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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます     (大河ドラマ『西郷どん』の解説も是非お読みください)
(西郷と大山綱良)
今回の『西郷どん』では、西郷は再び鹿児島に帰って隠遁生活に入りました。
そんな西郷を慕い、東京から続々と将兵たちが鹿児島に帰郷したことから、西郷は鹿児島県令の大山綱良(前名・格之助)の協力を得て、彼らの受け皿として「私学校」を創設しました。

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私学校跡(鹿児島市)

『西郷どん』では、西郷と大山が良好な関係で結びついていたかのような描き方をされていますが、実際、西郷の大山に対する評価は大変厳しいものがありました。
明治6(1873)年6月29日付けで、西郷が母方の叔父である椎原与右衛門に宛てた書簡には、大山について、

「此の格州の振る舞い実に驚き入り候仕合い、銭の金のと申す事計り、全く商人肌合いに成り切り居られ、(中略)、只自分の面計りを能くいたし候軽薄なものに陥り候故、皆々人望を失し、当時は盗犬の如くひろひろいたし居られ候体、見苦敷次第」(『西郷隆盛全集』三』)

と書かれています。
「銭の金のと申す事計り」「只自分の面計りを能くいたし候軽薄なもの」という辺りに西郷の大山観が分かるのではないでしょうか。
特に、後半部分の「盗犬の如くひろひろいたし」とは、全集の注釈によると、「盗犬のように、痩せてぎょろぎょろ落ち着きのないさま」という意味だそうです。
大山の容姿を含めて罵倒していることから察しても、西郷の大山に対する嫌悪感が読み取れます。

また、明治6年4月19日に大山が鹿児島県参事から鹿児島県権令に昇進したことについて、西郷は同年5月17日付け桂四郎(久武)宛て書簡の中で「余程巧みこれある向きに相聞かれ申すべく候」と書き、また、「又奥深く相考え候得ば、県庁の権威を以て人数を纏め、一仕事を巧み候や相分からず候」と、大山が県庁の権力等を利用して何か企んでいるのではないかと書いています。
以上のような西郷書簡からも、二人の関係性が分かるのではないでしょうか。

西郷という人物は、元々人の好き嫌いがはっきりしている人です。
特に、西郷自身が金銭に無頓着な人物であったことから、商人のような活動をしている人を嫌っていたようで、例えば、大阪の産業界に多大な功績を残した五代才助(のちの友厚)のことを「利のみの人間」と書いているほか(明治2(1869)年12月27日付け、桂四郎(久武)宛て書簡)、膨大な薩摩藩史料の編纂に尽くした市来四郎にいたっては「山師」呼ばわりし(明治4(1871)年12月11日付け、桂四郎(久武)宛て書簡)、はたまた、一番最初の妻・スガの弟である伊集院兼寛のことを面の皮が厚いという意味で「ダッキョウ先生」と比喩したりしています(明治7(1874)年8月31日付け、篠原冬一郎(国幹)宛て書簡)。
西郷という人物は、『西郷どん』で描かれているように、とても温和で、清濁併せ飲む優しい人物というイメージが定着していますが、確かにそのような一面もあったのでしょうが、元来猜疑心の強い人物であったと思われます。

話を戻して大山のことですが、大山という人物は、県令という鹿児島県では最上位の官職に就いていながらも、西郷という巨大な存在が在野におり、なおかつ旧主の忠義や久光が依然として県内で勢力を保っていたことから、両者に多大な気を遣わなければならない状況に置かれていました。その在職中は大変苦労したものと思われます。
特に、西郷が下野してから西南戦争に至るまでの間、鹿児島県庁はまさに私学校県庁であったと言えるほど、私学校の関係者で重職が占められていましたので、思わぬ所から突き上げを食うようなことも多かったに違いありません。
明治10(1877)年に生じた西南戦争において、大山は鹿児島県をあげて薩軍を支援する立場を取りましたが、それは大山の本意では無かったと言えるかもしれません。
大山は西南戦争後に長崎で斬首に処せられますが、以上のような点から考えれば、大変悲劇的な人物であったと言えましょう。

(下野後の西郷)
鹿児島に帰郷した西郷は、政治から離れたところに身を置き、まるで農夫のような生活を始めたことから、下野後の西郷は完全に隠退するつもりであったというのが一般的な解釈ですが、私はそれに懐疑的です。
確かに、下野直後の西郷は、再び復帰するつもりは無いとの意向を誰あろう久光に対して伝えています。
明治7(1874)年2月22日、西郷はその前々日の20日に鹿児島に帰国した久光に拝謁していますが、次のように語ったと『玉里島津家史料』にあります。

「朝命ノ重キヲ奉シ、旧君病苦ヲ侵シ、遠ク来テ臣ニ諭スニ誠ヲ以テス、臣恐懼ニ堪ス、冷汗背ニ洽敢テ出ル所ヲ不知、然リト雖ヲ奉スルヤ、臣カ心事実ニ安カラサルモノアリ、如何トナレハ臣職ヲ辞スルノ際、国家事臣カ所見ヲ以テ献言スルモノ再三、廟議終ニ臣カ所見ヲ採ラス、故ニ職ヲ辞テ県ニ帰ル、臣再ヒ出ルモ方今ノ事臣カ所見ト相反ス、若シ朝廷臣カ前議ヲ用ンニハ実ニ政令朝出暮改、何ヲ以テ信ヲ天下ニ示サン、今日ニ至テ臣敢テ国家ヲ維持スルノ策ナシ、国難ニ当テ唯一死アルノミ、臣決テ非ヲ逐ルニアラス、仰願ハ臣カ心情憐察ヲモ給ハン」(「久光公ヨリ西郷隆盛ヘノ説諭」『鹿児島県史料 玉里島津家史料』七)

この記述を見る限り、当時の西郷には再び上京して政治に携わる気持ちは無かったように考えられます。

「臣再ヒ出ルモ方今ノ事臣カ所見ト相反ス、若シ朝廷臣カ前議ヲ用ンニハ実ニ政令朝出暮改、何ヲ以テ信ヲ天下ニ示サン、今日ニ至テ臣敢テ国家ヲ維持スルノ策ナシ(私が再び政府に出仕しても、現在の政策と私の所見は相反しており、もし朝廷が、私が以前唱えた議を採用することになれば、それは朝令暮改となり、何をもって事の信義を天下に示すことが出来ましょうか。今日に至っては、私に国家を維持するような策はありません)」

という部分にその気持ちが表れていますが、ただ、西郷の生涯を俯瞰すれば分かるように、西郷の人生とは挫折と再起の繰り返しであり、西郷は挫折を味わう毎に、前述のように必ず隠退の意向を示しますが、最終的には必ず再び起ち上がっています。
その理由については、亡き先君・斉彬との関係などいくつかの理由があげられますが、特に明治4(1871)年1月、鹿児島に引っ込んでいた西郷が、大久保からの要請を受けて再び上京することを決心したのは、西郷が政府改革の必要性を強く感じていたことに起因します。

明治維新以後の政府に関して、西郷が大いに不満を抱いていたであろうことは、旧庄内藩士らが編纂した『南洲翁遺訓』を読めば明らかです。

「草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱え、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今となりては戊辰の義戦も、偏に私を営みたる姿になり行き、天下に対し、戦死者に対して面目なきぞとて、頻りに涙を催されける」(『西郷隆盛全集』四)

この遺訓には、明治維新以後、西郷が抱き続けてきた苦悩と不満が表現されていると言えます。特に「天下に対し、戦死者に対して面目なきぞとて、頻りに涙を催されける」という部分に、その気持ちが凝縮されていると言えましょう。

明治3(1870)年閏10月22日付けで、西郷の弟・信吾(のちの従道)が大久保と吉井幸輔に宛てた書簡には、西郷が信吾から政府の現状を聞き、「落涙ニ相及候」(『大久保利通文書』四)とありますが、信吾から政府の問題点や腐敗ぶりを直接聞かされた西郷が、涙を流すほど大いに嘆き悲しんだことから考えると、明治4(1871)年1月に西郷が憤然として再び起ち上がったのは、明治政府の立て直しを行うために他ならなかったと考えられます。

このように明治維新以後、政府改革の必要性を強く感じていたであろう西郷が、征韓論争という政変に敗れたとは言え、「もう下野した俺には無関係だ」とばかりに黙視し、自分一人だけが俗世を離れたところで安寧な生活を得ようとしていたとは、私には到底考えられません。
前述した久光に対する応答内でも、西郷は「国難ニ当テ唯一死アルノミ」と語っているとおり、前回の死生観の話にも通じますが、国難にあたり死を賭して起ち上がる覚悟を下野後も持っていたものと考えられます。

