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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
近年幕末史では大注目の小松帯刀ですが、彼の履歴について、先日ちょっとした発見をしました。

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(小松帯刀銅像)

小松帯刀と言えば、元は喜入領主の肝付主殿兼善の第三子として生まれ、出でて日置郡吉利郷の領主・小松相馬清猷の継嗣となり、小松家を相続したことは知られています。
小松は幼名を肝付尚五郎と言い、小松家に養子に入った際、小松尚五郎となり、そして小松帯刀へと改名しましたが、尚五郎から帯刀へと改名した時期については、通説では安政5(1858)年3月1日だとされています(「小松清廉帯刀傳」『小松帯刀傳・薩藩小松帯刀履歴・小松公之記事』(鹿児島県史料集21)所収)。

これは「小松清廉帯刀傳」に、「安政五年三月朔日小松帯刀清廉ト改名ス」とあることがその根拠となっており、近著ではその記述を元に、高村直助『小松帯刀』(吉川弘文館、2012)においても、「安政五年(一八五八)三月一日、二十四歳の尚五郎は帯刀清簾と名を改めた」とあり、帯刀への改名を安政5年3月1日としています。

しかしながら、先日、『鹿児島県史料 斉彬公史料』を調べていて気が付いたのですが、小松が尚五郎から帯刀へと改名した時期は、通説の安政5年よりも2年早い、安政3(1856)年であったと考えられます
その根拠ですが、「竪山利武公用控 十」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』四所収)の安政3年2月27日から28日にかけての記述に、

一 小松尚五郎事帯刀と上原彌千母事善蔵と名替之伺

とあり、小松の尚五郎から帯刀への改名伺は、安政3年2月下旬に藩に提出されていたことが斉彬の側近であった竪山の記述で確認できるからです。

「薩藩小松帯刀履歴」(『小松帯刀傳・薩藩小松帯刀履歴・小松公之記事』(鹿児島県史料集21)所収)には、下記のような、藩から下された尚五郎から帯刀への改名許可書が収録されていますが、これには3月1日に改名が御免(許可)されたとあるだけで、年次の記載がありません。

 尚五郎事
  小松帯刀
 右継目養子成之御禮付、願之通名替被成御免候条可申渡候、
  三月朔日 矢五太夫


どのような経緯でこの文書を安政5年のものとしたのかは不明ですが、小松から出された改名伺が安政3年2月下旬に藩に提出されていた事実から考えると、この許可書内にある3月1日は、安政3年だと推定するのが合理的でしょう。(改名伺が2年も放置されるはずがありませんので)

「小松清廉帯刀傳」によると、小松が小松家の養子に入ったのは、安政3年1月27日のことです。
帯刀への改名伺がその一ヶ月後に藩に提出されたことから考えると、おそらく小松家に養子に入るのを期に、小松は帯刀へと改名しようと考えていたのではないでしょうか。
ちなみに、小松は同年3月12日に領地の吉利郷に初入部している事実がありますので、そのことも改名の一つのきっかけとなったかもしれません。

ただ、一点不思議なのは、小松が書いた安政3年3月1日の日記には(『小松帯刀日記』(鹿児島県史料集22))、改名云々のことが全く触れられていないことです。
あくまでも推測ですが、小松としては、小松家に入ったことで改名するのはある意味当たり前のことであり、特段記すべきことでも無いと思っていたのかもしれません。

以上のように、小松の改名時期については、通説より2年早い、安政3(1856)年3月1日であったとするのが妥当であると考えます。

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【2018/04/12 20:00】 | 幕末・維新
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