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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
いよいよ『西郷どん』も今回が最終回となりました。
この一年間、日本国中が西郷隆盛に注目し、毎週その姿がテレビに映るという、私のような西郷ファンにとっては夢のような時間が続いていましたが、それも今回で最後だと思うと、何だかとても寂しいですね。

思い返せば、西郷隆盛が再び大河ドラマの主役になると聞いた時、私は無上の喜びを感じるとともに、一抹の不安がよぎりました。西郷に関しては、以前『翔ぶが如く』という大河ドラマが制作・放映され、好評を博していましたので、果たしてそれを超えられるものを作ることが出来るのか? という不安を感じたのです。
あくまでも個人的な感想ですが、『翔ぶが如く』と『西郷どん』は、同じ西郷隆盛が主人公の歴史ドラマではありながらも、似て非なるものであったというのが、全47回を見終えた私の正直な感想です。
これはどちらが良い・悪いということではなく、コンセプトが全く異なっていたと言うことです。
『翔ぶが如く』は、西郷と大久保の友情を中心に、いかに二人が力を合わせて幕末・明治という動乱の時代を動かしたのかを描いていましたが、それに対して『西郷どん』は、西郷の持つ人間愛にスポットを当て、周辺の人々がその魅力に感化されていくことにより、幕末・明治という動乱の時代が動いた、というような描き方であったように思います。

このようにコンセプトが異なる以上、両者を比較するのは無意味なことだと思いますが、最後に一つだけ『西郷どん』に苦言を呈するならば、『翔ぶが如く』の放映から30年近く経ち、幕末・維新史の研究は、飛躍的な進歩をとげていたにもかかわらず、『西郷どん』で描かれた西郷像が旧態依然のままであったことです。
私としては、「新たな西郷像」を世に示して欲しいと願っていただけに、そこは正直期待外れでした。
ただ、西郷隆盛役の鈴木亮平さんは、何も文句のつけようがない、最高の演技を見せてくれました。今、鈴木さん以外に、西郷を演じられる役者は他に居なかったと思えるほどの熱演だったと思います。
私もドラマ放映中は、このブログを始め、ツイッターなどでも色々と細かい苦言を呈しましたが、主役の鈴木亮平さんを始め、『西郷どん』の制作に関わった全ての方々に対し、心から感謝の意を表し、「一年間、本当にお疲れさまでした」との言葉をかけたい気持ちで、今は一杯です。

(延岡から鹿児島へ)
前回のブログでも書きましたが、薩軍は延岡北方の「和田越の戦い」で敗北を喫したことにより、長井村(現在の延岡市北川町)において正式に軍を解散し、政府軍の囲みを破って、一路鹿児島へと向かうことを決断しました。

前々回から紹介している野村忍介の証言によれば、当初薩軍は野村の「豊後ニ打出ルヲ利アリトシ、鹿児島ハ所謂散地ニテ守ル可カラス」(「西南之役懲役人質問第二」『鹿児島県史料 西南戦争』一)との意見を採用し、豊後方面に北上する策を取ろうとしたようですが、桐野利秋が先行してみたところ、その道のりが非常に険しかったことから引き返すことになり、その結果、鹿児島に戻ることを決断したとあります。

ちなみに、野村は薩軍の中でも軍事的才能を持った有能な人物です。
野村のことについては、下記、西郷隆盛のホームページ「敬天愛人」内で紹介していますので、ご興味のある方は併せてご覧ください。

西南戦争の十一人「天性の軍略家・野村忍介」

閑話休題。
野村は当時の薩軍の置かれた状況を

「長井村二里四方位ノ内ニ集ル官軍、四面ヲ囲ム幾許ナルヲ知ラス、夜山々ヲ望メハ篝火ヲ見サル所ナシ」(「西南之役懲役人質問第二」)

と証言しており、四方を政府軍に取り囲まれる状況の中、薩軍は脱出を試みようとしたわけですが、その道中は過酷を極めました。
政府軍の包囲網を突破するためには、「可愛岳(えのだけ)」と呼ばれる峻険な山を越えなければならず、政府軍の目を盗みながらの逃避行は、想像を絶する厳しいものであったからです。
野村ら薩軍生き残りの者たちは、この可愛岳突破について、

「非常ノ険難ナリ、自分等生レテ始メテ如此険阻ヲ踰ヘタリ」

と証言しています(「西南之役懲役人質問第四」)。

薩摩武士の精神や肉体の強靭さを示す言葉に、「山坂達者(やまさかたっしゃ)」というものがあります。
これは薩摩藩独自の青少年教育である「郷中教育(ごじゅうきょういく)」において、山野を駆けめぐり、精神や身体鍛錬を怠らなかったことからくる言葉ですが、幼少期からそんな教育を受けた彼らですら、「生まれて初めての険阻」であったと評するほど、可愛岳突破は過酷なものであったのです。
西郷と愛加那の息子の菊次郎が政府軍に投降せざるを得なくなったのは、前回のブログで書いたとおり、右足に重傷を負った菊次郎には、峻険な可愛岳を越えられないと西郷が判断したからでもあります。

また、この可愛岳脱出の際、政府軍に知られぬよう、声を潜めて這いずりながら逃げる姿を、西郷が周りに居た将兵たちに向かって、

「まるで夜這いのようだな」

と言って笑わせたという有名なエピソードがあります(田中萬逸『大西郷終焉悲史』ほか)。
この逸話について、薩軍の可愛岳突破の現地を訪ね歩き、丹念にその事蹟を調べ上げた延岡の郷土史家・香春建一氏は、その著書『西郷臨末記』の中で、

「この話は当時薩軍の司令たりし河野主一郎翁が七十三才の高齢で、鹿児島から可愛嶽方面の戦蹟踏査のため来延せられた去る大正八年の夏、翁に随従来延せられた、鹿児島県姶良郡帖佐村、稲荷神社神職肥後藤太郎氏より、同行を案内せし延岡市松山町の黒木熊次郎氏を通じて伝聞せるものである」

と書いています。

河野主一郎は、薩軍幹部の一人であり、城山が陥落する直前、西郷の助命嘆願のために政府軍に使者として派遣された人物です。
しかしながら、河野はそのまま政府軍の捕虜となり、西南戦争終結後、懲役十年の刑を宣告され、福島監獄で服役することになりましたが、明治14(1881)年、特赦によってその罪を許されると、すぐに鹿児島へと戻り、戦後の鹿児島の復興に力を注ぎました。
明治15年、河野は「三州社(さんしゅうしゃ)」という教育団体を設立して、鹿児島の若者たちの教育活動に力を注いだほか、九州各地に散らばって埋葬されていた西南戦争の戦死者の遺骨を丹念に収拾し、それを鹿児島に持ち帰って改葬する活動も行いました。
現在の鹿児島には「南洲神社(なんしゅうじんじゃ)」という、西郷隆盛を祀った神社がありますが、その隣接する土地に「南洲墓地」と呼ばれる、西郷以下西南戦争で亡くなった人たちの大きな墓地があります。ここは元々廃仏毀釈で廃寺となっていた浄光明寺という寺の墓地であったのですが、河野ら三州社の関係者がそれを改装し、九州各地で収拾した西南戦争の戦死者の遺骨を改葬した墓地なのです。
現在、我々のような後世に生きる人々が、南洲墓地で多くの戦死者の霊に手を合わすことが出来るのも、ひとえに河野を中心とした三州社の人々のお蔭だと言っても過言ではありません。
話が大幅にそれてしまいましたが、その河野が後年可愛岳を訪ねたことで、前述した夜這いの逸話が延岡に伝わったのです。

