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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
(第17回を振り返って)
第17回では、京都を追われることになった月照を西郷と有村俊斎の二人が力を合わせて薩摩に連れて帰っていましたが、これは史実から大きくかけ離れています。それどころか、実際は西郷も俊斎も、月照を置いて先に薩摩に帰っているのです。
つまり、月照を薩摩に連れて行ったのは二人ではないということです。

月照と共に京都を脱出し、大坂から舟に乗って下関へと着いた西郷は、当時薩摩へ帰国途上にあった前藩主・斉興の行列が通過したことを知り、月照の受け入れ等を直訴するため、同行していた俊斎に月照の身を託し、先行してその行列を追いかけ、薩摩に帰国しました。
しかし、その俊斎は西郷に月照の庇護を頼まれておきながらも、月照を筑前藩士らに託し、西郷の後を追いかけて薩摩に帰国してしまったのです。
有村俊斎の口述を元に書かれた西河称『維新前後実歴史伝』には、「西郷と共に百事をととのへ、再ひ来り迎へんと欲するなり」と、俊斎が西郷を追いかけた理由が簡潔に記されていますが、藩境の警戒が厳しかった薩摩に入国するためには、いずれ薩摩人の力が必要であることは百も承知であったにもかかわらず、どんな理由があれ、先に月照を置いて行っちゃったのですから、はっきり言ってヒドイものです。
俊斎に関して言えば、月照を置き去りにしたとの誹りを免れないと私は思います。

そして何よりも、月照の薩摩入りに関して言えば、筑前浪士の平野国臣を抜きにしては絶対に語られないのですが、何とドラマ内では平野が全く出てきませんでした……。
幕府の放った捕吏の目をかいくぐりながら、苦労に苦労を重ねて、いくつかの難を避けながら、やっとの思いで月照を薩摩に連れてきたのは、平野以外の何者でもなく、月照が無事に薩摩に入国できたのは、平野の活躍抜きには語られないのです。
もし、平野が居なければ、月照は薩摩に入る前に捕まっていたやもしれません。それほど平野の功績は大きいのですが、今回のように平野の存在を完全に無視するような演出は、あんまりではないでしょうか?
ドラマですから史実云々を細かく言うつもりは無いのですが、創作するにせよ、もう少し配慮があってしかるべきなのではないか、というのが私の正直な感想です。

(西郷の挙兵計画)
さて、今回の放送は、月照の薩摩入りについて、視聴者の方に誤解を与えかねない内容だと感じましたので、実際のところを私が分かりやすく解説したいと思います。

まず、小河一敏『明烏(あけからす)』に収録されている「清水寺忍向阿闍梨略伝」によると、西郷が月照を連れて京都を去ったのは、安政5(1858)年9月10日のことです。
同年9月3日、京都所司代の酒井若狭守忠義が入京し、その直後の9月7日には元小浜藩士で、いわゆる尊攘派のリーダーと目されていた梅田源次郎こと雲浜(うんびん)が捕縛されるなど、当時の京都にはいよいよ大獄の嵐が吹き荒れようとしていました。
前回の『西郷どん』でも描かれたように、その影響は月照にも及び、彼は自首することを考えたようです。
春山育次郎『平野国臣伝』には、

「到底いつまでも身を潜めて居られぬ形勢が見えるので、今は是非なしと考へまして、自ら名乗り出で幕吏の捕縛を受け、白洲の上に大義を説く他はあるまいと決心をして、その由を近衛公に申出てました」

と、その時の月照の気持ちが記されています。
しかしながら、近衛忠煕はその月照の申し出に応じませんでした。近衛としては、月照が捕縛されることにより、自らに大きな影響が出ることを懸念したのでしょう。また、月照を幕府に差し出すことが忍びなかったのかもしれません。
そのため、近衛は密かに西郷を呼び出し、月照の保護を依頼したのです。

こうして西郷は月照の身を託され、俊斎と共に京都を脱出して伏見へと向かったのですが、元々彼らは近衛からの依頼により、月照を奈良に避難させようとしていたようです。
当時江戸から京都に上ってきた有馬新七の「都日記」(『維新日乗纂輯』第二所収)の9月10日の条には、「和尚も所司代より嫌疑深く、探索ること厳重なれば、奈良に所縁有れば彼所に赴て難を避なむと思へる由にて、彼是かたらひけるにぞ」と、有馬は西郷から聞いた話を書いています。
海音寺潮五郎氏はその著作『西郷隆盛』の中で、奈良の興福寺や春日神社は、藤原氏ひいては近衛家に縁が深い神社仏閣であることから、近衛はその関連施設に月照を匿わせようとしたのではないかと推測されています。