しかしながら、西郷の決起のタイミングが、いわゆる西南戦争が生じた明治10(1877)年であったかと考えると、それは西郷の目論見とは大いに異なっていたことでしょう。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』においても書きましたが、西郷は「佐賀の乱」を始めとする、旧士族たちの反乱が雪崩式に生じ、政府への不平不満が頂点へと達した時、何らかの行動を起こすつもりであったとは思いますが、私学校生徒があのような形で暴発することで挙兵に追い込まれるものとは予想していなかったに違いありません。

ただ、私学校生の暴発に関して言えば、西郷にもその責任は大いにあったと言えます。
西郷は私学校の運営を篠原国幹や村田新八らに全て任せ、自らが直接関わるようなことはしませんでした。
村田新八が鹿児島の現状を「恰も四斗樽に水を盛り、腐縄を以て之を纏ひたるが如し、遂に破裂すべきは自然の數なり」(『大久保利通伝』下)と表現したことはとても有名な逸話として残っていますが、村田の言うとおり、私学校生徒たちが暴発寸前であったとしたならば、西郷が厳しく私学校を監督するべきであったのです。
少し厳しい言い方をすれば、西郷は若者たちが血気にはやって暴発しないよう、管理・監督する義務を怠ったのです。
西南戦争の原因を西郷一人に被せることに懐疑的な見方もあるでしょうが、私学校生徒の暴発は、ある意味、西郷の怠慢により、必然的に生じたものであったと言えるのではないでしょうか。


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【2018/11/26 19:14】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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由美
こんばんは
毎週楽しみに拝見しています

粒山さんのご本が学校の小さい図書室にも配架されているのを見つけまして、すぐ借りて早速読んでいます
詳しく丁寧に書かれていて、わかりやすく読みやすく、今夜中に一気読みするかもしれません

ありがとうございます
粒山 樹
由美さま

はじめまして、こんにちは。
拙ブログにつきまして、毎週お読み頂いているとのこと、本当にありがとうございます。

また、拙著もお借り頂いたようで、併せてありがとうございます。
情熱だけは込めて書きましたので、楽しくお読み頂けると嬉しいです。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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今回の『西郷どん』は、後半のクライマックスとも言える「征韓論」が描かれました。
ただ、前回も書きましたが、西郷に比べて大久保の扱いが少し悪者過ぎるような気がしました。
最後は友人・西郷との別れに涙する演出がありましたが、どうしてそこまで二人の関係が悪化したのかがドラマ内で深く描かれていなかったことから(たった一度の言い争いだけであのような形になっていましたから)、大久保が西郷を敵視することが少し唐突過ぎて、西郷ならずとも「なぜ?」という気持ちになりました。
また、ドラマ的には正邪の区別を付けた方が分かりやすくなるのでしょうが、征韓論争というものは、どちらが正しい・正しくない、つまり正義と悪の対立では決してなく、両者ともに日本の国の将来を真剣に憂い・考え、そして激しく論争に及んだものであって、そこに正邪の区別を付けることはナンセンスであると思います。

(西郷は遣韓論者であったのか?)
今回の『西郷どん』において、大久保が「西郷に勝って、今の政府をぶっ壊す」みたいな大変物騒なセリフを吐いていましたが、征韓論争、いわゆる「明治六年政変」は、当然西郷に勝つ・勝たないの問題や二人の友情に亀裂が入ったために生じたわけではなく、そんな小さなことで西郷と大久保が対立したのではありません。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』でも詳細に書きましたが、この明治六年政変については、通説にあるように「内治派 対 外征派」「非征韓論者 対 征韓論者」などという単純な構図ではなく、「西郷ら留守政府 対 大久保ら洋行組」の政権の奪い合いであったと解釈するのが最も適していると言えます。(留守政府という呼び方は、もう変えるべきだと思いますが、ここでは便宜上使用します)
前回、大久保の書簡から「蜘蛛の糸の巻きあい」という言葉を引用しましたが、明治六年政変は、政権を巡る政争であって、征韓論はその政争の具に使われたということです。

そもそも当時の西郷や大久保ら政治家たちについて、征韓論者・非征韓論者などという区分けをすることは、余り意味を持たないと思います。
なぜなら、当時は帝国主義真っ只中の時代です。食うか、食われるかの時代にあって、外征を全く考えていなかった政治家など、当時は皆無に等しかったと言えるからです。
特に、岩倉使節団で欧米諸国を見聞してきた人たちにとっては、西洋列強諸国の植民地政策を実際に目の当たりにし、肌で感じてきているわけですから、その脅威や危機感は一般人よりも遙かに大きなものであったと言え、早晩外征を考える(視野に入れる)必要があると考える人の方が多勢を占めていたという時代背景を押さえておかなければなりません。
実際、征韓論争後の政府は、「征台(台湾出兵)」や朝鮮や清と事を構える「江華島事件」を引き起こしており、その後の日本が歩んでいった道のりを見れば、それは明らかです。
その点から言うと、征韓論争を簡単に二元論的な観点から見るのは、意味をなさないと言えるのです。

また、征韓論に関して言えば、西郷が主張したのは征韓論ではなく遣韓論であったという論調をよく目にします。
西郷が朝鮮との開戦を全く意識していなかった遣韓論者、つまり朝鮮への平和的な使節派遣のみを考え、それを主張していたのかと言うと、それは大いに語弊があります。
確かに、西郷は太政官の閣議において、朝鮮への平和的な使節派遣を主張しましたが、明治6(1873)年8月17日付けで、西郷が同じ参議の板垣退助に宛てた書簡には、

「此の節は戦いを直様相始め候訳にては決してこれなく、戦いは二段に相成り居り申し候(この節は戦いをすぐに始めようというのでは無く、戦は二段と考えています)」(『西郷隆盛全集』三)

との文言があり、第一段が使節派遣、第二段が武力行使という構図を西郷は板垣に対して語っています。

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板垣退助誕生地(高知市)

この記述から考えると、西郷は朝鮮との交渉(談判)が決裂した場合、武力行使を念頭に置いていたことが分かります。
実際、西郷は戦争になった時のための準備も行っており、使節派遣が失敗に終われば、武力を背景とした交渉に切り替えることを考えていたことは間違いないと思われます。
その点から考えると、西郷が「平和論者という観点からの遣韓論者」であったというのも、簡単に言えば間違いだと言えるのです。

しかしながら、西郷の征韓論が第一に戦争を意図(目的)としたものであったのかと考えると、それはまた別次元の話です。
確かに、西郷は開戦のための準備をしていますが、それはあくまでも朝鮮政府との交渉が決裂した場合を想定してのことであり、戦争準備をしているから、西郷は最初から朝鮮を攻めようと考えていたと結論づけるのは、いささか早計に過ぎると思います。

(西郷は死ぬために朝鮮へ行こうとしたのか?)
まず、西郷の征韓論を考えるうえで最も重要なこととは、

「西郷は朝鮮への使節派遣を成功させようと考えていたのか?」

という点に尽きるかと思います。
なぜならば、現在、西郷が征韓論者だと断定されている原因は、「元来西郷には朝鮮への使節派遣を成功させるつもりはなく、交渉の決裂を狙って、最終的に武力行使にまで持っていきたいと考えていた」と言われているからです。
つまり、西郷の使節派遣論は、あくまでも形だけのことであって、

「西郷は朝鮮との戦争をあらかじめ意図しており、死ぬこと(殺されること)を目的に、自ら朝鮮へと渡り、開戦のきっかけを作ろうとした」

ということです。

そこで考えなければならないのは、では「西郷はなぜ朝鮮で死のうと考えたのか?」という点だと思います。
よく西郷の自殺の動機を

1.政治に対する行き詰まり
2.旧主・島津久光との関係
3.自らの体調不良問題

などに求める傾向がありますが、これらの理由はいかにも短絡的なものだと感じられてなりません。

拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』でも触れましたが、征韓論争における西郷の心事を解釈するためには、西郷の全生涯を俯瞰し、西郷の死生観を正確に理解したうえで行う必要があると私は考えています。
確かに、征韓論争中において、西郷が板垣に宛てた一連の手紙には、「死」という言葉がたくさん踊っています。それを額面通りに受け取れば、当時の西郷は「死」を願っていたという風に解釈してしまいがちですが、西郷の死生観から読み解けば、西郷曰く「死」とは、「覚悟」の問題であって、決して「目的」ではなかったことが分かります。

