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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
西郷もいよいよ奄美大島から去る日がやって来ました。
奄美の風景は、いつ見ても本当に美しいですね。西郷は奄美に潜居したからこそ、月照との入水によって負った傷心を癒やすことが出来たと言えるのではないでしょうか。
奄美の美しい景色がこれから見られなくなるのはとても残念です。

(大久保の昇進と改名)
今回の『西郷どん』も前回からかなり時間が飛びました。
まず、西郷と愛加那の間に長子・菊次郎が誕生しましたが、それは文久元(1861)年1月2日のことですので、前回ラストで描かれた「桜田門外の変」から一年近く経過したことになります。
また、西郷に藩から召喚状が届き、奄美大島を出発したのは、文久2(1862)年1月14日のことです。つまり、今回ドラマ内でさらに一年経過したことになります。

そして、今回大久保が藩の御小納戸に抜擢され、名実共に久光の側近となりました
御小納戸とは、藩の政務に携わる側役の下に付き、様々な用務をこなす重職です。
この大久保の御小納戸就任を『大久保利通文書』十所収の「大久保利通年譜」を根拠に、文久元年11月としている書籍が多いですが、正しくは文久元年10月23日です
「名越時敏日史」(『鹿児島県史料 名越時敏史料』一所収)の文久元年10月23日の条に、

御納戸奉行御小納戸ヨリ 伊集院周八
御小納戸御徒目付ヨリ歟 大久保正助

との記述があり、この日に大久保が御徒目付から御小納戸に就任したことが分かります。

なお、「薩藩役職補任」(『鹿児島県史料 旧記録拾遺記録所史料』二所収)によると、伊集院周八の御納戸奉行就任日は「酉(文久元年)十月廿三日」となっていますので、この記述からも名越の日誌との整合性がとれることから、大久保の御小納戸就任は、文久元年10月23日で間違いないと言えるでしょう。

また、この名越の日誌の記述から、御小納戸に就任した時の大久保は、まだ「正助」と名乗っていたことが併せて分かります。
今回の『西郷どん』で、大久保が「正助」から「一蔵」に改名していましたが、その時期については、以前原作の林真理子『西郷どん』を読んでいた時、ふと気になって調べたことがありました。
結論から言うと、私が調べたところでは、大久保は文久元年12月18日から同年12月27日までの10日間の間に、正助から一蔵に改名したと思われますが、正式な日付については分かりませんでした。
この大久保の改名については、以前本ブログ内で三回に分けて書いたことがありますので、ご興味のある方はそちらを併せてお読みください。(下記にリンクを張っておきます)
また、大久保が一蔵に改名した日付を裏付ける史料をご存じの方は、是非ご教授頂ければ嬉しいです。

大久保利通、「正助」から「一蔵」への改名時期に関する考察(一)
大久保利通、「正助」から「一蔵」への改名時期に関する考察(二)
大久保利通、「正助」から「一蔵」への改名時期に関する考察(三)

(桜田門外の変と薩摩藩)
さて、前回の『西郷どん』のラストで、大老・井伊直弼が水戸浪士たちに襲撃されて命を落とした「桜田門外の変」が描かれましたが、この事件前後における誠忠組、ひいては大久保の対応や行動は、後に久光が率兵上京計画を決断するにあたり、大きな影響を与えたと言えるのですが、残念ながら『西郷どん』ではその点について全く描かれませんでしたので、今回簡単にまとめておきたいと思います。

「桜田門外の変」の一報が鹿児島に伝わったのは、事件が起きた20日後、万延元(1860)年3月23日のことです。
当時、藩主の茂久は、参勤交代で江戸へ向かう途上にあり、事件の知らせを受けるや否や、筑後国松崎駅(現在の福岡県小郡市松崎)から、病気と称して鹿児島に引き返すことを決定しました。井伊大老の襲撃に、薩摩藩士・有村俊斎の二人の弟、有村雄助と次左衛門が関与していたからです。

