人の生涯を再度点検し直し、「新たな西郷像や大久保像を再構築する」ということも、併せて必要になってくるのではないでしょうか。
昨今流行りの歴史的根拠の薄弱な、まさに奇をてらっただけの歴史本とは到底呼べない代物の幕末関連書籍において、西郷や大久保が否定されるのを見る度に、その思いはどんどん強くなっていく一方です。

大河ドラマ『西郷どん』の放映は、西郷や大久保の功績や足跡を見直す意味において、非常にタイムリーで、そして喜ぶべきものでした。
また、『西郷どん』は、「新たな西郷像を描く」との触れ込みでしたので、非常に期待していましたが、確かに西郷の人間性により深いスポットが当たりはしましたが、明治維新における西郷の政治的な役割に関して言えば、従来の史観による描き方と余り変わりは見られません。
また、ドラマの主役ですから、人物像を大きく描くのは致し方ないにせよ、西郷を際立たせるために、久光のような慧眼ある人物を一段下げて描くのは、ドラマとは言え、余り意味があることとは思えません。
『西郷どん』における久光は、人間的で愛着ある人物には描かれていますが、どちらかと言えば、道化師のような扱いですので、もう少し工夫を凝らし描いて欲しかったと思うのです。

(入京後の西郷)
西郷が沖永良部島から召還され、京に入った約一ヶ月後の元治元(1864)年4月18日、久光は鹿児島に向けて帰国しました。
参予会議が瓦解したことで、公武周旋に一定の見切りを付けざるを得なくなったからですが、この時、西郷の盟友である大久保もまた、久光に付き従って帰国したことから、京には久光の次男で宮之城領主であった久治を筆頭に、小松、西郷、伊地知正治、吉井幸輔といった人々が残留しました。
この時、京における政治の舵取りは、家老の小松に任され、そして西郷はその参謀格として小松を支える立場になったと言えます。

前回の『西郷どん』において、久光は京を去るにあたり、西郷を軍賦役兼諸藩応接係に任じていました。
今回のドラマ内で村田新八が、「久光が西郷を軍賦役にしたのは、戦で殺すためではないか」みたいな発言をしていましたが、実際そんなことはありません。
久光が帰国する約一週間前の4月10日、西郷は鹿児島の桂久武と思われる人物に書簡を送っていますが、その中で自らの昇進について次のように書いています。

「至極乙名敷いたし居り候処、余り程能きが過ぎて御機嫌取りと相成り、度々の御役替にて、はじまらぬ事に御座候。御笑察下さるべく候」(『西郷隆盛全集』一。以後、西郷書簡は全て同全集第一巻からの引用)

つまり、京に着いてからの西郷は、至極おとなしく過ごしており、その態度が余程出来すぎていたためか、それがまるで久光に対する機嫌取りのようになって、度々役目を替えられることになりましたと、西郷は若干苦笑を交えつつ現状を報告しています。
今回の『西郷どん』で描かれた「禁門の変」において、確かに西郷は銃創を負いましたが、西郷が着京し、軍賦役に任じられた時点において、長州藩兵があのような形で京に攻め登ってくるような状況にはありませんでしたので、久光は西郷を死に追いやろうとして軍賦役に任じたわけではないのです。

また、同書簡の前段において西郷は、

「陳れば大坂伏見辺より有志の御方々へ面会、昔日に相替らず交わり候処、どうか心持も悪しかりそうに思われ候事に御座候。然しながら一同安心の様子に伺われ申し候。余程心配致されたる事かと思われ候事にて、如何にか狂言を咄すやも知れずと胸を蕉し居られたるにてはこれなきや。おかしな事に御座候」

とも書いており、「周囲の者たちは、私が久光公に対して、また過激なことを言い出すのでは無いかと心配していましたが、その予想に反して、私がおとなしかったので、彼らがそれを見て安心している様子が滑稽です」と述べています。
前回の『西郷どん』においても、西郷が久光に対して、一切反抗的な態度を取ることなく、従順な態度を示す様子が描かれていましたが、この書簡の記述にあるとおり、当時の西郷は久光の命令に対して、とても従順であったことは事実だったと言えます。

ちなみに、西郷がこのような態度を取るにいたったのは、やはり沖永良部島への遠島が大きなきっかけになったと言えます。
ただ、西郷が久光に処罰されたことにより、それに懲りて、おとなしくなったと言うよりも、沖永良部島で苦難の日々を過ごす中において、「久光との関係は、大事の前の小事である」ということを西郷自身が悟ったからではないかと私は解釈しています。
つまり、大きな志を遂げるためには、久光に逆らうことは小事であり、「小事に拘わりて大事を忘るな」ということを改めて西郷が悟ったのではないかということです。

当時の久光は薩摩藩内では絶対的な存在です。
久光を動かさずして、薩摩藩は動きませんので、西郷は自らの本懐を遂げ、そして斉彬の大恩に報いるためには、個人的な感情をもって久光に接するべきでは無いということを深く心に刻んだのだと思います。
旧庄内藩士たちが編纂した『南洲翁遺訓』の中に、「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」(『西郷隆盛全集』四)という言葉がありますが、西郷は久光に対しても、その精神を実践したように感じます。
そして、このような西郷の態度は、西郷が死を迎えるまでずっと続くことになりますが、その反面、この後、西郷が久光に対して、常に気を遣いながら行動しなければならなくなったということは、西郷の生涯を理解するうえにおいて、とても重要なファクターになるものと私は考えています。

(西郷の慶喜観)
『西郷どん』において、ヒー様こと一橋慶喜と西郷が、非常に仲睦まじく交流する様子が描かれていますが、実際二人はそのような関係にありませんでした。
前出の元治元(1864)年4月10日付けの西郷書簡には、次のようにあります。

「幕府においては詐謀勝にて如何ともなすべきようこれなく嘆息の次第に御座候。然る処五六侯盟会の御方々迚も幕府離間の策中に陥り、瓦解いたし頓と致し方これなき訳に御座候。独木侯誠に不思議の仕合い、禍心相萌え候模様に伺われ申し候」

前段の「五六侯盟会の御方々迚も幕府離間の策中に陥り、瓦解いたし」という部分は、前回書いた慶喜が参予会議を瓦解に追い込んだことを指していますが、後段の独木侯こと慶喜に「禍心相萌え」とあるのは、「慶喜に将軍になりたいとの野望が芽生えている」という意味です。
つまり、西郷は慶喜の野心を警戒しているのです。

また、西郷が約一ヶ月後の同年5月12日付けで、同じく大久保に宛てた書簡には、

「長州は勿論暴客輩も近来一橋を頻りに疑い出し、異議紛々の様子に相聞かれ申し候。段々策略の次第も相顕われ、水人抔は籠絡致され候姿にて、決して攘夷の腹にこれなく、別に一物これあり候わん」

とあり、「長州藩や過激な浪士たちも、近頃は慶喜に疑いを持ち、異論が噴出している様子だ」と書いたうえで、「慶喜の本心は攘夷にはなく、他に何か魂胆があるのではないか」と、当時の慶喜の行動をいぶかしむ記述があります。

さらに、西郷が同年6月1日付けで大久保に宛てた書簡にも、

「只今に到りては各藩一橋を悪み候勢いに成り立ち候儀もっともに御座候。是非一橋には長州を挫きて其の上攘夷の筋を相初め候存慮と相伺われ候得共、夷人の手を借り、長を押え候始末、悪むべきの業に御座候」

とあり、諸藩が慶喜を憎む傾向にあるのはもっともだとし、また、外国人の力を借りて長州を倒そうとしている慶喜の行動を「悪むべきの業」として痛烈に批判しています。

以上のように、西郷書簡の内容から察すると、西郷は慶喜に対して一切心を許していないばかりか、慶喜のことを猜疑心をもって見ていることが分かります。
今回の『西郷どん』では、西郷が長州藩の桂小五郎と会い、そして西郷の仲立ちで桂が慶喜と会っていましたが、実際そのような厚い信頼関係で二人は結ばれていなかったのです。もちろん、西郷が桂を慶喜に引き合わせたという事実もありません。

当時の薩摩藩にとって、慶喜は最も警戒すべき存在であったと思われます。
西郷が翌6月2日付けで大久保に宛てた書簡の別紙には、

「只今京地の形勢に付いては至極差し迫り、長州襲来の一条は勿論、一橋侯の隠策旁容易ならざる時態に罷り成り、如何変動致すべきやも計り難く」

とあり、慶喜の謀略により、京の政情が容易ならざる局面を迎えていると書いています。

このように慶喜の動きによって政情が複雑化していたことから、西郷は大久保に対し、同書簡の中で、「当月中も機会御見合わせ相成り候様御座ありたく、私共よりも御願いに御座候」と頼んでいますが、これは家老の小松を薩摩に帰国させないで欲しいということです。
これは同書簡の本紙にも、もっと具体的に「帯刀殿御儀に付いては、別紙御問い合わせ申し上げ候通り、今に御下り相成り候ては頓と此の方においては込り入る次第に御座候」とあり、西郷は「小松が帰国するのは困る」と、大久保に対して胸の内を打ち明けています。

以上の記述から考えると、当時の西郷は小松の判断なしに、独断で事を進められる状態にはなく、当時京に居た薩摩藩要人の中心人物は、西郷ではなく、小松であったことが分かります。
町田明広「元治元年前半の薩摩藩の諸問題:小松帯刀の動向を中心に」(神田外語大学日本研究所紀要7巻、2015年)には、

「通説では、薩摩藩は西郷・大久保に率いられ、久光は利用されたのみの存在とされてきたが、実際には「久光―小松体制」の下で西郷・大久保は活躍していたのであり、この点は看過してはならない」

とありますが、これは大変重要な指摘です。
当時の西郷に薩摩藩を独断で差配し、そして命令を下せるような力はそもそも無かったと言えるのです。

(池田屋事件と長州暴発)
今回の『西郷どん』で描かれた池田屋事件については、西郷が大久保に宛てた書簡の中にも出て来ます。
池田屋事件の三日後、元治元(1864)年6月8日付けの書簡には、次のようにあります。

「五日夜の会藩等浪人捕え方の一件、内田仲之助方より申し来り、鶏鳴相達し、披見の央、京地の方火烟相見得候に付き実に驚駭いたし、早々罷り帰り候次第に御座候」

池田屋事件が起こる前日の6月4日、西郷は鹿児島から上京予定の久光の四男・珍彦を迎えるため大坂に下りましたが、珍彦がまだ着坂していなかったため、楠公社設立の敷地選定のために伊丹へと移りましたが(当時の薩摩藩は楠木正成を祀る神社の設立を目指していた)、その際、京の方向に火の手が上がるのが見えたため、西郷は急いで帰京しました。
同書簡には、「畢竟何等の処より此の如き始末に相及び候や、委敷相分らず候」とあり、当時の西郷は池田屋事件の事の次第を全く掴めていなかったことが分かります。

