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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
ドラマは奄美大島編の優雅さから一変し、激しい政局の渦の中へと入っていきました。
国父・島津久光がいよいよ兵を率いて薩摩から上京することを決断し、それに伴い西郷が奄美大島から召還されました。
しかし、久光の率兵上京計画を巡り、二人は激しく言い争い、真っ向から衝突します。
人間には性格的に合う人とそうでない人が出てくるものですが、この二人は典型的に相容れない仲であったと言えるかもしれません。
そして、この二人の確執は、後に薩摩藩内に大きな影響を与えることになるのです。

(西郷の久光に対する感情)
よく、西郷は元々久光に対して良い感情を持っていなかったと言われます。
それは久光が斉彬と藩主の座を争った人物であり、西郷が憎んでいたお由羅の方の子供であったからですが、私は世間一般で言われるように、西郷の中の久光に対する嫌悪感は、初対面以前はそれほど大きなものでは無かったと考えています。

確かに、西郷はお由羅の方のことを「奸女」と書簡に書くほど、彼女に対して敵意を抱いていたことは間違いありませんが、西郷がお由羅の方を敵視していたことをもって、その子の久光も嫌いであったとするのは、少し短絡に過ぎる気がします。
忘れてはならないのは、先年の「お由羅騒動」は、「藩主斉興 対 斉彬擁立派」の対立構図であり、直接的に斉彬や久光は一切関与していません。
そのため、若き日の西郷が敵視したのは、斉興を担ぎ、斉彬廃嫡に動いたお由羅の方や島津豊後以下保守派と呼ばれた重臣たちであって、久光本人では無かったということです。

前々回に書いたとおり、西郷が崇拝した斉彬は、その生前久光を大変頼りとし、そして良き相談相手と認識していました。
おそらく、西郷は斉彬から久光の悪評を聞くことは皆無であったでしょう。むしろ西郷は、斉彬から久光の評価の高さを聞いていたかもしれません。
それを裏付けるかのように、西郷の書簡には、久光のことを悪し様に言う様子は一切見られません。

拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』において詳述しましたが、西郷は久光と茂久父子が斉彬の遺志を受け継ぎ、積極的に国事に乗り出す決意を見せたことを大変喜び、久光のことを中国の周王朝建国の功臣であった「周公旦」になぞらえて賞賛しました。

「周公旦の御忠胆実に感佩奉り候」(『西郷隆盛全集』一)

これは西郷が安政7(1860)年2月28日付けで大久保ら誠忠組の同志に宛てた書簡に出てくる表現ですが、このように西郷は「感佩」という言葉を使って、久光の志に深く感銘を覚えたと書いているのです。

その前年の安政6(1859)年11月5日、江戸で企てられた大老・井伊直弼の暗殺計画に続くため、脱藩突出計画を企てた誠忠組に対して、藩主・茂久から諭告書が下されたことは前回書きました。
大久保はこの諭告書降下について、当時奄美大島に潜居していた西郷にその旨知らせるべく、同安政6年12月付けで次のような書簡を書き送りました。

「先月五日、太守様より御直筆を以て御内諭の御趣拝承奉り、其の次第は当時世御嘆慨在らせられ、昨年来貴兄一条を初め、其の后同志突出の事実聞召し通せられ候」(『西郷隆盛全集』五)

大久保は西郷に対して、藩主から直筆の諭告書が下され、これまでの西郷の働きを始めとする諸事情が聞き遂げられたことを説明し、さらに「順聖院様御趣意継ぎ奉り、御国家を以て天朝御奉護、精忠を抽んでられるべき思召しに付き」と、久光や茂久が順聖院こと斉彬の遺志を受け継ぐ覚悟を見せたことを知らせました。
前述のとおり、この大久保の知らせを受けて西郷は、そんな久光の決意に深く感銘し、久光のことを周公旦になぞらえて賞賛したというわけです。

