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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
前回に引き続き、物語は西郷の最初の妻であるスガ(須賀)が中心でした。
最後は西郷を江戸に行かせるために自ら潔く身を引いた女性として、スガの悲哀が描かれていましたが、私自身の感想を述べると、あのような形で彼女が描かれたのは少し残念な気がしました。

前回のブログでも、西郷が妹のコト(琴)の夫である市来正之丞に宛てた手紙の中で、「両親の勧めにより娶った妻を両親の死後に離縁した」と書いた手紙があることは触れましたが、西郷は同手紙の中で次のようにも書いています。

「再び此の期に相成り迎え申すべき存慮全く御座なく候」

つまり、西郷はスガとの離婚を経験し、「再び結婚するつもりは全くない」と書いており、この記述から想像を膨らませて、あのような形でスガとの別れを描いたのかもしれません。
あくまでもドラマですので細かく言うつもりはありませんが、ただ、今回は私の考えるスガ像とは少し離れていましたので、当時の西郷家の家計事情を絡めながら、スガと西郷の離婚の原因について、少し迫りたいと思います。

『西郷どん』では、当初から西郷家の貧窮について描かれていますが、スガが嫁入りした当時の西郷家は、経済的に逼迫した状況にあったことは間違いありません。
なぜなら、前回も書きましたが、嘉永5(1852)年9月に一家の大黒柱でもあり、稼ぎ頭でもあった父・吉兵衛が急逝したからです。
吉兵衛の死により、西郷家の財政は全て西郷の双肩にかかりました。
ただ、当時の西郷はまだ24歳の若者です。役職も郡方書役助のままで薄給でしたから、ドラマ内でも描かれていたとおり、当時の西郷はお金に大変苦労したことでしょう。
そして、西郷に背負わされた苦労は、一家の台所を預かることになったスガに対しても、遠慮なく降りかかったことは想像に難くありません。

そんな最中、2年後の嘉永7(1854)年1月に、西郷は斉彬と共に江戸へと旅立ってしまいます。
西郷が江戸に出た後、残った家族を一つにまとめ、そして経済的にも支えたのは次弟の吉二郎でした。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、吉二郎は西郷が江戸に出発する前年の嘉永6(1853)年に勘定所支配方書役助の役職に就いていますが、吉二郎の就職が西郷の江戸行きを後押ししたと言えます。

鹿児島県史料集(29)『要用集(下)』の中に、「諸御役座書役小役人持高依員数役料米並支度料銀等不被下候事」という文書が収められています。
この文書は藩士が役職に就いた際、藩から支払われた支度金の概要等を記したものですが、そこには「高五拾石以下家督部屋栖共支度料銀三枚三拾二匁御扶持米被下候」とあり、50石以下の武士で小役人に就いた藩士には、家督を継ぐ者や部屋住みの者に関わらず、支度料として「銀三枚三十二匁と扶持米」が下されたとあります。
当時の西郷家は41石の持ち高でしたので、吉二郎が就職したことにより、藩から西郷家に対して、同様の支度金と扶持米が支給されたことがこの文書から分かります。
当時経済的に困窮していた西郷家にとって、吉二郎の就職による支度金等の受給は、まさに大きな助け舟となったことは想像に難くありません。
経済的に苦しい状況にありながらも、西郷が江戸行きを決意したのは、このように吉二郎の就職が非常に大きかったと言えます。
少し想像を膨らませるならば、家庭の事情で江戸行きを断念しようとしていた西郷に対し、

「兄さあは何も心配することはなか。留守はおいが引き受けもんで、兄さあは江戸へ行ってくいやい」

と吉二郎が言い、その弟の言葉に涙を浮かべながらうなずく西郷の姿が目に浮かぶようです。

しかしながら、吉二郎が就職したとは言え、西郷家の家計が依然として苦しいものであったことは容易に想像がつきます。
西郷家の家政上の記録である「万留」(『西郷隆盛全集 第四巻』所収)によると、西郷が江戸に旅立った翌年の安政2(1855)年12月12日、西郷家は持ち家であった加治屋町の家屋敷を売り払っている事実があるからです。
おそらく持ち家は既に借金の抵当などに入っており、当時の西郷家は家屋敷を手放さなければどうにもならないような状態に陥っていたのでしょう。
これは西郷が江戸に出て留守中の出来事ですから、当時の西郷家がいかに困窮していたのかがよく分かります。