ただ、同書簡の後半部分には、「此の末如何成形行申すべきや、長州も只々止り居り候事にもこれなく、大破に相成るか、又は大挙して発り立ち申すかに御座あるべく候」とあり、西郷は事件の性質上、長州藩がこのまま引き下がることはなく、これをきっかけに行動を起こす可能性があることを言及しています。
そして、実際に事態は西郷の予期したように進みました。

西郷が大久保に宛てた書簡を使って追ってみると、約一週間後の同年6月14日付けの西郷書簡には、

「近比長州にては頻りに討幕の説相起り候由に御座候間、異人襲来に付き援兵各藩より差し出さざる様朝命相下し候処を願い置き候事件、余程怨み深く成り立ち候訳と相聞かれ申し候」

とあり、幕府が朝廷に対して、英仏蘭米の四国連合艦隊が長州に襲来した際、各藩に対して援軍を出さないよう求める朝命の降下を願い出たことから、その幕府の処置を不満に思った長州藩内に、幕府を討とうとする動きが生じていることが記されています。
これは今回の『西郷どん』で再登場した中村半次郎ら諜報活動にあたっていた藩士たちから得た情報であったことでしょう。
西郷は同書簡の中で、「中村半次郎と申す者追追暴客の中間にも入り込み、長州屋敷内にも心置きなく召し入れ候て、彼方の事情は委敷相分り」と、中村が長州屋敷に出入りしているので、長州の事情が詳しく分かると書いています。

実際、西郷がこの書簡を書いた6月14日、池田屋事件の一報が長州に届きました。
『防長回天史』には、「十四日京都池田屋の變報山口に達す上下憤激」とあり、池田屋事件の情報を受けて、長州藩士たちは激昂し、藩内の不満は一気に爆発して、遂にそれは出兵という形で行動に移されました。
その約10日後の6月25日付けの西郷書簡には、

「去る二十日より追々長州人着坂いたし候段相聞得候に付き、方々探索方いたし置き候処、相分り候次第柄、全く五日晩長人召捕一件より相起り候儀にて、多人数出張の趣に御座候。大体千人と申す事、惣宰は福原越後と申す者の由に御座候」

とあり、池田屋事件の報を受けて激発した長州藩兵が、6月20日頃から続々と大坂に入ってきている様子が記されています。

『防長回天史』によれば、岩国藩の吉川家に「上京御手組書」という記録が残されており、それによると、出兵を計画した長州藩兵は、五つの部隊に分けて編成されたようです。
先鋒隊が浪士三百人、二番隊が家老・福原越後率いる三百人、三番隊が今回プロレスラーの長州力さんが演じた来島又兵衛率いる遊撃隊三百人と家老・国司信濃率いる百人、四番隊が家老・益田右衛門介率いる三百人に清末藩主・毛利元純率いる二百人、五番隊が世子・毛利定広、三条実美、吉川経幹(監物)が出陣する布陣でした。
ただ、これは当初の予定であり、実際、国司信濃は多数の兵力を率いて上京していますので、当時の京・大坂へ出兵した長州藩の兵力(浪士隊を含む)は、約二千五百人程度だったものと推察されます。
『忠正公勤王事積』によると、強硬的な出兵論の中心人物でもあった来島又兵衛と家老の福原越後が大坂に入ったのは、6月22日のことであると書かれてありますので、西郷の書簡と照らし合わせると、当時の薩摩藩はほぼ正確な情報をつかんでいたと言えましょう。
これも中村らの諜報活動の賜物と言えるかもしれません。

このように京・大坂が緊迫した様相を呈する中、前出の6月25日付け西郷書簡によると、幕府から薩摩藩の京都留守居に対して、「淀辺へ人数差出し警衛いたし候様、御達相成候」と、淀周辺へ出兵するよう達しがあったようです。
しかし、西郷は「御断相成候儀に御座候」と、幕府の出兵要求を断ったと書いています。
西郷はその理由について、次のように書いています。

「此度の戦争は、全長會の私闘に御座候間、無名の軍を動候場合に無之、誠に御遺策の通、禁闕御守護一筋に相守候外無余念事に御座候間、左様御含可被下候」

これはとても有名なフレーズですが、西郷は長州藩の出兵は、池田屋事件に端を発した長州藩と会津藩の「私闘」であると位置付け、薩摩藩は御遺策、つまり久光の言いつけ通りに禁裏を守護することのみを考えて行動すると書かれています。
これは同日小松が大久保に宛てた書簡内にも同様のことが出てきますので、薩摩藩の統一した方針であったと言えましょう。

また、西郷は長州藩の現状を「いづれ長人の儀、内には外夷の襲来を待、外は出軍の次第、實に死地に陥り候窮闘と申ものに御座候へば、定て破立候儀かと相考候」と分析し、内には英仏蘭米の四国連合艦隊の襲来が迫り、外には京への出兵で死地に陥るような状況にあるので、長州藩はいずれ破綻を迎えるのではないかと推測しています。

ただ、西郷はそんな長州藩の苦境を目の当たりにしながらも、

「差迫り候處を幸にいたし、兵を動し候儀、誠に無名の軍と相成候ては、後来迄の汚名と相成候儀に御座候」

と述べ、このような状態で、これ幸いとばかりに兵を動かして長州藩を討つのは名義無きことであり、そんなことをすれば末代までの汚名になると断言しています。
また、西郷が併せて、

「一度長州挫き候わば幕命を奉ぜざる処を以て難論相成り候儀は差し見得候得共、夫等の煩いを顧みて無名の兵を挙げ後来の恥辱と相成り候儀共にては、却って其の罪も重かるべしと相考え居り申し候」

と述べているのは、非常に重要な部分だと言えます。

「幕府は長州藩を潰せば、今度は幕命に従わなかったという理由で、薩摩藩を責めるであろう。その煩いを避け、名義無き兵を挙げることは、後世の恥辱となり、かえってその罪も重くなる」

と西郷は論じているわけですが、この「幕府が長州を潰せば、次は薩摩が責められる番」という大きな危機感は、西郷のその後の行動に強い影響を与えていたという風に私は解釈しています。(このことは次回書くことにします)

(禁門の変)
以上のように、西郷は「長州藩の出兵は会津藩との私闘である」と位置付け、久光の言いつけを順守して、「禁裏守護」の立場に徹しようとしていましたが、長州藩の怒りの矛先が会津藩だけではなく、朝廷そのものにも向けられていることを知り、長州藩と決戦に及ぶことを決意しました。

同じく西郷の大久保宛て書簡から追いますが、元治元(1864)年6月27日付けの書簡には、

「朝廷を八月十八日已前に打ち替え、我意を働くの趣意と相見得申し候次第に御座候得共、いずれ勅命を以て征討の旨相下り候得ば、長と相戦わず候て相叶わざる時機もこれあるべしと決心致し居り候」

とあり、「長州藩が朝廷を八月十八日の政変以前の状態に戻そうと考えているようなので、いずれ征討の勅命が降下されれば、長州と戦うことになるであろう」と西郷はその決心を大久保に対して告げています。
これは前出の同年6月25日付けの西郷書簡にも、「いずれの筋長州より、若しや朝廷に対し奉り御怨み申し上げ候様の儀も御座候わば、其の節は戦わずして相済み申す間敷と相決し罷り在り申し候」とあるので、「朝廷に危害を加えようとする動きに対しては、断固たる措置を取る」という西郷の考え方は、当初から不動のものであったと言えます。

ただ、薩摩藩内には、長州藩を救おうと主張する人々のみならず、会津藩に力を貸そうと主張する人々も居たようです。
その約10日後の同年7月4日付けの西郷書簡には、「御屋敷中にても長州を救うがよりの会津を助けんにゃならん抔との議論も紛々と相発り」とあり、薩摩藩邸内は長州救済派と会津加担派の二派に分かれて議論が生じていると書かれています。
特に会津藩に関して言えば、前年の八月十八日の政変において、互いに提携した間柄でしたので、会津に加担すべきと主張する人が居たのも当然であったと言えます。
ただ、会津との提携に尽力した高崎佐太郎高崎猪太郎の二人、つまり前回のブログで紹介した両高崎は、当時久光に従って鹿児島に帰国していましたので、会津藩に肩入れしようとする勢力は、藩邸内では小さくなっていたと言えましょう。

ちなみに、『西郷どん』でも登場した、西郷が奄美大島で世話になった木場伝内という人物が居ますが、当時彼は薩摩藩の大坂留守居を務めていました。
その木場が同年7月10日付けで大久保に宛てた書簡の中で、「屋舗中も二奸出立後誠ニ静謐、永山源兵衛上坂、別て仕合ニ御座候」(『忠義公史料』三)と書いていますが、木場曰く「二奸」とは、両高崎を指しているものと思われます。
木場が「両高崎が鹿児島に帰った後は、藩邸内も誠に静かに治まっている」と書いていることから察すると、二人は会薩提携の中心人物であったため、常日頃から会津加担論を主張し、何かと藩邸内でのもめ事が多かったのでしょう、木場はそんな二人が居なくなって良かったと大久保に対して報告しているのは留意すべき点です。
つまり、西郷に近い存在の木場が、会津加担派の両高崎を「二人の奸物」と論じ、その帰国を喜んでいることから判断すると、西郷、大久保、木場といった面々は、既に会津藩と手を組む考えを持っていなかったものと推測できるからです。

両高崎の鹿児島帰国については、西郷書簡中にも出てきます。
前出の6月2日付け大久保宛て書簡内に、「尚々両高崎の儀今に暴客の徒悪み甚敷事に御座候間、暫時は御引き止め相成り候様御計らい下されたく是又御願い申し上げ候」とあり、「両高崎は長州人ら過激な者たちに甚だしく憎まれているので、上京して来ないよう引き留めて欲しい」と、西郷は大久保に対して依頼しています。
「暴客の徒に甚だ憎まれているから」というのは、実に体の良い口実で、西郷は彼らが京に居ては、また会津藩との提携を主張し、物議を醸し出すかもしれないと危惧していたことから、大久保に対して二人を上京させないで欲しいと頼んだものと思われます。
つまり、当時の西郷にとっての両高崎とは、藩論をまとめるうえで、邪魔な存在であったと言えましょう。
後に西郷が倒幕のための挙兵を企てようとした際にも、両高崎がそれに反対するという同じような問題が生じていることから、二人は西郷赦免に一役買った人物でしたが、その考え方は西郷とは相容れぬ人々であったのです。

閑話休題。
以上のように、薩摩藩邸内には長州救済派と会津加担派の二派に分かれての議論が生じていましたが、西郷は「名義正しく、朝廷遵奉の道相立たず候わでは、決して動かざる儀と絶て立て切り候」と、「禁裏守護の名義が立たない以上、決して動くべきではない」と主張し、両派の議論を終息させたことにより、最終的に「御屋敷中一体の議論」となったと大久保宛ての同書簡で述べています。
このような薩摩藩の方針一致に関して言えば、これは西郷の力だけではなく、もちろん小松の力も大きかったと言えましょう。

