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今回の『西郷どん』のタイトルは「斉彬暗殺」でした。
斉彬の死については、古来「毒殺説」があることから、おそらくそれを意識したものでしょうが、それにしても今回は思い切ったタイトルを付けましたね。

まず、ドラマ内では斉彬が倒れることをまるで暗示するかのように、篤姫や西郷と仲睦まじく遊んでいた斉彬の五男・虎寿丸の早逝が描かれていました。
『鹿児島県史料 旧記雑録追録八』によると、虎寿丸は嘉永2(1849)年閏4月2日生まれで、同4(1851)年3月3日に世子に立てられたとあり、実母は「田宮氏女」とあります。
ドラマ内では斉彬の側室・喜久(四番目の側女・寿満をモデルとした女性)の子供のように描かれていましたが、実際はそうではなく、田宮安知の娘で斉彬の三番目の側女となった女性(名は不詳)が虎寿丸の生母です。
彼女は斉彬の三男・盛之進の実母でもありますが、盛之進は既に嘉永3(1850)年10月4日に数え三歳の若さで亡くなっていましたので、彼女は虎寿丸の死により、二人の息子を失ったことになります。

虎寿丸の死については、安政元年「総覧」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第二巻所収)の閏7月24日の条に、次のように書かれています。

「世子虎壽丸公、昨朝御習書常ノ如クナリシニ、劇然御発熱、剰へ下痢ヲ催シ、遂ニ本日丑之刻御夭亡、時ニ御年六歳(嘉永二年巳酉閏四月二日、江戸邸ニ御誕生)」

この記述によると、虎寿丸は亡くなる前日の朝は普段と変わりなく手習いをしていたようですが、突然発熱して下痢の症状がでて、その翌日の深夜に急逝したのです。
「劇然御発熱」とあるあたり、虎寿丸の体調が急に激変したことがうかがえます。

「竪山利武公用控」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第四巻所収)によれば、「昼後より少々御服(腹)痛被遊、追々御熱気御発御下し強被為在」とあり、虎寿丸が腹痛をきっかけに、発熱や強烈な下痢に襲われたことが分かります。
当時の虎寿丸はまだ数え六歳の幼子です。急な発熱と下痢によって、一気に体力を奪われてしまったのでしょう。

また、当時の虎寿丸は右大臣・近衛忠煕の娘・信君と既に婚約が成立していました。
『鹿児島県史料 旧記雑録追録八』には、その時の交渉記録が収められていますが、虎寿丸の死から遡ること半年前の2月には、島津家は近衛家から婚約の内諾を得ていたようです。
虎寿丸は薩摩藩の正式な跡取りでしたので、斉彬は島津家と大変縁深い近衛家から正室を招こうとしたわけですが、虎寿丸の早逝により、斉彬の願いも儚く消えてしまったと言えます。

当時、江戸薩摩藩邸において庭方役を務めていた西郷も、虎寿丸の死から約一週間後の嘉永7(1854)年8月2日付けで、鹿児島の同志・福島矢三太(大河ドラマには登場しません)に宛てた手紙に、

「若殿様には去る二十三日昼九ツ時より御瀉しにて、昼の内十二度、夜二十五度位の儀にて、八ツ時分終に御卒去遊ばされ候」(『西郷隆盛全集』第一巻所収)

と書き、虎寿丸の急逝について触れています。

前出の安政元年「総覧」によると、虎寿丸の遺体は2日後の閏7月26日、島津家の菩提寺である目黒の大圓寺に葬られ翌月8月26日にその遺髪が鹿児島へと送られましたが、『鹿児島県史料 鎌田正純日記』三によると、鹿児島に虎寿丸の逝去が伝わったのは、それより前の8月14日の夕方頃であったようです。
鎌田の日記の8月14日の条には、「若殿様御不例之処去月廿四日暁御夭亡之御左右今七ツ後御到来、書役佐々木眞兵衛・新納駿河殿方より承参候」との記述があります。

また、鎌田に虎寿丸の死を伝えた新納(久仰)の雑譜(『鹿児島県史料 新納久仰雑譜』一)によると、「今日七ツ半時分先月廿七日江戸被差立候極々急キ飛脚到着」という記述があることから、閏7月27日に江戸から差し立てられた急飛脚が8月14日に鹿児島に到着し、虎寿丸の死が伝わったことが分かります。

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(虎寿丸の遺髪が埋葬された鹿児島の「福昌寺跡」)

