FC2ブログ
西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
物語は引き続き奄美大島編です。
私のツイッターでも呟きましたが、島編に入ってから際立っているのが、愛加那演じる二階堂ふみさんの好演ですね。
個人的な感想ですが、これまで演じられた愛加那像の中で私は一番好きです。
見た目は華奢ですが、芯のしっかり通った愛加那を見事に演じきっており、主役の鈴木亮平さんを食う勢いすら感じます。
まさに今回はタイトル通り「愛加那」一色だったと言えるのではないでしょうか。

(薩摩藩と砂糖)
さて、今回は前回と同様に、奄美大島の砂糖にまつわる話が中心でした。
砂糖隠しの嫌疑を受けて代官所に捕らわれた龍佐民と富堅の二人を西郷が救いましたが、少し歴史を紐解くと、『鹿児島県史』二によれば、薩摩藩が奄美大島での砂糖買い入れを積極的に始めたのは、元禄年間のことであったとされています。

『改訂名瀬市誌』1巻歴史編(以下、『改訂名瀬市誌』と略す)によると、元禄11(1698)年、奄美大島では従来置かれていた間切横目(警察・監察役)の他に、黍横目、竹木横目、津口横目、田地横目が置かれることになったとあります。
同市誌によれば、黍横目とは甘蔗(サトウキビ)を司る役職のことで、甘蔗の植え付け、施肥、手入れ、取り入れから製糖、樽拵、船積みまでを取り締まったそうです。
薩摩藩がこの時甘蔗専門の役職を設けたということは、本格的に砂糖製造に力を入れるためであったのでしょう。

薩摩藩の砂糖買い入れ制度については、二つの方式がありました。

「定式買入」「惣買入」です。

定式買入とは、藩が砂糖の買い入れ額をあらかじめ設定し、それを甘蔗を栽培する島民に割り当て、定めた量の砂糖を藩が買い入れる方式です。
それに対して、惣買入とは、藩が甘蔗を栽培する土地をあらかじめ決め、その面積を甘蔗を栽培する島民に割り当て、そこで生産される全ての砂糖を藩が買い入れる方式です。
つまり、定式買入は、割り当てられた生産量を藩に対して差し出せば、残りは島民のものとなりますが、惣買入は生産される全ての砂糖を藩が買い入れることになることから、島民の手には一切残りません。
また、定式買入にも「買重糖(かいかさみとう)」と呼ばれる、臨時で割り当てられるノルマが導入されていたことから、結局甘蔗を栽培する島民の手に残る砂糖は、皆無に等しかったと言えるでしょう。

薩摩藩はこの定式買入と惣買入の制度を交互に導入していたようです。
『改訂名瀬市誌』によれば、それぞれ二回ずつ交互に実施され、その実施時期を表にすると次のとおりです。

 第一次定式買入:享保、元文頃から安永6(1777)年まで
 第一次惣買入 :安永6(1777)年から天明7(1787)年まで
 第二次定式買入:天明7(1787)年から天保元(1830)年まで
 第二次惣買入 :天保元(1830)年から明治5(1872)年まで

上記のとおり、第二次の定式買入が天明7(1787)年以来40年以上も長きに渡って続いていたにもかかわらず、天保元(1830)年を境にして、生産される全ての砂糖が藩庫に入る惣買入に変更されたのは、薩摩藩士・調所笑左衛門(広郷)が推進した「天保の改革」と呼ばれる藩政改革と深く関連しています。

薩摩藩は斉彬の曾祖父で第八代藩主・島津重豪(しげひで)の放漫財政により、多額の借金を背負うことになったのはよく知られています。
その借金の額は、一時期「500万両」(1両を現代の5万円と換算すると2500億円)にも膨れあがり、当時の薩摩藩にとって、財政再建こそが喫緊の課題となったわけですが、そこで登場したのが調所です。
調所は西郷と同じく藩内での身分が低い御小姓組の出身で、元々は茶坊主として出仕していましたが、重豪に目をかけられ、財政改革の責任者として抜擢されました。

DSCF1059.jpg
調所広郷銅像(鹿児島市)