このような禁裏守護を最優先とし、勅命が降下しない限り、絶対に出兵しないという西郷の態度や考え方は、一切揺らぐことはありませんでした。
同年7月9日付けの西郷書簡には、「幕府の方よりは十人位にても守衞を出しさえ呉れ候えば、諸藩振りはまり申すべく候に付き、何卒して人数を繰り出し呉るるべき」とあり、幕府が薩摩藩に対し、「十人くらいでも良いから、守衞を出してさえくれれば、諸藩が奮発するので、何とか出兵して欲しい」と依頼したようですが、それに対して西郷は、

「初度の挙動容易ならざる儀にて、勢いに乗り俄に人数共繰り出し申すべき時態にてはこれなく、拠なく兵を動かし候ものにてこれなく候わでは相済まず、勿論筋合いを慥かにいたす処肝要の儀と存じ奉り候」

と、幕府の出兵要求を拒否しています。

また、西郷は「いずれ追討の勅命相下り申すべき儀と存じ奉り候に付き、其の節は正々堂々の兵を以て長賊を駆尽し申すべしと相待ち居り申し候」と、勅命が下るまでは動かないとの決心を改めて大久保に対して伝えています。
この辺りにも大義名分を何よりも大事にする西郷の信条がうかがえるのではないでしょうか。

結局、7月18日になり、朝廷から慶喜と諸藩に対して、「長州脱藩士等挙動頗差迫、既開兵端之由相聞、速総督以下在京諸藩兵士等、尽力征討、弥可輝朝権事」(『玉里島津家史料』三)との勅命が下ったことで、薩摩藩は出兵し、翌7月19日には長州藩兵と戦うことになります。
これがいわゆる「禁門の変」というものですが、7月20日付けで小松が大久保に宛てた書簡には、「大島・いちゝ其外皆々下知ニ而、莫大之働ニ御座候」(『玉里島津家史料』三)とあり、西郷は軍賦役として、伊地知は軍役奉行として大いに働いたと書かれている他、同じく小松から鹿児島の重役に宛てた別啓には、

「大島・いちゝ・吉井・内田等も格別之働ニ御座候、大島も足ニ銃丸当り候へとも、少し之事ニ而、今日も天龍へ出張ニ相成仕合ニ御座候」(『玉里島津家史料』三)

ともあり、今回の『西郷どん』でも描かれたように、西郷が足に銃弾を受けたことが記されています。

DSCF0518.jpg
禁門の変で戦いの舞台となった天龍寺(京都市)

以上のように、西郷は禁門の変において奮戦し、大きな手柄を立てはしましたが、この時期における西郷の働きとは、このような戦場における武功ではなく、どちらかと言えば、政治的な役割にあったと言えます。
今回の『西郷どん』において、それら西郷の政治的な動きが全く描かれませんでしたので、「禁門の変がなぜ生じたのか?」「薩摩藩がなぜ出兵することになったのか?」は、全く分からない展開でした。
前回のブログでも書いたように、明治維新における西郷の政治的な役割をもっと深く描いていって欲しいものです。


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【2018/07/23 18:08】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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^^
waravino
NHK大河「西郷どん」TVを持っていないので視聴していません。もっともTVがあっても。原作・林真理子という時点で見なかったでしょう。作者に薩摩隼人「チェーッ!」「チェストー!」の世界観は到底描けないだろうと思ったからです。

西郷は開明派・斉彬に見いだされ各地の主足る人物に使者とし派遣され名を売った人物。斉彬>久光になるのは当然です。西郷が久光に反発したのは「お由良さま」の件もありますし当時としては仕方がないでしょう(久光は斉彬を尊敬していますが)

ところが明治維新後。久光は大久保と西郷が決裂し西郷が帰郷した際に温泉へ誘っています。そして「お前たち。昔からの幼馴染じゃないか。そろそろ仲直りしたらどうだ?」と西郷をたしなめたようです。

廃藩置県で一晩中怒りの花火を打ち上げた久光。西南戦争で中立の立場をとった久光。胸中。時代変化を知りつつ。複雑で様々な想いがあったかと考えます。

久光公、小松帯刀の功績
甘党猫
近年「陰謀論」が流行していて、幕末史も例外ではありません。「明治維新の黒幕」「陰の立役者」としていろんな説が唱えられていますが、島津久光公はその一人に挙げられるのではないでしょうか。

粒山さんの説もそのようなものと誤解されているのかも知れませんね。特にツイッターのように文字数が限られており、根拠となる文書も明示しづらいようなSNSでは仕方ない誤解かなと思います。

今回の大河ドラマは状況説明がマズいのか、それともそういうものは大体分かっているものとして流しているのか分かりませんが、粒山さんの仰るように政治的側面がほとんど描かれません。その分、私のような浅学者にとっては、「敬天愛人」ブログを読んで「ああ、そうだったのか!」と驚く楽しみが得られるのですが…(笑)。

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ドラマはいよいよ佳境へと向かい、今回から「革命編」に入りました。
「革命編」と名付けたからには、これからは明治維新の根幹部分、もう少し政治的な背景を描いていって欲しいものです。
「禁門の変」や「第二次長州征討」、「鳥羽・伏見の戦い」といった、単なる派手な戦争のドンパチを見せても余り意味がなく、また「西郷が好戦的な人物であった」とのレッテルをさらに上塗りしてしまう気がしますので、明治維新における西郷の政治的な役割をもっと深く描いていって欲しいです。
ただ、これまでの『西郷どん』を見た限りでは、政治的な背景の描き方が非常に弱いと言えますので、倒幕へと向かう複雑なプロセスや政局をちゃんと分かりやすく描ききれるのかどうか不安ではあります。
ここは脚本家の腕の見せどころでしょう。

(西郷赦免)
前回の『西郷どん』では、どのようにして久光の怒りが解け、西郷が鹿児島に呼び戻されることになったのかは全く描かれないままに、いきなり赦免の知らせが届いたとのナレーションが入り、その使者として、三男・信吾が沖永良部島に西郷を迎えにやって来ました。
いかにも唐突感が否めませんでしたが、原作の林真理子『西郷どん』には、西郷の赦免が決まった場面が次のように描かれています。

 若者たちが小松帯刀に頼んだところ、快く引き受けてくれた。交渉役として京で揉まれた彼は、人の心を読むことにたけていた。
「もはや国父さまは天下の中枢におつきにないもした」
 とおだてた後、
「こいからは小まわりのきく者が必要ではあいもはんか。あの西郷ならば京の公卿や宮家、江戸の大奥にも顔がききもす」
 と話を持っていったのである。粘り強く頼んだ結果、久光は最後には折れた。わが息子である藩主茂久(忠義)に聞いてみろと言ったのである。


ここで言う「若者たち」とは、西郷の召還を待ち望む若手藩士たちのことを指していますが、林真理子『西郷どん』では、小松が久光に願い出たことにより、西郷の赦免が決まったとあります。

ただ、通説では、西郷の赦免が許可された経緯は少々異なっています。
久光の近臣であった高崎左太郎(のちの正風)高崎猪太郎(のちの五六)のいわゆる「両高崎」と呼ばれる二人が、久光の面前において、

「もし、この願いをお聞入れなくば、有志の面々割腹するとまで決心いたしております」

と願い出、それを聞いた久光が、

「左右みな賢なりと言うか。しからば即ち愚昧の久光独りこれを遮るは公論にあらず。太守公の裁決を請うべし」

と答え、近臣の岸良七之丞を鹿児島に派遣し、藩主・忠義の許可を得た後、西郷の赦免が決まったとされています。
これはとても有名な逸話で、『大西郷全集』三所収の「西郷隆盛伝」に出てくるものですが、その際、久光は、

「くやしげに銀の煙管を噛みしめたが、その際、歯痕がついて煙管が瑕になった」

と同書にあります。
これは『西郷どん』でも描かれていましたね。
今回の『西郷どん』では、久しぶりに西郷と会った久光が銀の煙管を噛みしめるシーンが描かれていましたが、実際は西郷と会う前の話であり、西郷の赦免が決まった時の話なのです。

また、勝田孫弥『西郷隆盛伝』では、

「文久三年の末、久光の上京するや、諸藩有志の徒は悉く長州に走り公武合体党は皆京師に集まれり。然るに幕府の方針は益其勢権を維持するに傾向し、公武合体も亦佐幕の地位に陥るに及び薩藩の壮士輩は深く奮激する所あり。断然死を決して久光に面訴し、以て隆盛召喚の議を決せんと欲す。黒田清綱等其巨魁たり。高崎五六等之を聞知して大に驚き小松、大久保等に告げ久光に説かしむ。爰に於て隆盛放免の議漸く内定し、吉井友實を以て其使者と為すに決せり」(筆者が旧字等を改編し、句読点を挿入)

とあり、勝田の記述によれば、文久三年末に久光が上京したことで、薩摩藩を中心とした公武合体派は京に集結することになったが、幕府は自らの権勢を維持する動きに出たことから、結局公武合体派も幕府を擁護する立場に陥った。そのような状況に危機感を抱いた黒田清綱(嘉右衛門)を中心した藩士たちは、久光に直訴して、西郷召還を願い出ることに決したが、その動きを知った高崎五六らは驚き、小松や大久保にそのことを告げ、久光を説得させたことで西郷の赦免が決まった、ということです。
林真理子『西郷どん』は、この勝田孫弥『西郷隆盛伝』の記述を根拠として、小松が久光を説得したとしたのかもしれません。

しかしながら、西郷の赦免については、実際は小松や大久保は関与していなかったようです。
例えば、前出の「西郷隆盛伝」(『大西郷全集』三所収)には、

「元治元年正月、柴山龍五郎、三島源兵衛、福山清蔵、相田要蔵、井上弥八郎等十数名、丸山の某楼に集まって相談した結果、西郷赦免を願ひ出でて若し聴かれずば、一同君前に割腹死諌しようと決し、黒田嘉右衛門(後の清綱)伊地知正治の二人が有志の総代となって久光侯に哀訴しようといふことになった。しかし最初から久光侯に申出るよりか、小松、大久保に説いて、予め同意を得た上で、都合によってはこの二人の何れかから哀訴させようというのであった」

とあり、前出の勝田孫弥『西郷隆盛伝』に登場した黒田だけでなく、伊地知正治などたくさんの名前が挙がっていますが、ここまでは内容的に差異はありません。異なるのは、これに続く記述です。