家屋敷を売り払った西郷家は、甲突川を挟んだ対岸の上之園町の借家に移り住むことになりますが、以上のような事実は、当時の西郷家の生活が依然として改善していなかったことを如実に物語っています。
このように苦しい状況に置かれていた西郷家の家計をスガは新婚当初から切り盛りせざるを得ない状況に置かれていたのですから、彼女が背負った重責は、想像するに余りあります。

ここで少し視点を変えますが、『伊集院兼寛関係文書』所収の「伊集院兼寛履歴」によると、スガの実家である伊集院家は200石取りの城下士であったようです。

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(尚友倶楽部、山崎有恒編『伊集院兼寛関係文書』芙蓉書房出版)

薩摩藩内で200石取りはかなりの高禄です。西郷家と比べても、伊集院家の身代は約5倍もあったのです。
先日、薩摩藩の歴史に造詣の深い歴史作家の桐野作人先生がツイッター上で、「伊集院家は西郷・大久保と同じ御小姓与の家格ではないかもしれない」との趣旨の発言をされ、さらに「(伊集院家は)御小姓与の上の小番か新番ではないか」と呟かれていましたが、私も同感です。
薩摩藩の武士の家格は、上から御一門、一所持、一所持格、寄合、寄合並、無格、小番、新番、御小姓与、与力という形で階級付けされていました。
西郷家が属した御小姓与(おこしょうぐみ)は、士分では下から二番目の低い家格となるわけですが、伊集院家はその禄高から考えると、西郷家と同家格ではなく、その上の新番か小番であった可能性が高いと思われます。

『鹿児島県史 第二巻』によると、在国の馬廻りの武士たち、いわゆる騎馬衆を小番と称したとあり、また「二百石以上を乗馬(後の小番)」、「百石以上二百石未満を小荷駄(後の新番)」としたとあることから、おそらく伊集院家は小番であったのではないでしょうか。
また、スガの父である伊集院直五郎は家老座書役を務めていましたが、後に西郷の妻となるイトの父・岩山八郎太も同役の家老座書役でした。岩山家の家格が小番であったことから考えると、伊集院家も同様の小番であった可能性が高いと思われます。
もし、このように伊集院家が小番であったとすると、スガは家格の低い西郷家に嫁入りしたことになりますが、このような縁組は普通に行われていたようです。
例えば、西郷家に限って言えば、西郷の妹で次女のタカ(鷹)は、嘉永7年(1854)に三原伝左衛門に嫁いでいますが、三原家の家格は小番であったと伝えられているからです。

『伊集院兼寛関係文書』所収の伊集院家の家系図によると、スガは天保3(1832)年4月生まれとあります。
前回も書きましたが、西郷とスガは嘉永5(1852)年に結婚したと伝えられていることから、スガは20歳の若さで西郷家に嫁入りしたことになります。
比較的裕福な家庭で育ったスガが、結婚当初からいきなり経済状況の厳しい大家族の中に入り込み、そしてその家計を預からざるを得なかったのですから、当時のスガはかなり苦労したのではないでしょうか。
そしてまた、唯一頼りとする夫の西郷はと言えば、江戸に出て長らく不在にしていましたので、彼女は心細い日々を過ごしたに違いありません。
あくまでも想像ですが、スガは西郷家で心労を重ねる日々を過ごしたように感じられてなりません。

そんな状況に置かれていたスガの窮状を見かねて、実家の伊集院家は彼女の身柄を自主的に引き取ろうとした、という通説通りの解釈が、西郷とスガが離婚せざるを得なかった最も自然な理由であったと私は思います。
そして、西郷は後にこの結婚について敢えて何も語ろうとしなかったのは、スガに対する申し訳なさや罪の意識がそうさせたと考えるのが適切ではないでしょうか。

以上のように考えると、西郷とスガの離婚の原因は、やはり西郷家の経済的事情に端を発する、スガの心労によるものが大きく、西郷は両親が骨折って娶ってくれた若妻に対して、そのような苦い経験を課してしまったという経験から、離婚直後、二度と妻帯しないと決心したように思えてならないのです。

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【2018/02/25 20:46】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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