また、鹿児島への道中、薩軍は糧食も欠乏し、飢えとも戦いました。
野村らの証言によると、「山中ノ食ハ如何」と問われて、

「尤モ困メリ、可愛岳ニ打出、其翌十八日ハ終日一食ナシ、水ヲ飲テ行ク、十九日祝子川ニテ牛ヲ屠リ之ヲ食フ、米少許ヲ得水ノ如キ粥ヲ喰ヒタリ」(「西南之役懲役人質問第四」)

と答えています。
さらに続けて野村らは、「如此時、隆盛ハ食ヲ喰タリヤ」と聞かれて、「然ラス、総テ兵卒ト異ナラス」とも答えています。
西郷も兵士たちと共に飢えを耐え忍んでいたと言えましょう。

ちなみに余談ですが、「祝子川」とは「ほうりがわ」と読み、その語源は神話の「火遠理命(ほおりのみこと)」から来ているようですが、この地を治めたことがある戦国大名の大友宗麟が「holy(聖なる)川」と呼んだという話を地元の方から聞いたことがあります。
延岡の地は、キリシタン大名でもあった宗麟が「無鹿(むしか)」と名付けたキリシタンの理想郷を作ろうとした地でもあることから(作家の遠藤周作氏が同名の小説を書いています)、そんな伝説が生まれたのかもしれません。

さて、野村らの証言によると、明治10(1877)年8月17日の夕方に長井村を出て可愛岳へと入った薩軍は、険しい山々を抜けて、まずは三田井(現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町)へと出て、そこから一気に南下し、七ツ山(諸塚)、鬼神野(南郷)、須木(小林)、馬関田(えびの)を通って鹿児島へと向かいました。
薩軍が鹿児島にたどり着いたのは、同年9月1日のことで、合計15日間、約400キロにも及ぶ道のりを走破し、故郷・鹿児島へと戻ったのです。

野村の証言によれば、元々薩軍は西南戦争の終焉地である「城山」に立て籠もろうと考えていたわけではなく、城下北方の吉田が政府軍の手に落ちたことを聞いたため、急きょ鹿児島城下の城山に向かうことを決断したようです。
城山は島津家の居城・鶴丸城の背後にそびえる標高107mの山城で、薩摩藩士たちにとっては最後の砦というべき存在でした。
薩軍は城山を拠点にして、各所に兵を徴募しようと試みていますが、いずれも失敗に終わっています。
『鹿児島県史』三によると、

「薩摩諸郷の士族の之に應じて蹶起し、巡査を襲ひ、城山に入らんとする者数百名に上ったが、巳に官軍の包囲完成して入るを得ず、多く捕縛鎮壓された」

とあり、また、野村は、「県士ノ応スル者モ官兵ニ支ヘラレ、来ル者纔ニ四五人アリタリ」と証言しています。
このように、薩軍は鹿児島に入っても、ほんの僅かな兵しか集められず、四百名にも満たない少人数で城山に立て籠もらざるを得なくなったのです。

(西郷隆盛の死)
先日、NHKのBS番組で「西郷を介錯したのは桐野であった」という説が紹介されていましたが、あのような説は今に始まったことではなく、昔からよく出ていたもので、以前には桐野が西郷を背後から狙撃したなどという説もあったかと記憶しています。

西郷を介錯した人物については、野村と共に長倉訒(「飫肥西郷」とも呼ばれ、西南戦争にも従軍し、のちに自刃した小倉処平の兄)が、戦後次のような質問を受けています(「西南之役懲役人質問第二」)。

問「西郷ノ弾丸ニ中ルヤ、別府晋介傍ニ在リテ其頸ヲ刎ネ、之ヲ土中ニ埋メ、直チニ屠腹スト云フ、如何」

答「野村、予其側ニ居ラス、長倉曰、西郷兼テ別府晋介ニ、戦敗ルヽ時ニ至ラハ、汝速ニ我首ヲ刎ネヨト命シタル由、此事晋介ハ人ニ語ラスト雖、其兄別府九郎予ニ語レリ、弟晋介ハ非常ノ一大難事ヲ託セラレ、甚タ苦労シテ居レリト」

この問答によると、野村は西郷の側に居なかったため詳しく知らなかったようですが、長倉の証言を見る限り、西郷がその生前、介錯人に別府晋介を指名していたことが分かり、別府が西郷よりも先に死亡していない限り、西郷を介錯したのは、通説のとおり別府であったと考えて、ほぼ間違いないと言えるのではないでしょうか。

西郷の死の状況については、多くの書籍で描かれていますので、今さらここで取り上げる必要もないかと思いますが、ただ、一点だけ私の感想を述べるのであれば、西郷はあくまで「戦死」にこだわり、明治10(1877)年9月24日の早朝、生き残った将兵たちとともに、城山を下っていったのではないかと感じています。

これまで本ブログでも何度も強調し、しつこいくらいに書いてきましたが、西郷の行動原理には「自死」という二文字はなく、西郷は決して自殺を選択するような人物ではありません。自殺という行為は、西郷の行動哲学である「敬天愛人」に反するものだからです。そのため、西郷は最後まで戦死することにこだわりを持っていたと言えます。
そのことは、戦後野村が取り調べの席上において、「西郷ハ屢々戦死シテ此局ヲ了ルト云ヒタルヤ」と問われて、「然リ」と答えていることでも分かります(「西南之役懲役人質問第二」)。
西郷は自らの死は「戦死」であるべきだと常々考えていたのです。
ただ、最後、別府晋介に首を打たせたではないか、と指摘される方も居られるかと思いますが、あれは西郷が体に銃弾を受け、もう動けなくなった末でのことであって、西郷自身は戦死に等しいものだと捉えていたはずです。
西郷は自ら動けなくなって初めて、天が自分に死を与えたと悟り、

「晋どん、もうここいらで良か」

と言って、別府に首を打たせたのです。

DSCF0914.jpg
南洲翁終焉之地(鹿児島市)

今回の『西郷どん』のラストでは、別府に首を打たせるシーンはありませんでしたが、一種西郷の本望を代弁したシーンであったような気がします。
最後、西郷はあのような形で戦死したかったのではないでしょうか。

拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』においても書きましたが、後世の歴史家の中には、「西郷は無謀な戦争を早期に終結させず、多くの有為な人材を死なせた」と非難する人がいますが、西郷とて、激しい戦いが繰り広げられる中、数多くの若者たちが死んでいく状況を目の当たりにし、何も感じていなかったわけでは決してないでしょう。
西郷が戦死にこだわり、自らの体を銃弾が貫くその瞬間まで、決して戦うことを止めようとしなかったのは、それが西郷なりの責任の取り方であったからだと私は考えます。
一度意を決して政府を改革するために立ち上がった以上、その実現のために最後まで戦い抜くことは、西郷にとって大変意味のあることであり、また、それは明治維新を迎えることなく死んでいった多くの者たちに対する、西郷なりの責任の取り方であったように、私は感じてならないのです。
そして、西郷隆盛の死をもって、いわゆる幕末・維新という一つの大きな時代が終焉の時を迎えたと言えるかもしれません。

(最後に)
『西郷どん』感想&小解説ブログについては、今回が最後となりました。
少しでも多くの方々に、西郷隆盛について知って欲しいとの願いを込めて、これまで全47回、一度も休むことなく最後まで書き上げることが出来ました。
最初は軽い気持ちで書き始めましたが、いつしか連載を背負った作家のような気持ちとなり、別に定職を持ちながらの執筆でしたので、時には寝る間も惜しんで書いたこともありましたし、また、今年は持病で一週間ほど病院に入院、そして手術を受けた時期もあり、病室にパソコンを持ち込んで書いたこともありました。
そのようにして毎週全47回に費やした原稿は、原稿用紙に換算すると約920枚にも及び、我ながらここまでよく書いたな……、という気持ちでいます。

