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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます     (大河ドラマ『西郷どん』の解説も是非お読みください)
今回の見どころは、タイトル通り「薩長同盟」でしたが、前回の龍馬と同じく旧態依然の通説通りの描き方なのかと思いきや、ある意味スゴいストーリーでした。
史実では同行していないはずの伊藤俊輔(のちの博文)が木戸と共に大坂に入り、当時居るはずもない龍馬がそれを出迎え、さらに同盟がその翌日に結ばれるという、今までの薩長同盟観を覆す内容だったと思います。

また、薩摩藩と長州藩の英国留学生が一緒に写った写真が同盟締結の契機になるという創作は含まれていましたが、やはりその中心に居たのは西郷であり、西郷が頭を下げる、つまり西郷の決断によって薩長は固く結ばれることになったかのように描かれていましたが、近年薩長同盟において西郷が果たした役割や立ち位置は大きく変化していると言えます。
近年の研究では、家老の小松帯刀の役割が重視されており、最終的な同盟締結の判断は小松が下したものとされているからです。

ただ、西郷が薩長同盟締結に何の役割も果たしていなかったのかと言うと、そうでは無いでしょう。
確かに、小松は当時の薩摩藩の代表であり、実質的な責任者でありましたが、小松が同盟締結を了承する過程において、西郷や大久保が果たした役割は大きかったと思うからです。
西郷が主役の大河ドラマですので仕方ありませんが、安易な形で西郷をヒーロー化するのではなく、もう少し工夫を凝らして、これまでにない薩長同盟における西郷の役割や姿を描いて欲しかったところです。

(薩長同盟)
薩長同盟は、幕末史における一大事件であり、そして薩長が倒幕へと向かう過程において、大変重要な出来事であったと言えますが、その内容や評価については、実は現在も定まっていない状況にあると言えます。
薩長同盟が「武力倒幕を目的に締結されたものではない」ということは、近年の研究で明らかになってきていますが、薩長同盟を両藩の軍事同盟、攻守同盟とは位置付けないとする説や長州藩が薩摩藩に対して一方的に求めた、いわゆる薩摩藩の片務的な義務を記しただけの盟約であったとする説など、様々な学説が呈示されています。

そもそも薩長同盟なる呼称が適切かどうかさえも議論の分かれるところではありますが(本稿では一般的な同盟を使用します)、このように同盟の性格や評価が今なお定まっていない原因は、薩長同盟に関連する史料不足にあると言えます。
特に、薩長同盟とは言いながら、当事者である薩摩藩と長州藩が互いに交わした協定書や合意文書はこの世に存在していません。
これは幕末史に興味を持たれている方であれば周知の事実ですが、意外とご存じない方も多いのではないでしょうか?

今回の『西郷どん』では、木戸が同盟の条件を記した文書を持参し、それに薩摩側が一文付け加える形で合意文書が作成される様子が描かれていましたが、あれはフィクションです。
薩長同盟の内容を現代に唯一伝えている史料は、ただ一つと言っても過言ではありません。
慶応2(1866)年1月23日付けで、長州藩の木戸孝允(当時は貫治)が土佐脱藩浪士の坂本龍馬に宛てた書簡です。
これはとても有名なものですが、木戸が京で結ばれた六ヶ条に及ぶ薩長同盟の内容を書き記した書簡を龍馬に送り、その内容に保証を求めたものです。
木戸が同書簡の中で記した六ヶ条は、次のとおりです。(句読点等や現代語訳は筆者が挿入、作成)


一、戦と相成候時は直様二千余之兵を急速差登し、只今在京之兵と合し、浪華へも千程は差置、京坂両處を相固め候事。(幕府と戦になった場合は、直ぐさま二千名の兵を上京させ、現在の在京兵力と合わせて、大坂へも千名程度を置き、京坂両所を固めること)

一、戦自然も我勝利と相成候気鋒有之候とき、其節朝廷へ申上訖度盡力之次第有之候との事。(幕府との戦で長州藩が勝利した場合は、薩摩藩は朝廷へ申し上げて尽力すること)

一、萬一戦負色に有之候とも一年や半年に決而壊滅致し候と申事は無之事に付、其間には必ず盡力之次第訖度有之候との事。(幕府との戦において、万が一敗色濃厚となった場合でも、一年や半年は持ちこたえられるので、その間、必ず薩摩藩は尽力すること)

一、是なりにて幕兵東帰せしときは、訖度朝廷へ申上直様冤罪は従朝廷御免に相成候都合に訖度盡力との事。(幕府兵が江戸に帰還した時は、朝廷に対して直ぐさま申し上げ、長州藩の冤罪が晴れるように尽力すること)

一、兵士をも上國之上、橋會桑等も如只今次第に而勿體なくも朝廷を擁し奉り正義を抗み周旋盡力之道を相遮り候ときは、終に及決戦候外無之との事。(兵士を上京させたうえ、一橋・會津・桑名が現状のように朝廷を擁立し、正義に抵抗して、周旋のための尽力を遮ろうとする時は、決戦に及ぶほか無いこと)

一、冤罪も御免之上は双方誠心を以相合し、皇國之御為に砕身盡力仕候事は不及申、いづれ之道にしても今日より双方皇國之御為、皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を盡し、訖度盡力可仕との事。(長州藩の冤罪が晴れた暁には、薩長双方は誠心をもって協力し、皇国のために粉骨砕身、尽力することは言うに及ばず、いずれの場合も本日より薩長双方は、皇国のため皇威が輝きを取り戻せることを目的として、誠心を尽くして尽力すること)(『木戸孝允文書』二)



そして、龍馬は木戸からの保証依頼を受け、同書簡の裏側に朱書きで、

「表に御記被成候六條は小西両氏及び老兄龍等も御同席にて議論せし所にて毛も相違無之候(表に記載された六ヶ条は、小松、西郷の両氏と老兄(木戸)と自分が同席して議論した内容に寸分も間違いありません)」

と書き記しました。

これが有名な「龍馬の裏書き」ですが、少し余談を挟むと、この書簡については、よく資料館等で複製を見かけることはありますが、その実物についてはなかなか見ることが出来ませんでした。
しかしながら、平成15(2003)年10月、鹿児島県歴史資料センター黎明館で開催された特別展「激動の明治維新」において、複製ではない実物が展示され、私もその時初めてその書簡を目にしましたが、現在も龍馬が書いた朱色の裏書きの文字が鮮やかに残っており、感動したのを覚えています。

閑話休題。
以上のように、薩長同盟の内容を記した史料は、龍馬宛て木戸書簡しか存在していないと言えますが、一方薩長同盟締結の経緯について記された史料と言えば、木戸の回顧録である「薩長両藩盟約に關する自叙」が最も有名です(『木戸孝允文書』八)。
この木戸の回顧録内に、いわゆるこれまで通説化している話、「薩摩と同盟を結ぶために、はるばる長州から入京した木戸は、薩摩藩側から手厚い饗応を受けたが、その滞在中、一向に同盟締結の話に進展しなかったため、落胆して帰国を決意したが、突如やって来た龍馬が薩長両藩を説得したことにより、話は大きく進展し、最終的に同盟締結に至った」という話が含まれています。
この木戸の回顧録を元にした話が長らく通説化され、さらに薩長同盟締結における龍馬の役割が大きくクローズアップされる原因ともなりました。

しかしながら、現実的に考えると、龍馬が突然登場してきたことによって、政治的そして軍事的な内容をも含んだ同盟が一転して締結に至る、というような単純な形で話が進行するとは到底思えません。
木戸は前出の回顧録の中で、

「在留中、大久保一蔵、小松帯刀、桂右衛門其外相面會するもの数十人、懇志甚厚而て在留殆十数日而て未た兩藩の間に関係するの談に及ばず。余空く在留するを厭ひ、一日相辞て去らんと欲す」

と、京に滞在中、大久保、小松、桂久武といった薩摩藩要人と面会したが、両藩に関係する話、つまり同盟締結の話は出なかったと述懐していますが、同時期に同じく京に滞在していた薩摩藩家老・桂久武の慶応2(1866)年1月18日の日記には、

「八ッ時分より小松家江、此日長の木戸江ゆるゆる取会度申入置候付、参候様にとの事故参候処、皆々大かね時分被参候、伊勢殿・西郷・大久保・吉井・奈良原也、深更迄相咄、国事段々咄合候」(『桂久武日記』鹿児島県史料集26)

との記述があり、小松邸(いわゆる近衛家別邸の御花畑屋敷)において、薩摩藩家老の島津伊勢や西郷、大久保、吉井、奈良原といった面々が木戸と会い、夜ふけまで国事について話し合ったと書かれていますので、木戸の回顧録は額面通りに受け取ることは出来ず、多少の誇張が含まれていると考えられます。
国事について話しただけで、両藩の同盟に関しての話は出なかったとの説もありますが、それは却って不自然でしょう。

ただ、ではこの1月18日から19日の深夜にかけて行われた木戸と薩摩藩要人との会談において、薩長同盟に関する話がまとまったのかと言うと、実際はそうでは無いと私は考えています。
両藩の話し合いは、相当揉めたことが予測できます。
同じく桂久武の日記を見ると、その翌日の1月20日の条には、

「此晩長の木戸別盃致度候間、可参小松家より承候得共、不気色放相断候」

とあり、この日の晩に木戸の送別会が催されたとありますが、これを前出の木戸の回顧録と比較して考えると、木戸は「余空く在留するを厭ひ、一日相辞て去らんと欲す」と述懐していることから、木戸が京を去ることを決意したのが、薩長両藩の交渉が上手く運ばなかったことが原因だったと仮定すると、20日の送別会の段階では、まだ両藩の同盟が結ばれていなかったことを暗に意味しているように考えられます。

薩長同盟の締結日に関しては諸説ありますが、以上のように考えると、同盟締結日は、やはり木戸の送別会が開かれた1月20日以降が自然であると言え、また、木戸は翌21日に京を出発していることから、1月21日が最も自然であるように思います。
また、『坂本龍馬関係文書』二所収の「三吉慎蔵日記抄」の1月23日の条には、

