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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
大河ドラマ『西郷どん』も、いよいよ前半の佳境に入ってきました。
大老・井伊直弼が誕生し、そして将軍継嗣がヒー様ではなく紀州徳川藩の慶福に決定するなど、薩摩藩にとって事態は悪化の一途を辿ったことから、薩摩に帰国した西郷が斉彬に向かって、京都への出兵を促すシーンが今回の大きな見どころでした。

この斉彬の率兵上京計画については、古来から諸説あり、根本的に斉彬が出兵するつもりであったのかどうかさえ懐疑的に捉える向きもありますが、明治32年に刊行された『照国公感舊録』には、

「西郷隆盛密命を帯びて関東の動静を窺ひしが、翌年五月此帰国、一日公に磯の別邸に謁し、密かに関東の動静を演述し、井伊掃部頭直弼候大老となり、威権赫燿之に抗する者なく、有為の諸侯も屏息す。勤王の策、将に尽き、亦他に施すの道なしとて失望大息して其実勢を陳べたりしに、公之を聞き従容として色を動かさず。時勢斯くなりては致し方なしとて外に策なきやと問われしに、西郷応て曰く、今日の極に及んでは別に策なし。止むなくんば姑く御思望止めさせられずば叶ふまじと。公曰く、否予は猶ほ一策の在るあり。予が策を云へば、此上は緩手段に仍り難し。予親ら精兵三千を率いて京洛に出で、禁闕を守護して、諸侯をして其去就を決せしめば、天下の大勢茲に定まらん」(読みやすくするため、旧字をなおし、句読点を入れました)

とあり、「万策尽きた」と嘆く西郷に対して、斉彬が秘策として出兵することを打ち明けています。
今回の『西郷どん』では、その立場が逆になり、斉彬が西郷に促されて、出兵の決意を固めていましたが、この『照国公感舊録』に代表されるように、斉彬が京都への出兵によって諸藩を糾合し、幕府と武力で対峙しようとしたという説に関しては、今も昔も否定的な意見が多いと言えます。

例えば、勝田孫弥『西郷隆盛伝』では、「斉彬は最早尋常の手段を以ては国内の塵埃を掃攘し、公武合体、国家統一の精神を貫く能はざるを看破し、自ら兵を率いて京師に出で、断然勅命を以て幕政を改革し、以て公武一和の実を挙げんと欲したり。(中略)当時斉彬大軍を率いて京師に出で、王室を守護して諸侯の去就を決するの精神ありしが如く世に伝ふるは、蓋し此事実を誤りたるなり」とあり、斉彬の目的とは、幕府との対決ではなく、公武一和のためであったとしています。
今回の『西郷どん』は、この勝田説を基に構成したと言えましょう。

この勝田説を支持しているのが、芳即正『島津斉彬』です。
芳氏は同書の中で、斉彬が幕府と武力対決を決意したとする説に否定的な見解を述べられており、斉彬が西郷に語った一策とは、「朝廷の力を借りて幕府の政策を変更させ「公武一和」をはかろうとしたものであり、京都の意向で朝幕対決となり、「幕府の暴威が朝廷におよびそうなとき」には、出兵もありうることを言い含めたと考えたがよかろう」と書いています。
つまり、斉彬は積極的に京都へ出兵しようとしたわけではなく、また、その目的も「公武一和=合体」(同書からの引用)にあったということです。

また、近著から引くと、松尾千歳『島津斉彬』には、「斉彬は西郷に密命を与え、江戸に向かわせた。なにを命じたかは定かではない。斉彬自ら兵を率いて上京するつもりで、西郷にその準備を命じたといわれている。武力を背景に事態の打開を図ろうとしたのだというような説もあるが、前述のように、斉彬は南紀派の勝利を受け入れていた。対立を蒸し返し、状況を悪化させるようなことを計画していたとは思えない。むしろ、朝幕関係が悪化しつつある状況を憂い、内乱状態に陥らないように、抑止力として兵を送ろうとしていたのではないだろうか」とあり、幕府との武力対峙説を否定しながらも、抑止力としての出兵を考えていたのではないかとしています。

ここで少し整理しますが、この斉彬の率兵上京計画において一番重要な点とは、斉彬が西郷に対して、どのような指示を下したのかということです。
この点については、斉彬や西郷が直接書き記した文書等が何も残っていないため、他の史料等から想像する他ありません。

まず、斉彬が出兵を計画したとされる安政5(1858)年夏、西郷と共に京・大坂で活動していた吉井仁左衛門(後の幸輔、友実)の手記によると、西郷は斉彬から、

「鹿城ヲ発セントスルノ日、齊彬殿密ニ隆盛ニ語テ謂テ曰、事成ラサレハ他ニ一策アリ、自ラ闕ニ詣テ為ス所アラン、汝モ亦臨機入京スヘシ」

との指示を受けていたとあります(「考証 吉井友實手記」『鹿児島県史料 斉彬公史料』三所収)。
この話は、豊後岡藩士で西郷とも交流のあった小河一敏の『明烏(あけからす)』という実歴談にも、吉井の談話として同様のことが記されています。