虎寿丸の突然の死は、斉彬に大きな衝撃を与えたことでしょう。
斉彬はそれまで長男・菊三郎、長女・澄姫、次女・邦姫、二男・寛之助、三男・盛之進、四男・篤之助と、既に四男二女を失っていましたが、いずれも三年に満たない内での早逝でした。
そのため、順調に六歳まですくすくと成長していた虎寿丸の死に、斉彬は精神的に大きなダメージを受けたに違いありません。
そして、その心労がたたったのか、虎寿丸の死から約一週間後の閏7月晦日、今度は斉彬が病におかされるのです。

「順聖公御事蹟並年譜」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第四巻所収)には、「公寝疾自哭世子悲傷、至此療薬効少、中外憂懼」とあり、斉彬の罹患は虎寿丸を失った悲しみが大きかったことがうかがえます。
また、西郷は前出の福島矢三太宛ての手紙の中で、

「太守様俄に御病気、一と通りならざる御煩い、大小用さえ御床の内にて御寝も成らせられず、先年の御煩いの様に相成る模様にて、至極御世話遊ばされ候儀に御座候」

と書いていることから、当時の西郷は、斉彬が重病であると聞かされていたのではないでしょうか。

ちなみに、この時の斉彬の病は胃病であったと伝えられていますが、斉彬が全快したことにより、翌安政2(1855)年3月17日に藩内に布告された「斉彬御病気御全快布告」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第二巻所収)によると、「太守様御事、去秋中ヨリ甲寅ノ秋、御疝癪気ニテ被遊」とありますので、胃痛だけではなく、胸痛などの症状も出ていたのかもしれません。

このように、斉彬が病に倒れたため、番組最後の「西郷どん紀行」でも取り上げられていましたが、西郷は目黒不動尊(瀧泉寺)に参詣し、斉彬の病気平癒を祈願しています。
西郷は同福島宛ての手紙の中で、「命に替えて祈願をこらし、昼夜祈り入る事に御座候」と書いています。

そんな西郷が、今回のドラマでは「斉彬の毒殺」を疑い、橋本左内に検査を依頼して、最後は斉興とお由羅の方のところに物申しに行くシーンが描かれていましたが、さすがの西郷も毒が原因で斉彬が病に倒れたとまでは、当時思っていなかったのではないでしょうか。
確かに、西郷は同福島宛て手紙の中で、

「熟思慮仕り候処、いずれなり奸女をたおし候外望みなき時と伺い居り申し候」

と、斉興の側室・お由羅の方を「奸女」と表現し、それを「倒すほかない」とまで過激な言葉を吐露していますが、それは先年のお由羅騒動の際に噂になった「お由羅一派による斉彬への呪詛・調伏」を疑ったからであり、さすがに毒殺レベルまでは考えていなかったような気がします。

今回のドラマにおいて、斉彬は食事の中にヒ素を盛られたという描き方をされていましたが、おそらくこれは鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏が唱えられた斉彬毒殺説を参考にしたものだと思われます。
海音寺氏は自身の著書『西郷隆盛』(朝日新聞社刊)の中で、

「この伝記の初版を出した後、ぼくの胸底にはいつも斉彬の死因について疑惑があった。その死がタイムリーにすぎると思われて、納得しかねるものがあって、考えつづけずにはいられなかった。ある日、「これは毒殺ではなかったか」と考えてみた。すると、一切が実によく納得の行く気がして来た」(『西郷隆盛』第二巻)

と書いたうえで、「ぼくはその毒物についても、大体の見当をつけている。亜砒酸系統の毒薬であったろう」と、斉彬がヒ素中毒で毒殺されたのではないかと推察しています。
また、海音寺氏は併せて、

「斉彬は政治と研究以外にはほとんど道楽のない人であったが、たった一つ釣魚を楽しんで、よく磯の別邸の前の海に舟を浮かべて糸を垂れ、釣った魚を自ら調理して少量の麹と塩とを混じて蓋物に入れ、居間の違い棚におき、練れて鮨になったところを食べるのが好きであった。だから、置毒することは、さして難事ではなかったはずである」

