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いよいよ西郷が江戸に行くことになりました。
江戸では「ヒー様」こと一橋慶喜との出会いやフキとの再会などがあって、今回はとても賑やかな展開で、まさにTHE時代劇でしたね(笑)。
早くもこの時点で慶喜を登場させたのは、やはりドラマ後半への伏線でしょう。
この後、西郷は斉彬の命により、「将軍継嗣問題(13代将軍・徳川家定の跡継ぎを巡る問題)」において、一橋派、つまり慶喜を次期将軍に擁立することに尽力することになり、また、慶応期において、西郷と慶喜は政治的に対立することになります。
そんな西郷と慶喜の数奇な運命を描くために、この段階から二人の接点を作ったのではないでしょうか。

さて、西郷が江戸に向けて鹿児島を出発したのは、嘉永7(1854)年1月21日のことです。
西郷は「中御小姓、定御供、江戸詰」を命じられ、いよいよ江戸へと旅立ったわけですが、出発前の西郷の役職を郡方書役助ではなく、郡方書役に昇進していたとする書籍が散見されます。
この点については昔から議論があったところなのですが、西郷家の家政上の記録である「万留」(『西郷隆盛全集 第四巻』所収)によると、嘉永7(1854)年8月に次弟・吉二郎が提出した「御奉公役目届」には、

「善兵衛事当正月迄ハ郡方書役助相勤居候処、同月中御小姓被仰付、御供ニ而同廿一日出立仕、当分江戸江罷居申候」

とあり、吉二郎は当時善兵衛と名乗っていた兄の役職を郡方書役助と書いています。
この記述を信用するならば、江戸出立時において、西郷はまだ郡方書役には昇進していなかったものと思われます。

今回、鹿児島を出発した斉彬の行列は、アッという間に江戸に到着し、あの有名な水上坂(みつかんざか)でのエピソードは描かれませんでした。
水上坂のエピソードは、西郷の伝記類には必ずと言って出てくる逸話です。江戸参府の行列が鹿児島郊外の水上坂において休息中、斉彬が近臣に対し、西郷のことを尋ね、そして西郷のことを初めて見たという逸話です。
例えば、『大西郷全集 第三巻』の「西郷隆盛伝」には、

「斉彬は乗物から立出でて四顧しつつ暫し離れ去る郷土の風光に名残を惜む如く見えた。ややあって従者に向ひ、西郷吉兵衛といふのは来てをるか、孰れぞ、との訊ね。隋士は直ちに偉丈夫隆盛を指した。斉彬が隆盛を眼のあたり見たのは此の時が始めてであった」

とあり、勝田孫弥『西郷隆盛伝』にも同様の記述があります。
『西郷どん』では、斉彬が西郷と相撲をとったりと、二人は既に面識があったという設定でしたので、この逸話は端折られたのでしょう。

ちなみに、水上坂とは鹿児島城下の西郊、出水筋(薩摩街道)にあった水上(西田村字水上)のことを指し、ここには藩主が休息する御茶屋がありました。江戸参府の際には、藩主はこの水上の御茶屋で休息を取ることが慣例となっていたのです。
西郷が供として加わった嘉永7(1854)年の斉彬の行列もまた、同じように水上で休息を取っています。
「照國公日記」(『鹿児島県史料 斉彬公史料 第四巻』所収)には、

「鹿児島 十時過三時一分マヘ立、(中略)、十一時過三時一分マヘ水上着、十二時過二時二分マヘ立」

とあり、鹿児島を出発した行列が、水上の御茶屋で一時間程度の休憩を取っていることが分かります。

ちなみに、この日記の時間の記述が少し変わっていると思いませんか?
江戸時代の時間と言えば、普通は巳の刻や四ツなどの表現を使うものですが、この時どうやら斉彬は、時計を使用して時間を記録させていたようです。
芳即正『島津斉彬』によると、この時使用された時計は長崎の写真家・上野彦馬からの進物品で、当時の斉彬は、藩内の巡検や参勤交代の際にはいつも時計師の内野太左衛門を同行させていたそうで、先に書かれている時間は時計の短針を示し、後の時間は長針を指していると解説されています。
つまり、斉彬の行列は、「鹿児島を午前10時14分に出発し、午前11時14分に水上に着き、お昼の午後12時8分に水上を出発した」ということです。「三時一分マエ」という記録は、長針が3を指す1分前、つまり14分を意味しているということです。
このような記述を見ても、斉彬の西洋好みと言いますか、そのハイカラさがよく分かりますね。ちなみに、斉彬という人物は、ローマ字を使って日記も書いています。

この時の斉彬の江戸参勤ルートについては、「照國公日記」と当時斉彬の側近(御小納戸役)であった山田壮右衛門為正が書いた日記「安政元年島津齊彬参府御供日記」(『鹿児島県史料 斉彬公史料 第四巻』所収)に詳しいのですが、この山田壮右衛門為正という人物は、『西郷どん』において、徳井優さんが演じている山田為久のモデルだと思います。
でも、なぜ敢えて山田だけ名前を変えたのでしょうか?
その理由はよく分かりませんが、少しネタバレを書きますと、山田為正は後に斉彬の遺言を直接聞くこととなる、とても重要な人物なのです。

この山田為正の日記によると、斉彬一行が江戸に着いたのは、嘉永7(1854)年3月6日のことです。
つまり、鹿児島から江戸まで約一ヶ月半かかったわけですが、江戸に着いた西郷はその一ヶ月後、藩から「庭方役」を拝命します。
ドラマ内では、西郷は庭掃除ばかりをし、少々ガッカリした様子が描かれていましたが、ドラマで描かれたとおり、斉彬が西郷に期待したのは、自分の手足となって動ける使者の役目であったと伝えられています。

