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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます     (大河ドラマ『西郷どん』の解説も是非お読みください)
ドラマはいよいよ幕末編のクライマックスへと突入してきました。
前々回あたりから目まぐるしく話が展開していますが、ただ、とても残念であったことは、前回の放送で江戸攪乱工作を西郷の指示によるものだと描いたことです。

「鳥羽・伏見の戦い」の契機ともなった江戸攪乱工作は、長い間、西郷の謀略であると言われ続け、それが長らく通説化されてきました。
しかし、拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』でも書いたように、その元になった京・大坂・江戸における三都同時挙兵は、慶喜が政権を返上(大政奉還)したことにより、その計画は一旦白紙に戻さざるを得なくなっており、西郷が江戸に居た浪士たちを使って、火つけや強盗を指示し、幕府側を挑発しようとした事実は一切ありません。
それどころか、西郷の意を受けた薩摩藩士・吉井幸輔は、江戸に居た浪士たちが京の政情をよく理解せずに勝手に暴発し、事を壊すことがないよう、浪士たちを統括していた伊牟田尚平や益満休之助に対して、自重を求める書簡を何度も出しています。

このように、吉井が当時江戸に居た浪士たちに対し、軽挙妄動を慎むよう、何度も書簡を送っている事実があるにもかかわらず、前回の放送では、江戸攪乱工作を旧説のまま西郷の謀略(指示)として描いたのですから、『西郷どん』は、一体西郷のどんな新しい姿を見せようとしているのか、はっきり言ってよく分かりません。
ドラマの残り回数が少なくなっているので、その江戸攪乱の真相を深く描くことが出来なくなったことは理解しますが、西郷の虚像部分をそのままの形で描き、虚説を垂れ流すのであれば、もっと他にカット出来る不要なシーンは、たくさんあったはずです。
青年時代の西郷を描き、彼の持っている人間愛をドラマの中で表現したかったのは理解できますが、なぜ貴重な回数を使ってまで、ありもしないフィクションのエピソードを満載に描いておきながら(例えば、ジョン万次郎との交流など)、一番肝心な西郷評価に関わる根幹部分の西郷に被せられた虚像を否定しようとしないのか、私には全く理解できません。
言葉は少し厳しいですが、『西郷どん』は、一体何のために、何の目的で作られたドラマなのでしょうか?

(鳥羽・伏見の戦い:西郷家の戦い)
今回の『西郷どん』で描かれた鳥羽・伏見の戦いの中で、西郷の実弟の信吾(のちの従道)が、西郷の進撃論に待ったをかけるシーンが描かれていましたが、このような事実はありません。
信吾を戦嫌いの優しい性格にして描く意図が、私にはイマイチよく分かりません。寺田屋事件の時もそうでしたが、信吾は有馬新七等の斬り合いに怖じ気づくような描き方をされていました。

ただ、信吾が鳥羽・伏見の戦いにおいて重傷を負ったことは事実です。
信吾の負傷については、鳥羽・伏見の戦い後、慶応4(1868)年1月10日付けで、西郷が鹿児島の西郷宅に寄宿していた川口雪篷に対して、

「信吾には余程敵地へ進み入り、耳の下より首へ懸け、射抜けられ候得共、格別の事にもこれなく、もふは宜しく、又々戦いあらば出ずべしと進み居り申し候」(『西郷隆盛全集』二)

と書き送っていることで、その時の状況が分かります。
信吾は敵陣近くまで深く入り込んだため、敵兵に狙撃され、耳の下から首にかけて貫通銃創を負いましたが、そんな重傷を負いながらも、信吾は西郷に対して、「また戦があれば進んで出たい」と言っていたようです。

しかしながら、そんな勇猛果敢に敵陣に入って負傷した信吾が、今回の放送では、西郷に進軍を止めてはどうかと意見している最中、背後から銃で撃たれていました。
もし本当に敵に対して背を向けた状態で撃たれていたとしたら、信吾は西郷から「薩摩武士として、あるまじき振る舞い」として、こっぴどく叱られたことでしょう。
実際、前出の川口宛て西郷書簡には、

「両人は疵を蒙らず候らわでは追い出すべしと申し置き候」

とあり、西郷が信吾に対して、戦傷を負うような勇敢な働きをしなければ「勘当」すると言っていたことがうかがえます。
ちなみに、両人とあるのは、信吾と西郷の従兄弟の大山弥助(のちの巌)のことです。
大山は『西郷どん』には登場していませんが、彼も鳥羽・伏見の戦いにおいて、耳を撃ち抜かれる銃創を負いながらも、それにひるまず最後まで戦い続けましたので、西郷は二人の働きに大変満足したのでしょう。同川口宛て書簡の中で、

「両人共十分の働きいたし、疵を蒙り誠に悦敷、もふは勘当致さず、秘蔵致すべきと相考え申し候」

と書いています。

「秘蔵致すべし(二人を可愛がりたいと思います)」

という部分に、当時の西郷が二人の活躍に対して、ご満悦の様子であったことがうかがえます。

また、同川口宛て書簡には、その他の西郷家の男たちの状況が記されています。
次弟の吉二郎については、「病気にて引き入れ居り、気の毒に御座候」とあり、病気で参戦することは出来ませんでしたが、末弟の小兵衛については、「いまだ疵は蒙らず候得共、六日八幡の戦いにては余程相働き申し候」とあり、戦功を挙げたと西郷は書いています。

このように西郷家関係者の男たちが吉二郎を除いて活躍したにもかかわらず、西郷自身は二度しか戦陣に立てなかったことから、西郷は川口宛て書簡の中で、

「定めて信吾抔よりかんどうを申し付け申すべきと、残念此の事に御座候」

と書いています。
つまり、信吾や弥助から逆に勘当を言い渡されるのではないかと、冗談混じりで報告しています。
川口宛ての書簡は、いわゆる妻のイトを始めとする家族に宛てたものであると言えますので、西郷は鹿児島に遺された家族に対し、家族全員の無事を伝えたかったのでしょう。

このように、鳥羽伏見の戦い後に書かれた川口宛て西郷書簡によると、西郷と信吾に意見の食い違いがあった様子は一切見られず、西郷家の男たちは皆勇敢に戦を乗り切ったわけですが、敢えて西郷と信吾の対立を描いたということは、後の「明治六年の政変(いわゆる征韓論政変)」の伏線と言えるかもしれません。
信吾は同政変の際、西郷とは違って東京に残る選択をしましたので、その辺りのことを意識した演出なのかもしれません。

(薩摩藩の武力行使)
話を「鳥羽・伏見の戦い」の前まで戻しますが、西郷と慶喜が決裂して以来、何かと西郷は慶喜を目の敵にし、幕府を武力で倒そうとしている様子がドラマ内で描かれています。
前回では、西郷の弟・信吾の目線で、「兄さあは鬼に変わった」と描かれていましたが、「西郷がなぜ鬼に変化したのか?」、はたまた「何をもってそのように言えるのか?」が、私には一向によく分かりませんでした。
誰からも愛される優しい性格であった西郷が、なぜ急に豹変したのかについて、その原因や理由等が深く描かれないまま、突然鬼のように荒々しくなったため、それはいかにも唐突な感じがし、首をかしげられた視聴者の方も多かったのでは無いかと思います。

最初に書きますが、当時の西郷は、何が何でも武力をもって幕府を倒し、慶喜を葬り去ろうと考えていたわけでは決してありません。
西郷という人物は、どんな場面においても「大義名分」を重んじる人であり、大義が立つのであれば、大きく一歩踏み込んで戦うことを厭いはしませんが、相手に対して不条理な戦いを仕掛け、私怨をもって事を進めるようなことは一切無かった人です。
そんな西郷の態度や考え方は、慶応3(1867)年12月8日、王政復古政変前日に岩倉具視に対して差し出された建白書内に色濃く顕れています。
同建白書には、

「今般御英断を以て王政復古の御基礎召し立てられたき御発令に付いては、必ず一混乱を生じ候やも図り奉り難く候得共、二百有余年の太平の旧習に汚染仕り候人心に御座候得ば、戦いを決し候て死中活を得るの御着眼最も急務と存じ奉り候。然しながら戦いは好みにて成すべからざる事は、大条理において動かすべからざる者に御座あるべく候」(『西郷隆盛全集』二)

とあり、二百有余年続いた太平の旧習に馴染んでいる人心を一新させるには、戦うことを決して、死中に活を求めることが急務としながらも、戦いは好んでするべきものではなく、筋が立たない、不条理な戦いはするべきではないとはっきり論じています。
この建白書は、岩下と大久保との連名となっていますが、その内容と文章の調子、表現を見る限り、西郷が中心となって書かれたものであると考えられます。

また、同建白書内で西郷は、

「徳川家御処置振りの一重事、大略の御内定伺い奉り候処、尾・越をして直ちに反正謝罪の道を立たせ候様、御諭を以て周旋命ぜられ候儀、実に至当寛大の御趣意感服奉り候、(中略)、若し御趣意の通り、真の反正を以て実行挙がり、謝罪の道相立ち候上は、御顧慮なく御採用相成るべき事は勿論に御座候」

とも書いており、慶喜自身が心から反省の態度を示し、謝罪の道が立つようであれば、何の懸念もなく慶喜を新政府に採用すべきであると論じています。
つまり、当時の西郷は、慶喜ひいては徳川家を武力によって一気に叩き潰そうなどとは一切考えていなかったのです。

また、この建白書内には、「全体皇国今日の危に至候事、大罪の幕に帰するは論を俟たずして明なる次第にて」との言葉が出てきます。
これは「現状の政治の混乱は、幕府に原因がある」ということですが、前々回のブログでも書いたとおり、西郷や大久保らが、まず幕府がこれまでの失政を心から反省し、真に謝罪の態度を見せることが何よりも先決であり、最も重要であるとの趣旨で、四侯会議を運営しようとしていたことにも繋がります。
つまり、当時の西郷や大久保は、王政復古政変を断行するにあたり、慶喜が真に反省の態度を示し、徳川家が薩摩と同様に諸侯の列に下り、朝廷を支えるという決断をするのであれば、「討幕」、すなわち武力をもって徳川家を追討しようとまでは考えていなかったのです。

しかしながら、小御所会議での評決を受け、慶喜が大坂城に退去した後、慶応3(1867)年12月25日に生じた「江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件」の一報が幕府側にもたらされたことにより、城中の会津、桑名藩兵を中心とした幕府軍は沸騰し、今にも京に攻め入ろうとする態度を見せました。
当時の西郷や大久保の警戒すべき相手とは、慶喜と言うよりも、その背後に控える会津と桑名藩勢力にあったと言えますので、この時になり、初めて薩摩藩側は、幕府に対して戦いに応じる決意と覚悟を持ったと言えます。

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大阪城(大阪市)

そのことは、慶応4(1868)年1月2日付けで、大久保が西郷に宛てた書簡に色濃く顕れています。
同書簡の中で大久保は、「今形慶喜上京相成候ては實以難取返次第ニ立至候ハ必定候付、是非會桑帰國取計上京と申今日之御達振ならては難相済奉存候」(『大久保利通文書』二)と書き、慶喜を上京させる前に会津と桑名藩兵を先に帰国させるべきだと主張していますが、もしそれが履行されず、慶喜が会桑の兵を引き連れて上京してきた場合は、

「戦ハ窮て出來不申、今日ニ相成候てハ戦ニ不及候得ハ、皇國之事ハ夫限水泡ト相成可申」

と断じています。
つまり、「そうなれば苦しい戦いとはなるが、今日に到っては、戦わなければ皇国のことはそれ限り、これまでの努力は全て水泡に帰することになるだろう」として、大久保は会津・桑名藩の動向と慶喜の態度如何によっては、決戦に及ぶしかないとの覚悟を西郷に対して示したのです。

また、そんな大久保の決意は、その翌日の彼の日記内にも表れています。1月3日の条には、

「昨日來之次第熟慮候處、關東變事一條も有之、必ス徳川慶喜趣意有之上京無相違、且土初之形體甚不審、今日ニ決セスンハ大事差迫は案中と存、戦ニ決する帋面相認」(『大久保利通日記』一)