ただ、このように私が最後まで頑張れたのも、ひとえにこれまで本ブログをご愛読頂きました皆様、そしてご感想や温かい応援等を頂きました皆様方のお陰であると心から感謝しております。
本当にありがとうございました。
おそらく、これほどまで日本国中が西郷に注目する一年は、私が生きている間はもう来ないとは思いますが、私はこれまでと変わりなく、西郷隆盛を愛し、これからも地道に、西郷隆盛、そして薩摩藩の情報をネット上から発信していきたいと考えておりますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

粒山 樹 拝


本ブログ執筆者の著書

『維新を創った男 西郷隆盛の実像』(扶桑社、2017年)定価1,728円

は絶賛発売中です。
西郷隆盛の生涯をより詳しく書いていますので、西郷に興味を持たれた皆様、是非一冊ご購読頂ければ嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。


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【2018/12/16 21:01】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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k
お蔭様で西郷隆盛の人物像が深まりました。
ありがとうございました。

三度、なんだがでらい、、、
つるしん
粒山さぁ、西郷どんの今際の心情と情況の考察、全く御意の通りかと。 実に多くのこつを学ばせっ貰いもした、長きに亘る力作、ほんのこて、おやっとさぁでございもした、あいがともさげもす。 10年後の大河は島津四兄弟で、更に20年後は、おはんの原作・脚本で「西郷どん」の再登板を祈念しちょいもす。


鶴ヶ魂
何回か書きましたが私は西郷は覇道の人だと考えています。ただし、それと同時に理想を追求した漢でもありました。

西郷が他の西軍の連中よりも世間に好かれているのは、その一面があるからだと考えています。例えるならば三國志…ただし正史の劉備が近いと言えるかもしれません。

次に大河ドラマで彼を描く機会があるならば、覇道の人としての一面もきちんと描いてほしいとNHKには切望します。


zampanogelsomina
昨夜の日曜日の夜、何かが物足りない・・・
西郷どんの放送が無い事に寂しさを感じておりました。
所謂、「西郷どんロス」というやつでしょうか。
史実を蔑にしてた部分は、かなりあるようにあるように思えましたが、そこはあくまで「ドラマ」。
役者さん達の熱演もあり、非常に見応えはあったと思います。

西郷どんの放送は終わりましたが・・・

「樹どん、もうここいらで良か」

とは思いません。
粒山様のこれからの「西郷隆盛」の検証と考察を、楽しみにしております。
1年間、おやっとさぁでした。


追伸
私も、幕末薩摩藩の動向についてはある程度理解しているつもりでしたが、ドラマを見た方から「あの描写は史実なの?」とよく質問されました。
その度に、こちらのブログを紹介しております。



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いよいよ西南戦争の火ぶたが切って落とされました。
最終回まで残り二回で西南戦争全体を描くのは、少し無理があると言えますが、『西郷どん』は戦局の経過よりも、西郷自身の去就を描くことに、より重点を置いていると言えそうです。
西郷は一体どのような最後を迎えるのでしょうか。最終回がとても楽しみです。

さて、今回の『西郷どん』では、西郷家の人々にも悲運が重なりました。
西郷の弟・小兵衛が熊本北方の高瀬をめぐる攻防戦で戦死し、また西郷と愛加那の息子・菊次郎も右足に重傷を負いました。
この二人の戦死・戦傷については、前回紹介した野村忍介ら薩軍生き残りの面々が大変興味深い証言を残していますので、ここで少し紹介したいと思います。

まず、菊次郎についてですが、前出の野村と共に、鮫島敬助(奇兵一番中隊右小隊長)、大野義行(狙撃隊一番中隊長)の二人が、明治13(1880)年4月20日、市ヶ谷監獄において、「西郷菊次郎降ルノ状ハ如何」という質問を受けた際、次のように答えています。

「菊次郎ハ兵士ニテ出張、高瀬ノ役割ヲ被リタリ、長井出発ノ時僕永田熊吉附添ヒ、谷川ノ丸木橋ヲ渡ル時橋下ニ墜チタリ、熊吉之ヲ負ヒ谷ヲ下リ長井ニ帰リ、トテモ敵中ヲ通リ過ルコトヲ得サルヲ図リ、共ニ出テ降レリ、菊次郎其時十七歳計ナリ」(「西南之役懲役人質問第三」『鹿児島県史料 西南戦争』一)

今回の『西郷どん』では余り詳しく描かれませんでしたが、延岡北方の「和田越(わだごえ)の戦い」と呼ばれる決戦で敗れた薩軍は、長井村の俵野において軍を解散し、政府軍の囲みを破って鹿児島に戻ることを決断しますが(これは次回描かれるかと思います)、この三人の証言によれば、菊次郎は西郷と共に峻険な可愛岳を脱出しようと試みましたが、橋から落下して果たせなかったため、従者の熊吉が負傷している菊次郎を背負って長井村へと戻り、最終的に政府軍に投降したとあります。
今回の『西郷どん』では、西郷が菊次郎に投降するよう諭していましたが、野村らの証言によれば、菊次郎は父と共に一度は脱出を試みたことが分かります。

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和田越決戦の地(宮崎県延岡市)

次に、小兵衛のことですが、前出の野村、鮫島、大野の三人は、その6日後の同年4月26日に行われた取り調べにおいて、「隆盛ハ恒ニ「ヒストール」ヲ所持シタルニアラスヤ」と問われた際、

「然ラス、自分等終ニ之ヲ見ス、弟小兵衛十六連ノ銃ヲ所持セリ、小兵衛死後隆盛之ヲ其従者ニ持タセタリ」(「西南之役懲役人質問第四」)

と答えており、戦死した小兵衛が十六連発の小銃を所持していたことが分かりますが、西郷はその銃を従者に持たせたとあるのは大変興味深いです。
果たしてその従者とは、一体誰のことでしょうか? 小兵衛の従者なのか、それとも前出の熊吉を指すのでしょうか? 「其の」とあることから、小兵衛の従者のような気もしますが、もし熊吉であったとしたならば、西郷が菊次郎の護衛のためにと小兵衛の形見の小銃を手渡し、「熊吉、菊次郎を頼みもす」と言ったなどという想像も膨らみます。
私はこういうのが創作のあるべき一つの姿なのではないかと感じます。全く根も葉もないところから突拍子のない話を作り上げるのではなく、こうしたちゃんと種子のあるところから、それを大きく想像・発展させ、面白く描くというのが、いわゆる歴史ドラマの本領と言うべきものではないでしょうか。

(桐野利秋のこと)
『西郷どん』における桐野利秋像は、これまでドラマや映画で数多く描かれてきたとおり、まさに「猪武者」のような扱いですが、膨大な薩摩藩史料を編纂したことでも有名な元薩摩藩士・市来四郎は、桐野のことを

「桐野ハ廉潔実直勇豪仁慈ノ人ト謂フヘシ、困難ヲ甘ンシ名利ヲ顧ミス、義ニ走ル速カニシテ、人ニ遇スル愛憎ナク、金銭ヲ見ルコト土芥ノ如ク、貧ニ与ヘ窮ニ恵ミ、酒食ヲ好マス、奸黠狡猾ナルヲ見テハ、隠言ナク面責罵詈甚シキニ至ル」(「桐野利秋(丁丑擾乱記)」『鹿児島県史料 西南戦争』一)

と書いており、総じて「英豪仁慈ノ人」と評しています。
桐野が粗暴な人物であったとされているのは、前回のブログでも触れたとおり、桐野は一種西南戦争のスケープゴートにされたからであって、当時の政府関係者が殊更に桐野の悪口を流布するよう努めたことに端を発するのではないかと私は考えています。