また、大久保からの書簡には、もう一点、西郷を喜ばせる知らせが書かれていました。
大久保の書簡には次のようにあります。

「一 同九日総州御再職仰せ付けられ候。豊攘除総公撰挙に付いては、駿・竪武の輩これを妨げ、偏に防公の御英断に出で候由」

この文面を理解するには、少し補足が必要です。
まず、総州とは島津下総、つまり島津左衛門久徴(ひさなが)のことを指しています。
島津下総は、斉彬藩政時の主席家老、つまり藩政を取り仕切るトップに居た人物でしたが、斉彬の死後、斉彬に代わって藩政を掌握した前藩主の斉興の意向もあって、下総は罷免され、島津豊後(久宝)が主席家老に返り咲いていました。
前述しましたが、島津豊後は斉興の寵臣で、先年生じた「お由羅騒動」の際、お由羅の方と同様に保守派の首魁として西郷たちに憎まれた人物でもあります。

大久保は西郷に宛てた書簡の中で、誠忠組に諭告書が下った4日後の11月9日、島津豊後が「攘除」、つまり免職となり、それに代わって島津下総が「御再職」、つまり復職したと知らせています。
さらに大久保は、「島津豊後の免職を家老の新納駿河(久仰)と竪山武兵衛(利武)の輩が妨害しようとしたが、防公(周防)こと久光公の英断によって、島津下総の復職が叶った」と書いています。
つまり、島津下総の主席家老返り咲きは、久光の英断によって成し遂げられたことを大久保は西郷に対して知らせたのです。

この大久保からの下総復職の知らせを聞き、西郷は大変喜びました。
西郷は大久保からの書簡を受け取った後、同年12月26日付けで奄美大島の代官・吉田七郎宛てに書簡を出していますが、その中で「佐殿御帰職の由申し来り、偏に祝い奉り候儀に御座候」(『西郷隆盛全集』一)と、佐殿こと下総が復職した喜びを表現しています。

このように、西郷が下総の復職を喜んだのは大きな理由があります。
下総が斉彬に重用された家老であったということもさることながら、一番の原因は下総が日置島津家の出身であったからです。
『西郷どん』において、「お由羅騒動」に連座し、切腹して果てた人の中に、沢村一樹さん演じる赤山靱負という人物が居たことは記憶に新しいかと思います。
以前少し触れましたが、この赤山は下総の実弟にあたります。

西郷と下総や赤山の実家である日置島津家との関係については、以前詳しく書きました。
西郷の父・吉兵衛は、日置島津家の用頼(御用人)を務めていた関係から、若き日の西郷は同家に頻繁に出入りし、赤山から薫陶を受けて育ったと伝えられています。
また、西郷は赤山の死後も、田尻務桂久武といった下総や赤山の弟たちとの交流を一層深めました。
特に、桂と西郷は「刎頸の友」とも呼べる親友の間柄であり、桂は後年家老に昇進した後も常に西郷を庇護し続け、最後は西南戦争で共に戦死したほどです。

DSCF0730.jpg
西郷の親友・桂久武の墓(鹿児島市)

このように、西郷は日置島津家と縁深い間柄であったことから、赤山や桂の実兄にあたる下総を頂点とする「日置派」と呼ばれる派閥に属していたと言われています。

以上のような事情から、西郷は下総の復職を我がことのように大変喜んだのですが、そんな下総の復職を叶えた人物とは、大久保の書簡にあるように、誰あろう島津久光その人です。
奄美大島に潜居していた当時の西郷は、そんな久光の英断に深く感謝していたと思われますので、当時の西郷の心中に、久光に対する嫌悪感は無かったように思います。

(誠忠組と日置派の対立)
西郷が喜んだ島津下総の復職は、実は大久保を中心とした誠忠組が久光に対して仕掛けたことでした。
藩主・茂久の諭告書が誠忠組に下された際、大久保はその請書と同時に上書を藩に対して提出していますが、その中に次のような文言が入っています。

「於是御急務之義者、第一人心之向背如何之儀御坐候間、人望依頼之人躰執政被居置候様有御坐度、島津左衛門殿被堪其任人躰御坐候間、早々御再職被仰出御手當向厳重被備置度候様奉願候」(『大久保利通文書』一。句読点を挿入しました)