井伊大老が桜田門外で襲撃された3月3日の朝、雄助と次左衛門の二人は、藩主に対して一通の書き置きを残していますが、そこには次のように書かれていました。

「去年十月六日御書取ヲ以御諭之趣同腹之者共ヨリ申越、謹テ奉拝誦実以難有奉恐入候、右ニ付一同ヨリ御請書差上候付テハ、イツク迄モ奉受、尊命可奉尽微力儀ニ候ヘトモ、幕府之執権奉蔑如天朝方、方今奉奪勅書暴計難黙止、水戸有志之面々申合斬奸之決心仕候」(「有村兄弟藩主ヘ捧ケタル書」『鹿児島県史料 忠義公史料』一所収)

最初の「去年十月六日御書取ヲ以御諭之趣」とあるのは、前回の『西郷どん』で描かれた誠忠組に下された藩主直筆の諭告書のことです。
概略すると、有村兄弟は、「昨年下された諭告書については同志から聞き及び、ありがたく拝承し、その尊命に従うつもりでこれまで尽力してまいりましたが」と前置きした上で、「幕府の執権(井伊大老のこと)が朝廷を侮り、水戸藩に下された勅書(戊午の密勅のこと)を奪い取るような暴挙は黙止がたく、水戸藩有志と共に奸物を斬る決心をしました」と書いているのです。

『西郷どん』では全く描かれませんでしたが、元々井伊大老の襲撃計画は、当時江戸に出府していた数名の薩摩藩士たちと水戸藩内の急進派藩士たちとの間で計画されたものです。
鹿児島の誠忠組はその計画に追随すべく、脱藩突出計画を密かに企てたのですが、前回の『西郷どん』で描かれたとおり、その計画は事前に久光や藩主・茂久の知るところとなり、茂久が諭告書を誠忠組に下したことによって頓挫し、その動きは一旦沈静化されました。
茂久の諭告書には、「方今世上一統動揺不容易時節ニ候、万一時変到来之節ハ、第一順聖院様御深志ヲ貫キ、以テ国家奉護天朝ニ可抽忠勤心得ニ候(現在、世の中は動揺し、容易ならない時節となっているが、万一事変が到来した際には、第一に順聖院様(斉彬公)の深い志を受け継いで、国家のために朝廷を守護し、忠勤するつもりである)」(『忠義公史料』一)との文言があったことから、誠忠組は久光や茂久の諭しに従い、機会の到来を待つこととし、自重することを決定したのです。

これは前回書いたように、安政6(1859)年11月5日のことですが、翌安政7(万延元)年に入ると、事態はさらに深刻化していきました。
藩主・茂久の諭告書降下とは裏腹に、当時江戸に居た薩摩藩士たちは、水戸藩士との間でさらに計画を進め、井伊大老らを討つ義挙計画を企てました。
安政7(1860)年2月21日、当時江戸でこの計画に加わっていた誠忠組の田中直之進(謙助)は、急遽鹿児島に帰国し、水戸藩急進派のリーダー的存在であった高橋多一郎の書簡を携え、義挙計画を実行に移すとの情報を誠忠組の同志たちにもたらしたのです。

(大久保の尽力)
江戸の薩摩藩士と水戸藩士たちの間で企てられた義挙計画の内容については、田中が帰国した2月21日付けの大久保の日記の中に詳しく書かれています(『大久保利通日記』一)。
概略を記すと、

一、井伊直弼、松平頼胤、安藤信正の三人を誅殺する。
二、勅書返還を名目として、水戸から藩兵を上京させる。
三、横浜商館を焼き討ちして、攘夷を断行する。


以上の三点ですが、田中からこの義挙計画を聞いた誠忠組は、大いに沸き立ったようです。
大久保は日記の中で、「一日三秋ノ如一同相待候事故、同志中勃起イタシ候」と書いています。
つまり、これまでずっと待ちわびていたことがいよいよ実行されると聞き、喜び勇んだということです。

また、この義挙計画を実行するにあたり、水戸藩側は薩摩藩に対して、朝廷守護のために三千人の藩兵を上京するよう求めたことから、当時誠忠組のリーダー的存在であった大久保は、その要求に応じるため、同日藩庁に対して、出兵を求める動きに出ました。
大久保の日記には、「即日御殿ニ而城陰江引合、右之次第篤と演説、是非人数御差出相成度」とあります。

