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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
『西郷どん』の話のテンポが急激に加速し始めたため、本ブログの感想&小解説も、少しストーリーから遅れだしてきました。
前回の放送では「寺田屋事件」が描かれ、今回は西郷の沖永良部島での遠島の様子が描かれましたが、寺田屋事件については、まだ少し書き足らないところもありますので、今回は引き続きその関連の話と西郷の遠島処分について書きたいと思います。

(寺田屋事件前の西郷と大久保)
前回の『西郷どん』では、下関に到着した久光が、西郷が勝手に下関を離れたことを知って激怒し、切腹命令を下していました。
また、久光は大久保に対して、西郷を捕らえるよう指示していましたが、大久保はそのような理由で下関から先発したわけではありません。
下関において京・大坂の情勢が不穏であるとの報告を受けた久光は、情報探索のため、大久保に対して先発を命じたのです。

また、この大久保の先発は、命令違反を犯した西郷のことに責任を感じた末での行動であったと一般に言われています
例えば、『鹿児島県史』第三巻には、「大久保は先に西郷を推して先発せしめた責任を感じ、直接西郷に面会してその真意を質さんとして、三十日先発して大坂に急行した」とあります。
確かに、大久保の先発は自ら久光に対して願い出たことではありますが、大久保が久光から先発命令を受けた文久2(1862)年3月29日の大久保の日記を見ると、そこには西郷云々の話や久光が西郷に怒っている等の記述は全く出てきません。
当日の大久保日記から少し抜粋すると、次のような記述があります。

「一 昨夜白石正一郎より一封落手、愈諸藩士浪人切迫追々出坂、大事之勢顕然たり。此一條於御国元聊憂ふる處にて、屡小松家中山え示談終ニ激論ニ及ひ候訳も有之且建白にも及ひ不敬ヲ顧す顔を犯し候」(『大久保利通日記』一。句読点は筆者が挿入)

この箇所には、大久保が久光に先発を願い出た理由が端的に綴られています。
少し解説すると、下関の豪商・白石正一郎から一通の封書を受け取った大久保は、諸藩士や浪士たちが次々と大坂に集まり、事態が切迫していることを知りました。
久光の上京にあたって浪士たちが暴挙に出ることは、大久保が出発前から憂慮していたことであったことから、大久保は小松帯刀と中山尚之介に相談をもちかけましたが、最後は激論となり、双方の意見は折り合わなかったため、大久保は不敬を顧みず、久光に対して直接建白する行動に出たのです。

大久保と小松、中山が、どのような点で意見が衝突したのか、具体的には分かりません。
勝田孫弥『大久保利通伝』には、浪士たちが集結し、容易ならざる形勢になっていることを知った大久保は、「其處置に関して、小松・中山等と論談し」とあり、「久光・中山等の意見は、諸藩の志士を排斥するにありしと雖も、利通は機に臨みて之を用いることあるべきを予期したり」と書いています。
つまり、浪士たちの処置を巡り、大久保と小松、中山とが激論となったということですが、少し想像を膨らませるならば、命令違反を犯した西郷の処遇もそこに含まれていたやもしれません。

結局、大久保は久光に直訴する形で先発を願い出、久光はそれを許可しました。
大久保の日記には、「云々出坂被仰付小松え談合可致御沙汰ニ付」とあり、久光が小松と相談のうえ、大坂に先発するよう命じたことが分かります。
久光としても、京・大坂の情勢を事前に知っておくために、大久保を先発させるのが良いと判断したのでしょう。

以上のとおり、大久保の日記の記述を見る限り、大久保が先発を志願した理由は、諸藩士や浪士たちが大坂に集まり、騒然とした事態になっているとの情報を得て、そのことを憂慮したからであって、久光が西郷の命令違反を咎めたからでも、大久保が西郷のことに責任を感じたからでもありません
勝田孫弥『大久保利通伝』も、「西郷の上京が久光の不興を招きし原因たりしは事実なれども、利通の先発は、更に他に憂慮する所ありしを見るべきなり」と論じており、私もその見解に賛成です。
もちろん、大久保は西郷に直接会い、下関を勝手に離れた理由を問い質すつもりでいたでしょうが、大久保の本来の目的は、上方における情報探索であったのです。