つまり、大久保は、「当今の急務とは、第一に人心を定めることであり、人望の厚い人物を執政に置くことです。島津下総殿はその任に適した人物だと思いますので、早々に復職を仰せ出されるよう願い奉ります」と、茂久や久光に対して要望したのです。

芳即正『島津久光と明治維新―久光はなぜ討幕を決意したのか』によると、元々久光の心中には下総を再登用する考えがあったようですが、誠忠組からの請願をきっかけに、久光は島津豊後を退けることを決断し、下総の復職を決断したことは間違いありません。
さらに、豊後は保守的な考えを持つ人物でしたので、久光は今後国政に関わるにあたり、豊後の存在がいずれ障害になることを見越し、その更迭を決めたとも言えます。

また、当時の久光はまだ国父という立場ではなく、藩内における基盤は脆弱な状態であったことから、活きが良く、そして頼もしい誠忠組の若者たちの要望を聞き入れることにより、彼らを手なずけて、自らの政治基盤にしようと意識していたやもしれません。
このように、この時誠忠組と久光の思惑は合致したことにより、下総の復職が叶ったと言えるのです。

しかしながら、翌安政7(1860)年に入ると、これほどまでに大久保ら誠忠組が復職を熱望した下総の存在が、今度は却って誠忠組の障壁へと変化していきました。
前回書きましたが、江戸で井伊大老を襲撃する義挙計画が企てられたことから、それに追随すべく、大久保は薩摩からの出兵を藩に画策しましたが、そんな誠忠組からの要望に対し、彼らが頼りにしていた下総は反対の意を唱えました。
勝田孫弥『大久保利通伝』には、「久光・下総は、共に幕府の嫌疑を畏れたるのみならず、下総・蓑田等と利通等とは、其意見に緩急ありて、稍其趣を異にせし」とあり、当時大久保ら誠忠組と下総との考えに隔たりがあったと書かれています。

また、藩主・茂久が江戸に出府する(参勤交代する)にあたり、大久保は誠忠組の仲間から従士が選ばれることを期待しましたが、下総ら藩の要人たちは、誠忠組に属する藩士たちは過激であるとして、江戸参府のメンバーから外したのです。
勝田孫弥『大久保利通伝』には、

「此派遣せらるべき人員は、勤王党の中よりも抜擢任命あるべしとは、利通が予期せし所なりしが、藩庁は彼等を以て尚過激なりとし、大に危険視して、勤王党員は事変一発の後、京師警衛の為めに派遣すべしとて、三月八日、党外の人士より悉く任命したり」

とありますが、この誠忠組外しに関して、渡辺盛衛『有馬新七先生伝記及遺稿』は次のように書いています。

「日置派も固より斉彬の遺旨を遵奉し、勤王の志厚かりしも老成着実にして保守的傾向を帯び、精忠組一派とは、その主義主張に於て緩急の差があり、次第に相背馳する傾向を生じ、隠然として鹿児島城下に両政派しました。ここに又精忠組一派が日置派を憎悪するに至りし一事件が発生いたしました。萬延元年春、太守茂久の参府に際し、藩政府の當局たりし日置一派がその随行の士を悉く自派に縁故あるものに取って、精忠組一派を排斥したことが即ちそれであります」

つまり、誠忠組の藩士たちが江戸参府の選から漏れたのは、下総率いる「日置派」による策略であったということです。

高島弥之助『島津久光公』は、

「太守茂久公は近日参府せらるることとなり、三月八日其の儀衛を定め、別に萬一に備へんが為に特派の士を選抜したのであるが、大久保等の同志は過激党と視られて、一人も其の選に入らなかったので、大久保は其の不公平を鳴らし、藩庁當路の遮ぎるを押切って、忠教公に謁して之を訴へんと決心した」

と、大久保はこの決定を不服とし、久光に謁見を求めたとあります。
実際に大久保は、この3日後の安政7(1860)年3月11日、初めて久光に拝謁していますが、藩庁の決定は覆ることはありませんでした。
この一件が大きなきっかけとなり、その後、日置派と誠忠組は対立の様相を呈し、やがて大久保ら誠忠組の面々は、下総ら日置派の存在を疎ましく考えるようになったのです。

