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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます     (大河ドラマ『西郷どん』の解説も是非お読みください)
前回から明治編に入り、多彩な人物が登場していますが、土佐や佐賀藩出身の人たちが、薩長の批判勢力のように一括りに扱われているのが少し気になっています。
特に、土佐の板垣退助や佐賀の江藤新平は、後年いわゆる「明治六年の政変」と呼ばれる征韓論争において、西郷側に与した人たちですが、現時点で大久保との対立を殊更煽っていることから察すると、征韓論争を土佐や佐賀閥の政権奪取策の一環として描くつもりなのかもしれません。
また、前回は人間だけでなく、西郷家で飼われていた猟犬たちも登場し、早くも西郷の愛犬・ツンが出てきました。
ただ、鹿児島県教育会編『南洲翁逸話』によると、西郷がツンを手に入れたのは、明治7、8年頃のことであったと伝えられています。同書によれば、西郷が上東郷村(現・薩摩川内市東郷町)の藤川天神に参詣した際、前田善兵衛という者から手に入れたとあり、ツンは虎毛の雌犬で、兎狩りに優れた猟犬であったそうです。
ちなみに、ツンは上野公園の西郷像が曳いている猟犬のモデルだと一般に言われていますが、実際はそうではありません。同じく『南洲翁逸話』によると、上野公園の犬は、海軍大将の子爵・仁禮景範の愛犬を模型として鋳造されたものと伝えられています。
ちなみに、西郷の飼っていた猟犬に「攘夷家」と名付けられた黒毛の犬がいたそうですが、その理由は、洋服の人を見ると居丈高になって吠える犬だったからみたいです(笑)。

(廃藩置県と薩摩藩)
今回は、江戸幕府が開かれて以来、全国各地に設置されていた藩を廃止し、その代わりに県を置く、いわゆる「廃藩置県」が中心でした。
明治2(1869)年6月、全国各地の諸大名から土地と人民を朝廷に返還させる「版籍奉還」が既に実施されていましたが、実際、藩はそのままの形で存続しており、各藩主も知藩事と名を変えただけで、領内の統治は全てこれまで通り大名が執り行っていました。
しかし、廃藩置県は実質的に大名から土地と人民という財産を取り上げる大改革です。そのため、明治に入って以後、封建制をそのまま存続させるか、それとも藩を廃止して郡県制に移行させるかについては、議論が大きく分かれるところでありました。

ドラマの冒頭において、勅使として公家の岩倉具視が鹿児島に入り、久光に対して上京の勅命を言い渡すシーンがありましたが、勅使が鹿児島に来たのは事実です
明治3(1870)年12月18日、当時中央の政治から離れ、鹿児島に引っ込んでいた久光と西郷の上京を求めるため、勅使として岩倉が鹿児島を訪れ、その勅使一行には大久保も加わっていました。
ただ、ドラマとは違い、最初勅使に拝謁したのは、久光ではなく子の忠義でした。大久保の同年12月24日の日記には、「今日於城内勅使御達命、知事公御名代として御承知被為在候」(『大久保利通日記』二)とあります。

拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』において書きましたが、鹿児島到着後の大久保の日記を見ると、「西郷と示談」「西郷氏入来」という言葉がたくさん並んでおり、大久保が頻繁に西郷と会っている様子が分かります。
大久保は、翌明治4(1871)年1月3日まで合計17日間鹿児島に滞在していますが、その間の日記には、西郷と会ったという記述が実に八回も出てきます。この期間は正月を挟んでいることから察すると、日記には記述がない面会も他にあったと思われますので、大久保は滞在期間の半分以上もの間、西郷と会って話をしていたのです。
このように、二人が密に連絡を取りあい、面談したのは、政府の改革案について話し合うためです。

今回のドラマでは、鶴丸城内(鹿児島城内)において、西郷や大久保らが大きな声で廃藩置県について議論する様子が描かれていましたが、このような国家の命運に関わる機密事項をあんな形で、しかも鹿児島において話すことなど、当時の事情を考えれば到底あり得ません。
なぜなら、鹿児島には廃藩置県に反対している久光が居たからです。

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鶴丸城跡(鹿児島市)

今回のドラマ内において、久光は大久保にすがりつくような情けない態度を露呈していましたが、実際の久光は、当時依然として大きな力を維持し続けており、西郷や大久保は久光に対し、多大な配慮を行わなければならない状況にありました。
事実、久光が勅使と会う直前の明治3(1870)年12月22日の大久保の日記には、

「晝后西郷氏入來、猶又見込之處及示談候處盡く同意、安心此之事ニ候、方略ハ十分相定此上ハ二丸公御受之有無ノミニ有之候」(『大久保利通日記』二)

とあり、西郷と会って今後の見込み等を話した結果、西郷がことごとく同意してくれたので安心であると大久保は書いていますが、その一方、こうして方略は十分に定まったとは言え、二丸こと久光がそれを了承してくれるかどうかが問題だとも書いています。
このように、当時の久光の意向というものは、西郷や大久保にとって、最も配慮しなければならないことであったのです。

大久保が西郷と共に久光を東京に連れて行こうと考えたのは、政府改革を成し遂げるためには薩長の力、特に久光の力が必要だと考えたからですが、前述のとおり、廃藩置県は久光の最も忌み嫌う政策でした。
そのため、大久保は久光に対し、そのような過激な話が出来る状態には当時なかったと言えます。大久保はどのようにして久光に上京することを承諾させ、そして事を進めるかということに、細心の注意を払っている状況にあったため、廃藩置県のことなどは、おくびにも出さなかったことでしょう。
大久保日記の12月26日の条には、西郷が久光に拝謁したところ、久光が曖昧な返事しかしなかったため、再び久光を勅使に拝謁させようと画策している様子が分かり、大久保は鹿児島から久光を引っ張り出すことに全集中を使っていたと言っても過言ではありません。

以上のような状況から考えると、今回の『西郷どん』で描かれたように、大久保が城内で廃藩置県云々などを大きな声で口に出せる状況には無かったのです。
むしろ廃藩置県に積極的な意向を示していたのは、木戸孝允ら長州藩士の方だったと言え、薩摩藩士が長州藩士に比べて、こと廃藩置県に関して積極的な言動に出られなかったのは、偏に久光の存在があったからだと言えましょう。

(西郷の政府改革案)
結局、久光は病気を理由にして上京することを延期し、その代わりに西郷は再び上京することになりました。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』において書きましたが、西郷は上京するにあたり、勅使の岩倉に対して、二十四ヶ条にも及ぶ建言を行っています(「西郷隆盛意見書」『西郷隆盛全集』三)。
これは西郷が温めていた政府改革案の基礎とも言うべきものであり、その内容は、兵制、法制、税制などの各種制度改革だけに留まらず、外交や財政、改革手法やその手順にまで、非常に多岐に渡っています。
その中でも特に西郷がこだわっていた、官吏(官僚)改革に関するものだけを列挙すると、西郷は次のような建言をしています。(筆者が作成した現代語訳版を掲載します)

一、上下を問わず官吏については一旦全員辞職させ、適任者は再任し、適任でない者はそのまま辞職させ、有能な者だけを選んで採用すべきである。また、官員数はなるべく減じて、簡素化すべきである。

一、官吏の職掌と分担を定め、互いに委任しあって職掌を守り、他からの干渉を受けないようにする。民情に通じて施策するのは無論のことだが、自らの職分を超えて、他の職分を侵すことは厳禁とする。