とあり、江戸での薩摩藩邸焼き討ちの一件もあり、必ず慶喜は兵を率いて上京してくるに相違なく、また、土佐藩の動きも甚だ不審であるため、今に到っては戦うしかないと決心し、その旨を書面に認めたと記しています。
その書面とは同日付けで岩倉に宛てたもので、そこには、

「勤王無二ノ藩決然干戈ヲ期シ戮力合體非常ノ盡力ニ及ハサレハ不能ト被存候」(『大久保利通文書』二)

とあり、大久保は岩倉に対して、強い決戦の決意を述べています。

また、大久保は前出の1月3日の日記の中で、「昨日來坂兵會桑等大兵戎服ニて大砲小銃押立追々着伏、押て入京候ハヽ不得止防戦候段届相達候由承」と書いていますが、これは同日付けで送られてきた西郷書簡を受けてのものです。
西郷は大久保に対し、会津、松山、鳥羽藩の兵隊が銃装で伏見に着いたことを知らせ、

「朝廷よりの御沙汰在らせられ候迄は相控え候様取り押さうべく候え共、押して罷り登り候わば、防戦に及ぶべくとの趣申し遣わし候に付き早々出殿仕り、様子相待ち居る事に御座候」(『西郷隆盛全集』二)

と書いていますが、このように西郷・大久保ともに「防戦」という言葉を使用していることから分かるように、薩長と幕府軍が激突した「鳥羽・伏見の戦い」とは、薩摩にとって一種の「防衛戦」であったことが分かります。

この点については、拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、当時の在京兵力を比べても、薩長側が約四千程度であったのに対して、幕府はその三倍以上の約一万五千と圧倒的に差があり、薩長側が幕府と武力で衝突した場合、勝てる見込みはほぼ無かったと言えます。
そのことを見越してか、西郷は幕府と開戦に及んだ場合、長期戦を意識して、天皇を山陰方面に逃がすことを想定していました。それは西郷が書いたとされる覚書(「戦闘開始の場合御遷幸に関する協議書」『西郷隆盛全集』二所収)によっても明らかです。

以上のような点から考えると、一般に言われているように、当時の薩長が幕府との開戦のきっかけを求めていたというのは虚説以外の何物でもありません。
それは「鳥羽・伏見の戦い」が薩長側の圧勝に終わったという結果論から導き出されたものに過ぎず、実際、薩摩藩にとっての武力行使とは、幕府側から仕掛けられたことに対処するために発動した最終手段であったということです。
つまり、薩摩藩は幕府側に受けて立ったということです。
そして、前述のとおり、もちろんそこに勝算はありませんでした。
薩長ともに長期戦となることを覚悟した戦いでしたが、西郷や大久保の予想に反し、幕府軍は慶喜の大坂退去をきっかけに、数日間の戦いで自滅したと言えます。

以上のような点を理解せず、誤った解釈をとってしまうと、薩長両藩が開戦のきっかけを求めて幕府側を挑発しようとし、いわゆる江戸攪乱工作を西郷が仕掛けたなどという安易な陰謀論に到ってしまうと言えましょう。
実際はそんな安易な話ではなく、薩摩藩の武力行使とは、究極の最終手段であったと言えるのです。



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【2018/09/24 18:30】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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ukoji
西郷家で重要な役割の吉次郎を無視して
信吾に焦点を当てていたのは
西郷どんがイケメンミュージカルだからでしょうか

最近、高橋英樹氏が西郷役の40年前のTV映画、
【命もいらず名もいらず西郷隆盛伝】を見ることが
できました。
これはなかなか良かったです

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以前、脚本家の中園ミホさんは、「果たして史実をちゃんと綿密に調べたうえで創作しているのか?」と、疑問を呈したことがありましたが、前回から続く一連の展開を見ていると、益々その思いは強くなってきました。
何度も口酸っぱく申しますが、私は史実にこだわっている訳では決してありません。
ドラマである以上、創作は大いに結構と言うか、当たり前だからです。
先日、島津家32代当主の島津修久氏が、『西郷どん』における島津久光の描き方に苦言を呈されたことがニュースになっていましたが、これは脚本家が史実を知らない、いや理解していないがゆえに、登場人物に対する配慮やリスペクトが低くなったことにより起こったことではないかと私は感じています。

(龍馬と薩摩の対立)
前回のラストで坂本龍馬と西郷が対立する様子が描かれ、そして今回、その龍馬が暗殺されました。
この龍馬暗殺に関して、ドラマ内でいわゆる「薩摩藩黒幕説」は直接的に描かれませんでしたが、龍馬の妻のお龍が西郷に対して、「あんたが殺した!」と、詰め寄るシーンがありました。

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坂本龍馬誕生地(高知市)

また、その前には龍馬と西郷が仲違いするシーンも描かれましたが、龍馬が大政奉還を始めとする平和的な解決を望んでいたが、西郷ら薩摩藩関係者は武力を用いた倒幕にこだわっていたため、そんな龍馬の存在が邪魔となり、最終的に暗殺するに到ったという、この対立構図は、現在では理論的に破たんしていると言えます。

ここで断言しておきますが、龍馬は武力倒幕論者です。
龍馬は平和的に事を収めようと考え、大政奉還を推進した訳では決してありません。
これは龍馬の同志であり、海援隊士でもあった土佐藩士の岡内俊太郎が、はっきりそう書いています。
慶応3(1867)年10月4日付けで、岡内が当時長崎に居た土佐藩士・佐佐木三四郎(のちの高行)に宛てた書簡(以後「岡内書簡」と略す)には、次のようにあります。

「龍馬始め私共國元にある同志の議論は薩長協力兵力を用る議論にて御座候」(『坂本龍馬関係文書』一)

これは慶喜が大政奉還の上奏を朝廷に対して行う10日前に書かれた書簡です。
(9/19追記:『坂本龍馬関係文書』一によると、岡内書簡は明治36~37年頃に佐佐木高行の求めに応じて、岡内が当時の記憶を辿って同日付として書いたものとの編者による脚注が付いています。よって、この記述が正しければ、本書簡の信用性は低くなりますが、書簡の内容を見る限り、龍馬や岡内の行動に関して、大きな齟齬は無いと判断し、今回採用しました)

当時の龍馬は、土佐藩を薩長両藩が計画していた武力を用いた倒幕へと導くべく、長崎でオランダのハットマン商会から買い入れた小銃1300挺のうち1000挺を土佐に持ち込み、その受け入れを土佐藩の重臣たちと水面下で交渉している最中でした。
岡内書簡には、その時の経緯が詳細に記されていますが、「此小銃の一事にて愈御國元に於て之を容るヽ處と相成候はヽ幸と、若し俗論派のため拒まれ之を採らざる事に相成候はヾ實に不安次第」とあり、当初龍馬らは土佐藩が小銃を受け入れてくれるかどうか心配していたとの記述があります。

しかしながら、長崎から寄航した下関において、長州藩士の伊藤俊輔(のちの博文)から、「土佐で引き取ってもらえないようであれば、長州藩で使うので、下関に持ち帰ってはどうか」と言われたことにより、岡内も龍馬も奮起したようです。岡内書簡には、

「我々土藩の者何の面目あって再び長藩人に見へん、此一事最早成否如何によりては、最後の一決を行ふの外無之と才谷倶々談論仕候、是非此事は一死を期して盡す可くと誓ひ、御國元へ著之上の方策を講じ如何の事に成行き、又如何様の儀あるも再び長藩に持帰る事を成さヾるべしと決し申候」(『坂本龍馬関係文書』一)

と、龍馬らは無様に小銃を長州に持ち帰ることは面目が立たないとして、何とかして買い入れた小銃を土佐藩に受け入れさせるべく、決死の覚悟を誓い合ったとあります。
もちろん、その小銃は武力倒幕のために使うものであったことは、改めて言うまでもありません。
つまり、当時の龍馬らは、土佐藩内の武力倒幕支持派に対し、独自に武装支援することで、土佐藩を薩長両藩と共に武装蜂起させようと考えていたのです。

また、岡内書簡よると、龍馬らを乗せた船(龍馬は芸州藩の藩船・震天丸を借用していた)が長崎を出て下関に着港した際、見知らぬ蒸気船が東に向けて出航したため、龍馬が大いに焦って探索したところ、その船は大久保を乗せた薩摩藩船であることが分かったとあります。
慶応3(1867)年9月18日、大久保は直接長州にまで出向き、長州藩主父子に拝謁して、長州藩の要人らと京坂への出兵計画について打ち合わせを行っていますが、その大久保が京坂に帰る様子を龍馬らが偶然見かけたのです。

岡内書簡には、大久保が長州を訪問した事実を知り、「心事不易(心中穏やかではなかった)」と書かれています。
龍馬らがなぜそのように感じたのかについては、岡内書簡内に「御國元藩論未だ双派に別れ一決せず、其時薩長は最早一致」とあることで分かります。
つまり、龍馬らは大久保の長州訪問を目撃したことにより、薩長両藩が既に藩論を統一し、着々と挙兵のための準備を進めていることに焦りを感じたからです。
薩長両藩と比べ、龍馬らの本国である土佐藩は、未だ藩論が二派に分かれていたことから、龍馬らは心中穏やかではなかったのでしょう。
そして、岡内はさらに次のように続けて書いています。

「我本藩因循最早一日も油斷不相成、速ニ土佐に帰り大に此等の事情を陳べ、是非薩長と事を合する外無之」

つまり、龍馬らは最早一刻の猶予もないと考え、いつまでも煮え切らない土佐藩の藩論を統一し、土佐を薩長の挙兵に合流させるため、速やかに土佐に帰国しようと決心したのです。

拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、慶応3(1867)年9月20日付けで、龍馬から長州藩の木戸孝允に宛てた書簡には、木戸から話を聞いた薩長両藩の武力倒幕計画について、

「大芝居の一件、兼而存居候所とや、実におもしろく能相わかり申候間、弥憤発可仕奉存候」(『龍馬の手紙』)

とあり、龍馬自身が武力倒幕計画のために奮起しようとしていた様子が分かります。
そしてまた、この木戸宛て龍馬書簡内にも、前出の長崎で買い入れた小銃のことが出てきます。
龍馬は、「私し一身の存付ニ而、手銃一千廷買求、芸州蒸気船をかり入、本国ニつみ廻さんと今日下の関まで参候」と、木戸に対して小銃を自らの一存で買い入れたことを説明し、それは「急々本国をすくわん事を欲し」たためであったと説明しています。

当時の土佐藩は、薩摩藩から「薩土盟約」を事実上破棄され、また、前土佐藩主・山内容堂の意向により、土佐藩参政の後藤象二郎が武力を用いない大政奉還建白運動を京において展開していましたが、それは遅々として進んでいない状態にありました。
龍馬はそのことを危惧し、土佐藩を救うため、土佐の藩論を武力倒幕に転換させようと考え、大量の小銃を持ち込み、藩内の武力倒幕支持派に武装支援を行おうと考えていたのです。

また、これも拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』に書きましたが、龍馬は土佐藩の藩論が因循の域を出ないのは、武力を用いない建白活動を続けている後藤の存在が害となっているからだと考え、後藤を京から土佐に帰国させた方が良いのではないかと考えていたようです。
そのことは、同木戸宛て龍馬書簡内に、「後藤庄次郎を国にかへすか、又は長崎へ出すかに可仕と存申候」とあることで分かります。
以上のように、龍馬は土佐藩が薩長と共に協働して事を進められるよう、土佐藩を説得しに帰国しようと考えたのです。

前出の岡内書簡によると、土佐に帰国した龍馬は、土佐藩の渡辺弥久馬本山只一郎ら要人に対して、現在の時勢や政局を滔々と述べ、薩長に協力するよう求めました。岡内書簡には、

「種々坂本より申上げ、大に時勢の大體を御看破に相成り、實に薩長と同心協力盡さずんばある可からずと云はれ」

とあり、龍馬が必死に薩長に協力するよう、土佐藩の要人たちを説いた様子がうかがえます。
しかしながら、前述のとおり、土佐には容堂という、心情的に幕府を擁護しようと考える大きな存在があり、容堂は武力では無く、建白によって朝廷への政権返上を進めたいと考えていました。
岡内書簡にも、「御隠居様思召には兵を用る事は御好不被為遊事より御建言を為すの策を御採り被為遊思召にて被為在」と、容堂の意向が触れられており、土佐藩はそう易々と藩論を変えることが出来ない状況にあったと言えます。