安政5(1858)年11月16日、西郷は僧・月照とともに投身自殺を試み、それが失敗に終わって以降、自殺まがいの行為は一切取っていません。西郷はその後幾度となく艱難辛苦を味わい、死に直面するような場面に出くわしましたが、決して自ら命を絶つような選択をすることはありませんでした。
例えば、文久2(1862)年4月、久光が計画した率兵上京計画において、西郷が捕縛されようとした際、大久保が兵庫の海岸に西郷を呼び出し、ともに刺し違えようと提案したことがありましたが、西郷はその大久保の申し出をきっぱりと断っています。
また、武士としては最大の恥辱とも言える遠島処分を受け、沖永良部島において過酷な牢獄生活を強いられた際も、西郷は一度たりとも自決を試みようとはしませんでした。
そして、西南戦争においては、最後に立て籠もった城山を政府軍から幾重にも包囲され、敗戦が濃厚となった際にも、西郷は自決という手段を選択せず、将兵とともに戦死することを選んで城山を下山し、政府軍が放つ銃弾が自らの体を貫くその瞬間まで、傍らに控えていた別府晋介に対して、「まだ、まだ」と言って、自決することを拒み続けました。
これらの行動から推察するに、西郷の行動の選択肢には「自殺」という二文字は無かったと言えます。

西郷は月照との投身自殺未遂の末、一人だけ生き残った自分のことを「土中の死骨」と称し、自らを一度死んだ身として位置づけました。
そんな西郷が、自らが生き残った意味と理由を深く考え抜いた末にたどり着いたのが、「敬天愛人」の思想です。西郷は「天から生かされた」と目覚めたことにより、死についての概念を大きく変化させ、自らに課せられた使命が無くなれば、死は自然に訪れるものであると考えるようになり、西郷はそれを天意だと規定したのです。
そんな西郷の考え方は、文久2(1862)年8月20日付けで、奄美大島の代官・木場伝内に宛てた書簡の中に出てきます。
これは久光から断罪された後に書かれたものですが、西郷が悟った「敬天愛人」の哲学からくる死生観が顕著に表れています。

「憤激して変死共いたし候ては残恨の次第にて、決してもふは行迫らず、命を奉じて、死を賜うとも如何共従容として畏る考えに御座候。御安心下さるべく候。変事に当り、色々了簡も変るものに御座候。また命もおしかるかと申す人もこれある筈に御座候得共、惜しむは何ヶ度でも惜しむ考えに御座候」(『西郷隆盛全集』一)

(現代語訳)
「憤激して変死などしては残念の極みであり、決して死を求めることはありませんが、藩からの命があれば、死を賜っても従容として受け入れる覚悟でいますので、どうぞご安心下さい。変事にあたっては、色々と考えも変わるものです。命を惜しんでいると批判する人もいましょうが、命を惜しむ時は何度でも惜しむ考えでいます」

特に、「憤激して変死共いたし候ては残恨の次第にて、決してもふは行迫らず、命を奉じて、死を賜うとも如何共従容として畏る考え」という箇所に、西郷の考え方が色濃く表れていると言えましょう。
ただの怒りにまかせて変死、つまり自決などしては悔いが残るとして、自ら死を求めることはないが、死を命じられれば死ぬ覚悟は出来ている、と西郷は語っていますが、西郷は「人の生死というものは、天がつかさどるものであることから、死は恐れるべきものではなく、また、決して自ら追い求めるものでもない」との境地に達していたのです。

また、征韓論争中の明治6(1873)年8月23日付けで、西郷が板垣に宛てた書簡には、次のような言葉も書かれています。

「死を見る事は帰する如く、決しておしみ申さず候得共、過激に出でて死を急ぎ候儀は致さず候間、此の儀は御安堵成し下されたく希い奉り候。然しながら無理に死を促し候との説は、跡以て必ず起こり申すべく、畢竟其の辺を以て戦いを逃し候策を廻らし候儀、必定の事と存じ奉り候に付き、先生は御動き下され間敷、今日より御願い申し上げ置き候。(中略)死を六ヶ敷思うものは、狂死でなくては出来申さず候故、皆々左様のものかと相考え申すべく候得共、夫等の儀は兼て落着いたし居り候」(『西郷隆盛全集』三)

(現代語訳)
「死ぬことを恐れはしませんし、決して命を惜しむこともありませんが、過激な行動に出て、死に急ぐようなことはしませんので、どうぞご安心下さい。しかしながら、私が無理に死に急ごうとしているという説が後に必ず起こり、その理由をもって、戦争の機会を回避しようとの策が起こるかと思いますが、先生(板垣のこと)におかれましては、決して動揺されないことをお願いします。(中略)死ぬことを難しいことだと思う者は、狂気無くしては死ぬことが出来ないものと皆々このように考えますが、そのことについては、私の中で既に整理がついています」

この書簡にも同様に、「死ぬことを決して恐れはしないが、自ら死を求め、死に急ぐようなことはしない」という西郷の死生観が明確に表れています。
また、「死を六ヶ敷思うものは、狂死でなくては出来申さず候」という部分に、西郷にとっての「死」とは、あくまでも覚悟の問題であったことが分かります。「死ぬことを難しいことだと考える人間は、私のような死を覚悟した行動を正気の沙汰ではない(狂っている)と見るかもしれない」ということを西郷は板垣に対して語っています。

以上のように、西郷の全生涯を俯瞰して考えると、西郷が死ぬことを目的に朝鮮に渡ろうとしたというのは、西郷の死生観、そして彼の行動哲学から大きく外れる行為だということが分かります。
人の生死は天がつかさどる(決める)ものであることから、「死」とは希求すべきものではないとの考えを持っていた西郷に、自ら死に急ぐ道理は無かったと言えます。

また、旧庄内藩士が編纂した『南洲翁遺訓』には、

「道を行うものは、固(もと)より困厄に逢うものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生などに、少しも関係せぬものなり」

(現代語訳)
「道義を実践する者は、困難で苦しい目にあうものだが、どんな艱難辛苦が訪れようとも、事が成功するか失敗するか、また、自分が生きるか死ぬかなどということに少しもこだわってはならない」

との言葉がありますが、これも西郷の死生観を補完していると言えます。
あくまでも仮定の話ですが、もし西郷が朝鮮に渡り、そこで殺されることになったとしても、西郷はその死を従容として受け入れる覚悟は既に出来ていたと思います。

「朝鮮で死んでも全く悔いはない。残された者たちは、自分の屍を越えていけば良い」

西郷流に言えばこのような表現になるのでしょうが、西郷は朝鮮で死んでも構わないと思っていたとは思いますが、決して死ぬために行こうとしたわけでは無かったと考えるべきです。
「死を期して朝鮮へ行こうとした」のではなく、「死を賭して朝鮮へ行こうとした」と考えるのが、やはり適切な解釈だと言えるのではないでしょうか。

西郷は、まず朝鮮と筋道を通した外交(交渉)を行うことが第一義であると考え、板垣が唱えた朝鮮への即時派兵論に釘を刺したうえで、使節派遣を成功させることを目的に、そしてそこに重点を置いて朝鮮へ渡ろうとしました。
敵の懐にいきなりポンと飛び込んでいくような、死中に活を求めるやり方は、西郷特有の交渉術であり、常套手段でもあります。
おそらく西郷の念頭には、第一次長州征討において試みた交渉があり、その経験を元にして、朝鮮との談判を成功させるだけの自信や自負も持っていたのでしょう。
ただ、もし朝鮮側が交渉のテーブルには付かず、西郷を殺すような暴挙に出た場合は、西郷は黙って朝鮮の地で殺されたと思います。
なぜならば、西郷には既に死ぬ覚悟は出来ていたからです。天が自らに死を与えるのであれば、その死を従容として受け入れたと考えるからです。
しかしながら、西郷が鼻から朝鮮政府との交渉を成功させるつもりはなく、朝鮮で死ぬことだけを目的として渡航しようとしたと考えるのは、これまで書いてきたように、西郷の死生観や行動哲学からは大きく外れる行為だと言えます。
西郷は生死に関するこだわりは一切持っていませんでしたが、死を軽んじていたわけではありません。「敬天愛人」の哲学から考えれば、死を軽んじることは、天を軽んじることにも繋がると西郷は考えていたからです。

以上のように、西郷の死生観から読み解けば、西郷が朝鮮政府との交渉を失敗させることを期して、朝鮮に渡航しようと考えていたというのは、どうしても考えにくいと判断せざるを得ません。
朝鮮との談判において、人事を尽くしたうえで斃れるのは西郷の本望ではありましたが、ただ単に殺されに行くだけの行為は、天意にそむく行為だとして、西郷の本望では無かったと私は考えるのです。


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【2018/11/19 17:31】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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ukoji
大河ドラマもあと数回ですね

西郷どんの死生観と遣韓
つるしん
御意! 全くご指摘の通りかと。 貴見以外の諸説は、実に表層的な物言いに過ぎもはんど!