一、奉職に関する任期四年制を改めて、長く同じ職に就任させるべきである。四年で交代させる制度も一理あるが、草創の初め、法や規律が全く整っていない中、急ぎアメリカの共和制を学ぼうとする時期にあっては、時と勢いというものを考えなくてはならない。法や制度が確立しているのであれば、人が代わることに問題はないが、中国では長年同じ職に就かせることを善としている。この際、長く同じ職に就かせる制度を定め、それに加えて勤務評価を導入し、昇任や降任の人事制度を作るべきである。

一、政治とは正である。人が正しくないことをすれば、それを正し、四民各々にその徳を享受させることを言う。政府の要路にある人は、公平至誠をもって人民に施し、一事の譎詐権謀を用いてはならない。

この他にも西郷は、「唯要路の人々は質僕に行い驕奢の風あるべからず(政府の要路にある人々は、質朴であるべきであり、驕り高ぶるような振る舞いをしてはならない)」とも建言していますが、これは前回書いた横山安武の「時弊十ヶ条」の精神にも繋がります。
横山の時弊十ヶ条の第一条には「輔相之大任ヲ始メ侈靡驕奢、上朝廷ヲ暗誘シ、下飢餓ヲ不察也」とあり、さらに第二条には「大小官員トモ、外ニハ虚飾ヲ張リ、内ニハ名利ヲ事トスル不少」とあるなど、横山は官吏の堕落した生活や態度を痛烈に批判していますが、西郷も鹿児島にあって同じように官吏の腐敗に胸を痛めていたことから、横山の精神を受け継ぎ、前述のような官吏改革案を岩倉に対して提示したのです。

また、西郷は次のような建言もしています。(同じく現代語訳版を掲載します)

一、郡県と封建の制度をなお評議すべきです。現状の形勢から観れば、封建の制度は長く行われるものではありません。その弊害は枚挙にいとまがありません。衆人・諸賢で熟議を行った上で、徐々にその制度を改めるべきです。

この西郷の建言は、いわゆる「廃藩置県」のことに言及しているものだと言えます。
西郷は後に旧士族たちを率いて西南戦争を起こしたことから、「封建制の巨魁」や「士族の頭領」といった形で、旧来の封建制度にこだわり、武士を擁護する立場でいたと論評する人が後を絶ちませんが、これは正当な評価であるとは言えません。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』において書きましたが、福澤諭吉はその著書『明治十年 丁丑公論』(『福澤全集』六所収)の中で、

「西郷が士族を重んずるは事実に疑なしと雖も、其気風を愛重するのみにして、封建世禄の旧套に恋々たる者に非ず。若し彼をして真実に封建世禄の友たらしめば、其初め徳川を倒すの時に己が数代恩顧の主人たる島津家を奉じて将軍たらしめん事を勉むべきなり。或は然らざれば、自ら封じて諸侯たらん事を求むべき筈なり。此を是れ勉めざるのみならず維新の後は却て島津家の首尾をも失ひ、且其参議たりし時は廃藩置県の大義にも与りて大に力ありしは世人の普く知る所ならずや」

と書いています。

福沢が論評しているとおり、西郷は武士の気風を愛する人ではありましたが、封建制に執着、未練を持つ人物では決してありません。
現にそれは、西郷自身が政府の首班の一人として廃藩置県を断行し、実際に封建の世を終わらせていることからも明らかですが、のちに西南戦争を起こしたというイメージが、西郷を旧士族を擁護する巨魁だという虚像を生み出したと言えるのではないでしょうか。

本ブログ執筆者の著書

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【2018/10/29 19:44】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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今回の『西郷どん』に、薩摩藩士・横山安武が登場しました。
横山安武が歴史ドラマに登場するのは非常に稀なことだと言えますが、彼を登場させたのは、とても意味があったように思います。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』においても触れましたが、戊辰戦争の終結後、鹿児島に引きこもっていた西郷が、明治4(1871)年1月、意を決して東京へと向かったのは、その前年7月に生じた横山の死と全く関係が無かったとは言い切れません。
いわゆる「諌死」とも言うべき横山の憤死は、当時国政の表舞台から離れ、鹿児島に隠逸していた西郷に対して、大きな心理的影響を与えたと思われるからです。

しかしながら、今回のドラマ内において、横山が西郷に対して、「先生は、政府の犬になられたとでごわすな」と吐き捨てるように批判するシーンがありました。
西郷家に引き取られた愛加那の子の菊次郎が、そんな父の姿を見て失望するという演出でしたが、もちろんこれはフィクションであり、この横山が西郷を批判するシーンは、二人の関係性をある意味無視した演出だったと感じましたので、今回は横山が西郷の存在をどのように考えていたのかについて書きたいと思います。

(横山安武の死)
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』の第八章「明治政府―西郷の苦悩と決意―」で書きましたが、明治3(1870)7月26日の深夜、横山安武は上書と別紙に分けた二通の建言書を竹竿に挟んで集議院の門扉に差し込み、その後、割腹自殺して果てました。
集議院とは、明治2(1869)年7月、公議所に代わって設置された議政機関ですが、元々待詔院(待詔局)で行われていた、各方面からの進言・上書などを受け取り、それを審議する機能を併せ持っていました。
集議院規則には、

「一、集議院中別ニ一局ヲ設ケ、天下之進言献策有用之材ヲ総ヘ寄宿セシメ、其徳行才能ヲ考試スベキ事」(「集議院ニ関スル達書及ヒ規則」『忠義公史料』六)

とあり、その一端をうかがい知ることが出来ます。
横山が自ら執筆した上書を集議院の門扉に挟んで自決したのは、自らの建言を政府に届けようとする意味があったのです。

横山が書いた二通の建言書は、前者は政府に対する批判書であり、後者は当時政府内で生じていた征韓論の非を記したものでしたが、横山の自決は、政府の秕政を糺すための諌死というべきものでした。
横山が書いた上書は、

「方今一新之期、四方着目之時、府藩県共朝廷之大綱ニ依遵シ、各新ニ徳政ヲ敷クヘキニ、豈科哉、旧幕之悪弊、暗ニ新政ニ遷リ、昨日非トセシモノ、今日却テ是トナスニ至ル(今、世が一新され、四方から着目される時であり、府藩県共に朝廷の大綱に従い、各自新たに徳政を敷くべき時であるにもかかわらず、旧幕府の悪弊は暗に新政府へと移り、昨日は非としていたものが、今日は是となる始末である)」(「横山安武時弊十条及ヒ征韓ノ非ヲ集議院ニ陳疏シテ自刃ス」『忠義公史料』六)

との文言から始まり、その後、十ヶ条に渡って政府の弊害を論じていることから、一般に「時弊十ヶ条」と呼ばれています。

横山が「時弊十ヶ条」を執筆し、自決するに到った心境について、西郷は大きな共感を抱いていたのでしょう。西郷は横山の死を悼み、

「精神貫日華夷見、気節凌霜天地知(精神、日を貫いて華夷にあらわれ、気節、霜をしのいで天地を知る)」

という弔旗を揮毫し、明治5(1872)年5月には、彼のために顕彰碑の碑文まで書いています。

このように、西郷と横山とは深い縁で結ばれていたと言えますが、ここでまず横山の履歴を振り返っておくと、彼は天保14(1843)年正月元旦生まれで、西郷より15歳も年下です。
横山の実家は鹿児島城下城ケ谷の森家で、実弟にのちの文部大臣・森有礼がいるのはとても有名な話ですが、河野辰三『横山安武伝記並遺稿』によると、安武は森有恕の四男として生まれ、安政3(1856)年12月29日、出でて横山安容の養子となりました。
同書によると、森家と横山家は隣り同士であったことから、安武の兄弟たちは、藩校造士館の助教で御軍役方掛を務めていた横山安容の薫陶を受けて育ったとあります。安武が安容亡き後の横山家の養子に入ったのも、そういった両家の古い縁があったからなのでしょう。