例えば、薩軍が熊本に向けて進撃する際、桐野が「熊本城を落とすのは、この青竹棒(いらさぼう)一本で足りる」「この青竹の色が変わらぬうちに東京まで行く」などと豪語したという有名なエピソードがありますが、実はこれらも全く根拠のない話です。
野村忍介は、市ヶ谷監獄で行われた取り調べの際に、

「桐野ハ始メ出軍ノ時青竹ヲ截テ之ヲ握シ、此竹ノ未タ色ヲ変セサル内ニ東京ニ達センと云タリヤ」

と問われて、

「一切聞カサル所ナリ」

と明確にそのことを否定しています(「西南之役懲役人質問第四」)。

また、野村は「西郷、軍事ハ総テ桐野ニ委ネタリト云フハ如何」とも問われていますが、この質問から察しても、当時の政府関係者がいかに桐野に戦争の責任を押しつけようとしていたのかが分かります。
この問いに対して野村は、

「然ラス、戦地ヲ巡見ハセサレトモ、本営ニ在テ諸方ノ大駆引ヲ指揮ス、苦戦ノ時ニハ自ラ出テ戦ハント云フ事モ度々ナレトモ、諸将之ヲ留メタリ」

と西郷自身が戦の指揮に関与していたと答えています。

その他にも、野村は「鹿児島ヘ入リタル時、桐野ハ喜テ宅ニ入リ、酒ナト飲ミタリト云フハ実ナリヤ」「桐野ノ妾降参シタル説アリ、実ナリヤ」(「西南之役懲役人質問第二」)などという、桐野の性質に関係するような質問を受けていることから察しても、当時の政府がいかに桐野の評判を落とそうとしていたのかが分かるのではないでしょうか。
もちろん、これらの質問に対しても、野村は、酒の件については、「然ラス、桐野ハ城山ノ硝兵線ヲ巡視スルコト一日ニ凡三タヒ位ニテアリタリ」と、桐野が真面目に哨戒線を巡視していたと答え、妾の件については、「陣中ニ婦人ヲ連レタルコトヲ聞カス、勿論薩摩ニテハ妾ヲ抱ヘルモノナシ、虚説ナルヘシ」と否定しています。
野村は桐野とそりが合わなかった人物として有名ですが、そんな野村でさえも、桐野があらぬ汚名を着せられることを良しとしなかったのです。

桐野だけではなく、西南戦争全体を通して言えることですが、西南戦争は錦絵や講談といったフィクションの類いの作品の影響が強いためか、史実と乖離して描かれていることが少なくありません。
例えば、『西郷どん』では、西郷が鹿児島を出発する際、陸軍大将の軍服を着ており、他の時代劇等でも同様に描かれていますが、実はこれに関しても野村は否定しています。
野村は「西郷ハ陸軍大将ノ礼服ヲ着シテ出軍シタルト云ハ実ナリヤ」と問われて、

「荷物中ニ所持アリタルヤハ知ラス、戦争中ハ追々本営ニ到リ西郷ニ面セシニ、其事ハ一切ナキナリ」(「西南之役懲役人質問第一」)

と答えているのです。

少し話がそれますが、西郷の軍服に関して、私はとても不満に思っていることがあります。
『西郷どん』では、東京で政府に出仕していた時も、西郷は常に軍服を着用して政務に携わっていましたが、なぜあのようにことさら軍服を着せる必要があったのでしょうか?
あれでは、一昔前の西郷像である「西郷=軍人(武人)」というイメージを視聴者に対して植え付けかねません。
当時の西郷は、明治6(1873)年5月以降、陸軍大将の職にはありましたが、政府の首班と言うべき筆頭参議でしたので、あのように軍服姿で廟議に出席するはずがありません。
『西郷どん』は、新しい西郷像を描くという触れ込みであったにもかかわらず、これまで視聴した限り、旧来の西郷像を踏襲して描いていることがとても多く、この軍服一件に関しても、なぜそのような演出をしたのか、私は理解に苦しみます。
「西郷=軍人」というイメージは、それこそ戦前の国威発揚の際に使われたものであり、今どきそんなイメージで西郷を描いて視聴者に一体何を訴えかけたいのか? 私は違和感を禁じ得ませんでした。

(西郷の過信)
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、鹿児島を出陣した西郷は、おそらく京・大坂までの道中、激しい戦闘には発展しないものと考えていたのではないかと私は推測しています。
後述しますが、西南戦争において、薩軍は最も拙策とも言える陸路北上策をとっていることから考えても、戦局に対して大変甘い見通しを持っていたとしか考えられないからです。
事実、薩軍は早くも熊本で引っかかり、熊本鎮台兵と激しい戦いを繰り広げることになりました。

今回の『西郷どん』では、捕らえた鎮台兵から、天皇が薩軍の征討を命じられたということを聞き、西郷が驚く様子が描かれていましたが、実際の西郷は驚きと共に怒りを顕わにしたようです。
そんな西郷の怒りは、明治10(1877)年3月5日付けで、鹿児島県令の大山綱良に宛てた次の書簡に強く表われています。

「征討将軍宮様へ別紙御差し出し成し下されたく御願い申し上げ候。此の上ながら宮を押し立て来り候わば、打ち居え罷り通り申すべく候に付き、何卒右の御計らい御手数ながら宜敷願い奉り候」(『西郷隆盛全集』三)

征討将軍宮様とは、薩軍の征討を命じられた有栖川宮熾仁親王のことであり、西郷曰く「別紙」とは、自らの挙兵の趣旨を認めたもので、そこには次のように書かれています。

「畢竟政府においては、隆盛等を暗殺すべき旨官吏の者に命じ、事成らざる内に発露に及び候。此の上は人民激怒致すべきは理の当然にこれあるべく、只激怒の形勢を以て征討の名を設けられ候ては、全く征討をなさんため暗殺を企て人民を激怒なさしめて罪に陥れ候姦謀にて、益政府は罪を重ね候訳にてはこれある間敷や」(『西郷隆盛全集』三)

この記述を見る限り、前回書いたように、西郷は自らの暗殺計画を信じていたことが分かります。
また、西郷はそのことをきっかけにして薩摩を征討する動きに出た有栖川宮に対して、

「閣下 天子の御親戚に在らせられながら、御失徳に立ち至らざる様、御心力を尽さるべき処、却って征討将軍として御発駕相成候儀、何共意外千万の仕合いに御座候。就いては天に事(つか)うるの心を以て能く御熟慮在らせられ、御後悔これなき様偏に企望奉り候」

と、「天皇の親戚ともあろうお方が、征討というような形で出兵するとは意外千万である。天意をよく考えたうえで行動しないと後悔することになる」と、とても強い言葉を使って批判しています。
西郷が前出の大山宛て書簡の中で、「此の上ながら宮を押し立て来り候わば、打ち居え罷り通り申すべく候」と書いたのは、「有栖川宮が薩軍の挙兵趣旨を理解したにもかかわらず、それでも出陣してくるのであれば、それを打ち据えて(叩いて)でも罷り通るつもりだ」と、その怒りを顕わにしたと言うことです。
今回の『西郷どん』でも同じようなセリフを西郷が吐いていましたね。

このように、西郷は自らのとった行動が国家への反逆と位置づけられたことに対し、大きな不満を抱き、ここで初めて戦うことを決意したと言えますが、元来、西郷率いる薩軍が陸路で熊本を目指し北上したのは、薩軍幹部たちが、京・大坂までの道中では激しい戦闘には発展せず、また、たとえ戦闘になったとしても、簡単に勝てるものとふんでいたことへの裏返しであったと言えるのではないでしょうか。
なぜなら、薩軍が本州へ進むためには、関門海峡を渡ることが必須であったにもかかわらず、その具体的な方策を事前に検討しないまま出陣しているからです。