「黒田、伊地知の二人は、先づ小松を訪ねた。小松は大賛成であるが、自分からは願ひ出難い事情があるといふ。大久保を訪ねた、大久保も大賛成ではあるが、当時嫌疑を受けた一人であるから願ひ出の責に任ずることは出来ぬといふ。そこで、久光近士の高崎佐太郎、高崎五六がよからうということになり、久光に拝謁の上、先君の御寵臣といふ一点張で、とうとう赦免を許さるることとなった」

つまり、勝田孫弥『西郷隆盛伝』とは違い、黒田や伊地知が小松や大久保を訪ね、西郷の赦免を久光に願い出るよう頼んだところ、小松や大久保は、「趣旨は大賛成だが、自分たちからは願い出ることが出来ない」と、黒田らの依頼を断ったとあります。
結果、黒田らは久光の近臣であった両高崎にその役を依頼したとあり、小松や大久保は、西郷赦免の願い出には関与していないことになっています。

確かに、久光の側近くに仕える小松や大久保の立場からすれば、久光の西郷嫌いを身をもって経験していますので、西郷の赦免を自ら願い出ることは、不興を被る行為であると考えたに違いありません。
特に大久保は、西郷を沖永良部島から召還したい気持ちは他の誰よりも強かったと思われますが、先の文久2(1862)年の率兵上京計画の時のこともありますから、久光に対して、安易に西郷赦免を言いだせるような状況には無かったと言えます。

この西郷赦免に小松や大久保が関与していなかったという話は、「寺田屋事件」の生き残りの一人である柴山龍五郎(景綱)の事歴を記した『柴山景綱事歴』にも出てきます。

「西郷ヲ沖ノ江良部島ヨリ帰サンコトヲ久光公ノ御前ヘ出テ嘆願シ、萬一聴ルサレザル時ハ皆割腹シテ以テ死諌セント議ス。其集リシ人々ニハ三島通庸、柴山景綱、永山弥一郎、篠原國幹、椎原小弥田、宮内彦次(此時彦次ハ異論アリ)、吉田清右衛門等ナリ(綱記憶)。爾来又三島通庸、福山清蔵、井上弥八郎、折田要蔵、柴山景綱等ヲ始メ、拾何人丸山ニ會シ、是非御帰シアル様公ニ申上萬一聴ルシナクンバ御前ニテ直ニ腹ヲ切ラント決シタリ(正風、五六の記憶)、然ルニ其頃君侯ノ御前ニ出テ何事ニ限ラズ申上ル者モ少ナカリシガ、高崎正風、高崎五六ハ御近習通ヲ相勤メ君侯ノ御側近ク出ツル者ナレバ、黙視シ難クヤアリケン共ニ小松、大久保ニ謀ルニ両氏ハ故障アリ、大久保曰ク伏見一挙列ノ沸騰モ甚ダくどい(其時綱ノ覚エ)ト茲ニ於テ五六自カラ久光公ノ御前ニ出テテ懇願シ」(筆者が旧字等を改編し、句読点を挿入)

この記述によると、両高崎が小松と大久保に対し、西郷赦免について相談したところ、二人は「故障アリ」として断ったため、五六自らが久光の御前に出て懇願したとあります。

両高崎が小松や大久保に代わって、久光に西郷赦免を願い出た件については、その当人の二人が、明治27年7月9日に開かれた史談会の席上で、その経緯を詳細に語っています(史談会速記録第四十二輯「高崎男(五六)国事鞅掌に関する実歴附四十九話」『史談会速記録』(原書房)合本八所収)。
この速記録がなかなか面白いので、かいつまんで紹介します。

まず、五六の談話によれば、西郷を召還しようと言い出したのは、伊地知正治だとあります。

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「伊地知正治遺恵碑」(鹿児島市)

伊地知正治から、「どうしても天下の事を為さんと欲せば西郷を帰すに如くはない」と言われた五六は、その旨久光に願い出てみたところ、久光は怒り心頭でした。
五六によれば、「金の煙管の端をきりきりと噛み砕く位に歯噛みをして、なぜ御前は其様に言ふか」と詰られ、「あれは謀反をする奴ぢや」と言われたとあります。
この煙管に関する逸話は、「西郷隆盛伝」(『大西郷全集』三所収)では「銀の煙管」と書かれていますが、五六の談話ではなぜか「金の煙管」となっています。

また、もう一人の証言者である正風によると、西郷の帰藩を待ち望む藩士たちが西郷召還を久光に願い出ようとする動きがあることを知ったことから、まずは小松や大久保にその話を持って行ったようですが、

「小松は此間西郷を遠島することに判を付いたから工合が悪るい、大久保も私は西郷とは兄弟のやうにして居ったから、何となく嫌疑を受けて居るやうな譯であるから、残念至極だか仕方がないと云ひます」

とあり、二人はそのことに難色を示したようです。
そのため、正風は五六と共に、「それなら吾々でやろう」となり、二人で久光に再度西郷赦免を願い出たようですが、それでも久光は激怒したそうです。
正風の証言によれば、「それは怪しからん、西郷は大逆無道な奴ぢゃ、それを帰せとはどう云ふ譯だ」と久光は怒り、また最後には、

「貴様達は騙されて居る、彼れは謀反をする奴ぢゃ、到底薬鍋をかけて死ぬ奴ではない」

と言い放ったとあります。
「薬鍋をかけて死ぬ奴ではない」とは、「畳の上での往生が出来る奴では無い」、つまり、尋常な死を迎えられないということです。
この言葉をもってしても、いかに久光が西郷に対して不快な感情を抱き、また、当時その怒りがまだ収まっていない状態にあったのかが分かります。

しかしながら、両高崎は、最後には久光を説得し、西郷赦免を了承させます。
これほどまでに怒り心頭であった久光をどのようにして口説いたのかと言うと、切り札は「斉彬」でした。
正風の証言によると、彼は久光に対して、こう言ったそうです。

「私は西郷とは一二回面会した位でござりますが、私の神の如く信じて居ります御先代順聖院様か、鹿児島の藩士の多い中より一壮士の西郷をたった一人御見出しになって國事に御使いになって居りました。それを以て見ましても先公の御目鏡は明らかなものであろうと考へます。それで私は順聖院様を信ずるの餘り、随て西郷を御勧め申上げる次第でござります。併し知らず順聖公の御目鏡が誤って居るといふ御沙汰なら、是より直様引取りませう」(筆者が旧字等を改編し、句読点を挿入)

正風は斉彬を引き合いに出し、「斉彬公が西郷を認められたのに、それを久光公が認めないということは、斉彬公の目が節穴であったということですね」と、逆に責めたわけです。
こう言われると、西郷と同様に斉彬を慕っていた久光は、返す言葉が見つかりません。
久光が沈黙すると、両高崎はこれ幸いとばかりに、「順聖公の御目鏡が曇って居れば仕方がござりせぬが、さうでなければどうか御勘考を願ひたい」と、たたみかけるように久光に対して迫りました。
そして、久光はとうとう折れざるを得なくなったのです。
前出の「西郷隆盛伝」(『大西郷全集』三所収)にあるように、「左右みな賢なりと言うか。しからば即ち愚昧の久光独りこれを遮るは公論にあらず~」と語り、久光は西郷赦免を最終的に許可したのです。

以上のようなことを考えると、西郷を救ったのは斉彬であったと言えるかもしれません。
西郷の最大の強みは、薩摩では神格化されていた斉彬に登用されたことであり、そしてそれは同時に、久光のウィークポイントともなったと言えるかもしれません。
こうして西郷は、ようやく沖永良部島から召還されることになったのです。

(参予会議の瓦解と西郷の上京)
元治元(1864)年2月28日、沖永良部島への遠島の罪を赦されて、鹿児島本土へと戻った西郷は、その翌々日、斉彬の墓に参詣しています。
このことは、西郷が沖永良部島の土持政照に宛てた手紙の中に出てくるのですが、そこには、「福昌寺迄参詣仕り候処、漸々這い付き候事にて、難渋の事にて御座候」(『西郷隆盛全集』二)とあり、長期間に渡る獄中生活で、西郷は足腰共に弱り、当時は歩くこともままならなかったことが分かります。
前述のとおり、西郷が無事に赦免されたのは、斉彬の威光が影響を与えたとも言えますので、鹿児島に戻った西郷がいの一番に斉彬の墓前に駆けつけたのは、当然であったと言えるかもしれません。

そして、西郷は席の暖まる暇もなく、同年3月4日に鹿児島を汽船で出発し、3月14日に京に入りましたが、今回の『西郷どん』において、西郷と久しぶりに対面した久光は、不快の表情を浮かべ、「わしは許しちょらん!」と言い放っていました。
前述のとおり、確かに久光は心の中でそう思っていたものと思われます。
同年正月25日付けで、久光が藩主・茂久に宛てた書簡には、

「何分免許難相成者候得共、沸騰込り入候次第故、吉井外二人下島申付、能々相探り、其上赦免相成筈相決申候、彼悔悟ニ而尽力いたし候得は、大ニよろしく御坐候、しかし其うらニ相成候得は以之外之事、国乱ハ必定ニ御坐候、治乱之界此事ニ御坐候」(『鹿児島県史料 玉里島津家史料補遺 南部弥八郎報告書』二)

とあり、久光の西郷に対する怒りは、まだ完全に解けていなかったことが分かります。

「西郷は何分許しがたい者だけれども、周りから「召還せよ」との声が沸き上がって困っているので赦免した」

とあるのは、久光の本音だと言えるでしょう。
また、久光は「もし西郷が期待を裏切れば、国乱は必定」と書いていることからも、西郷を心から赦していたわけではなく、大いに不安視していたことも分かります。

西郷が京に着いたこの日は、久光の朝議参予の辞任が聴許された日でもありました。
詳しく後述しますが、「参予会議(制度)」は、久光が公武融和策の大きな柱として構想し、そして力強く推進した、いわば「一丁目一番地」の政策であり、久光が情熱を込めて、その実現に尽力したものでした。
それがこの日に完全に瓦解したわけですから、久光の失意は想像するに余りあります。
そんな日に憎むべき西郷が上京してきたのですから、今回の『西郷どん』で描かれたように、久光の気分が晴れなかったのは間違いないでしょう。
ただ、当時の政治情勢を考えると、久光としても、西郷のように有用な人物は、使わざるを得ない状況に追い込まれていたとも言えます。

『西郷どん』では全く触れられませんでしたが、薩英戦争の約一ヶ月後、文久3(1863)年8月18日、薩摩藩は京において会津藩と提携し、当時朝政を牛耳っていた長州藩並びに過激な攘夷派公卿らを京都から追放するクーデターを敢行しました。
いわゆる「八月十八日の政変」と呼ばれるものですが、政変が生じた翌8月19日、薩摩藩と姻戚関係にあった近衛家の忠煕・忠房父子は、当時鹿児島に居た久光に対し、政変の成功を知らせると共に、上京を求める書簡を送っています。
その書簡には、