『横山安武伝記並遺稿』によると、横山は最初斉彬の御小姓として出仕し、その後、久光の側仕えをしたようですが、詳細はよく分かりません。
ただ、のちに西郷が自決した横山のために書いた顕彰碑の碑文には、

「癸亥歳英艦来戦於鹿児島港。人家数百罹兵燹。安武之家亦逢其災。邦君毎戸賜金以救其急。安武以多年勤労之功特蒙賞賜。安武恤故人貧困者、乗夜以賜金竊投於其家而去。家人不知其故、踊躍以為天神之冥助也」(「横山安武碑文」『西郷隆盛全集』四)

とあり、文久3(1863)年7月に起こった薩英戦争の際、横山は自らの家屋敷を焼かれ、罹災しながらも、藩主から多年の功労を認められ支給された慰労金を惜しげもなく死者が出た家や貧困者に対して恵んだとの逸話が記されています。

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横山安武碑(鹿児島市)

薩英戦争において、横山家や森家があった上町と呼ばれる一帯は、イギリス艦隊の砲撃により、多大な戦災を被ったことは事実ですが、まるで「ねずみ小僧」のように、夜半にお金を投げ入れる行為が実際にあったのかどうかは、少し割り引いて考える必要があるかもしれません。
しかしながら、この逸話から、横山の正義感が強く、慈愛に満ちた性格の一端を知ることが出来ると言えましょう。

(横山と長州藩脱隊騒動)
慶応3(1867)年3月25日、西郷や大久保が中心となって画策した四侯会議に出席するため、久光は鹿児島を出発して上京の途につきますが、この時24歳になった横山も久光に同行しています。
『横山安武伝記並遺稿』には、その時の感慨を詠んだ横山の和歌が記されています。

「浮雲は 払ひ尽して 九重の そらにもてらせ 君が真心」

上京する久光に対する大きな期待が込められた和歌であると言えますが、以前本ブログ内でも書いたとおり、四侯会議は徳川慶喜の政略に嵌まり、わずか一ヶ月ばかりで瓦解します。
横山が大きく落胆したであろうことは想像に難くありません。横山は帰国する久光に付き従い、わずか四ヶ月ばかりの滞在で京を去ることになるのです。

その後、横山は久光の第五子である島津悦之助(のちの忠経)の輔導役となり、年が明けた慶応4(1868)年5月、悦之助に付き従い、佐賀や長州へ遊学の旅に出ています。
『忠義公史料』六には、

「藩庁ニテハ、久光公御子悦之助君(久封後改忠経)肥前佐賀ニ遊学ニ付、横山正太郎安武ニ随伴ヲ命ズ、後更ニ長州ニ赴キ、翌三年ノ春ニ至リ帰国ス」(文書二五二「島津悦之助肥前佐賀ニ遊学ニ付横山正太郎ニ随伴ヲ命ス」)

と記録されており、明治2(1869)年4月19日付けで、知政所から下された横山への辞令が収められています。
同辞令にあるように、悦之助一行はまず佐賀へと向かい、佐賀藩の藩校・弘道館に入寮し、三ヶ月ほど滞在した後、同年9月に最終目的地である山口へと入り、当時萩から山口へと移転していた長州藩の藩校・明倫館に入寮しました。

しかし、年が明けた明治3(1871)年1月、山口で大きな事件が起こります。
いわゆる長州藩諸隊の脱隊騒動です。
長州藩内の兵制改革の一環で行われた諸隊の解兵と常備軍の編成内容に不満を持った遊撃隊を中心とした諸隊の藩兵が大挙脱隊し、藩政府に対して、武力をもって対峙する事件が発生したのです。

ちょうど同時期、山口に滞在していた大久保は、同年1月16日付けで東京の吉井友実宛てに送った書簡の中で、

「兼而風説承候諸隊動揺之事、意外ニ大破之次第にて、木戸初別而心配中ニ而、何分不容易趣ニ被察候」(『大久保利通文書』三)

と書いており、大久保が現地の騒動を直に見て、大いに驚いている様子が分かります。
当時の大久保は、政府内の陣容を強化するため、長州藩主・毛利敬親と久光、そして西郷を東京に呼び寄せることを画策し、鹿児島へ帰国する途中でしたが、長州での脱隊騒動を憂慮した木戸孝允が山口に帰国していたため、大久保は今後の相談を含めて、山口の木戸の元に立ち寄っていたのです。

大久保の日記によると、山口に入った大久保は、明治3(1871)年1月12日、湯田温泉の旅宿に宿泊していますが、そこに木戸が訪問していることが確認できます。そしてその際、大久保は脱隊騒動の詳しい状況を木戸から聞いたのでしょう。
また、その翌1月13日の大久保日記の条には、「横山悦公子等入來」(『大久保利通日記』二)とあり、当時山口に遊学していた悦之助と横山が、大久保の元を訪ねたことが分かりますが、その後、横山は脱退騒動の状況を藩に報告するため、悦之助を山口に残し、2月4日急きょ鹿児島に帰国しました。
勝田孫弥『大久保利通伝』には、

「当時留学生として滞留せし薩藩士横山正太郎、岸良眞吉郎は、直に山口を發して長府に出で、井上・野村等に會して、其事情を告げ、更に帰藩の途に就けり」

とあります。

帰国した横山からの報告を受けた薩摩藩当局は、協議の結果、最終的に西郷を長州へ派遣することを決定しました。
「西郷隆盛伝」(『大西郷全集』三)には、その事情が次のように書かれています。

「二月四日、當時山口へ遊学していた薩藩島津悦之介公子に附いていた横山正太郎(安武)と、岸良眞吉郎とが鹿児島に帰って来て、山口暴動の急を告げた。(中略)大久保は早速桂の許に行って善後策を相談した結果、出兵して長州政府を援けようといふ話になったが、後で西郷が自ら視察慰問に行って、若し必要があったらその時に出兵することにし、隆盛は二月六日大山(巌)、村田(新八)、中村(桐野)を伴ひ、鹿児島を發し、長州へ行ったけれども、既に平定していたので、直ちに帰藩の途に就き、十七日鹿児島に着いた」

このように、西郷は大山、村田、桐野らを伴い、2月6日に鹿児島を出発して長州へと向かいましたが、西郷が山口に到着した頃には、脱隊騒動は木戸らの尽力により、既に鎮静されていたのです。

(横山と西郷)
薩摩藩が長州での脱退騒動を受けて、このように迅速に対応することが出来たのは、偏に横山がもたらした現地の最新情報に依るものが大きかったと言えます。
しかしながら、その横山はのちに藩から罪に問われました。
薩摩藩当局は、公子・悦之助の元を勝手に離れて帰国した横山の行動を問題視し、職務怠慢として、横山に依願辞職するよう迫ったのです。
横山に下された藩の命令書には、

「右ハ変ニ臨ミ職掌ヲ忘却シ候次第、学問ノ詮全ク無之ニ付、厳罰可申付ノ処、寛宥ヲ以故障申立、当職断申出候様可相達事」(『玉里島津家史料』五)

