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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
(第18回を振り返って)
いよいよドラマは「島編」に入りました。
月照と共に寒中の海に身を投げた西郷でしたが、奇跡的に息を吹き返し、失意の中、奄美大島へと旅立ちました。
『西郷どん』は、これまで描かれることの少なかった西郷の南島生活や愛加那との関係に重点を置くようですが、私は大賛成です。
西郷の思想の根底、つまりその源流にあるのは、奄美大島や徳之島、沖永良部島で過ごした約四年半に渡る南島生活にあると考えているからです。

よく西郷の人生は、幕末と明治に分けて論じられることが多いですが、西郷の人生は沖永良部島から帰還した年、つまり元治元(1864)年を境にして論ずべきであると私は考えています。
安政期から文久期までの西郷は、どちらかと言えば志士的気概が抜けきっておらず、血気盛んで、荒々しい部分が目立つ人物でしたが、徳之島そして沖永良部島での過酷な流刑生活を経験したことで、人間的にも格段に成長を遂げ、成熟期に入ったと言えます。
そんな西郷の成長のきっかけとなった南島生活をどのように描くのか、そして西郷が自殺未遂や流刑を機に、どのように再生していくのか、いや覚醒していくのか。
ここが『西郷どん』の真の見せどころだという風に感じています。

その点から言えば、今回の放送は本当に素晴らしかったと感じました。
個人的な感想ですが、これまでの回の中で一番の出来と言えるのではないでしょうか。
奄美大島の自然の素晴らしさ、そして愛加那の神秘的な美しさと自殺を遂げられなかった西郷の失意が、まるで「陽」「陰」をあらわすかのように、とても対照的に描かれていました。
また、その奄美大島の陽の中にも、実は砂糖地獄という大きな陰の要素が含まれていることも印象的でしたし、さらに失意のどん底にある西郷に、愛加那という一縷の希望の光が射し込むラストも大変心に響きました。

(西郷と月照の入水)
さて、ドラマ内では描かれませんでしたが、西郷と月照の入水を少し振り返ってみたいと思います。
西郷と月照が入水したのは、安政5(1858)年11月16日のことですが、家老・新納久仰はその日の日記に次のように書いています。

「三助小用ニ立候姿ニ見得候処鑁水モ同様立アカリ候得ハ、直ニ鑁水ト三助モツレ合海中ヘ飛入候」(『鹿児島県史料 新納久仰雑譜』二)

つまり、三助こと西郷が小便をすると言って立ち上がり、それに続いて鑁水こと月照も立ち上るや否や、二人はもつれ合うようにして海中に飛び込んだとの報告を新納は受けていたようです。
また、その翌17日の記述を見ると、亡骸となった月照の懐中から、鼻紙に記された次のような歌二首が出てきたとあります。

「曇りなき心の月の薩摩かた 沖の波間にやがて入りぬる」
「大君の為には何かおしからん 薩摩の瀬戸に身は沈むとも」

新納は「当分三助モ病気言語不通之由ニ候ヘハ、誰カ詠トモ不知候」と、「当分西郷は話せるような状態ではないようなので、誰が詠んだものか分からないが」と書いていますが、これらはいずれも月照が詠んだ辞世の句でした。

「清水成就院住僧忍向和尚之僕重助西行物語」(『野史臺維新史料叢書』三十三所収。以下、「西行物語」と略す)によれば、「濱近くに船を止め、酒宴致し候處、隠居の申さるヽには、此月明にて歌一首詠し候とて半紙に認めて西郷氏に差出さる」とあり、下僕の重助は、月照が船中で詠んだ歌を西郷に差し出したと証言していますが、勝田孫弥『西郷隆盛伝』によれば、その時月照が詠んだ歌は前記の辞世の句ではなく、

「舟人の心尽くしに波風の あやうき中を漕ぎて出でにき」
「答ふべき限りは知らで不知火の つくしに尽くす人の情けに」

の二首であったと書かれています。
つまり、月照は自分を逃がしてくれることへの感謝の意を歌にして詠んだということですが、その歌とは裏腹に、その時月照は既に死ぬ覚悟が出来ていたのです。
そう考えると、前記の辞世の句は、月照が舟に乗船する前にあらかじめ認めていたと考えた方が良いのではないかと思います。
西郷と月照、どちらから死ぬことを言い出したのかは定かでありませんが、想像するならば、お互いに語らずとも、じっと目を見つめ合い、死ぬ覚悟を伝えあったのかもしれません。