「過ル廿一日桂小五郎西郷トノ談判 薩長兩藩和解シテ王政復古ヲ企圖スルコト 約決ノ次第委細坂本氏ヨリ聞取」

とあり、当時龍馬と行動を共にしていた長府藩士の三吉慎蔵は、龍馬から21日に桂(木戸)と西郷が談判し、約決(合意)を得たとの話を聞いたと書いています。
以上のように考えると、薩長同盟というものは、木戸が京を出発するギリギリの段階で結ばれた可能性が高いと言えるのではないでしょうか。

では、なぜ薩長同盟が木戸の出京直前という慌ただしい最中に、急転直下の末で結ばれることになったのかを考えると、これはあくまでも私見ですが、20日から21日にかけて、次の三つの過程を経たからではないかと考えています。

一、龍馬の入京。

二、西郷と大久保の小松説得。

三、小松の最終決断。


まず、一つ目ですが、龍馬のメモ書きである「坂本龍馬手帳摘要」(『坂本龍馬関係文書』二)によると、龍馬が京の二本松薩摩藩邸に入ったのは1月20日のことです。
龍馬は「廿日 二本松」としか書いていませんが、前出の「三吉慎蔵日記」の同日の条には、「坂本氏及ヒ細川寺内等先選テ入京シ」とあるので間違いないでしょう。

ここからはあくまで推測ですが、二本松の薩摩藩邸に入った龍馬は、おそらくその足でまず西郷と会い、その後に当時御花畑屋敷に滞在していた木戸の元を訪ねたことでしょう。
この時、龍馬は両者から、前述した18日から19日の深夜にかけて行われた薩長両藩の会談の内容や結果を聞いたものと思われます。
薩長両藩の話し合いが平行線を辿ったことを知った龍馬は、ドラマや小説で描かれているように、薩長和解について、西郷や木戸に対して熱弁をふるったかもしれません。

ただ、この龍馬の登場により、同盟話が進展するほど、現実は簡単なものではありません。
なぜなら、当時の薩長両藩は、同盟を結ぶ条件面で折り合いが付いていない状態であったからです。
歴史作家の桐野作人先生は、「締結150年 再考 薩長同盟:長州復権をめざす秘密軍事同盟」(『歴史群像』、2016年6月)の中で、『吉川経幹周旋記』の記述を元にして、

「薩摩藩では久光の「抗幕方針=長州寛典論(長州の処分受諾による戦争回避路線)」の立場から、薩長会談では長州藩に朝幕による長州処分を受託させたうえで、長州赦免を勝ち取るという幕長開戦回避の方針を落しどころに考えていたのではないか」

とし、薩摩藩側が久光の考える基本方針に沿って木戸との交渉を行ったが、

「木戸が「同意の色を見せず候」と、これ以上の処分は絶対受け容れないの一点張りだった」

とし、当時薩長間の交渉が難航したのではないかと推測されています。
このように薩摩藩と長州藩の主張が互いに対立していた状態であったとすれば、一介の浪人であった龍馬の登場如何によって、急に両藩の同盟話が進展するはずがありません。
通説にあるように、薩長両藩がお互いの面子を気にして、なかなか交渉に入ることが出来なかったというのであればいざ知らず、実際にはもっとシビアな問題に直面していたため、龍馬の登場によって話が急転するほど単純なものではなかったのです。

(西郷の果たした役割とは?)
1月18日から19日の深夜にかけて、御花畑屋敷で行われた薩長両藩の会談が物別れに終わったのは、薩摩藩側の出席者に原因の一端があったのではないか、と私は推測しています。

前述のとおり、この会談には、家老の小松、島津伊勢、桂の三人、それに西郷、大久保、吉井、奈良原という面々が加わっていましたが、この中の奈良原幸五郎(のちの繁)という人物は、久光の意向を遵奉し、忠実に実行しようとする家臣であり、後年、倒幕のための挙兵を巡っては、西郷や大久保と意見が対立した人物であったことに注目すべきです。
彼が同席していた以上、薩摩藩側が木戸に対して、交渉をまとめるために久光の方針を譲歩できるような状況になかったのではないかと私は推測しています。

既に、桐野先生の指摘を引用しましたが、薩摩藩側は久光の方針に従い、長州藩が藩主父子の蟄居等の長州処分を受け入れることによって、第二次長州征討を回避しようとする方針でしたが、一方の木戸はと言うと、長州藩はいかなる処分も受け入れるつもりは無く、幕府との対決もやむ無しという主張に固守していました。
木戸としては長州藩を代表して上京してきている以上、譲歩するつもりは全く無かったと思います。なぜなら、薩摩側に譲歩した条件を長州に持って帰れば、長州藩内の諸隊から突き上げを食う可能性があったからです。

木戸には、諸隊から御楯隊の品川弥二郎、奇兵隊の三好軍太郎、遊撃隊の早川渉らが同行していましたが、このように諸隊の幹部の同行を望んだのは木戸自身でした。
元々、木戸が上京に前向きでなかったことは『防長回天史』の記述によっても明らかですが、慶応元(1865)年12月24日付けで、長州藩の井上聞多(のちの馨)が木戸に宛てた書簡には、木戸が希望していた奇兵隊・交野十郎の同行については奇兵隊から断られ、三好なら出せると言われたことが書かれてあり、井上は、

「御望之通りに不参嘸々御不平と相考へ候得ども此人にて御折合可被成候」

と、木戸に対して三好で折り合いを付けてくれるよう理解を求めています(『防長回天史』)。

木戸が上京に際して諸隊幹部の同行を望んだのは、薩摩藩との交渉において、保険の意味合いがあったに違いありません。
つまり、薩摩と提携するにしても、それは木戸の独断で行ったものではなく、諸隊の幹部もその内容に同意したという証拠を残しておきたかったからだということです。
元々長州藩内の諸隊は、薩摩との提携に前向きではありませんでしたから、木戸としては神経質にならざるを得なかったと言えるのではないでしょうか。

以上のような理由から、両藩は条件面で折り合いが付かず、交渉をまとめるには薩摩側が譲歩するしか途は無かったと言えますが、薩摩藩側には奈良原を代表とした保守派が居る状況でしたので、それはままならなかったと思います。
薩摩側の責任者であった小松は、何よりも人の和を大切にする人物です。薩摩側に反対者が居る以上、敢えて長州側に譲歩する必要は無いと考えたのも無理ないことであったように思います。

長州藩側の史料である『忠正公勤王事積』には、次のような興味深い逸話が掲載されています。

「桂は始めて小松、西郷杯と會見致したときに、是れまで薩州と長州との關係は斯様々々であったが、長州の意思は此の通りであると云ふて、従來の行懸りを悉しく演説すると、西郷は初めから終りまで謹聴して、如何にも御尤もでございますと言ふた相であります。嘗て品川子爵から聞いたことがありますが、己れを薩人にすると、木戸の演説には十分突込む所がある、それを如何にも御尤でございますと言ふて、跼んだ儘何も言はなかったのは、流石西郷の大きい所であると話されました」

これは当時木戸と共に上京していた品川弥二郎の証言であり、西郷の度量の大きさを示す逸話として諸書によく引用されていますが、裏を返せば、西郷としては、薩摩藩側の方針と木戸の主張が食い違い、平行線を辿っている以上、「ごもっともでございます」と頷くよりほか無かったように思います。

このように木戸の態度が頑なであったため、薩長両藩の交渉は決裂寸前にまで追い込まれたのではないでしょうか。
木戸は薩摩藩との考え方に大きな溝があることを悟り、帰国すると言いだしたからです。
しかし、1月20日に龍馬が上京してきたことによって、西郷の考えに大きな変化をもたらしたように思います。
あくまでも推測ですが、西郷は龍馬の話を受けて、薩摩藩側が多少譲歩してでも長州藩との提携を確認しておく必要があると考えたのではないかということです。
それが二つ目の「西郷と大久保の小松説得」に繋がるわけですが、薩長両藩の和解と提携は、近い将来必ず必要となることは誰しも認識していましたので、西郷は木戸の主張を取り入れて、薩摩藩側が譲歩するためには、実質的な責任者である小松を説得する必要があると考え、大久保に相談をもちかけたのではないでしょうか。

その傍証はあります。
木戸の送別会が催された1月20日の桂の日記を見ると、「大久保氏ニて西郷江逢候付相頼置候也」との文言があります。
これは桂が体調不良で木戸の送別会を欠席しようと考えていたが、大久保の邸宅で西郷と会ったので、欠席する旨を言付けておいたという意味ですが、この記述からも分かるように、20日に西郷が大久保を訪ねて来ていることが分かります。
これはあくまでも推測に過ぎませんが、この西郷と大久保の談合において、二人はこのまま木戸を手ぶらで長州に帰すべきではないと意見が一致し、小松に対して、木戸が主張する内容を含んだ盟約が結べないか説得を試みようとしたのではないかと思います。
ここでは詳しく言及しませんが、元々西郷は木戸の主張に理解を示していたからです。

そして、三つ目の「小松の最終決断」の過程に移ります。
おそらく西郷と大久保は、木戸が出発する21日までの間に、小松に対して自分たちの考えを説明し、最終的な判断を小松に委ねたのではないでしょうか。
木戸の主張を取り入れた盟約を結ぶことは、ある意味久光の方針とは少し異なる形となりますので、このような大きな判断を当時の西郷や大久保が下せるわけはありません。
冒頭にも記しましたが、当時の薩摩藩の代表は小松であり、彼が実質的な責任者であったからです。
今回の『西郷どん』で描かれたように、西郷が頭を下げて同盟が締結されるような簡単な話ではなく、藩の方針を動かすには、小松を説得するしか手はないのです。

そして、西郷や大久保から説明を受けた小松は、最終的に同盟締結に関してGOサインを出したのではないでしょうか。
小松としては、木戸の主張を聞き入れても、文書に残さない形にさえすれば、久光に対しては十分説明可能だと判断したのかもしれません。
また、大久保がこの後すぐに帰国することになっていましたから、大久保から久光に対し、上手く趣旨を説明するよう言い含めたやもしれません。