「初発之廟議尤大事之限ニ候得ハ、何分其許上京無之テハ人心一同之落居モ無之、正論之筋モ難相立候間、度々遠路大儀之事ニ候得共、此折節上京在之候様致度、左候ハヽ、叡慮モ必然御安堵之事ニ可被為在、下情一同之渇望ニモ相叶可申、旁上京偏ニ々々々々々々旦夕待入候事ニ候」(『鹿児島県史料 玉里島津家史料』二)

とあり、当時の近衛父子がいかに久光の再上京を待ち望んでいたのかがよく分かります。
八月十八日の政変により、過激な尊皇攘夷を唱える中心勢力は京から一掃されたとは言え、当時の朝廷はまだ混乱の中にあり、その政情はすこぶる不安定な状態でした。
近衛父子はそんな状況を不安に思い、大きな信頼を寄せていた久光に対して、即時の上京を求めたのです。
近衛から久光に宛てた書簡内には、

「偏に、偏に、偏に、偏に」

と、四回同じ言葉が重ねられている部分がありますが、この書きぶりから察しても、近衛父子がいかに久光を頼りに思っていたのかがよく分かります。

また、近衛父子は久光に対して、「兵士多分被召連候様頼入存候」とも書き、兵を多数引き連れて上京して欲しいと頼みました。
近衛父子はその理由を同書簡の中で、「如前文時勢折柄に候へば、猛勢之威風不相示候ては、是又権勢に相係候儀に候間」と書いています。
つまり、以前のように朝政が麻のように乱れた状態に戻ることを懸念した近衛父子は、「このような時勢なので、多数の兵力をもって、威風堂々薩摩藩の力を見せつけて欲しい」と、久光の強いリーダーシップと薩摩藩の巨大な軍事力に大きな期待感を抱いていたのです。

近衛父子がさらに8月22日、そして29日にも久光宛てに連続して書簡を送り、即時の率兵上京を促したこと、また8月28日には勅命が下ったことで、久光は薩英戦争の後処理が未だ済んでいない状況にありながらも、上京を決心し、10月3日に京に入りました。
こうして再び京に戻った久光は、着京早々の10月15日に建白書を朝廷に対して提出していますが、そこには、

「天下之形勢人情事変御洞察、永世不抜之御基本相立候様遠大之御見識相居り、聊之義ニ御動転不被為在候処専要之義と奉存候」(『鹿児島県史料 玉里島津家史料』二)

との言葉があり、久光は「永世不抜の御基本」を立てることが必要であると書いています。
つまり、未来永劫に決して揺るぐことの無い政治の基本を今こそ立てるべきだと久光は論じているのです。
そして、久光はその具体的方策として、

「列藩上京之上天下之公議 御採用、大策御決定被為在度御事と奉存候」

と、有力諸藩の大名を上京させ、その衆議のもとに政治を運営することが必要であるとも書いています。
これがいわゆる前出の「参予会議」と呼ばれるものへと繋がっていくわけです。

参予会議とは、諸大名が朝議や幕議に参画できるように設けられた合議制度であり、久光は、朝廷、幕府、そして諸大名、この三つの勢力間の意志の疎通をはかるために、このような政治改革を提唱し、公武融和策の大きな柱にしようと考えました。
京に入った久光は、将軍を始めとする有力者、当時将軍後見職にあった一橋慶喜(のちの徳川慶喜)や有力諸藩の大名たちを京に参集させるべく尽力し、その甲斐あって、文久3(1863)年12月30には、一橋慶喜を筆頭に、会津藩主・松平容保、前越前藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、前土佐藩主・山内容堂の五人が朝議参予に選出されました。
この時、朝議参予に任命された者たちの中に、提唱者の久光自身が入っていなかったのは、久光が当初辞退したためです。
当時の久光は、薩摩藩内では国父として大きな権力を有していた人物でしたが、対外的には無位無官であったことから、自らの官位欲しさに参予に就任したと思われることを嫌ったのです。
今回の『西郷どん』において、参予に就任していた諸大名らが久光のことを「国父殿」と呼んでいましたが、これは違和感があり過ぎます。国父とは、あくまでも薩摩藩内における久光の地位を表したものであって、他国者が久光のことを「国の父」などと呼ぶのは、どう考えてもおかしいからです。

話を戻して、このように当初久光は参予には就任しませんでしたが、参予会議の生みの親とも言える久光がメンバーに入らなくては、現実的に会議の運営に支障をきたすため、遅れて翌文久4(1864)年1月13日、久光はようやく朝議参予に就任することになりました。
そしてこの日、久光は初めての官位である「従四位下左近衛権少将」の叙位を受けたのです。
その時の喜びを詠じた久光の和歌が『島津久光公実紀』の中に出てきます。

「老いの波 たちそふ身にも 春の日の 漏れぬ光りに 逢ふぞうれしき」

つまり、こんな老いた自分にも、朝廷の温かいご威光が照らされてきたことが嬉しい、と久光はその感慨を和歌にして詠じたのです。

このようにして、久光の尽力が実り、参予会議が発足したわけですが、前述のとおり、その二ヶ月後の3月には早くも制度は瓦解してしまいます。
参予会議瓦解の大きな原因となったのが、いわゆる「横浜鎖港問題」です。
つまり、横浜港を鎖港するか、それとも開港するかということですが、この問題を巡り、慶喜と容保の二人と久光、春嶽、宗城、容堂ら四人の意見が対立しました。

当時の久光は、基本的に開国論者です。
少し時がさかのぼり、文久3(1863)年10月3日に久光が入京し、10月15日に朝廷に対して建白書を差し出したことは前述しましたが、それから一ヶ月経った11月15日、今度は久光に対して、近衛家を通じて孝明天皇の宸翰が下りました。
何度も書きますが、当時の久光は無位無官の身です。
そんな久光に対して、孝明天皇から直々の宸翰が下されたのですから、久光は感激したに違いありません。
また、この事実をもってしても、孝明天皇の久光に対する信任の厚さがうかがえます。

孝明天皇はその宸翰の中で、「皇國永代無穢安慮之攘夷迅速有之度右之建白所望候事」(『島津久光公実紀』二)と書き、迅速な攘夷を行なうための方策を建白するよう、久光に対して求めました。
しかしながら、その孝明天皇の宸翰に対して提出した答書において久光は、

「小臣急速ノ攘夷ヲ相好不申候儀ハ、去秋書取ヲ以奉言上候通迚モ方今ノ所ニテハ、一度兵端相開候得ハ、万民快楽之叡慮ニモ不被為叶、皇国億兆ノ人民是カ為ニ塗炭ノ苦ヲ受、乍恐堂々タル神州醜夷ノ戎馬ニ被穢候様罷成候テハ、何共恐入候次第御座候」(『鹿児島県史料 忠義公史料』二)

と書いた上で、

「皇国而已鎖国難被成形勢御座候」

と、「日本だけが鎖国を続けられる形勢ではありません」とはっきり答えています。
久光の開鎖の考え方は、この孝明天皇に対する答書に詳しく記されていますが、簡単に言えば、「開戦することは容易なことだが、そのことで万民は塗炭の苦しみを味わう。攘夷、攘夷と声高に叫ぶ前に、まず国内の武備充実を行なうことが先決である」ということです。

このような考えを持っていた久光は、当然横浜港を開港すべきだと主張したわけですが、慶喜はその久光の開港論に反対しました。
つまり、慶喜は「横浜鎖港」を主張したのです。
しかしながら、慶喜は元来開国論者です。
『徳川慶喜公伝』三には、

「公は原來開國論の主張者なり、幕府の局に當りて、騎虎の勢已むことを得ず、是れまで攘夷鎖港を標榜し給へども、鎖港は到底行はるべからず、此際斷然開國の方針に一變するに如かずと思惟せられたれば」

とあり、当時の慶喜自身も「開国しか道はない」と考え、横浜を鎖港することは現実的に不可能だと分かっていましたが、それでも慶喜は、横浜開港を唱える久光に反対しました。
その理由については、『徳川慶喜公伝』や『昔夢会筆記』といった慶喜の伝記や回顧録の中に見ることが出来ますが、ここでは『徳川慶喜公伝』の記述を借りると、慶喜が久光の開港論に反対した理由が、次のように書かれています。

慶喜がある日二条城に登った際、慶喜は老中の酒井雅楽頭忠績水野和泉守忠精らから、

「此度御出發の前、台前に於て板倉周防守勝静を始め閣僚と決議したる趣は、開國はともあれ、薩州の開國論には決して従ふべからずといふに定まれり。抑昨年御上洛の時は、長州の説に聴きて攘夷の議を決し、今年は薩州の議に従ひて開港説に傾かば、幕府は唯外様に翻弄せられて、一貫の主義なきを知らしむるものなれば、斷じて此度の開港説には賛同し難きなり」

と、幕議において薩摩の開国論には従わないことを決定したと伝えられました。
それに対して慶喜は、「然らば何處までも攘夷を是とせらるるか」と確認したところ、両老中は、

「攘夷の行ふべからざる事、開港の然るべき事は承知し居れども、薩州の説には従ひ難きなり。若し強ひて薩州の説を容れんとならば、己等は直に袂を連ねて辞職すべし」

と言い放ちました。
つまり、当時の幕閣は、攘夷が不可能であり、横浜を開港するしかないと分かっていながらも、それが薩摩藩主導、つまり久光の提案と主導によることが気に入らないという理由で、その開港論に反対しようとしていたのです。

ただ、このように一国の政策を決定する際、幕府が薩摩藩に従えないという体面を気にしての理由から、実際の考えとは違う主張をしようとしたということは、当時の幕府がいかに政治的に機能不全に陥っていたのかが分かります。
当時の幕府関係者が、これほどまでに薩摩藩をそして久光を毛嫌いしていたのは、文久2(1862)年6月、久光が兵を率いて江戸に下り、幕政改革を迫ったことがしこりとして残っていたためです。
つまり、久光の行動によって、幕府は面目を潰された形になったため、その遺恨が久光の開港論に反対した原因になったと言えます。

そして、幕府の老中たちは、辞職を盾に取り、慶喜に対してもそれを迫りました。
このように、『徳川慶喜公伝』によれば、慶喜が久光の開港論に反対した理由は、老中らの圧力に屈し、開港論に賛成できなかったからだとされています。

ただ、この『徳川慶喜公伝』の記述をそのまま鵜呑みには出来ないでしょう。
慶喜が久光の開港論に反対したのは、他にも様々な要因が入り混じっていると解釈すべきです。
確かに、幕府側の責任者として参予会議に出席していた慶喜にとって、老中ら幕閣の意志を尊重する立場にいた苦労も理解は出来ますが、慶喜自身もまた当時の朝廷の意向や民情を強く意識していたことにより、久光の開港論に反対したものと思われます。