管理人のみ閲覧できます
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Re: タイトルなし
粒山樹

下記のような質問を頂きましたので補足いたします。

Q.「無理に死を促し候との説は、跡以て必ず起こり申すべく~」の「無理に死を促し」とあるのは西郷が無理に死を促し、つまり死に急いだという意味でしょうか? また、この場合の「跡」というのは、西郷が暴殺された後を指すのでしょうか?
その後の「御動き下され間敷」という部分なのですが、これは板垣に対してどう動かないでほしいと依頼しているのでしょうか?

A.この書簡が書かれたのは明治6(1873)年8月23日、つまり、西郷の朝鮮への派遣が正式に認められてから6日後です。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』でも書きましたが、西郷が熱望した朝鮮への使節派遣は、8月17日に開かれた閣議で正式決定され、その公表は当時洋行していた岩倉が帰国してからということになりました。
そのため、西郷は岩倉の帰国後、「西郷が無理やり死に急いでいる」などとあらぬことを言われて、自身の朝鮮への渡航を阻止されることを心配し、このような手紙を板垣に送ったと言えます。
板垣に対する「御動き下され間敷」という文言は、そういった論調に惑わされず、変わらず自分を支持して欲しいとの意を込めていたと解釈するべきではないでしょうか。

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今回の『西郷どん』では、西郷と大久保の対立が描かれました。
アメリカ・ヨーロッパ諸国を巡る長期の外遊から帰国した大久保は、肥前や土佐藩の連中に牛耳られた政府の現状を目の当たりにして憤りを覚え、その不満を西郷に対してぶつけましたが、逆に西郷からたしなめられたことにより、二人の間に言い争いが起こり、そして二人は袂を分かちました。
しかしながら、大久保が帰朝してから西郷と大久保が直接対決するまでには紆余曲折があり、あのような言い争い一つで二人の仲が決裂した訳ではなく、二人の対立原因を少し簡単に描きすぎたのではないかと感じました。
ドラマの残り回数も少ないことから、大久保の揺れる想いを描くには時間が無かったのでしょうが、大久保が急に悪人に変貌したかのような演出は、少し行き過ぎであったような気がします。

大久保に関して言えば、このような描き方をするので、いつまで経っても「西郷を好きな人は大久保が嫌い」になり、そして「大久保が好きな人は西郷を嫌い」になってしまうのです。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』においても書きましたが、西郷と大久保の未来を考え、これから二人の正確な関係を検証していくためにも、影響力の強い大河ドラマにおいて、あのような演出を行うことは、正直避けて欲しかったと感じてなりません。

(大久保の一時帰国)
大久保が外遊から帰国したのは、明治6(1873)年5月26日のことです。
大久保は同年4月13日にフランスのマルセイユを出発し、5月26日の夜に横浜港に到着しました。
『大久保利通文書』四には、大久保が三条実美宛てに提出した帰国の届出書が収録されており、そこには「私儀為特命全権副使欧米各國へ派出罷在候處、昨夜帰朝致候、此段御届申候」とあります。

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大久保利通銅像(鹿児島市)

しかしながら、大久保は、実はそれ以前にも一度日本に帰国しています。
『西郷どん』では全く描かれませんでしたが、明治5(1872)年2月12日、当時アメリカのワシントンに滞在していた大久保は、条約改正のために必要な日本国政府の全権委任状を取りに帰るため、日本に向けて一時帰国しているのです。
勝田孫弥『大久保利通伝』には、その事情について、次のように書かれています。

「抑も全権大使の目的は、欧米各國を訪問して、其制度、文物、風俗等を視察し、条約改正の準備及方法を調査研究するにありき、然るに、弁務使森有礼は、岩倉、利通等に建論して、此機会に条約改正を決行することの我国に利益あるを主張したり、米國々務卿フィシュもまた条約改正の準備に止まらす、此機会に其条件を議決するに如かずと注意し、大統領グランドに告けて曰く、寧ろ改正を結了せよと、岩倉等は其懇切なるに感じ、愈談判に着手すべしと決したり、然るに、大使等は条約改正に関する全権の委任状を所持せさりしより、利通は伊藤と共に帰朝して、更に廟議を定め、其の委員状を得て、再ひ度航すべきに決定し、五年二月十二日、利通は伊藤と共に、ワシントン府を發して帰朝の途に上れり」

元々、岩倉使節団の目的は、条約改正のための下準備(下交渉)に留まっていたのですが、『大久保利通伝』の記述にあるように、当時アメリカの少弁務使であった元薩摩藩士・森有礼アメリカ国務長官のハミルトン・フィシュが、条約改正交渉をした方が良いのではないかと勧めたことにより、岩倉たちは大いに期待感を持ちました。
アメリカにおける盛大な歓迎ぶりを目の当たりした岩倉使節団一行は、アメリカがこのような友好的な態度であれば、本格的に条約改正まで持って行けるのではないかと過信したとも言えます。
しかしながら、前述のとおり、岩倉使節団の目的は、条約改正の本交渉ではなかったため、彼らは条約改正交渉に必要な日本国政府の全権委任状を持参して来ていませんでした。
そのため、大久保は伊藤博文と共にアメリカを離れ、約一ヶ月間かけて、全権委任状を取りに日本に一時帰国したのです。

以上のような理由で、大久保と伊藤が東京に帰り着いたのは、明治5(1872)年3月24日のことでしたが、二人を待ち受けていたのは非難の嵐でした。
前述のとおり、岩倉使節団の目的は、条約改正のためではなかったことから、交渉着手は時期尚早だとして、批判的な意見が噴出しました。条約締結国の状況等を正確に把握しないまま、条約改正交渉に入ることは、拙速に過ぎるという論調が多勢を占めていたのです。
実際、『大久保利通伝』によれば、大久保と伊藤が全権委任状を日本に取りに帰ったと知った、当時イギリスに留学していた日本の留学生たちは、「世界の大勢に通せず、各国の形勢を知らずして、何を以て条約改正の大事を成就することを得んや」と、大使一行に反対意見を述べるため、わざわざ留学生の代表として尾崎三良らが渡米し、ワシントンに滞在していた木戸孝允にその旨注意したとあります。

このように、帰国した大久保を取り巻く情勢は大変厳しいものでしたが、大久保は八方手を尽くし、ようやく全権委任状を手にして、同年5月17日、再びワシントンへと向かいましたが、そんな大久保を待ち受けていたのは、非情にも条約改正交渉の中止という現実でした。
『大久保利通伝』には、

「当時、欧州各國は言を俟たず、米國政府も条約改正の談判は、東京に於て開かんことを希望し、また、大使一行も國別に談判を開くことの不利なるを覚りしより、遂に之を中止するに確定したり」

とあります。
このように、結局大久保の一時帰国は、何の意味も持たない行為となってしまいました。大久保が自らの外遊を「大敗北」と自嘲したのは、この苦い経験が一因となっていることは想像に難くありません。

(大久保帰朝後の西郷と大久保)
西郷の書簡を収録した『西郷隆盛全集』には、外遊中の大久保に宛てた西郷書簡が二通収録されていますが、明治5(1872)年2月15日付けで書かれた書簡については、当時の二人がとても良好な関係にあったことが分かるものです。
西郷は同書簡の中で、次のように書いています。

「貴兄御一人は数千万の人民目的にいたし居り候間、全国を引き起すべき処能々御注意下され、御帰朝を相待ち居り申し候」(『西郷隆盛全集』三)

つまり、「貴方は日本国民数千万人が頼りにし、日本を振興すべき人物であることをよくよくご留意ください。貴方の帰国をお待ちしています」と、西郷は大久保に対して書き送っているのです。
西郷の大久保に対する多大な信頼感が溢れている文面であると言えましょう。