こうして、1月21日、小松と西郷の二人と木戸と龍馬が同席のうえ、御花畑屋敷において、六ヶ条の薩長同盟が結ばれました。
小松と西郷が帰国する直前の木戸を呼び止めた、というドラマチックなことは無かったかもしれませんが、いずれにしても木戸が帰る直前に最後の話し合いが持たれ、お互いに口頭で了承に至ったのが「薩長同盟」であったと考えるのが、最も自然に理解できるような気がします。

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近衛家別邸 御花畑御屋敷跡(京都市)
※矢部宮肥後守さんご提供

また、このような別れ際の短時間で話がまとまった提携であったこと、さらに薩摩藩側が文書に残さない形を希望したことから、薩長の合意文書が作成されなかったのではないかと推測します。
このような状況での同盟締結であったことから、木戸は後日それが履行されるかどうか不安に思い(この辺りが神経質な木戸らしいと思います)、また、藩内への報告用として、同盟締結の場に立ち会った龍馬に対し、裏書きを求める書簡を書き送ったという風に考えれば、一定の筋は通るのでは無いかと思います。

そして、前述のとおり、龍馬はその木戸の依頼に対して、「表に御記被成候六條は小西両氏及び老兄龍等も御同席にて議論せし所にて毛も相違無之候(表に記載された六ヶ条は、小松、西郷の両氏と老兄(木戸)と自分が同席して議論した内容に寸分も間違いありません)」と裏書きしました。
ただ一点、龍馬の裏書きを見て不思議に思うのは、薩長同盟締結の際に同席した薩摩藩関係者の中に大久保が含まれていないことです。
大久保が帰国準備のために多忙であったからだと理解できなくもないですが、想像を膨らませるならば、大久保の役回りは、奈良原ら藩内保守派の押さえに動いていたからだと考えられなくもありません。
今回の『西郷どん』で描かれたような、会見の場に藩士たちが雪崩れ込んでくるようなことは当然無かったでしょうが、大久保が説得役を買って出た可能性はあると思います。

また、もっと想像を膨らませるならば、この同盟締結が久光の不興を買った場合を想定して、西郷と大久保が話し合い、どちらかが生き残れるようにしたのかもしれません。
これはあくまでも想像ですが、寺田屋事件前の二人のやり取りの前例もありますから、あり得ない話では無いと思います。

後半はかなり推測を挟んだ話が多くなりましたが、以上のように、薩長同盟を結ぶか否かのイニシアチブは、西郷や大久保にあったのではなく、最終的には小松が握っていたことは間違いありません。
薩長同盟における西郷は、薩摩藩側の代表者という立場ではなく、あくまでも上京してきた長州藩士たちの応接役に過ぎず、西郷が果たした役割とは、木戸と小松の意見を最終調整したことにあったのではないかと思います。


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【2018/08/27 18:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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ukoji
大河は朝ドラ感覚で見てます

西郷と大久保は実力者ですけど
この時の京都での薩摩の代表者は小松でしょうし
小松もかなり優秀な人物ですから
藩どうしの交渉となると小松を軸とするのが道理でしょうね

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残暑お見舞い申し上げます。
暦の上ではもう秋ですが、連日暑い日が続いていますね。
先日、ふと思い立って、国立国会図書館のデジタルコレクションで、明治時代の鹿児島の気温を調べてみました。
鹿児島測候所『明治28年 鹿児島気象年報』によると、鹿児島市の7月の平均気温は27.2度、最高気温は33.2度で、8月の平均気温は29度、最高気温は34.9度でした。
気象庁発表の今年の鹿児島市の7月の平均気温は28.6度、最高気温は35.7度でしたから、だいたい120年前から1~2度上昇しているという感じでしょうか。

気温の上昇と共にではないですが、大河ドラマ『西郷どん』も熱い展開になってきました。
ただ、今回の『西郷どん』を見ていて、そろそろ坂本龍馬の描き方を変える時期に来ているのではないかと強く感じました。
龍馬も西郷と同じく、虚像部分が肥大化し、独り歩きしている面がとても多い人物だと言えます。
例えば、薩長同盟一つを取っても、今回の『西郷どん』で描かれたような、龍馬が自主的な動きで両藩の仲を取り持とうとしたのではなく、実際は薩摩藩の指示のもとで活動していたことは最新の研究でも明らかになってきています。
龍馬に関しても、そろそろ巨人扱いするのではなく、身の丈に合った等身大の龍馬像とでも言うのでしょうか、実像に近い龍馬像を描いても良い時期に来ているのではないかと感じています。
もし、『西郷どん』でそれをやったら、画期的なことだったのでしょうが、相変わらずの龍馬像で描かれていましたので、『西郷どん』ならではの独自色が欲しかったところです。

(坂本龍馬の薩摩入り)
今回の『西郷どん』は、坂本龍馬一色でした。
「海舟日記」(『勝海舟全集』九)によると、元治元(1864)年10月22日の条に、「御城代より、御達有之、江戸表にて御用有之候間、早々歸府可致旨、御達、大隅守より届く」とあり、当時幕府の軍艦奉行を務めていた勝海舟は、江戸への召喚命令を受け取りました。
この勝の江戸帰還により、当時勝が主宰していた神戸海軍塾も閉鎖を余儀なくされたことから、行き場を失った龍馬ら塾生達は、薩摩藩に庇護されることになります。
今回のドラマでは、海軍操練所閉鎖により云々とのナレーションが入っていましたが、それは勝の海軍塾と混同していると言えます。

よく諸書に引用されていますが、元治元(1864)年11月26日付けで、小松帯刀が大久保に宛てた書簡には、

「神戸勝方え罷居候土州人異船借用いたし航海之企有之、坂元竜馬と申人関東え罷下借用之都合いたし候処能ク談判も相付候よし右ニ付同長藩高松太郎と申人国元より罷帰候様申来候由、然ル処当分土佐国政向甚厳敷不法之取扱有之罷帰候へは則命は絶候よし、右の船参り候得は則乗込ニ相成候間夫迄潜居之相談承り余計之事なから右辺浪人躰之者ヲ以航海之手先ニ召仕候法は可宜と西郷杯滞京中談判もいたし置候間大坂御屋敷え内々潜メ置申候」(『大久保利通関係文書』三)

とあり、薩摩藩が龍馬らの身柄を引き受けた事情が記されています。
龍馬を中心とした土佐人は、当時脱藩者であったため、土佐へ帰国した場合、厳罰に処せられる可能性が高かったことから、勝はそのことを心配し、薩摩藩に彼らの庇護を頼んだのです。

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坂本龍馬誕生地(高知市)

今回の『西郷どん』でも描かれていたように、とかく龍馬は西郷との関係にスポットが当たりがちですが、当時は西郷よりも小松の方が、より龍馬と濃厚に接していたように思います。
前出の龍馬たちを引き受けた事情を記した小松の書簡に、「航海の手先に召しつかまつり候法は宜しかるべき」とあることから分かりますが、小松は龍馬ら海軍塾の塾生達を航海用の船夫として使おうと考えていました。
それは当時の小松が海軍の充実に執心していたからです。

前出の小松書簡が書かれる二週間前、元治元(1864)年11月12日付けで同じく大久保に宛てた小松の書簡にも、「先便ニも申上候通海軍方等之義宜敷御執計可被下候」との言葉があるほか、その一週間後の11月19日、小松は大久保に対して、薩摩藩内で海軍を振興するために航海演習の必要性を説いています。
例えば、同書簡には、

「一先航海之稽古トシテ士官ヨリ水夫マテ御人撰之上一船へ被召乗琉球迄航海御試相成候ハヽ如何可有御座哉」(『大久保利通関係文書』三)

との言葉があり、小松は士官や水夫を選抜し、琉球(現在の沖縄)まで航海演習してはどうかとの案を大久保に対して示しています。

また、小松は長州征討が済まないことには、この演習計画は実現出来ないとしながらも、実際の航海演習には帆船が良いらしいので、「平運丸は帆船だが、入・出港用に蒸気機関の仕掛けもある」として、具体的に演習に適した船名まで挙げて提案しています。
『薩藩海軍史』中によると、平運丸は元治元年2月1日に薩摩藩が購入した旧名・スコットランドと呼ばれた内輪式の蒸気船です。
「小松帯刀傳」(『小松帯刀傳、薩藩小松帯刀履歴、小松公之記事』鹿児島県史料集22)によれば、小松は文久2(1862)年12月24日に「蒸汽船掛」に任命されていますので、蒸気船に関する知識は元々豊富だったのでしょう。
小松が龍馬ら勝の神戸海軍塾に在籍していた塾生達を積極的に受け入れようとしたのは、彼らの持つ操練術に関する知識を生かし、薩摩藩の航海演習に携わらせようと考えていたからだと言えます。

こうして龍馬ら塾生達は、薩摩藩の庇護を受ける身となりました。
今回のドラマでは、そんな龍馬が薩摩を訪れて、西郷家の世話になり、挙句の果てには久光とも拝謁していましたが、龍馬が薩摩を訪れたのは事実です。
龍馬の薩摩入りと言えば、妻のお龍を伴っての日本で最初の新婚旅行と呼ばれるものが最も有名ですが、それは二回目のことであり、この最初の薩摩入りは、神戸海軍塾の塾生達を伴ってのものでした。

慶応元(1865)年4月25日、小松、西郷、そして龍馬ら塾生達は、ともに薩摩藩船・胡蝶丸に乗り込み、大坂を出港後、同年5月1日に鹿児島に到着しました。
これは龍馬のメモ書きである「坂本龍馬手帳摘要」(『坂本龍馬関係文書』二)に、

四月廿五日坂ヲ發ス
五月朔麑府ニ至ル


とあることで分かります。

また、同「坂本龍馬手帳摘要」には、「五月十六日鹿府ヲ發ス時午ヲ過ク」とあり、龍馬の鹿児島城下滞在は合計で16日間だったことが分かりますが、龍馬がこの間鹿児島の町でどのように過ごしていたのかを裏付ける史料はありません。
もちろん、龍馬が久光に拝謁したという事実もありませんが、ただ一つだけ、鹿児島に滞在中の龍馬が西郷家に宿泊した際、西郷の妻・イトが古い褌(ふんどし)を龍馬に渡したことから、西郷が烈火の如く怒ったという、有名なエピソードが残されています。