また、この話を補完するものとして、当時斉彬の腹心の一人であった市来四郎が、明治27年に史談会の席上で語った速記録には、

「吉井友實が言ふ所では三千餘の兵を引ひて出かけると云ふことを西郷が密かに云って聞かせたから、唯々飛び立って愉快として聞いたとの話でござりました」(史談会速記録第二十六輯「島津斉彬公国事鞅掌に関する事実附二十四話」『史談会速記録』(原書房)合本五所収)

とあり、当時の西郷が吉井に対して、「斉彬公は三千の兵を率いて上京する予定」と密かに話したと、市来は語り遺しています。

また、これも有名な文書ですが、西郷が僧・月照と入水後、奄美大島にて潜居中であった安政6(1859)年11月、大久保ら精忠組の同志たちが藩に差し出した「順聖院様御遺志」の文言が出てくる上書には、「菊池源吾(西郷のこと)が斉彬の腹心であったこと」を前置きし、西郷は斉彬から、「萬一モ姦策ニ陥紀州エ西上之義相決候ハ天下之禍乱ト相成候ハ顕然タル事候(焼損)被遊御出馬天朝御奉護可被為在」との命を受けていたと書かれています(『大久保利通文書』一)。
つまり、将軍継嗣が紀州藩の慶福に決まり、天下騒乱の様相を呈せば、斉彬自ら出馬して、朝廷を守護しようとの考えを西郷は斉彬から打ち明けられていたと、大久保たちは書いているのです。

ここで少しだけ苦言を呈しますが、今回の『西郷どん』では、上京した西郷が「もうすぐ殿が京へ登ってこられるぞ~!」なんて大声を張り上げていましたが、本来このような機密事項を軽々しく口にするはずはなく、何だか西郷の品格を下げる演出のような気がしました。
事実、市来四郎はこの率兵上京計画が藩の「一大機密」であったとして、西郷がその計画を話したのは、岩下方平、大久保利通、吉井友実の二、三人に過ぎなかったと書いています(「考証 吉井友實手記」『鹿児島県史料 斉彬公史料』三所収)。
毎回感じるのですが、『西郷どん』で描かれている西郷像は、大きな志を持った情熱ある男であるのは、すごく伝わってくるのですが、何だか人物的に軽すぎるような気がしてなりません。年を重ねるごとに風格が備わってくるという演出なのかもしれませんが……。

閑話休題。
以上のような事実から、斉彬の率兵上京計画は存在したと考えられますが、この出兵計画をいわゆる「5W1H」、つまり「Who(だれが)、What(なにを)、When(いつ)、Where(どこで)、Why(なぜ)、How(どのように)」から考えると、最初の4Wは容易に想像がつきますが、最後のWhyとHowが問題となります。

まず、先にHowについてですが、「斉彬はどうやって出兵しようとしていたのか?」、つまり「斉彬の出兵の名目は何だったのか?」という点です。
これについては、『鹿児島県史』第三巻や前述の市来の談話等に出て来ますが、市来は史談会の席上で、

「齊彬が内命を蒙って守護の為め多数の供方を引連れて上京云々の計畫は此年の八月琉球人を引連れて参府の積でございましたから、其名を以て多数の供方で参府の計畫は確乎とした事でござりまする」

と語り遺しています。
つまり、斉彬は琉球使節の江戸参府を口実(名目)にして、京都への出兵を考えていたということです。

このことは『斉彬公史料』に収められている他の文書でも確認できます。
例えば、『斉彬公史料』三の「参考 寺島宗則自記抄」には、「安政五年戊午齊彬公此年ノ秋琉球人ヲ率ヒテ、東観スヘキニ決シ、其準備アリ」とあるほか、『斉彬公史料』二の「丁巳閏五月御下国之事実」には、「此年八月、琉球王ハ家定公将軍宣下賀慶使ヲ従ヘラレ御参府ノ予定ニテ」と、安政5年8月に琉球王使節が将軍・家定の慶賀使として江戸へ参府する予定であったとし、「然ルニ此回ハ朝廷ノ密命ヲ奉セラレ、其実ハ御滞京、大ニ為スコトアラセラレムノ御計画ナリシ」と書かれています。
つまり、斉彬は琉球の慶賀使と共に江戸に参府する予定であったが、それはあくまでも表向きのことであり、実際は京都に滞在する計画であったということです。
また、『斉彬公史料』三の「江夏干城記事抄」にも、「安政五年ノ秋八月末、琉人被召列御参府ノ賦ニテ、琉球ヨリモ其手当ナリシニ、内実ハ京都迄御出掛ノ御密定」とあり、同様に琉球使節を口実として、斉彬が京都への出兵をはかったとあります。