調所は重豪とその孫にあたる第十代藩主・島津斉興の信任を得て、藩内に様々な財政改革を実施しましたが、とりわけ力を注いだのが、奄美大島、喜界島、徳之島などで行われていた製糖についてです。
調所は藩の収入を増やすため、当時大坂などで高価に取引されていた砂糖の生産量を上げることを考え、買い取り方式を定式買入から惣買入へと切り替えました。
前述のとおり、惣買入は甘蔗を栽培する島民が生産した全ての砂糖を藩が買い上げる制度ですので、島民に対して出来るだけ多くの土地に甘藷を栽培させ、彼らを厳しく追い込めば追い込むほど、砂糖の生産量は増加し、藩の財政は潤うことになるからです。

(砂糖地獄)
『改訂名瀬市誌』と『鹿児島県史』二を参照して書きますが、薩摩藩は三島方という部署を新たに設け、奄美大島、喜界島、徳之島での製糖業を管轄させました。
三島方は、奄美大島の島民各自に割り当てられた甘蔗の栽培面積から次年度の砂糖の生産予定額をあらかじめ定めたうえで、その生産予定額から島民が藩に差し出す租税額を控除し、その残余について、生活必需品と交換することを決定しました。
つまり、島民が必要な生活用品は、全て砂糖での交換としたのですが、それらの品々は藩が一手に引き受けて渡すわけですから、もちろん藩は交換率(相場)を高く設定しますので、島民はたくさんの砂糖を生産しなければ、生活はどんどん苦しくなります。

また、ヒドイのは、天保10(1839)年から、生活必需品と交換しなかった砂糖の残余について、藩は島民に対して「羽書」と呼ばれる手形を交付することに決めたのですが、その羽書が使用できるのは、毎年五月から七月までの三ヶ月間のみとしました。
つまり、藩は島民が貯蓄出来ないようにしたのです。

調所が推進した藩政改革によって、このような制度が構築された結果、前回の『西郷どん』から描かれているように、奄美大島では非常に過酷な取り立てが島民に対して行われました。
『鹿児島県史』二によると、黍横目や黍見廻の指揮に背く者、甘蔗の刈り株が高い者、製糖が粗悪な者に対しては、道路修繕等の科役を課したり、罪人の札をかぶせたり、あるいは首枷足械の罰を受けさせたとあります。この様子は今回の『西郷どん』でも描かれていました。
また、抜砂糖、つまり隠れて砂糖を生産することを企てた者に対しては死罪、そのことを知っていた者には遠島などの重い処分を科し、前回の『西郷どん』でも描かれていましたが、子供が甘蔗を舐めたり、食べたりでもすれば、棒に縛り上げて曝しものにしたとまであります。

このような島民に対する苛斂誅求な仕打ちは、まさに「砂糖地獄」と呼ぶに相応しいものであったと言えるでしょう。
前回の感想&小解説でも書きましたが、西郷は奄美大島において、このような過酷な取り立てが行われていることを知り、大変驚きました。
今回のドラマ内で、砂糖隠しの嫌疑を受け、柄本明さん演じる龍佐民と愛加那の兄・富堅が代官所に捕縛され、それを西郷が助けるシーンがありましたが、これは東郷中介『南洲翁謫所逸話』に収められている逸話を参考に構成したものだと思います。

同書には、あらかじめ決められた砂糖の生産量に達しなかった者に対しては、「島民カ隠蔽スルモノトナシ甚シキ苛責ヲ加フ」とあり、島民が砂糖を隠し持っているとして、拷問等を加えたとありますが、それを憂いた西郷は、「直ニ旅装ヲ整ヘ行程四里餘ヲ急行」し、当時在番役(代官)を務めていた相楽角兵衛に面会を求め、「具ニ條理ニ訴ヘ島民ノ宥恕ヲ乞フ」たとあります。
結局、相楽は西郷の言を入れて、捕らえていた農民たちを解放し、「島民皆苦責ヲ免レテ各其業ニ就キ居タリト云フ」と同書にありますが、このようなことがあったことから、西郷は島民の信頼を得ることになったのです。
今回はこの逸話を大きく脚色して、ドラマに仕立てたのでしょう。

(武士と農民の関係)
このように奄美大島での砂糖の生産は、峻烈極まりない、非常に過酷なものであったと言えます。
『西郷どん』において、その様子が描かれていることは、奄美大島の砂糖生産の歴史を知る上で、とても有意義なことであると言えるのではないでしょうか。