しかしながら、伏見に到着した一行は、奈良も京都に近いため危険であると判断し、月照を遠く薩摩へ落ち延びさせた方が良いのではないかと考えました。
西郷は俊斎に対し、月照を大坂まで連れて行くよう頼み、自身はその足で一旦京都へと戻りました。
西郷が京都に戻ったのには理由があります。当時の西郷は、井伊大老や間部老中を中心とした幕府勢力に対抗するため、挙兵計画を企てていたからです。
この挙兵計画については、西郷が安政5年9月17日付けで、当時江戸に居た日下部伊三次と堀仲左衛門に宛てた書簡の中に出てきます(『西郷隆盛全集』一)。

「明日間閣着の賦に御座候間、若しや暴発仕り候わば直様義兵を挙げ申すべく、左候わば大坂土屋の兵は応じ申すべく、尾張も同様と相考え居り申し候。間若等の兵は柔弱故に打破り申すべく、左候て彦城を乗り落し候様仕るべく候間、其の節は関東にて兵を合せ打崩し候様、御責め下さるべく候」

西郷は、明日入京する予定の老中・間部詮勝が京都で暴発するようなことがあれば、すぐに義兵を挙げ、土浦藩や尾張藩の兵と共に間部や京都所司代の酒井の兵を打ち破り、彦根城を落とすとともに、関東でも同時に挙兵する計画を企てていたことが分かります。
西郷の計画はまことに大それたものですが、斉彬亡き今、当時苦境に立たされていた旧一橋派の形勢を逆転させるためには、西郷は東西呼応した挙兵しかないと当時考えていたのです。

しかしながら、この挙兵計画は結局上手く運びませんでした。
京都において幕府勢力の力は益々強まり、水戸藩の密勅降下に関連した人々が次々と捕縛される事態へと発展し、また、その余波は西郷にも及ぼうとしていたため、西郷は京都を脱出し、月照を連れて、大坂から一路下関へと向かうのです。

(元薩摩藩士たちの尽力)
前回の『西郷どん』では、大坂から舟を使って脱出したのは、月照、西郷、俊斎の三人で、それを橋本左内が見送っていましたが、厳密に言えば、実際は五人であり、また、左内は当時江戸に居たため立ち会っていません。
実際に月照を大坂から逃がすために尽力したのは、西郷の同志・吉井仁佐衛門(のちの幸輔、友実)であり、大坂から下関へと向かったのは、月照と西郷、俊斎の他に、月照の下僕・重助と筑前藩士・北条右門でした。

この時月照に同行した北条は、前名を木村仲之丞と言い、元薩摩藩士です。
『西郷どん』第4回の感想&小解説において、「お由羅騒動」の影響で薩摩を出奔し、筑前藩主・黒田長溥に庇護を求めた薩摩藩士が居たことを書きました。
井上出雲守、木村仲之丞、竹内伴右衛門、岩崎千吉の四名ですが、彼らはその後、井上は工藤左門(のちの藤井良節)、木村は北条右門(のちの村山松根)、竹内は竹内五百都(のちの葛城彦一)、岩崎は洋中藻平(のちの相良藤次)と名を変え、筑前藩士として活動していました。
後述しますが、彼ら四人は月照が筑前に入った際、月照を匿うことに尽力することになります。

前述のとおり、月照一行が下関に到着後、西郷は前藩主・斉興の行列が通過したことを聞きつけ、それを追いかけるため、俊斎と北条に月照を託して先行したのですが、残った四人は下関の豪商・白石正一郎の屋敷に入っています。
「白石正一郎日記」(『維新日乗纂輯』第一所収)には、「忍向上人西郷ノ来レルハ此ノ不在中十月朔日ナリ翌二日出発」とあり、正一郎が商用で薩摩に行って留守中の10月1日、忍向こと月照一行が白石家を訪れたとあります。
そして、その翌日、関門海峡を舟で渡った西郷を除く四人は、一路筑前の博多へと向かいました。博多には同行していた北条の居宅があったからです。

月照の薩摩入りに関して最も詳しい書物と言えば、春山育次郎『平野国臣伝』が挙げられます。
ここからは主にその『平野国臣伝』によって話を進めますが、月照一行が博多大浜の北条の居宅に着いたのは10月3日の暁方のことでした。
そしてその翌日、前述のとおり、俊斎は北条に月照を託し、西郷の後を追いかけるのですが、『明烏』には一人取り残された月照が詠じた和歌が記載されています。

