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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
今回のクライマックスは、西郷と篤姫のラブロマンスでした。
篤姫が西郷に対して、「このまま私を連れて逃げておくれ……」と言った時、「もちろんです」と、思わず真顔で独り言をつぶやいた私がいました(笑)。
時代の風潮でしょうか、最近は大河ドラマもほんとエンタメ色が強くなりましたね。
たまに韓流時代劇を見ているような気分になります(笑)。

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(篤姫の故郷・今和泉島津家屋敷跡)

今回のドラマでは、安政2(1855)年10月2日の夜に生じた大地震が描かれていました。
いわゆる「安政の大地震」と呼ばれるものです。
北原糸子『地震の社会史 安政大地震と民衆』によると、この地震による死者は4,293名、負傷者2,759名、倒壊家屋は14,346軒とあり、いかに巨大地震が江戸を襲ったのかが分かります。
昨今では阪神大震災、東日本大震災と未曾有の災害が生じましたが、このような歴史を見せられると、やはり日本は昔から地震大国であったということを改めて認識させられますね。

さて、「安政の大地震」ですが、『鹿児島県史料 斉彬公史料』第二巻に「江戸大地震ノ事実並布達」(以下、「江戸大地震ノ事実」と略)という文書が収められており、そこには地震当日の薩摩藩邸内の様子やその被害状況等が詳述されています。
同文書には、

「江戸大地震、加之各所ニ出火、其惨状筆舌ニ述ヘ尽スコト能ハス、芝本邸ノ御式台大御書院ヲ初メ、御殿ノ内外諸局長屋等破壊シ、圧死・負傷者モ寡ナカラス」

とあり、この大地震により、薩摩藩邸も甚大な被害を受けたことが分かります。

「江戸大地震ノ事実」によれば、地震が生じた日の夜、斉彬は芝の薩摩藩上屋敷に居たようですが、地震が生じた直後、邸内の庭に避難したようです。
その後、斉彬は庭を立ち退いて馬場へと移り、「布屋ヲ張リ、押巻ノ上ニ御座ナサレ、御湯水サヘ行届カサリシト云フ」とあります。
つまり、今で言うテントのようなものを張り、一時的にそこで過ごしたようですが、押巻とは一体何のことでしょうか?
浅学のため、私はその言葉自体を知らないのですが、おそらく掻巻(かいまき)のことではないかと思います。いわゆる着物状の寝具のことです。
地震直後で物品が不足していたからでしょう、家臣たちは厚手の着物を持ち寄ってそれを敷きつめ、その上に斉彬を座らせたのかもしれません。

また、地震の揺れが少しおさまった時、斉彬は近習たちに対して、藩邸内に死傷者が居ないか、見廻りを命じたようです。
しかし、その斉彬の命を受けた者たちは、死傷者の状況よりも、建物の損傷状況ばかりを報告してきたため、斉彬は次のような言葉を発したと同文書にあります。

「家ノ破壊ハ修造スルニ仔細ナシ、行キ廻ラスルハ死傷ヲ調ヘンカ為ナリ、大切ナル人軽我アリテハ不憫ナルカ故、其救助療治ニ怠ナキコソ肝要ナリ」

つまり、「建物の損壊などはどうでも良い。壊れたら直せば良いだけだ。お前たちに見廻りを命じたのは、死傷者を調べるためだ。大切な人たちに怪我などあっては大変なので、まずはその救助・治療にあたることの方が大事だ」と斉彬は言ったのです。
さすがは斉彬ですね。こういう逸話からも斉彬の人柄がうかがい知れます。

また、「江戸大地震ノ事実」には、他にも斉彬の聡明さを示す逸話が記されています。
例えば、大地震が起こる前、ある学者が「江戸市中の井戸水に塩分が多く含まれている。これは地震の予兆だ」と主張していることを知った斉彬は、「如何ニモ震災ニテモアラン、晴雨計ノ度ニ顕ハレタリト、予メ心スベシ」と言って、あらかじめ避難用の布屋等を準備させていたというのです。
さすがに晴雨計(いわゆる気象観測用の気圧計)の数値だけで地震を予見できたとは思えませんが、贔屓目に見れば、西洋の文物を好み、常日頃からそれを考究していた斉彬だからこそ、何か感ずるものがあったのかもしれません。

また、斉彬は地震直後から頻りに高輪邸の様子を気にしていたようです。
前回の『西郷どん』でも描かれていましたが、高輪邸には父の斉興が居たからです。
「江戸大地震ノ事実」には、斉彬は父のことを心配し、高輪邸に三、四回使者を送り、斉興の無事を確認すると安心したとあります。
『西郷どん』では両者の対立ばかりが全面的に描かれていますが、やはり親子は親子、切っても切り離せない間柄なのです。