また、一方外遊中の大久保が同じく明治5(1872)年に西郷に対して送った書簡には、次のような言葉があります。

「爾来御地之模様いかかの事に候や、萬端御厚配不一方と遙察仕候、御國の形情を熟思仕候に小ことなしに成る事は幾許の星霜を経不申候ては所詮六(むつ)かしと愚考仕候、就ては是非老兄御擔當不被下候ては相済不申候間、一層御勉励奉伏願候」(『大久保利通文書』四)

後半部分の「就ては」以降に色濃く表れていますが、大久保は西郷に対して、「貴方が一身に引き受けて下さらなければ政府は立ちゆかない。これまで以上に勉め励んでくださるよう、伏してお願いします」との趣旨を述べています。
この書簡の内容を見る限り、大久保自身にも西郷に対する信頼感が込められていると言えますので、大久保が外遊中の二人の関係はとても良好なものであったと言えます。

では、いつ頃から二人の関係に亀裂が入るようになったのかを考えると、その辺りの史料が希薄なため、その時期を特定するのは甚だ難しいと言えます。
ただ、今回の『西郷どん』で描かれたように、大久保の帰国直後に二人の関係があそこまで悪化したとは考えにくいです。

例えば、大久保が帰国した約10日後の明治6(1873)年6月8日付けで、大久保は西郷の弟・従道宛てに書簡を送っていますが、この書簡は西郷兄弟の間に何らかのいさかいが生じたことことを大久保が心配し、従道に対して、早々に兄・隆盛に対して謝りに行くよう諭したものです。
大久保は従道に対して、「貴兄御出赤心ヲ以御謝罪有之候方可然」「御賢兄氷釋相成まてハ屏身低頭何ク迄も誠心を表して御誤り被成度候」と書いており、従道から兄・隆盛に謝罪させることで、二人の仲を取り持とうとしていることが分かります。
当時の大久保がこのような立ち位置にあったのだとすれば、この時点においては、西郷との関係はまだ悪くなかったものと考えられます。

『大久保利通伝』によると、

「初め、利通が欧州より帰着するや、西郷は利通の邸に到ること頻繁にして、交情の親厚なること従前と毫も異なる所なかりき、然るに、時日を経過するに従ひ、次第に其度数を減したりと云ふ、蓋西郷は、利通の胸中に、到底征韓論を賛成すべき意思なきを覚りて、早晩政見の衝突あるべきを預知し、心中豁然たる能はざるものありしに由るならむ」

とあり、二人は征韓論を巡り、次第に疎遠になったと書かれています。

前述のとおり、大久保が外遊中の二人の関係はすこぶる良好であったことは間違いありませんが、その後、その二人が疎遠となったのは、『大久保利通伝』にあるように、当時西郷が執心していた朝鮮への渡航問題に原因があったと考えるのは、ごく自然なことではないかと思います。
大久保が帰朝して以後、西郷と大久保の往復書簡は一通も残されていないことから察すると、遣韓大使派遣問題を巡って、二人の関係に何らかの亀裂が入ったことは間違いないと思われます。
おそらく西郷は、大久保の元に足繁く通い、自身の朝鮮渡航にかける熱意を語ったのでしょうが、大久保の反応がイマイチだったので、自然と足が遠のく結果となったのではないでしょうか。

しかしながら、大久保が西郷の朝鮮渡航に対して、全面的に批判したということも無かったような気がします。
後述しますが、大久保は岩倉から西郷と対決させるため参議就任を打診された際、それを何度も断っている事実があることから考えると、あくまでも推測ですが、大久保は西郷の意見に対して、当初は強く反論しなかったのではないでしょうか。大久保が余り乗り気な態度を見せなかったため、西郷は大久保に話すことを次第に遠慮するようになったのかもしれません。

ただ、今回の『西郷どん』でも描かれたように、大久保が当時の政府に対して大きな不満を抱いていたのは確かです。
明治6(1873)年8月15日付けで、大久保がヨーロッパに留学中であった村田新八と大山巌に対して送った書簡には、「當方之形光ハ追々御傳聞も可有之、實ニ致様もナキ次第ニ立至」(『大久保利通文書』五)とあり、また、「國家ノ事一時ノ憤発力ニテ暴挙イタシ愉快ヲ唱ヘル様ナルコトニテ、決テ可成譯ナシ」と書かれてあることから、大久保が当時の政府や政情に不満を持っていたことが分かります。
しかしながら、大久保自身は同書簡の中で、

「小子帰朝イタシ候テモ、所謂蚊背負山之類ニテ不知所作、今日迄荏苒一同手ノ揃ヲ待居候、假令有為之志アリトイヘトモ、此際ニ臨ミ蜘蛛之捲キ合ヲヤッタトテ寸益モナシ愚存モ有之、泰然トシテ傍観仕候」

と、自らの進退について語っています。
大久保は前半部分において、「自分が帰朝しても、微力なのでどうすることも出来ない」と前置きしながらも、「今日までいたずらに時を過ごしてきたのは、一同(岩倉使節団の面々)が帰ってくるのを待っていたからだ」と、挽回の機会をうかがっているような言葉を使用しています。
また、「たとえ有為の志があると言っても、蜘蛛の糸を巻きあうような真似は有益ではない」とも述べ、現在は「泰然として傍観しているのだ」と、自らを戒めるような言葉を使っています。
ここに言う「蜘蛛の糸の巻きあい」とは、江藤新平や後藤象二郎といった、肥前、土佐閥の連中との駆け引き、つまり「主導権(政権)の奪い合い」を指していると言えるでしょう。
実際、この書簡を書いた翌日の8月16日、大久保はこの年に制定された夏季休暇の制度を利用して東京を離れ、観光旅行に出かけています。大久保は9月21日までの約一ヶ月間、箱根、富士山、近江、大和紀伊の名勝旧蹟を悠々自適に旅しているのです。
これは前述の大久保書簡にある「泰然トシテ傍観仕候」を実行に移したものであると言えましょう。

ただ、では大久保が西郷が主張する遣韓大使派遣論に反対するべく、機会を伺っていたのかと考えると、必ずしもそうではなかったように思います。
前述の村田・大山宛て大久保書簡に書かれてある言葉は、西郷に対して向けられたものではなく、西郷を取り巻く連中(肥前、土佐閥)に向けて書かれたものであると私は解釈するからです。

東京に帰ってきた大久保は、9月13日にようやく日本に帰国した岩倉から参議への就任を打診されましたが、26日にそれを断る書簡を送っています。
また、大久保は30日にも岩倉に対して書簡を送り、自分を頼りにするのではなく木戸を中心にして考えて欲しいと意見を述べています。

以上のように、大久保が何度も参議への就任を辞退した理由は、当時在京していた島津久光に憚ることがあったからだと言われますが、やはり直接的な原因は、西郷と全面対決することを回避しようとしたのだと思います。
この時点においては、まだ大久保の心中には、西郷と袂を分かつ決心はまだ付いていなかったと思うのです。
しかしながら、前述のとおり、大久保は政府に対する根本的な不満を持っていましたから、最終的に参議就任を決断します。これが明治6(1873)年10月10日のことですから、大久保は日本に帰国してから約四ヶ月半もの間、西郷と対立することを躊躇していたと言えるのです。この月日をもってしても、当時の大久保がいかに西郷との対決を迷っていたのかが分かるのではないでしょうか。

そして、大久保は参議に就任するにあたり、家族宛てに遺書まで認めています。
大久保はこの遺書の中で、

「今般参議之拝命いたし實以恐惶至極之仕合ニ候、全體此度ハ深慮有之何く迄も辞退之決心ニ候得共(中略)断然當職拜命此難ニ斃れて以て無量之天恩ニ報答奉らんと一決いたし候」(『大久保利通文書』五)

と、参議に就任した覚悟を述べ、遺される家族に対して、

「只企望する處、小子か憂國之微志を貫徹して各憤發勉強心を正し、知見を開き、有用之人物となりて國之為ニ盡力して、小子か餘罪を補ひ候様心懸可被申候」

と、自らの志を継いで国のために有用な人材になるように言い残しています。
これは遺される息子たちに向けた言葉であったと言えます。実際、この遺書の中には、彦之進(のちの利和)伸熊(のちの牧野伸顕)といった名前が出てきます。