そしてさらに大久保は、小姓の児玉雄一郎に対して、薩摩藩の京都出兵を実現するため、久光に話を通して欲しいと依頼しました。
大久保の日記には、「防公江は同日児雄ヲ以、一同ヨリ右之趣同様奉誠願」とあり、大久保が防公(周防)こと久光に対して、誠忠組の考えを建言しようと謀ったことが分かります。
前回書いたように、当時の久光はまだ国父という立場ではありませんでしたが、既に藩政に深く関与している権力者であったことから、京都への出兵には久光の力が必要だと大久保は考えたのです。

また、大久保はこれを機に、西郷を奄美大島から呼び戻すことも同時に画策しました。
大久保の日記には、「西御召返相成候様一条」を藩に対して求めたと書かれており、大久保は挙藩一致して義挙計画に加わるためには、西郷の力が必要だと考えていたのです。

しかしながら、久光は水戸藩士たちの義挙計画に薩摩藩が加わることを了承しませんでした。

「争乱ノ上は非常ノ義故自然ノ事候得共、未前差出義は無名ノ兵ニ相成候」

これは大久保が日記に書き留めた久光からの返答の趣旨です。
つまり、久光は「未然の出兵は名目が立たないので出来ない」と、大久保ら誠忠組の要求をはねつけたということです。

しかし、それでも大久保は粘りに粘って、藩の要路に対して出兵実現を必死に説いて回りました。それは大久保の日記に詳しく出てきます。
そんな大久保の努力は功を奏し、「事変一発の報あらば、直に兵を繰出し、第一回は、京師・関東へ各百名を派遣し、第二回は各三百名を増遣し、第三回には忠義自ら兵を率いて出陣すべしと決定したり」(勝田孫弥『大久保利通伝』)と、藩庁は未然の出兵は出来ないが、事変到来の一報があれば、三回に分けて出兵することをようやく決断したのです。

当時の誠忠組内部は、昨年の脱藩突出騒動時と同様に、脱藩して水戸藩士たちの義挙計画に加わろうと主張する者が多かったため、大久保はその動きを押さえるためにも、何とかして藩から出兵の言質を取っておきたかったのだと言えます。
渡辺盛衛『有馬新七先生伝記及遺稿』は、そんな大久保の働きについて、次のように書いています。

「大久保は連盟同志との板挟みとなって、苦心焦慮、名状すべからざるものがあったと言ふ事であります。(中略)併し、大久保は至誠を以て、遂に同志を説伏し、互に隠忍自重、他日一藩の力を以て王事に盡さん事を誓ふに至りました」

この一文が端的に示しているとおり、大久保は決起にはやる同志たちを押さえ込み、何とかして挙藩一致の行動をとるべく、事を進めようと尽力していたことが分かります。

また、大久保は西郷の召還に関しても、「事変到来の一報があればすぐに呼び返す」との言質を藩庁から併せて取りました。
今回の『西郷どん』で描かれたように、文久元年11月、西郷に対して藩から召喚状が届いたのも、この時の大久保の布石が功を奏したからであったと言えます。

以上のような動きからも、大久保の真骨頂である、目的達成のためには絶対に諦めない、強靱な精神力を垣間見ることが出来るのではないでしょうか。
この時大久保が鹿児島に居たからこそ、誠忠組は空中分解を免れたとも言えるのです。

しかしながら、そんな大久保の尽力とは裏腹に、当時江戸に居た有村兄弟は、水戸藩士たちとの計画を反故にすることは出来ず、誠忠組の同志たちが決起することを信じて、義挙計画に参加し、同年安政7年3月3日に「桜田門外の変」が生じました。
結局、大久保が意図した挙藩一致の出兵計画は、実行に移すことは叶わなかったのです。

有村次左衛門は井伊大老暗殺の実行犯として加わり、井伊の首級を挙げた後、自刃して果て、また、兄の雄助は事件後四日市(現在の三重県)において捕縛され、鹿児島に送還後、藩から切腹を命じられました。

「雄々しくも 君に仕うるもののふの 母てふものは あはれなりけり」

これは二人の子供を同時に失った有村兄弟の母・蓮子が詠んだ惜別の歌ですが、大久保は日記の中で雄助の死について、「盟中一同江長別ヲ告従容不迫トして及臨終候、嗚呼天乎命乎、一同愁傷憤激不可言」と、その無念の思いを綴っています。