さて、ここで西郷に話を移しますが、今回のドラマにおいて、西郷は自ら身体を張り、地震から篤姫を守りました。
そしてラブシーンがあったわけですが、それはさて置き、実は西郷本人ではありませんが、地震の当日、薩摩藩邸内でこれと似たようなことがあったようです。
安政二年「総覧」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第二巻所収)の10月2日の条には、

「夜江戸大地震及ヒ出火、公其他御夫人御子方等一同庭中ニ御避難、御広鋪御用人小森新蔵ハ御夫人ヲ背負ヒ難ヲ避ク」

とあり、御広敷御用人の小森新蔵が、斉彬の夫人(誰でしょうか?)を背負い、地震の難から避けたと記録されています。

『職掌紀原』(鹿児島県史料集6)や『鹿児島県史』第二巻によると、御広敷御用人とは、元は奥家老や納殿代官、納殿役人と呼ばれていた役職で、いわゆる奥向きの御用を務めていた役職だったようです。
確かに、藩主の寝所近くに控えていた役人しか、斉彬の夫人を背負い邸外に脱出することは出来なかったことでしょう。

ちなみに、この小森新蔵という名前を聞いてピンときた方は立派な西郷通です。
鹿児島県いちき串木野市の羽島、ここは後年「薩摩藩英国留学生」と呼ばれる留学生たちがイギリスへ向けて旅立った港町としても有名な場所ですが、そこに万福池と呼ばれる灌漑用のため池があります。
若き日の西郷が郡方書役助を務めていた頃、このため池の造成に携わったという逸話が遺されているのですが、その時の郡奉行が小森新蔵と言う人物でした。
長谷場純孝『西郷南洲』には、次のように書かれています。

「先生が此郡方書役の時代に郡奉行小森新蔵氏に従って日置郡串木野郷字羽島萬福の溜池工事に出張し居られし際、著者の祖父は串木野郷の年寄役を勤め、終始其工事を監督し居たり」

同書によると、著者の長谷場純孝の父・藤蔵は、西郷と年齢が近く、実際に交際もあり、西郷が長谷場家に宿泊することもあったそうです。
西郷がため池の造成のため、小森と共に羽島まで出張してきたことを裏付ける史料はありませんが、この逸話は割と信用できるものではないかと思います。

ちなみに、小森新蔵という人物は、勝田孫弥『西郷隆盛伝』では、なぜか小の字が無くなって森新蔵という名前になっています。(誤記でしょうか?)
ただ、この万福池の造成に携わった小森新蔵と斉彬の夫人を背負って逃げた小森新蔵が同一人物であったのかどうかについては、実はまだ調べがついていないため不明です。

小森新蔵という人物は、大久保の日記の安政6(1859)年12月15日の条に、「小森新蔵 御趣法方御用人席」と一度だけ名前が出てくるほか(『大久保利通日記』一)、『鹿児島県史料 旧記録拾遺記録所史料二』所収の「薩藩役職補任」によると、「御兵具奉行席」に「御役料米七拾三俵 小森新蔵 文久三亥五月九日」とあります。
また、『諸家大慨』(鹿児島県史料集6)には「藤原姓小森氏は鎌田氏の庶流の由候」とあるので、『鹿児島県史料 鎌田正純日記』をざっと調べてみたのですが、やはり両者は縁戚であったらしく、小森新蔵の名前が出てくる箇所があります。

さらに、『鹿児島県史料 名越時敏史料四』の「常不止集二十四」(名越の日記)には、「小森新蔵殿江戸詰之節子息被相果事国元より申来候時之詠歌」という記述があり、小森新蔵が息子の死を江戸で聞いた時の悲歌が収められています。
また、塩満郁夫・友野春久編『鹿児島城下絵図散歩』(高城書房)を調べると、小森家は上之園町に屋敷があったようで、小森新蔵の先代は小森八左衛門という人物のようです。
この小森八左衛門という人物も鎌田正純日記内に出てきます。

このように小森新蔵の名前が出てくるものをざっと調べてはみたのですが、御広敷御用人の小森と郡奉行の小森を結びつける史料は見つかりませんでした。(手持ち史料だけで調べるのは、やはり限界があります。鹿児島に行きたい^_^;)
果たして、西郷が仕えた郡奉行の小森新蔵と同一人物なのでしょうか?
私は調べきれませんでしたが、ご存じの方は是非ご教授願います。

最後に話が思わぬ方向にそれましたが、村井弦斎『西郷隆盛一代記』には、安政の大地震の際の西郷の武勇伝が次のように書かれています。

「此時吉之助は例の大力を現はし倒れかかりたる柱を支え、或は手に余る長持類を担き出だすなど目醒き働をなしたれば、人々何れも舌を巻き、彼の慶長の大地震に加藤上計頭清正が桃山御殿の働きも之には過ぎしなど語りける」

さすがにこれは大げさ過ぎますね(笑)。
しかし、「例の大力を現はし倒れかかりたる柱を支え」なんてありますので、案外この話から篤姫の救出劇が着想されたのかもしれません。

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【2018/03/25 21:06】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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