このような形で久光の行列と別れて先発した大久保は、4月5日に大坂に着き、その翌日に伏見に上り、西郷と直接会いました。
大久保はその日の日記に、

「彼是京地模様等承別て大機会ニて候、且大島え少々議論有之候處、一盃振たまり故先ツ先ツ安心いたし及鶏鳴候(かれこれ京の様子を聞き、とりわけ大機会だと思った。また、西郷と少々議論に及んだが、西郷も一生懸命に頑張っているようなので、まずまず安心した。話は夜明け頃まで及んだ)」(『大久保利通日記』一。句読点は筆者が挿入)

と書いています。
この記述からは、大久保の「期待」「安堵」の二つの感情が読み取れます。
まず、先に安堵ですが、これは大久保が西郷と直接会って、下関を離れた理由を聞き、納得したということです。「一盃振たまり故先ツ先ツ安心いたし」とある部分が、まさにその感情を表していると言えましょう。

そして、次に期待ですが、注目すべきは、大久保が「別て大機会ニて候」と日記に書いているところです。
大久保が何をもって「大機会だと思った」のかは解釈の分かれるところですが、大久保は西郷からの話を聞き、何かしらのチャンスが巡って来たと感じたことは間違いないでしょう。

この時、西郷と大久保の話し合いの席に同席していた本田親雄(当時は弥右衛門)が後年書いた手記が残っていますが(明治31年1月19日付け、本田親雄から税所篤宛ての書簡。『大久保利通文書』一所収)、そこには具体的に大機会とは何を指すのかは書かれていません。
本田の手記は、35年以上も後に回想して書いたものなので、細かなことは覚えていなかったのでしょう。
そのため、あくまでも推測ですが、大久保が西郷と会い、そして「別て大機会ニて候」と日記に書いたことから考えると、西郷は状況さえ整えば、何かしらの行動を起こそうと決心していることを大久保に対して打ち明けたのではないでしょうか。
そしてまた、大久保の日記の書きぶりから推測すると、その西郷の決意を大久保も同意したように思います。

ただ、この西郷の決意=倒幕と考えるのは、少し安易に解釈し過ぎでしょう。
西郷は、情勢次第によっては有馬新七らと共同して事を起こすことも視野に入れていたとは思いますが、幕府そのものを倒すという考えには、当時まだ到っていなかったと思います。

西郷関係諸書において、西郷が鹿児島に送還されたことにより、有馬ら誠忠組急進派を抑える人物が居なくなったことから「寺田屋事件」が生じた、つまり西郷がそのまま京・大坂に留まっていれば、寺田屋事件は起きなかったのではないか、という論調をよく見かけますが、私はかなり懐疑的です。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、西郷は京・大坂に集結している浪士たちを扇動するようなことはしていませんが、かと言って、積極的に彼らを藩の統制の元に取り鎮めようとした形跡もありません。どちらかと言うと、機が熟すのを待つかのように、情勢を傍観していた観すらあります

西郷が何らかの決心を大久保に対して打ち明けていたと仮定すると、西郷が久光から罰せられず、そのまま京・大坂に留まっていたとしても、寺田屋事件が起こらなかったとは考えにくく、もしかすると西郷もその動きに巻き込まれていた可能性も十分あり得ると思います。

話を戻しますが、大久保は西郷と面会した翌日の4月7日、久光の行列に戻る帰路、男山(石清水)八幡宮に参詣しています。
大久保はその日の日記に、「天気宜格別之景色ニて候、八幡え参詣心願を凝し候」と書いていますが、大久保は直接西郷と会って話をしたことで、大きな期待感を胸に抱き、さらに気分も上々であったのではないでしょうか。大久保は願掛けのために、男山八幡宮に立ち寄って参詣したのです。

通説では、下関において久光は、西郷の命令違反に激怒したことにより、大久保が先発を願い出たとなっていますが、前述したように、大久保は西郷と会った帰路に男山八幡宮を参詣しているなど、その行動には一種の焦りや悲壮感が見えないことから、当時久光が西郷に激怒し、その罪を強く問おうとしていた状況にあったというのは、私自身疑問に感じています