と、斉彬が作った鮨の蓋物に置毒したのではないかと、具体的な置毒方法についても言及していますが、これは松木弘安こと寺島宗則が明治に入って後、

「公ハ酒ヲ嫌ヒ、茶ヲ嗜マレタリ、或ハ自ラ釣漁セル魚ヲ以テ製セル酒醸ノ鮨ヲ嗜食セラレタリ、然ルニ安政五年戌午ノ夏、之レヲ一日貯ヘ醸シテ食セラレタルノ後、同年七月一二日の比、直ニ下痢ヲ発シ、之レカ為メ十五日後終ニ不治ナリシ」(「寺島宗則記述」『鹿児島県史料 斉彬公史料』第四巻所収)

と語り遺していることから、推測されたようです。
斉彬が鮨を食べて体調を崩したことは、『薩藩維新秘史 葛城彦一伝』にも、「七月九日城市の西南天保山の原に於て、大部隊の練兵を行ひ、磯濱の別館より船を命じ、自ら往いて督し、帰路綸を垂れて獲られたる魚鱠を食し、微しく痢を患へられたるを起因とし」と同様の記述があります。
おそらくこれも寺島の回想を参考にしたものであると言えましょう。

このような斉彬毒殺説については、実際に薩摩を訪れ、斉彬とも面会した経験があるオランダ軍医師のポンペが、自身の回顧録の中で、「まんざら偽りでもないらしいが、侯は毒殺されたのだともいう」(沼田次郎、荒瀬進共訳『ポンペ日本滞在見聞記―日本における五年間―』)と書いており、当時そのような毒殺の噂が流れていたことが分かりますが、斉彬毒殺説を裏付けるような史料は残っておらず、今となっては永遠の謎としか言いようがありません。

今回のドラマの最後では、斉彬の暗殺が井伊直弼の指令であったかのような大オチが付いていましたが、斉彬の周囲は彼を思慕する家臣たちで固められ、常に警戒されていたでしょうから、海音寺氏が指摘するような置毒が果たして可能であったかどうかについては、少し懐疑的にならざるを得ないと個人的には思っています。
ただ、一つだけ確かなことは、それだけ斉彬の死というものは、余りにもタイミングが良すぎたということです。
果たして、今回の大河ドラマにおいて、斉彬はどのような最期を遂げるのでしょうか?
今から興味津々です。

虎寿丸の死について、少し補足事項を書いておきます。

本文中において、虎寿丸の死が鹿児島に伝わったのは、『鹿児島県史料 鎌田正純日記』三と『鹿児島県史料 新納久仰雑譜』一の記述を引用して、嘉永7(1854)年8月14日としましたが、厳密に言いますと、新納久仰の雑譜によれば、その前の8月10日に江戸から急飛脚が到着し、虎寿丸の危篤を知ったとあります。
また、その急飛脚の知らせには、どうやら虎寿丸が既に亡くなっていたことは書いていたようです。
新納は虎寿丸に回復の見込みがないことを知り、「御残念之次第何共難尽筆紙奉存候」と書いています。
おそらく幕府への正式な届出が済んでいなかったため、虎寿丸の死はまだ極秘扱いとされていたのでしょう。
そして、その四日後の8月14日、正式な逝去の知らせが鹿児島に到着するのです。


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虎寿丸の死について、少し補足事項を書いておきます。

本文中において、虎寿丸の死が鹿児島に伝わったのは、『鹿児島県史料 鎌田正純日記』三と『鹿児島県史料 新納久仰雑譜』一の記述を引用して、嘉永7(1854)年8月14日としましたが、厳密に言いますと、新納久仰の雑譜によれば、その前の8月10日に江戸から急飛脚が到着し、虎寿丸の危篤を知ったとあります。
また、その急飛脚の知らせには、どうやら虎寿丸が既に亡くなっていたことは書いていたようです。
新納は虎寿丸に回復の見込みがないことを知り、「御残念之次第何共難尽筆紙奉存候」と書いています。
おそらく幕府への正式な届出が済んでいなかったため、虎寿丸の死はまだ極秘扱いとされていたのでしょう。
そして、その四日後の8月14日、正式な逝去の知らせが鹿児島に到着するのです。

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【2018/03/18 20:46】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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皆さんこんばんは。今回は今年の大河ドラマ『西郷どん』第11~12回の感想です。今まではドラマ5回分の内容を一度に書くのがしんどかったこのシリーズですが、近頃、ついにブログを書く頻度がドラマを見るのに追いついてしまったため、今回は2回分の感想となります。まずはあ
2018/06/08(Fri) 19:02:13 |  Coffee, Cigarettes & Music