そして、時が翌文久元(1861)年に入ると、4月22日に久光は国父として処遇されることになり、実質的な権力を持ち始めました。
これを機に大久保は、誠忠組の同志・有村俊斎や堀仲左衛門らと謀り、藩主・茂久や久光に近い谷村愛之助や児玉雄一郎といった側仕えの者や当時久光の側近として力を持ち始めていた御小納戸の中山尚之助とも結び、日置派の排斥を画策しました。

また、久光自身も、斉彬の遺志を受け継ぎ、国政に参画するにあたり、中央乗り出しに消極的な態度を示していた下総の存在が、次第に障害となりつつあったことから、ここに久光と大久保ら誠忠組の思惑は合致し、今度は下総が罷免されることになるのです。
以前は両者の思惑が合致したことで、下総が復職することになったわけですが、その二年後には下総排斥で意見が一致するのですから、歴史とは不思議なものです。
このように、当時の薩摩藩内の勢力図は、目まぐるしく変化していたと言えましょう。

文久元(1861)年10月、久光は誠忠組の幹部たちを藩政府の要路に取り込む一大人事改革を断行しました。
10月7日に堀仲左衛門を御小納戸に、同15日に岩下佐次衛門(方平)を軍役奉行兼趣法方掛に、同22日に有馬新七を造士館訓導師に、同23日には大久保を御小納戸に昇進させ、また、吉井仁左衛門(幸輔)や海江田武次(有村俊斎)といった誠忠組に属する藩士たちを御徒目付に登用しました。

また、それと同時に久光は、日置派の長である島津下総を主席家老から更迭し、その配下にいた日置派の面々、蓑田伝兵衛、椎原国幹、米良助右衛門、桂久武、市来正之丞といった人々を閑職に左遷したのです。
高島弥之助『島津久光公』には、「是れ皆公が大挙して東上せられんが為の準備であった」とありますが、まさしく久光は、いよいよ悲願であった率兵上京計画を実現するため、自らの意のままに動く人材を藩政府の要職に就ける藩政改革を断行したと言えます。
このように、藩政府の人事改革が成し遂げられたことにより、ようやく久光の親政体制が整ったのです。

(西郷と久光の衝突)
久光が実施した藩政改革は、西郷が奄美大島から鹿児島に帰還する約4ヶ月前の文久元(1861)年10月に実施されたことでした。
西郷の召喚状は、同年11月21日に西郷の元に届いたと伝えられていますので、西郷は召喚の知らせと共に、下総以下の日置派が更迭されたという情報を得ていたことでしょう。
そして、このような人事が断行されたことについて、西郷は大いに不満であったに違いありません。
なぜなら、久光の人事改革によって左遷された人々の中には、西郷が尊敬する日置島津家の下総を筆頭に、親友の桂久武や母方の叔父である椎原国幹、そして妹婿の市来正之丞も含まれていたからです。

また、これらの人事改革の裏側には、大久保や堀といった誠忠組の藩士たちが居たことも、西郷は敏感に感じ取ったのではないでしょうか。
そのため、西郷の不満の矛先は、人事を断行した久光に向かったと言うよりも、そのような人事を裏で画策した大久保ら久光配下の重臣たち、ひいては誠忠組そのものに対して向かうことになったと言えます。

西郷はのちに久光に罰せられ、遠島処分を受けた際、奄美大島で世話になった見聞役の木場伝内に対して、鹿児島へ帰還してから遠島処分を受けるまでの経緯を詳細に綴った長文の書簡を出していますが、その書簡の中で西郷は、当時の大久保ら久光側近たちのことを「少年」という表現を使い、次のように書いています。

「少年国柄を弄し候姿にて、事々物物無暗な事のみ出候て、政府は勿論諸官府一同疑迷いたし、為す処を知らざる勢いに成り立ち(若者たちが国の政治をもてあそんでいるような状態で、結果や是非を考えないようなことばかりをし、藩政府はもちろん役所全ては疑心暗鬼となり、なすべきところが分からないような状況になっています)」(『西郷隆盛全集』一)