例えば、前出の本田親雄の手記には、「諸浪士ともを語らひ、みち引て扇動し云々と聞し召給ひて、公の憤り給ふ處となり」と、大久保が西郷に語ったとありますが、久光が「西郷が浪士たちを扇動している」ということを知ったのは、だいぶ後のこと、久光が姫路に着いた際、腹心の堀仲左衛門と海江田武次からの報告を聞いた時であり、大久保が下関を先発した段階では、久光の耳に入っていない事実です。
その点から考えると、本田の手記のこの箇所は、余り信用できません。

もし、久光が下関において、「西郷に事情を聞いてこい!」と激怒していたのであれば、大久保には神社に参詣するほどの余裕はないはずで、久光の怒りを解くために、慌てて久光に復命しに帰ったことでしょう。
しかし、大久保はそんなことはしていません。

以上のようなことを考え合わせると、下関において久光は、それほど西郷に対して怒りの感情を持っていなかったと推測できるのではないでしょうか。

「また、あの西郷か。勝手なことばかりしよって……」

くらいの苦々しい気持ちと苛立ちは感じていたでしょうが、切腹を命じるような強い憤りは感じていなかったように思います。

しかしながら、大久保が西郷と別れた頃、姫路に到着した久光は、前述のとおり腹心の堀仲左衛門と海江田武次から、「西郷が上方で浪士たちを扇動している」との報告を受けて激怒し、西郷の捕縛命令を下しました
久光が本気で怒ったのは、この段階であったように思います。
そのため、大久保が久光の元に報告に戻った頃には、既に久光は烈火の如く怒っており、大久保は弁明することもままなりませんでした。
大久保が日記に書いた「大機会」は訪れるどころか、大久保の身にも危険が及ぶほどの最悪の事態に変化していたのです。

(森山新蔵と新五左衛門)
前回の『西郷どん』でも描かれたように、久光から西郷捕縛の命令が下ったことから、大久保は西郷に対して、共に刺し違えて死のうと提案しましたが、西郷は承諾しませんでした。
勝田孫弥『甲東逸話』には、

「予は君命に従って藩地に帰らう。兄、希くは早まる勿れ。兄なき後、誰が能く任じて後事を計るものあるか」

と西郷が語り、大久保は翻意したとあります。
既に絶望的な事態となっていましたが、西郷は大久保に対し、生き残る選択を取るよう諭したのです。

このように、西郷は捕縛され、鹿児島に送還されることになりましたが、西郷が藩船で大坂を離れたのは、文久2(1862)年4月11日のことです。
つまり、寺田屋事件が起きる12日前のことですが、大久保はその日の日記に次のように書いています。

四月十一日晴
今日四時分出帆ニ付本船へ三子乗付拙子共三人相送リ候其段帯刀殿江届申出候


この記述によると、午前十時頃に西郷を乗せた護送船は大坂を出帆し、それを大久保が見送った後、側役の小松帯刀にその旨届け出たことが分かります。
大久保の日記には、船に乗り込んだのは三子とありますが、それは、西郷、村田新八、森山新蔵の三人のことです。
『西郷どん』では、西郷が久光から下された「下関で行列の到着を待て」との命令を無視し、下関を出発した際、それに付き従っていたのは村田だけでしたが、実はもう一名、森山が同行していました。

西郷と森山新蔵とは誠忠組の同志です。
安政6(1859)年11月、誠忠組が脱藩突出計画を企てた際、藩主・茂久から諭書が下ったことはこれまで書いてきましたが、その際、大久保が差し出した請書の同志名簿には「森山棠園」とその名が記されているほか、『大久保利通文書』一所収の「同志名簿」(文久元年)の中にも「森山棠」との記載があります。

元々、新蔵は町人であり、商家出身の藩士です。
以前、斉彬の曾祖父、第八代藩主・島津重豪(しげひで)の放漫財政が原因で、薩摩藩が500万両という多額な借金を背負い、藩財政が大きな危機に見舞われたことは書きましたが、薩摩藩は藩内の商家から借り入れた借金を精算する一つの手段として、借入先の商人を藩士の身分に取り立てる特例処置を実施しました。
『鹿児島県史』第二巻には、国許藩債の償却方法として、「(商人に対して)元利共に一切渡さず、證書を差出した者に身分上の恩典を與へる事とし、大部分を處理した様である」とあります。
つまり、借金を全て帳消しにする代わりに、商人たちを武士にしたということです。