前述のとおり、当時の孝明天皇は骨髄からの攘夷主義者です。
久光はそんな孝明天皇の不興を被ることも覚悟のうえで開港論を主張しましたが、幕府としては、朝廷の支持や信頼を獲得するためには、孝明天皇の意向通りに鎖港を主張する方が政策上は都合が良かったと言えます。
また、当時の日本の状況は、まだまだ攘夷熱が依然覚めやらぬ状態でした。
今回の『西郷どん』において、お虎のいる旅籠「鍵屋」の入り口に、薩摩藩の悪口が書かれた張り紙が貼られているシーンがありましたが、これは同様の話が『鹿児島県史』三の中に出てきます。

「当時民間の攘夷論なほ強盛で、薩藩を開港説として論難し、或は市中に貼紙して慶永・久光等を非難攻撃する等のことがあった」

つまり、当時開港論を主張していた久光や春嶽に対する世間の評判は、このようにすこぶる悪かったため、当時の民情を考慮すれば、幕府としては、鎖港を唱える方が都合が良かったとも言えます。
そして、最後にもう一点。
当時の慶喜自身の行動から推察すると、慶喜も幕閣と同様に、薩摩藩主導による開港論に対して、やはり大きな抵抗感を持っていたのではないかと思われます。

ただ、その一方で、やり切れないのは久光です。
当時の久光は、幕府を軽んじたり、また敵視したりするどころか、日本のために統治機構としての幕府は必要な存在であることを認め、朝廷と幕府を融和させた政治を実現するため、懸命にその間を周旋しようと手を尽くしていました。
そこには後年のような幕府否定論は全くなく、幕府のためを思えばこその周旋であったのですが、当事者の幕府は、その久光を毛嫌い、そして信用・信頼せず、常に猜疑心を持って接していたため、幕府は最終的に参予会議を壊す方向に舵を切ったのです。

これにより、久光が心血注いだ参予会議というものは、公武融和を前提とした政策協議の場では無く、政治権力の闘争の場と化しました
つまり、政策論争は棚に上げられ、幕府か有力諸藩、どちらが朝廷を取り込み、政権のイニシアチブを握るか? という権力争いの場と化してしまったのです。

そして、その参予会議が崩壊したことにより、諸藩の幕府離れは一層加速され、久光の心は反幕へと傾いていきます
そう考えると、幕府は自分で自分の首を絞めたとも言えます。
参予会議は、幕府にとっても、そして薩摩藩にとっても、非常に重要なターニングポイントだったと言えましょう。

『西郷どん』においては、久光は感情的な人物として描かれ、どちらかと言えば、やることなすこと失敗ばかりの無能な人間のように描かれていますが、それは実像と大きくかけ離れています。
政治に挫折は付きものです。
政治とは、挫折と改革を繰り返して成熟していくものであり、その不断の努力によって結実したのが明治維新であったと言えますが、当時の久光は根気よく政治活動を続け、参予会議の発足と運営に力を尽くしました。
西郷隆盛が主役のドラマですから仕方ないとは言え、そのような日本の将来を見据えての久光の奮闘が全く描かれなかったのはとても残念です。

少し長くなりましたが、このように久光が奔走した参予会議は結局瓦解し、久光の朝議参予の辞任が聴許された当日に、今度は心中に反幕思想を抱く西郷が上京してくることになったのですから、歴史というものは、本当に不思議なものと感じざるを得ません。


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【2018/07/16 17:56】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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歴史は研究されて刷新されていくものだと思いました。

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前回もそうでしたが、今回も話のペースがすごく早かったですね。生麦事件から薩英戦争、そして西郷の召還まで一気に進みましたから。
この時期の西郷は沖永良部島に遠島中であったため、中央政局には一切関わっていないことから、西郷関係諸書においても、この間の話を端折るものが多く見られますが、実はこの時期の政局を押さえておかないと、後に西郷が中央に復帰してからの行動や考えが理解しづらくなると言えます。

「西郷という人は、幕末・維新史全体の上に浮かべないと、真の姿がわからない」

これは鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏の言葉ですが、西郷という人物を理解するためには、幕末という時代そのものを併せて理解しようとすることが、とても大事なことなのです。

ただ、さすがにそれをテレビドラマに求めるのは酷でしょう。
小耳に挟んだところによると、『西郷どん』では西南戦争を一ヶ月間描くそうですから、これからどんどんスピードアップしていきそうですね。
あくまでも個人的な思いですが、いっそのこと西郷と愛加那の奄美大島生活で一年間やっても良かったのでは? なんて思わせるほど、二階堂ふみさん演じる愛加那は最後まで素晴らしかったですね。

(西郷家の困窮)
前回のブログでは、徳之島に送られた西郷に対して、沖永良部島への遠島命令が下ったところまで書きました。
西郷の沖永良部島への遠島命令は、文久2(1862)年7月14日付けで藩から下されたものでしたが、その処分は西郷の弟たちにも及びました。

西郷家の家政上の記録である「万留」(『西郷隆盛全集』四所収)によると、次男の吉二郎は、当時務めていた勘定所書役助について、差控伺(いわゆる進退伺)を提出後、遠慮(自発的謹慎)の処分を受け、四男で帖佐与御代官所書役助の職に就いていた小兵衛も同様に遠慮となりました。
また、前回書いたとおり、三男の信吾は寺田屋事件に直接関与していたため、既に5月に謹慎を言い渡されていましたので、西郷家の家計を支える男たち全員が免職等の憂き目にあい、また、西郷家の知行高及び家財も併せて没収となったのです。

村井弦斎『西郷隆盛一代記』は、その当時の西郷家の状況を次のように書いています。

「西郷家の家政は弟吉次郎が担任し居たるが、吉次郎理財の道に長し能く家政を整理して今は知行高も百俵ばかりとなりぬ、(中略)、然るに今度の事起りて、此等の知行は悉く官に没収せられ、吉次郎は御役御免となり、弟新吾は寺田屋騒動に関係せしため国元に送り還されて親族の外他人の面会を禁せられ、一家悉く秩禄に離るるの不幸に陥り西郷家の資産とては唯西別府の地所のみとなりける」

このように、当時留守を預かっていた吉二郎のこれまでの苦労は、西郷の遠島処分により、全て水泡に帰したと言えるでしょう。

ちなみに、「西別府の地所」とは、西郷家の抱地(かけち)のことです。
鹿児島城下郊外の西方、西別府(にしびゅう)という場所に、西郷家は抱地を所有していました。抱地とは、いわゆる開墾地のことです。
西郷家はここに農事小屋を建て、そこでわらじを制作したり、また、生活の足しにするために畑を耕して甘蔗(さつまいも)などの食物を植えていました。
若き日の西郷は、ここで家族と共に農作業に勤しんだと伝えられています。

西郷家の禄高のほとんどが借金の抵当や生活費の工面のために売り払われ、実質名目上だけのものになった時期があったことは以前書きましたが、そのように生活が苦しかった西郷家にとって、この西別府の抱地はとても大事な土地であったと言えます。嘉永5(1852)年7月から11月にかけて、西郷の祖父や父母が相次いで亡くなり、経済状況が悪化した際も、西郷家はこの抱地のお陰で何とか生活のやりくりが出来たからです。
また、だいぶ後のことになりますが、明治10(1877)年に西南戦争が始まると、鹿児島に残された西郷家の家族は、鹿児島城下にあった屋敷を離れて、一時期この西別府の土地に避難しています。
現在、この土地は「西郷南洲野屋敷跡」と呼ばれており、西郷が植えたと伝わる、やまももの木や大名竹が残されており、鹿児島の観光スポットの一つとなっています。

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西郷南洲野屋敷跡(鹿児島市)

閑話休題。
このように、西郷の遠島により、西郷家の経済状況は急激に悪化し、吉二郎を中心とした西郷家は、西別府の抱地で畑を耕し、材木を切り出すなどして飢えをしのがざるを得ない状況に追い込まれたわけですが、そんな困窮した西郷家を見かねて、手を差し伸べた人物がいました。
西郷の妹・琴の夫である市来正之丞です。
『西郷隆盛一代記』には、

「日頃親しく交けりたる友人等も其の嫌疑を恐れて近づくものなく、吉二郎もほとほと困却したるが、此際姉婿なる市来六左衛門のみは此有様を見るに忍びず、西郷家に来りて種々の世話をなし吉次郎の友人武井半之丞に謀りて、上を欺くの罪は恐ろしけれど一家の困難にはかへかたしとて其の没収さるべき知行高の中幾分を武井に売渡したる躰となし、其筋に届け出て漸く其の没収を免れたり」

とあり、市来の配慮や手助けもあって、西郷家は何とか生計を立てていたと伝えられています。
そう言えば、最近の『西郷どん』には市来が全く出てこないですね。市来は西郷を語る上でとても重要な人物ですので、もっと出演機会を増やしてもらいたいものです。

話を戻しますが、西郷は沖永良部島において過酷な遠島生活を経験しますが、残された家族もまた、それと同等以上に塗炭の苦しみを味わっていたことは、留意しておく必要があります。
とかく歴史上の人物の英雄譚においては、主人公に降りかかった厄難を一種美化して語る傾向がありますが、その周囲に居た人たちもまた、その影響を受けて同様の苦しみを味わったということを忘れてはならないのです。

(沖永良部島への遠島)
一方、徳之島に滞在していた西郷が、沖永良部島への遠島命令を聞いたのは、文久2(1862)年8月下旬頃であったと伝えられています。
つまり、藩の遠島処分が下ってから一ヶ月以上経った後に、西郷本人に伝わったということです。

一説によれば、はるばる奄美大島から愛加那が二人の子供たちを連れて徳之島を訪ねてきた当日、西郷は沖永良部島への遠島を申し渡されたと伝えられています。
これは東郷中介『南洲翁謫所逸話』に出てくる話で、当時徳之島の在番附役を務めていた中原萬次郎が、藩からの遠島命令を受け、それを西郷に対して伝えようとした時のことを次のように書いています。

「命令書ヲ携ヘ翁ノ居ニ至レハ、時恰モ妾及二子ト再会ノ際ニシテ室内歓声溢レ、児女鍾愛ノ歓喜場ナリシカ故ニ、中原庭内ニ入リムトスルモ無限ノ感ニ打タレ、悲涙滂沱躊躇逡巡シテ足進マス」

西郷と愛加那やその子供たちが久しぶりに再会し、家族団らんのひと時を過ごしている様子を見て、中原は遠島命令を伝えるに忍びなかったということです。
前回の『西郷どん』では、無愛想な役人が西郷の元を訪ね、遠島処分を告げていましたが、この逸話を元にして、もう少し情緒的に描いて欲しかったと思います。