この琉球の慶賀使については、結局8月になって延期されることが決まり、家老・新納駿河の名でその旨藩内に布告されています。
その達書には、「御国事多端ノ折柄ニ付、琉球人参府ノ儀ハ先被成御差延候旨被仰出候」とあり(「中山王使参府猶予達書」『斉彬公史料』三所収)、琉球使節の参府中止は、将軍家定の病気や異船来航が原因との記述がありますが、7月16日に斉彬が急死したことが大きく関係していることは間違いないでしょう。

以上のような記述から考え合わせると、斉彬は琉球使節の江戸参府を隠れ蓑として、京都への出兵を視野に入れ、計画を練っていたと考えられますが、では斉彬がそこまでして京都へ出兵する目的とは一体何だったのでしょうか?(つまり、Why?です)

冒頭において、『照国公感舊録』の武力対峙説を紹介しましたが、斉彬の京都出兵の目的が幕府と武力で対峙することにあったのかと考えると、やはりそれは懐疑的にならざるを得ません。
芳即正『島津斉彬』において詳しく検証されていますが、斉彬は常日頃から内乱の発生を強く危惧しており、幕府と武力で対峙するような強攻策を取るようには思えないからです。
事実、安政5年6月5日付けで斉彬が近衛忠煕に宛てた書簡の別紙には、「京師近海江異船渡来仕候ハヽ、防御之儀相心得候様尊命之趣奉承知候、此義乍恐關東嫌疑御座候間、充分之手当は御請難申上、勿論御奉公之事故可怖訳ニは無御座候得共、か様之事より内乱之媒ニも相成候間被聞食置度」とあり、「京摂への出兵は幕府の嫌疑をこうむり、それが内乱のきっかけともなりかねないので、お引き受けすることは出来ない」と述べています。

しかしながら、斉彬は同書簡の中で、次のように続けています。

「尤様子ニより難差置儀到来仕候ハヽ、早速御奉公可仕心底に御座候間、御内々奉言上候」

つまり、「差し置きがたい事態(容易ならざる事態)が到来すれば、直ぐにでもご奉公に駆けつける所存でおりますので、その旨内々に申し上げます」と、斉彬は書いているのです。

私は、当時の斉彬の考えを表現するのは、この近衛に宛てた一文に尽きるのでは無いかと考えています。
この文言は単に摂海の異船対策だけを意味しているのでは無く、これ以上朝廷が幕府に大きな圧力をかけられるような緊急事態が生じれば、京都へ出兵する考えがある、という斉彬の内心が表現されているのではないかということです。

斉彬がこの近衛への書簡を書いた二日後の6月7日、西郷が薩摩に帰国しました。
そこで斉彬は、今回の『西郷どん』でも描かれたように、西郷から将軍継嗣が紀州の慶福に決まったことを聞かされます。
そして、その4日後の6月11日、斉彬は再度近衛忠煕に対して書簡を書いていますが、その中に「以後関東より之申上ニ相成候て、万々一御不満之御都合ニも御座候ハヽ早々伺度奉存候」との文言があります。
つまり、斉彬は近衛に対して、「以後、幕府からの申し出について、万一不満や不都合があれば早々に伺いたい」と述べており、それは前述した6月5日の近衛宛書簡内の「差し置きがたい事態が到来すれば、直ぐにでもご奉公に駆けつける所存」と繋がっているように私は考えます。

DSCF1055.jpg
(斉彬が死の直前まで兵を調練した陣屋跡)

以上のようなことから考えると、前述の松尾千歳氏の「抑止力のための出兵」という言葉が、当時の斉彬の考えを表現するのに一番適している言葉のような気がします。
あくまでも私見ですが、大老・井伊直弼を中心とした幕府の圧力が日に日に強まっていく現状を憂慮した斉彬は、近衛に対して、朝廷に不都合なこと、つまり容易ならぬ事態が生じた場合は早々に報告して欲しいとの書簡を送ると共に、西郷に対しては、

「これ以上、幕府の大きな圧力が朝廷にかかるようであれば、琉球使節の参府と併せて、兵を率いて上京することも考えている。そのことを暗に含んだ上で行動せよ」

と指示して、西郷を送り出した。
斉彬の目的は、後年島津久光が行ったような、幕政改革の詔勅を得るためと言うよりも、まずは公武間の周旋を目的として、上京しようとしたのではないかと考えます。
そこに斉彬が兵を引き連れて行こうとしたのは、やはり幕府と政治的な駆け引きをする以上、ある程度の武力による背景が必要だと考えたからではないでしょうか。
当時の斉彬は、幕府との交渉がこじれた場合、幕政改革の詔勅を得ることも視野に入れていたかもしれませんが、その前にまずは公武周旋に力を注ぐことを目的としていたような気がします。

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【2018/04/22 21:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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