森山家はそのような取り扱いを受けて藩士となった、言わば半農半士ならぬ半商半士であったことから、新蔵は私財を投げ打って、誠忠組の同志たちに資金援助を行ないました。『大久保利通文書』には、大久保が森山家から借り入れた借金の証文も収録されています。
誠忠組にとって、新蔵はいわゆるパトロン的な存在であったと言えましょう。

文久2(1862)年3月、島津久光が兵を率いて上京する際、新蔵は先発を命じられました。
新蔵に課せられた役目とは、軍用米の買入れ等、物資の調達です。
新蔵は西郷や村田よりも先に出発し、下関の豪商・白石正一郎の屋敷に滞在して任務をこなしていましたが、白石の屋敷で長州藩士や土佐藩士といった、久光の上京に期待する諸藩士や浪士たちと交流を持ったことで、新蔵の運命は大きく変化します。
浪士たちの沸騰ぶりを目の当たりにした新蔵は、西郷に対して、一刻も早く下関に来て欲しいとの書状を送りました。
西郷がのちに久光に罰せられ、遠島処分を受けた際、奄美大島で世話になった見聞役の木場伝内に対して、鹿児島へ帰還してから遠島処分を受けるまでの経緯を詳細に綴った長文の書簡には、「飯塚において森山新蔵方より差し立て候飛脚へ逢い、早々下之関の様急ぎ候様との趣これあり」(『西郷隆盛全集』一)とあり、西郷は森山が送った書簡を筑前の飯塚宿で受け取ったことが分かります。

下関に着いた西郷は、新蔵から詳しい報告を受け、また、自身も筑前浪人の平野国臣や豊後岡藩の重臣・小河一敏らと面会し、京・大坂が風雲急を告げる事態となっていることを知り、久光の命令を破って、村田と新蔵を伴って下関を出発しました。
この時の行動が罪に問われ、のちに西郷と新蔵は鹿児島に送還されることになったのです。

また、新蔵には国許薩摩に新五左衛門という長子が居ました。
新五左衛門は当時まだ19歳の若者でしたが、父と同じく誠忠組に加盟し、国事運動に挺身したいという熱い志を持っていました。
新五左衛門は父の新蔵が先発し、また、自身が久光の従士の選抜から漏れると、坂本彦右衛門ら四人と共に脱藩し、父の後を追って、大坂に入りました。
新五左衛門は、有馬新七と共に行動し、寺田屋に入ったのですが、文久2(1862)年4月23日、前回の『西郷どん』で描かれたように、久光が派遣した鎮撫士が寺田屋を訪れました。
鎮撫士は有馬を呼び、久光の命を伝えて、藩邸に出頭するよう促しましたが、有馬らはそれを拒否し、ここに同志相討つ「寺田屋事件」が生じました。

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寺田屋(京都市)

『西郷どん』では、斬り合いが始まる直前、西郷の実弟・信吾が両者の仲裁に入ろうとしていましたが、これはフィクションです。
信吾は久光の従士に選ばれて大坂に着くと、そこから有馬らと行動を共にし、寺田屋において斬り合いが生じた時、二階の座敷に居ました。
二階には信吾だけでなく、他にも数多くの薩摩藩士たちが居たのですが、彼らは一階において薩摩藩士同士が斬り合いになっていることを全く知らなかったのです。

一方、新蔵の長子・新五左衛門はと言うと、信吾らと共に二階に居ましたが、たまたま厠へ行くために一階に降りたところ、有馬らの斬り合いが始まりました。
森山は自らの佩刀を二階の座敷に置いたままで厠に来たことから、脇差ししか身に帯びていませんでしたが、一切躊躇することなく、その小刀を手にして斬り合いの場に飛び込んでいったのです。

「当時ノ形勢及ヒ寺田屋事件ノ報」(『鹿児島県史料 忠義公史料』二所収)には、

「森山ハ其節ハ手水所ヘ被申候ニ付、出ルヨリハヤク脇差ニテ切掛、森岡額ニ疵付候ニ付、皆々立向ヒ切伏由」

と、厠に居た新五左衛門は、素早く飛び出して、鎮撫士の一人である森岡善助の額に斬り付けましたが、多勢に無勢、他の者たちに斬り伏せられたとあります。
久光が寺田屋に派遣した鎮撫士は、いずれも名うての剣術家であり、手練れの連中です。
そんな武士たちに対して、新五左衛門は小刀で挑んだのですから、土台かなうはずがありません。
前出の「当時ノ形勢及ヒ寺田屋事件ノ報」には、

