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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
とうとう西郷たちが慕う赤山先生こと赤山靭負が亡くなってしまいました。
赤山の切腹シーンは見ごたえがありましたね。
沢村一樹さんの演技は鬼気迫るものがあり、素晴らしかったです。

赤山の切腹に際し、その介錯を西郷の父である吉兵衛が務めていました。
西郷家は赤山の実家・日置島津家の「用頼(ようだのみ。御家人のこと)」を務めていた関係から、両家は非常に縁深い間柄であったからです。
これまでも吉兵衛が赤山の側仕えとして働くシーンが描かれていましたが、池田米男『南洲先生新逸話集』(以下『新逸話集』と略す)によると、日置島津家と西郷家の繋がりは、西郷の祖母の実家・四本家を通じて、吉兵衛が同家に出入りしたことから始まったとあります。

このような縁から、赤山の切腹の介錯を吉兵衛が引き受けたと一般に伝えられていますが、厳密に言うと、赤山を介錯したのは吉兵衛ではなさそうです。
『新逸話集』によると、介錯人は加藤新平という撃剣家であったそうで、吉兵衛は赤山の死後の後処理を行ったとあります。
赤山は死の直前に吉兵衛を側近くに呼び、

「斉彬公が一日も早く七十五万石の薩、隅、日、琉球領地の太守たる御家督を継承されんことを我は死して祈らん。お方も斉彬公御家督の事を神仏に祈ってくれよ」

と言い残し、介錯人の加藤には、

「介錯誠に御苦労千万である。其の介錯の刀は永く其方の家に収めて呉れ」

と遺言を残して、切腹したとあります。

また、『新逸話集』には、西郷が吉兵衛から赤山の形見である血染めの肌着(同書は肩衣)を受け取ったという有名な逸話にも触れられており、この話は膨大な薩摩藩史料を編纂したことでも有名な市来四郎が、介錯人の加藤から直接聞いたものとあります。

さて、ここで赤山の簡単な経歴をまとめておくと、彼は島津家の流れをくむ日置島津家の当主で家老を務めた島津久風の次男として生まれました。
赤山の実兄には、久光、忠義のもとで主席家老を務めた経験もある島津久徴(ひさなが)がいる、薩摩藩内では名門の生まれです。
ちなみに赤山が日置島津家出身であるにもかかわらず、島津姓でないのは、日置島津家六代・久竹の次男・久辰が赤山姓を名乗って以来、次男以下の妾腹の子供は島津姓を名乗ることを憚り、赤山姓を名乗るようになったからだと伝えられています。

赤山は西郷より五歳年上ですので、西郷にとっては、先生と言うよりは兄貴分に近い存在だったと言えるのではないでしょうか。
また、赤山の実弟には、西南戦争において西郷と共に城山で戦死した元薩摩藩家老の桂久武が居ることは有名ですね。
桂は久風の五男にあたりますが、西郷とは刎頸の友とも呼べる間柄で、終生その仲は大変良好でした。『西郷どん』では、漫才コンビ・スピードワゴンの井戸田潤さんが桂を演じます。
ちなみに、桂の兄で、久風の四男にあたる田尻務(つとむ、またはつかさ)もまた、薩摩藩の重臣であり、明治後は霧島神宮の初代宮司となりましたが、西南戦争勃発後、西郷率いる薩軍を支援したため、戦後は長崎監獄に投獄されています。
このように見ると、島津久徴、赤山靭負、田尻務、桂久武の四兄弟は、いずれも西郷とは縁深い人物だったと言えます。

赤山に話を戻しますが、彼の人柄を知るものとして、とても興味深い文書が現代に残されています。
『鹿児島県史料 斉彬公史料 第四巻』(斉彬公は「せいひんこう」と読みます)の中に、「内訌記」という、お由羅騒動に関するたくさんの史料が収められた文書があるのですが、その中に赤山の人となりを知る貴重な証言が含まれています。

嘉永2(1849)年末から3年にかけて、斉彬派に対する処罰が始まると、薩摩を出奔した斉彬派の人たちがいます。
井上出雲守、木村仲之丞、竹内伴右衛門、岩崎千吉の四名です。
彼らは各々薩摩を脱出すると筑前福岡に奔り、福岡藩主・黒田長溥(ながひろ)に庇護を求めました。
長溥は薩摩藩第八代藩主・島津重豪の子供で、斉彬からすると大叔父(祖父の兄弟)にあたる人物です。
ただ、大叔父とは言え、実際の年齢は斉彬の方が二歳年上で、親類であり年が近かったことから、二人は大変親交が深い間柄でした。
そのため、四名の出奔者は亡命先として長溥の元を選び、筑前福岡に逃げ込みました。
彼らは長溥に対してお由羅騒動の顛末を事細かく話し、この騒動が斉彬の藩主就任に悪影響を及ぼさぬよう、長溥に尽力を願い出たのです。

