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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
(第16回を振り返って)
前回で斉彬が亡くなり、巷では「斉彬ロス」なんていう言葉もちらほら出てきているようですが、確かに渡辺謙さんの斉彬は存在感がありましたね。
大河ドラマ『翔ぶが如く』での加山雄三さん演じる斉彬は、江戸育ちの上品な、非常に凜とした斉彬で私は好きだったのですが、渡辺さんは新たな斉彬像を作り上げたと言えるかもしれません。

さて、今回は非常に慌ただしい展開でした。「戊午の密勅」から「安政の大獄」まで一気に描かれましたから。
前回に描かれた斉彬の死も「ナレーション死」(通称「ナレ死」)なんて世間で騒がれていましたが、西郷の濃密な全生涯を描くためには、この辺りでそろそろ駆け足にならざるを得ないのでしょう。
毎度『翔ぶが如く』と比べるのは何ですが、同ドラマの第16回は「吉之助帰る」で、西郷は奄美大島から帰還しています。『翔ぶが如く』でも、話を端折ってると感じることがあったくらいですから、『西郷どん』はどのくらい端折られるのだろう? と今から戦々恐々としています……。

そして、また少しだけ苦言を呈しますが、『西郷どん』でもう少し西郷の政治活動を描いて欲しいなと思います。
これまで描かれた西郷って、まともに政治活動をしていないと思いませんか?
磯田屋でヒー様と交遊したり、諸藩の役人を接待したり、左内と「橋公行状記」を写したり、井伊のところに殴り込みなんぞはしましたが、斉彬の指示を受け、使者として諸藩に出向き、諸藩士らと交際するなど、政治的な活動をしている姿は、ほとんど描かれていないように思います。
『西郷どん』における西郷は、とても人懐っこい性格で、誰からも愛されるキャラクターであることは伝わってくるのですが、人物の重みをイマイチ感じることが出来ないのは、こんなところにも原因があるのかもしれません。

(京坂における西郷の動き)
さて、今回はドラマで描かれた内容とは、少し異なる視点から始めたいと思います。
ドラマでは全く触れられませんでしたが、勝田孫弥『西郷隆盛伝』によると、安政5(1858)年7月14日、西郷は同じ薩摩藩士の吉井仁左衛門(後の幸輔、友実)と共に京都に入り、当時有志たちの輿望を集めていた梁川星巌を訪ねています。
斉彬の命を受け、6月18日に鹿児島を出発し、7月7日に大坂に到着した西郷は、当時大坂に居た吉井と共に、大坂城代の土浦藩主・土屋寅直の公用人であった大久保要人(かなめ)を訪ね、そこで関東(幕府周辺)の形勢について詳しく話を聞くとともに、今度は京都の情勢を探るため、吉井と一緒に上京したのです。
小河一敏の『明烏(あけからす)』によれば、江戸から伏見に下ってきた薩摩藩士・伊地知竜右衛門(後の正治)も二人に同道したようです。
吉井も伊地知も若い頃からの西郷の友人であり、同志でもありますが、『西郷どん』には登場しませんね。特に西郷と吉井は爾汝の交わりであったと伝えられていますので、登場しないのはとても残念な気がします。

話を戻すと、勝田孫弥『西郷隆盛伝』によると、星巌の寓居には、偶然、頼山陽の子の頼三樹三郎や長州藩の大楽源太郎といった、いわゆる志士と呼ばれる人たちも集まっていました。
そこで星巌は西郷らに対して、「今や国家危急の時に瀕せり。聞く、不日井伊大老自ら京師に上り、主上を要して関東に移し奉らんとす」と語ったと同伝にあります。
この星巌宅での会合については、『水戸藩史料』にも同様の記載があります。「星巌曰ク、兼テ関東ヘ間諜ヲ出シ置キシニ、不日井伊閣老上京、主上ヲ要シテ彦根ニ移シ奉ントノ確報アリ」とあり、同史料では「井伊大老は天皇を井伊家の本拠である彦根に移すつもりだ」と語ったとあります。

この井伊大老の孝明天皇遷座計画について、勝田孫弥『西郷隆盛伝』は、「当時通信の便利ならざる上に、亦幕府其政務を秘密にしたるを以て、動もすれば流言百出、事実の真相を詳にすること能はず。故に間部閣老の上京を誤聞して井伊大老の入京となし」としており、老中・間部詮勝の上京を誤聞したものだったと解釈していますが、当時京坂に集まっていた諸藩の有志たちは、この星巌の言葉を真実と受け止め、朝廷に大きな危機が迫っていると考えていたのです。