ちなみに、後に沖永良部島に居た西郷が、文久3(1863)年3月21日付けで奄美大島の間切横目(警察・監察役)の得藤長に宛てた書簡によると、西郷は実子・菊次郎と再会した時のことを「徳之島へ罷り越し候節は拙者を見知り申さず、他人の塩梅にて相別れ申し候」(『西郷隆盛全集』一)と書いています。
当時、菊次郎はまだ一歳半の幼児です。西郷のことを認識できなくて当然ですが、西郷は子供たちとの別れがよっぽど辛かったのか、同書簡には、

「此の度は重き遠島故か、年を取り候沙汰か、些か気弱く罷り成り、子共の事思い出され候て、中々のし申さず候」

と書いています。
「のし申さず」というのは「辛い」という意味ですが、この文面からは、子を想い、そして子の成長を願う、父としての西郷の一面が見えます。
また、西郷はそのように気弱になっている自分を省みて、「全躰強気の生れ付きと自分に相考え居り候処、おかしなものに御座候」と自虐していますが、何事においても強気であった西郷でさえも、家族と離れての遠島生活は、身にこたえるものであったのかもしれません。

閑話休題。
さて、『南洲翁謫所逸話』によると、「飛脚船来ルト聞キシカ故ニ必ス切腹ノ命令書到来セムト思惟シタリ、然ルニ尚ホ生命ノミハ存シ得ヘキカ君命忝シトテ幾度カ令書ヲ拝シテ欣然タリ」とあり、西郷は飛脚船が来たことを知り、切腹命令が下ったと覚悟したようですが、切腹ではなかったにしろ、沖永良部島への遠島処分を聞き、内心かなり驚いたのではないでしょうか。

藩からの遠島命令が徳之島に着く直前の文久2(1862)年8月20日、西郷は奄美大島の見聞役・木場伝内宛てに書簡を送っていますが、その中に次のような言葉があります。

「もっとも桂氏若しや上国共相成り候わば、大島迄は島替え仰せ付けられ候筋、御周旋相願い申し候。桂氏大島へ罷り在られ候ては六ヶ敷由承り申し候」(『西郷隆盛全集』一)

ここに出てくる桂氏とは、西郷の親友・桂右衛門(久武)のことですが、当時桂は奄美大島に居ました。
第22回の感想&小解説において、大久保ら誠忠組の働きかけにより、桂の実兄・島津下総を中心とした日置派が藩要路から左遷されたことを書きましたが、桂はその影響を受け、鹿児島本土を離れて当時奄美大島に赴任中だったのです。

西郷は木場に対して、「桂氏が奄美大島に居る間は、私が徳之島から奄美大島へ移るのは難しいと思うが」と前置きしたうえで、「桂氏が鹿児島に帰ることになったら、私が奄美大島に遠島替えになるよう周旋して欲しい」と頼んでいます。
西郷自身は、自分が久光に罰せられたのは、日置派と結託していると邪推されたことが大きな原因と思っていましたので、桂が奄美大島に居る間は、自分は奄美大島には移ることが出来ないと思っていたようです。そのため、桂が奄美大島を離れたら、妻子の居る奄美に移れるよう尽力して欲しいと木場に頼んだのです。

この木場に対する依頼内容から察すると、西郷は家族と共に再び暮らせる可能性があると踏んでいた様子がうかがえますので、当時はこれ以上自分に対して厳罰は下らないという風に考えていたのではないでしょうか。
その理由は前回書きましたが、藩内には日置派を中心とした西郷を擁護する勢力があり、それが藩への無言の圧力となっていたこと、さらにその影響で何の処罰の言い渡しもないまま取りあえず徳之島に送られた経緯がありましたから、西郷は事態を少し楽観視していたように思えます。
しかしながら、沖永良部島への遠島処分を受けたことで、西郷は自分の甘さに気付いたやもしれません。なぜなら、沖永良部島への遠島は、切腹に次ぐ重い処分であったからです。

(過酷な遠島生活)
こうして西郷は徳之島を離れて沖永良部島へと向かうことになるのですが、勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、次のような話が書かれています。

「初め流罪の命を達せらるるや警吏鹿児島より至りしが其一人舟中に端座して睥睨するものの如し。隆盛以為く彼等島地に着するの途次船中にて殺害せんとするものならん。然れども人の一身は天命にあり。護国の精神は萬世に滅せず死生亦何かあらんと従容として命を受け、中原等と戯謔角力以て離別を告げ、舟牢に入りて出帆せり」

つまり、西郷は沖永良部島に到着するまでの間に、船中で殺害されるかもしれないと覚悟したということです。
さかのぼれば、寺田屋事件に関与した中山家の諸大夫・田中河内介父子が、事件後、薩摩藩によって瀬戸内海の船上で殺害されたこと、また、同じく海賀宮門ら三人を日向細島において藩が暗殺したことを西郷は知っていましたので、もしかすると自分も同様に殺されるのではないかと感じた可能性はあると思います。

しかしながら、この話をネタにして話を広げたのか、西郷が殺されるかもしれないと感じていたことから、船が無事に沖永良部島の伊延港に到着した際、「厠に入って小便をした時の愉快さは一生忘れられない」と、西郷が語ったという逸話がありますが(横山健堂「沖永良部島に於ける大西郷」『文久二年四大事件講演集』)、まるで西郷が死ぬことを恐れていたかのようなこの話を真に受けてはいけないでしょう。

当時の西郷の死生観については、前出の木場伝内宛て書簡にしっかりと書かれています。

「此の場に相成り、憤激して変死共いたし候ては残恨の次第にて、決してもふは行迫らず、命を奉じて、死を賜うとも如何共従容として畏る考えに御座候」(『西郷隆盛全集』一)

この記述を見る限り、西郷は死ぬことを全く恐れてはいません。
もし、「死」を命じられたら、従容としてそれを受け入れると書いています。
このような気持ちでいた西郷が、死を前にして怖じ気づくようなことは一切無かったと思います。(もし本当にあのような言葉を言ったのだとしたら、西郷特有の一種の諧謔でしょう)

また、西郷は同木場宛て書簡の中で、「また命もおしかるかと申す人もこれある筈に御座候得共、惜しむは何ヶ度でも惜しむ考えに御座候」とも書いています。
この「命を惜しむときは、何度でも命を惜しみます」という部分には、西郷の死生観がよく表われています。
つまり、無駄死にはしないということです。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、西郷の死生観とは、

「死ぬことを恐れはしないが、自ら死を求め、死に急ぐようなことはしない」

ということです。
西郷にとっての死とは、あくまでも覚悟の問題であり、希求するものでは無かったのです。
この死生観は、西郷を理解するうえで最も重要なものであり、西郷の後半生の様々な場面において、この考えを元にした行動が出てきます。

話を戻しますが、西郷が徳之島を離れ、沖永良部島の伊延港に着いたのは、文久2(1862)年閏8月14日のことです。
『南洲翁謫所逸話』によれば、西郷は沖永良部島へ移送される際、徳之島の在番役人から、「移送中は牢の外に出ても構わない、着島前に入牢すれば良い」と便宜をはかられていましたが、西郷は「余ハ今ヨリ一ノ流人ナリ。君命ニ背クハ余ノ為サザル所ナリ」と言って、移送中も自ら進んで牢に入ったとあります。

沖永良部島に着いた西郷は、そこから二日間、船の中に留まりました。西郷を収容する牢がまだ完成していなかったからです。
そして、ようやく完成した牢に西郷は入れられるわけですが、前回書いたように、西郷の遠島命令書には、「着船之上囲入被仰付候条、昼夜不明様両人番付ニ而召置(着船の上は、囲いのある牢屋に入れ、昼夜開けないよう、二人の番人を付けること)」との厳しい指示が書かれていましたので、前回の『西郷どん』でも描かれたように、その待遇はとても過酷なものでした。
鹿児島県教育会編『南洲翁逸話』には、

「翁の幽因せられた牢屋は、廣さ漸く二坪余、殊に咄嗟の建設に係るので極めて粗末な構造で、東西戸なく南北壁なく、繞らすに四寸角の格子を以てし、屋内に厠及び小爐を設け、板屏風を置いて之を覆ひ、室内狭隘、殆んど膝を容るるに足らず、加之寒風激雨之を防ぐに足らず」

とあり、西郷を収容した牢は、わずか二坪余りで、壁など無い、雨風吹きざらしの非常に粗末なものでした。

また、それに加えて西郷は、「自ラ飲水ヲ乞ワズ、湯ヲ求メズ、又喫煙ヲ断チ、毎朝一回牢番ヲシテ炊事ヲナサシメ、昼夜ノ二食ハ熱湯ヲ以テ残飯ヲ温メ、副フルニ粗菜ヲ以テシ、一日三食ノ外絶テ間食スルコトナク、常ニ正坐シテ沈思黙考以テ日ヲ消セリ」(『南洲翁謫所逸話』)といった日々を過ごしました。
「老西郷大島流竄中の事跡」(『鹿児島県史料 忠義公史料』二所収)には、

「西郷氏の徳之島を発し沖永良部島ニ護送せらるゝや、船中の牢に入れられ、其沖永良部島に着するや麁造狭隘たる牢獄に幽因せられ、足を伸ばせば枕は便所に接し、臭気堪ふべからず、其供せらるゝハ亦極めて粗にして、魁偉肥満の身体も日に憔悴し、遂に歩行自由を失ふに至れり、然るに君命重しと為し、敢て牢を出づることなかりしと云ふ」

とあり、その獄中生活がいかに苛烈を極めたものだったのかがよく分かります。

前回の『西郷どん』では、そんな西郷の状況を見かねた川口雪篷が、牢を壊して西郷を助け出していましたが、同じ遠島人である川口がそんなことを出来るはずもありません。
実際に西郷を助けたのは、沖永良部島で間切横目を務めていた土持政照と代官附役の福山清蔵の二人です。

土持は『西郷どん』に登場していますが、福山は出ませんでしたね。
実はこの福山は、彼が後に鹿児島本土に戻った際、西郷赦免運動を起こす人物の一人となるのですが、それはさて置き、土持と福山の二人は、交互に西郷の牢を見張る役目についていました。
西郷の獄中生活が苛烈を極めたものであったことは前述しましたが、二人は西郷がその生活の中で日増しに衰弱し、健康を害していく様子を目の当たりにして、心を痛め、そしてそのことを憂慮していました。

この辺りの経緯はとても有名な話ですので少し端折りますが、そのような状態を見かねた土持は、代官の黒葛原源助に対して、「藩の命令書には「囲いに入れろ」とあるだけで、牢屋に入れろとはありません。ですので、西郷のために新たな家屋を建築し、その内部に囲いを設けた部屋を作り、そこに収容したい」と願い出ました。
つまり、命令書の記述を拡大解釈しようとしたのです。
代官の黒葛原自身も西郷の人柄に一目置いていたのでしょう、そんな土持の願い出を妙案だとして許可しました。今回の『西郷どん』では、黒葛原は事なかれ主義の官吏として描かれていましたが、実際はそんな人物ではなかったのです。