「行く末は如何にならむ不知火の 筑紫の海によする白波」

『平野国臣伝』によれば、この和歌は月照がオランダから幕府に贈呈される汽船・観光丸と咸臨丸の二隻が博多湾に寄港する噂を聞いた際に詠じたものだとされていますが、月照はこの和歌に自らの境遇を重ね合わせたものと感じられてなりません。
このように不安に満ちていた月照を見知らぬ土地に一人置いて行ったのですから、俊斎の行動は軽率であったと感じられてなりません。

その後、月照は博多の北条宅で数日過ごし、太宰府に参詣するなどして平穏な日々を過ごしたようですが、そんな月照に対し、大きな危機が迫ろうとしていました。
『明烏』によると、「伏水ヨリ大坂ヲ歴テ中座(中座トハ町奉行ノ使役スル警察小吏ノ号ナリ、所謂目アカシノ類)甚助・徳蔵ノ両人、忍向ノ跡ヲ追テ今馬關ニ着セリ、不日ニ博多ニ至ラントス」とあり、京都町奉行支配の捕吏二名が月照の後を追い、博多に入ろうとしていたのです。

京都町奉行の放った捕吏二名が下関に到着したとの知らせは、下関の白石家から北条のところに入りました。
その一報を受けて北条は驚き、月照を他の安全な場所に移そうと考えましたが、既に捕吏が博多に入っている以上、近場で匿うことが出来ません。北条は同じ元薩摩藩士の工藤左門とも相談し、西郷や俊斎から何の連絡も無い今、ともかく月照を薩摩に向けて落ち延びさせる他ないと考え、洋中藻平に案内役を頼み、博多よりも南方に位置する上座郡大庭村(現在の福岡県朝倉市)の竹内五百都の元へ月照を逃がすことに決しました。

この辺りの状況を見る限り、元薩摩藩士の四名が互いに連携して、月照を必死に護ろうとしていたことがうかがえます。
『西郷どん』では全く描かれませんでしたが、月照が無事に薩摩にたどり着けたのは、西郷や俊斎の力ではなく、彼らの功績が非常に大きなものであったと言えるのです。

(平野国臣)
月照を竹内の元へ出発させたものの、北条の悩みの種は「どのようにして月照を薩摩に入国させるか?」でした。薩摩までの険しい道のりを月照と下僕・重助の二人だけで越えられるはずがなく、また、何よりも薩摩は藩境の警戒が非常に厳しい国柄として知られていたからです。

少し話がそれますが、つい先日、宮崎県小林市紙屋にある旧薩摩藩の関所「紙屋の関」を訪れたのですが、その案内板には「(紙屋の関を通るための)犬一匹の通行許可願が遺されている」とありました。
つまり、犬すらも通行証が必要なほど、薩摩藩は他国人の入国を厳しく取り締まっていたのです。

「薩摩びと いかにやいかに刈萱(かるかや)の 関もとざさぬ世とは知らずや」

これは全国を旅した事でも知られる高山彦九郎が、薩摩への入国を拒否された際に詠んだ歌です。
刈萱とは、筑前太宰府にあった古来の関所のことを意味しますが、彦九郎は出水筋沿いに設けられていた薩摩藩の関所「野間の関」において、厳しい取り締まりにあい、入国を拒否されたことがあったことから、このような歌を詠じたのです。
このように、薩摩行きは大変困難が伴うものと予想されたため、北条は案内人の人選に苦慮していたのですが、そんな北条の元に、偶然に平野国臣が突然訪ねて来たのです。

平野は筑前藩の足軽の家に生まれた軽輩ですが、若い時分に国事活動に目覚めたことから、人並み以上に学識にも秀で、それに加えて優れた胆力を持ち合わせていた人物でした。
当時の平野は浪人同然の身分でしたが、北条や西郷とも交流があり、そして何よりも、江戸や京都、長崎といった諸国を旅した経験が豊富にあったことから、北条はこれ幸いとばかりに、平野に事情を説明し、「月照を薩摩に連れて行って欲しい」と頼んだのです。