DSCF0975.jpg
有村雄助・次左衛門誕生之地(鹿児島市)

この時大久保が感じた忸怩たる思いが、後に久光の率兵上京計画を実現するための大きな原動力となったであろうことは想像に難くありません。
また、それと同時に、このような形で有村兄弟だけが義挙計画に参加して死亡することになったことは、誠忠組内部に大きな亀裂やしこりを生じる結果ともなりました。
そのことは後年大きな影響を与え、有馬新七ら誠忠組急進派が独自の行動を起こし、薩摩藩士同士が相討つ「寺田屋事件」の悲劇へと繋がっていくことになるのです。

(菊池源吾)
今回は少し長くなってしまいましたが、『西郷どん』の奄美大島編も今回が最後ということですので、ここで奄美大島と西郷について簡単にまとめて終わりたいと思います。

『西郷どん』でも描かれているとおり、西郷は奄美大島に居る間、菊池源吾という名前を使用しました。
この名前は、西郷家の祖先が鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将で、南朝の忠臣と言われた菊池武光であったと伝えられていることに由来していると言われています。
つまり、「吾が源(祖)は菊池」という意味が込められているというわけです。
池田米男『南洲先生新逸話集』によると、西郷家の祖である菊池氏がのちに姓を西郷と改めたのは、当時菊池氏の居城・増永城が肥後国菊池郡西郷村にあったからのようです。
ここは現在の熊本県菊池市七城町砂田西郷という場所にあたりますが、その地には歴史家・徳富蘇峰が揮ごうした「西郷南洲先生祖先発祥之地」という石碑が建っています。

ちなみに、この菊池源吾はあくまでも変名です。
前々回の『西郷どん』のラストシーンで「おいの名は西郷吉之助じゃ」と、西郷が愛加那に告白するシーンがありましたが、藩の公式的に言えば、「西郷三助」というのが正式な名前です。
西郷が安政の大獄の影響を受け、幕府のお尋ね者になった際、藩は鹿児島に帰国した西郷に対して、当時名乗っていた吉兵衛から三助への改名を命じました。
西郷家の家政上の記録である「万留」(『西郷隆盛全集』四所収)を見ると、西郷が奄美大島に潜居中も、西郷家から出された届け出には、この三助という名前が使用されていることから、正式名は三助であったことが分かります。
また、西郷がこの三助から再び名前を変えるのは、だいぶ後のこと、奄美大島から帰還後の文久2(1862)年2月15日のことで、その時西郷は大島三右衛門という名前に改名しています。
また、その三右衛門も約四ヶ月後には大島吉之助と改名していますので、この時期の西郷は目まぐるしく名前を変えていた(変えざるを得なかった)と言えるでしょう。

少し余談を挟みますが、第17回の『西郷どん』において、西郷の祖母・きみが痴呆の影響からか、鹿児島に帰国した西郷のことを亡き父の吉兵衛と間違えて、「吉兵衛、吉兵衛」と連呼し、西郷が驚くシーンがありました。
しかしながら、史実から言えば、当時の西郷の名前は吉之助ではなく吉兵衛でしたので、実は正しい呼び方をしていると言えるのです。
そう考えてあのシーンを見ると、何だか面白いですよ(笑)。

閑話休題。
第18回の感想&小解説でも触れたとおり、西郷の奄美大島行きは、いわゆる「遠島」という処罰ではありませんでした。
前述のとおり、西郷が吉兵衛から三助に改名を命じられたのは、藩が西郷を保護するための処置であったわけですが、この奄美大島行きに関しても、西郷保護策の一環として実施されたことであったからです。

西郷が月照と共に入水した約二週間後の安政5(1858)年11月29日、薩摩藩家老の新納久仰が同じく家老の島津豊後に宛てた書簡(勝田孫弥『西郷隆盛伝』所収)には、「存命之儀公邊へ響合候ては誠に不容易」とあり、西郷が生きていることを幕府に知られてはまずいので、「変名之上此涯三島之内へ被遣」と、変名の上で三島(奄美大島、喜界島、徳之島)の内のいずれかに派遣する、と書かれています。
また、薩摩藩出身の歴史家・重野安繹は、「前藩主の斉興公が、西郷の義気溢れる行動(つまり、月照と共に入水したこと)を賞賛されたことから、遠島先での取り扱いを丁寧にするよう命じた」との趣旨を後年語り遺しています(「重野安繹演説筆記第四」『鹿児島県史料 斉彬公史料』三所収)。