鹿児島県令・大山綱良の口供書によると(「鹿児島一件書類」『鹿児島県史料 西南戦争』三)、大山が西郷や桐野、篠原に対して、

「自分ニ於テハ此度ノ出兵小倉迄ハ無滞通行モナルヘキカ、其先ノ渡海ハ如何ト懸念候」

と、関門海峡をどうやって渡海するのかと懸念を示した際、西郷は、

「外ニ見込アリ」

と答えたとあり、また、桐野や篠原は「船橋ニテモ懸ルヘシ」と言って愚弄するような態度を見せたとあります。

また、野村忍介は、市ヶ谷監獄で行われた取り調べの際、「何故海路ヨリ出テサルヤ」と問われて、

「船ナシ」

と答えていますが、取調官から、

「大有、鹿児島等ノ船アリ、如何」

と問い詰められると、曖昧な返事をしたと記録にあります(「西南之役懲役人質問第一」)。
このように野村が返答に困ったのは、自分たちの見通しが甘かったことを突かれたからに他なりません。
西郷が「他に見込みあり」と答えたり、桐野や篠原が「船を並べて橋にする」といった非現実的なことを言っているあたりに、当時の薩軍は自らの強さに酔いしれるあまり、明らかに慢心を生じていたように感じられてなりません。

あくまでも推測ですが、薩軍幹部が陸路をとることを選択したのは、九州各地、いや西日本各地の不平士族を糾合しながら、大きな一団となり、政府に対し大きな圧力をかけようと考えたからではないでしょうか。そういう目的であったとしたならば、薩軍は正々堂々と陸路をとって進軍する必要があったと言えますので、あながちこの推測は間違っていないような気がします。

拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、当時の西郷は自らの声望を過信する余り、ひとたび薩摩が起ち上がれば、全国各地で蜂起者が続発し、政府は対抗策をとることが出来ないと考えていた感が否めません。
西郷が鹿児島を出発して約二週間後の明治10(1877)年3月2日付けで、大山県令に宛てた書簡には、

「筑前・筑後辺蜂起の様子に相聞かれ、大坂は土州より突出、最早攻め落し候風評も御座候(筑前や筑後は蜂起した様子で、大坂は土佐が突出し、既に攻め落としたとの風評もあります)」(『西郷隆盛全集』三)

とあり、西郷が各地の反乱分子の動きに期待感を持っている様子がうかがえるほか、また、そこには西郷が戦局に関して、非常に甘い見通しを持っていたことが併せて分かります。
西郷は自らの声望を過信し、政府に不満を持つ者たちの力と行動に期待し過ぎていたと言えるのです。

このような甘い見通しが、薩軍をして熊本城を包囲するという拙い戦術を選択させたと言えましょう。
西郷以下薩軍幹部たちは、熊本城内の鎮台兵が自分たちの行動に賛意を示し、ほとんど戦うことなく、簡単に開城出来るとの見込みを持っていたと思われますが、それに反して、薩軍は熊本鎮台の激しい抵抗にあい、結局最後まで熊本城を攻め落とすことが出来ませんでした。ここにも薩軍の見通しの甘さが際立っています。

西南戦争における西郷の悲劇とは、決起するための準備が何も整わないまま、急きょ挙兵せざるを得ない状況に追い込まれたこと、また、それに加えて、薩摩に引き続き蜂起した者たちが九州圏内の局地的な地域に留まったことにあったと言えますが、それに加えて、薩軍が敗北した一番の原因とは、自らの強さを過信するあまり、詳細な軍事計画を立てなかったことに起因すると言えるのではないでしょうか。


本ブログ執筆者の著書

『維新を創った男 西郷隆盛の実像』(扶桑社、2017年)定価1,728円

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西郷隆盛の生涯をより詳しく書いていますので、西郷に興味を持たれた皆様、是非一冊ご購読頂ければ嬉しいです。
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【2018/12/09 20:50】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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全ての運を天に任せた集団自決
つるしん
粒山さぁの分析・考察やご指摘には、何時もながら、まこて、感服させられもす、今回も、歴史ドラマ足るべきものはとのご意見、桐野どんへの風説の流布の件(くだり)など、実に秀逸な分析・考察ごわんさぁ。 薩摩を出立する前の軍議で既に出されていた由の海路案を退けたのは西郷どんご自身(此の辺りも正に「過信」もあったかも知れもはん)と理解しており、また、陸軍大将名で明確な「軍命」を下してはおられんどころか、県外士族への檄文さえも出しておられんで、積極的・能動的に「勝つ」積りは無かった(況してや、一部の陳腐なご意見に見られるクーデターを起こすなんぞ微塵もビンタを掠めたことなど無か)ことから、東京到達の一縷の望みを懐の奥底に抱きながらも、新政府の遣り方のままで中央集権が盤石・確固たるものに成っても良かとする、全ての運を天に任せた(=天意に任せる、即ち、前回ご指摘の死生観から、最期の最後まで腹切りはせん)自己犠牲の上での「集団自決」が、西郷どんのご本意であったろうと、おいは思ちょいもす。。。


zampanogelsomina
粒山様

いつも素晴らしい解説をありがとうございます。

思うのですが、放送各回毎のこちらのブログの解説を本にしてみてはいかがでしょうか?
ブログに記載されている、当時の手紙や日記等を現代語訳も付記して。
来週で最終回を迎えますが、このままでは誤解されたままの「西郷」で終わってしまうような気がしてなりません。

私、初回放送からの粒山様のブログをプリントアウトして、時折見返しております。


ukoji
延岡は数年前に行きました。
印象に残ったのは俵野の記念館のご主人で、
まだ大河の話などまったく無かった頃で、
とても親切に案内してくれたりして、
なんともいえぬ、あれが西郷と感じさせてくれる
人物でした

ご感想ありがとうございます。
粒山 樹
皆さま、ご感想ありがとうございます。

いよいよ『西郷どん』も来週が最終回です。
私のブログも残り一回となってしまいました。
毎週書いていましたので、何だか寂しい気持ちになっていますが、『西郷どん』が終わっても、これまでと同様に西郷の情報を発信していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

あっ、是非、本ブログの内容を一冊の本にしてまとめて出版したいところですが、西郷ブームが去った今、本にしてくれるような奇特な出版社は、皆無かと思います(汗)。

承認待ちコメント
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鶴ヶ魂
僕は西郷は西南戦争について「多分勝てねえだろうな」と考えていたように思えてなりません。

もし勝機あり、と本気で言葉は悪いですがただのアホです。
しかも、戊辰戦争にて奥羽越が西軍の物量作戦に屈したのをまさに西郷は見ていたではありませんか。

仮にも覇道にて徳川から天下を奪い取るのに大きな役割を果たしたこの傑物が奥羽越諸藩(つまり一地方)ですら勝てなかったのに、薩摩のみで勝てるかもしれん、などと夢想したとは考えられないし、考えたくない。

私は敗北を覚悟しつつそれでも故郷・薩摩、そして自分を慕う人たちを捨てることができなかった。そして、それならばせめて自分と薩摩の死の命をもって薩長政権に警告というか異議申し立てをしよう、そう考えたと思います。