この逸話の典拠は、土佐維新史学の碩学であった平尾道雄氏の著書『坂本龍馬海援隊始末記』でしょう。
同書には、

 ある日、龍馬は西郷夫人(糸子)にむかって「いちばん古いふんどしを下さらぬか」とたのんだ。よほど身のまわりの品に不自由していたらしい。そこで西郷夫人は隆盛の使いすてのふんどしを請われるままに与え、西郷が帰宅したとき、これを報告すると目から火が出るようにしかられた。
「お国のために命を捨てようという人だと知らないか。さっそくいちばん新しいのを代えて上げろ」
 西郷はめったに怒色を見せない人だったが、あんなに怒ったのは一度だけだった。


とあり、平尾氏はこの逸話を祖母が糸子(イト)の妹にあたる人物から報告を受けたとしています。

また、この話の他にも、『維新土佐勤王史』には次のような逸話も紹介されています。

「五月朔日を以て漸く鹿兒島に着し、旅亭にて碁を圍み居たるに、彼の頼山陽が衣は骭に至り袖は腕に至ると謡ひし、城下の兵兒組は、坂本等の來れるを聞き、群り來りて「アレ見い浪人めが碁を打ち居る」と五月蠅くも覗き込むを、坂本は「浪人でも碁を打つが何か」と一喝しければ、皆哄と笑ひて立ち去りたり」

この碁にまつわる逸話も『坂本龍馬海援隊始末記』の中で紹介されており、なかなか面白いエピソードではありますが、前出の褌の逸話と言い、どこまでこれらの話を信じて良いのか正直よく分かりません。

その後の龍馬は、5月16日に鹿児島を出発し、その一週間後の5月23日には筑前の太宰府に入っています。これは前出の「坂本龍馬手帳摘要」が典拠ですが、その後、龍馬は山口に入り、6月6日には桂小五郎(以下、木戸で統一します)と会っています。
これは薩長融和に向けた動きの一つだと言えますが、ただ、今回『西郷どん』で描かれたように、龍馬は薩長同盟をまとめるため、自主的に山口に向かい、木戸に会いに行ったと言うよりも、実際のところ、龍馬は小松や西郷といった薩摩藩要人の指示を受け、山口に向かったと解釈すべきです。
町田明広先生は論文「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(神田外語大学日本研究所紀要第9号、2017年)の中で、

「小松らは坂本に対し、薩摩藩が抗幕体制を採るにあたって、長州藩をパートナーにする意思があることを申し含めた上で、長州藩への情勢探索に派遣したと考える」

と論じられていますが、私も全くの同感です。
薩長同盟における龍馬の活動は、薩摩藩の指示、そして庇護のもとで行われたものであったことを改めて認識しておかなければなりません。
龍馬が自由奔放に薩摩と長州を行き来して、同盟締結に奔走したと言うよりも、龍馬の背後には薩摩藩という大きな存在があったればこそ、木戸は龍馬のことを信頼し、そしてその周旋に期待感を持ったと言えるのです。

(西郷と大久保の関係)
薩長同盟関連で言えば、前回の『西郷どん』あたりから、西郷と大久保の意見が衝突するシーンがしばしば描かれています。
今回の『西郷どん』においても、西郷の「長州と組むしかなか」という意見に対して、大久保はそれに反対し、意見が対立するシーンがありました。
これはおそらく後の龍馬暗殺や征韓論での対立へと繋げるための伏線だと思われますが、このように、殊更に西郷と大久保の対立を煽る描き方に、私は賛同できません。

西郷と大久保の対立を早い段階から描くやり方は昔からあります。
そのことで後年の二人の対立の萌芽にしようとの目論みなのでしょうが、私から言わせれば、そのような描き方は最早古いと言えます。
歴史ドラマですから、どうしても善・悪の二項対立やライバル関係にスポットを当てざるを得ないのは理解できますが、西郷と大久保の関係は、そのような単純な視点で捉えられるものではありません。
特に、拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』でも書きましたが、二人を対立させることによって、両者が竹馬の友で無かったとか、元々余り仲が良くなかったなどと言われる傾向にありますが、現代における友情の概念をもってして、二人の関係を語るのは、はっきり言ってナンセンスです。

また、西郷と大久保は、よく「陽と陰」という言葉で表現されますが、実際そんなことはありません。
二人は藩の統制下の元で、藩から命じられた役目をそれぞれ果たしていたに過ぎず、どちらが陰謀担当であったかなどという役割分担があったわけではありません。
西郷が表舞台を歩き、そして大久保が陰で謀略を尽して支える、などという単純な棲み分けが現実的にあるわけもありません。それは小説やドラマの域を出ないものだと言えます。

特に、今『西郷どん』で描かれている慶応期の二人は、まさに志を一つにして、一致団結し、ともに支えあって政治活動を行っていた時期であったと言え、二人の間に大きな意見の相違は見られません。
歴史家の徳富蘇峰は、慶応期の二人のことを著書『近世日本国民史』の中で次のように評しています。

「西郷、大久保の両雄が、中心より相ひ合體して、協同作業に従事したるは、特に此時を以て尤も然りとする。而して上には寛宏の長者小松帯刀あり、其の儕輩には公平温良なる吉井幸輔の徒あり。正に是れ薩藩に取りては、群雄合力、舞臺出色の一時であった」(『近世日本国民史』五十七 幕長交戦)

まさに卓見です。
西郷や大久保だけでなく、小松や吉井の存在に着目しているあたり、蘇峰がいかに巨大な歴史家であったのかを思い知らされるほどです。
前出の龍馬だけではなく、西郷と大久保の描き方に関しても、これまでのライバル関係という描き方から、そろそろ変える時期に来ているのではないかと感じます。

(西郷のドタキャンはあったのか?)
最後に、ドラマ後半で描かれた「西郷のドタキャン」について、簡単に書いておきたいと思います。
今回の『西郷どん』では、龍馬と同じく土佐脱藩浪士の中岡慎太郎が西郷のところにやって来て、龍馬が木戸との会談をセッティングしているので、是非下関に来てもらいたいと頼み、それを了承したはずの西郷の元に、大久保から「至急上京して欲しい」との書簡が届いたことから、西郷が下関で木戸と会う約束を反故にした、つまり、すっぽかしたということになっていました。

この件について、まずは通説から紹介すると、『鹿児島県史』三には次のようにあります。

「中岡は岩下と共に小倉より鹿児島に直航し、閏五月六日着、西郷に木戸等長州藩首脳との會見を勧説した。西郷も既に薩長協和の趣旨に同意していたので、中岡の慫慂を容れ、上京の途中馬關に寄航すべきを約し、中岡を伴ひ、閏五月十五日海路鹿児島を發し、十八日佐賀關に寄航した。然るに同地に於いて大久保より至急上京すべしとの報に接したので、中岡の勧説に従はず、馬關寄航を中止して上國に直航したのである。よって中岡は空しく単身下船して下關に至り、木戸・坂本等に事情を告げた。ここに於いて木戸等長州有志側の心中頗る平かならず、薩長提携の事、将に成らんとして一頓挫を來したのである」

このように通説では、西郷は下関で木戸と会う約束をしておきながらも、その予定を急遽取り止めて上京したことによって、薩長提携が遅れることになったとされています。
今回の『西郷どん』では、下関へ出発する前に、大久保の書簡が西郷の元に届いていましたが、『鹿児島県史』三にあるとおり、通説では豊後(今の大分県)の佐賀関での出来事であったとされています。

ただ、この「西郷のドタキャン」については、大きな疑問点があります。
そもそも「西郷は下関で木戸と会う約束を本当にしていたのか?」という点です。
まず、薩摩藩側から言うと、西郷が木戸と下関で会う約束をしていたことを裏付ける一次史料は存在しません。
また、もう一点、西郷が下関での会談をキャンセルする原因になったとされる大久保の西郷宛て書簡についても、それに該当するようなものは、今のところ見つかっていません。
つまり、薩摩藩側からの史料からのみ言えば、西郷が木戸と会談する予定であったことを裏付けるものは何も無いということです。

そのことを暗に示しているのか、西郷隆盛研究の基礎史料とも言える勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、西郷が下関での会談を取り止めたという記述は出てこず、ただ単に「隆盛は中岡、岩下等と共に十五日を以て鹿児島を出帆し京師に上れり、中岡は途次豊後の佐賀關より上陸して馬關に渡り、坂本龍馬、木戸孝允、喜多岡勇平等に會合し、更に二十九日に馬關を發して出京せり」とあるだけです。

以上のようなことから、この西郷のドタキャンに関しては、昔から疑問視する声がありました。
例えば、徳富蘇峰はその著書『近世日本国民史』の中で、

「西郷は果して佐賀の關に於て、大久保より上京を促がすの報を受取り、此れが為めに馬關行を見合せたる乎、否乎。それは何等確證は見つからない。(中略)但だ大久保が西郷の上京を促がす音信が、佐賀の關にて西郷の手に達したりとの事實は、上掲の文以外には、何等傍證す可きものがない。仍りて姑らく疑を存して措く」(『近世日本国民史』五十七 幕長交戦)

と書き、大久保の発した書簡により、西郷が下関に行くことを断念したというのは、『大西郷全集』三所収の「西郷隆盛伝」にしか傍証が無いとし、その事実に疑問を呈しています。

また、鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏は、その著作『西郷隆盛』の中で次のように書いています。

 もし国許の藩庁で連合のことがきめられ、下関に立寄って桂に会うことを指示されているなら、岩下もいることだし、たとえ大久保の手紙が来ていても、立寄らないはずはなかろう。
 ここで考えなければならないのは、この時西郷等の乗った汽船のとった航路である。普通の場合、鹿児島と大坂との間の航路は、シナ海側をとっても、太平洋側をとっても、瀬戸内海に入って大坂に達するのであるが、この時は佐賀関から土佐沖を通って大坂に達している。これは土方久元の伝記『土方伯』で明らかである。この書では、西郷は、やむを得ぬことで上京を急いでいたので、中岡の懇願をきかなかったと書いてある。すでに鹿児島を出る時からこれはきまったことで、それは久光によって、
「連合は望ましいことではあるが、しばらく時機を待とう」
 と裁断されていたからであると、ぼくは判断するのである。(『西郷隆盛』七)