このように西郷の奄美大島行きは遠島という処罰ではなかったのですが、奄美大島の島民たちはそう見ていなかったらしく、当初西郷を罪人扱いしていたようです。
西郷が安政6(1859)年4月21日付けで、同島の代官・吉田七郎宛てに送った書簡には、

「遠島人同様にはいたし間敷と一口御達し成し下されたく、同様にいたされ、たまり兼ね候儀多々候故、漸く腹を据え候事に御座候」(『西郷隆盛全集』一)

と、「罪人同様の扱いをされ、たまりかねている。島民に対して一言、私が遠島人ではないことをお達し下さい」と書いています。
西郷は「腹を据え候(腹にすえかねる)」と書いていることからも、自分が罪人ではないのに、罪人の目で見られていることに不快感を持っていたことが察せられます。

また、西郷は同書簡の中で、「竜郷には迚も居られざる所に御座候(龍郷はとても住めるような場所ではない)」と書いていますが、そんな西郷の鬱屈した気持ちを慰めたのは、のちの妻となる愛加那の存在であったと言えるでしょう。

(龍家と愛加那)
奄美大島編において、西郷と共に中心人物となっているのが、「とぅま」こと「愛加那」ですが、彼女の実家、つまり西郷が奄美大島で世話になった龍家のことについて、ここで少しまとめておきたいと思います。

菊池源吾として奄美大島へ身を隠すことになった西郷は、同島龍郷の間切横目(警察・監察役)・得藤長の紹介で、龍郷の名家である龍佐運の家で世話を受けることになりました。
『改訂名瀬市誌』1巻歴史編によると、龍家は元々笠利姓を名乗り、十二代の佐文仁の時に、浦の開墾事業の功績によって、享保11(1726)年12月、代々外城衆中格を藩から仰せつけられ、以後田畑姓を名乗ることになったとあります。
平たく言えば、この時に龍家は外城士(郷士)と同じ身分になったということです。

同市誌によると、田畑姓から龍の一字姓になったのは天明5(1785)年のことで、柄本明さん演じる龍佐民は、十八代・佐運の異母弟にあたりますが、佐運は安政4(1857)年に既に死去しており、その嫡子(十九代の佐文)が幼かったことから、西郷が奄美大島に来た当時は後見人として龍家を取り仕切っていました。
この佐民の姪にあたるのが愛加那ですが、彼女の幼名は於戸間金(おとまかね)と言いました。
奄美大島の名前については、於は尊称で、金は加那と同義語、いわゆる愛称のようなものと言われていることから、大河ドラマではその間の「戸間」を取り、「とぅま」となっているのだと思います。(以下、彼女のことは愛加那で通します)

第18回の『西郷どん』において、愛加那が「私は島妻(あんご)にはならない」、と西郷の世話をすることを強く拒否していましたが、当時の奄美大島には、藩から派遣された役人や流刑人が島の女性を娶る風習がありました。
ただ、島の女性が役人たちの島妻となった場合、様々な特権が受けられたため、当時は島妻を否定的に捉える向きは案外少なかったと言えるかもしれません。
歴史作家・桐野作人先生の「西郷隆盛とは」(『西郷隆盛という生き方』所収)には、

「奄美諸島に役人として赴任してきたり、比較的身分が高い罪人は島妻を迎えることが多かった。夫が薩摩本土に帰るとき、島妻は同行できずに島に残るしきたりだったが、子女は本土に渡ることができて、教育をうける機会にも恵まれる。男子なら武士身分を獲得できたり、女子なら家柄のよい婚家に嫁ぐことができたりする。また島妻の実家も藩から厚遇を期待できたので、娘を進んで島妻にする家も少なくなかった」