「西行物語」によると、西郷と月照が海中に身を投げた際、周囲の人々は驚き、目印として「歩み板三枚」を海に投げ込み、さらに海に飛び込んで二人を探したとあります。
同船には西郷と月照の他に、平野と重助、そして藩から付き添いを命じられた坂口周右衛門(新納は用右衛門と書いています)の三人が居ましたが、もちろん船頭や水夫たちも数人乗船していたと思いますので、海に飛び込んだのは水夫たちであったことでしょう。
春山育次郎『平野国臣伝』によると、西郷と月照はお互いに抱き合ったまま、海中から忽然と浮かび上がってきたとあります。

また、船上に引き揚げた西郷や月照に対して、平野が鼻の下に灸を据えて潮水を吐かせたりするなどして様々な介抱をしたと「西行物語」にありますが、西郷が一命を取り留めたのも、平野の迅速な手当てがあったからだと言っても過言ではありません。

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西郷隆盛蘇生の家(鹿児島市)

少し後のことになりますが、文久2(1862)年3月、島津久光が兵を率いて薩摩から上京するに際し、西郷は先発を命じられ、下関において平野と再会していますが、その際西郷は平野に対して、「いずれ決策立て候わば、共に戦死致すべしと申し置き候」と語ったと、後に奄美大島の見聞役・木場伝内宛ての書簡に書いています(『西郷隆盛全集』一)。
この時、西郷が平野に対して、胸に秘めた決死の覚悟を打ち明けたのは、自分の命が平野によって助けられたことと無縁ではないでしょう。西郷は平野に対して、その時の借りを返すべく、その心中を吐露したに違いありません。
このように、西郷と平野はとても縁深い間柄であったと言えますが、そんな平野が『西郷どん』に出てこなかったのは、返す返すも残念で仕方ありません。

(奄美大島へ)
平野らの懸命の介抱の甲斐あって、息を吹き返した西郷は、親類預かりとなり、そこから失意の日々を過ごすこととなります。
その失意を西郷自身は「土中の死骨」という言葉で表現しています。
安政5(1858)年12月19日付けで、西郷が肥後藩家老・長岡監物宛てに書いた書簡の中に、

「随って私事土中の死骨にて、忍ぶべからざる儀を忍び罷り在り候次第、早御聞届け下され候わん。天地に恥ヶ敷儀に御座候え共、今更に罷り成り候ては皇国のために暫く生を貪り居り候事に御座候」(『西郷隆盛全集』一)

とあります。
この書簡は西郷が投身自殺を試みてから約一ヶ月後に書かれたものですが、「私は土中に埋まる死骨(屍)」や「天地に対して恥ずかしい」という言葉からも、西郷の失意の大きさがうかがい知れます。

先日、私のツイッターでも少し呟いたのですが、西郷が月照と共に投身自殺をはかったのは、前述のとおり安政5年11月16日のことですが、この日は斉彬の月命日にあたります。(斉彬は同年7月16日に死去)
その点から考えると、西郷の自殺は四ヶ月遅れの殉死だったとも言えるかもしれません。
あくまでも想像ですが、奇しくもその殉死に立ち会ったのが、西郷に殉死を止めるよう諭した月照であったことに、西郷は奇妙な縁を感じ取っていたのではないでしょうか。

さて、西郷家の家政上の記録である「万留」(『西郷隆盛全集』四所収)によると、西郷は同年12月14日に徒目付・鳥預・庭方兼務の職を解かれ、その後、奄美大島へと旅立ちます。
西郷はよく二度の島流しにあったと言われますが、この一度目の奄美大島行きは、藩から年六石(後に十二石に加増)の扶持米が支給されていることから、いわゆる「遠島」という処罰ではありません。奄美大島での潜居は、安政の大獄の影響で幕府から嫌疑を受けた西郷を保護するための藩公認の処置でした。

西郷が奄美大島の名瀬港に着いたのは、翌安政6(1859)年1月11日のことですが、その約一ヶ月後、税所喜三左衛門(のちの篤)と大久保に宛てた書簡には、「一日晴天と申すなるは御座無く雨勝ちに御座候。一体雨はげしき所の由に候得共、誠にひどいものに御座候」とあり、雨が降りしきる中、西郷は鬱屈した日々を過ごしていたことがうかがえます。

今回のドラマ内で、二階堂ふみさん演じる「とぅま(愛加那)」の手の甲に入れ墨が彫られていましたが、このことも前述の西郷書簡の中に出てきます。

「島のよめじょたちうつくしき事、京、大阪杯がかなう丈に御座無く候。垢のけしょ一寸計、手の甲より先はぐみをつきあらよう」

ドラマ内でも説明がありましたが、「はぐみ」とは入れ墨のことで、この記述を見る限り、西郷は奄美大島の女性たちの美しさに惹かれたようです。
しかしながら、西郷は同書簡の中で、