このように、海音寺氏は佐賀関から大坂への航程は既定路線、つまり下関に寄港しないことは最初から決まっていたことであったと仮定し、そして、それは久光が薩長提携を時期尚早であると判断したからなのではないかと推測しています。
確かに、海音寺氏の指摘するとおり、『土方伯』には、「西郷は止むを得ぬことで、急いで行かなければならぬことになり、近道である、南海道の土佐沖を航して、京都に出て仕舞ったのである」とあり、西郷や岩下が乗った薩摩藩船の胡蝶丸は、土佐沖から太平洋を航行して大坂に入ったと書かれています。

ただ、一点押えておかなければならないことは、前出の町田先生の論文「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」の註において指摘されているとおり、『吉川経幹周旋記』三には、当時の聞き書きとして、「西郷吉兵衛より馬關迄申越候は近日之内馬關え参申候間其節何れそ出會呉候様申越候ニ付早速桂小五郎馬關え罷出居待合候へとも不罷越」との記述があることから、当時西郷が木戸と会おうとしていた話が現地で流布していたことは確認出来ますので、両者の会談が影も形も無いものではなかったとも言えます。

前出の町田論文では、この西郷と木戸の会談について、「中岡による西郷に対する木戸との会見の要請はあったものの、薩摩藩・西郷は時期尚早と捉え、その提案に同意しなかったと考える。つまり、最初から西郷は木戸と会見する意向は全くなく、予定通り京都に向かったものであろう」とし、

「西郷・木戸会見は中岡と土方が勇み足的に計画して進めたものであり、確かに薩摩藩は岩国・吉川経幹を通して長州藩への接近を図りつつあったものの、長州藩そのものに対しては内訌後の情報にも乏しく、とても積極的にアプローチする段階ではなかった。ましてや、下関に西郷を送り込むことは憚れたであろう。一方、長州藩・木戸は薩摩藩との連携を模索し始めていただけに、大きな期待があったことは間違いない」

と結論づけています。
つまり、西郷と木戸を会わせようと企画した土佐藩士・土方久元と中岡慎太郎の試みが空振りに終わったということです。

この西郷と木戸の会談中止を考える上で一番重要なことは、西郷が上京する時点において、

「薩摩が長州に対し、積極的に接近しなければならないような切迫した事情があったか否か?」

であると私は思います。
そして、その答えは「NO」です。
町田先生も論じられているとおり、当時の薩摩藩に、長州藩に積極的なアプローチをかける理由や必然性はなく、薩摩藩はどちらかと言えば受け身の立場であったことは間違いありません。
特に、もう一つ押さえておかなければならない重要な点は、薩摩藩を率いる久光の長州藩に対する感情です。
この件についてはこれまで余り触れてきませんでしたが、久光は元来長州藩に好意を持っていなかったことから、薩摩藩から積極的に長州に対して接近することは、当時憚られていた状況であったとも言えます。

以上のようなことから考え合わせると、慶応元年時点において、西郷は元々木戸と会う予定は無かったと考えるのが妥当であると思います。
今回のドラマ後半において、西郷は龍馬から、「西郷さん、おまんは信用も義理も人情も何もかも失うたぜよ」と言われていましたが、はっきり言って、龍馬からそんなことを言われる筋合いは毛頭ありません(苦笑)。


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【2018/08/20 17:30】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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大河ドラマ『西郷どん』は、時系列がひっくり返っていることが多々ありますが、歴史ドラマというものは、まがりなりにも実際にあった史実を参考にして創作するものですので、時系列はなるべく崩さない方が良いと個人的に思っています。
なぜなら、時系列を崩すことによって、後になって話の辻褄がどうしても狂うことが往々にしてあるからです。
歴史とは一つ一つの事象の積み上げによって形成されていくものですから、そのパーツの順序を入れ替えることによって、話の展開が強引になったり、逆に苦しい展開にならざるを得ない場合があるように思います。

以前、作家・山崎豊子さんの遺品等を展示する展覧会を見に行った際、山崎さんが作成した、ある作品の進行表が展示されていたのですが、そこには登場人物に関する出来事が時系列順で事細かに記されており、物語の展開に齟齬が生じないよう気遣う山崎さんの執筆姿勢に対し、私は感動すら覚えました。
『西郷どん』もそうあって欲しいと願うばかりです。

さて、今回もある意味攻めたストーリー展開でした。
最近つくづく感じますが、近年の大河ドラマは、韓流時代劇と同じような感じになってきていますね。「トンイ」とか「イサン」など、韓国時代劇界の巨匠イ・ビョンフン監督の作品に影響を受けているような観さえ見受けられます。
ちなみに、これを大河ドラマ批判と捉えないで下さい。
私はイ・ビョンフン監督作品、大・大・大好き人間ですから。全ての作品を二回以上は見ています。(私は「チャングム」と「馬医」が好きです)

NHKも割り切って、韓流時代劇のようなエンタメ系時代劇を目指すのであれば、それはそれでアリかなと思います。やけに史実ぶった話を作るよりも、エンタメ重視の方がよっぽど面白いものに仕上がると思いますので。
番組の最後に「このドラマは史実をもとに創作したフィクションです」と一言テロップを流し、エンタメ系時代劇として放映すれば良いのではないかと個人的に思っていますが、最近の大河ドラマは、ある意味中途半端なのでしょう。史実寄りなのか、それともエンタメ寄りなのかを明確に位置付け出来ていないため、面白みに欠けるような気がするのです。

(岩倉具視と久光、大久保)
今回のドラマでスポットが当たったのは、笑福亭鶴瓶さん演じる岩倉具視でした。
西郷と大久保が、当時岩倉が幽棲していた洛北岩倉村の屋敷を訪ね、そこで長州藩の桂小五郎を交えた一悶着があり、西郷が岩倉邸の下働きをするというスゴい展開でした。
岩倉をこの時点で登場させたのは、いわゆる「倒幕」を意識してのことでしょうが(ただし実際は、この時期に西郷が倒幕を意識していたことはあり得ない話です)、岩倉と薩摩藩の関係は、文久2(1862)年の久光の率兵上京までさかのぼります。

『大久保利通日記』上によると、久光が岩倉と初めて会ったのは、文久2(1862)年4月16日のことであったようです。
同日記によれば、同日久光は京に入り、錦の薩摩藩邸に立ち寄った後、巳の刻(午前10時頃)に近衛家へ参殿していますが、その会合に中山忠能、正親町三条実愛、そして岩倉も同席したようです。
大久保の日記には「岩倉少将殿ニも御出之由」との記述があります。

ただ、この初対面以前に、岩倉が久光に対して書簡を送っていた事実があります。
『伊地知貞馨事歴』によると、まだ久光が入京する前、岩倉は当時京に滞在していた久光の腹心・堀次郎(仲佐衛門)を呼び出し、久光宛ての書簡を託したようです。
同書には、「貞馨ハ岩倉具視ヨリ至急面會ヲ促シ來リ分レテ京ニ入ル」と、堀が岩倉から至急面会したいと呼び出されたとあり、また、

「四月三日久光播州室津ニ着スルカ故ニ、貞馨ハ來迎フキノ報ニ接シ、岩倉具視ノ手書ヲ携ヘ行クヤ、久光既ニ姫路ニ向フ、貞馨追ヒ至リ其手書ヲ呈シ、關京地両地ノ形勢ヲ陳フ」(句読点は筆者が挿入。以下、句読点が無いものについて筆者が挿入)

と、久光の出迎えのために出かけた堀が、久光に対して岩倉の書簡を手渡し、江戸と京の形勢を報告したとあります。

また、『岩倉公実記』上には、

「堀次郎江戸ヨリ至リテ京師ニ在リ、和泉乃チ足軽二人ヲ次郎ノ京寓ニ遣ハシ之ニ命シテ曰ク、己レハ四月三日ノ夜播州室津ニ泊スルヲ以テ宜ク室津ニ來リ、京師及ヒ江戸ノ形情ヲ報スヘシと、次郎其期日ニ先チ具視ノ邸ニ至リ謁ヲ請フテ和泉ヲ候迎センコトヲ告ク、具視書ヲ裁シ次郎ニ託シテ以テ和泉ニ贈クル」

とあり、堀が自主的に岩倉の元を訪ねたことになっており、その事情が少々異なっていますが(同書には岩倉と堀はそれ以前に面識があったとあります)、両書ともに岩倉が久光宛ての書簡を堀に託したとありますので、そのような事実があったことは間違いないでしょう。

以上のような経緯があり、久光は近衛邸で岩倉と面会することになったわけですが、その一方で後年岩倉と深い関係となる大久保はと言うと、それから遅れること約3週間後の同年5月6日に岩倉と面会したようです。
『大久保利通日記』上の5月6日の条には、「岩倉家江参殿御目見被仰付」とあります。
また、『大久保利通文書』十所収の「大久保利通年譜」の同日の条には、「久光公の命を以て正親町三條實愛、中山忠能、岩倉具視の諸卿に謁し勅使關東下向のことにつき建策す」とあり、大久保が岩倉と会った目的が記されています。
ただ、この時の面会が岩倉との初対面であったのかどうかは断言できません。大久保は久光が兵を率いて上京する以前、一度上京した経験がありますので、その時に会った可能性が無いとは言えないからです。

ちなみに、『岩倉公実記』上によれば、久光が岩倉と初めて面会した同年4月16日の記述に、「小松帯刀、大久保一蔵、中山中左衛門、次郎等侍座ス」とありますが、前述のとおり、大久保がその日の日記に「岩倉少将殿ニも御出之由」と、伝聞形式で記していることから察すると、その時大久保は岩倉とは同席して居なかったものと思われます。
また、同『岩倉公実記』上には、その翌日の4月17日、「和泉ハ一蔵中左衛門次郎ヲシテ更忠能實愛具視ノ邸ニ出入シテ事ヲ議サシム」とありますが、大久保の同日の日記を見る限り、この日に大久保が岩倉と会った形跡は見られません。