このような覚悟と決意を秘めて、大久保は西郷と対決すべく、明治6(1873)年10月14日に開かれた太政官の閣議に出席することになるのですが、ただ、大久保が西郷と対立することを望まなかったのは、いわゆる竹馬の友との「友情」という点からではなく、西郷と対立することで、より政情が混乱することを避けたかったからのように思います。
大久保は西郷の性格を熟知しています。西郷が征韓論争に敗れれば、必ず辞職して鹿児島に帰ることになることを大久保は見越していたと思いますし、また、西郷を慕う近衛兵以下陸軍の将兵たちが、その処置を不満に思って暴挙に出ることも予想されましたので、大久保としては、それらを危惧せざるを得なかったのではないでしょうか。
また、当時は政府の政策にことごとく反対の意を唱えている島津久光も東京に居る状態でしたから、なおさらその思いが強かったと言えます。
政権を奪取することは、西郷を切り捨てることにも繋がるため、大久保は最後の最後まで、自らが立ち上がることを躊躇したように私は感じてならないのです。

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【2018/11/14 19:45】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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zampanogelsomina
粒山様

先週末、鹿児島での講演会お疲れ様でした。

『維新を創った男 西郷隆盛の実像』を再読して講演会に参加したので、著書に対する補足的な説明も有り、楽しく又興味深く拝聴させて頂きました。

大河ドラマ「西郷どん」ですが、やはり大久保利通と島津久光が誤解を招くような描かれ方をしています。
次回、鹿児島にて講演会の際には是非「大久保利通と島津久光」の幕末期~維新期のお話を西郷を含めた三者の「それぞれお互いの立場、置かれている立場」を粒山様の視点でお聞かせいただければと思います。

島津久光は外様(の分際で)でしかも大名ではないのに、徳川や譜代の名のある大名たちと対等に渡り合えた事(又は渡り合おうとした)は奇跡だと思います。

先日はありがとうございました
粒山 樹
zampanogelsomina様

こんにちは。
先日の鹿児島の講演会にお越し下さったのですね。
本当にありがとうございます。
当日は思っていた以上に上手く話すことが出来ず、大変失礼いたしました。
(人前で話すのは得意だったのですが、なかなか歴史的な話になりますと難しいですね……)

おっしゃるとおり、『西郷どん』における久光と大久保の描き方は私も不満に思っています。
西郷が主役ですので、彼を持ち上げるのは致し方ないにせよ、他者の評価を落とすのはいかがなものかと残念でなりません。
また機会がございましたら、是非その辺りの話もさせて頂ければと思っております。

この度は本当にありがとうございました。

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(明治天皇の鹿児島行幸)
今回の『西郷どん』では、岩倉具視を特命全権大使とし、副使に木戸孝允、大久保利通、以下同行の留学生を合わせて百名を超える大使節団(岩倉使節団)が、アメリカ、ヨーロッパ諸国に向けて出発し、その留守を西郷が預かることになりました。
そして、ドラマ後半において、明治5(1872)年6月に実施された明治天皇の行幸に付き従い、鹿児島に帰国した西郷が、久光から叱責されるかと思いきや、最後はエールを送られるような演出がありましたが、明治に入ってからの二人の関係は、そのような甘いものでは決してありません。

『西郷どん』では、明治天皇の鹿児島行幸の際、西郷と久光が会って話をしていましたが、実際のところ、西郷は久光の元に機嫌伺いに出向きませんでした。
そのことがきっかけとなり、西郷は久光の怒りを買い、後に鹿児島まで呼び出され、十四ヶ条にも及ぶ詰問状を突きつけられています。
その詰問状内には、

一、御巡幸の節、供奉第一の高官として、御失徳のみ醸し成す心底如何(明治天皇の御巡幸の際、供奉した第一の高官として、失徳ばかりを呈したが、どのような気持ちでいるのか)(『西郷隆盛全集』五)

との文言がありますが、これは西郷が久光に挨拶に行かなかったため、このように書かれたのです。

そして、西郷はその久光の怒りを解くため、久光の執事宛てに自ら「詫び状」を書いて提出しています。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも、その詫び状の現代語訳版を載せましたが、次のとおりです。

「御巡幸の際に供を仰せ付けられて、鹿児島に滞在中、御機嫌伺いとして拝謁を願い出なければならないところ、おろそかにしてしまいました。朝廷の臣下であることに甘んじ、賜った再生の御恩(沖永良部島への遠島処分を赦されたこと)を忘却するようなことをし、嫌疑を被りましたこと、誠に恐れ入る次第でございます。どんなことをしても、その罪を謝罪いたすつもりでございますので、その旨お取り次ぎ願います」(『西郷隆盛全集』三)

このように、西郷はひたすら久光に対して謝罪の言葉を書き連ねていますが、内心は久光からの責め付けに呆れかえっていたようです。
明治5(1872)年12月1日付けで、西郷が黒田了介(のちの清隆)に宛てた書簡には、「私の罪状書御認め相成り居り候間、御詰問の次第何共言語に申し述べ難き事にて、むちゃの御論あきれ果て候事に御座候」とあり、西郷の本音が吐露されています。

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島津久光銅像(鹿児島市)

このような事実から考えても、今回の『西郷どん』のように、二人が打ち解け合う姿は、実際には無かったと言えますが、西郷を理解するうえで、久光との関係を正確に理解することはとても大切なことだと思いますので、今回は『西郷どん』では描かれなかった、西郷と久光の真の関係性について整理しておきたいと思います。

(西郷の帰国理由)
少しさかのぼりますが、明治に入ってからの西郷が新政府には出仕せず、国政とは距離を置く形で鹿児島に引きこもった原因は、実は久光とも深い関わりがあると言えます。
俗に「西郷は政治家として限界を感じていたため、大久保に後を任せて、鹿児島に帰国した」なとど言われ、『西郷どん』でも政治との関連性に触れられていましたが、西郷の帰国理由は、そんな単純なことでは決してありません。

明治後、西郷が鹿児島に帰国した理由は、大きく分けて主に二つ挙げられます。
一つは島津斉彬との関係に起因する、西郷の隠退志向です。
これについては、明治2(1869)年7月8日付けで、西郷が親友の桂右衛門(のちの久武)に宛てた書簡の中で、自身の心情を次のように告白しています。(重要な箇所を抜粋します)

「少弟身上の儀幾回も申し上げ候通り如何に讒口にもいたせ、一度賊臣の名を蒙り、獄中迄打ち込められ候に付き、其の儘朽ち果て候ては先君公へ申し訳これなく、一度国家の大節に臨み、賊臣の御疑惑を相晴らし候えば、泉下の君へ謁し奉り、口をつぐみ申す間敷と、是のみ相考え罷り在り候事に御座候。只是計りの思い込みにて御奉公仕り居り(中略)今日に至り候ては、獄中の賊臣、決して相忘れ候儀にては更にこれなく、雲霧を破り候得ば退いて謹慎仕るべき杜、先君の御鴻恩忘却仕らざる事と相明らめ居り候」(『西郷隆盛全集』三)」

大意を書くと、次のとおりです。

「たとえ讒言であったとは言え、一度賊臣の名を被り、獄中に入れられた身です。そのまま何もせず朽ち果ててしまっては、亡き先君・斉彬公へ申し訳が立ちません。国家の大事に臨んで、賊臣との疑惑を晴らすべく努力したならば、あの世で斉彬公に拝謁した際、口をつぐむことも無く、堂々とお目にかかれるのでは無いかと思い、そればかりを考えて、これまで奉公して参りました。今日に至っては、一度は獄中に入れられた賊臣であることを決して忘れるつもりはなく、雲霧を破って謹慎することこそが、斉彬公から頂戴した御鴻恩を忘れないことだと思っています」

これを読むと、斉彬という人物が西郷にとって特別な存在であったことがよく分かります。
斉彬は、下級藩士であった西郷を登用し、西郷が国士となって世に出るきっかけを作った人物であり、西郷にとっては、師であり、恩人であり、そして神とも崇め奉った存在でした。
そんな斉彬から大恩を受けた身でありながらも、遠島という、武士としては最も不名誉な罪を被ったことに対し、西郷は終生自らを恥じる意識を持っていたと言えます。
そのことが西郷の隠退志向を強めることに繋がり、西郷は倒幕戦が一段落した段階で、鹿児島に帰国しようと考えていたのです。

このような考えや気持ちは、西郷が書いた他の書簡でもいくつか出てきます。
例えば、慶応3(1867)年12月28日付けで、側役・蓑田伝兵衛に宛てた書簡には、

「当分は昼夜寸暇これなく、朝議は毎徹夜、中中難儀の次第に御座候。少し道が付き候わば御暇仕り候て罷り下りたく御座候得共、一向墓取り申さず、苦心此の事に御座候」(『西郷隆盛全集』二)