このようにして土持の願い出は受け入れられ、土持は新たな家屋が完成するまでの間、西郷を福山の屋敷で静養させました。この配慮により、西郷は再び生気を取り戻したと言えます。
風前の灯火となっていた西郷の命は、沖永良部島に居た役人たちの手によって救われることになったのです。

(西郷と薩英戦争)
西郷は徳之島に流された当初、再び鹿児島本土に戻る気持ちは無かったようです。
文久2(1862)年7月末頃に書かれた西郷が木場伝内に宛てた書簡には、

「迚も我々位にて補い立ち候世上にてはこれなく候間、馬鹿等敷忠義立ては取止め申し候。御見限り下さるべく候」(『西郷隆盛全集』一)

とあり、「とても我々のような者が役に立つ世上ではありませんので、馬鹿らしい忠義立てはもう止めることにしました」と厭世的な言葉が綴られているほか、前出の同年8月20日付けで同じく木場宛てに書かれた書簡には、「再上国は仕り申さざる了簡に御座候」と、具体的に鹿児島には戻るつもりはないとあります。

このように、遠島直後の西郷は、その失意がそうさせたのか、帰藩することに否定的でしたが、沖永良部島に移り、時が経つにつれ、徐々に赦免に期待する気持ちが生じてきたようです。
文久3(1863)年3月21日付けで、西郷が奄美大島の間切横目・得藤長に宛てた書簡には、

「猫の目の替わると一ツもの、一ツ腹のものと相考え居り候者が、拙者のぼろくどに喰い付き候事にて、案外のものに御座候。ぼろくどの歯形が取れそうな塩梅にて御座候間、罷り登る儀も御座候わば、如何の面には逢い申すべきや、今よりおかしく御座候」(『西郷隆盛全集』一)

との言葉があります。
パッと読んだだけでは少し分かりづらいですが、その大意を書くと、

「堀仲左衛門や海江田武次といった同志たちが自分に喰らいつくように讒訴し、このような状態になったのは案外のことであったが、そのえん罪が晴れそうな状況となっているようなので、自分が鹿児島に舞い戻ったら、そういった連中はどの面下げて私に会うのか、今から楽しみです」

と、西郷は言っているのです。
堀や海江田のことを「猫の目の替わると一ツもの、一ツ腹のものと相考え居り候者が、拙者のぼろくどに喰い付き」と表現しているのが、西郷の感情を表していて面白いですが、西郷は自分が赦免される動きが藩内に出てきたことを知り、期待感を込めてこのような話を書簡に書いたものと思われます。
ちなみに、西郷は「此の咄は音なしと御頼み申し上げ候(この話は他言しないで下さい)」と書いていますので、赦免については、誰かから秘密裏に聞いた話だったのかもしれません。

このように、西郷は赦免の動きがあることを知り、それに期待感を持ち始めていましたが、さらに西郷が帰藩を強く願うようになったのは、今回の『西郷どん』でも描かれた薩英戦争が大きなきっかけになったと思われます。

ドラマ内では、土持が西郷にイギリスの軍艦が薩摩に向かっているとの情報をもたらしていましたが、確かに西郷はイギリスと薩摩が戦争になりそうだとの情報を得ていました。
文久3(1863)年6月2日付けで、西郷が徳之島の間切横目・龍禎用喜に宛てた書簡には、

「貴問の如く大和も大騒動の由、風聞迄にて委敷事も相分からず候得共、異船弥御打ち払いに御決策相成り候由、此の度は弥戦争相始まり申すべき儀相違これなく、実々おそろしき世振りに相成り申し候」(『西郷隆盛全集』一)

とあり、6月最初の時点で、沖永良部島にも薩英が開戦しそうだとの情報が入って来ていたことが分かります。
ちなみに、イギリス艦隊が薩摩を目指し、横浜を出航するのは同年6月22日のことで、同年7月2日から4日にかけて、鹿児島錦江湾で薩英の砲撃戦が繰り広げられるのですが、それら詳細な戦闘情報は、やはり遠く離れた沖永良部島にはなかなか入って来なかったようです。
西郷は土持の名を借りて、同年9月中頃に徳之島の与人役(行政の長)宛てに、十一ヶ条の質問を記して、薩英の戦闘状況を詳しく知らせてくれるよう依頼する書簡を送っています。徳之島は奄美大島にも近く、沖永良部島よりもより詳しい情報が入って来ていると考えたからです。

今回の『西郷どん』では、イギリス艦隊の来襲を聞きつけた川口雪篷が、薩摩とイギリスとの戦いを阻止するため、単独で島を抜け出そうとしていましたが、実際はむしろ西郷の方がその状況に居ても立ってもいれなくなって、島を抜け出し鹿児島に帰ることを考えたくらいです。
勝田孫弥『西郷隆盛伝』によると、西郷が土持に対して、「船を調へ鹿児島に帰航せんと欲するの意を以てせり」と打ち明けたところ、土持はそんな西郷の考えに賛同し、私財を投げ打って船を作ることを提案し、西郷は「亦喜んで政照の請ひを允せり」とあります。

今回の『西郷どん』では触れられていませんでしたが、土持は自らが抱えている屋敷の使用人、いわゆる家人(ヤンチュ)を売り、脱出用の船の購入資金にあてようとしました。
家人については、今回の『西郷どん』にも出てきましたね。
ただ、この家人売買の話については、西郷関係諸書において、だいぶその扱いが違います。
西郷が土持の考えを強く諫めたと書かれてあるものから、土持の考えを容認したとあるものまで、その扱いは様々ですが、事実を包み隠さず書くとすれば、西郷は土持の考えを容認しています。

土持政照の長子・綱義が書き残した「流謫之南洲翁」(和泊町『沖永良部島郷土史資料』所収)によると、土持は西郷に対して、

「余家ニ資産ナシトテモ下男下女アリ。之レヲ奉公替セシメ其資金ヲ以テ船ヲ造ランコトヲ約シテ家ニ帰ル」

と、船の購入資金については、家人を売って作ると約束したとあります。
また、その後、土持は家に帰ると母の許諾を得て、「碑僕ヲ母ノ面前ニ呼ビ造船ノ資ノ為メ雇主ヲ替ヘザル可カラザル所以ヲ説示ス。碑僕唯々ト之ヲ諾ス」と、家人の売買を決心した土持が家人たちを集め、船の購入資金を作るため、別の雇い主に売る旨説明したと書かれています。
そして、西郷はその土持の厚意に感動し、自ら「政照子賣僕以造船而備變感其志賦以贈」という漢詩を賦して、土持の行動と志を大いに褒め称えています。

また、前出の『南洲翁逸話』には、「翁之に賛成されたけれども行くやうな船が無いので、政照が私には資財はありませんけれども、幸に下男下女がありますから売って船を造りませうといったので大へんに喜ばれた」とあり、西郷が土持の家人売買のアイデアを喜んだとまであります。
以上のようなことを考え合せると、西郷が土持の家人の売買に関して容認していたことは、ほぼ間違いないと言えるでしょう。
しなしながら、結局この西郷と土持の造船脱島計画は、イギリス艦隊が退去したとの報を受けて中止されたのです。

NHK出版『NHK大河ドラマ・ガイド 西郷どん(後編)』の第25回のあらすじを見ると、薩英戦争の影響が沖永良部島に及ぶことを心配した土持が、近隣の島に援軍を頼むことを提案し、その兵を移送するための船を購入するため、家人を売ってお金に換えようと言ったところ、西郷がそれを強く諫めたとの話が掲載されていましたが、今回の『西郷どん』本編ではそのシーンはありませんでした。
おそらく、制作者側が人権問題もあるので、敢えて西郷評価に関わるようなことに触れる必要は無いと判断したのでしょう。

ただ、私の個人的な意見ですが、まず現代の価値観をもって、歴史上の人物が行なったことの良し・悪しを判断することは、はっきり言ってナンセンスだと思います。
以前、本ブログの「砂糖地獄」の回で詳しく書きましたが、当時の武士とは搾取階級であり、支配階級です。いくら西郷のように、農民に寄り添う考えを持ち、そして家人の解放に一定の理解を示していた人物であったとしても、最終的な決断を下す際は、為政者側からの観点でしか物事をはかれなかったと言えます。
これは以前にも書いたとおり、西郷が支配層である武士階級の生まれであった以上、そういった価値基準・判断で物事を捉えざるを得なかったためです。
つまり、今回のケースで言えば、造船の資金を得るための家人の売買は、国家や藩にとっては大事の前の小事、やむを得まいと西郷は判断したということです。(家人の売買が正しかったと言っている訳ではありませんので誤解なきように。あくまでも西郷に関する事象として述べているまでです)

ただ、私はこのことをもってして、西郷評価を上げる・下げるの問題には直結しないと感じます。
歴史上の事象を判断したり、また、歴史上の人物を評価する際は、その当時の価値基準を考慮した上で行なう必要があり、武士社会で行なわれた出来事について、現代の価値観を当てはめて、その良し・悪しの判断を行うことに余り意味があるとは思えないからです。
西郷が家人売買を容認していたからと言って、「西郷は人権を尊重しない人物だから評価は低い」とはならないと思うからです。

大きく話がそれましたが、薩英戦争というものは、西郷が国政への復帰を果たす際の一種の起爆剤となったとも言えます。
イギリス艦隊が襲来し、薩摩藩に危機が訪れたことは、西郷の帰藩への意欲を大いに刺激し、促進したと考えられるからです。

そんな西郷の心境の変化と決心については、彼が文久3(1863)年9月26日付けで、鹿児島の米良助右衛門に宛てた書簡の中に見て取れます。
該当する部分を抜粋すると、以下のとおりです。

「獄中に罷り在り候て、入らざる事と思召しも計り難く御座候得共、御存じの通り順聖公御鴻恩戴き奉り居り候得ば、御国家の御災難只々傍観仕り候いわれこれなく、憤怒脳を焦がし候事に御座候。弥危急の場合罷り成り候わば、如何にもいたし、小宮山の跡を追って赤心を顕わし申すべきと、是のみ相考え候事に御座候」と書いており(『西郷隆盛全集』一)

つまり、大意はこういうことです。

「自分は獄中にあるが、斉彬公から大恩を受けた身であるので、国家の難事を傍観すべきではなく、憤怒に身を焦している。いよいよ藩に危急存亡の時が訪れれば、武田家に勘当されながらも、武田家滅亡の戦いに参加した小宮山内膳正のように、自らの赤心を示すべきだと、それのみを考えております」

流刑によって失意のどん底にあった西郷の気持ちを浮上させ、そして再生へと導いていったのは、過酷な獄中生活の中で辿り着いた敬天愛人の思想と斉彬への思い、そして薩英戦争という未曾有の国難にあったと言えるのではないでしょうか。


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【2018/07/02 17:40】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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