薩摩と自分を慕う人を切り捨てることなどできない、覇道の人らしからぬ矛盾した行動ですが、それこそが西郷隆盛という男の魅力であるように思えるのは私だけでしょうか。

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大河ドラマ『西郷どん』も、今回を含めていよいよ残り三回となりました。
今回は、西南戦争勃発の直接的原因となった私学校生徒たちによる陸軍火薬庫襲撃事件が描かれ、最終的に西郷が挙兵を決断しましたが、ただ、少し気になったのは、桐野利秋や篠原国幹といった西郷の腹心たちが、まるで西郷を挙兵に追い込んだかのように描かれていたことです。
しかしながら、実際の彼らはむしろ血気にはやる若者たちを抑制する立場でいましたから、あのように冷静だったのは西郷一人であったかのような描き方は誤解を生むような気がします。
当時の西郷はと言うと、人と会うのを極力避けていたため、今回の『西郷どん』で描かれたように、騒ぎ立てる若者たちを押さえるどころか、悠々自適に狩猟や湯治に出かける日々を過ごしていました。
実際、西郷が私学校生徒暴発の一報を受けたのも、鹿児島城下から遠く離れた大隅半島南部の小根占(こねじめ)という場所であり、西郷は狩猟に出かけている時にその知らせを受け取ったのです。

後年、勝海舟が西郷のことを偲んで作詩した

「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」

の歌に象徴されるように、西郷が西南戦争における一種被害者であったという観点から、意図せぬ戦争に巻き込まれたかのような描き方をされることが多いですが、確かに西郷は巻き込まれる形で挙兵せざるを得ない状況に追い込まれはしましたが、前回のブログでも触れたとおり、私学校生徒たちが暴発したのは、西郷にも大きな責任があったと言えます。
西郷は私学校生徒の暴発を未然に防ぐための防止策を根本的にとっていなかったことから、彼らが暴発したのは当然の帰結であり、当時の西郷は運を天に任せていた観が正直否めません。

また、よく西南戦争は、今回の『西郷どん』でも描かれたように「桐野の戦争」であったかの如く言われることがありますが、私から言わせれば、「西郷の戦争」以外の何ものでもありません。
西郷が挙兵し、薩軍の中心に居たればこそ、九州各地から従軍希望が相次ぎ、九州全域を巻き込んだ大きな戦争に発展したわけですから、それを桐野一人のせいにするのは、はっきり言って酷です。
このように桐野が悪く言われるようになったのは、西南戦争後も西郷人気は相変わらず高く、衰えるどころか逆に上がりさえし、一種神格化に近い形で語られるようになったことから、西郷のことを悪く言えない(批判できない)風潮が世間に残ったためであり、桐野は一種スケープゴートにされたと言えるのです。

(西郷暗殺計画はあったのか?)
西南戦争が勃発する直接的な原因となったのは、私学校生徒たちによる陸軍火薬庫襲撃事件にあったと言えますが、それと併せて「西郷隆盛暗殺計画」、つまり、政府から西郷を暗殺するための刺客団が送り込まれたという一件も、私学校関係者の怒りを大いに買い、のちに薩軍が挙兵する大きな原因の一つとなりました。

DSCF0985.jpg
草牟田の陸軍火薬庫跡(鹿児島市)

この西郷暗殺計画が明るみに出たのは、今回『西郷どん』にも登場した中原尚雄という人物がきっかけです。
中原が警視庁から放たれた密偵であることが露見したことから、当時私学校関係者で占められていた鹿児島県警察は、中原を捕縛し、厳しい取り調べを行ったのですが、その際に中原が西郷暗殺計画を自供したとされているからです。
中原が拇印した口供書には、

「大警視川路利良宅ヘ差越候処、同人ヨリ各県ノ事情等彼是ト承リ候末、鹿児島県ニ於テ近頃種々不穏向モ有之迚モ、西郷陸軍大将在県ナレハ、名義不立粗忽ノ所為ハ無之トハ申ナカラ、万一挙動ノ機ニ立至ラハ、西郷ニ対面刺違ヘルヨリ外仕様ハナイヨトノ申聞ニ随ヒ居候」(「中原尚雄口供(丁丑擾乱記)」『鹿児島県史料 西南戦争』一)

とあり、大警視の川路利良から「万一の場合は西郷と刺し違えよ」と命じられたと記されています。
また、中原は川路からの命を受け、ともに鹿児島に帰省する者たちと共に、

「第一私学校ノ人数ニ離間ノ策ヲ用ヒ、我方ニ人数ヲ引キ入レ私学校ヲ瓦解セシメ、動揺ノ機ニ投シ西郷ヲ暗殺致シ、速ニ電報ヲ以テ東京ニ告ケ、海陸軍併セテ攻撃ニ及ヒ、私学校ノ人数ヲ鏖シニ致候儀ヲ決定シ」

と、私学校を瓦解させるために西郷暗殺を決議したとも記されています。

中原が政府の放った密偵であると判明したのは、『西郷どん』には出てきませんでしたが、谷口登太という人物が原因です。
谷口は私学校から送り込まれた、いわゆる逆スパイで、中原の帰郷目的を探るため彼に近づいたのですが、そのような事情があることとは露知らず、中原は知己の谷口に対し大いに心を許しました。
そして、中原は谷口に対して、次のように帰郷の目的を語ったと、谷口の陳述書にあります。

「是非共此私学校ナル者ヲ瓦解セシメ候策ヲ施シ候次第ニテ、各郷ニ於テハ如何ニモ手ヲ下シ安ク、是ハ掌中ニ有之候得共、庁下ニ於テハ甚タ六ケ敷、乍然此根拠ヲ不破候テハ、瓦解ニ至兼候ニ付、此処ニ於テ秘中ノ秘策ヲ用ヒ、十分可相崩之事ヲ決シ居候ニ付、第一西郷隆盛ヲ暗殺セハ、必ス学校ハ瓦解ニ可至、其他桐野・篠原ノ西士(両士)迄斃候得ハ、其跡ハ至テ制シ安ク」(「谷口登太郎陳述、中原尚雄ヨリ聞取書(鹿児島征討始末 別録一)」『鹿児島県史料 西南戦争』一)

このように、中原は谷口に対して、自らの帰郷は「私学校の瓦解」が主目的であり、そのための手段として、「西郷を暗殺する秘策」を持っていると語ったのです。
また、中原は谷口に対して、

「西郷ニハ同人知己ノ事故、面会ヲ得テ可刺殺覚悟ニ候、勿論此人ト共ニ斃レ候得ハ、我身ニ於テハ不足ハ無之」

と自らの決意を述べたともあります。

また、このような西郷暗殺計画をまるで補完するかのように、同時期に大久保の命により鹿児島に入った野村綱は、中原ら警視庁の密偵団が身柄を拘束されたことを知ると、鹿児島県庁の大書記官・田畑常秋を訪ねて自首した後、次のような供述をしました。

「殊ニ警視庁ヨリモ探索差出シ有之候、皆必死ノ覚悟ニテ先キ達テ出立セリ、暴発等の節ハ自ラ大小為ス所アルヘシト、懇々被申渡候ニ付、其意ハ畢竟主任ノ人ヲ斃スカ、又ハ火薬庫ヘ火差入ル等ノ事ニテ、随分仕果スヘシト汲受ケ、左様ノ事ナラ承知仕候旨相対ヘ候」(「野村綱口供(丁丑擾乱記)」『鹿児島県史料 西南戦争』一)

つまり、野村は、大久保が警視庁密偵団の目的を「主任の人を斃す」、つまり西郷暗殺計画であることを語ったと自供したのです。

以上のような事実だけを考えると、西郷暗殺計画は真実であったと判断できますが、ただ、前出の中原の口供書は、私学校関係者による激しい拷問の末に作成されたものであることから、その自供の信憑性については、昔から疑問視する声が大きいと言えます。
事実、中原はのちに鹿児島に入った政府軍に救出された後、前述の口供書の内容を完全否定し、口供書については拇印を強要されたと証言しています。

戦後に中原が提出した文書によると、中原が鹿児島に帰郷したのは、

「我輩帰縣スルノ本意タルヤ、我親戚朋友間ニ大義名分ノ存スル處ヲ確守シ、無名ノ黨ニ役セラレス、方向ヲ失ハサルノ眞意ヲ説カンカ為メ」(『大久保利通伝』下)