本ブログでも既に書きましたが、久光が入京した一週間後の4月23日、伏見において「寺田屋事件」が起こります。
当時の大久保は、その前後処理で慌ただしい日々を過ごしていたようですので、岩倉と会う機会はなかなか巡って来なかったものと思われます。
『岩倉公実記』を見る限り、この時期はむしろ堀次郎が岩倉と頻繁に会っていたことがうかがえます。
また、もちろんこの時期に西郷は京・大坂には居ませんので、岩倉との交流は影も形もありません。
西郷は久光から断罪され、既に4月11日に鹿児島へ向けて護送されていたからです。

(叢裡鳴蟲:そうりめいちゅう)
岩倉と薩摩藩の結びつきは、久光の率兵上京計画を機に生まれたと言えますが、その後の岩倉は不遇の時期を過ごしました。
皇女・和宮の降下に尽力した岩倉は、いわゆる攘夷派と呼ばれる志士連中から「四奸二嬪」の一人としてレッテルを貼られ、文久2(1862)年8月20日には、朝廷から蟄居を命じられます。
その時の沙汰書が『岩倉公実記』上に収録されていますが、

「今度御咎之儀者去戊午年以來公武御間之儀取扱振ニ付、酒井若狭守奸謀ニ與シ候歟、或被欺候歟、何れにも彼是主上之英明を奉汚之次第有之不容易儀候、頃日悪評増長世上人氣にも拘り難被宥閣候間、御咎被仰出之旨執柄被命候事」(句読点は筆者が挿入)

とあり、誠にヒドイ言われようです。
特に、「主上(天皇)の英明を汚し奉り」とあるのは、岩倉に対する最大の侮辱であったと言えるかもしれません。
しかしながら、当時の朝廷は長州藩や土佐藩といった攘夷派の後押しを受けた、三条実美ら過激派公卿が朝政を掌握しているような状態でしたので、岩倉は為す術無く、辞官落飾の処分を受け入れざるを得なかったのです。

蟄居を命じられた岩倉が幽棲していた場所と言えば、洛北岩倉村の幽居が有名で、現在その建物が観光スポットとなっていますが、『岩倉公実記』上によると、最初岩倉は西加茂の震源寺へ潜居し、次に剃髪して葉室の西芳寺へと転居しましたが、その後は洛北北岩倉村の藤屋藤五郎の庵を借りて移り住みました。
岩倉が洛北へと移ったのは、文久2(1862)年10月8日のことであったと同『岩倉公実記』にありますが、岩倉はその日から洛中への居住が赦される慶応3(1867)年11月8日まで、足かけ約5年間も都の中心に居住することが出来なかったのです。
また、今回の『西郷どん』において、岩倉自身がその幽居で食事を作るシーンがありましたが、『岩倉公実記』上には、「老僕外ニ出ツルトキハ具視水ヲ運シ柴ヲ搬シテ自ラ厨下ノ事ヲ治ムト云フ」とあり、おそらくこの記述を参考にして、あのシーンを演出したものと思われます。

DSCF0885.jpg
岩倉具視幽棲旧宅(京都府)

今回、西郷が岩倉邸でたくさんの意見書等を見つけ、岩倉が定見ある一廉の人物であることを知るシーンがありましたが、これはおそらく「叢裡鳴蟲(そうりめいちゅう)」の逸話を元にして創作したものでしょう。
『岩倉公実記』上には、「具視叢裡鳴蟲ヲ井上石見ニ示ス事」と題して、

「薩摩人井上石見長秋カ小林彦次郎ニ誘引セラレテ來リ謁ヲ請フアリ、具視之ト與ニ朝政ヲ一新センコトヲ論ス、石見誓テ曰ク、願クハ驥尾ニ附シテ駑ヲ致サント相約結シテ去ル、是ニ於テ具視前年幕府ニ論ス所ノ三事策ニ註シテ以テ所懐ヲ述ヘ題シテ叢裡鳴蟲ト曰フ、之ヲ石見ニ示シ、且小松帯刀、大久保一蔵ノ意見ヲ問ハンコトヲ要ム」

とあり、その逸話が記されています。
ここに出てくる井上石見とは、薩摩藩士・藤井良節の弟です。
藤井良節は以前「お由羅騒動」の際に紹介しました。薩摩藩を出奔して筑前福岡藩に逃げ込んだ四人の薩摩藩士の内の一人で、旧名を井上出雲守と言いました。
その弟が井上石見というわけですが、石見は水戸藩士の小林彦次郎に誘われて岩倉の幽居を訪ねた際、岩倉の人物に惚れ込みました。
「驥尾ニ附シテ駑ヲ致サント相約結シテ」とは、「これから貴方のことを見習って行動し、努力を尽くすことを約束した」ということです。それほど石見は岩倉の人物に感心したということでしょう。

そして、岩倉は井上に対して、自らが著した「叢裡鳴蟲」と名付けた書を見せ、小松と大久保の意見を聞きたいと言いました。
この「叢裡鳴蟲」という書が、岩倉と大久保、ひいては薩摩藩との関係をその後密接にしたと言っても過言ではありません。

「叢裡鳴蟲」とは、岩倉が自分自身を「草むらに隠れて鳴く虫」に例えたもので、当時の岩倉が置かれていた境遇を表した言葉と言えます。
岩倉は岩倉村で幽居中、「叢裡鳴蟲」と「続叢裡鳴蟲」という二つの書を書き、当時の政治課題について自身の意見を論じていますが、特に「続叢裡鳴蟲」は、その前文に、

「獨リ薩藩ニ對シテ言フノミ請フ此意ヲ諒セヨ」(『岩倉具視関係文書』一。以下同文書からの引用)

とあり、また、「小松大久保二氏ハ舊相知ナリ、請フ子之ヲ示セヨ、若シ採ルヘキアラハ生前ノ本懐ナリ」とあることから、薩摩藩に対する建言であったことが分かります。

この「続叢裡鳴蟲」の中で岩倉は、まず当時の薩摩藩の権力者であった久光のことを、

「予三郎氏ニ面會スルノ時ニ於テ始メテ非常ノ偉器タルコトヲ知レリ」

と、久光が「非常ノ偉器」であると褒め称え、さらに、「予ハ薩藩ヲ抑慕シ薩藩ノ宿志ヲ貫キ、國家ノ柱石タランコトヲ望ムナリ」と、薩摩藩が宿志を貫き、国家の柱石となることを望んでいると書いています。
岩倉曰く「予三郎氏ニ面會スルノ時」とは、前述のとおり、久光が率兵上京した時のことです。

また、岩倉は「薩藩ハ勤王ノ倡首、朝廷固ヨリ其誠忠ヲ嘉シ其勲勞ニ酬ユ、終始渝ハラス深倚頼アルハ言ヲ俟タス」とも書いており、薩摩藩こそが、朝廷が深く頼りに思う存在であると強調していますが、岩倉はそんな薩摩藩の久光・忠義父子が国許の鹿児島に割拠している状況を憂い、

「惟願フ、薩藩主父子ノ中速ニ上京シ、須曳モ宮闕ノ側ヲ離レス外ハ皇家ノ城湟ト為リ、内ハ朝政ヲ預聞シ、鞠躬輔翼以テ宿志ヲ成サンコトヲ旦暮切望ニ堪エサルナリ」

と、久光と忠義が上京し、朝廷を補佐することを熱望すると述べています。

続いて岩倉は、当時の政治課題であった長州処分についても、「何故ニ薩藩ハ斷然朝廷幕府ト長州ノ間ニ介シ拮据盡力其調和ヲ謀ラサリシヤ」と、薩摩藩が幕府・朝廷と長州の仲介役を買って出て、調停に努めなかったことに疑問を呈し、さらに、「方今戎夷眈々虎視ス此時ニ方リ内訌ヲ起シ骨肉相食ム愚モ甚シ」と、諸外国が日本を狙う中、内戦を起こすことは愚の骨頂であると述べています。

そして、岩倉は、

「幕府ト長州ノ應接平和ニ歸サスシテ開戦ニ至ラハ、勝敗ノ何レニ歸スルヲ問ハス、恐ラクハ朝廷ノ大患タラン、何トナレハ幕府勝利ヲ得ンカ、譜代ノ大小名ハ論ナク觀望ノ外藩モ亦必ス之ニ畏服セン」

と、もし幕府と長州の戦いで幕府が勝利した暁には、諸藩は幕府に畏服することになると論じ、また、「天下誰カ亦復タ幕府ニ抗スル者ソ」と書いて、幕威が増大することを危惧しています。

そのため、岩倉は、

「長州ハ當初一意勅命ヲ奉シテ周旋シタル功勞ニ對シ、其首謀者一人ヲ罰スルニ止マリ、其他ハ宥シテ問ハス、而シテ其藩主ニ上京ヲ命シテ朝議ニ参預セシメバ庶幾クハ異論ノ起ルコトナカラン」

と、長州藩のこれまでの功労に免じ、禁門の変の首謀者一人を処罰するだけでその罪を赦し、長州藩主を朝議に参与させるべきであると、長州藩に対する寛大な処分を主張しています。

以上のように、岩倉は「続叢裡鳴蟲」の中で、薩摩藩がもっと積極的に国政に関与し、政治のイニシアチブを握るべきだと主張し、さらに幕権強化に危惧の念を抱いていることから、長州処分の早期解決を望み、かつ長州寛典論を述べていますが、さらに注目すべき点は、朝廷が薩長両藩を共に重用することが必要だと論じていることです。

「薩長二藩並ヒ稱シ、勤王首唱ノ故ヲ以テ大ニ倚頼擧用セサル可カラス、若シ獨リ薩藩ノミヲ擧用スルトキハ人心ノ歸向又慮ルヘキモノアリ、故ニ並ヒ擧用セサルヲ得ス尚ホ細思セヨ」