しかし、龍馬らはそのことに大きな危機感を抱いていました。岡内書簡には、

「後藤象二郎殿も兵を用る事の議論は無きよし、然るに天下の大勢薩長の協力愈兵を用る事に相決し居候事に候はヾ、土佐と薩長とは藩論一致さヾるの勢とも可相成歟、薩長兵力に據る時土佐傍観も如何あらん、實に重大の關係を生じ可申歟」

とあり、もし薩長が挙兵し、それを土佐が傍観するような事態になれば、薩長両藩と土佐藩との関係に重大な問題が生じることを龍馬らが危惧していたことが分かります。

このように、容堂の存在によって、土佐藩の藩論が煮え切らない状態にあることを苦慮していた渡辺弥久馬ら土佐藩要人は、龍馬らに対して、早々に京に出て、後藤を説得し、薩長両藩に協力させるよう求めました。
岡内書簡には、「兎に角龍馬私ともは早々京師に出て盡力するを偏に御希望の次第にて、畢竟後藤象二郎殿に説き、薩長と反せぬ様相運ぶ事を主と致し候事情に御坐候」と、その事情が記されています。

この渡辺らの依頼を受けて、慶応3年10月5日、龍馬は土佐藩船・空蝉に乗り、京へと向かいました。
つまり、龍馬が京に向かった目的とは、一般に言われるように、武力を用いない平和的な大政奉還を推進するためでは無く、実はその逆で、土佐藩を薩長両藩と協働させ、武力倒幕へと導くためであったということです。
つまり、龍馬の目的とは、後藤に平和的な建白運動を放棄させ、薩長の挙兵に土佐を加えさせるためであったのです。

事実、10月9日に京に入った龍馬は、その通りの行動に出ています。
翌10日頃、龍馬は後藤に宛てて書簡を送っていますが、その中には、

「けして破談とはならざるうち御国より兵をめし、御自身は早ゝ御引取、老侯様に御報じ可然奉存候」(『龍馬の手紙』)

と、武力を用いない平和的な大政奉還の建白運動が失敗に終わらない内に、土佐から兵を呼び寄せ、後藤自身は早々に帰国して、容堂にその旨報告した方が良いと進言しています。

以上のような経緯を見れば明らかですが、龍馬は薩長両藩と対立していたどころか、薩長側に居た人物であり、そこには一般に言われる「平和主義者」の一面は全く見られません。
むしろ龍馬は、薩長の武力倒幕策を強く支持しており、その薩長に土佐藩を加えさせたいと考える意図が強くあったのです。

ただ、そんな龍馬が最終的に後藤の建白による大政奉還運動を支持したのは、薩長両藩による武力挙兵計画が薩摩藩兵の出兵が遅れたことにより、一時的に頓挫したからです。
薩長が武力を用いることが出来ない状況になった時、初めて龍馬は翻意し、後藤の働きに賭けたのです。
そのことは拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、結局、龍馬が最終的に後藤を支持したのは、やはり龍馬が土佐人であったからです。
龍馬は後藤の奮闘ぶりを間近に見たことにより、土佐に小銃を持ち込んで武装支援したのと同様に、土佐を救わんことを欲し、後藤を激励、応援したと言えましょう。
また、龍馬は「幕府対薩長」という政治の対立軸に対し、薩長とは異なった別の政治路線を提示することは、土佐藩の存在価値を高めるのではないかと考え、西郷ら薩長関係者に叱責されることを恐れず、最終的に後藤に協力したのではないかと私は考えています。

(検証:西郷と短刀の逸話)
NHKの『西郷どん』の公式Webサイトには、次回予告として、主役の鈴木亮平さんの「西郷どんの目線」というコメントが毎回更新されていますが、第35回の見どころについて、

そして、もうひとつの見どころは、「短刀一本あれば片がつく」という西郷さんの名言でも知られる、小御所会議のシーンです。第32回「薩長同盟」もそうでしたが、史実として伝わる有名なエピソードをどう印象的に表現できるか、ここでは、狡猾(こうかつ)な手段を使えるようになった吉之助から「おそるべき覚悟」を感じていただけることを、僕としては大事にしました。

とあり、今回のドラマ内で描かれた、小御所会議における「西郷と短刀の逸話」を史実として扱っていますが、この逸話について、史実と判断して良いかどうかはとても微妙です。
そもそもこの西郷が短刀云々と言って、岩倉を励ましたという逸話の典拠を見てみると、明治44年に発刊された、長州藩主・毛利敬親の事蹟を記した『忠正公勤王事蹟』には、著者の中原邦平が小御所会議に出席していた薩摩藩家老の岩下佐次右衛門(のちの方平)から聞いた話として、次のように書かれています。

「此の方平君に親しく聞いた話でございますが、どうも越前だの土佐だの、其他の佐幕論が烈しいので、さすがの岩倉公と大久保の二人も困って居るから、是は一つ西郷の意見を聞くが宜いと云ふので、岩下は急使を派して、西郷吉之助を呼びにやりました、西郷は會議の席へ出る積りではないから、袴も穿かず、著流しに兩刀の次第で、どうも反對論が多くて、岩倉公も一蔵も困って居る、是はどう云ふ風にしたら、治まりが付くだらうか、お前の意見を聞かうと思って、呼出したと言った所が、西郷は平気の平左で、何の方法も手段もあるものか、短刀が一本あれば、始末が付くぢゃないか、其の事を岩倉公へも申上げ、一蔵へもさう傳へて呉れと云って、スーッと帰って終った」

このように、西郷から「短刀が一本あれば、始末が付く」と言われた岩下は、それを岩倉具視に伝えると、岩倉は短刀を懐に入れ、「若し次席に於て後藤等が前論を固執するなれば、止むを得ず御前の席で恐入るけれども、霹靂の手段で、一呼吸の間に事を決して終ふ」と、覚悟を決めたと同書にあります。
また、この岩倉の決意は、芸州藩主の浅野長勲に伝えられ、それに驚いた浅野は、同藩家老の辻将曹を呼んで相談しました。辻はその岩倉の決心を土佐藩士の後藤象二郎に告げたところ、その話が後藤から前土佐藩主・山内容堂前越前藩主・松平春嶽へと伝わり、彼らはその後会議で沈黙したのです。

一方岩倉の決心を聞いた浅野長勲の口述で編纂された『王政復古の事情』には、同様に次のような話が記載されています。

「西郷吉之助は軍隊指揮の任にありて、議席に列しなかったが、此會議の紛状を聞き更に驚く気色もなく、止むを得ざるときは之れあるのみと、懐中より短刀を示しました、此時岩倉三位は余を麾いて、一室に誘ひ申さるヽには、薩、土の間議論大に衝突し、是より遂に維新の大業も水泡に帰せんことを憂惧せられ、余に後藤象二郎を説諭せよとの依頼を受け、先づ試に辻将曹をして後藤象二郎を説かしむる」

このように、確かに両書には小御所会議における西郷と短刀の逸話の記載がありますが、この逸話には少し懸念すべき点があります。

まず、『忠正公勤王事蹟』の情報元である岩下ですが、明治25年11月2日、史談会の席上で小御所会議について語り遺していますが、そこには西郷が岩倉に短刀云々と言ったという話が全く出てきません(史談会速記録第五輯「慶應三年丁卯十月小御所會議の事實附十一節」『史談会速記録』(原書房)合本一所収)。
同速記録の中から、この短刀に関連する話を探すと次のようなやり取りがあります。
『忠正公勤王事蹟』の著者である中原邦平が岩下に対して、

「小御所の寄合の時、後藤さんは論が合わぬで、岩倉さんと大久保さんに別に話をせねば、刺違へると云はれたとやら聞きまするが」

と問いかけたところ、岩下は、

「夫れ丈けの事は無いでせふ」

とだけ答え、後は公卿の中山忠能が「日本に諸侯はない、諸藩と云ふが宜からふ」と発言したなどという、別の話にすり替わってしまっています。
つまり、岩下は史談会の席上で中原の問いかけに対して、西郷が短刀云々と言って岩倉を鼓舞したという話を全くしていないのです。

また、西郷に短刀云々と言われた岩倉側から見てみると、岩倉の伝記である『岩倉公実記』には、

「具視退キ休憩室ニ入リ獨リ心語ス、豊信猶ホ固ク前議ヲ執リ動カサレハ吾レ霹靂ノ手ヲ以テ事ヲ一呼吸ノ間ニ決センノミ」

とあり、西郷の示唆に対する言及は一切無く、岩倉自身が「霹靂ノ手」、すなわち豊信こと容堂に対して、短刀を用いた刺殺を決意したことになっています。

慶応3(1867)年12月9日の夜に開催された小御所会議については、今回の『西郷どん』でも描かれたように、西郷は会議には出席せず、御所の警固にあたり、一方大久保は会議に出席しました。
大久保と同じく小御所会議に出席していた越前藩の重臣・中根雪江が書いた「丁卯日記」(『史籍雑纂』四所収)によると、薩摩藩の家臣では大久保の他に、前述のとおり家老の岩下が会議に出席しており、その席上で山内容堂と公卿の岩倉具視、薩摩藩主・島津忠義との間で議論となり、そして、家臣の大久保や後藤を巻き込んでの激論となったわけですが、問題は小御所会議に出席していなかった西郷が、会議の最中に岩下から呼び出しを受けた事実があったのかどうかについてです。

この点について、当日の大久保の日記を見てみると、西郷のことについては一切触れられていません。12月9日の条には、

「今夜五時於 小御所御評議、越公容堂公大論公卿を挫き傍若無人也、岩倉公堂々論破不堪感状、君公云々御議論、容堂公云々御異論、不止得予席を進ミ云々及豪論候、後藤中を取而論、越土之論直様慶喜を被召候と之趣ニ而全扶幕之論也」(『大久保利通日記』一)

とあり、容堂や春嶽が慶喜を会議に出席させるよう求める発言をし、それに対して岩倉や忠義が反論した様子が分かりますが、議論が紛糾したために、西郷が呼び出された云々は一切出てきません。
また、大久保の日記には続いて、

「一應 御勘考 御退坐、其内後藤より予ニ云々議論有之候得共、兼而決定之國論を以敢不動、越尾終ニ御受ニ而二條城ニ御行向御盡力御決相成候」

との記述があります。
前後の文脈から解釈すると、大久保曰く「退坐」とは、休憩のための中座だと思われます。
退坐の前に「一應 御勘考」との文字があるということは、まだ会議の結論が出ていなかったことを意味し、また、後藤との議論を経て「越尾終ニ御受ニ而」とあることからも、退坐とは中座だと解釈するのが適切です。
つまり、諸書にある通り、小御所会議は議論が紛糾したため一旦休憩に入ったことは間違いなく、またその際に、大久保が後藤の呼びかけにより議論したことが大久保の日記から分かります。
そして通説では、この休憩中に西郷が呼び出され、岩倉に対して短刀云々と言ったと繋がるわけですが、しかしながら、前出の岩下の史談会での談話を見ると、聞き手である元薩摩藩士の寺師宗徳が、

「何時か伺ひましたことがござりまするが、御會議でござりますか、大久保が西郷を呼ひに行って後藤と談したところ、後藤の論が強くて、是れは己れ一人では勝てぬから、加勢に來よと云ひしことがありしとやら覺へます」

と岩下に対して質問したところ、岩下は、

「夫れは後である」

と返し、続いて、

「其後とで畢竟反對論で、大久保は余程長いことを申した、夫れで御評議が済んだ、其れから後とて控所に居る時分に、大久保が来て、西郷に來て呉れ、余程激しいからと云って來た」

と語り、西郷を呼び出したのは小御所会議の終了後だとし、その際に後藤が議論をふっかけてきたので、大久保が西郷に助力を求め、その後、後藤を交えて西郷、大久保、岩下の四人で議論したという風に答えています。