であり、「私事ニシテ公事ニアラス」と、あくまでも私的な自発的行為であったとあります。
中原は親類縁者が私学校党に与するのを危惧し、その説得にあたるため、自ら鹿児島に帰郷したと述べたのです。

また、中原は川路から西郷を暗殺しろというような命令はなく、川路の邸宅において、権大警部の大山綱昌から、旅費として四ヶ月分の給料を受け取った際、同人から「反覆帰縣ノ上ハ、萬事忍耐シテ粗暴ノ事ナク無事ニ帰ルヘシ」との訓令だけを受けたとあります。
そして、私学校関係者に捕縛された後、「お前は西郷大将を暗殺するために帰ったのだろ?」と詰問された際も、「決シテ然ラズ、両親病気ニ付看病ノ為メ帰縣シタリ」と答えたとあり、また、前述の西郷暗殺計画を記した口供書についても、「無理ニ拇指ニ墨ヲ點シヲ強テ押サセ」と、拇印を強要されたと語り、「其文中暗殺ノ文字アルヲ聞キ、大ヒニ驚愕」したともあります。

以上のように、中原は私学校関係者が作成した口供書の内容を戦後に完全否定しているわけですが、実は、それは中原から暗殺計画を直接聞いたとされる谷口も同様です。
谷口は西南戦争終結後、九州臨時裁判所において陳述した口供書において、中原から暗殺計画を聞いたという話を否定し、前言を撤回しています。
谷口の口供書の末尾には、

「中原尚雄等西郷隆盛を暗殺せんと企てたる云々、自分より私学校黨の者へ申出たるに由り、右を證據として取糺の上、中原等の口供成案相成りたる趣、今般再應御取調を受け候得共、暗殺の儀は中原より決して承はらさるは勿論、右様の儀自分より相良長安其他へ申出でたる事は一切無之、前件申立候通、鹿児島より出陣の途中に於て、邊見十郎太より中原の口供なりとて讀聞かせ候節、其文中暗殺云々の儀有之、不審に思ひ候次第に付、其口供は全く私学校黨に於て、取拵へたることと想像致し候事、右之通相違不申上候」(『大久保利通伝』下)

とあり、谷口は「暗殺の儀は中原より決して承はらさる」と申し述べ、中原から暗殺云々を聞いたということは私学校関係者のねつ造であったとしているのです。

このように西郷暗殺計画というものは、西南戦争の前と後では事実が完全に相反していますが、ただ、当時の私学校関係者が、この暗殺計画を真実だと信じ切っていたことは間違いありません。
政府から何の予告も無く武器・弾薬が運び出されるという事件が発生し、県内に動揺が広がっている最中、それに輪をかけて私学校生徒たちが陸軍火薬庫を襲撃するという異常事態が生じたこと。さらに警視庁の現職警官たちが大挙鹿児島に帰郷し、探索活動を行っていた事実を知ったことで、当時の私学校関係者の猜疑心は最大限に増長していました。
このように、ただでさえ過敏になっている最中での中原の西郷暗殺計画の自供は、たとえ拷問の末の供述であったとしても、私学校関係者には十分信じるに足る証拠であると考えるにいたったであろうことは想像に難くありません。
また、前述のとおり、野村綱という人物は自ら自首したうえで、密偵団の西郷暗殺計画を語ったわけですから、私学校関係者は野村の証言でさらに暗殺計画への確信を深めたものと思われます。
実際、それは西郷も同じで、政府から自らを殺すための刺客を放たれたということを真実だと受け止めていたようです。

西南戦争勃発当時、鹿児島県警察署長を務めていた野村忍介は、薩軍幹部の一人として西南
戦争を戦いましたが、のちに生き残り、懲役十年の刑を受けました。
その野村が、明治13(1880)年3月2日に市ヶ谷の監獄で行われた取り調べにおいて、

「暗殺ノ一条ハ、西郷ハ実ト思ヒシナルヤ」

と問われて、

「全ク実ト思ヒタルナリ」

と答えています(「西南之役懲役人質問第一」『鹿児島県史料 西南戦争』一)。

また、このような感覚は何も西郷だけに限ったことではなく、当時鹿児島に居た島津久光も同様です。
高島弥之助『島津久光公』には、「久光忠義二公も其の刺殺の計畫を信ぜられ、政府は刺殺は視察なりと辯明するも、之れ唯遁辭に過ぎずとせられた」とあり、久光もそして忠義も西郷暗殺計画を信じていたとあります。

そのような久光や忠義の気持ちや考えは、久光父子に対して下された勅書への奉答書に強く表れています。
薩軍が挙兵した約一ヶ月後の明治10(1877)年3月9日、公家の柳原前光が勅使として鹿児島に入り、久光父子に対して、薩軍の征討に協力するよう命じる勅書を手渡しました。
それに対して久光は、太政大臣の三条実美に対し、奉答書を書いて差し出していますが、その中に次のような文言があります。
少し長いですが、その部分を抜粋すると次のとおりです。

「西郷隆盛等此度政府ヘ訊問トシテ多数兵器ヲ携ヘ出行セシハ、既ニ臣道ヲ失シタル、其罪自大ナリ、且内務卿大久保利通・大警視川路利良ヨリ内命ヲ受、数人帰省等ニ事ヨセ離間等ノ策ヲ行フ云々事発覚ノ義、妄説ノ布達拝観ス、此義臣等ノ大ニ疑惑スル処ナリ、其故如何トナレハ道程数百里ヲ隔テ、則之レヲ妄説ト見認メラル、西郷等ニ於テ必ス其罪ニ伏スヘカラス、是レ至理至平ノ所分ニアラサルカ故ナリ、鹿児島県人民ニ於テハ最確証ヲ挙ケ之レヲ見聞シタルモノニテ、或ハ間ヲ使ヒ同意ノ体ヲナリタルアリ、或ハ自訴シタルアリ、故ニ傍人モ挙テ之ヲ証トシテ疑ハサル所ナリ」(「朝命ニ対スル久光公ノ奉答書」『鹿児島県史料 玉里島津家史料』八)

久光は挙兵に及んだ西郷の罪は大変重いとはしながらも、西郷暗殺計画については、「此義臣等ノ大ニ疑惑スル処ナリ」と書いており、当時久光が暗殺計画を真実だと受け止めていたことが分かります。
久光はこのように証拠が揃っている以上、西郷等がそれを信じるのは致し方ないとして、言わば西郷の立場を擁護しているのです。

このように久光が西郷を擁護したのは、久光自身が中原等の口供書を実際に読んでいたからでしょう。
『鹿児島県史料 西南戦争』一所収の「島津久光西郷隆盛トノ面語ハ明治七年以来ナシ」という文書の中に、鹿児島県令の大山綱良が、廃藩置県以後は久光と面会することが稀であったとの記述がありますが、その後に次のような記述があります。

「二月七八日頃中原尚雄等カ口供案ヲ、田畑常秋ヲシテ斯ル次第ナルヲ告ケタルノミナリシト」

前述のとおり、田畑常秋とは野村綱が自首を申し出た相手で、当時鹿児島県の大書記官でした。
この記述を見ると、大山は田畑を久光の元に派遣して、中原らの口供書の写しを送っていたものと思われます。
当時の久光は傍観の立場を崩していませんでしたが、薩軍の去就については関心を持っていたものと考えられ、大山は久光への報告は逐一怠らなかったものと推察します。

このように、実際に中原らの口供書に目を通していた久光は、暗殺計画が根も葉もない噂話ではないと判断し、政府に対して、政府軍と薩軍は一旦休戦したうえで、西郷と大久保が出席する臨時裁判を開き、理非曲直を正すべきだと主張しました。
前出の奉答書には、

