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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
最初に私事から入りますが、実は先日、病院に入院そして手術を受けまして、『西郷どん』の第20回は退院した日の夜に自宅で見ました。
術後の痛みに堪えながら、傷口に触るので、なるべく興奮しないように見ようと心がけましたが、大久保の妻・満寿が、お由羅主催のお茶会に招かれたシーンを見て、笑いすぎて傷口が開きそうになりました。
あれでは、まるでドラマ『白い巨塔』で描かれた「教授婦人会」ですね(笑)。

と、冗談はさて置き、以上のような状態で、まだ体が本調子ではないことから、今回の感想&小解説はいつもより簡単になることをどうぞご了解願います。

(国父・島津久光)
さて、今回のドラマでは、前藩主・斉興の死や誠忠組内部の対立、誠忠組への藩主の諭告書降下、最後は桜田門外の変などなど、様々なトピックスが一気に描かれましたが、今回も時系列がかなり入れ替わっていました。

ここで少し整理すると、まず前藩主の斉興が亡くなったのは、安政6(1859)年9月12日のことです。そして、誠忠組への藩主・茂久直筆の諭告書が下されたのは、その約二ヶ月後の11月5日、桜田門外の変はさらに翌安政7(1860)年3月3日のことです。
今回のドラマ内では、斉興が亡くなってすぐに久光が国父となり、大久保の尽力によって誠忠組へ諭告書が下され、最後に桜田門外の変が起こるという流れとなっていましたが、実際に久光が国父の称号を得たのは、だいぶ先のこと、文久元(1861)年4月22日のことですので、実は桜田門外の変よりもさらに一年後のことになります。

久光が国父の称号を得ることになったのは、その二ヶ月前の同年2月18日、幕府が久光の薩摩藩政への関与を正式に認めたことが大きなきっかけとなっています。

「島津周防儀、其方家督之節ヨリ、国政向万端心添致精勤候趣相聞候ニ付、来年其方参府之上ハ、国許国政向猶厚ク、万事行届候様可取計旨可被申聞置、此段内々可達トノ御沙汰ニ候」(『鹿児島県史料 忠義公史料』一)

これが藩主・茂久へ与えられた幕府の達書の内容ですが、幕府はこれまで藩政を補佐してきた久光の勤務態度を評価し、翌年の参勤交代の折りには、留守となる藩主に成り代わり、国政諸事全般を預かることを許可したのです。
しかしながら、実際その翌年、幕府が留守を任せようとした久光自身が、藩主・茂久に代わって江戸に出てくることになるとは、この時の幕府は夢にも思っていなかったことでしょう。

安政5(1858)年7月16日に斉彬が逝去した後、『西郷どん』でも描かれたように、久光ではなく、前藩主の斉興が藩主・茂久(当時は又次郎)の後見となりましたが、『島津久光公實紀』一には、「斉彬公既ニ薨ス公猶ホ重富邸ニ在リ隔日城ニ入テ藩政ヲ参決ス」とあり、久光も隔日に登城して、政務に携わっていたことが分かります。
第16回の感想&小解説において、久光が当時京都に居た西郷からの手紙を見たことから、家老の新納久仰と島津下総を呼び出し、その善後策を講じようとしたことについては書きましたが、新納の雑譜を見ると、このような形で当時周防と名乗っていた久光が藩政に深く関与していた様子がうかがえますので、斉彬の死後の久光は、藩政顧問のような形で実際に政務に携わっていたのです。

斉彬はその生前、久光のことを「博聞強記我カ及ハサル所、亦其志操方正厳格是モマタ我ニ勝レリ」と、鹿児島を訪れた幕臣・勝海舟に対して紹介したことは拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』においても書きましたが、また、斉彬は嘉永元(1848)年5月29日付けで家臣の山口定救に宛てた手紙の中で、次のように久光のことを評しています。

「柔和ニは候得共、内心は柔和計りニは有ましき様子と存申候、此人政事ニ差はまり候へは、よろしくと存申候」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』一)

この記述を見ると、斉彬は久光の人物をよく見抜いているなと感心してなりません。
つまり、「(久光は)性格は一見優しく、穏やかそうには見えるが、内心は温和だけの人物ではない。この人は政治に携わるのが良いのではないかと思う」と、斉彬は久光を政治向きの人物だと評しているからです。

斉彬はまさにそのことを確認・実現するかのように、藩主に在任中、久光に対して、当時の政治的な課題について相談していた形跡をうかがえる書簡も実際残っています。
例えば、安政5年4月12日付けで斉彬が久光に宛てた手紙には、「外夷之事に付て京都より申来候事有之、急に御相談申度儀も有之候間」(『斉彬公史料』三)との文言があり、当時生じていた外交問題について、斉彬が久光に相談しようとしていたことが分かります。