ただ、この岩下の発言は、小御所会議から25年も経った後のものであり、やはり記憶違いもあると割り引いて考えた方が良いかもしれません。
例えば、岩下はこの時とは別の談話において、前出の寺師宗徳に対して、

「特ニ大久保ハ驚喜ニ耐ヘス御前ニ進ミ出テ公ノ御説ヲ布衍シテ長々シク奏上シタリ、中山忠能、岩倉具視ノ諸公皆同意セラレシニヨリ異議ナク議決セリ、一同御前ヲ退キシニ別室ニ於テ再ヒ大久保ト後藤ト論議アリ、大久保モ殆ント語究セシト見ヘテ予等ノ据間ヘ來リ、皆々加勢ニ來レヨト申シタリ、西郷、小松、予、三人連レ立チ行ケリ」(史談会速記録第百八十一輯附録「島津家事蹟訪問録」『史談会速記録』(原書房)合本二七所収)

と、小御所会議について語っており、前出の史談会での談話と同じく、会議の終了後に大久保と後藤の議論が始まったとありますが、当時京には居ないはずの小松を連れて大久保に加勢したと言っていることからも、岩下の回顧録は少し信用性に乏しい部分もあると考えられます。

前述のとおり、岩下は史談会の席上で短刀の話を全くしておらず、また、『大西郷全集』三の「西郷隆盛伝」には『忠正公勤王事蹟』と同様の話が出てきますが、それより古い時代に書かれた勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、『岩倉公実記』と同様に、西郷による示唆はなく、岩倉が自ら短刀を懐に入れて覚悟を決めたとしかありません。
ただ、岩下の一連の証言を無下には出来ませんので、全ての整合性を保たせるのであれば、大久保が後藤と議論したのは、会議の休憩中と終了後の二回あり、西郷が岩下に呼ばれて参加したのは、会議終了後の議論であったということではないでしょうか。
そのように解釈すると、会議の休憩中に西郷が呼び出され、岩倉に対して短刀云々と言ったことにより、小御所会議が収束へと向かったという逸話は、現実には無かったことになります。

以上のように、岩下が『忠正公勤王事蹟』の著者の中原邦平に語った「短刀が一本あれば、始末が付くぢゃないか」という西郷の逸話は、そのような事実が本当にあったのかどうか、懐疑的にならざるを得ず、その信用性に関しては、真っ黒とは言えないものの、灰色に近いものだと言えるかもしれません。

(付記)
薩摩藩士に折田要蔵という、西郷と取っ組み合いの喧嘩をしたとの逸話を持つ人物がいますが、小御所会議が開催されていた時、折田は御所の警固にあたっていました。
その折田の当日の日記に、次のような記述があります。

「一、途中ニテ内田仲之助ヘ行逢ヒ、朝中之有様ヲ伺ニ、西郷モ先刻退朝、唯今議論紛紜ニテ六ヶ敷成立、太守様余程御議論最中、早ク西郷ヲ不出シテ難叶ト言捨テ立去リタリ、嗚呼如何成事ノ出来ラント、手ヲ握リテ立帰リタリ、終夜不眠」(「折田要蔵日記抄」『忠義公史料』四所収)

この記述の中にある内田仲之助とは、薩摩藩士・内田政風のことですが、この日記の前半部分は、「途中で内田に会い、朝廷内の様子を伺ったところ、西郷も小御所会議開催のために先刻退朝し、ただ今議論が紛糾していて難しい状況となっており、藩主・忠義公もかなり頑張って議論しておられる最中」ということだと思いますが、それに続く部分の意味が少し取りにくいと感じています。

「早ク西郷ヲ不出シテ難叶ト言捨テ立去リタリ」

という部分ですが、内田が「早く西郷を出さない(呼び出さない)と(目的が)叶わない」と言い捨てて立ち去ったのだと解釈すれば、小御所会議での議論が紛糾していたため、薩摩藩関係者の間には、当時警固にあたっていた西郷を再び参内させて、藩主・忠義や大久保に加勢させようとする声が起きていたのかもしれません。
また、折田が「ああ何とかならないものかと手を握りしめて立ち帰った。終夜眠れなかった」と書いていることからも、小御所会議での議論は、短刀一本でカタが付くような、そんな簡単な話ではなかったようにも思います。



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【2018/09/16 22:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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ukoji
先日の大河は苦笑い


スコたま
膨大な資料の読み込みぶり、感服致します。

雪舞い、しばれる夜の京都。
当日は物騒な薩摩兵児どもに取り囲まれた軟禁状態にある訳で。何時になくうろたえた側近に「殿・・さ、西郷がこんなこと言っておるそうです・・」とコソッと命の危険を耳打ちされれば、容堂にしてみれば生涯初めてリアルに「死」の恐怖を思い知らされ小便くらい漏らしたことでしょう。

西郷が言ったか岩倉が吹いたかはたまた事前に打ち合わせていたか判りませんが議論妨害甚だしく吠える“徳川の犬”には当然切りたくなる、否、切るべきカードでありましょう。

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(西郷と討幕)
『西郷どん』では、かなり早い段階から、西郷が「討幕」を決心していたかのように描かれてきました。
私が「倒幕」という言葉ではなく「討幕」と書いたのは、NHKの公式Webサイトが「討幕」という言葉を使用しているからですが、拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』でも書いたとおり、当時の西郷は「討幕」など考えてはいません。
その根拠は明確です。
慶応3(1867)年8月14日、京の小松の寓居で行なわれた小松、西郷、大久保の薩摩藩要人と長州藩士・柏村数馬、御堀耕助との会談記録が『修訂防長回天史』の中に「柏村日記抄」として収録されていますが、その会談時に薩摩側のおそらく西郷と思われる人物が、

「弊藩に於て討幕は不仕(弊藩において「討幕」はしません)」

と、はっきり語っているからです。
ここは薩摩藩の倒幕運動を考えるうえで、とても重要な点ですが、ドラマの制作者側はこの事実を知ってか知らずか、とにかく無視して話を進めています。
なぜなら「討幕派 vs 幕府」という二項対立関係にしなければ、ドラマが分かりにくくなるからです。
平たく言えば、いわゆる「善 vs 悪」の構図に持って行った方が単純明快だということです。

しかしながら、実際の歴史がそんな単純な対立で動くはずはなく、種々様々な過程を経た末に幕府が倒れ、戊辰戦争が起こることになるわけですが、その政治的な変遷や過程を見せるには、余りにも時間が少なく、そして内容が複雑、難解になるがゆえに、ドラマで描くことは敬遠したのでしょう。
ただ、そこを上手く描くことが、脚本家の腕の見せどころだと思うんですけどね。

また、この政治的な変遷や過程をきちんと描いておかなければ、西郷という人物の正確な評価が下せず、その人物像が不明瞭となるばかりか、この過程を端折ることによって大きな誤解が生じます。
それは「西郷は初めから幕府を倒そうと考えていた」というものです。
つまり、西郷が最初から幕府を武力で討伐しようとする「武断派」であったかのような誤解を生む原因になるということです。

ただ、私から言わせれば、この誤解が一番タチが悪いもので、いわゆる「江戸攪乱工作」などという、西郷が武力で幕府を倒すために陰謀を仕掛けたなどという虚説を生み出した根本原因になっていると言えますが、よくよく考えると、現在の『西郷どん』はこの誤解に基づく路線で描かれています(苦笑)。
ドラマの制作者側は、この誤解通りに西郷を描いていることに対し、一切の抵抗を感じていないのでしょうか?
もし『西郷どん』が、西郷隆盛という人物の虚像を否定し、その実像を浮かび上がらせ、再評価を目指すものであったとしたならば、前述の誤解を解くべく、どんなエピソードよりもそれを優先して、西郷の考えや実像を丁寧に描くべきだったと思いますが、それをしていない、いやしなかったということは、単なるエンターテイメント志向に過ぎなかったということです。

私は史実云々などという、そんな細かいことを言っているのではありません。
この倒幕に到る過程は、慶応期における西郷評価の根幹部分であり、そして西郷が武断派であったという誤解を解くためにも、正確にそして丁寧に描く必要があったにもかかわらず、それを今回のように、まるで歴史的な事実を表面上継ぎはぎしただけで描いてしまっては、何のための西郷が主役の大河ドラマなのかがよく分かりません。
「大河ドラマは元々エンタメドラマだから、余り固いことを言わなくても良いのでは?」と主張される方もおられるでしょう。
しかし、毎週テレビに西郷隆盛が主役で登場し、そしてこのような形で世間の注目を浴びる機会は、おそらくもう二度と訪れることはないでしょう。
つまり、今年は西郷に被せられた虚像を剥がす絶好の機会であったにもかかわらず、そのチャンスを生かそうとせず、旧態依然の西郷像を踏襲して垂れ流しているのですから、もったいないとしか言いようがありません。
私のように、長年西郷隆盛を愛し、そして調べてきた者にとって、それが本当に残念で仕方がないのです。

(四侯会議)
今回のドラマ内でアッと言う間に描かれた「四侯会議」は、薩摩藩の、そして西郷のターニングポイントともなった重要な出来事であったと言えます。
四侯会議をちゃんと描かなければ、「西郷がなぜ武力を背景にした政権奪取策を考えるに到ったのか?」がよく分からなくなるのですが、今回の『西郷どん』は完全に流してしまいましたので、ここで少しまとめておきたいと思います。

四侯会議とは、簡単に言えば、国内政治の主導権を幕府から雄藩連合側に奪うために構想されたもので、薩摩藩の島津久光を筆頭に、前越前藩主の松平春嶽、前土佐藩主の山内容堂、前宇和島藩主の伊達宗城といった、当時賢侯と呼ばれていた四人の人物を京に招集し、その合議によって朝議を主導しようと試みたものでした。
いわゆる有力雄藩による公議政体構想を実現しようとした試みであったわけですが、そこに立ちはだかったのが第15代将軍・徳川慶喜です。

今回のドラマ冒頭で紹介されていましたが、慶応2(1866)年7月20日、第14代将軍・徳川家茂が大坂城において21歳の若さで急死しました。
家茂が薨去したことにより、その跡目については、通常ならばヒー様こと一橋慶喜が継ぐのが順当であったと言えますが、事はそう簡単にはいきませんでした。
『徳川慶喜公伝』三によると、

「将軍薨去の報傳はるや、天璋院夫人は、「御遺命のまヽ田安亀之助を」と仰せられしに、和宮は、「唯今の時勢、幼齢の亀之助にては如何あるべき、確かなる後見の人なくては協はざることなれば、然るべき人體を天下の為に選ぶべし」と表方へ仰出さる」

とあり、家定夫人の天璋院と家茂夫人の和宮とでは、意見が分かれていたとあります。
この両者の言葉に代表されるように、江戸においては、将軍継嗣について大きく意見が割れていました。
だいぶ以前にも本ブログで書きましたが、慶喜という人物は、実父である元水戸藩主・徳川斉昭の評判の悪さが影響を与え、元々大奥方面では人気が無く、また、長らく江戸を留守にし、幕閣とも疎遠になっていたことから、当時慶喜を将軍継嗣に推す声はそれほど多くなかったと言えます。
家茂の薨去後、慶喜は徳川宗家を継ぐことを了承しながらも、将軍職を継ぐことは固辞するという、一見不可解な行動をとったのは、こういったことにも原因があったと思われます。
つまり、慶喜としては、元々人気の無い自分がすぐに将軍に就任すれば、将軍職欲しさに動いたと批判されることを考慮し、周囲の者たちから推される、つまり待望されて将軍に就任するという形を取りたかったということです。

ちなみに、慶喜の回想録である『昔夢会筆記』には、家茂が薨去し、慶喜自身の将軍継嗣問題が浮上した際、慶喜が近臣の原市之進に対して、「この際断然王政の御世に復して、ひたすら忠義を尽くさんと思うが、汝の所存はいかに」と語ったという逸話が入っていますが、これは後付けの話に過ぎないでしょう。
慶喜が将軍職就任に色気を持っていたことは、他の史料を勘案してもまず間違いないと思われますが、慶喜としては、自らの野心により、将軍職に就いたわけではないことを後世に語り遺しておきたかったのだと思います。
そんな慶喜も、結局は慶応2(1866)年12月5日、第15代将軍に就任することになります。