ただ、『西郷どん』に限らず、大河ドラマの主人公は、よく人権を尊重し、平和主義、ジェンダーフリーなどの思想を持っていたかのように描かれることが多いですが、結局のところ、奄美大島での砂糖地獄の例を見れば分かるように、当時の武士とは「消費階級」に過ぎず、農民たちを搾取することでしか生活が成り立たない人々であったということを忘れてはなりません。
前回の『西郷どん』で、愛加那が斉彬のことを批判し、そして「私らは民のうちには入ってなかった」とこぼすシーンがありましたが、当時の奄美大島の島民たちにとって、それは本音であったことでしょう。いかに斉彬が世間で名君と謳われていようとも、農民たちにとっては、斉彬は支配者であり、搾取層でしか無かったということです。

そして、それは西郷も同様の立場です。
今回の『西郷どん』で描かれたとおり、西郷は奄美大島の島民のために立ち上がり、彼らを助けようと力を尽くしました。それは現代に遺る数々の逸話によって明らかです。
しかし、西郷が砂糖地獄に陥る島民をその苦役から解放しようと考えていたわけではありません。
確かに、西郷は農民たちに対して、愛情をもって接し、彼らのことを労り、そして哀れむ精神を持っており、その溢れんばかりの憐憫の情で常に行動した人物であったと言えますが、少し厳しい表現をするならば、そこまでが彼の限界であったとも言えます。

拙著『維新を作った男 西郷隆盛の実像』(扶桑社、2017年)でも引用しましたが、のちに西郷が沖永良部島に遠島された際、同島の間切横目の職にあった土持政照に対し、「与人役大躰(よひとやくだいたい)」(『西郷隆盛全集』一)という、役人の心がけを記した文書を手渡していますが、その中に次のような一節があります。(拙著の現代語訳版から引用します)

「百姓は力を労して天意に報いるのが職分であり、役人は心を労して天意に報いるのが職分です。力を労するとは、農作業に勤しみ、年貢を滞納せず、あるいは課役を勤めるということです。また、心を労するとは、百姓の頼りになるように諸事取り扱い、凶作のための対策をし、農作業の時節を失うことがないよう配慮してやることです」(P46)

この一文には、西郷の理想が語られています。
つまり、「農民とは、農作業や課役に励み、藩ひいては国のために尽くすのが本分であり、役人とは、私利私欲を一切絶ち、そんな農民たちを慈しんで、彼らが働きやすい環境を整えてあげる」ということです。
西郷はそれが「天意に報いる行為である」と規定していますが、この一節にあるとおり、西郷の理想とは、農民たちの解放ではありません。
民は国のために働き、そして役人(つまり武士階級)は民に思いやりをもって配慮してあげる、ということに過ぎないのです。

大河ドラマは所詮フィクションですので、どのように描いても問題ありません。私は『西郷どん』で描かれている西郷像をいつも楽しく見ています。
しかしながら、もし真の西郷像を掴もうとするのであれば、西郷をまるでスーパーマンであるかのような、救世主扱いするのは、少し注意が必要で、筋が違っていると言えます。西郷といえども、やはり彼は為政者側に居た人間だからです。

ただ、私はこのことをもって西郷を責めているのでは決してありません。
当時の西郷が搾取層である武士階級の一員である以上、当然のことながら、その域を脱することは難しかったと言えるからです。
また、このことで西郷の評価を下げるのは間違っており、それは別次元の話と言えます。
なぜならば、幕末という、いわゆる封建社会の中において、ここまで農民たちを慈しむ心を持っていた人が、消費階級であった武士、つまり為政者側に居たというのは奇跡に近いと思うからです。
言葉は悪いですが、農民たちのことを屁とも思っていなかった人たちが大半を占める世の中で、西郷という人間は、その限界を大きく超えようとしていたのですから。
私はその点が西郷の凄さであり、偉大さでもあると思います。
そして、そういう部分が、西郷が誰からも愛された最大の理由であると、私は心からそう思っています。

FC2blog テーマ:大河ドラマ - ジャンル:テレビ・ラジオ

【2018/05/20 21:02】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
トラックバック(0) |


k
いつも勉強させてもらってます。


コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
いつも勉強させてもらってます。
2018/05/21(Mon) 09:13 | URL  | k #2qSP86X2[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック