西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
ドラマでは、島津斉彬がようやく藩主に就任しました。
前回の感想&小解説では触れませんでしたが、第4回で描かれた斉興と斉彬のロシアンルーレットは、まさに「おったまげ~!」でしたね。(←平野ノラ風・笑)

私のツイッターでも少し呟きましたが、あのロシアンルーレットの話は、おそらく平戸藩主・松浦静山が書いた『甲子夜話』を基にして創作されたものではないかと思います。
この話は海音寺潮五郎『西郷隆盛』(朝日新聞社刊)の第一巻でも触れられていますが、その昔、薩摩の城下では武士たちが集まると、座敷に円陣を組んで座り、その真ん中に天井から縄で吊るした鉄砲をぶら下げ、その縄をくるくると巻いた後、鉄砲に点火して手を放すという、度胸試しのような行為(遊び?)があったというのです。
当然、巻かれた縄は回転し、どこかで鉄砲が暴発することになりますが、周りに居座る武士たちは平然と談笑し、微動だにしてはいけません。鉄砲の暴発を恐れて、狼狽えたりでもしようものなら、仲間から卑怯未練と罵られ、薩摩武士の風上にも置けぬ輩として、吊るし上げを喰うからです。
誠に身の毛もよだつような恐ろしい話ですが、おそらく第4回の斉興と斉彬のロシアンルーレットは、この話から着想したものではないでしょうか。

さて、この辺りで第5回に話を移しますが、今回は「相撲」にスポットが当てられた話でした。
急きょ御前相撲に出場できなくなった村田新八に代わり、西郷が相撲に挑む話でしたが、元々薩摩は相撲が盛んな土地柄です。
西郷の相撲好きはかなり有名な話として伝わり、諸書にたくさん取り上げられていますので、今回は少し視点を変えて、相撲とはほど遠いと思われる大久保と相撲について書きたいと思います。

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(大久保利通生い立ちの地)

明治43年に刊行された勝田孫弥『大久保利通伝』は、大久保利通研究の基礎資料とも言えるものですが、その勝田が書いた別の書に『甲東逸話』(甲東は大久保の雅号)という、大久保にまつわる様々な逸話をまとめたものがあるのですが、その中に「相撲好」という話が収載されています。
この逸話によると、昔から薩摩において相撲は、士気の養成や身体の鍛錬のために武士たちの間で最も奨励されたものであり、大久保の父・次右衛門利世は、大の相撲好きであったそうです。
同書には、

「甲東は幼い時より父に伴はれて龍虎相撃つの状を見物するを常とした。甲東が父に劣らぬ相撲好であったのはこれが為である」

とあり、少年時代の大久保は、父に連れられて相撲見物に出かけることが多かったことから、父に劣らぬほどの相撲好きになったと書かれています。

この大久保の相撲好きの逸話を証明するかのように、若き日の大久保の日記を見ると、相撲見物に出かけたという記述がいくつか出てきます。
例えば、嘉永元(1848)年1月15日、つまり大久保がまだ弱冠18歳の青年であった頃の日記には、

「今日は横井氏の石壇の内江、例年有之候角力ある由に而、北原氏・山田氏被差越候付、拙者江も被進候」(『鹿児島県史料 大久保利通史料一』。以下同史料集から抜粋)

との記述があります。
つまり、「横井氏の屋敷内で例年相撲が催されており、北原氏と山田氏が来て、相撲見物に誘われた」ということです。

また、その後の日記の記述を読むと、大久保は日頃から親しく交際していた五歳年上の得能良助(日記の注には新助とあります)を誘い、結局四人で相撲見物に出かけたようですが、興味深いのは、相撲会場に到着した時のことです。
大久保は次のように書いています。

「八ツ近行着、加冶ヤ町方黒木氏・亀山氏・西郷氏杯参り被居、緩々致見物候」

つまり、大久保は「午後二時近くに相撲会場に着くと、加治屋町方限の黒木氏、亀山氏、西郷氏なども見に来ており、ゆっくりと相撲見物した」と書いているのです。
もちろん、西郷氏とは若き日の西郷隆盛のことです。
相撲という場において、西郷と大久保が邂逅しているのは、大変面白いですよね。

少し話がそれますが、この大久保の嘉永元(1848)年の日記を見ると、この相撲見物の時のように「加治屋町の○○が居た」や「加治屋町へ行った」という記述が散見されることから、当時の大久保は、西郷と同じ加治屋町に住んでいなかったものと思われます。
加治屋町に住んでいる人間が、わざわざ「加治屋町へ行った」と日記に書くことはまずあり得ないでしょう。
一般には、大久保は幼少期に生誕地の高麗町から、甲突川を挟んだ対岸の加治屋町に引っ越してきたと言われていますが、嘉永元(1848)年当時は、加治屋町ではなく、別の場所に居住していたものと推察されます。
おそらくまだ高麗町に住んでいたか、もしくは父が琉球館詰めの役人であったため、その役宅に住んでいたのかもしれません。(加治屋町にも屋敷を持っていたが、当時は他所に住んでいたという可能性もあります)

また、このことは既に私のホームページ内にも書いていますが、嘉永元(1848)年当時の大久保の日記は、約120日間の記録が残されていますが、西郷という記述が出てくるのはわずか4日しかありません。
しかも、そのいずれもが「西郷と出会った」や「西郷も来ていた」という、偶然西郷と顔を合わせたという風に書かれていることから、当時の西郷と大久保は、それほど親しく付き合っていなかったことが分かります。
逆に、一緒に相撲見物に出かけた得能良助や税所喜三左衛門(後の篤)といった人たちは、大久保の日記中に頻繁にその名が出てきますので、大久保との親密な交際がうかがい知れます。
おそらく西郷と大久保が親しく交流するようになったのは、大久保の父がお由羅騒動の影響で嘉永3(1850)年4月にお役御免となり、喜界島に遠島されて以後のことではないかと思います。
大久保は父の遠島により、自らも記録所書役助を免職となっていますが、その頃に加治屋町に居を移し、本格的に西郷との交流を深めたのではないでしょうか。
つまり、お由羅騒動は、西郷と大久保の仲を取り持つきっかけともなったと言えるのです。

閑話休題。
大久保と相撲に話を戻しますが、大久保の日記には、他にも嘉永元(1848)年10月10日に「明日は角力有之候付」という記述があるのですが、面白いのはその翌日、相撲当日の日記です。大久保は次のように書いています。

「今日は未大鐘近より起上り相仕舞、六ツ時船出し、四ツ時有村江着船いたし候、五時初り誠ニ以面白終日見物いたし、夜入近相済候」

この記述から分かるのは、大久保は船に乗って桜島の有村へ渡り、相撲見物に出かけたということです。
日記には「未大鐘近より起上り相仕舞、六ツ時船出し」とあることから、当日は未の刻(午後2時頃)近くに起きて、夕方の午後6時頃に船出したのでしょう。
当初この記述を見た時、「六ツ時船出」とあることから、朝の午前6時頃に気張って出発したのかと思ったのですが、四ツ時に桜島に着き、相撲が始まったのが五時(五ツ)で、夜に入って終わったとありますので、相撲の始まりは夜の午後8時ではなく、朝の午前8時頃だということでしょうね。
友人と共に夕方に船で出発した大久保は、夜の午後9~10時頃に桜島の有村に着き、そこから相撲会場の横井氏の屋敷まで移動し、翌朝午前8時頃から始った相撲を終日見物したということです。

大久保の相撲好きたるや、まさに恐るべしです!

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【2018/02/04 21:44】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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