慶喜が将軍に就任した頃の西郷は、雄藩による公議政体構想を実現するため、久光を始めとする四人の賢侯たちを京に集めて会議を行う、いわゆる「四侯会議」の開催に並々ならぬ強い意欲と熱意を持ち、それに全てを賭けていたと言っても過言ではありません。
慶応3(1867)年2月晦日付けで、西郷が大久保に宛てた手紙には、

「此の度の衆議相決せず候か、又は御決定在らせられず候得ば、退身の含みに御座候故、強く申し建ても致さず候得共、案外の事にて、我輩は飛揚此の事に御座候」(『西郷隆盛全集』二)

とあり、重臣会議で久光の上京案が認められなければ退職するつもりであったが、案外簡単に事が運んだので、飛び上がらんばかりに嬉しかったと書いています。

また、同大久保宛て西郷書簡によると、その重臣会議後、西郷は家老の桂久武島津伊勢と共に久光と藩主・茂久に拝謁し、そこで久光の上京を取りつけることに成功しました。
そしてその後、西郷は慶応3年2月13日、同志の吉井幸輔と共に藩船・三邦丸に乗り、前土佐藩主・山内容堂の上京を実現すべく、一路土佐へと向かいました。
勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、次のようにあります。

「隆盛の高知に着するや先づ福岡孝悌に會し、而して後容堂に面謁したり、隆盛即ち久光の命を述べ其意見を説明したりしが、容堂は直に隆盛の説を賛成して曰く、抑も我山内家は元來徳川家に對しては恩義の関係尤も深し、然りと雖も皇國の為に公論正義に従ひ、以て進退を決すべきは是れ天下の至道なり、須らく全力を擧げて之に盡さざる可らずと断然確答し、隆盛が猶高知に滞留せるの日既に上京の命を藩内に達したり」

西郷と容堂の面談の様子については、前出の大久保宛て西郷書簡にも出てきますが、そこには「気味能き御返答にて、生きて再び罷り帰らずと迄仰せられ」(『西郷隆盛全集』二)と、容堂が並々ならぬ覚悟と決意を見せたとあります。

DSCF0423.jpg
山内容堂・西郷隆盛会見の地(高知市)

このように、容堂はすんなりと上京することを確約したことから、西郷はその足で伊予の宇和島へと向かいました。
久光、容堂に続く三番目の人物、前宇和島藩主・伊達宗城に上京を求めるためです。
『伊達宗城在京日記』によると、西郷が宇和島に着いたのは同年2月23日のことで、その翌日、西郷は宗城に拝謁し、上京を求める趣旨を説明しました。
それに対して宗城は、「委細致承知御趣意御尤之儀御同意ニ存候、尤當今救時之大策着眼ハ更ニ無之候得共、兼々御同盟之事故可致上京」(『伊達宗城在京日記』)と、その趣旨に同意し、上京すると答えたとありますが、前出の大久保宛て西郷書簡には、

「宇和島は余程因循の御説にて、上京成さるとは御返答在らせられ候得共、覚束なく思われ候」(『西郷隆盛全集』二

とあり、宗城は上京するとは言いながらも、曖昧な返事に終始していた様子がうかがえます。西郷はそんな宗城の態度に対し、心許ない印象を持ったのです。

ちなみに、以上のような西郷と容堂、そして宗城との面談内容については、土佐脱藩浪士の中岡慎太郎が鹿児島を訪れた際、西郷や吉井から直接話を聞き、それを日記に書き留めています(「行行筆記」『中岡慎太郎全集』所収)。
その中岡の日記に一つ面白い話が入っています。
中岡の記述によれば、西郷と宗城の面談が終わり、その後、酒宴になった際、宗城が西郷に対して、

「吉之助、京都に愛女があるか?」

と尋ねたところ、西郷が、

「御座候」

と答え、さらに宗城が「名は何と云うや?」と尋ねると、西郷が「此れは申上ましたとて何にも不相成事故、今少し何か御為に相成ることを御尋ね被下度」と返しました。
これはとても有名な逸話で、西郷が「御座候(ございます)」と言った愛人とは、いわゆる「豚姫」と呼ばれた女性(『西郷どん』ではハリセンボンの近藤春菜さんが演じています)を指すと言われていますが、元来これは酒席での話であり、西郷が宗城の問いかけに対して、体良くあしらっている様子がうかがえますので、西郷がまともに対応したものでは無く、適当に相づちを打つ程度で答えただけで、豚姫を指すものでは無いように思います。

閑話休題。
このように、西郷は自ら四国にまで出かけ、容堂と宗城を上京させるべく尽力したわけですが、もう一人の主役である前越前藩主の松平春嶽については、家老の小松帯刀が一役買いました。
慶応3年3月22日、当時京に居た小松は、岡崎の越前屋敷を訪ね、越前藩重臣の酒井十之丞と面会し、久光が上京することになったことを告げ、併せて春嶽の上京を求めました。
『続再夢紀事』六には、「大隅守愈上京する事に決し本月廿日鹿児島を發すへし、就而は大蔵太輔殿にも速に御上京在らせらるヽ様御相談に及ふへき旨申遣はせり」と、小松が来訪した趣旨が記されています。

こうして春嶽の上京も決まり、慶応3年3月25日、久光はその先陣を切るように、西郷と兵士六隊(およそ七百名)を引き連れて鹿児島を出発、4月2日に大坂に着き、12日に京の二本松藩邸に入りました。
久光にとって、これが通算四度目の上京です。
そして遅れること3日、4月15日には伊達宗城が、4月16日には松平春嶽が相次いで入京し、残るは土佐の山内容堂を残すだけとなりました。

ここからは四侯会議の経緯について最も詳しい越前藩の記録である『続再夢紀事』六を元にして、時系列で分かりやすく書いていきたいと思います。

春嶽が上京した翌4月17日、小松が久光の名代として春嶽の元を訪ねました。
『続再夢紀事』六によると、春嶽は小松に対し、「上京してきたのは、久光の求めに応じただけでなく、朝廷や幕府からも上京するよう仰せ出されたからであって、特段良策を持ってのことではない」と述べましたが、小松はそれに対して、「大隅守とても御同様にて別段に見据へたる事なく御集會之上御相談に及ひ御決議の次第を朝廷へ言上すへしとの事」と返したとあります。
この時点において、四侯会議を画策した薩摩藩首脳部(小松、西郷、大久保)の間には、一定の方針があったと言えますが、今回四人の賢侯を京に集めようと画策したのは、四人の合議による力によって、幕府に対抗しようと考えたものであったので、小松としては、主役は久光だけでは無いことを春嶽にも示しておきたかったのでしょう。

それを受けて、4月21日、今度は春嶽が宗城と共に薩摩藩邸に久光を訪ねました。
この時点でまだ容堂は上京していなかったため、まずは三人で顔合わせと簡単な打ち合わせを行おうと考えたのでしょう。この時の会談内容についても『続再夢紀事』六に詳しくありますが、その席上で久光は、大変重要なことを二人に対して告げました。
将軍・慶喜が大坂城で英仏蘭米の四カ国の公使等と引見した際、兵庫を開港することを確約したという話です。
また、この時久光は、小松がイギリスの通訳官アーネスト・サトウから聞いた話として、イギリス人が兵庫開港確約について新聞紙上に掲載して良いかと老中に問い合わせたところ、幕府側は「苦しからず」と答えたようだと二人に対して話しました。

この日からさかのぼること約1ヶ月前の3月25日から数日間にかけて、慶喜は大坂城に四カ国の公使等を招き入れて、それぞれ引見しましたが、その際、朝廷から未だ勅許を得ていないにもかかわらず、兵庫港を約束通り開港すると宣言していました。(今回の『西郷どん』で描かれたフランス公使・ロッシュとの会談は、この引見よりももっと前、2月6日、7日のことです)
これを知った久光は、不快感を露わにしました。
兵庫開港については、まだ幕府から朝廷に対してお伺いを立てている最中であり、諸藩にも意見を求めている状況であるにもかかわらず、外国人に対して、既に開港を確約したことは順序が逆で不都合ではないかということです。
『続再夢紀事』六には、春嶽と宗城もその久光の意見に同意したとありますが、この兵庫開港の件については、四侯会議における重要案件となるのです。

そして5月1日、ようやく土佐の山内容堂が入京しました。
これで四侯会議の四人の主役が全て京に出揃ったわけですが、その3日後の5月4日、越前藩邸において、初めて四人全員が集まり、今後の予定について話し合った結果、明後日の5月6日に摂政の二条斉敬を訪ね、今後の朝政の順序(何の課題から手を付けるのか)と当時の懸案事項となっていた朝廷の議奏と武家伝奏の人事案件(当時後任が決まっていなかった)について話すことを決定しました。

このように四人打ち揃い、まずは摂政の二条に拝謁することになりましたが、その前に西郷は、久光に対して建白書を書いています。
四侯会議開催中、西郷は何と合計四通もの建白書を書き、久光に差し出していますが、これは西郷文書中でも異例の多さです。
この事実をもってしても、西郷の四侯会議にかけた熱意がうかがい知れますが、西郷はその最初の建白書(以後「建白書1」と略す)において、前述の議奏武家伝奏の人事案を示し、三条実美を天皇の補佐に求めるよう、久光に対して建言しました。

議奏と武家伝奏の人選について、西郷がこだわりを見せたのは、この両職が四侯会議の成否を決める重要な役職であると認識していたからです。
議奏とは天皇への上奏を取り次ぐ役目であり、武家伝奏は武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役職です。
西郷は四侯会議を成功に誘うためにも、この両職には反幕・親薩長の公卿を据える必要があると考えていました。西郷の書いた建白書1には、大久保の筆跡で両職の候補者の名が記された付箋が付けられており、それはすなわち、西郷と大久保が相談して決めた人事案であったことを物語っています。
四侯会議の前哨戦は、この議奏・武家伝奏の人選から始まったと言えるのです。

また、西郷が建白書1の中で、現在都を追われて太宰府に滞在していた三条実美を天皇の補佐にするよう求めたのは、三条の取り扱いこそが、長州赦免を成し遂げる大きなキーポイントになると考えていたからでしょう。
これはある意味、長州赦免運動の実行を基本とした「薩長同盟」を薩摩側が忠実に履行しようとしていたことを証明するものとも言えましょう。

しかしながら、5月6日に行われた二条摂政と四侯の面談において、二条は薩摩側が要求した議奏・武家伝奏の人事案を拒否しました。
その結果を受けて西郷は、二回目の建白書(以後「建白書2」と略す)を久光に差し出していますが、そこには西郷の四侯会議における基本方針が詳細に語られており、大変興味深い文書と言えますが、少し順を追って内容を見てみると、この建白書2において西郷は、四侯会議の懸案事項は大きく分けて次の三つであると主張しています。

一、長州処分
二、五卿処分
三、兵庫開港

西郷は「三ヶ条の御難題と申す御所置に付いては、いずれ理と勢いを明らかに察せられ、順序相立てず候わでは悉く瓦解仕るべき儀と存じ奉り候」(『西郷隆盛全集』二)と書いていますが、「一、長州処分」と「二、五卿処分」とはセットとも言うべき問題でしたので、実質的に四侯会議の議題は、「長州処分」「兵庫開港」の二つにあったと言えます。

まず、西郷は長州処分について、幕府(つまり慶喜)の考えや方針を問うたうえで、もし慶喜が三伐(三度目の長州征討)を行うと主張した場合は、「全く不条理の戦いに陥り候訳に候得ば、三伐に付いては今一層の罪を増し、全くの私闘に立ち至り候」と、その非を問う必要があると主張しています。
また、兵庫開港については、各国との協定上、開港の期限はまだ先のことであり、また、前述のとおり慶喜は、英仏蘭米の四カ国の公使等に対して、既に兵庫開港を確約していることから、「御急務中結尾の御所置」と、最後に解決すべき問題であると論じています。

この長州処分と兵庫開港のどちらを先に決着するか、という順番を巡り、後に久光と慶喜は激しく対立するのですが、それは一先ず置き、西郷はこの建白書2の中で、慶喜が道理に叶わない行動に出た場合は、「賢侯方合従の御勢力相備え候えば、理を尽して御進み相成り候て、事行われ申すべく」と、四藩が連合して事にあたればそれを阻止できると述べ、さらに、

