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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
大河ドラマも第2回に入り、少年だった小吉は、いよいよ青年・吉之助へと成長しましたね。
時は弘化3(1846)年まで進みました。西郷は18歳です。

この弘化3年という年は、日本にとって、そして薩摩にとっても重要なターニングポイントとなったと言えるかもしれません。
まず、この年の1月に仁孝天皇が崩御し、その翌月に孝明天皇に践祚されました。
政治的に言えば、孝明天皇の即位は幕末史の幕開けであったとも言えるかもしれません。

また、薩摩藩ですが、ドラマ内でも描かれていたとおり、この年の7月、島津斉彬が薩摩に帰国しました。
ドラマ内ではちゃんとした説明がありませんでしたが、斉彬が帰国したのは琉球で生じた外交問題を処理するためです。
その二年前の弘化元年3月、フランス軍艦・アルクメーヌ号が琉球の那覇に来航し、通信と交易、布教を要求したほか、翌弘化2年にもイギリスの測量船が那覇に来航、そして翌弘化3年にはイギリス人のベッテルハイムが那覇に上陸して勝手に居を構えるなど、琉球に諸外国の軍艦等が来航する外交問題が生じていました。
外国船の来航と言えば、嘉永6(1853)年6月のペリー来航が最も有名ですが、その約10年前から、琉球という場所を通じて、既に諸外国の外圧が日本に忍び寄ってきていたのです。

ドラマ内でも描かれていた通り、当時の斉彬はまだ世子(藩主の跡継ぎ)の立場でしたが、藩主の斉興に代わり、それら琉球において生じた外交問題に対処するため、薩摩に帰国することになったのですが、実際のところ薩摩に帰国した斉彬は、特段の手段を講じることなく、その翌年の弘化4年3月に、江戸に向けて帰国せざるを得ませんでした。
芳即正『島津斉彬』の記述を借りれば、斉彬に外交主導権をあたえまいとする斉興・調所の意図により、斉彬の帰国前に琉球問題処理のお膳立てが既に終わっていたからです。
このように、弘化3年の薩摩への帰国において斉彬が抱いた虚無感が、その後、一刻も早く藩主に就任したいという焦燥感へと転化し、そのことがその三年後に生じるお由羅騒動の萌芽となるのです。

さて、ドラマ内でも紹介されていましたが、青年になった西郷は、藩の郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)の職に就きました。
他藩に比べて武士の人口比率が高かった薩摩藩では(約四人に一人が武士であったと言われています)、武家の子弟がある程度の年齢に達すると、各自家計の助けとなるように低い役職に付ける慣習がありました。

西郷は前回でも描かれましたが、幼少期に負った右腕のケガのため、武芸を諦めて学問に精を出していたことから、同世代の中でも読み書きや算盤に秀でていたのでしょう。西郷はその能力を買われて、郡方の事務職に任命されたものと思われます。
大久保も記録所の書役助に任命されていましたが、大久保も西郷と同じく、武芸者と言うよりも能筆家だったからでしょう。
また、西郷が勤めた郡方は、藩内各地に巡視(出張)することも多く、体力のいる役職でもありました。西郷の生まれついての雄大な体格も、郡方の事務官に任命された理由の一つだったと言えるかもしれません。

そして、今回の一番の見どころは、借金のかたに売られようとしていた農家の娘を西郷が必死に助けようとしたシーンでしょう。
まさに感動の名シーンでしたね! 鈴木亮平さんの熱演が光っていました。
もちろんこの話は創作でしょうが、若き日の西郷にはこれに類する逸話がたくさん残されています。
例えば、勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、

「隆盛の各地方を巡回するや、つぶさに人民艱難の状況を視察し、往々救助するところあり。(中略)人民飢餓に迫り、あるいはその牛馬を売却して租税に宛てなお足らざるものあり。隆盛その惨状を目撃し、深く憫憐の情に堪へず、わずかに受くるところの俸給をなげうちて、ことごとく窮民にほどこし」(句読点を挿入し、難解な漢字は平仮名に直しました)

とあり、このような話は「枚挙すべからず」と勝田は書いています。
また、勝田は「故に地方の人民深く其徳を欽慕したりと云ふ」とも書いていますが、後の西郷の言動等を鑑みても、これらの逸話は史実に近いものだったと考えても良いのではないでしょうか。
こういった愛農、愛民主義を西郷は終生変わらず持ち続けていたと思います。

また、農民たちの窮状を見かねて、西郷が家老の調所のところに物申しに行くシーンがありましたが、大河ドラマ『篤姫』にも篤姫が調所のところに行くシーンがありませんでしたっけ?
ただ、少し固いことを言えば、もし西郷が本当に直訴するとすれば、やはりまずは郡奉行のところでしょう。
西郷は郡方書役助です。筋から言えば、上役の郡奉行のところに訴えなければなりません。
それをいきなり飛び越えて、家老のところに上訴することは、薩摩藩のヒエラルキーから考えても絶対にあり得ません。そんなことをしたら切腹間違いなしです。
ですので、まずは郡奉行に農村の窮状を訴え、それでもらちが開かなかったので、

「こげんなったら、ご家老に直訴するほかなか!」

と、調所のところに行くとした方が、ドラマとしても自然だったと思うんですけどね。

DSCF0983.jpg
(鹿児島市・調所広郷屋敷跡)

ちなみに調所と西郷は52も年が離れており、調所が亡くなった時、西郷はまだ20歳の若者でした。
調所は幕末の薩摩藩史の中でも悪役として描かれがちですが、彼が借金まみれの薩摩藩財政を立て直さなければ、後に斉彬が興した集成館事業も実施することは叶わず、また、薩摩藩が幕末史上あれだけの存在感を示すことは出来なかったと言えるかもしれません。
それほど調所の行った藩政改革は、薩摩藩にとって重要なものであったのです。
これは長州藩において「天保の改革」と呼ばれる藩政改革を推進した村田清風の功績も同様ですね。

そのように考えると、調所は大変悲劇的な人物です。
斉彬は実父の斉興を直接の攻撃対象にすることが出来ないことから、その腹心である調所にターゲットを絞ったという一面が多分にありますので。
本来なら、調所の功績は、薩摩において永遠に語り継がれるべきものでありましたが、斉彬と斉興の関係が悪かったことから、調所はその身代わりとなり、悪役に仕立てあげられたからです。

少し長くなりましたので今回はこの辺で。
次回も楽しみです!

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【2018/01/14 20:45】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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皆さんこんばんは。今回は今年の大河ドラマ『西郷どん』第1~5回の感想です。まずはあらすじ。薩摩の西郷家の嫡男として生まれた小吉(渡邉蒼)は郷中の仲間たちとともに伸びやかな少年時代を過ごしていた。そんな中、妙円寺参りで勝利を収めた小吉の郷中だったが、帰り道で
2018/05/03(Thu) 19:02:09 |  Coffee, Cigarettes & Music