日置派を退けて権力を握った大久保たちに対する西郷の憤懣が、この一文によく表れています。西郷が使った「少年」という言葉には、嘲りの意味が含まれていると言えましょう。
また、西郷は誠忠組に対しても同書簡の中で、

「所謂誠忠派と唱え候人々は、是迄屈し居り候ものの伸び候て只上気に相成り、先ず一口に申せば世の中に酔い候塩梅、逆上いたし候」

と、「誠忠組の面々は、良い気になって、世の中に酔い、のぼせ上がっている」と痛烈に批判しています。

そして、このような西郷の不満や怒りは、とうとう直接的に大久保ら久光側近に対してぶつけられました。
『西郷隆盛全集』の年譜によると、西郷が奄美大島から鹿児島の上之園の自宅に戻ったのは、文久2(1862)年2月12日のことですが、その翌13日、西郷は小松帯刀の屋敷において、久光側近の小松、大久保、そして中山尚之助の三人と会談しています。このことは前出の木場伝内宛て西郷書簡の中に、「小松家へ会し候様承り、大久保同伴参り候処中山尚之介参会これあり、四人会席にて御大策の趣承り候」(『西郷隆盛全集』一)とあることで分かります。

西郷が鹿児島城下に帰着してすぐに、このような会談が催されたのは、西郷が書簡で書いているとおり、「御大策」、つまり久光の「率兵上京計画」について、大久保ら久光側近が西郷に対して説明・相談しようとしたためでした。
しかし、その席上で西郷は、久光の率兵上京計画を痛烈に批判し、そのような粗忽な計画を進めている大久保らを責め立てました。
西郷は前出の木場伝内宛て書簡の中で、

「都(すべ)て仕くさらかして仕る様と申され候ては、出来申さざる段返答いたし」

と、大久保らに言ったと書いています。
つまり、「お主たちが好き勝手に何でもかんでもやりまくった挙句、後はよろしく頼むと言われても、そんなこと出来るはずがないではないか」と、西郷は大久保らを批判したということです。
この西郷の書きぶりから察すると、西郷は強い口調で大久保らを詰ったのではないでしょうか。

西郷の木場伝内宛て書簡には、久光の率兵上京計画の不備が長々と書き連ねられていますが、この時西郷が久光側近の大久保ら三人と率兵上京計画を巡って激論となったのは、計画の不備について西郷が危惧したからと言うよりも、元々西郷が大久保らに対して、大きな不満や不信感を抱いていたからであったと私は見ています。
つまり、この時の西郷はとても感情的になっていたということです。

前述のとおり、西郷は島津下総が更迭され、さらに自分に近しい人たちが左遷されたことを知り、大きな不満を抱きながら鹿児島に帰還しました。
結果、その西郷の憤懣やる方ない感情は、日置派を排斥した人々、つまり大久保たちに向けられました。
西郷は久光の率兵上京計画の内容に反対したと言うよりも、久光側近に対する悪感情が先に立ち、その計画に反対の意を表したように思います。

このような心理状態にあった西郷と大久保らの話し合いが上手くいくはずもありません。
最初から西郷は大久保ら久光側近に対して拒否反応をもって接したため、話し合いは平行線に終わり、また、西郷と初めて顔を合わせた中山尚之助も、西郷に対して良い感情を抱きませんでした。
そして、その翌々日の2月15日、西郷はいよいよ久光と拝謁することになるのですが、西郷がこのような心理状態であった以上、二人の対面が円満に終わるはずも無かったと言えます。
今回の『西郷どん』でも描かれましたが、西郷が久光に拝謁した際、久光に対して、

「地ごろ」

と言ったという伝承が残されています。
「地ごろ」とは、一般的に言われている「田舎者」という表現よりも、「世間知らず」と解した方が適切だと思います。
つまり、西郷は久光に対し、「薩摩から一歩も出たことの無い、世間知らずの貴方が上京しても上手く運ばない」と言ったということです。