とあり、その事情をうかがい知ることが出来ますが、横山にとって、その藩の処分は納得いかないものであったことでしょう。

以上のように、横山は免職の憂き目にあい、長州藩諸隊の脱隊騒動は、彼の人生の転機になりましたが、その一方この騒動は、横山が西郷の人物や人柄を知るきっかけともなったと言えます。
その根拠は、『横山安武伝記並遺稿』所収の明治3(1871)年2月12日付けで横山が書いた書簡です。
同書にはこの書簡の宛先が明示されていませんが、おそらく山口の悦之助の元に戻った横山が、鹿児島の家族宛てに書いたものだと思われます。
この書簡の中で横山は、長州藩内の脱隊騒動視察のため、長州へと向かった西郷の趣意(考え方)について、次のように書いています。

「西郷氏御使者の趣意御承知も有之候はんと奉存候へ共、大略申上候。兵を興すは誠に大事件、何れ春秋の法を以て名分大義を明かにし、邪正曲直を分明相糺し、朝廷に奏聞し、千載不朽の大眼目を着け候上、兵を興され候つもりなり。さなくして粗卒出兵相成り、可笑ナ応援共仕出し候ては、実に私闘の至り、天下の指に掛り、誠に大事件なる故、一先づ踏み入られ、大義を以て諭され候趣意ならん。右などの趣意聞きて、初て眼を覚せし次第に御座候。……此の節は御国(薩藩)兵隊御差出相成らず候て、双方ながら多幸の至りならん。西郷氏の心慮此の節に到り愈々感心なり」(『横山安武伝記並遺稿』)

この書簡を見る限り、横山は西郷から直接もしくは間接的に、今回長州へ出兵せず、数人の視察員だけで山口を訪問した理由を聞いたのでしょう。
同書簡にあるように、西郷は大義名分が無い限り、朝廷に許可も得ないまま、みだりに兵を動かすべきではないと考えていたことが分かりますが、横山はその西郷の真意を聞き、「初て眼を覚せし次第に御座候」と書いています。
また、横山は、薩摩藩が出兵に到らなかったのは薩長両藩にとって多幸の至りであったとし、西郷の心慮にとても感心したと書いています。

前述しましたが、「西郷隆盛伝」(『大西郷全集』三)の記述にあるように、横山がもたらした脱隊騒動の情報を受けた薩摩藩当局は、当初長州藩へ援軍を差し出すことを決定していました。
そのことは、横山が鹿児島に帰国した当日、2月4日の大久保の日記に次のようにあることから明らかです。

「今日横山正太郎、岸良眞二郎両士神戸丸乗船ニ而従長州報知之為帰藩實ニ内論大混動大事之次第ニ候、桂家江参リ談合す、出殿人数為救應被差出候筋治定拙等も木戸江談合之次第も有之傍観いたし信義不相立候ニ付、則踏込候處ニ決定いたし候」(『大久保利通日記』二)

この記述によると、脱隊騒動の一報を受けた大久保は、家老の桂久武と相談し、この状況を傍観することは信義に反するとして、即長州へ出兵することを決定したとあります。

しかしながら、その翌々日、つまり西郷が大山巌らを引き連れて鹿児島から山口へと向かった2月6日の大久保の日記の条には、

「橋口與一郎子入來、長州江人数差出のこと、西郷等一應御使者相勤候上御治定之由承候」(『大久保利通日記』二)

とあり、当時藩の参政を務めていた橋口與一郎が大久保の元にやって来て、西郷らを使者として長州へ派遣することで話がまとまったと聞いたと書かれています。

このように、わずが二日ばかりの間に薩摩藩の出兵方針が変更になったのは、横山が書簡内で書いているように、西郷が長州への即出兵に異議を唱えたからです。
前述のとおり、西郷は正邪曲直を見極めたうえでの筋道を通した出兵に拘っており、簡単に長州へ派兵することに懐疑的であったのです。
この点からも、大義名分を第一義的に考え、筋を通そうとする西郷特有の出兵論が表れていると言えます。
これは対倒幕戦においても、そして征韓論争における朝鮮への出兵においても、はたまた西南戦争での出兵にも繋がる、西郷の行動や考え方を理解するうえで、とても重要な事項であると言えます。

少し話がそれましたが、実際、山口において脱隊騒動の鎮静化にあたっていた木戸孝允が書いた当時の日記を読むと、木戸は薩摩藩の干渉に敏感になっていたことが読み取れますので、結果的に薩摩藩が出兵しなかったのは、薩長両藩の関係から言っても、横山が書簡内に書いているように「多幸の至り」であったのです。
横山は長らく山口に遊学し、長州藩士らと交わる機会も多かったため、それらの事情を理解していたと言えましょう。
そのため、横山は西郷の心慮に感心し、そして深い感銘を受けたのです。

この長州藩の脱退騒動における西郷の言動は、横山が西郷の人物や人となりを知り、そして西郷を大きく信頼するきっかけになったと私は考えています。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』でも触れましたが、のちに横山が「時弊十ヶ条」を書いて自決した際、二通の建言書の他に、両親等に宛てた五通の遺書を併せて書いていますが、その内の一つである鹿児島藩権大参事の大迫喜右衛門(のちの貞清)に宛てた遺書には、

「御両殿様ヘモ建白ノ賦相認居候処、西郷氏奉職承リ、百事心ニ懸ル事ナク態と差控申候(久光公と忠義公へも建白書を書こうと思っていましたが、西郷氏が鹿児島藩大参事に奉職したことを知り、何も心配することが無くなったので提出を差し控えました)」(『忠義公史料』六)

との文言があります。
横山が西郷が奉職したことで何の心配ないとの言葉を遺し、自決したのは、今回書いた長州藩の脱隊騒動において、横山が西郷に全幅の信頼を寄せることになったことが大きかったと思われます。
きっと西郷ならば、政府の腐敗を正してくれるものと信じ、横山は自決したと言えましょう。
そして、そんな西郷もまた、横山の死を無駄にしないため、明治4(1872)年1月3日、政府改革を胸に秘め、意を決して東京へと向かったと言えるのではないでしょうか。


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【2018/10/21 20:50】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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以前も少し書きましたが、今回も西郷の弟の信吾(のちの従道)が、戦争嫌いの平和主義者であるかのように描かれていましたが、一体どういう意図なのかが、さっぱり分かりません。
明治維新後、信吾が文官に転身しているならいざ知らず、武官で軍事畑一筋の道を歩んだ人物ですので、それを平和主義者に仕立てること自体に無理があるとしか言いようがありません。
ことさらに西郷の考えに反発していることから察すると、やはり後に生じる「征韓論争」を巡っての兄弟の別れを意識してのことなのでしょうか?

(吉二郎の死)
今回の『西郷どん』のもう一人の主役は、西郷の弟・吉二郎であったと言えましょう。
吉二郎については、これまでも折に触れて書いてきましたが、西郷より五歳年下の次弟です。

西郷家にとって、吉二郎は無くてはならない貴重な存在でした。
西郷が国事に奔走し、全国各地を飛び回る間、その留守をしっかりと預かったのが吉二郎であったからです。
西郷が島津斉彬に付き従い初めて江戸に出た際、吉二郎が残された西郷家の家事全般を引き受けたからこそ、西郷の出府は可能となったのであり、また、西郷が投身自殺未遂を経て奄美大島に潜居し、その後、島津久光から処罰され、徳之島・沖永良部島へ遠島になった際も、吉二郎という存在があったからこそ、西郷家はその逆境を乗り切ることができたと言えましょう。
「西郷隆盛伝」(『大西郷全集』三)によれば、西郷はそんな吉二郎に対して、

「同胞の中の先出を兄としてこれを敬し、後生を弟としてこれを憐むは、天下の通情である。しかしこれは、兄は世事に通ずること弟に勝るある場合のことである。己は、兄に生まれたけれど、とても汝には及ばない、これから己は汝を兄と思ふ」

