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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
今回の『西郷どん』ですが、いつぞやのロシアンルーレット以来のぶっ飛びようでしたね。
西郷が井伊直弼に呼ばれ、「自分の手下となれ」と言われるとか、慶喜が西郷と左内を連れて井伊のところに殴り込みに行くなどなど。
『西郷どん』は回を増すごとにエンタメ色が強くなってきていますが、もう少し歴史上の事件を深く掘り下げても良いのではないかと思います。折角の阿部正弘登場も、ほとんど何もしないまま死んでしまいましたから、何だかもったいなかったですね。
また、第14回では、引き続き将軍家定の継嗣問題が描かれましたが、この時期の西郷を描くには、それは避けて通れません。西郷の前半生は、「将軍継嗣問題→斉彬の死→戊午の密勅→月照との入水」という流れとなり、これから前半のクライマックスへと入っていきます。

さて、将軍継嗣問題において、ヒー様こと一橋慶喜を家定の跡継ぎとして推す斉彬ですが、第14回でも描かれたとおり、安政4(1857)年12月25日、幕府に対して提出した建白書の中で、慶喜を将軍継嗣に相応しいと次のように建言しました。

「皇国ノ御鎮護モ弥根深ニ相成可申、勿論御血筋御近キ御方当然ノ御事ニハ御座候ヘ共、斯ル御時節ニ御座候ヘハ、少モ御年増ノ御方、天下人心ノ固メニモ可相成、然ハ一橋殿御事、御器量・御年輩、旁人望ニ相叶可被成奉存候」(「齊彬公米国使節登営事件建言」『鹿児島県史料 斉彬公史料』二所収)

この一文には、斉彬の将軍継嗣問題に対する考え方が端的に述べられています。
つまり、「将軍継嗣は血筋が近い人間であるのは当然のことであるが、この多難な時節柄、天下の人心を得るためには少しでも年長者が望ましい。その点から言えば、慶喜公が、器量、年長、人望の点において最も適任である」ということです。

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(島津斉彬銅像)

また、斉彬は同建白書に、「御臺様御入輿被為在候御事故、偏ニ御出生可奉待上儀当然ニ御座候得共、当時ノ形勢ニテハ、一日モ早キク御養君不被仰出候テハ、難相済御時節ト奉存候」と述べ、「篤姫様が将軍家に輿入れされたので、家定公との間に子が誕生するのを待つのが当然であるが」と前置きし、家定や篤姫への配慮も示していますが、後段では「時節柄、一日も早く養子を決めるべきだ」としています。
斉彬自身は、篤姫が子を産む可能性が低いことを重々承知していましたから、このような言い回しにならざるを得なかったのでしょう。

以上のように、安政4年12月末時点で、斉彬ははっきりと一橋という名前を出し、慶喜を将軍継嗣とするよう建白したわけですが、その斉彬が慶喜と初めて会ったのは、それから遡ること九ヶ月前の安政4年3月27日のことです。
斉彬が同年4月2日付けで、当時福井に帰国していた越前藩主・松平慶永(春嶽)に宛てた書簡には、「扨又廿七日ニ橋公へ初而寛ゝ拝眉」とあり、また、同日付けで斉彬は慶喜の父・斉昭にも書簡を書き送っていますが、そこにも「先日は一橋江罷出、初て寛々ト拝顔仕」とあります(『鹿児島県史料 斉彬公史料』三)。
斉彬はその翌4月3日に江戸を発ち、鹿児島に向けて帰国しています。
つまり、帰国直前に慶喜と初めて面会したわけですが、斉彬としては江戸を離れるにあたり、慶喜の人となりや資質などを直接会って確かめたかったのでしょう。

また、斉彬は慶永に宛てた書簡の中で、慶喜の印象について、「実に早く西城に奉仰候御人物」と、慶喜が将軍継嗣に相応しい人物であると述べていますが、それに加えて、「御慢心之処を折角御つゝしみ御座候様、被仰上候て可然と奉存候」と書いています。
つまり、「慶喜公は少し驕り高ぶるきらいがある。それを慎むよう申し上げてはいかがでしょうか」と、慶喜の欠点を指摘し、慶永にそれを諫めるよう助言しています。
『西郷どん』で慶喜を演じている松田翔太さんは、その少し高慢な雰囲気が出ていて、ハマリ役と言えるかもしれませんね。

さて、斉彬は慶喜と直接会ったことで、彼を将軍継嗣と据えることに確信を持ち、薩摩に帰国したわけですが、その反面、慶喜を擁立するにあたり、斉彬が最も危惧したのは、慶喜の実家・水戸徳川家の評判の悪さであったと言えます。
安政3年から同4年にかけて、斉彬が慶永宛てに発信した書簡を越前藩の記録『昨夢紀事』と『鹿児島県史料 斉彬公史料』を使って少し追ってみると、例えば安政4(1858)年4月2日に送った書簡(慶永からの安政3年11月5日付けの書簡に朱字で返答を記したもの)には、