とあり、そのことが触れられていますが、鹿児島の郷土史家としても有名であった鮫島志芽太氏は、その著書『国にも金にも嵌まらず 西郷隆盛・新伝』下の中で、

「島妻は薩摩藩が、島に単身赴任する諸役人に、在島中、島の女と暮らすことを容認したことからはじまった。遠島人も、それをまねるようになった。島では一般に未亡人が島妻になった。初婚の娘や良家の女は、島妻には出さなかった。だから島妻が、三献の祝儀をあげて披露されることなどはなかった。藩は島妻を連れて帰ることを許さず、しかし、島妻の生んだ男子は鹿児島で学習させ、帰島後は島の行政の第一線の役人にし、試作・開墾田畑の下付や労役の免除を行なうなどの特典を与えた。これが、島妻を出したがる風習を生んだ」

と書いています。
当時の厳しい身分制度の中で、島妻の子供には一種立身するための道筋が設けられていたことから、このような風習が長く続くことになったと言えましょう。

ちなみに、西郷と愛加那は、鮫島氏が書かれている三献の祝儀を挙げたと伝えられています。これは第19回の『西郷どん』でも描かれていましたね。
第8回の感想&小解説ブログにおいても書きましたが、西郷は最初の妻・スガとの離婚を経験し、「再び結婚するつもりは全くない」との考えを長い間持ち続けていましたが、そんな西郷が結婚に踏み切ったということは、『西郷どん』で描かれたように、西郷にとっての愛加那とは、島妻と言うよりも、本当の妻に等しかったと言えるのではないでしょうか。
そんな愛加那は、西郷との間に一男一女をもうけました。
今回のドラマ内で描かれたとおり、長男は菊次郎、そして長女は菊草です。
この二人のことについては、後にまた書く機会があると思いますのでその時に。

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【2018/06/04 16:16】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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はじめまして
Thomas
 はじめまして、Thomasと申します。

 「西郷どん」の放送のあとは、必ず、ここのブログを
 読み、知識を深め、勉強させていただいております。
 入院なさっておられるとの事、心配しております。
 今回の書込みも、また内容的に濃いメッセージで体調
 に触らないかと気になりました。
 どうぞ、早い回復を祈念しております。


ありがとうございました
粒山 樹
Thomasさま

はじめまして、こんにちは。
この度はメッセージを書き込んで頂きまして、本当にありがとうございました。

大変嬉しいコメントを頂戴し、本当に嬉しく、そして光栄です。
また、私の体調を気遣うお言葉も頂戴し、重ねてありがとうございました。
現在は退院し、体調も上向いております。

このブログに関しましては、少しでも多くの方々に、西郷隆盛や薩摩藩に興味を持って頂けるよう、読みやすく・分かりやすいをモットーにして書いております。
これからも頑張っていきたいと考えておりますので、応援の程どうぞよろしくお願いいたします。
この度は誠にありがとうございました。

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はじめまして
 はじめまして、Thomasと申します。

 「西郷どん」の放送のあとは、必ず、ここのブログを
 読み、知識を深め、勉強させていただいております。
 入院なさっておられるとの事、心配しております。
 今回の書込みも、また内容的に濃いメッセージで体調
 に触らないかと気になりました。
 どうぞ、早い回復を祈念しております。
2018/06/04(Mon) 17:32 | URL  | Thomas #-[ 編集]
ありがとうございました
Thomasさま

はじめまして、こんにちは。
この度はメッセージを書き込んで頂きまして、本当にありがとうございました。

大変嬉しいコメントを頂戴し、本当に嬉しく、そして光栄です。
また、私の体調を気遣うお言葉も頂戴し、重ねてありがとうございました。
現在は退院し、体調も上向いております。

このブログに関しましては、少しでも多くの方々に、西郷隆盛や薩摩藩に興味を持って頂けるよう、読みやすく・分かりやすいをモットーにして書いております。
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この度は誠にありがとうございました。
2018/06/04(Mon) 17:50 | URL  | 粒山 樹 #-[ 編集]
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皆さんこんばんは。今回は今年の大河ドラマ『西郷どん』第21~25回の感想です。まずはあらすじ。愛加那(二階堂ふみ)との間に男児をもうけ、島の生活に馴染んでいた西郷吉之助(鈴木亮平)。しかし、親友大久保正助改め一蔵(瑛太)の尽力により、薩摩に戻ることが許された
2018/08/11(Sat) 19:02:10 |  Coffee, Cigarettes & Music