これがその箇所ですが、岩倉は後に頼むべきは薩長両藩であるということをこの段階で認識していたのでしょう。薩長が朝廷の両翼となって、朝政を補佐することを念頭に置いていたと言えます。

大久保利通の三男・利武氏が、昭和10年1月11日に京都ホテルで行った講演会において、

「公の意見として最も吾々が重要視すべき點は公が薩長兩藩の提携を力説されたことである、これは公の政治家的見識の特色で大藩力を合せて朝政を補佐せしむることは公の一生を通じ政治の根底とされたのであります」

と話していますが(財団法人岩倉公舊蹟保存會編『岩倉公と叢裡鳴蟲』)、それは前述の「続叢裡鳴蟲」にある一節を意識しての発言でしょう。

以上のように、「叢裡鳴蟲」と「続叢裡鳴蟲」は、岩倉と薩摩藩を結びつける強力な接着剤となったと言っても過言ではありません。
鹿児島県教育会編『甲東先生逸話』には、

「岩倉公と甲東とは慶應二年秋、公が甲東等の為自から起草せし時事政見たる『叢裡鳴蟲』によつて、深く結ばれて以來、肝膽相照し、維新前後を通じ、幾度か死生を共にして、その情骨肉に均しいものがある」

とありますが、今回の『西郷どん』では、その大久保の役回りを西郷に代えて演じさせたと言えましょう。


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【2018/08/12 20:46】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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今回の『西郷どん』では、物語の序盤に西郷が「倒幕」という言葉を口に出しましたが、西郷がなぜ「幕府を倒さなければならないと感じたのか?」が、これまでの描き方からでは、イマイチ伝わってこないような気がします。
勝海舟から「幕府を見限れ」と言われ、仲良しのヒー様と決別したから、幕府を倒そうと思ったわけではなく、「苦しむ民を助けるためにも幕府は倒さなければならない」ということなのでしょうが、少し話の持って行き方が強引のような気がしますね。
取りあえず一言だけ。
『西郷どん』、もっときばれ~!!!

(参勤交代の復活)
今回の『西郷どん』では、「幕府が参勤交代の制度を復活させた」ということを聞いた久光が、怒り心頭で西郷に対して八つ当たりをし、それを受けた西郷が偽りの涙を流すという、一見不可解な謎の演出がありました。

番組のナレーションでも触れられていましたが、参勤交代に関しては、文久2(1862)年に久光が兵を率いて上京し、そして江戸に参府した際、幕府に対して制度改革を要求し、江戸参府を隔年ではなく三年に一度の三ヶ月間とし、これまで人質として江戸に居住する必要があった大名の妻子に関しても帰国を許すという、参勤交代を緩和させる施策を実現させていましたが、幕府はここに来てその決定を覆し、従前のとおり旧制度に戻すと諸藩に対して布告したのです。

しかしながら、幕府が参勤交代を復活させるとの布令を出したのは、元治元(1864)年9月1日のことで、西郷が鹿児島に帰国する三ヶ月以上も前のことです。(西郷の帰国は元治2(1865)年1月15日のこと)
『島津久光公實紀』二の元治元年の条には、「九月朔幕府令シテ諸侯参勤ノ期及妻子江戸ニ置クノ制ヲ復ス」とあり、また、越前藩の記録である『続再夢紀事』三の九月朔日の条にも、「江戸に於て諸大名及ひ交替寄合の参勤同上嫡子妻子の住所を舊に復せらるヽ旨大目付より廻達せらる」との記述があります。
ただ、年が明けた元治2(1865)年1月25日にも同様の幕命が布告されていることから(『肥後藩國事史料』五、「諸大名参勤交代復旧達書」『鹿児島県史料 忠義公史料』三)、今回の『西郷どん』は、その再度の布告を元に演出したのでしょうが、それでも若干時系列がずれていると言えましょう。

さて、『忠義公史料』三には、元治元年9月に出された幕府からの最初の達書(「万石以上之面々江戸在往復旧達書」)が収録されていますが、そこには幕府が参勤交代を復活させた理由が次のように書かれています。

「此度御進発可被遊候ニ付テハ、深キ思食モ被為在候付、前々ノ通相心得、当地へ呼寄候様可致候」

つまり、「長州征討に向けて将軍家茂が進発(上京)するにあたり、深いご意向があって、以前のとおり参勤交代を復活させる」というわけですが、幕府の目的を端的に言えば、将軍進発を機に幕府権力の強化を目論んだということです。

この参勤交代復活の幕命を受けて、諸藩には動揺が広まりました。
『徳川慶喜公傳』三には、

「尾張前大納言は名古屋を發するに臨み、上書して之を止めんと請ひ、九鬼長門守(隆義。攝津三田藩主)、秋月右京亮(種樹。日向高鍋藩世子)等は書を松平大蔵大輔に寄せて不平を漏らし、因州・備前・肥後等の諸藩も復舊令に不平なりき」

とあり、諸藩は不平・不満を漏らし、「多くは病気・又は道中の故障・住宅の修復等を名として、妻子・家族の出府を延引せり」とあります。

また、参勤交代復活の影響は、九州諸藩にも伝わりました。
例えば、薩摩藩の支藩である日向の佐土原藩では、藩主・島津忠寛が久光に対して、参勤交代への対応を確認する書簡を送っています(『玉里島津家史料』三)。

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島津御殿跡(宮崎市佐土原)

同書簡の中で忠寛は、天下国家のため富国強兵を実現すべく、過分の出費を顧みず、江戸から妻子等を引き揚げさせたにもかかわらず、二年も満たない内に参勤交代が旧に復すことに疑問を呈したうえで、

「家中一統益困窮ニ差及候儀は勿論、仮令差登セ候含ニ而も迚も用途調兼、礑と当惑仕候」

と、「家中一同が困窮していることは言うまでもなく、例え妻子等を江戸に登らせたとしても、滞在費用を賄うのは難しく、とても当惑している」との心情を吐露しています。

また、忠寛は続いて、

「暐(てる)姫様御初御動静如何被為在候哉、右御模様奉承知度若暫ニ而も御断被仰上候御事御座候ハヽ、右ニ准し御断申上候含ニ御座候、此段奉申上候」

と書き、「藩主・忠義の正室である暐(てる)姫をどのようにするのか聞きたい」と述べ、「もし薩摩藩が参府を断るようであれば、それに準じて佐土原藩も断りたい」との意志を示しています。
つまり、忠寛は「佐土原藩は島津家宗家の方針に従う」という意志を久光に対して告げたということです。
ちなみに、この久光宛て忠寛書簡は、『玉里島津家史料』三には「元治元年(八月?)」とありますが、これは9月の誤りでしょう。前述のとおり、参勤交代の復活は、元治元年9月1日に布告されているからです。

以上のような佐土原藩の忠寛からの問い合わせもあったことから、薩摩藩は参勤交代の復活に対して、どのように対応すべきか、まずは諸藩の動向を探ることから始めたようです。
主席家老の喜入摂津(久高)は、元治元年10月6日付けで、当時江戸に在府していた岩下佐次右衛門(方平)市来次十郎(広業)の二人に対し、次のような書簡を送っています。

「諸大名参勤之割前々之通被仰出、当年参勤之分ハ参府候様可致、且嫡子并妻子御呼寄之儀モ被仰出候ニ付テハ、御并家は勿論、諸国参勤并妻子引越之儀何様相運候哉、当世体之儀ニモ候間、御留守居へモ相達手厚ク聞合等申付、事実旁内情之処迄モ深ク探索致シ、形行急キ飛脚ヲ以テ早々可申越、左候テ其後迚モ兼テ手ヲ付置候」(『忠義公史料』三)

つまり、喜入は岩下と市来に対して、参勤交代復活の幕命を受けて、諸藩がどのように対応するのかを探り、それを急ぎ事細かに鹿児島へ報告するようにとの指示を出したということです。
当時の薩摩藩要路は、先に他藩の動向を確認したうえで、江戸参府の可否を判断しようと考えていたものと思われます。
『玉里島津家史料』三には、その喜入の指示によって集められた様々な情報、例えば現在江戸に在府している一万石以上の大名の名を記した書類や薩摩藩の問い合わせに対する各藩からの回答書などが収録されていることからも、当時江戸における薩摩藩の諜報活動が非常に活発であったことを示しています。

一方幕府はと言うと、同年10月25日、今度は譜代大名に対しても参勤交代を復活させると命じ、さらに年が明けた元治2(1865)年1月25日にも、再度諸藩に対して参勤交代を厳守するよう幕命を下しました。
このような状況の中、前出の佐土原藩主・島津忠寛は、正月早々、家老の樺山舎人に、久光宛ての書簡を託して鹿児島に派遣しています。

この時忠寛が久光に差し出した書簡(元治2(1865)年1月2日付け久光宛て忠寛書簡『玉里島津家史料』四)の趣旨は、「幕府に対して参勤交代猶予を願い出るつもりなので、薩摩藩にその助力を願いたい」ということでした。
また、とても興味深いのは、忠寛は「もし参勤猶予が認められない場合は、蒸気船を拝借したい」と久光に頼んでいることです。
忠寛は「是非蒸気船拝借仕度、左候而、品川海岸迄乗付、上陸仕度奉願候」と、蒸気船を借りて江戸まで直接乗り付けたいとの希望を記しています。
前出の久光宛ての書簡と言い、そして今回の蒸気船の借用を求める書簡と言い、共通するのは、藩財政の逼迫という経済的な事情です。
佐土原藩の例を見ても、参勤交代という制度が、いかに諸大名の財政を圧迫していたのかがよく分かります。

以上のように、佐土原藩から再度参勤交代の対応を確認する書簡が届いたことが一つのきっかけとなったのか、同年1月25日付けで、久光は老中の水野和泉守忠精に対し、参勤交代復活に反対する旨の書状を送りました。
久光が幕府に対して提出した建白書には、

「御趣意ニ奉従候得は、諸藩一同国力疲弊武備廃弛藩屏之任難相整、然時は外夷は弥軽蔑驕慢之心を増し、乍恐御国威遂ニ地ニ堕ち可申は必然之勢ニ御座候」(「久光公ヨリ幕府へノ建言」『玉里島津家史料』四)