とあり、「今後の道筋がつけば、お暇を頂き、鹿児島に帰国したいと考えています」と、その真情を吐露していますが、これは「鳥羽・伏見の戦い」が生じる以前のことです。
また、慶応4(1868)年1月16日付け川口量次郎(雪篷)宛ての書簡にも、

「戦い相静まり候わば御暇願い出候て、もふ隠居と相決め居り申し候。実に人間役の御奉公は相叶い申さず、気後れのみにて如何共致し方御座なく候」(『西郷隆盛全集』二)

とあり、そこには西郷の揺るぎない隠退への決心が記されています。

このように、斉彬からの大恩に報いるということが、元治から慶応期にかけての西郷の活動源になっており、「倒幕」という、大きな一区切りがついた時点で、西郷は鹿児島に帰って隠退したいという素願を長年温めていたと言えるのです。

そして、二つ目の理由が、最も大事な島津久光との関係です。
西郷と久光に深い因縁と確執があったことは、これまで幾度となく書いてきたとおりですが、西郷が新政府への出仕を断ったのは、前述した斉彬への思いに加えて、久光との関係と深い関わりがあります。

そのことを解くヒントは、冒頭でも触れましたが、明治5(1872)年11月、久光が西郷に突きつけた「十四ヶ条の詰問状」にあります。
明治5(1872)年6月、明治天皇の鹿児島行幸の際、西郷は久光の元に機嫌伺いに出向かなかったことから、久光の怒りを買い、後に鹿児島まで呼び戻され、十四ヶ条にも及ぶ詰問状を突きつけられました。
久光はこの詰問状の中で、

一、右帰陳の節、京師に於いて朝官に任ぜらるべき御内命これある処、主人持の由にて御断り申し上げ、早々引き取り候趣、帰藩の上申し出、尤もの至りと存じ候処、右の意に違い、高位高官遠慮なく御受け申し上げ候心底如何

(現代語訳)
一、戊辰戦争から帰陣の際、京都において新政府の官吏に任命する内命があったが、主君が居るためと断り、早々に鹿児島に引き揚げ、その旨報告したことはもっともなことであるが、その意とは異なり、今や高位高官の職を遠慮なく受けているのはどういう心境でいるのか。

と、明治後の西郷の行動を厳しく批判していますが、これを見る限り、久光は西郷が新政府に出仕することを好ましく思っていなかったことが分かります。

遠島先の沖永良部島から帰還後の西郷は、常に久光の監視下に置かれ、久光の意向を損なわないよう、細心の注意を払いながら国事に携わってきましたが、明治後の西郷もまた、これまでと同様に、久光の意向を考慮し、久光に憚って、当初新政府への出仕を断ったのです。
事実、西郷は国政とは距離を取りながらも、明治2(1869)年2月、藩主・忠義に請われて、薩摩藩の参政に就任しており、薩摩藩政には関与する態度を見せています。
西郷が政治家としての限界を感じていたのであれば、藩政に携わることもなく、どこまでも隠居を貫いたでしょうが、西郷は久光の意向を遵守するため、その命に従ったのです。
戊辰戦争終結後、西郷が薩摩藩内の藩政改革には協力しながらも、新政府と一定の距離を置いたのは、新政府に出仕することで、久光から、またあらぬ嫌疑をかけられないようにするためでもあったと言えます。

このように、明治後の西郷が、これほどまでに久光に気を遣っていたのには、それ以前に大きな伏線があったと私は考えています。
少し時がさかのぼりますが、「鳥羽・伏見の戦い」後の慶応4(1868)年1月17日、薩摩藩主・島津忠義は、武家としては唯一、公家の仁和寺宮嘉彰親王岩倉具視と共に新政府の海陸軍務総督に任命されましたが、西郷は辞職を勧め、忠義はその翌日すぐに辞表を提出しています。
西郷関係の伝記類において、この西郷の行動は「薩摩に野心なし」を見せるため、つまり薩摩藩が天下を取るような野心が無いということを内外に示すためであったとされています。

例えば、近著から引くと、家近良樹『西郷隆盛』では、「薩摩藩内に在って、このような反薩摩感情の高まりに人一倍気をもみ、対応に苦慮したのは西郷であった」と、当時薩摩藩に対する反対勢力があったことに言及したうえで、西郷が忠義に海陸軍総督を辞退するよう説得したのは、「薩摩藩が新政府を操り、徳川の天下を奪おうとしているといった世人の猜疑を払拭するためであった」としています。

西郷が忠義に対し、海陸軍務総督を辞職するよう説得したことについては、慶応4(1868)年1月27日付け吉井幸輔宛て西郷書簡内に、「幸い、将軍の御辞表差し出され候て御仕合わせの事に候」(『西郷隆盛全集』二)とあるだけで、前述のような西郷の意図を正確に裏付けすることは出来ません。
しかしながら、当時の新政府内は決して一枚岩ではなく、諸藩は薩摩藩が持つ強大な武力に警戒する向きがあったことは間違いなく、西郷はあらぬ嫌疑をかけられることを憂慮し、率先して忠義に総督を辞任させたものと考えて良いと思います。
また、西郷はその後、慶応4(1868)年6月にも、忠義が薩摩藩兵を率いて東征に出陣しようとした際、忠義に対してそれを中止するよう説得し、忠義を連れて一緒に鹿児島に帰国していますが、これも前述した薩摩藩に野心があるという、根も葉もない噂を払拭するための一環として行われたことであったと思われます。

このように、当時の西郷は薩摩藩にかかる嫌疑を払拭することに躍起になっていたと言えますが、この一連の行動が、当時鹿児島に居た久光の不興を被ったと私は推測しています。
久光としては、忠義が朝廷から兵権を授けられるという、最高の栄誉と実権を手にしたにもかかわらず、西郷がそれを辞退するよう勧めたことに対し、面白からぬ感情を抱き、出しゃばった真似をしたと考えていたのではないでしょうか。

実際、久光の西郷に対する疑惑は、その後根強く続いていたと思われます。
明治3(1870)年8月3日付けで、西郷が大久保に宛てた手紙の追伸には、

「只一人にて御疑惑を積み、夫故御悪みも一人に止まり候次第に御座候。いずれ此の上は御疑惑を解き候か、又は斃れ候かの両様に相決し、毎日死を極め、今日限りと定め候て出勤仕り候(久光公からの疑惑は私だけに向けられ、それゆえ憎しみも私一人に留まっているような状況です。この上は、久光公が疑惑を解かれるか、それとも私が斃れるかのどちらかと決心し、毎日死を覚悟して、私の命も今日限りと思いながら出勤しています)」(『西郷隆盛全集』三)

との言葉があり、明治に入ってからの西郷と久光の関係、ひいては鹿児島における西郷の置かれていた状況が分かります。

以上のようなことから、明治初年の西郷は、久光に対して最大限に気を遣う必要があったため、西郷は久光に憚り、新政府への出仕を意識的に控えざるを得なかったと考えるべきです。
明治後、西郷が鹿児島に帰国したのは、政治家としての資質や政治能力の有無に、西郷自身が限界を感じていたからだということではなく、長年続く西郷と久光の確執に大きな原因があったと言えるのです。

(久光の鹿児島県令就任問題)
明治4(1871)年9月28日付けで、西郷が親友の桂四郎(のちの久武)に宛てた書簡には、次のような文言があります。

「副城公如何の御機嫌に御座候やと、恐れながら案労仕り居り申し候。(中略)誠に事々に付き、成されにくき御場合と、毎(いつも)もながら御無理千万、御互いに娑婆の難儀は引き受けに御座候わん」(『西郷隆盛全集』三)

桂久武は西郷が唯一心を許した親友とも言うべき人物であり、桂に宛てた書簡には、西郷の真情が吐露されたものが数多く見受けられます。
この書簡もまさにそれにあたり、西郷の本音が顕わになっています。この書簡にある「副城公」とは久光のことを指し、俗な言い方をすれば、西郷は桂に対して、「久光公の機嫌はどうですか? 恐れながら、いつも手がかかりますね。何事においても、無理なことばかりを求められ、お互いに苦労が絶えませんね」と、愚痴をこぼしているのです。

また、続いて西郷は「再生の時は、必ず美婦・美食をいたし、玉堂に安座すべしと、只先の世を楽しみに相考え候外、更に余念御座なく候」と書いていますが、これはつまり、「生まれ変わった時は、美しい妾と美食を並べて、お互いに世を楽しみましょう」と、冗談を述べていますが、西郷らしい諧謔と言えましょう。
ただ、そんな冗談の中にも、ある意味、西郷と久光の関係の悪さが、逆に読み取れるような気がします。