しかしながら、私は西郷が久光に対し、面と向かってこのような過激な言葉を使って罵ったとは考えづらく、この西郷の発言は、その2日前の小松、大久保、中山との会談の席上で使用された言葉であったと解釈しています。
この「地ごろ一件」に関しては、拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』(扶桑社、2017年)に詳しく書きましたので、そちらをご覧頂ければと思います。

(西郷と久光が衝突した真の原因とは)
藩内で日置派が排斥される人事が断行されたため、西郷はそのことに大きな不満を持って鹿児島に帰還しました。
鹿児島に着いた当初の西郷は、とても感情的になっていたと言え、それが原因で大久保ら久光側近と意見が折り合わず、また、そのような不満を抱いたまま久光と初めて拝謁することになったことから、西郷は久光とも衝突することになりました。

西郷と久光が衝突したのは、従来言われている西郷の久光に対する悪感情が原因と言うよりも、これまで書いてきた日置派の排斥に端を発した、久光側近に対する西郷の不満、そして不信感が大きな原因になっていたと考えられます。

鹿児島に帰還した西郷の心中に、日置派の排斥がわだかまりとして残っていたことについては、前出の木場伝内宛て書簡内にそれを裏付ける記述がいくつか出てきます。
例えば、大久保が西郷に対し、久光の率兵上京計画に協力するよう、西郷に翻意を促すため再度一人で説得に来た際、西郷は大久保に対して、次のように言ったとあります。

「是非一致して御国中勤王に相成り候様成されたく、頻に切論に及び候」

つまり、西郷は大久保に対して、日置派とも一致団結して事を進めるよう熱心に論じたということです。
西郷はこの時の発言が、その後自分が処罰される原因となったと考えていたようです。
西郷は同書簡の中で、「是が畢竟一番悪事と相成り申し候」と、日置派擁護とも取れる発言をしたことが、久光から断罪された一番の要因となったと書いているからです。

また、その他にも、西郷は木場に対して、「私出立の前晩桂右衛門殿宅へ参り候儀共、大不都合相成り候由」と、久光の行列に先立って出発する前夜、西郷が下総の実弟である桂久武を訪問したことが、藩庁にとっては不都合、つまり悪く受け留められたと書いているほか、「中山奸謀を以て、左州一列と結合候て事を謀ると申し成し、其の罪を以て落され申し候」と、久光側近の中山の陰謀で自分が日置派と結託しているとされたため、罪に落とされることになったとも書いています。
以上のような西郷書簡の記述からも、西郷の日置派へのこだわりやわだかまりが見て取れることから、鹿児島帰還後の西郷が、日置派の排斥に異常なまでに神経を尖らせていたことが分かるのではないでしょうか。

また、西郷がこのように感情むき出しのまま大久保ら久光側近を責め立て、さらに久光とも衝突したのは、やはり三年にも及ぶ長い南島生活を強いられ、一種鬱屈した日々を過ごしていたことと無縁ではないでしょう。
『西郷どん』では、西郷が愛加那や子供たちのことを考えて、奄美大島に残る決心をしていたかのように描かれていましたが、実際西郷は藩から召還されることを心待ちにしていたことは、現代に残る西郷の書簡を見れば明らかです。
そして、ようやく鹿児島に帰還できることになったと思いきや、自らが信頼する日置派の人々が排斥され、それに代わって誠忠組の同志たちが昇進し、我が物顔で藩政を取り仕切る様子を見て、西郷は面白からぬ感情を抱いたのでしょう。
その西郷の感情が、久光やその側近との対立を生んだ根本的な原因になったと私は解釈しています。

以上のように考えると、西郷と久光の衝突は、明らかに西郷の一方的な感情が原因であり、久光に否はなく、当時の西郷は人間的にもまだまだ未完成であったと断じざるを得ません。
ただ、西郷とて一人の人間です。感情的になることがあったとしても、それは人としてある意味当たり前のことであったと言えるでしょう。
現代においても、感情的になればなるほど人間関係がこじれることはよくある話で、人間という生き物は、いつの時代にあってもその本質は変わらないものだと感じてなりません。

