今年の1月、これまで幻と言われていた薩摩藩の岡崎屋敷の正確な場所や規模等が判明したとの新聞報道(下記)が出ました。
幻の薩摩藩京都「岡崎屋敷」発見(産経ニュース2018年1月26日)
http://www.sankei.com/region/news/180126/rgn1801260007-n1.html
薩摩藩の京都岡崎屋敷については、鹿児島出身の歴史作家・桐野作人先生が、南日本新聞紙上で連載されていた「さつま人国誌」でも「知られざる京都の岡崎藩邸」と題して取り上げられたことがありましたが(『さつま人国誌』幕末・明治編3に収録)、関係史料が極端に少ないため、その存在自体が幻の藩邸と言われていました。
その岡崎屋敷について、前記の新聞記事に書かれている規模(面積)を補足できる史料があることに気づきましたので、今回はそれを紹介します。
鹿児島県が刊行している史料集に『鹿児島県史料 名越時敏史料』というものがあります。
名越時敏とは、通称を名越左源太と言い、文政2(1819)年生まれの薩摩藩士です。
名越家の家格は薩摩藩内でも高く、寄合の身分で、名越は物頭を務めていましたが、「高崎崩れ」、いわゆる「お由羅騒動」に連座し、謹慎・御役御免となり、最終的に奄美大島への遠島処分を受けました。(西郷が尊敬していた赤山靱負も名越と同じく物頭でした)
その遠島中の名越が奄美大島で記した『南島雑話』は、当時の奄美大島の風土等を知るための貴重な史料としても有名ですね。
その名越が書き残した史料を集めたものが、『鹿児島県史料 名越時敏史料』なのですが、その七に所収されている「自文久三年 至慶応三年 藩達留(名越氏)全」(P400)に、岡崎屋敷について次のよう記述があります。
一、岡崎御屋敷
惣坪五万五千六百拾七坪三合
内、三千三百三拾坪四合五勺四才
右ハ、京都岡崎御屋敷惣坪之内家主より願之訳有之、内書之通御返却相成、村方エ引渡方相済候段申来候、此旨可承向エ可被申渡候、
閏五月 式部
この文書は、慶応元年閏五月に家老・川上式部久美の名で出された達書を名越氏が写しとったものだと思いますが、とても注目すべきことが書かれています。
薩摩藩の京都岡崎屋敷は、総坪数「五万五千六百拾七坪三合」であったが、その内の「三千三百三拾坪四合五勺四才」を家主からの願い出により、村方へ返却することになり、その引き渡しが済んだとあるからです。
つまり、元々薩摩藩の岡崎屋敷の規模は、「五万五千六百拾七坪三合」であったということです。
前記の新聞報道によると、発見された地図には、岡崎屋敷の面積が「凡 五万二千二百拾坪」と記載されているようですが、それは前述の川上式部の達書にあるとおり、約三千三百坪の土地を慶応元年閏五月に家主に引き渡していたからだと言うことが、この史料により分かります。
つまり、地図に記載のある坪数に関しては、実数値に近いものだということが裏付けられたというわけです。
岡崎屋敷の全容が一歩ずつ明らかになっていくのは、大変ワクワクしますね。
また、何か発見があれば書き込みたいと思います。
幻の薩摩藩京都「岡崎屋敷」発見(産経ニュース2018年1月26日)
http://www.sankei.com/region/news/180126/rgn1801260007-n1.html
薩摩藩の京都岡崎屋敷については、鹿児島出身の歴史作家・桐野作人先生が、南日本新聞紙上で連載されていた「さつま人国誌」でも「知られざる京都の岡崎藩邸」と題して取り上げられたことがありましたが(『さつま人国誌』幕末・明治編3に収録)、関係史料が極端に少ないため、その存在自体が幻の藩邸と言われていました。
その岡崎屋敷について、前記の新聞記事に書かれている規模(面積)を補足できる史料があることに気づきましたので、今回はそれを紹介します。
鹿児島県が刊行している史料集に『鹿児島県史料 名越時敏史料』というものがあります。
名越時敏とは、通称を名越左源太と言い、文政2(1819)年生まれの薩摩藩士です。
名越家の家格は薩摩藩内でも高く、寄合の身分で、名越は物頭を務めていましたが、「高崎崩れ」、いわゆる「お由羅騒動」に連座し、謹慎・御役御免となり、最終的に奄美大島への遠島処分を受けました。(西郷が尊敬していた赤山靱負も名越と同じく物頭でした)
その遠島中の名越が奄美大島で記した『南島雑話』は、当時の奄美大島の風土等を知るための貴重な史料としても有名ですね。
その名越が書き残した史料を集めたものが、『鹿児島県史料 名越時敏史料』なのですが、その七に所収されている「自文久三年 至慶応三年 藩達留(名越氏)全」(P400)に、岡崎屋敷について次のよう記述があります。
一、岡崎御屋敷
惣坪五万五千六百拾七坪三合
内、三千三百三拾坪四合五勺四才
右ハ、京都岡崎御屋敷惣坪之内家主より願之訳有之、内書之通御返却相成、村方エ引渡方相済候段申来候、此旨可承向エ可被申渡候、
閏五月 式部
この文書は、慶応元年閏五月に家老・川上式部久美の名で出された達書を名越氏が写しとったものだと思いますが、とても注目すべきことが書かれています。
薩摩藩の京都岡崎屋敷は、総坪数「五万五千六百拾七坪三合」であったが、その内の「三千三百三拾坪四合五勺四才」を家主からの願い出により、村方へ返却することになり、その引き渡しが済んだとあるからです。
つまり、元々薩摩藩の岡崎屋敷の規模は、「五万五千六百拾七坪三合」であったということです。
前記の新聞報道によると、発見された地図には、岡崎屋敷の面積が「凡 五万二千二百拾坪」と記載されているようですが、それは前述の川上式部の達書にあるとおり、約三千三百坪の土地を慶応元年閏五月に家主に引き渡していたからだと言うことが、この史料により分かります。
つまり、地図に記載のある坪数に関しては、実数値に近いものだということが裏付けられたというわけです。
岡崎屋敷の全容が一歩ずつ明らかになっていくのは、大変ワクワクしますね。
また、何か発見があれば書き込みたいと思います。
| ホーム |