「誠にけとう人には込り入り申し候。矢張りはぶ性にて食い取ろうと申す念計り、然しながら至極御丁寧成る儀にて、とうがらしの下なる塩梅にて痛み入る次第に御座候」

と書いています。
「けとう人(毛唐人)」とは、島民の蔑称です。
この文言から西郷の蔑視感情がうかがえますが、それは何も西郷に限ったことではありません。当時本土(鹿児島)に住む人間のほとんどは、このように南島に住む人々を差別していたのです。
西郷は「島民には困っている。ハブのように隙あらば食いついてくるような目で見てくるのに、とても丁寧に取り扱ってくれることが逆に不快でならない」と書いているのです。
島民たちの親切な態度が逆に不快と感じるほど、当時の西郷の心は荒んでいたと言えましょう。

また、同書簡の中で西郷は、「重野両三日参り居り候」と書いており、当時同じく奄美大島に流謫中であった薩摩藩士・重野厚之丞(のちの安繹)が訪ねて来たことを記していますが、後年重野はその時西郷が次のような話をしたと語り遺しています。

「和尚を独り死なして、自分一人死に損い活きて居るのは残念至極だ。士の剣戟を用いずして身を投げるなどと云うことは、女子のしそうなことで、誠に天下の人に対しても言い訳がない。唯和尚は法体のことであれば剣戟を用いずして死んだ方が宜しかろうと云う考えで投身したけれども、寧ぞ死するならば初めから剣戟を用いたらばよかったに、女子のなすような真似をして、自分独り活き残って面目次第もない」(「重野安繹演説筆記第三」『鹿児島県史料 斉彬公史料』三所収)(読みやすくするため、片仮名を平仮名に直しました)

重野はその時西郷が「歯噛ヲナシ涙ヲ流シテ拙者ニ話シタ」と言っていますが、当時の西郷は月照一人だけを死なせてしまった自責の念に苛まれていたのでしょう。
そんな西郷の心の荒みようは、今回のドラマでとてもよく描かれていたと思います。

ただ、そんな西郷でさえも、今回ドラマ内で描かれたように、奄美大島の島民に対する砂糖の取り立てについて、心を痛めていたようです。
同書簡には、「何方においても苛政の行われ候儀、苦心の至りに御座候(どこにおいても苛烈極まりない政治が行なわれており、心苦しいです)」とあるほか、

「当島の体誠に忍びざる次第に御座候。松前の蝦夷人捌きよりはまだ甚敷御座候次第、苦中の苦、実に是程丈けはこれある間敷と相考え居り候処驚き入る次第に御座候」

と、「奄美大島は誠に忍びざるを得ない状況です。松前のアイヌ人の扱いよりも甚だ酷く、それは苦中にさらに苦を生み出すほどで、これほど酷いものとは考えておらず、誠に驚きました」と書いています。

若き日の西郷は、郡方に勤めていたことから、藩内の農政事情に精通していました。
そんな西郷でしたから、奄美大島内の悲惨な現状を現地に来て初めて目の当たりにし、愕然としたのです。
そんな自らの失意をまるで吹き飛ばすかのような島民たちへの過酷な待遇は、西郷を再起させる一つのきっかけともなったと言えます。
それは、また次回以降に。

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【2018/05/14 17:15】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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ukoji
西郷隆盛の大河があるだけでありがたいと、
内容の飛躍や割愛は気にしないようにしてますが。
西郷が島人の作った食べ物をたたき捨てる
場面があり、西郷隆盛の行動原理からすると
ありえないので、さすがに あ~っと思いました

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西郷隆盛の大河があるだけでありがたいと、
内容の飛躍や割愛は気にしないようにしてますが。
西郷が島人の作った食べ物をたたき捨てる
場面があり、西郷隆盛の行動原理からすると
ありえないので、さすがに あ~っと思いました
2018/05/15(Tue) 22:02 | URL  | ukoji #4tZXgICc[ 編集]
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皆さんこんばんは。今回は今年の大河ドラマ『西郷どん』第18~20回の感想です。まずはあらすじ。僧月照(尾上菊之助)と入水自殺を図るも一人生き残った西郷吉之助(鈴木亮平)は、絶望の中、安政の大獄から逃れるために奄美大島に送られた。吉之助は大島で島民と打ち解けよ
2018/07/26(Thu) 19:01:58 |  Coffee, Cigarettes & Music