と語ったとあります。
このように、吉二郎の存在があったればこそ、西郷は安心して国事に奔走することができたのです。

しかしながら、吉二郎はのちに非業の死を遂げます。
今回描かれたように、吉二郎は北越で繰り広げられた戊辰戦争に出陣し、慶応4(1868)年8月2日、「五十嵐川の戦い」において腰に銃弾を受け、その12日後の8月14日に越後高田の病院で亡くなりました。
西郷はその吉二郎の死について、明治2(1869)年3月20日付けで奄美大島の得藤長に宛てた書簡の中で、

「将又愚弟吉次郎には越後表において戦死いたし、残念此の事に御座候。外の両弟は皆々無難に罷り帰り、仕合わせの次第に候。拙者第一先に戦死致すべき処、小弟を先立たせ、涕泣いたすのみに御座候。御悲察給うべく候(弟の吉二郎については、越後表において戦死いたし、残念無念です。他の二人の弟は無事に帰り、幸せの次第ですが、私が真っ先に戦死しなければならないところ、弟を先立たせてしまい、涙を流すにほかなく、私の悲しみを御推察ください)」(『西郷隆盛全集』三)

と書いており、自分に代わり苦労ばかりさせたうえ、先立たせてしまった弟の死を深く悲しんでいます。

今回の『西郷どん』では、江戸無血開城を成し遂げた西郷が鹿児島に帰国し、その際、吉二郎が西郷に従軍を志願するという形で話が展開していましたが、実際は異なります。
西郷が鹿児島に帰国した当時、西郷と吉二郎とは別行動となっており、吉二郎は既に戊辰戦争に従軍していたからです。

まず、西郷家の家政上の記録である「万留」(『西郷隆盛全集』四所収)から、吉二郎の履歴を振り返ると、ペリーが浦賀に来航した嘉永6(1853)年、吉二郎は父・吉兵衛が勤めた勘定所の書役助に登用されたのを皮切りに、西郷が久光から断罪された影響で、一度は遠慮(自発的謹慎)の処分を受けましたが、元治元(1864)年9月26日には横目助となり、11月には銃薬水車方掛に任命されました。
また、翌年の慶応元(1865)年9月には徒目付、御製薬方掛となり、役料も米弐拾四俵壱斗の支給を受けています。
藩の重役へと上り詰めた兄と比べると、その役職は低いと言えますが、吉二郎も順調に一段ずつ、出世の階段を登って行ったと言えましょう。

そんな吉二郎もまた、西郷と同様に国事への熱い思いを捨てきられず、兄と共に働く機会を求め、京へと出発します。
朝廷から降下された「討幕の密勅」を携え、慶応3(1867)年10月17日、小松や大久保とともに鹿児島へ帰国の途についた西郷は、その一ヶ月後の同年11月13日、藩主・忠義に付き従い、三千の薩摩藩兵を率いて再び上京しました。
大政奉還が成った今、さらに一歩進んで王政復古を成し遂げるべく、薩摩藩は在京兵力を増強しようとしたわけですが、その際、吉二郎も兄と一緒に京へと上ったのです。

そして、年が明けた慶応4(1868)年1月、薩長軍と旧幕府軍が衝突した「鳥羽・伏見の戦い」が起きるわけですが、吉二郎が病気のため、その戦いに出陣できなかったことは、前々回のブログで書きました。
西郷は慶応4(1868)年1月10日付けで、鹿児島の西郷宅に寄宿していた川口雪篷に対して送った書簡の中で、「吉二郎には病気にて引き入れ居り、気の毒の事に御座候」(『西郷隆盛全集』二)と書いていますが、当時吉二郎が属していた府下小銃八番隊の監軍・相良甚之丞が提出した報告書にも、

「但引合西郷吉二郎儀者病気にて出軍不致候」(『薩藩出軍戦状』一)

と同様の記述があります。
このように「鳥羽・伏見の戦い」において、西郷家の男兄弟四人の従軍は叶わなかったのです。

その後、西郷は前回のブログで書いたとおり、慶応4(1868)年2月12日に京を出発し、東海道を下って江戸へと進撃することになりますが、吉二郎はと言えば、遅れること三ヶ月後の5月10日、京を出発します。
しかし、その出陣は兄とは違い、北越方面への援軍としてでした。
吉二郎が京を出発する約一週間前の5月2日、長岡藩家老の河井継之助と新政府軍の軍監・岩村精一郎との談判(小千谷談判)が決裂し、長岡藩が旧幕府側に付いて参戦することが決定されたこともあって、吉二郎ら薩摩藩の府下小銃八番隊は、北越方面へと派遣されることになったのです。

吉二郎が京を出発した5月10日時点で言えば、江戸ではまだ彰義隊との戦いは始まっておらず、西郷は依然として江戸に滞在している状況でしたので、当時の二人は既に離れ離れになっていました。
今回の『西郷どん』で描かれたように、戊辰戦争への出陣を巡って、兄弟二人がやり取りするような状況では全く無かったのです。

以上のように、吉二郎は府下小銃八番隊の監軍として、西郷とは別れて北越方面へと出陣することになりましたが、北越では長岡藩や会津藩兵が新政府軍に対して頑強に抵抗している状況にあり、戊辰戦争において一、二を争う激戦となっていました。
西郷従徳『西郷吉二郎大人』には、

「花は白河、難儀は越後、物の哀れは秋田口、岩城平は噂なし」

という、当時新政府軍内で流行った陣中歌が紹介されていますが、このように越後における戦いは、新政府軍にとって誠に難儀なものであったのです。

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長岡城二の丸跡(長岡市)

越後方面の新政府軍が苦戦しているとの一報を受け、当時鹿児島に帰国していた西郷は、慶応4(1868)年8月6日、兵具方付士一番隊、兵具方二番隊・三番隊の三小隊を率いて、軍艦・春日丸に乗り、増援部隊として越後を目指して出発しましたが、前述のとおり、この時既に吉二郎は、遠く離れた越後の地で敵の銃弾に倒れていました。
当時の吉二郎は番兵二番隊に転属し、監軍として隊を指揮していましたが、8月2日の「五十嵐川の戦い」において、腰に銃弾を受ける重傷を負っていたのです。
同隊の戦闘記録には、

「翌二日月岡村迄進軍いたし候處、同所川向ひへ賊兵相見得候付、曲淵村五十嵐川渡し場へ繰出し漸く渡し舟一艘を引付既に乗渡らんとせし所、右の渡場へ賊大勢繰出し互に渡し場相争ひ、終日終夜砲戦苦闘未明に及賊退散」

とあり、8月2日は終日に渡り、激しい砲戦が繰り広げられ、新政府軍は苦戦を強いられたとあります。

「万留」(『西郷隆盛全集』四所収)によると、この五十嵐川の戦いにおいて負傷した吉二郎は小銃を携帯していたようです。
「吉二郎携銃取調べ」という文書によると、「吉二郎戦死之節相携候シヤアフル」との文言があり、吉二郎がアメリカ製の元込め銃である「シャーフル銃(シャープス銃)」を所持していたとあります。(ちなみに同文書には、「自筒之段も申出置候」との文言があることから、このシャーフル銃は西郷家の持ち物であったことが分かります)

前出の戦闘記録にあるように、五十嵐川の渡し場を巡り、両軍は攻防戦を繰り広げたわけですが、それは激しい銃撃戦を伴うものであったのでしょう。
吉二郎は銃弾飛び交う戦場において、味方を鼓舞・督戦中、敵の銃弾に倒れたのです。
そのことを知らない西郷は、8月10日に越後の柏崎港に到着しますが、吉二郎はその四日後の8月14日、高田の病院で亡くなりました。享年35歳の若さでした。