「仰願クハ至急休戦ノ命ヲ総督府ヘ下サレ、此度ノ巨魁人員を定メ、平穏ノ所分ヲ以テ中途ヲ護送シ、大久保・川路モ随テ之レヲ召シ、至理至当聊偏頗ノ所分ナク、各法官ヘ渡シ奏任以上其席ニ列坐シ、非常ノ裁判ヲ開キ、其結局ニ至リ律ニ照シテ之レヲ罪シ、其上若異議ヲ生セハ断然ト罪ヲ鳴シ、之レヲ征討セラレテ可ナリ、乞フ、速ニ実事施行アラン事ヲ」

とあり、久光は西郷だけでなく大久保や川路も召喚し、裁判という場において、法律に照らしてどちらに非があるかを判断し、そして罰するべきだと主張したのです。

また、当時島津家の家令を務めていた奈良原繁(前名・喜八郎)が、久光に対して差し出した建言書には、

「西郷ガ平生ノ志行ニ於テ容易ニ此暴妄挙ヲ図ル者ニ非サレハ、其原因ハ或ハ中原以下口供ノ事ニ発スルナルヘシ、然ラハ則擁兵東上ノ一事ヲ以テ未遽ニ西郷ノ叛跡顕然ヲ指定ス可カラス、必ヤ中原以下ヲ糾弾シテ其事実ヲ公言セシメ、而シテ後始メテ其叛逆ノ真偽を知ル可ク」(「奈良原繁ヨリ久光公ヘノ建言」『鹿児島県史料 玉里島津家史料』八)

とあり、西郷挙兵の罪を問うためには、まず暗殺事件の真否を確定する必要があると奈良原は主張しています。
奈良原という人物は、慶応末期から明治期にかけて、西郷とは主義主張が異なり、そりが合わなかった人物です。
その奈良原でさえも、「西郷ガ平生ノ志行ニ於テ容易ニ此暴妄挙ヲ図ル者ニ非サレハ」と、西郷の性格から考えると、余程のことがない限り暴挙に出ることはないと庇っていることから察しても、当時の鹿児島県内の空気感が想像できます。

以上のように、当時の鹿児島県内は、政府から西郷暗殺のための刺客団が放たれたということを相当以上に信じ切っていた空気が充満していたことが分かりますが、西郷暗殺計画の真相については、判断が非常に難しいです。

平成25(2013)年6月、西南戦争勃発当時の鹿児島県裁判所の判事七人が、停戦と暗殺事件の真相解明を直訴する明治天皇宛の上奏文(密訴)が発見されたとのニュースが流れ、その際、さも暗殺計画の黒幕は大久保であったかの論調がなされましたが、当時の鹿児島県は行政機関のトップであった県庁を筆頭に、警察などの組織も全て私学校関係者に握られている状況でしたから、裁判所の判事が直訴したことをもってして、西郷暗殺計画が真実であり、かつ今回の『西郷どん』で描かれたように、大久保がその黒幕であったとするのは、少し無理がある解釈だと言えます。
西郷対大久保、大久保対西郷と、明治維新後は常に対立構図で話されがちな二人ですが、これまでも本ブログで書いてきたとおり、二人は政治的に対立し、袂を分かったとは言え、お互いに憎しみの気持ちを抱くほど、当時険悪な関係にあったとは考えられません。
実際大久保が西南戦争勃発直後の明治10(1877)年2月13日付けで鹿児島県に布達した文書には、

「西郷隆盛ハ過激少年ニ対シ大義名分ヲ以、屢説諭ニ尽力致候処、終ニ承服ニ不至、不得止ヲ避ケ候趣、、該県令ニ於テモ毫モ方向ヲ不失、充分鎮撫ニ尽力致候」(『鹿児島県史料 玉里島津家史料』八)

とあり、当時の大久保は西郷の関与を否定していることから考えても、西郷が挙兵に加わる理由となり得る暗殺計画を目論むとは到底考えられません。
いかに大久保が策士であったとは言え、簡単に暗殺命令を出すような軽率な人物ではなかったでしょうし、大久保がそのような愚策を考えるはずも無かったと私は考えます。
なぜなら、西郷の暗殺が失敗・成功のいずれの結果になったとしても、その影響は計り知れず、鹿児島県全体が暴徒化することは必定であり、もしかすると島津家、つまり久光もそれに巻き込まれる可能性もある危険な策であったと言えますので、大久保がそのような指令を出すことはあり得なかったものと私は推察します。

しかしながら、それと同時に、西郷暗殺計画が全く根も葉もないところから生じた話であったとも思えないのは事実です。
中原から暗殺計画を直接聞いたとされる谷口に関しても、前述のとおり、戦後その証言を覆しはしましたが、その際に提出した口供書には、

「併し西郷若し事を擧る時機に至らば、立越し議論に及ひ、聞き入れざる時は刺し違へるより外に手はない、此人と共に斃るれば吾身に於て不足は無之」(『大久保利通伝』下)

と書かれてあり、中原が谷口に対して「西郷と刺し違える覚悟を持っている」と話したことに関しては前言を覆していません。

また、のちに明治43年4月20日、『薩南血涙史』の著者・加治木常樹が谷口と直接会って話を聞いた際、谷口は「暗殺の事は正しく中原より聞きたる事に相違なき事實なり」と、またもや前言を撤回して、中原から聞いた暗殺計画は真実だと述べています。
谷口は取り調べの際に、暗殺事件のことは「水掛論」になっていると言われ、「幾度も八代鏡の官米掠奪事件を除去する事を申告されたり」と、つまり、他の罪を軽くするので今さら無用なことは書くなと誘導された末、暗殺計画については聞いていないものとしたと語っているのです。
確かに、今で言う司法取引ではないですが、自らの罪を軽くしてやると言われれば、余程確固とした意志を持っている人以外は、それに応じる言動をとったという谷口の行動も理解できます。

また、そもそも中原の帰郷理由についても、彼が戦後供述したように「私事ニシテ公事ニアラス」と、警視庁の関与が一切無かったということは、現代に遺されている各種史料から判断しても偽証であることは明白であるため、川路もしくはその側近の大山綱昌から、「いざとなれば、西郷や私学校幹部と刺し違えてでも目的を果たせ」くらいの話はあったと考えてしかるべきではないかと思われます。
ただ、それが暗殺計画の命令であったのかと考えると、とても微妙であると言えましょう。
話はそれますが、昨今生じた日本大学アメリカンフットボール部の危険タックル問題を考えても、どこまでが指示なのか、それともどこからが指示された方の独自判断なのかは、当事者の証言だけでは確定しづらいものがあると言えます。

以上のように考えると、いわゆる「西郷暗殺計画」というものが真実であったのかどうかについては、全く根も葉もない「シロ」と言う訳ではなく、「グレー」に近いものはあったと思われます。
しかしながら、その指令が大久保から出ていたということに関しては、やはり考えづらいと判断せざるを得ません。


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【2018/12/02 20:50】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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もうすぐ終わるんですね……
あやママ
こんにちは。ずーーっと前にお邪魔させて頂きましたあやママです。お元気ですか?
来週は西南戦争……切ないですね……
私学校での出来事が放送されましたが、西郷さんの暗殺命令は事実とばかり思ってました……しかし、「グレー」との事。色々と深いですね〜〜。勉強になります。 来週は我が熊本に攻めて来る訳ですね……そんな熊本城ですが、地震で凄い事になってしまいました。今、頑張って復帰の最中です。こっちも良かったら見守ってやって下さいね!西郷さんも今の熊本城をご覧になったらさぞ、びっくりされるでしょうね。

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