「其の節は幕府は御離し相成り候て、朝廷の開港条約に御振替え成さるべき儀と存じ奉り候」(『西郷隆盛全集』二)

と、「幕府から外交権を奪い取り、朝廷と諸外国との開港条約を結び替えた方が良い」と主張しています。
また、西郷はそのようになれば、「天下挽回の御時節」だと論じていますが、これは「幕府から政権を奪取する良い機会になる」という意味です。
これは非常に思い切った建言です。
いわゆる「王政復古」のことに言及しているからです。

その後、四侯会議は5月10日に薩摩藩邸で久光、春嶽、宗城の三人が集まり、その2日後の5月12日には土佐藩邸に四人全員が集まって、5月14日に四人揃って二条城に登営し、慶喜に拝謁することが決まりました。
そして、その直前に西郷は大久保と共同で、三通目の建白書(以後「建白書3」と略す)を久光に対して差し出しています。
この建白書3は、慶喜との面談における心得と言うべきものであり、対慶喜に対する戦術を久光に対して説いたものだと言えますが、西郷はその建白書の中で、「公道を以て御説破在らせられ、感服致され候様御議論在らせられたき儀と存じ奉り候間、外の御方々様と得と御打ち合わせ相成り、御論一徹に相立ち候様御座ありたく」と、慶喜を公正な道理をもって説破し、慶喜が感服するような議論を行って欲しいとの願望を述べ、そのためには他の三侯とも十分に打ち合わせを行ったうえで、四藩一致した論理で話を進めるべきだと主張しています。

また、西郷は建白書3の中で、次のような注目すべきことを書いています。

「いずれ天下の政柄は、天朝へ帰し奉り、幕府は一大諸侯に下り、諸侯と共に朝廷を補佐し、天下の公議を以て所置を立て、(中略)、万民初めて愁眉を開き、皇国のために力を尽さんことを冀い、人気振い起り挽回の期に至り、一新致すべき事と、大道を以て御諭解在らせられたき儀と存じ奉り候」(『西郷隆盛全集』二)

つまり、ここで西郷が言っているのは、大政奉還と王政復古のことです。
西郷は「国内政治を一新するためには、幕府が政権を朝廷に対し返還することが必要である」ということを慶喜に対して大道をもって諭すよう、久光に対して建言しているのです。
さらにもう一つ注目すべき点は、「幕府は一大諸侯に下り、諸侯と共に朝廷を補佐する」とあることです。この記述から考えると、当時の西郷は、幕府の主宰者たる徳川家の政権参与を認めているのです。

ここで考えなければならないのは、この時点で西郷が幕府を武力で倒すつもりがあったのかどうかという点です。
前出のとおり、建白書3には「幕府は一大諸侯に下り、諸侯と共に朝廷を補佐し」という文言があることから考えても、当時の西郷は幕府を武力で倒すつもりが無かったことが分かります。
また、同建白書3には、「天下の公論を以て申し上げ候儀にて、全く幕府の御威光を殺ぐ抔と申す訳には更にこれなく、世勢的当の論却って幕府の御為と存じ奉り候」との文言もあり、当時の西郷の政治的なスタンスが分かります。
西郷の政治的な立ち位置は、幕府と諸侯が一体となって朝廷を支え、朝威を上げるというものであり、あくまでも幕府が非道な処置・行動に出た場合には、幕府から外交権、ひいては政権を奪取しようとするものであって、幕府そのものを打倒しようとするものではありません。
ましてや、西郷は武力をもって幕府を討つなどという激しい主張も一切行っていません。
その点から言えば、今『西郷どん』で描かれている西郷像は、はっきり言って「虚像」以外の何物でもないのです。

また、西郷は続けて四通目の建白書(以後、「建白書4」と略す)を書いて久光に差し出していますが、この中で西郷は、長州処分と兵庫開港の順序について強く論じています。
西郷は「差別順序を以て御建言在らせられ候」と書いたうえで、

「長州御所置を先に仰せ立てられ候訳に御座候。兵庫開港の儀は後に相廻され候処、理勢然るべき儀にて」(『西郷隆盛全集』二)

と、兵庫開港よりも先に長州処分を決着すべきだと論じています。
西郷は「長州の冤罪を御解き成らせられ候得ば、天下人心の定まる処出来」と、長州処分を先に行うことで人心を安定させることが先決だと書いていますが、これは現在の政情の混乱が、幕府が行った一連の長州征討を始めとする失策や失政が原因なので、国外問題よりも先に、まずは国内問題を片付けるべきであるとの考えから書かれたものです。
西郷が建白書4の中で、

「当時においては人心安堵の廉を御見留め付けさせられず候わでは、何迄も混雑仕るべき儀と存じ奉り候」

と述べていることからも、まず幕府はこれまでの失政を悔悟し、人心を安定させることに力を注ぐべきであると考えていたことが分かります。
また、「長州の冤罪を解く」ということは、建白書1で三条実美を天皇の補佐に求めたことと同じく、薩長同盟の履行を意識したものであり、当時の西郷はその点においても長州処分を先決することにこだわっていたと言えます。

このように、西郷は四侯会議を成功させるべく、四通もの建白書を書いて久光を説き、そして鼓舞しましたが、最終的に慶喜の巧みな政治手腕によって、四侯会議は瓦解へと追い込まれました。
西郷は建白書3の中で慶喜のことを

「大樹公には橘詐権謀の御方」

と評し、「御正論を御凌ぎ成られ候儀明らかに御座候」と、会議の中で慶喜が正論を遮ってくることは明らかだと言っています。
以前本ブログでも書きましたが、この記述からも明らかなように、西郷と慶喜に元々信頼関係など構築されてはいないのです。

また、このような慶喜に対する見方は、西郷だけでなく大久保も同様です。
少しさかのぼりますが、慶応2(1866)年9月8日付け西郷宛ての大久保書簡には、慶喜のことが次のように書かれています。

「殊ニ橋橘詐百端之心術至平ヲ以賢侯之公論ヲ容れ候儀も無覚束」

先ほどの建白書3とほぼ同じ表現です。
「一橋公は橘詐百端の心術の人物で、至公至平をもって賢侯の公論を容れる事は覚束ない」ということですが、このように西郷と大久保から見た慶喜とは、権謀術数を操る油断ならぬ人物であったのです。

ここでその他の慶喜評を少し引用すると、例えば、土方久元の『回天實記』の慶応3年3月21日の条には、木戸孝允(当時は準一郎)が慶喜のことを次のように語ったと書かれています。

「今也關東政令一新兵馬之制亦頗可見者アリ、一橋之膽略決テ不可侮、若今ニシテ朝政挽回之機ヲ失ヒ、幕府ニ先ヲ制セラルヽ事アラハ、實ニ家康之再生ヲ見カ如シ」

これがいわゆる慶喜が「家康公の再来」と呼ばれる典拠です。木戸も慶喜の才能を大いに認め、恐れていたことが分かります。

また、当時薩摩藩と歩調を合わせていた岩倉具視が、慶応3年4月26日に中山忠能正親町三条実愛に対して呈示した「航海並ニ済時ノ策議二篇」に付けた副書には、

「殊ニ今ノ将軍ノ動止ヲ視ルニ、果断勇決志望亦小ナラサル様被考候、決シテ軽視ス可カラサル、一の勁敵ト存候」(『岩倉公実記』)

とあり、岩倉は慶喜のことを「一番の強敵」と評しています。

このように薩長側から見れば、将軍に就任した慶喜は、最も警戒すべき人物であったと言えますが、慶応3年5月14日、二条城に登営した四侯に対して、慶喜はその政治手腕をいかんなく発揮しました。
『続再夢紀事』六によると、慶喜が四侯に対して、「長州の事ハ如何すへきや」と尋ねたところ、久光は西郷の建白書どおり、まずは長州処分から先に手を付けるべきだと主張しました。

「兵庫開港も御急務なれと長州御處置ハ最御急務なるへし、就てハ長州の御處置を済まされし上、兵庫開港の事に及ハれ然るへし」(『続再夢紀事』六)

と久光は言ったとありますが、それを受けて慶喜は、長州問題は「御國内の一小件と見做しても見做されるにあらす」と言い、さらに、

「外國の事に至りてハ皇國一般の興廢に關し、殊に實祚の御安危にも係るへき重事なれは、長州の所置よりも兵庫開港の方を先に盡力ある様致したし」

と返し、久光と議論になりました。
慶喜の論法は、開港期限(慶応3年12月7日)の6ヶ月前には開港を公示する必要があるので、そちらを優先したいとのことでしたが、慶喜は既に四カ国公使等に対して兵庫開港を確約していましたから、先にそれを片付けたいと考えていたのでしょう。

結局、5月14日の四侯と慶喜の面談は物別れに終わり、その後、四侯会議は5月17日に土佐藩邸で開催され、さらに19日と21日には、容堂を除いた久光ら三侯が慶喜と面談して協議を続けましたが、両者の話し合いは結局平行線に終わりました。
『続再夢紀事』六によると、19日の協議の席上においても、慶喜と久光は長州処分と兵庫開港の優先順位を巡って議論となり、結局春嶽が二件を同時に行なう折衷案を示しました。
ここに薩摩藩が主張した長州処分先決案は敗れ去ったのです。

以上のように、四侯と慶喜の協議は終始慶喜ペースで進み、さらに四侯の一人である容堂が病と称して会議への出席を拒みだしたことから、最終的に四侯会議は瓦解へと追い込まれました。
元々四侯の内、春嶽は慶喜寄り、容堂も同様、宗城はどっち付かず(やや久光寄り)、といった態度でしたので、久光は孤軍奮闘して自らの主張を通そうとしましたが、慶喜の巧みな話術と政治手腕により、四侯会議は崩壊したのです。今回の『西郷どん』で描かれたような、既に根回しが済んでいて云々、なんていう単純な話では無かったのです。あの描き方は、四侯会議において奮闘した久光に対して、とても失礼なものだと思います。

今回は少し長くなりすぎましたので、後半部分は今回の『西郷どん』のようにかなり端折ってしまいましたが(苦笑)、これまで書いてきた四通の西郷建白書の内容を見れば分かるように、当時の西郷は、まず幕府に反省を促すことを第一義に定義していたことが分かります。
幕府がこれまでの失策・失政を認めて、長州処分を核とする国内問題をまず整理し、人心を落ち着かせて安定に導くことが第一であり、その後、朝廷の意志を遵奉し、兵庫開港などの国外問題に手を付けるというのが筋道だと西郷は考えていました。
しかし、慶喜は、長州処分を先に行うことは幕府の権威を失墜させることに繋がると危惧し、久光の建言を巧みにかわす不誠実な対応を取りました。
結局、5月24日には、慶喜の希望どおり、長州処分と兵庫開港の朝命が下りましたが、それは久光を中心とした薩摩藩が求めていた内容とはかけ離れていました。
そのような幕府の態度を目の当たりにした西郷は、四侯会議を基礎とした公議政体論を捨て、武力を背景とした政権奪取案を考えるに到りました。
つまり、ここにおいて初めて、西郷は幕府を見限るに到ったと言えるのです。

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【2018/09/10 20:08】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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下記日程で、鹿児島で「明治維新150周年記念シンポジウム」が開催されます。


「~明治維新再考~明治維新と国家形成」
鹿児島会場
日時:平成30年10月8日(月・祝) 13時~17時 (開場:12時~)
場所:鹿児島市民文化ホール 第2ホール(鹿児島市与次郎2丁目3-1)

「~明治維新再考~世界史の中の明治維新」
姶良・伊佐会場
日時:平成30年10月13日(土) 13時~17時 (開場:12時~)
場所:霧島市民会館(霧島市国分中央3丁目8-1)


参加には申し込みが必要です。
(詳しくは、下記「かごしま明治維新博」の公式ページをご覧ください)