「先比之一橋之事並に此節御逝去一条にて、水府之事誠大不評候間、(中略)、当時之光景にては水戸え掛り候義は、中々むつかしくと奉存候」(『斉彬公史料』三)

との文言があります。
この「先頃の一橋の事」「この節の御逝去一条」とは、簡単に言うと、水戸家にかかる女性関係のスキャンダルを指しています。

まず、前者の「一橋の事」とは、慶喜の正室・美賀子が自殺未遂をはかった事件のことです。
これは越前藩の記録『昨夢紀事』に詳しく出て来ますが、一橋家の先々代の当主慶壽の正室・徳信院が慶喜と親密な関係にあったことから、その二人の仲を疑った慶喜の正室・美賀子が自殺をはかったとされる一件です。
この件については、斉彬が慶永に宛てた安政3年7月5日付けの書簡に、「一橋刑部卿御簾中之儀去ル十六日御自害可被成處漸ゝ取留ニ相成候由」とあり、当時そのような噂が公然と世間に流れていたことが分かります(『昨夢紀事』一)。

そして、後者の「御逝去一条」とは、水戸藩主・徳川慶篤の正室・線姫(いとひめ)が亡くなったことを指していますが、実はこれも自殺であったという噂があったようです。
また、その自殺の原因は、慶喜と慶篤の父・斉昭が彼女に手を出したことにあったと噂されていました。
これも前出の安政3年7月5日付けの慶永宛て斉彬の書簡に、「老公之事此節大奥向評判ニ而は線姫君と如何之儀被為在候」と出てくるほか、それを受けて宇和島藩主・伊達宗城の慶永宛て書簡にも、「老龍公線君と密接云々麟兄より御伝聞の由」(『昨夢紀事』一。麟兄とは斉彬のこと)との文言が出てきます。
宗城曰く「密接」とは、つまり斉昭と線姫が不義密通の仲であるということです。
ただ、この噂について斉彬は、「老公之事悪様ニ申度もの有之申ふらさせ候事かと被存候」と、斉昭の評判を悪くするために仕組まれたものではないかと推測しています。

以上のような噂話が真実であったのかどうかは定かでありませんが、ただ、斉昭は昔から女性問題には事欠かない好色の人物として世間に知られていましたので、大奥ではその破廉恥な話が真実だという風に受け取っていたのでしょう。
第14回では、家定の実母・本寿院が、斉彬が斉昭の子の慶喜を将軍継嗣にと建白したことについて激怒していましたが、それは斉昭の女性問題が要因の一つとなっていたと言えます。
『徳川慶喜公伝』では、このような大奥の斉昭嫌いについて、斉昭が質素倹約を旨とする上書を出し、それを大奥にも適用するよう求めたことがあったことから、大奥が斉昭のことを忌み嫌うようになったと説明されていますが、実際それは表向きのことであり、その裏には、こうした水戸家にまつわる一連の女性に関わるスキャンダルな事件が、大奥の水戸家に対する心象を大きく悪くし、慶喜への拒否反応を生んでいたとも言えるのです。

このように水戸家関連のスキャンダルが立て続けに生じていたことから、斉彬は当面の間、慶喜を将軍継嗣とする運動を控えるべきだと考えていたようです。
安政4年3月15日付けの慶永宛て斉彬の書簡には、

「折角申出候て不都合之節は、却て以後之障にも可相成と、小子は勿論藍山君同様に被存候間、(中略)、其上に水老・当公共何分評判不宜、申出候て調候とも、紀之方必定と被存候間、今少し様子見合候方可然哉(慶喜公を将軍継嗣にと申し出ても、それが不都合となれば、却って後に支障が出ます。これは宇和島の伊達公も同じ考えです。(中略)その上、水戸の老公・斉昭と藩主・慶篤の評判が共に良くないため、今将軍継嗣のことを申し出ても、紀州藩の慶福に決まるのは必定ですので、今少し様子を見合わせた方が良いのではないでしょうか)」

とあります。

また、その二週間後の同年3月29日付けの慶永宛て斉彬書簡には、「御當人様もつほねも能ヽ相心得居候事ながら無理被仰出候而も詮立候事有間敷却而害ニ相成候而ハ不宜との御模様ニ御座候まヽ御忠志之處ハ御同意候得共今少し御猶豫之方却而可然と奉存候」(『昨夢紀事』二)とあり、「篤姫や局(『西郷どん』で言えば幾島ですね)も、現時点で無理に慶喜を推すことは却って害となることを分かっています。慶永公の御忠心は理解できますが、慶喜公を推すことについては、少し猶予してはいかがでしょうか」と斉彬は書いています。