弟の死を聞いた西郷の悲しみは、いかばかりであったでしょう……。
これまで苦労ばかりを強いてきた弟の死を聞き、大いに嘆き悲しんだに違いありません。
「万留」(『西郷隆盛全集』四所収)によると、明治2(1869)年11月11日、薩摩藩は吉二郎の遺族に対して、扶持米七十俵を三十年間支給すると決定したとあります。


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【2018/10/14 20:46】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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ダラオイリハ
戊辰戦争、えらくあっさりとした描き方でしたね。
ま、西郷を主役とするドラマとしては東北・蝦夷の戦線はそれほど重要では無かった、と言う事なのでしょうね。

庄内藩への扱いですが、長州っ違い武人の心意気を残している薩摩としては、庄内藩の戦いぶりに対し武人として敬意の念があったように思います。
実際、新政府軍としては勝負では勝ったとは言え、列藩を裏切った連中もろとも秋田まで追い込まれており、喧嘩では実質負けていましたからねえ。

ドラマ解説ありがとうございます
mimi
変だと思った史実とのちがいがよくわかりました。
東北・蝦夷の戦線がまったく出てこないのは「遺訓」もなきものにされているかのようで主役をかつぐみなさんにとっても遺憾では。視聴率も低く東北のみなさんも観なくてよかったかもしれません。観たかたはまさにないがしろにされたので憤激しないのでしょうか。幕末のご先祖ほどの気概もないのかな。変な気概があるとまた殺し合いをしてしまいそう。
銃を持つと人が変わると申しますけれど、ナポレオン戦争あたりから一段と大規模に狂い始めた西洋。脅威を感じて狂気の真似を始めてしまったのがこの時代。狂気を先導し狂気の犠牲となった西郷。やっと西洋も正気にかえりつつある昨今、狂気のはじまりを振り返るのも大事なんでしょう。

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今回で幕末編は終了し、次回からは明治編へと入るようですが、幕末編の総括をここで少ししておきたいと思います。
やはり幕末編で際立っていたのは奄美大島編でした。
奄美大島の歴史に関しては、これまでなかなか触れられることが少なく、西郷を描いた歴史ドラマにおいても、軽く流される傾向がありましたが、拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』でも書いたとおり、西郷にとっての南島生活は、彼の人生を左右する、とても大切なものであったと言えますので、そこに重点を置いた描き方は、大変素晴らしかったです。
また、本ブログでも「砂糖地獄」と題して書きましたが、奄美大島に暮らす人々が強いられた苦しい生活にスポットが当たったのも、とても良かったのではないでしょうか。

ただ、その反面、少年から青年時代の西郷を描くことに多くの回数を費やしてしまったことから、西郷の本領とも言える政治家としての一面が、ほとんど描かれなかったのはとても残念なことでした。
特に、慶応3(1867)年当時の西郷の行動や考え方が、非常に雑に描かれてしまいましたので、「なぜ西郷が明治維新の立役者と言われているのか?」が、視聴者にとって非常に分かりにくかったように思います。
また、次回から始まる明治編は、西郷の行動や考え方を理解・解釈することが、より難しくなる時期ですので、それを上手く描くことが出来るのか正直心配です。

(西郷と大久保の徳川処分案)
「鳥羽・伏見の戦い」で薩長側が勝利し、幕府は事実上瓦解することになりますが、大坂から江戸に逃げ帰った前将軍・徳川慶喜の処分を巡り、西郷はあくまでも慶喜の首を取ろうとする厳罰論を主張したと一般に言われています。
『西郷どん』でも同じような形でその姿が描かれていますが、その根拠は、慶応4(1868)年2月2日付けで、西郷が大久保に宛てた書簡の中に次のような文言があるからです。

「只今別紙相達し申し候。慶喜退隠の嘆願、甚だ以て不届き千万、是非切腹迄には参り申さず候わでは相済まず、必ず越土杯よりも寛論起り候わんか。然れば静寛院と申しても、矢張り賊の一味と成りて、退隠位にて相済み候事と思召され候わば、致し方なく候に付き、斷然追討在らせられたき事と存じ奉り候」(『西郷隆盛全集』二)

このように、西郷は確かに「慶喜を切腹にしなければ済まない」との過激な言葉を使用し、烈火の如く怒っていますが、西郷がなぜそのような「慶喜厳罰論」を主張するに至ったのかをまず考える必要があると思います。

それを解くカギは、西郷曰く「別紙」です。

大久保宛て西郷書簡内の最初に出てくる「別紙」とは、前越前藩主・松平春嶽を始めとする、尾張藩、芸州藩、肥後藩、土佐藩といった、当時慶喜に対して同情心を抱いていた諸藩の関係者に宛てた慶喜の書簡のことを指しています。
『徳川慶喜公伝』七によると、同書簡は慶応4(1868)年1月21日に、若年寄・平山敬忠の代筆により書かれたものであり、また、越前藩重臣・中根雪江の「戊辰日記」(『史籍雑纂』四』所収)によれば、同書簡はその一週間後の1月28日に京に着いたことが分かりますが、西郷はその書簡の写しを手に入れて読んだことで、怒り心頭に発したものと思われます。
つまり、西郷が「慶喜の切腹」まで口に出して怒った原因とは、この平山が代筆した慶喜書簡にあったと言えるのです。
(付記:「西郷隆盛ヨリ大久保利通ヘ徳川慶喜追討ニツキ書翰」(『鹿児島県史料 忠義公史料』五所収)では、西郷の言う別紙とは、同年1月25日付けの春嶽宛て慶喜書簡としていますが、前出の「戊辰日記」によると、同書簡は2月4日に越前藩邸に到着していることが分かり、西郷書簡が書かれた後であることから、誤解であることが分かります)

当時の西郷の感情を正確に把握するために、平山が代筆した春嶽宛て慶喜書簡(宛名は大蔵大輔)の大部を抜粋すると、そこには「鳥羽・伏見の戦い」について、次のように書かれています。

「去る三日先供之兵隊、鳥羽伏見兩道より入京候處、薩藩士指留應接中、伏兵一時に起り、発砲に及候に付、兩所共無據應砲、怪我人も多人数有之、實に意外之次第に而、不料奉驚宸襟、人民を損傷致し、兼而之素意にも相背候間、斷然大坂城を御兩家へ託し、兵隊を為引揚候、全く一時供先之争闘附會して、或は朝敵之悪名を負しむる哉にも承り、實に意外恐歎之至に而、畢竟華城を棄て、赤心を表候得共、何分近來事々素心に背候事とのみに而、遂に病魔に被侵、事務取扱兼候間、退隠いたし、跡式之儀は、相撰申付候積」(『戊辰日記』)

西郷がこの慶喜書簡を見て、烈火の如く怒った気持ちも理解できます。
見てのとおり同書簡には、鳥羽・伏見の戦いは先鋒同士の偶発的な衝突で生じたことであったとあり、まるで自分はあずかり知らなかったと言わんばかりに、慶喜の言い訳の言葉が書き連ねられています。そこには慶喜の命により出兵した将兵たちをかばう言葉も無ければ、まるで自分の責任を転嫁・放棄しているかの如く、幕府兵を残して大坂城を退去したのも、朝廷に対して赤心を示すためであったとありますが、西郷にとってこれらの言葉は、保身に走る慶喜自身の苦しい言い訳にしか聞こえなかったことでしょう。
また、同書簡には、慶喜自身による謝罪の言葉や恭順の意を示すような言葉は一切書かれておらず、ただその進退についてのみ、「ついに病魔におかされて、諸事取り扱いが出来なくなったので、隠居して跡目を決めるつもり」とあるだけです。