かごしま明治維新博

シンポジウムチラシ(鹿児島県)1


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【2018/09/05 17:20】 | 鹿児島
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前回の「薩長同盟」ですが、今から考えても、やはり少し雑な描き方だったように思います。
残り時間(回数)が限られているため、なるべく手短に描かざるを得なかったのは理解できますが、ただ、過去の放送回の内容を振り返ると、「もっと他に端折れるエピソードはたくさんあったのではないか?」と、単純に思ってしまいます。
西郷の人生は長く、そして濃密です。その生涯を描くためには、自ずから軽重を付ける必要があると言えますが、なるべく上手くバランスを取って描いてもらいたいものです。

さて、今回は坂本龍馬の寺田屋での遭難が描かれていました。
昨年のことですが、「龍馬が寺田屋事件を振り返った書簡が発見された」というニュースが全国的に報じられたことは、記憶に新しいのではないかと思います。
それは慶応2(1866)年12月4日付けで、兄・権平ら家族宛てに書かれた龍馬書簡ですが、その中に、

「此時うれしきハ、西郷吉之助 薩州政府第一之人、当時国中に而ハ鬼神と云ハれる人なり。 ハ伏見の屋敷よりの早使より大気遣にて、自ら短銃を玉込し立出んとせしを、一同押留てとふとふ京留守居吉井幸助、馬上にて士六拾人計り引連れ、むかひに参りたり」(宮地佐一郎『龍馬の手紙』)

とあり、龍馬の西郷に対する思いが込められた文言があることから、両者の良好な関係性を示す文書として話題になりました。
この龍馬書簡にあるように、西郷がわざわざ遭難した龍馬を伏見まで迎えに行こうとしていたことを考えると、龍馬が薩長同盟に一役買った人物であったことは明白のような気がします。
龍馬が薩長和解に力を尽くしてくれた人物だからこそ、西郷はその功労者である龍馬の身を案じたと言えるのではないでしょうか。

(大久保の出兵拒絶)
今回の『西郷どん』では、大坂城へ呼び出された大久保が、幕府老中・板倉勝静に対し、「大義なき命を受けなければならない言われは全くございません」と言い放ち、長州再征の命令を拒否していましたが、これは史実に基づいた創作です。
この話は、大久保の大久保たる所以を表現する、最大の見せ場ですので、もっと深く描いて欲しかったところですが、ドラマ内では簡単に流されてしまったのがとても残念です。

薩長同盟が締結された約2ヶ月半後の慶応2(1866)年4月2日、幕府は芸州藩を通じて長州藩に対し、同年4月21日までに藩主父子等の広島召喚を命令し、それに応じなければ征長軍を進発させると通告しました。
いわゆる「第二次長州征討」と呼ばれるものですが、その影響は薩摩藩にも及び、幕府は薩摩藩に対して出兵の内命を伝えたのです。

しかしながら、薩摩藩はその幕府の命令に対し、公然と長州征討への出兵を拒否しました。
当時、京に居た大久保は、幕府からの内命を聞くや否や、直ぐさま大坂へと下り、大坂留守居・木場伝内の名で「出兵拒絶の建言書」を作成しました。
木場は『西郷どん』でも登場しましたが、元は奄美大島の見聞役を務めていた人で、西郷が大島に潜居していた際、大変世話になった人物です。

慶応2年5月に大久保が鹿児島の藩庁に対して提出した報告書(『大久保利通文書』一。以下、報告書という)によると、大久保は4月14日の午後2時頃に大坂城に登城しました。
幕府老中・板倉勝静に拝謁し、出兵拒絶の建言書を提出するためです。
同報告書によると、板倉に拝謁した大久保は、その席上で堂々と「御討入相成候共御随従仕出兵難仕(幕府軍が長州へ討ち入ることになっても、それに追従して出兵は出来ない)」と述べ、前述の建言書を板倉に対して差し出しました。その建言書には、

「征伐は天下の重典、国家の大事、後世青史に恥じざる名分大義判然相立ち、其の罪を鳴らし、令を聞かずして四方響応致し候様これなく候わでは、至当と申し難く、もっとも凶器妄りに動かすべからざるの大戒もこれあり、当節天下の耳目相開き候得ば、名なきを以て兵器振るうべからざるは、顕然名著なる訳に御座候」(『西郷隆盛全集』二)

とあり、「征伐は国家の大事であり、後世の歴史に恥じることのない大義名分が必要である」と論じたうえで、大義無きままに兵を動かそうとしている幕府の態度を厳しく批判しています。
また、同建言書には、

「前条天理に相戻り候戦闘は、大義において御請け仕り難く、仮令出兵の命令承知仕り候共、止むを得ず御断り申し上げ候間、虚心を以て御聞き届け下され候様願い奉り候」

との文言もあり、「天の理に沿わない戦闘は、大義において受け入れがたく、たとえ出兵の命令を受けたとしても、それに従うことは出来ない」と、幕府の出兵命令を完全に拒絶しています。

大久保は薩摩藩内では重職の地位にありますが、老中の板倉から見れば、一介の陪臣に過ぎません。
そんな立場の大久保から、あからさまに幕府の方針を批判されたのですから、板倉としては内心苦々しい思いをしていたに違いありません。
『鹿児島県史』三によると、「板倉は之に對して長州再征は勅許を仰いだものであり、書面の趣は事實相違してゐると辯解してその受領を拒み」とあり、板倉は建言書の受け取りを拒否しました。
また、同書には、板倉が島津家と将軍家の姻戚関係を説いて懇諭したが、大久保はそれに応じなかったともあります。

ちなみに、この時の大久保と板倉とのやり取りに関しては、一つの逸話が残されています。
これは勝田孫弥『大久保利通伝』や『甲東逸話』、そして『大西郷全集』三の「西郷隆盛伝」にも引用されているエピソードですが、板倉と面会した際、大久保は耳が聞こえにくいふりをして、急に顔色を変え、

「幕府は我が藩を以て長藩と同視し、諸藩に命じて征討の師を向けんとせらるるか。我藩に何等の罪あるや」(『大久保利通伝』)

と言って怒り出したため、板倉が慌ててそれを否定したというものです。
つまり、大久保は耳が聞こえないふりをして、板倉をからかったということです。
事の真偽の程は定かではありませんが、大久保が板倉を愚弄するつもりはなかったにせよ、最初から議論をふっかけるつもりで登城したのは間違いないと言えるでしょう。

閑話休題。
このように板倉から建言書の受け取りを直接拒否された大久保は、すぐに黒田彦左衛門に命じて、板倉の役宅に建言書を届けさせましたが、その3日後の4月17日、板倉の公用人の高田亘から突き返されたため、大久保は再度黒田に命じ、その写しを作成させて、再び板倉の役宅に届けさせました。
大久保は報告書内に「則押返し」と書いていますので、まさにすぐに押しつけるようにして届け直させたことがうかがえます。

そして、翌4月18日の朝、今度は大久保自らが黒田を引き連れて板倉の役宅に出向きました。
しかしながら、また公用人の高田が出てきて、「建言書については、既に評決が下されたうえで返却されたものなので、再び提出されても受け取れない」と言い張り、再度の受け取りを拒否したことから、大久保は板倉への面会を申し出ましたが、それも拒否されました。

しかし、大久保は決して諦めません。
大久保が翌4月19日付けで、当時京の薩摩藩邸に居た家老の島津伊勢(広兼)、岩下佐次右衛門(のちの方平)、町田内膳(のちの久憲)に宛てた書簡(以下、家老宛書簡という)には、

「今一往拜謁御願申上度段申入候處、色々故障申立斷ニ相成候得共、何分國家之急事ニ付、御逢被下候迄ハ、何時迄も御待申上候段申入候」(『大久保利通文書』一)

とあり、公用人の高田は色々と支障があると言って面会を断りましたが、大久保は「国家の大事に関わることなので、いつまでもお待ち申し上げます」と返したと書かれています。
つまり、大久保は「板倉と会うまではテコでも動かない」との覚悟を示したわけです。
こういった部分にも、目的達成のためには絶対に諦めない、大久保の強靱な精神力を読み取ることが出来ます。
相手が幕府の権力者である老中であろうとも、大久保は一歩も引くつもりは無かったのです。

以上のような粘りが功を奏し、板倉はようやく大久保と面会することを承諾しました。
翌4月19日早朝に板倉の役宅に出向き、板倉と対面した大久保は、まず建言書を受け取らなかった理由を問い質しました。
大久保は板倉に対して、「言上致候様ハ御届之書面御落手難相成趣を以御下ヶ相成候御趣意更ニ不被奉伺候」と発言したと、報告書内に書いています。

ここからは大久保の報告書を元に書きますが、大久保は板倉に対して、「出兵之儀勝手ニ致し候様との御趣意ニ候哉(出兵することは幕府が勝手に決めることだと思ってのことですか?)」「言路を御塞キ下々言上御承知不被成との御趣意ニ候哉(言路を塞いで下々の者は言上まかりならんということですか?)」などの言葉を投げかけ、建言書の受け取りを拒否したり、面会に応じなかった板倉の態度を責め立てました。
それに対して板倉は、「決而左様之譯ニ無之(決してそんなわけではない)」と、大久保に対して言い訳したとあります。

しかし、大久保の口撃は止まりません。
大久保はこれまでの幕府の失態を六ヶ条にわたって一つずつ具体的に挙げ、舌鋒鋭く板倉を追求した後、次のように締めくくりました。

「大本大義を御失ひ相成候而、今日之處天幕御一定ニて御運ひ相成候と御沙汰如何様承知仕候而も中々以承服難相成、實ニ脅朝廷矯朝命と申譯ニ相當り天下有志之者歎息切歯なる所ニ御座候、御奉戴之廉天下ニ顕るヽ様ニ無御座候而ハ人心難安、只今ニ而ハ前條御奉戴無之事實明白ニ而、朝命御遵奉之事實不奉伺是ニ依而、於弊藩は天幕御一定御趣意御奉戴と御沙汰御座候而も不奉承服處ニ御座候(幕府が大本である大義を失っている以上、現在、朝廷と幕府が一致していると御沙汰下されても承服しがたい。幕府が朝廷を脅かし、朝命をまげている状況に、天下の有志者たちは皆歎息切歯しています。幕府が朝廷の御趣意を御奉戴しなければ、人心は安んじませんが、先程私が述べた点においても、幕府が朝意を御奉戴していないことは明白であり、朝命御遵奉の事実が見えないことから、弊藩においては、朝廷と幕府が一致していると御沙汰下されても、それに承服することは出来ません)」(現代語訳は筆者作成)

大久保は時の幕府老中に対して、非常に思い切ったことを言ったものです。
この大久保の主張を見る限り、当時の薩摩藩の立場が親幕ではなく、既に反幕に転じていたことがよく分かります。

以上のような大久保の雄弁さと理詰めの議論に対し、板倉はその対応に苦慮しました。
結果、板倉は大久保に対して、「嶋津伊勢と申者家老ニ而京都江相詰候由、不容易事件ニ候間、同人より尚又可申聞候間、早々下坂致候」と、「島津伊勢という家老が京都に居るようなので、その者を大坂に来させて説明させよ」と言いました。これはすなわち板倉が大久保との議論には勝てないと考え、代わりに島津伊勢を寄こせと言ったということです。島津伊勢はその名のとおり門閥出身の家老ですので、板倉は大久保より与しやすいと考えたのでしょう。

しかしながら、大久保は「重役共承知仕候而も趣意相替り候儀無く御座候(重役に代わったとしても、私共の趣意は変わりません)」と断言したうえで、再度、

「尚再應御應答申上候得共、前意を以押詰御落手難相成りとの趣ニ而ハ何様御沙汰ニ而も御請取不申上旨申切候(何度も申しますが、建言書を受け取りできないとの御沙汰であったとしても、私共が引き取ることはありません)」

と言い切りました。

以上のように、大久保は老中の板倉相手に一歩も引かず、薩摩藩の出兵拒否を最後まで押し通したわけですが、後にこれら詳細な交渉経緯を大久保からの報告書を読んで知った西郷は、その大久保の態度に対し、大きな感銘を覚えたようです。
慶応2(1866)年5月29日付けで、西郷が大久保に宛てた書簡には、次のように書かれています。