とあり、「参勤交代に従うことは、諸藩の国力を疲弊させ、武備の充実にも支障が出ることから、外国の侮りを受けることに繋がり、国威が地に落ちることは必然である」として、幕府の参勤交代の復活令は国益にならないと論じ、幕府に再考するよう求めています。

また、同時に久光は、朝廷の二条斉敬関白に対しても意見書を書いています。
これは前出の幕府に対する建白書とほぼ同趣旨のものですが、久光は二条関白への意見書の中で「凰闕守衞」という言葉を使用し、参勤交代で国力が疲弊すると、禁裏守護にも影響が及ぶと主張しています。
また、さらに久光は、

「幕府江御委任とは乍申上、重大之事件御座候ニ付、何卒断然タル朝廷之御明裁ヲ以、此度之弊改御改革被仰渡度奉存候」(「参覲交替復旧ニ対スル久光公ノ意見書」『玉里島津家史料』四)

と、「幕府に国政を委任しているとは言え、これは国家の存亡にかかわる重大事なので、何とぞ朝廷の賢明なご判断をもって、この度の改悪を正されるよう、幕府に対して仰せ渡し願います」と依頼しています。

今回の『西郷どん』では、参勤交代を中止させるべく、久光が大久保に対して上京を命じていましたが、何も大久保は参勤交代の中止のためだけに上京を命じられたわけではありません。
参勤交代の中止工作の他にも、長州処分、そして五卿問題といった、当時の政治上の難題を含めて、久光は大久保に朝廷工作を命じたのです。

大久保の日記によると、久光の命を受けた大久保は、元治2(1865)年1月25日、税所喜左衛門(篤)吉井幸輔(友実)を伴い、蒸気船・胡蝶丸で出発し、長崎、博多、兵庫を経由して2月5日に大坂に着き、2月7日に京の二本松藩邸に入りました。
その2日後の2月9日、大久保は早速小松帯刀とともに、尹宮(旧中川宮)を訪ねました。
勝田孫弥『大久保利通伝』には、「九日に至り、小松と共に、朝彦親王(尹の宮)に謁し、久光の命に依りて出京せる趣旨を述べ、又長藩の處分、五卿問題、及参勤交代等に關して大に珍述する所あり」とあり、まずは尹宮に対して入説を試みたのです。

さらに大久保はその2日後の2月11日、小松と共に今度は近衛忠煕・忠房父子を訪ねました。
同じく勝田孫弥『大久保利通伝』から引用すると、

「十一日、利通は、小松と共に近衛邸に抵りて、忠煕・忠房の両卿に謁したり、利通等は、尹の宮に上陳せし趣旨を、反覆陳述したりしが、忠煕等もまたその意見を賛成し、更に二條關白に謀らしめたり、利通等は大に喜び、直に二條關白に謁して、同じく建言する所ありしが、また其賛成を得たり」

とあり、二人は近衛父子を説得したほか、また二条関白からの賛同も得たとあります。
これら当時の小松と大久保が行った朝廷工作は、『大久保利通日記』にも概略が記され、また、元治2(1865)年2月24日付けで、大久保が箕田伝兵衛と西郷に宛てた書簡に詳しく書かれています(『大久保利通文書』一)。

このような小松と大久保の尽力が実を結び、元治2(1865)年3月2日、朝廷は幕府に対して、幕府が求めていた長州藩主父子と三条実美以下五卿の江戸招致を中止すること、将軍家茂の速やかなる上洛を求めることなどの沙汰を下し、また、参勤交代に関しては、

「諸大名参勤、古格に引戻候様、去秋達有之候由に候得共、諸藩共此時勢に付、内輪迷惑之様子にも相聞得候、仍て矢張文久二年改革之通に可致旨に候事」(勝田孫弥『大久保利通伝』)

と、その制度復活を中止して、文久2年に久光が実現した参勤交代の緩和策に戻すよう命じたのです。
これにより、幕府による参勤交代の復活は完全に崩壊したと言えましょう。

『徳川慶喜公傳』三は、これら幕府による参勤交代復活令を「却て徒に人心を失ふの具たるに過ぎざりき」と断じ、また、歴史家の徳富蘇峰も、「徒らに幕府の威信を損じ、其の無力を暴露するに過ぎなかった」(『近世日本国民史』五十六 長州征伐)と論じています。
当時の幕府は、当面の敵であった長州藩が亡国の危機に瀕していたことに乗じて、幕権強化を目論んだわけですが、薩摩藩の朝廷工作によって、幕府の参勤交代復活計画は頓挫し、実質的に機能することはなかったのです。

(西郷とイトの再婚)
話は大きく変わって、西郷とイトの再婚も今回の大きな見どころでした。
西郷南洲顕彰会発行『詳細 西郷隆盛年譜』によると、西郷とイトは、元治2(1865)年1月28日に結婚したとあります。
西郷が鹿児島に帰国したのは、前述のとおり同年1月15日のことですから、その約2週間後に祝儀を挙げたことになるわけですが、西郷は同年2月6日に鹿児島を出発しましたので、イトとの新婚生活は、わずか一週間程度で中断を余儀なくされたのです。
筑前の志士・平野国臣が賦した漢詩の一節に、「憂國十年 東走西馳」という言葉がありますが、まさにこの当時の西郷は、「東に走って、西に馳す」、慌ただしい日々を過ごしていたと言えましょう。

さて、西郷と結婚した岩山イトのことを少しおさらいすると、彼女は家老座書役・岩山八郎太の娘です。
岩山家の家格は小番であり、元々西郷家の家格はその二つ下の御小姓与でしたが、元治元(1864)年10月、禁門の変における功により、西郷家は「代々小番」と家格が引き上げられていましたので、この時は同家格同士の結婚であったと言えます。
鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎は、「岩山家は鹿児島城下では有名な美人系の家系であったと、鹿児島では言い伝えられている」と、その著作内で書いていますが(『西郷隆盛』七)、現代に残されたイトの写真を見ると、確かに品の良い整った顔立ちであったことが想像できます。

西郷に結婚歴があったことは以前書きました。
最初の結婚相手は、伊集院スガという女性で、スガの父・伊集院直五郎もまた、イトの父と同役の家老座書役であったことは奇妙な巡り合わせと言えるかもしれません。
ちなみに、以前本ブログで、スガの実弟である伊集院兼寛の履歴(「伊集院兼寛履歴」『伊集院兼寛関係文書』)に、伊集院家が200石取りの禄高とあること、さらに伊集院直五郎が家老座書役であったことなどから、伊集院家の家格は岩山家と同格の「小番」であったのではないかと推測しましたが、その後、伊集院家の家格に関する、ある気になる記述を見つけました。
「有馬新七等処刑申渡書」(『忠義公史料』二)に、寺田屋事件に関与した伊集院兼寛の罪状書が収録されていますが、そこには「島津伊織与御小姓与 伊集院直右衛門」とあります。
伊集院直右衛門とは、すなわち伊集院兼寛のことですので、この記述によれば、伊集院家は西郷家と同格の御小姓与であったことになります。
ただ、伊集院家の禄高が本当に200石もあったとしたら、御小姓与にしては禄高が大きすぎるので少々疑問も残ります。この件については、継続して調べたいと思います。

閑話休題。
少し話がそれましたが、実は西郷と結婚したイトについては、以前から気になっていることがあります。
『西郷どん』では、イトが西郷家に嫁ぐ前、海老原家に嫁いだ経験があるという設定になっています。
つまり、西郷との結婚は「再婚」であったとされていますが、実はその根拠がよく分かりません。

イトに離婚歴があったことについては、古くは作家・阿井景子さんの小説『西郷家の女たち』、近著では原口泉『西郷家の人びと』、徳永和喜『誰も書かなかった西郷隆盛の謎』においても同様の記述があり、インターネット上もその情報で溢れかえっていますが、いずれもその典拠は明示されていません。
そのため、子孫宅に残る口伝が根拠なのかと思いきや、次のような証言があります。
イトの義妹にあたる岩山トクさんのお孫さん、岩山清子さんと和子さんのお二人が、平成11年に出版された『西郷さんを語る 義妹・岩山トクの回想』(至言社、1999年)に、次のように書かれています。

「西郷イト、当時の岩山イトは、西郷隆盛と結婚する前、婚約解消をしたことがあるとか言われることがありますが、前述の西郷隆盛の孫、西郷吉之助さんは、そのような話は聞いたことがないと言われますし、私たちも、身内から聞いたことはありません」

この証言を見る限り、岩山家の子孫宅にイトが再婚であったという話は伝わっていなかったことになります。
また、この証言の中で重要なのは、西郷の直孫で、法務大臣を務められたこともある故・西郷吉之助氏が、「そのような話は聞いたことがない」と言われていたということです。
西郷吉之助氏は、もちろん生前のイトと直接触れ合いがある人物であり、西郷関係の逸話については、とてもよくご存じの方でした。その方が本当に「聞いたことがない」と言われていたのだとしたら、一体イトが再婚であったという話は、どこから生じたものなのでしょうか?

ちなみに、同『西郷さんを語る 義妹・岩山トクの回想』には、

「その頃の婚約解消や離婚は、現在よりも大変なことだったでしょうから、わざわざそのような条件の女性を選ぶことはなかったと思われます」

とありますが、確かにその通りです。
当時の西郷は、薩摩藩内では側役という家老に次ぐ重職にあった人物です。
現代とは違い、当時の離婚は女性に対して大きな傷を付けるものでしたので、西郷が妻を娶るにあたり、わざわざ敢えて離婚経験がある女性を選ぶ必要はなかったと思われますし、そのようなことをしようとすれば、おそらく周囲の者たちが反対したことでしょう。

このイトの再婚については、以前、西郷家の関係者の方にメールで質問したことがあるのですが、残念ながら回答は頂けず、何を根拠にして、イトが再婚となっているのかが、よく分からない状態が続いています。
西郷家の子孫宅に、何か新出の史料が発見されたのか、それとも他の口伝が何らかの形で残されているのか、その根拠をご存じの方は是非ご教示頂ければ幸いです。


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