このように、久光は元来政治力に長けた人物であったことから、斉彬の死後、藩内における久光の力は自然と大きくなっていったことは想像に難くありません。
また、藩主に就いた子の茂久も久光を頼りにしていたことから、幕府が久光の藩政関与を正式に認めたことを受けて、茂久は名実共に久光の身分回復を図ろうと考えました。
これが久光が国父と称される所以なのです。

DSCF0797.jpg
島津久光銅像(鹿児島市)

文久元(1861)年4月22日、茂久は久光を国父として処遇する旨を藩内に布告しました。
その布告書には次のようにあります。

「順聖公ノ御眷顧ヲ蒙リ、家督相続被仰付候処、当時ヨリ武鑑ニモ、実ハ島津周防嫡子ト有之、天下ニ押出シテ顕然ノ事ニ候、然ルニ只今ニテハ所謂名不正言不順ト可申哉、親子ノ情於孝義難黙止次第ニ候間、拙者之内存ニハ、当家督ハ又次郎ヘ申付、重富家ヲ出テ国父ト云処ヲ以、朝夕自ラ定省イタシ、為子ノ礼ヲ取テ孝義ヲ尽シ、臣子ニ先シ度候、左候ハ名義モ相立候事ト存候」(『忠義公史料』一)

つまり、茂久は、「自分が斉彬公から特別に目をかけられ、家督を相続したとは言え、自分が島津周防の実子であるということは、既に周知の事実である。にもかかわらず、このように実父をこのまま臣籍の状態に置くことは名実共に順序が逆で、親子の情や孝義において黙止がたいものがある。私の考えでは、重富家の家督は弟の又次郎(珍彦)に引き継がせ、父を本家に復し、国父として処遇することで、私は子として孝義の礼を尽くしたいと考えている」と藩内に布告したということです。

この布告書にも如実に表れていますが、茂久、のちの忠義ですが、彼はとても親孝行な人物で、自らが藩主の座にありながらも、その在任中は常に実父・久光の意向・指示に忠実に従い行動しました。
歴史上、親子が仲違いし、それがお家騒動に発展するというのはよくある話ですが、幕末の薩摩藩が一糸乱れぬ形で動くことが出来たのは、久光の統率力もさることながら、久光と忠義の仲が大変良好であったことも大きかったと言えます。
明治維新後、復古思想を抱く久光が死ぬまで髷を切らなかったことは有名な話ですが、子の忠義もそんな父に見習い、最後まで断髪しませんでした。また、久光と同様に、死ぬまで西洋医にはかからず、漢方医の処方を受けたと伝えられています。
忠義は孝道という概念を第一義に考えた人物だと言えると思います。

こうして国父となった久光は、通称を周防から和泉に変え、また、その諱を忠教(ただゆき)から久光へと改めました。
ここに国父・島津久光が誕生したのです。

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【2018/05/29 15:36】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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はじめまして
甘党猫
はじめまして。毎回『西郷どん』終了後、貴ブログを楽しみにしている者です。今回少し更新が遅れて心配しておりましたが、手術をされていたとのこと、お見舞い申し上げます。

私は歴史好きではありますが、知識が浅いため大河ドラマを見ていても、よく理解できないことが多くて困っておりました。貴ブログは読みやすく、それでいて深いところまで解説してくださるのでとても助かっております。一日も早く本復されることをお祈りいたします。

ありがとうございます
粒山樹
甘党猫さま

はじめまして、こんばんは。
この度は大変ありがたいコメントを頂戴いたしまして、本当にありがとうございます。
また、私の体調を気遣うお言葉も頂戴し、重ねてありがとうございました。

私の書くブログをご愛読頂いているとお聞きし、大変嬉しいですし、光栄です。

少しでも多くの方々に、西郷隆盛、そして幕末の薩摩藩の世界に興味を持って頂けるよう、これからも読みやすく・分かりやすいをモットーにして頑張って書いていきたいと考えておりますので、これからも応援の程どうぞよろしくお願いいたします。

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はじめまして
はじめまして。毎回『西郷どん』終了後、貴ブログを楽しみにしている者です。今回少し更新が遅れて心配しておりましたが、手術をされていたとのこと、お見舞い申し上げます。

私は歴史好きではありますが、知識が浅いため大河ドラマを見ていても、よく理解できないことが多くて困っておりました。貴ブログは読みやすく、それでいて深いところまで解説してくださるのでとても助かっております。一日も早く本復されることをお祈りいたします。
2018/05/29(Tue) 18:35 | URL  | 甘党猫 #HfMzn2gY[ 編集]
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2018/05/29(Tue) 22:53 | URL  | 粒山樹 #-[ 編集]
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