また、慶喜は同書簡の中で春嶽に対して、「前文意外之汚名相雪候様、此上にも御鼎力、千萬拝嘱する處に御座候」と依頼しており、慶喜は自身に被された罪を「汚名」と称しています。
このような書簡の内容を見て、西郷は慶喜が心から反省し、謝罪の意を示しているとは到底思えなかったのでしょう。
西郷が「慶喜を切腹にしなければ済まない」との過激な言葉を使い、大久保に対して慶喜厳罰論を主張した原因はそこにあったと思われますが、そのような感情は何も西郷に限ったことでは無く、大久保も同じ思いでいたと思われます。

同年2月16日付けで、大久保が鹿児島の蓑田伝兵衛に宛てた書簡には、慶喜の処分について、次のように書かれています。

「親征ト迄被相決候を退隠位ヲ以謝罪なとと益愚弄奉る之甚舗ニ御坐候、天地不可容之大罪なれハ天地ノ間ヲ退隠して後初て被解兵可、然左もナクハ寸毫御猶豫被為在候ては例之譎詐権謀ニ陥リ給フハ案中ニ御坐候」(『大久保利通文書』二)

この大久保の書きぶりは、西郷の慶喜厳罰論と酷似しています。
大久保曰く「天地ノ間ヲ退隠して」とは、すなわち「慶喜の死」を意味しています。
天地から身を隠すということは、現世から居なくなることを指しますので、大久保は慶喜の死があって後、初めて解兵するべきだと論じているのです。

以上のように、西郷や大久保は、その書簡内で「慶喜厳罰論」に言及していますが、一方新政府の中心人物の一人でもあった岩倉具視は「慶喜寛典論」を主張したため、徳川家の処分案を巡り、西郷・大久保と岩倉との間に意見の対立があったかのように言われることがあります。
確かに、岩倉が徳川家の寛典に動いたことは事実です。
前出の「戊辰日記」によると、慶応4年1月23日、岩倉が春嶽を呼び出して内談したとの記述が出てきますが、岩倉の要件とは徳川家の処分についてでした。
岩倉は「謝罪之道相立候へは、社稷之保存に於ては、岩倉殿死を誓って御請合候間、生霊之為、宗家之為、此御周旋は公に限り候」と、謝罪の道が立ちさえすれば、徳川家の社稷を守ることを請け負うので、そのために旧幕府と新政府の間を周旋して欲しいと春嶽に対して依頼しました。
「戊辰日記」によると、そのような岩倉からの依頼を受けた春嶽は、まず家臣の中根雪江と相談して欲しいと回答したようですが、中根は岩倉に会ってその内意を聞くと、「不容易大事候得は、主人存寄も篤と相伺ひ、熟考可仕旨申上」と即答は避けたようです。
しかし、その三日後の1月26日、岩倉は春嶽に対して、同様の趣旨を記した次のような書簡を送っています。

「今度徳川慶喜進退實に不可言次第百事去候儀には候得共、尚今日に至り為宗家御苦心之條令推量候、若條理上に於て齟齬する事なく其道相立候様有之候はヽ豈血食之事懸命有之間敷歟、聊見込之旨も有之候間足下内々周旋之儀後難なかるへし」(『岩倉具視関係文書』三)

このように、岩倉は具体的に慶喜の名を出し、春嶽に対して、内々の周旋を依頼したのです。
また、岩倉はこの春嶽宛て書簡の中で、「素より廟議と申義には無之臣一己之見込之儘申進候迄に候也」とも書いており、これは朝廷の廟議を経た結果ではなく、岩倉の個人的な考えであることを念押ししていますが、このように岩倉が徳川家の処分を軽減するよう個人的に動いたのは、『岩倉公実記』下によれば、情勢探索のため江戸に派遣していた門下生・伊藤謙吉のもたらした情報に起因しています。
江戸において探索活動にあたっていた伊藤は、前橋藩士らが中心となり、慶喜を廃嫡して禁固することによって、新政府に対する謝罪の実効を立て、徳川家の社稷を守ろうとする動きがあることを知り、帰京後、岩倉に対してそれを報告しました。
また、『岩倉公実記』には、第14代将軍・徳川家茂夫人の静寛院宮(和宮)が、東海道鎮撫総督の橋本実梁に対して嘆願書を書き送ったことも、岩倉が徳川家の寛典に動いた原因としていますが、岩倉が春嶽に書簡を送った段階では、まだ静寛院宮からの嘆願書は正式には朝廷に届いていない状況でしたので、元々岩倉の心中には、謝罪の実効が立つようであれば、徳川家を寛典に処する気持ちが少なからずあったものと思われます。

以上のように、徳川家に対する処分案を巡り、西郷と大久保は厳罰論、岩倉は寛典論であったと思われますが、この両者の間に大きく意見の食い違いがあったのかと言うと、実際そうではありません。
『大久保利通文書』二に、慶応4年2月に書かれたものとされる「徳川氏處分に關する意見書」という文書が入っています。
これは文字通り、慶喜ひいては徳川家に対する処分の草案というべきものですが、その第一項には次のようにあります。

「一、恭順之廉ヲ以慶喜處分之儀寛大仁恕之思食ヲ以死一等ヲ可被減事」

この意見書は大久保が起草し、岩倉に対して差し出したものだとされており、『大久保利通文書』の同文書の解説にあるように、これは西郷と大久保が予め協議したうえで作成し、岩倉と三条実美に提出して、その内議を経ていた慶喜の処分案だと言われています。

この処分案の趣旨は、「慶喜が恭順するのであれば、死一等を減じて、寛大な処分にする」という、いわゆる「慶喜寛典論」ですが、前出の西郷や大久保が自らの書簡内で主張していた「慶喜厳罰論」とは相反していることが分かります。
このギャップは一体何を意味しているのでしょうか?
まず考えられるのは、西郷と大久保の二人が岩倉からの説得を受け、翻意したということです。
前述のとおり、岩倉は春嶽に対して徳川家寛典の周旋依頼を行い、また、静寛院宮からの嘆願書を受け、慶喜に謝罪の道が立てば寛典に処する気持ちに傾いていたため、岩倉が西郷と大久保に対して、翻意を促したことは十分に考えられます。
ただ、では西郷や大久保が頑なに慶喜厳罰論に固守していたのかと言うと、実際はそうでは無かったでしょう。
前述のとおり、西郷が「切腹」という言葉を使ってまで慶喜の厳罰論を主張したのは、慶喜が発信した書簡が大きな原因であるとも言え、もしあのような言い訳がましい、まるで保身をはかるかのような書簡では無く、慶喜自身の手による謝罪・恭順の言葉が書かれた嘆願書が届いていたとしたならば、西郷があそこまで態度を硬化させ、怒ることは無かったように思います。
西郷と大久保が示し合わせて作成した処分案を見る限り、元々西郷は謝罪・恭順の実効が立つのであれば、慶喜の命を奪うまでの厳罰を与える必要は無いと考えていたのではないでしょうか。

また、元々薩摩藩の士風として、戦に負け軍門に降ってきた敗者に対し、さらに過酷な仕打ちを行うような流儀はありません。
そのことは西郷書簡の中にもいくつか散見できます。
例えば、慶応元(1865)年3月、西郷が筑波山で挙兵した水戸藩の天狗党に対する幕府の過酷な処分命令を拒絶するために書いた上書の控えには、次のような言葉が出てきます。