また、大久保がヨーロッパに外遊中だった頃の西郷書簡には、次のような文面もあります。
明治5(1872)年8月12日付けで、西郷がロンドンに滞在中の大久保に宛てた書簡の尚書きには、

「兵隊の破裂は恐ろしくもこれなく飛び込み候得共、副城の着発弾には何とも力及ばず大よわりにて御座候。御遙察下さるべく候」(『西郷隆盛全集』三)

とあり、西郷は「近衛兵の騒擾は恐ろしくもなく、一身にあたれば解決できますが、久光公が放つ着発弾に対しては、何とも力及ばず、大弱りの次第です。お察しください」と、ここでも本音を漏らしています。

明治後の久光の動きは、西郷にとって大きな悩みの種の一つであったことは間違いありません。
特に、今回の『西郷どん』でも描かれましたが、廃藩置県後に久光が「鹿児島県令に就任したい」と言ってきた時は、西郷も相当慌て驚いたようです。
明治5(1872)年1月4日付けで、西郷が桂四郎(のちの久武)に宛てた書簡には、

「扨大迫年内追い迫り着京致され候処、豈料らんや意外の御望み在らせられ候段、驚き入り候仕合いに御座候」(『西郷隆盛全集』三)

とあり、鹿児島県権大参事・大迫貞清の上京目的が、久光の鹿児島県令就任のためであったことを聞いた時の西郷の驚いた様子が分かります。
西郷は同書簡内で、「いまだ弐百余侯の内、ヶ様の儀申し立て相成り候処これなく」と、「未だかつて二百以上ある藩の藩主が、このような申し出をしてきたことはない」と前置きしたうえで、「何の訳もこれなく県令の御事、只あきれ果て候仕合い」と、何の理由もなく、県令になりたいと言ってきた久光に対し、ただ呆れ果てたとの感想を述べています。

また、西郷は同書簡の中で、

「殊に此の度廃藩の仕抹、全て薩長の振りはまり計りにて、外藩異議これなき趣に相聞かれ申し候。夫等の機合(おりあい)に御座候えば、御許容これなく共、世間に申し立ての儀広まり候ては、人心動揺を引き起し申すべき事眼前の仕合いに御座候(この度、廃藩置県が上手くいったのも、薩長両藩が率先して努力したからであって、それゆえ他藩から異議が出なかったのです。しかしながら、その当事者である薩摩藩から県令就任を希望したということが世間に広まっては、人心の動揺を引き起こすことは間違いありません)」

とも書いていますが、今回の『西郷どん』においても、西郷は似たようなセリフを吐いていました。

この久光の鹿児島県令就任問題については、明治5(1872)年2月15日付けで、西郷がアメリカに滞在中の大久保に宛てた書簡にも詳しく出てきますが、結局、西郷は公家の三条実美の力を借りて、その願い出を内々に取り下げるよう取り計らいました。
同大久保宛て書簡には「夫より条公へ内情委敷申し分け、何卒条公御手切れを以て御打ち挫き下され候処相願い」と、その時の内情が記されています。

このように、久光の鹿児島県令就任運動は、西郷以下、当時政府内に居た薩摩藩関係者を慌てさせたのですが、実は久光には過去にも前科があります。
前科というと、とても響きが悪いですが、久光は過去に薩摩藩主に就任しようと運動した前例があるのです。

時は10年前の文久2(1862)年までさかのぼります。
当時の久光は斉彬の遺志を受け継ぐ形で、薩摩から兵を率いて上京し、その後、江戸へと下って幕府に対して幕政改革を要求しましたが(文久の改革)、その際、薩摩藩の支藩とも言うべき佐土原藩主・島津忠寛を使って、薩摩藩主に就任する画策をしているのです。

これまで何度も書きましたが、薩摩藩内においては、久光は藩主・忠義の実父として国父の称号を得ていましたが、当時対外的には無位無官、幕府から見れば、単なる陪臣の身分に過ぎませんでした。
そのため、久光は江戸城に登城する資格も無かったことから、久光に代わり、忠寛が薩摩藩主の名代となり、幕閣等との折衝を行なったのですが、その忠寛が久光を薩摩藩主にするべく運動していたことが、越前藩士・中根雪江が書き記した『再夢紀事』の中に出てきます。
同書の文久2(1862)年7月26日の条に、

「七月廿六日今日御登城前御兼約にて島津淡路守殿へ御逢有之御内談之次第ハ當薩侯修理大夫殿幼年病身ニ付三郎殿當代に建度との修理大夫殿内願之由(7月26日、春嶽公が江戸城に登城する前、かねてからの約束で、島津淡路守忠寛殿とお会いになった。御内談の内容は、薩摩藩主・島津修理大夫忠義殿は幼年で、かつ病身でもあるため、三郎殿(久光のこと)を当主に立てたいと、忠義殿からの内願があった由)」

とあり、中根の記述によると、久光の薩摩藩主就任運動は、子の忠義の内願となっていますが、忠義が久光に内緒でそのようなことを進めるはずがありません。また、支藩の忠寛においても、なおさらそうです。この運動の陰には、久光の意向があったことは間違いないと思います。

ただ、忠寛からこの話を聞いた松平春嶽は、「倫理戻り候故御不同意之趣(倫理にもとる行為であるゆえ同意しない)」と答えたと『再夢紀事』にあります。
春嶽としては、自分の子供を廃し、父親自らが藩主に就任しようということに対し、嫌悪感を持ったのでしょう。

『再夢紀事』によると、結局この薩摩藩主就任運動は、のちに久光が知ることとなり、「嫡子を指置相続杯と思ひもよらすと大ニ不興にて叱られ」(8月8日の条)たため、取り下げられたとなっていますが、前述のとおり、久光当人が知らないはずは無かったものと思われます。

ただ、久光のことを考えれば、同情すべき点は多々あります。
久光は薩摩藩10代藩主・島津斉興の第五子として生まれましたが、幼少期には家臣の種子島家へと養子にやられ、その後は本家に戻り、一門の重富島津家の当主になりましたが、それでも所詮は臣籍です。
その後、薩摩藩内では国父と称されて、巨大な権力を握りましたが、ひと度藩外に出れば、無位無官の陪臣に過ぎなかったことから、久光自身がいくら国事を周旋しようとする志に燃えていたとしても、色々なしきたりや制約がつきまとい、それに拒まれることが多かったに違いありません。
そのことは、久光に対して、大きなコンプレックスを植え付けたと言えるのではないでしょうか。
しかしながら、この文久2(1862)年の薩摩藩主就任運動と明治5(1872)年の鹿児島県令就任運動をリンクさせるのは、いかにも小説的であると言えます。
久光の鹿児島県令就任運動は、廃藩置県を断行した新政府に対する一種の抵抗策であったと言えるのではないでしょうか。

冒頭にも記しましたが、今回の『西郷どん』では、政府改革が上手くいかないことに弱音を吐く西郷に対して、久光が「やっせんぼ!」と言って、叱咤激励する様子が描かれましたが、これまで書いてきたように、西郷と久光の関係は、そのような甘いものではなく、終生二人は相容れることが無かったと言えます。
以前、久光が西郷のことを「彼れは謀反をする奴ぢゃ、到底薬鍋をかけて死ぬ奴ではない」と評したと、史談会速記録から引用したことがありますが、その久光の疑いは終生続いていたと言えるのです。


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【2018/11/06 17:29】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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スコたま
ちょいちょいブログ拝見しております。

世はうつり明治の世にあって、久光と西郷の関係などはまったくの私事。もはや万民の幸福とは関係ありません。それに拘泥・振り回される自分は政治家には向いちょらん、おいは一蔵のようにゃ成れん・・と西郷が考えたであろうことは容易に想像がつきます。
大久保は人に憎まれ、畢竟、鹿児島に戻れなくなる事など「当然」と覚悟しました。かたや故郷を愛し、後輩や市井の人々に愛されることも存在証明の壱つとなっていた西郷にそれは無理な事でした・・死して140年余経っても「西郷さん、西郷さん」と親しみをもって語られるのはそうした“人間的な不完全さ・弱さ”に人々はシンパシーを感じてのことではないでしょうか。その点は究極の政治家大久保と対極ですね。

(大久保は大久保で、時代に要求されたために仕方なく<究極>を演じざるを得なかった・・のだと思いますが。)

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