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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
『西郷どん』も一週スペシャルを挟んで今回で13回目です。
以前も同じようなことを書きましたが、平成2年の大河ドラマ『翔ぶが如く』に比べると、『西郷どん』は物語の進行が少し遅いように思います。
ただ、『西郷どん』は若き日の西郷に重点を置き、かつ、西郷を取り巻く女性たちにも新たにスポットを当てるというコンセプトの元に、『翔ぶが如く』で濃厚に描かれていたような歴史的な事項よりも、それに関わった人たちの人間模様を描くことに重点が置かれているような気がしますので、このような進行になるのは致し方ないと言えるかもしれません。

ちなみにですが、『翔ぶが如く』の第13回は「正助の布石」というタイトルで、西郷は今回初登場した月照と既に投身自殺をはかっており、後事を託された大久保が囲碁を通じて久光に近づこうと布石を打つ回でした。
前回の放送において、大久保は久光に渡した宝島事件関係書類の中に密かに書を忍ばせ、久光に対して自らの存在をアピールしていたため、大久保が囲碁を通じて久光に近づこうとするエピソードは割愛されるのかと思いきや、大久保の妻・満寿が囲碁教室仲間という驚くべき設定が出てきましたので、囲碁のエピソードも描かれるかもしれません。
ちなみに『翔ぶが如く』では、大久保が満寿から囲碁の手習いを受ける設定になっていましたが、実際の大久保は、青年時代から既に囲碁を嗜んでいたことが、大久保の日記により分かっています。

さて、今回のドラマ後半では、安政4(1857)年5月、約三年四ヶ月ぶりに薩摩に帰国した西郷と大久保の確執と言いますか、二人の気持ちがすれ違う様子が描かれていました。
西郷が大久保を肥後熊本に連れて行こうとしたことに対して、まるで西郷に同情されたかのような扱いを受けた大久保が、余計なことをするなとばかりに怒り、そして反発するシーンがありました。(最後は円満に友情回復でしたが)
少し描き方は異なりますが、平成20年の大河ドラマ『篤姫』においても、西郷が大久保を連れて熊本の長岡監物を訪ねた際、西郷が大久保に席を外すよう促したことから、大久保がそのことを屈辱として受け留めるような演出がありましたね。

一般的に西郷は斉彬に登用され、大久保は久光に登用されたかのようなイメージがありますが、それはある意味誤解で、実際大久保は斉彬時代に西郷と同役の徒目付に任じられています
『大久保利通文書 十』所収の大久保の年譜によれば、大久保は安政4年11月1日に「西郷と共に徒目付となる」とありますが、西郷家の家政上の記録である「万留」(『西郷隆盛全集』第四巻所収)によると、西郷が徒目付に任じられたのは、それより一ヶ月早い同年10月1日のことです。
そのため、大久保の年譜の記述は誤りと言えますが、「西郷と共に」という言葉を重視すれば、二人は同じく10月1日付けで徒目付になった可能性が高いと思われ、身分的に言えば、安政4年当時の二人の間に差があったとは言えません。

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(大久保利通銅像)

しかしながら、安政4年当時の西郷は大久保と違い、既に鹿児島を出て江戸で勤務した経験があり、しかも斉彬の手足となって政治工作にも携わり、既に他藩士との交流もありましたので、政治活動家としてのキャリアという点から言えば、当時の二人には大きな差があったと言っても過言ではないでしょう。
そのような点から、今回描かれたように大久保が帰国した西郷に対し、一種劣等感や嫉妬とも取れるような感情から、西郷が自分のことを見下したと感じ、反発したと捉えられなくもないですが、私は少し違う見方をしています。
当時の薩摩藩内における西郷と大久保の立ち位置や置かれた立場の違いについて、少し違う角度から比較・検討したうえで、これから当時の大久保の心事を読み解いてみたいと思います。

今回、ドラマ内でも描かれていたとおり、西郷が久しぶりに薩摩に帰国したのは安政4(1857)年5月24日のことですが、その翌日、二人の越前藩士が鹿児島城下に入りました。
村田巳三郎(後の氏寿)と安陪又三郎ですが、二人は斉彬の政治上の同志でもあった越前藩主・松平慶永(春嶽)の命を受け、幸吉という従者を伴い、鹿児島を訪れたのです。
そもそもこの二人は、肥後藩士・横井平四郎(小楠)を越前藩に招聘するために遣わされた使者の役目を担っていましたが、慶永からは熊本から足を延ばし、薩摩藩や肥前藩の状況も見聞してくるよう指示されていたようです。
村田の年譜「氏壽年譜」(『関西巡回記』所収)には、

「平四郎此表ヘ参リ呉候様致シ度此使其方エ申付候間早速罷越可致心配候。(中略)且此折柄鹿児嶋佐賀ヘモ参リ、学校台場其他ノ事ヲモ見分致シ候ハゝ可然トノ御事ニテ、嶋津齊彬侯鍋嶋閑叟侯ヘノ御直書ヲ御渡シアリタリ」

とあります。

村田が書いた「西遊日誌」(『関西巡回記』所収)によると、二人は安政4年3月28日に福井を出発し、目的の熊本へ入って小楠と会った後、西郷が鹿児島に帰国した翌日の5月25日に鹿児島城下に到着しました。
その鹿児島滞在中に書かれた「西遊日誌」を読むと、西郷という言葉がたくさん出てくることに気づきます。
例えば、村田が鹿児島に到着して2日後の5月27日の条に、「西郷吉兵衛ヘ紙面遣候所返書有之」とあるのを皮切りに、