以上のようなことから、筑前福岡藩にはお由羅騒動に関する文書がたくさん残っているのですが、その中に亡命者の一人である井上出雲守が福岡藩の求めに応じて提出した書類が収められています。
井上は鹿児島の諏訪神社の神職を務めた人物ですが、のちに藤井良節と名乗って近衛家に仕え、薩摩藩の政治活動を後援した人物としても有名ですね。
ちなみに、この井上は福岡に亡命後、工藤左門と改名し、安政の大獄の余波を受けて、京都から月照が九州に落ち延びた際、月照の薩摩入りに尽力することになるのですが、それは大河ドラマでは描かれないかもしれません。

DSCF1002.jpg
(玉里邸庭園)

さて、その井上が福岡藩に提出した書類の中に、お由羅騒動で処罰された人たちの略歴等を記したものがあるのですが、その中に赤山について次のように記しています。(漢字等を改めて読みやすくしました)


「右は先の家老嶋津和泉二男にて御座候。二男は嶋津を名乗申さず故、和泉家にて往古より二男以下赤山と名乗り申す事に御座候。此者は至極一体おとなしきものにて、勿論学才もこれあり、善悪邪正之決断も宜しく、急速楚忽之事などはこれなきものと、屹と見込罷在り申し候」(「内訌記三」『鹿児島県史料 斉彬公史料 第四巻』)


島津和泉とは島津久風のことで、前段では赤山姓を名乗る経緯が記され、そして後段において赤山の人柄について触れられています。
井上は、赤山はとても温厚な人柄で学識もあり、また正邪の分別もある、とても真面目な人だった、と書いています。
ドラマの中でも、沢村一樹さんが同じような感じで、非常に温和な人物として赤山を好演されていましたが、それは真実であり、赤山は心優しい人だったのでしょうね。
そして、西郷はそんな赤山の人柄に惚れ込み、心服していたからこそ、遺品の血染めの肌着を授けられ、その志を継ぐことを決心したのだと思います。

ちなみに、井上自身は赤山との直接の面識はどうやら無かったようです。井上は「尤いまた面会対談仕らずものに御座候得共」と書いてあるからです。
しかしながら、井上は、赤山を幼少時からよく知っている高崎五郎右衛門(お由羅騒動で切腹した一人。お由羅騒動が別名「高崎崩れ」と言われるのはこの人物が由来)から聞いた話を基にして赤山の人柄を述べたと記していますので、実際の赤山の人柄と差異は無いものと判断しても良いでしょう。

長くなりましたので、今回はこの辺で。

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【2018/01/28 21:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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赤山靭負
日高建男
赤山靭負が生きて明治政府の重要ポジションに居れば西南戦争は起きなかったでしょうか。

林先生の「西郷どん!」にもこれまでの読み物、映像作品同様、赤山はほとんど描かれていませんでしたが私の漫画「西郷どん!」には、西郷の兄貴分として描き込みました。“やんちゃな於一にせがまれ仕方なく馬に於一を乗せている赤山靭負が吉之助に「姫様を馬に乗せて万が一何かあってはどう致しましょう・・」と平伏しながら嗜められて赤山「まあ、それはそうなのだが・・(汗)」”というシーンなど・・この度の大河で赤山をそこそこ描いてくれたのは赤山好きとしてはウレシかったですねえ。

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赤山靭負
赤山靭負が生きて明治政府の重要ポジションに居れば西南戦争は起きなかったでしょうか。

林先生の「西郷どん!」にもこれまでの読み物、映像作品同様、赤山はほとんど描かれていませんでしたが私の漫画「西郷どん!」には、西郷の兄貴分として描き込みました。“やんちゃな於一にせがまれ仕方なく馬に於一を乗せている赤山靭負が吉之助に「姫様を馬に乗せて万が一何かあってはどう致しましょう・・」と平伏しながら嗜められて赤山「まあ、それはそうなのだが・・(汗)」”というシーンなど・・この度の大河で赤山をそこそこ描いてくれたのは赤山好きとしてはウレシかったですねえ。
2018/02/13(Tue) 06:16 | URL  | 日高建男 #-[ 編集]
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