さらに、斉彬は同書簡の中で、慶永に対し、次のような助言をしています。

「折角之御忠志も時節あしき節被仰候而ハ同列共にも如何存候も難計り却而一橋貴君之御為にも不相成、(中略)、又爰ニ大秘之事ハ水老公と余り御文通等無之御遠ヽしき方天下之為かと被存申候委細筆紙ニ難申上西城之為にも第一可然と奉存候」

斉彬は、「今、慶喜公擁立に動くのは時期が悪く、慶喜や慶永のためにはならない。また、極内密に申すと、斉昭と手紙のやり取りなどの交際は余りしない方が良い。手紙には書きにくいが、天下のため、そして将軍継嗣のためにも、それが専要かと思う」との趣旨を述べています。
つまり、慶喜を将軍継嗣にするためには、評判の悪い水戸家、特に斉昭や慶篤から、慶喜を切り離すことが必要だと斉彬は考えていたということです。
そしてまた、慶永にも斉昭と疎遠になるよう勧めたのは、慶永の慶喜擁立運動には、斉昭が陰で糸を引いているとの噂が絶えなかったからでしょう。

これまで書いてきたとおり、斉昭は大奥の受けが非常に悪く、また、幕閣も彼の存在を煙たがっていましたので、将軍継嗣問題を円滑に進めるためには、慶喜擁立と斉昭とは無関係であるということをアピールしておいた方が良いと斉彬は考えていたことが分かります。
安政4年7月29日付けの慶永宛て斉彬書簡でも、「老公と御遠々敷相成候方、却て御双方之御為と存申上候(斉昭と距離をおいた方が双方のため)」とあり、斉彬は慶永に対し、再度斉昭と距離を置くように助言しています。

以上のような斉彬の書簡から見ると、将軍継嗣問題における斉彬の悩みの種は、斉昭と慶篤といった水戸藩関係者にあり、水戸家の評判が悪い今、当面の間は慶喜擁立運動を控えるべきだと考えていたことが分かります。
また、その斉彬の意を受け、慶永自体も、「兼而之御示教ニ従ひ火急ニ周旋は不致復又鎮静ニ機會を相俟ち可申考ニ御坐候」(安政4年10月16日付け斉彬宛書簡。『昨夢紀事』二)と書いており、その意見に従おうとしていたことが分かります。

しかしながら、安政4年12月に入ると、斉彬はその態度を大きく変え、幕府に対して公然と「一橋慶喜公を将軍継嗣に」との建白書を提出しました。
このように斉彬が方針転換したのは、第14回でも描かれたように、やはりハリスの登営一件の影響が大きかったと言えるでしょう。
おそらく斉彬は、水戸家の評判を気にしているような、そんな悠長なことを言っている場合ではないと考え、将軍継嗣問題に本気で取り組む覚悟を持ったものと思われます。

ちなみに、斉彬は建白書の提出と同時に、老中筆頭の堀田正睦に対して書簡を送っていますが、その中で「一橋殿御事は、老卿とは、御人物抜群御相違ニて、此儀は乍憚御請合申上候」と、「慶喜は斉昭とは違って抜群によく出来た人物です。そのことは私が保証いたします」と述べています(『斉彬公史料』三)。
この斉彬の書簡からも、斉彬にとって斉昭という人物は、将軍継嗣問題において障害以外の何者でも無かったことが分かります。

最後に、このように将軍継嗣候補として、斉彬や慶永の期待を一身に担った慶喜ですが、彼自身はそのことをどう思っていたのでしょうか。
『昨夢紀事』二の安政4年12月23日の条に、越前藩士・橋本左内が慶喜の腹心・平岡円四郎を訪ねた際、平岡は当時の慶喜の心境について、次のように語ったと記されています。

「我等不肖にして大任には堪えられず、且つ我等を西城などと申す沙汰もありとか聞きし、左あらんには唯我等が命期を短うする迄の事にて、天下のため何の益があらん。我等が如き不才にて斯く傾きかたなる天下の如何かわなるべき、心を苦しめ思いを焦して死するより外はあるべからず」(字句を読みやすく直して抜粋しました)

この『昨夢紀事』の記述は、『徳川慶喜公伝』でも引用されており、慶喜自身に将軍職就任への欲は無かったとされていますが、その慶喜を擁立した慶永は、そうは見ていなかったようです。
慶永は自身の回顧録『逸事史補』の中で、

「慶喜公は、衆人に勝れたる人才なり。しかれども自ら才略のあるをしりて、家定公の嗣とならん事を、ひそかに望めり。この事は、余の想像論なれども、我信ずる所にして、決て疑を入れざる所なり」

と語っています。
『徳川慶喜公伝』は、「慶喜公は幕府の衰亡の兆しを看破していたので、将軍職を受けるつもりは無かった」という趣旨で固められていますが、さすがにそれは後付けの説明に過ぎないでしょう。
慶喜としては、一人で火中に栗を拾う気はなかったかもしれませんが、やはり一種将軍職に魅力を感じていたことは、否定できないのではないでしょうか。

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【2018/04/17 16:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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