 5月晦日「西郷ヘ書面遣ス」
 閏5月2日「西郷ヨリ返書遣ス、夜、西郷氏面会」
 閏5月9日「西郷ヘ手紙贈答」
 閏5月11日「西郷氏相見ユ」
 閏5月12日「夕方西郷ヘ手紙」
 閏5月13日「西郷氏来訪」
 閏5月15日「西郷氏手紙遣シ豚肉多葉粉被送之」 ※多葉粉とはタバコのことです。
 閏5月18日「西郷来ル」

と綴られ、村田が頻繁に西郷と書簡のやり取りを行ない、そして面談していたことが分かります。
しかしながら、その一方、これだけ西郷という言葉が並んでいるにも関わらず、村田が鹿児島に着いた5月25日から閏5月18日までの24日間に、大久保の名前が一切出てきません。

村田は当時将軍継嗣問題で西郷と共に活動していた橋本左内とも親交が深く、薩摩藩と歩調を合わせ連携していた越前藩内の様子や国内外の政治情勢など、貴重な情報を得るには打ってつけの人物であったため、西郷も村田と頻繁に手紙をやり取りし、足繁く彼の元を訪ねて情報を収集しようとしたことは容易に想像出来ますが、その一方で大久保は、そんな村田と一度も面会すらした形跡がないのです。
大久保は西郷と同じ志を抱く同志であり、そして友人でもあります。
西郷と大久保の関係を考えれば、西郷は村田の元に大久保を一緒に連れて行きそうなものですが、不思議なことに西郷が大久保を同行させた様子が全く見られません。

ただ、一度だけ村田が書いた日誌の中に、大久保の名が出てくる箇所があります。
村田が鹿児島城下を去る日の閏5月19日に、「正介子ウチハ扇子朱子スリ物被送之」との記述です。
村田が記した「関西巡回記」には、彼が鹿児島で面会した人たちの名が記されており、その中に大久保の名もありますが、そこには「伊集院ニテ 大久保正介」とだけあります。
つまり、村田が大久保に会ったのは、閏5月19日に村田が鹿児島城下を離れる際のたった一度だけ、大久保が同志たちと一緒に伊集院まで村田らを見送りに来た時だけだったということです。
「西遊日誌」によると、大久保はその時村田に対し、「うちわ」と「扇子」と「朱子の摺物」を餞別として渡したことが分かりますが、村田にとって当時の大久保という人物は、見送りに来てくれた多くの薩摩藩士たちの中の一人に過ぎなかったと言えるでしょう。

以上のように、西郷が帰国していた安政4年5月に鹿児島を訪れた村田の記録を元に考えると、当時の西郷と大久保の差、と言うよりも、薩摩藩内における二人の置かれた立場や立ち位置の違いが明確に浮かび上がってくるように感じます。
そしてまた、西郷が大久保を肥後熊本に連れて行こうとしたことへのヒントが隠されているような気がするのです。

ここからはあくまでも私の推測ですが、西郷は村田に会えたのに対し、大久保は会えなかった。
西郷と大久保の関係性から言えば、西郷は大久保を村田の元に連れて行きそうなものですが、それをしなかった、いや出来なかったと言えるかもしれません。
西郷が安政4年閏5月3日付けで、妹・琴の夫である市来正之丞に宛てた書簡には、「越前藩面会の儀は御世話成し下され誠に有難く」という文言があり(『西郷隆盛全集』第一巻)、西郷が村田と面会できたのは、家老座書役として勤務していた妹婿・市来の導きがあったことが分かります。
同じく西郷の市来宛書簡から察すると、村田らは鹿児島到着後一種隔離された状態にあったようですので、大久保については藩から面会の許可が下りなかったのかもしれません。
当時の薩摩藩内において、大久保の立場は、斉彬の股肱の臣として活動していた西郷とは違い、言わば一薩摩藩士に過ぎません。西郷は大久保を連れて行きたかったかもしれませんが、藩は大久保に対し、越前藩士たちとの接触を認めなかった可能性も考えられます。

また、越前藩士側から考えると、村田にとって西郷は名の知れた政治活動家であり、斉彬の意図を汲み取る寵臣であったことから、積極的に交流すべき相手でしたが、極論を言えば、安政4年当時の大久保は、村田にとって会うに値する人間ではなかったと言えるかもしれません。

以上のようなことから考え合せると、当時の薩摩藩内における西郷と大久保の置かれた立場や扱いは大きく異なっていたと思われ、そのことから大久保が西郷に対して、一種劣等感や嫉妬のような感情を抱き、今回のドラマで描かれたように反発することがあったやもしれません。
しかしながら、大久保という人物の性格を考えると、大久保自身は冷静に自分の置かれた立場をしっかりと認識し、西郷に政治活動家として差をつけられていることを自覚していたのではないでしょうか。

これはあくまでも私の推測に過ぎませんが、西郷が熊本に大久保を連れて行こうとしたのは、通説のような西郷の発案と言うよりも、大久保からの積極的な働きかけがあったからではないかと思っています。
大久保という人物は、目的達成のためには向上心を持って一歩ずつ着実に、地道に努力できる強靭な精神力を持った人です。
そのため、大久保は西郷との立場の違いやその差について、劣等感や嫉妬を抱くよりも先に、「その差を埋めるにはどうすれば良いのか?」ということを考えたような気がします。

以上のように推測すると、大久保は西郷に対し、「向学のため、是非熊本まで一緒に連れて行っていってたもんせ!」と積極的に頼んだと考えた方が、私には大久保らしく思えるのですが、いかがでしょうか。

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【2018/04/08 20:47】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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