実はこの時、平野は筑後や肥後地方への旅行から帰ってきたばかりでしたが、平野は北条の依頼を二つ返事で引き受けたのです。その時の平野の様子を後に北条は、

「平野欣然トシテ領諾シ、直ニ旅装ヲ治メテ上座郡ヲ差シテ出発ス」

と書き残しています。
『平野国臣伝』は、「斯く頼まれて、一言の下に快諾し、宜しい参りませうと引受けた態度の立派さは、今からでも思い遣られます」と、平野の潔い態度を賞賛していますが、まさしく同感です。
旅行から帰ってきたばかりの疲れた身でありながらも、しかも困難が予想される薩摩への逃避行であったにもかかわらず、それを全く躊躇することなく引き受けたのですから、まさに幕末の快男児・平野国臣の面目躍如と言えます。

平野は旅の疲れを癒やす暇もなく、その翌日に大庭村へと向かい、竹内の居宅で月照主従と合流すると、二人を引き連れ、舟で筑後川を下り、久留米方面へと向かいました。これが10月20日のことです。
『平野国臣伝』によれば、平野は竹内と相談し、薩摩に入国するにあたり、月照を京都の醍醐山三宝院御門跡から鹿児島城下の修験僧・日高存龍院のところに使わされた御使僧と称して関所を通過する手はずを整え、通行証も偽造したようです。
平野と月照は山伏の格好に身をやつし、久留米から柳河へと入り、そこから舟を乗り換えて、有明海、八代海へと出て、薩摩に向けて一路南行するのです。

(薩摩への入国)
平野という力強い味方が加わった月照一行は、舟で薩摩領内の米ノ津港(現在の出水市)に上陸を試みますが、浦役人はそれを許しませんでした。浦役人は、出水筋沿いの「野間の関」を通って入国するよう指示したのです。高山彦九郎が薩摩に入国しようとして厳しい取り締まりを受けた、あの難関の関所です。

平野は仕方なく船頭に命じて関所の手前に上陸し直し、月照は静渓院鑁水、平野は弟子の胎岳院雲外坊、下僕の重助は藤次郎と名乗り、前述のとおり、日高存龍院に使わされた御使僧と称して関所を通過しようとしたのですが、平野の必死の抗弁も虚しく、結局入国は許可されませんでした。
やはり、薩摩入国の壁は当時も未だ高かったと言えます。

平野はこの時のことを後年福岡で獄中に入っている際、紙縒(こより)を文字の形にし、紙に貼り付けて執筆した「藎志録」(『平野国臣伝記及び遺稿』所収)という回顧録の中で、「関吏点検、怪而不容、忌一向僧故歟」と、自分たちが一向宗の門徒と怪しまれたのではないかと書いています。薩摩藩は一向宗厳禁の土地柄であったからです。やはり、急ごしらえの山伏の格好では、関所の番人の目はごまかせなかったのでしょう。
また、『平野国臣伝』には、「僕重助の話によると、此時ばかりは月照も甚だ弱はつて、モウアカヌと言ったさうです」とあり、月照が薩摩への入国を拒否されて、絶望した様子がうかがえます。

しかしながら、平野は決して諦めませんでした。
あくまでも想像ですが、平野は月照を大いに励ましたうえで、野間の関から上陸した地点に戻ると、先程乗船した舟の船頭に向かって、「北(肥後)に戻る」と言って舟を漕がせましたが、出航するや否や船頭に対して、「南の薩摩の阿久根に行け」と命じたのです。
つまり、平野は関所を無視して、強引に薩摩領内に直接上陸しようと考えたのです。
「清水成就院住僧忍向和尚之僕重助西行物語」(『野史臺維新史料叢書』三十三所収)という、下僕・重助の口述を元に書かれた文書が残されていますが、それによると、船頭は平野の申し出に難色を示しましたが、「二郎殿刀を抜て、我申事聞事なりかたけれは其方の首を刎、我等楫(かじ)を取て往」と平野に言われ、船頭は恐れおののき薩摩へと向かったそうです。

ただ、米ノ津から阿久根方面に向かうには、長島と九州本土の間の海峡「黒之瀬戸」を通らなければなりません。
黒之瀬戸は日本三大急潮としても有名な海峡で、「一に玄海、二に鳴門、三に薩摩の黒之瀬戸」とうたわれたほどの難所です。
そんな潮流の急な難所を月照や平野は小舟で、しかも真っ暗闇の夜に通ったのですから、まさに命がけの薩摩入りであったと言えましょう。