このように、京都は風雲急を告げる事態となっていたため、西郷は斉彬に対して、その状況を報告する書簡を送ったと諸書にあります。
例えば、勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、「隆盛は即日具さに関東の事情、諸藩の形勢を認め、之を斉彬に報せり」とあり、また、『水戸藩史料』には、「隆盛終夜一封ヲ認メテ斉彬君ニ贈ル(是則京師云云切迫故ニ東行ヲ止メ滞京スル等ノ書翰ナリ。其書鹿城ニ至レルヲ斉彬君既ニ逝去ノ後ナリシトゾ)」とあり、西郷が送った書簡は、斉彬の死後に届いたと書かれています。
この西郷が斉彬に送ったとされる書簡については、現存しておらず、どのようなことが書かれていたのかを知るすべはないのですが、『鹿児島県史料 新納久仰雑譜』二の中に、その西郷書簡の内容の一端を知るための手がかりとなる記述があります。

(西郷書簡と久光の反応)
『新納久仰雑譜』とは、当時薩摩藩家老の職にあった新納久仰(駿河)の覚え書き兼日記のような史料ですが、同雑譜の安政5(1858)年7月25日、つまり斉彬が逝去してから9日後の条に、「今日出勤、八ツ過退出、夫ヨリ御用有之左衛門殿一所ニ周防殿へ参上、極々重キ御用談ニテ七ツ過キ御暇イタシ」とあり、午後二時過ぎに勤務を終えた新納が、左衛門こと当時筆頭家老であった島津下総と一緒に、周防こと島津久光のところへ行き、午後四時過ぎまで要談したと書かれています。
また、新納の記述には、「今日周防殿ヘ参上之御用ハ、彼方ヨリ被召呼候事ニテ」とあることから、二人は久光に呼び出されたことが分かりますが、その要談の内容について、新納は次のように書き留めています。

「公辺御役方並ニ大々名方ト京都之御趣意齟齬イタシ、至テ不容易時宜成リ立居候哉ニ、京都伏見辺滞在之御徒目付西郷吉兵衛極内御側向ヘ申上越候御書付弐通御見セ被成、段々御内談致承知、誠ニ以当惑之次第也、就テハ爰元之儀モ何様手当有之可然哉、更ニ以不能愚慮心痛之事共也」

この記述から推察すると、久光は下総と新納の二人に対し、西郷から送られてきた極内密の書簡二通を見せ、幕府の閣僚並びに大藩の大名と朝廷との考えが齟齬をきたしており、京都はいたって容易ならざる事態に陥っていることを告げ、「今後どのようにするつもりか?」と、二人に対して問うたのでしょう。
新納の書きぶりから察すると、新納自身は当惑の色を隠せず、また、特に良い方策も浮かばず、心を痛めていた様子が分かります。

おそらく、久光が下総と新納に見せた二通の西郷書簡とは、前述の西郷が斉彬に宛てた書簡と考えて、ほぼ間違いないでしょう。
宛名はもちろん斉彬本人ではなかったでしょうが、「京都伏見辺滞在之御徒目付西郷吉兵衛」との文言から、西郷が京都に滞在していた時に発信された書簡であることが分かるからです。

また、久光が新納と下総を「極々重キ御用談」があると言って呼び出したのは、その西郷書簡に、京都の緊迫した状況に加えて、容易ならぬことが書かれていたからではないでしょうか。
つまり、前回書きました斉彬の率兵上京計画についてです。
一般的に、西郷が京都から発信した書簡は、斉彬に対して率兵上京を求めたものであったと伝えられていますが、この時の久光の言動から察すると、西郷の書簡には、一刻も早い京都への出兵(率兵上京)を促す文言があったものと推察できます。

しかし、その率兵上京計画の生みの親である斉彬は既に亡くなっています。
斉彬から後事を託された久光は、その西郷の要求に対し、戸惑いを感じたであろうことは想像に難くありません。
久光が筆頭家老の島津下総と新納を呼び出したのは、斉彬が計画していた率兵上京をどうするか、いや、斉彬亡き今それをどう収束するか、という点を相談したかったからではないかと、私は推測します。

結局、斉彬が急逝した今となっては、未だ何の権力も持たない久光が、その率兵上京計画を引き継ぎ、それを実行に移すことが出来るはずもなく、久光としては、朝廷に危機が迫っている現状を知り、そしてそのことを憂いながらも、それを看過し、薩摩藩の出兵は中止せざるを得ない状況にあったと言えます。
あくまで想像ですが、斉彬亡き後、又次郎こと藩主・茂久(後の忠義)を支えるべき重職にある下総や新納が、何の対策も持っていなかったこと、そして自らが何の動きも取ることが出来なかったことに対して、久光は歯噛みする思いでいたかもしれません。