「古来より降人苛酷の御扱い相成り候儀、未だ嘗て聞かざる処に御座候」(「幕命拒絶の薩摩藩上書控」『西郷隆盛全集』二)

これは幕府の天狗党に対する過酷な処分を知った西郷の率直な感想であると言えますが、さらに西郷は、流罪と決まった天狗党の者たちを薩摩藩で引き取るよう幕命が下ったことに対して、大きな憤りを見せ、「弊国にては降人厳重の扱い方、道理において出来兼ね申し候」と幕府に対して回答しようとしています。

以上のようなことを考え合わせると、西郷が大久保宛ての書簡内で慶喜厳罰論を吐いたのは、慶喜自身に反省の態度が見られないこと(少なくとも西郷や大久保はそう感じていた)が大きな原因であったと言えるのではないでしょうか。
また、当時の西郷や大久保が最も懸念・危惧していたのは、慶喜自身に反省・恭順の態度が見えないままに、なし崩し的に寛典が決まることであったように思います。
それは前出の大久保宛て西郷書簡内にも「必ず越土杯よりも寛論起り候わんか」との言葉があるとおり、鳥羽・伏見の戦いが起きる以前から、越前、土佐、尾張藩などを中心に、慶喜に対する同情論が根強く残っていたため、その辺りから生じる甘い処分案を払拭するためにも、西郷は意識的に強硬論を唱える必要があったように思います。
西郷は東征前の寛典論は士気に関わるものと考え、それを払拭したうえで、実際の交渉にあたろうと考えていたのではないでしょうか。

特に、西郷や大久保は、これまで慶喜の政略に何度も嵌まり、散々振り回され、苦渋の決断を強いられてきた経験があります。
参豫会議しかり、四侯会議しかりです。
現に、前出の蓑田宛て大久保書簡には、「例之譎詐権謀ニ陥リ給フハ案中ニ御坐候」と、慶喜の術中に嵌まることを警戒する言葉が出てきます。
大久保自身も、なし崩し的に慶喜を赦免すると、これまでのように慶喜が権謀術数を操り、また巻き返しを図られるのでは無いかと警戒していたように感じられます。
当時の新政府の基盤は、まだまだ盤石なものではなかったため、大久保の心中には慶喜を警戒する気持ちが非常に強かったと言えましょう。

以上のようなことから、西郷と大久保は、もし慶喜が少しでも謀略を用いて反抗の態度を見せれば、容赦なく武力をもって討つ覚悟は出来ていました。
そのような気持ちは、西郷と大久保の処分案の最後に、

「右三ヶ條ヲ以早々實行ヲ擧候様、朝命嚴然降下若シ奉セスンハ官軍ヲ以テ可打碎之外條理有之間舗奉存候事」

とあることで分かります。
ここにある三ヶ条とは、前述のとおり、「一、慶喜が恭順するのであれば死一等を減じて寛大な処分にすること」に加えて、

二、慶喜は軍門にて伏罪のうえ、その身柄を備前藩に預けること。
三、江戸城を明け渡すだけでなく、軍艦・武器等も引き渡すこと。

の二つの条件でした。
これらの条件は、後に輪王寺宮山岡鉄舟が慶喜嘆願のために静岡の大総督府を訪れた際に提示された条件とほぼ同様の内容と言えますので、このことからも、西郷は東征に出発する前に、大久保と相談し、この三つの条件を腹案として持っていたことが分かります。
以上のように、西郷と大久保は、慶喜に少しでも不審な動きがあれば、討伐することも辞さない覚悟で対徳川交渉に臨もうとはしていましたが、その一方で慶喜を赦免する条件も併せて持っていたと言えるのです。

こうして、慶応4年2月12日、西郷は京を出発し、軍勢を率いて東海道を下り江戸へと向かうわけですが、前述のとおり、西郷は慶喜を赦す腹案を既に持っていました。
『熾仁親王日記』一には、そのことを裏付ける記述があります。
同年3月6日の条に、「今日巳ノ刻軍議之事、東海道先鋒大総督参謀兩方下参謀等一同示談之事」と、大総督府において軍議が開かれ、そこで「一 江戸進撃期限來十五日決定之事」と、江戸総攻撃を3月15日とすることを決定したとありますが、それに加えて、「別秘事」として、

「一 慶喜若眞ニ恭順恐入、奉待天譴候心底ナラハ軍門來リ而可拜事」

と書かれています。
つまり、「別秘事」とは秘密の案です。
大総督府は、もし慶喜が恭順した場合のことを想定し、予めその処置を軍議で決めていたわけですが、これは西郷と大久保が相談して作成した腹案が大きな影響を与えていたことは間違いありません。

しかしながら、その慶喜赦免のカードは、旧幕府軍や慶喜自身の態度を見定めたうえで切るべきものと西郷は考えていたと思われます。
後に、西郷は山岡との交渉の中で、旧幕府軍が甲州で新政府軍と戦闘に及んだことを重視し、そのことについて山岡を問い詰めています(『明治戊辰山岡先生与西郷氏応接筆記』)。
西郷としては、謝罪の実効が立たないようであれば、容赦なく慶喜を討伐つもりであったからです。

image20180930.jpg
西郷・山岡会見之地碑(静岡市)

ただ、西郷自身も山岡に対して配慮しています。
山岡に対して示した降伏条件の中には、「軍門にて伏罪する」という条件が無くなっているからです(「山岡鉄太郎へ示した徳川家処分案」『西郷隆盛全集』二)。
西郷は山岡と交渉した際、旧幕府側にとって屈辱とも取れるこの条件を外し、慶喜自身が恭順しやすいように配慮したのです。
また、西郷は山岡に対して次のように言ったと、山岡は後年書いています。

「唯進軍ヲ好ニアラス恭順ノ實効サヘ立ハ寛典ノ御所置アラン」(『明治戊辰山岡先生与西郷氏応接筆記』)

これを見ても、西郷が遮二無二慶喜の首を求める厳罰論を主張していたわけではなく、慶喜を赦すことも視野に入れたうえで山岡と交渉していたことが分かります。

西郷は山岡と会って話を聞き、そして勝海舟からの書簡を読み、慶喜の謹慎の態度を聞いたことで、真に反省・恭順の態度が見込め、謝罪の実効が立つと判断したからこそ、その後、慶喜の寛典に大きく傾斜していったと言えるのではないでしょうか。
一般に言われているように、西郷は何が何でも慶喜の首を取ろうとする厳罰論に固守していたわけではなく、そこにはあらかじめ硬軟織り交ぜた考えがあり、慶喜自身に真に反省・謝罪の態度が見られるのであれば、それを見定めたうえで慶喜を赦免することも視野に入れていたと言えましょう。


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【2018/10/07 20:46】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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zampanogelsomina
粒山様
「西郷どん」視聴後に、いつも楽しく拝読させて頂いております。
幕末の薩摩藩の動向についてはある程度基本的な事は理解しているつもりでしたが、粒山様のブログを拝読させて頂きながら、毎回勉強させて頂いております。
もちろん「維新を創った男 西郷隆盛の実像」もです。

物語も終盤ですが今更ながら、「西郷どん」の時代考証は粒山様や桐野作人氏が担当すれば良かったのにと、思います。

来月、鹿児島での講演会楽しみにしております。

ありがとうございます
粒山 樹
コメントありがとうございました。
拙稿について、毎回お読み頂いているとお聞きし、大変嬉しく思っております。

『西郷どん』は、かなりフィクション色が強くなってしまいましたが、史実と創作のバランスは本当に難しいですね。
来月の講演会については、余り大したお話は出来ないと思いますが、一生懸命お話ししたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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