私は西郷が好きでたまらない人間ではありますが、西郷を見る際、贔屓の引き倒しにならぬよう、常に自戒しています。
「あばたもえくぼ」ではないですが、西郷だからと言って常に好意的に捉えるのではなく、出来るだけフラットな見方をし、こうした西郷の未熟な部分もはっきりと書くことこそが、真の西郷評価に繋がるものと信じています。

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【2018/06/10 20:47】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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ようやく理解
甘党猫
いつもながら勉強になります。

今回の大河ドラマは政治的な動きがほとんど描かれていないため、登場人物の行動の動機については、自分で勉強して推測するしかないように思います。またも「敬天愛人」を拝見して、ようやく理解できた次第です。

ドラマでは大久保だけが久光に気に入られ、出世した(他の者はそれを妬ましく見ていた?)ように描かれていましたが、実際は有馬新七も海江田信義も同時期に出世していたんですね。今回、急に有馬が門人・同志を連れてきたので、いつそんなに偉くなったのかとちょっと驚いていました。

自分を島から戻してくれた久光公と対面した西郷が、最初から不満顔だったことも解せなかったのですが、この裏で西郷家が昔から世話になっている日置島津家の人々が左遷されていたとうかがうと、納得です。赤山靭負と父吉兵衛の関係を描き、桂久武も出しているわけですから、ここはドラマでも見たかった(その方が分かりやすかった)と思います。

英雄「西郷隆盛」の負の面もフラットに書かれるという粒山さんの姿勢は素晴らしいです。今後の記事も楽しみにしておりますが、体調についてはご自愛いただきますようお願い申し上げます。

いつもありがとうございます
粒山 樹
甘党猫さま

いつも当ブログをご愛読いただきまして、誠にありがとうございます。
いつも大変励みになっております。

西郷と久光の関係ですが、本文中にも書きました西郷の木場伝内宛ての書簡を熟読いたしますと、西郷自身が日置派にこだわる発言を数多くしていることから、やはり久光や大久保たちと衝突する主要な原因になったと思われます。
西郷にとって、日置島津家は、やはり特別な存在であったのでしょうね。
祖母から続く縁がありましたので。

それでは、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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ようやく理解
いつもながら勉強になります。

今回の大河ドラマは政治的な動きがほとんど描かれていないため、登場人物の行動の動機については、自分で勉強して推測するしかないように思います。またも「敬天愛人」を拝見して、ようやく理解できた次第です。

ドラマでは大久保だけが久光に気に入られ、出世した(他の者はそれを妬ましく見ていた?)ように描かれていましたが、実際は有馬新七も海江田信義も同時期に出世していたんですね。今回、急に有馬が門人・同志を連れてきたので、いつそんなに偉くなったのかとちょっと驚いていました。

自分を島から戻してくれた久光公と対面した西郷が、最初から不満顔だったことも解せなかったのですが、この裏で西郷家が昔から世話になっている日置島津家の人々が左遷されていたとうかがうと、納得です。赤山靭負と父吉兵衛の関係を描き、桂久武も出しているわけですから、ここはドラマでも見たかった(その方が分かりやすかった)と思います。

英雄「西郷隆盛」の負の面もフラットに書かれるという粒山さんの姿勢は素晴らしいです。今後の記事も楽しみにしておりますが、体調についてはご自愛いただきますようお願い申し上げます。
2018/06/17(Sun) 08:21 | URL  | 甘党猫 #HfMzn2gY[ 編集]
いつもありがとうございます
甘党猫さま

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西郷と久光の関係ですが、本文中にも書きました西郷の木場伝内宛ての書簡を熟読いたしますと、西郷自身が日置派にこだわる発言を数多くしていることから、やはり久光や大久保たちと衝突する主要な原因になったと思われます。
西郷にとって、日置島津家は、やはり特別な存在であったのでしょうね。
祖母から続く縁がありましたので。

それでは、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
2018/06/22(Fri) 08:25 | URL  | 粒山 樹 #-[ 編集]
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