後年、久光が斉彬の遺志を受け継ぐ形で、率兵上京計画を強力に推し進めようとしたのは、こういう忸怩たる思いを経験したことにあったと考えるのは、少し私の想像が過ぎるでしょうか?
また、久光が率兵上京計画を実行するにあたり、西郷を奄美大島から召還することを決めたのは、久光自身が西郷の書簡、つまり率兵上京計画に関して記された書状をこの時読んでいたことが決め手の一つとなったと考えるのは、もっと想像が過ぎると言えるかもしれません。
しかしながら、この時久光が西郷の書簡を読んだことが、久光が西郷のことを知る一つのきっかけとなったことは想像に難くありません。

(斉彬の死と西郷)
このように薩摩藩内は、斉彬の死によって、全ての計画を白紙に戻さざるを得ない状況となっていたのですが、京坂で活動した西郷がそのことを知る由もありません。
西郷が斉彬の死を知ったのは、7月27日のことでした。
斉彬の訃報を受けた西郷の落胆は、想像するに余りあります。西郷は京都清水寺成就院の住職・月照に宛てた手紙の中で、

「船を失い唯孤島にたたずみ候故、如何ともしがたく、ヶ様成る事にいたり尚更残恨千万の儀に御座候(斉彬公という大きな船を失い、私はただ孤島にたたずむような状態で、如何ともしがたく、残念極まりありません)」

と書いており(『西郷隆盛全集』一)、その失意の大きさがうかがえます。
西郷は斉彬の率兵上京計画に全ての希望を賭けていたと言っても過言ではありませんので、そのショックは余りにも大きなものだったと思います。

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(西郷隆盛と月照が密議した採薪亭跡)

そのため、西郷は薩摩に帰り、斉彬の墓前で切腹し、殉死することを考えます。
しかしながら、今回描かれたとおり、月照に諌められ、西郷は再び国事に奔走することを決意するのです。
これは有村俊斎こと海江田信義の口述を元に書かれた西河称『維新前後実歴史伝』にある話です。
同書には、

「和尚慇懃に諭して曰く、公の長逝は、余固より邦家の為めに哀惜に耐へず。而して子が心情の如きも、亦深く了察せり。然れども無常転変は、人生の事なり。一悲一喜、本より期すべきに非ず。今や公は既に逝きぬ。追はんと欲するも及ふことなし。子は今より藩に就き、果して何をか為さんとするや。恐くは公の墓前に哭するの外、他事なかるべし。臣として君の霊前哭するは、義に於て固より好し。然れども公豈人の慟哭を聞て、泉下に瞑目するものならんや。吁公は已に逝けり、然れども公の至誠猶ほ未た亡ひざるなり。其れ誰か公の遺志を成す者ぞ。豈其人なくして可ならんや。(中略)其君にして志をもたらし逝かば、其臣にして其志をつぎ、其君をして泉下に欣慰せしむる者、是れ豈臣、君に尽すの本分ならずや。其れ奮然として帰心を停めよ。(中略)其言剴切、殆ど半身を截取せらるるの感あり。是に於て乎翻然として西帰の情を絶ち、直に東下の途に就けり」(読みやすくするため、句読点や濁点を入れました)

とあり、月照の熱心な説得により、西郷は翻意したとあります。

斉彬の突然の死によって、京坂で活動していた西郷ら薩摩藩士たちは孤立する形となりましたが、その後、ドラマ内でも描かれました「戊午の密勅」と呼ばれる、水戸藩への勅諚降下に加担します。
しかし、密勅は水戸藩に下されたものの、幕府の圧力により、水戸藩はそれを遵奉することが出来ず、結局その運動は破綻します。
そして、それを機に、幕府は密勅降下に携わった人々の処罰を始め、それがいわゆる「安政の大獄」へと発展していくのです。

この辺りの西郷の動向は、ドラマ内では端折られていて、全くと言って良いほど描かれていませんでしたが、やはり斉彬の死というのは、西郷の人生にとって、大きなターニングポイントとなったと言えるでしょう。
そして、安政の大獄の影響は、西郷と月照にも迫り、二人は京都を脱出し、薩摩を目指すことになるのですが、月照の薩摩入りについては、次回に書きたいと思います。

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【2018/04/30 12:06】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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