(西郷の入水)
その後、月照と平野は無事に薩摩領内に上陸を果たし、11月10日の夜に鹿児島城下に入りました。月照と平野が大庭村を出発したのが10月20日のことですから、福岡から鹿児島まで20日かかったということです。その期間だけを見ても、いかに月照と平野が多くの苦労を重ねて薩摩にやって来たのかが容易に想像できると思います。
『西郷どん』では、西郷と有村が泥まみれになりながら、月照を薩摩に連れて帰っていましたが、はっきり言えば、実際彼らは何もしていないのです。

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(月照と平野が宿泊した鹿児島城下の俵屋跡)

このようにして、ようやく薩摩にたどり着いた月照一行でしたが、それを迎えた薩摩藩政府の対応は、非常に冷たいものでした。
月照が鹿児島に入った翌日の11月11日、家老の新納久仰は、次のように書き留めています(『鹿児島県史料 新納久仰雑譜』二)。

「彼是拙者共モ甚込リ入タル者ニ候間、何分厄害成者入来リタル事ニ候」

この新納の「甚だ困り入りたる者」「厄害なる者」という言葉が全てを物語っているのではないかと思います。
つまり、薩摩藩にとって、月照は「厄介者」以外の何者でも無かったということです。

また、新納の雑譜には、その後も月照をどのように扱うかを重役たちで協議していた様子が読み取れますが、11月15日の条には次のようにあります。

「乍去鑁水等三人其儘捕ヘサセ候テハ、近衛様御難題被成候儀モ差見得居候ヘハ、誠ニ以旧来之御由緒柄御本意候訳合ニ付、極内西郷三助ヘ致手都合、今晩中是非船ヨリ福山辺ヘ渡ラセ、夫ヨリ紙屋御番所カ也志布志之方ニテモ為忍、随分御関所出去リ候時分見合、筑前之者ヘハ最早立去リ候ニ付、足配承候処ヶ様ニ候間道筋追尋候様申達候ハヽ、其上之処ハ行形リニテ可有之致内評」

つまり、「月照や平野らを幕府の捕吏に捕らえさせては、近衛家の難題となり、これまでの近衛家との関係から考えるとそんなことは出来ない。そのため、極内密に西郷に手はずを整えさせ、今晩中に舟で福山辺りに渡らせ、そこから紙屋の関か志布志から藩外に退去させ、潜伏させてはどうか。また、関所を出たのを見計らって、筑前から来た捕吏たちには、「もはや月照は立ち去りました」と言おうではないか」というようなことを重役たちで協議していたということです。
また、新納は「路銀等モ会所在金ヨリ拾両位西郷ヘ相渡シ道案内ト唱ヘ」と、西郷に対して「路銀として十両くらい渡しておけば良いだろう」とも書いています。

これら新納の記述から考え合わせると、いわゆる「東目(日向)送り」と呼ばれる、藩境において罪人を斬るという処分、つまり西郷が月照を斬れとの処分を藩から言い渡されたという通説は、甚だ疑問です。
新納の記述からも分かりますが、薩摩藩は縁戚である近衛家との関係を非常に心配していることから、近衛家に所縁が深い月照を藩外で斬れと命じたとは到底考えられないからです。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、この月照の「東目送り」は、あくまでも伝承に過ぎないものと私は考えています。
簡単に言えば、薩摩藩庁は単に厄介払いをしたかっただけで、藩外への退去を西郷に命じたに過ぎないのではないかと言うことです。

あくまでも推測ですが、西郷は藩から十両のはした金を渡され、まるで臭いものにふたをし、外に追いやるかのような処分内容を聞き、怒りを通り越し、大きな絶望感に見舞われたと言えるのではないでしょうか。
当時の西郷は、自ら神とも崇め奉った斉彬という大きな存在を失い、ただでさえ心に大きな傷を負っていましたので、無慈悲とも思われる藩庁の処分を聞き、完全に希望を失ったように思えます。

また、それは月照も同様です。
京都を出てから二ヶ月以上にも渡る長い逃避行を続け、ようやく目的地の薩摩にたどり着いたと思いきや、また藩外に退去するよう迫られたのですから、心身共に限界の状態にあった月照は、大きな絶望感に襲われたに違いありません。

西郷と月照、それぞれを襲った二つの巨大な絶望感が、二人をして錦江湾の海に身を投じさせるきっかけとなったことは、想像に難くありません。
結果、安政5(1858)年11月16日、西郷と月照は、お互いに死を覚悟して、寒中の海に飛び込んだのです。

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【2018/05/07 18:25】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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