この西郷の庭方役就任について、西郷とも直接親交のあった元薩摩藩士で歴史家でもあった重野安繹(しげのやすつぐ)は、

「其時南洲ノ地位ハ御庭方ト云フモノデ、是ハ幕府ノ御庭番ト云フニ擬シタモノ、藩ニ於テハ昔ハナカッタモノダガ順聖院ノ時ニ始メテ其役目ヲ拵ヘタ」

と語っており(「重野安繹演説筆記第二」『鹿児島県史料 斉彬公史料 第三巻』所収)、御庭方は斉彬が幕府の御庭番(つまり隠密)を模して始めた制度だと言っています。
芳即正『島津斉彬』にも「重野安繹によると御庭方は斉彬の創設というが」という記述があり、その証言が紹介されていますが、それに対して、勝田孫弥『西郷隆盛伝』では、

「元来庭方役に有為の人材を任じ、直接に密事を談ずるの便に供したるは斉彬に始りし事にあらず、斉彬を薫陶したる榮翁の世に幕府の庭掃除番に擬し創始したるものにして其長を庭奉行と称したり」

とあり、庭方役に有為な人材を就けるようになったのは榮翁、すなわち斉彬の曽祖父である八代藩主・島津重豪の御世であったと書かれています。
確かに、勝田孫弥の言うとおり、文政11(1828)年に改編された『薩藩政要録』(鹿児島県史料集(1))の「御側支配並若年寄大目附支配諸御役座等之事」という文書には、若年寄支配として「御庭方」という役職があったことが記されていますので、御庭方は斉彬時代に始まったものではなかったのです。

また、『職掌紀原』(鹿児島県史料集(6))によれば、「御庭奉行之儀、天明三癸卯十月初被相建」とあり、御庭方の長である御庭奉行は、天明3(1783)年10月に初めて設けられた役職であったことが分かります。
天明3(1783)年と言えば、重豪が藩主の時代でしたので、やはり勝田孫弥の言うとおり、西郷が拝命した御庭方は重豪が創設した役職と言えるでしょう。

重豪が御庭方という役職を創設した理由については、「参考御薬園ノ由来」(『鹿児島県史料 斉彬公史料 第一巻』文書番号三四一)という文書に次のように書かれています。

「天明三癸卯十二月御庭奉行・御薬園掛創置セラレタルハ、重豪公夙にニ開物殖産ノ業ヲ好セ玉ヒ、和漢洋ノ草木ヲ蒐集・栽培セシメ玉ヘリ、(中略)、之ヲ鹿児島其他各郷ニアル御薬園地ニ栽培セシメ玉ヒ」

つまり、御庭奉行は重豪が収集した和漢洋の草木コレクションを栽培する薬園の管理を行うために設けられたということです。
薬園の管理については別に薬園掛が置かれましたが、それを統括するために御庭奉行を置いたということでしょう。
重豪は『成形図説』と呼ばれる様々な草木類を集録した百科事典を編纂したことでも有名で、特に薬園の経営については、とても熱心な藩主だったからです。
また、同「参考御薬園ノ由来」には、「御庭奉行・御薬園掛兼役ナリシカ其後凡ソ九年程ヲ経テ、寛政四壬子十二月分離シテ、御薬園奉行ヲ置レタリ」ともあり、元々御庭奉行は御薬園掛を兼務していたが、寛政4(1792)年12月、御庭奉行からその役目を分離して、専任の御薬園奉行という役職が新設されたとあります。(当時は重豪の子の九代藩主・斉宣の治世です)

以上のような記録から考えると、重豪が御庭方という制度を創設したのは、幕府の御庭番を模したのではなく、薬園掛を統括する部署として設けたものであったと言うことです。
そして、勝田孫弥『西郷隆盛伝』にあるように、その御庭方に有為の人材を登用し、藩主と直接密談できるような機能を持たせたのは、斉彬の発案であったと言えるかもしれません。
斉彬が身分の低い者でも気軽に庭先で会って話が出来る御庭方の利便性に目を付け、御庭方の制度を応用的、発展的に使ったのではないでしょうか。
斉彬は、市来四郎や中原猶介といった、自らが重用した家臣たちを庭方役に付けていることから考えると、斉彬は近臣から推挙のあった西郷を庭方役に就任させ、モノになる人物かどうかを試そうとしたのではないでしょうか。
そのように考えると、重野安繹が「庭方は斉彬が初めてその役目をこしらえたものであった」と言っていることも、あながち誤りではないように思います。
庭方役というものに新たな機能を付与したのは斉彬と言えますので。

今回は長くなりましたので、この辺で。


(後記)
島津重豪は、山川、佐多、吉野の三つの薬園を熱心に経営しました。
山川薬園跡には今でも大きなリュウガンの木が残り、また、佐多薬園跡には、たくさんの薬木が残っており、往時の姿を想像することが出来ます。
また、吉野薬園跡は現在鹿児島市立吉野小学校になっていますが、その校庭には薬園時代の名残りとも言える、大きなアキニレの木が立っています。
これら薩摩藩の薬園跡は、鹿児島でもオススメの史跡巡りスポットですよ!


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(吉野薬園跡・現在の吉野小学校の校庭に残るアキニレの木)

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【2018/03/04 21:20】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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