「閣老へ建白書御持参にて御討論の段、毎ながら貴兄の御持前とは申しながら雄々敷御論、実に御両殿様御満足遊ばされ、余程大久保が出来たと御意遊ばされ、我共に到り有難く雀躍此の事に御座候。御建白の書面と云い、御議論と云い、相対して優劣これなく、誠に天かの耳目を御定めこれあり候儀御国家の美事、後世青史に正著たり、幾度も感誦、此の因循国も正論国と相変じ候心持にて、鹿児島が広き様覚え申し候(板倉閣老へ建白書を持参のうえ討論されたこと、いつものことながら貴兄の持ち前とは言え、誠に雄々しき議論、実に両殿様(久光と忠義のこと)もご満足され、「よほど大久保が出来た」とおっしゃっておられます。私共にとっては、誠にありがたく、小躍りせんばかりに喜んでおります。建白書の書面の内容と言い、そして板倉閣老に対する議論と言い、いずれも優劣つけがたく、誠に天下の耳目を定めるようなもので、これは国家の美事であり、後世の歴史に残るものだと思います。私は幾度も感激しながら拝誦し、この因循国も正論国へと変わったかのような心持ちにて、この鹿児島が広く覚えるほどです)」(『西郷隆盛全集』二。現代語訳は筆者が作成)

まさに大絶賛です。
西郷は大久保の書いた建白書と板倉老中との議論を「国家の美事、後世青史に正著たり(国家の美事であり、後世の歴史に残るもの)」として感激し、何度も何度もその内容を拝読したとと書いています。
この一文をもってしても、当時の西郷と大久保の関係性が分かるのではないでしょうか。
西郷にとっての大久保とは、唯一無二の誇るべき同志であったということです。

(パークスの鹿児島訪問)
今回の『西郷どん』の最大の見どころは、英国公使ハリー・パークスの鹿児島訪問であったと言えるかもしれません。(パークスの来鹿については、歴史作家の桐野作人先生が、『さつま人国誌 幕末・明治編2』の中で、「英国公使パークスの鹿児島訪問」と題して、三回に分けて書かれています)

パークス一行を乗せた三隻のイギリス軍艦が鹿児島湾に入港したのは、慶応2(1866)年6月16日のことですが、その3日前の6月13日、西郷は側役の蓑田伝兵衛宛てに一通の書簡を送っています。同書簡には、

「此の度英人御饗応に付き、夷人と慢り、配膳向軽蔑の振舞共若しやこれあり候ては相済まざる訳に御座候間、其の辺の処、我々共より書付を達し置き呉れ候様、木藤角太夫より承り候に付き、草稿相認め御相談申し上げ候に付き、宜しかるべしと思食され候わば、今日磯において右の趣御達し置き下され候ては、何様御座あるべきや」(『西郷隆盛全集』二)

とあり、西郷はパークス一行が来鹿するにあたり、歓迎会で提供する料理の配膳等で失礼がないよう達書を出すべきだとの意見を入れ、達書の草稿を認めて蓑田に対して送ったのです。その西郷の草稿には、

「此の節遠客御招請に付いては、皇国のため、深き思し召しの訳在らせられ、万国普通の礼節を以て御会釈遊ばされ候に付いては、配膳向至極念を入れ、決して軽蔑の振舞これなく、御高儀感服奉り候様肝要に相心掛けらるべく候。此の旨分けて相達し置き候」

とあり、パークス一行に関しては、鹿児島到着後の翌6月17日に磯御殿(今の仙巌園。磯庭園)に招待し、そこで響応する予定となっていたことから、西郷は料理の配膳や給仕に粗相がないよう気を配っていたと言えます。

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パークスを迎えた仙巌園(磯庭園)(鹿児島市)

ちなみに、磯御殿において、パークス一行に出された食事(日本料理)については、その献立表が残されています(「英国公使パークス一行招待献立書」『鹿児島県史料 玉里島津家史料』四)。
提供された料理は四十五種類もあったようですが、その献立表から少し抜粋して紹介すると、例えばお吸い物だけでも次の七種類が出されています。

「鯛切日、鰭」
「巻鯛、榎茸、稜菜」
「薄火取鱚、初霜昆布、胡椒之粉」
「葛打鰕、銀杏、洲のり」
「蒸蛤、木の芽」
「青みる、ひれ」
「そほろ、湯引、多井、紫蘇」


また、鹿児島と言えば、「茶碗蒸し」ですが(鹿児島では「茶わんむしの歌」と呼ばれる歌が大変メジャーなのです)、それも献立表に記載があります。

「御茶碗蒸(熬海鼠、木口芋、木耳、三ツ葉いり)」

私は料理に関して詳しくありませんが、少し想像して書くと、煎りナマコと小芋、きくらげ、三つ葉入りの茶碗蒸しが出されたようです。
今回のドラマ内で、パークスが「ノーモア・ナマコ」と最後に苦言を呈する場面がありましたが、実際に薩摩藩側はパークス一行に対して、このようにナマコを提供しています。
ただ、あんなまるまる一個をそのまま提供したわけではなく、干したナマコを水で戻し、細く刻んだものを出したのではないでしょうか?

そして、料理には鹿児島の郷土料理である「しゅんかん」(いわゆる煮しめ)もありました。
献立表には、

「御春かん(鴨、舞茸、大明竹之子、水巻麩、芹いり)」

とあり、鴨肉、まいたけ、竹の子、麩とセリの入った煮しめが出されたようです。
また、私の大好きなご飯ものも最後に書いておきましょう。献立表には、「御丼」として、

「鶏、新牛蒡いり上」
「海老、鱚、菊之芽、生姜付揚」
「泥亀いり上」


とあります。
現代風に書けば、「鶏とゴボウの炊き込み(混ぜ?)ご飯」、「海老、キス、菊の芽と生姜の付け揚げ丼(天丼?)」、「スッポンの炊き込み(混ぜ?)ご飯」といった感じでしょうか。

以上のように、薩摩藩側は最大のご馳走をもって、パークス一行をもてなしたと言えますが、それを受けたイギリス人たちは、その料理が余り口には合わなかったようです。

パークス一行に随行して鹿児島を訪問したイギリス医師のウィリアム・ウィリスは、義姉のファニー・ウィリスに宛てた書簡の中で(慶応2(1866)年9月30日付け)、薩摩藩が用意した料理について、次のように書いています。

「魚料理に、気持ち悪い水のように見える酒の宴会が、吐き気のするほど長く続きました。魚に海藻、茸になまこなどの料理が四〇種類も。想像してみてください。これが日本のご馳走なのです」(『幕末維新を駆け抜けた英国人医師―甦るウィリアム・ウィリス文書―』)

ウィリスは提供された料理が口に合わなかったようです。
ただ、ウィリスがこのように薩摩藩の饗応を批判したのは、元々ウィリス自身が鹿児島訪問に気乗りしていなかったことも大きな原因であったと言えそうです。
ウィリスは同書簡の中で、

「私たちの薩摩訪問はかなり欺瞞的なもので、東海道でのリチャードソンの殺害を命令した悪人(島津三郎)などと食事を共にするなんて、まともなことではありません。少なくとも私の立場なら、あんな悪人面は見たことがないという表現が許されるでしょう。もしも私が英国公使だったら、あんな人間からの歓待など絶対に受けなかったでしょう」

と書いており、生麦事件を起こした久光を悪人呼ばわりし、薩摩訪問に嫌悪感を抱いていたことが分かります。
また、それが原因となったのか、ウィリスは薩摩藩主の別邸・磯御殿のことを同書簡の中で次のように書いています。

「私たちは旧い形式の庭園を散歩しました。一応は美しい庭園でした。しかし宮殿の内部のすべてを見ることはできませんでした。宮殿とはいうものの小屋といってもよく、実際大名の屋敷は板と紙で造られた家で、カミン・カーの小屋と言ってもよさそうな建物です」

カミン・カーの小屋とは、ウィリスの実家近くに建っていた泥壁の貧しい小屋のことを指しています(慶応元(1865)年7月26日付けファニー・ウィリス宛て書簡にも、カミン・カーの小屋という同様の記述が出てきます)。
ウィリスはそんな粗末な小屋と藩主の別邸を比較したのですから、もしこんな感想を久光以下の薩摩藩士たちが聞こうものなら、さぞかし立腹したに違いありません。
後にウィリスは、薩摩藩の求めに応じて鹿児島に赴任し、現在の鹿児島大学医学部の前身である鹿児島医学校(赤倉病院)を創設し、鹿児島の医学界の先駆者となりますが、当時は生麦事件の影響から、薩摩藩を憎むこと甚だしかったと言えるのではないでしょうか。

磯御殿での盛大な歓迎会が催された翌日の6月18日、今回『西郷どん』でも描かれたように、西郷はイギリス公使のパークスとイギリス軍艦プリンセス・ロイヤル号上で会談を行ないました。
同日付け、西郷が薩摩藩士の帖佐彦七宛てに出した書簡には、

「陳れば英人と談判の儀に付き、書付書き調え方御願い申し上げたく御座候に付き、何卒御暇成し下され候て、九ッ時過より下会所へ相集り、其の上英艦へ差し越す賦に御座候。就いては松木安右衛門へ引き合わせ致さず候わで叶わざる儀これあり、四ッ後参り呉れ候様相達し置き候に付き、私認め方迚も相調う間敷と相考え候に付き、御苦労ながら御来訪の処希い奉り候」(『西郷隆盛全集』二)

とあり、西郷がパークスと会談を行なうにあたり、通訳を行なう松木弘安(のちの寺島宗則)を含めて打ち合わせを企画していたことが記されています。
また、さかのぼること20日前の5月29日付け大久保宛て西郷書簡には、

「英国志と申す書物御探し下され、弐部計り早便御下し下さるべく候」

との文言があり、西郷は「君公へは御覧遊ばされざる由に御座候」と、藩主に差し出すつもりと書いていますが、おそらく西郷自身もイギリスについて予習しようと考えていたのでしょう。
西郷としては、「彼を知り己を知れば百戦危うからず」との故事を実践し、パークスとの会談に臨んだと言えるかもしれません。

この西郷とパークスの会談内容については、西郷が7月上旬に家老の岩下佐次右衛門に対して送った書簡に詳しく書かれています。同書簡の中で西郷は、

「余程幕臭これあり、破談の勢に成り立ち候処、得と日本の情実を申し解き、其の上利害得失委敷申し聞け候処、初めて会得いたし、夫より彼の意底残らず打ち明け候向きにて、大いに幕府の失体を申し出で候場に立ち到り候て、全く熟話の都合に成り行き候事に御座候」(『西郷隆盛全集』二)

と、「当初パークスは幕府寄りの考えのようであり、会談は決裂しそうだったが、日本の現状を詳しく打ち明け、その利害得失を申したところ、初めてパークスも理解し、その本心を打ち明けてくれ、大いに幕府の失態ぶりを話すことになり、ゆっくりと実のある会談となりました」と書いています。

また、パークスがその会談の席上、「日本の国内事情について、どこで知ったのかと幕府から尋ねられたら、薩摩の名前を出すのは不都合があるだろうな」と言ったところ、西郷は公然と、

「其の辺は少しも差し障りこれなく、薩摩にて承り候旨を以て、幕府へ相迫り候様申し聞け候」

と話したと同書簡にあります。
つまり、西郷はパークスに対して、「どうぞご自由に。これらの話は薩摩藩から聞いたと言って下さって、何の問題もありません」と宣言したということです。
そしてそれを聞いたパークスは大いに喜びました。
同書簡には、「夫こそ本道の議論と申すものよと大いに悦び候事に御座候」と書かれています。
つまり、「それこそ本当の議論というものだ」と、パークスが喜んだということです。
今回のドラマ後半では、パークスが西郷に対して、「ようやく話が分かる男と出会えた」みたいな発言をしていましたが、おそらくこの西郷書簡の記述を膨らませて創作したものと思われます。

よく西郷は政治家向きでなかったと言われることが多々ありますが、この岩下宛て書簡に記載されている西郷とパークスの会談における駆け引きを見る限り、西郷がとても老練な外交家であり、そして政治家であったことが分かります。
西郷に政治家としての資質が無かったというのは、このような西郷の働きを全く理解せず、無視した末に生じる俗説に過ぎないと言えるでしょう。

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【2018/09/03 18:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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