「森山新五左衛門、左ノ小鬢深手、右ノ肩先深手、左ノ肩先少々、其外諸所都合十ヶ所疵相蒙リ倒居候得共、田中同様ニテ仁禮源之丞手ヲ添打果候由」

とあり、新五左衛門は瀕死の重傷を負いながらも一命は取り留めていましたが、藩はそんな彼に対し、無情にも田中謙助と同様に切腹を申し付けたのです。

この寺田屋での森山新五左衛門の行動は、まさに薩摩武士の典型と言えるのではないでしょうか。
薩摩藩独特の教育制度であった郷中教育において、幼少期から「卑怯」、「未練」ということが何よりも恥であると叩き込まれていたからこそ、新五左衛門は二階に刀を取りに戻ることもなく、そのまま斬り合いの場に躍り込んだのです。

前回の『西郷どん』では、一階に居た西郷の弟・信吾が、有馬たちと鎮撫士の大山らが斬り合った際、まるでその様子に怖じ気づいたかのように、その場にへたり込んでいましたが、あの演出はいかがなものかと正直思いました。
ドラマでは、信吾の若さや未熟さを描くために、あのような演出にしたのでしょうが、あれでは信吾が余りにも可哀想です。
もし信吾が一階に居たならば、森山新五左衛門と同様に、迷わず争闘の場に飛び込んでいったことでしょう。
なぜなら、それが薩摩武士だからです。

話が少しそれましたが、これまで書いてきたように、森山新蔵は西郷と共に鹿児島に送還されることになり、その間に新蔵の子の新五左衛門は寺田屋で倒れました。
西郷と共に鹿児島に護送された新蔵は、息子の死を知り、一人自刃して果てました。

「長らへて 何にかはせん深草の 露と消えにし 人を思ふに」

新蔵は町人出身の藩士であったことから、差別意識が高かった当時の薩摩藩内では、蔑んで見られたことも多かったと伝えられています。
そんな中、子の新五左衛門は、誰よりも勇敢に薩摩武士として命を散らしたのですから、新蔵はそんな息子を誇りに思い、そして満足したに違いありません。
そして、最愛の息子を亡くした今、新蔵に生きる気力はもう残っていなかったと言えるでしょう。
この森山父子の話だけを見ても、「寺田屋事件」というものが、いかに凄惨な事件であったのかがよく分かります。

(西郷の遠島処分)
話を西郷に戻します。
西郷が大坂を出帆した文久2(1862)年4月11日の大久保の日記には、次のように書かれています。

「一 拙子大島一條ニ付而者、春初御請合申上置候趣有之候ニ付、帯刀殿エ申出候趣有之出勤差控候」(『大久保利通日記』一。句読点を挿入しました)

大久保は西郷を奄美大島から召還する際、「西郷の身元については一身に請け負う」と公言していたのでしょう、大久保はその責任を感じ、小松に対して出勤を差し控えると申し出ました。
今回の『西郷どん』において、大久保が謹慎したと描かれていましたが、おそらくこれを根拠としたのでしょう。

そして、西郷ですが、前回の『西郷どん』で描かれたように、大坂から出発する際に、藩から遠島を命じられたというわけではありません。
前出の木場伝内宛て西郷書簡には、

「夫形伏見より申し来たり候なりにて参り申し候。夫は面白きものにて只徳之島へ遣わさると計りにて、羽書を以て相達され何の罪状も相分からず候」

とあり、徳之島行きが「遠島」なのか、それとも単なる「派遣」なのか、全く何の罪状の申し渡しもないままに、簡単な羽書(鳥の羽を付けた簡単な触れ文)が付けられた状態で、伏見から鹿児島に還され、そしてそのまま徳之島へ送られたと書いています。
西郷はその命令を「それは面白きものにて」と皮肉っていますが、元来久光は、『西郷どん』で描かれたように、西郷に対して切腹を申し付けたかったことでしょう。
しかし、久光はそうしませんでした。いや、そうしたくても出来なかったと言えるかもしれません。
理由は簡単です。藩内に西郷を擁護する勢力があったためです。

前出の木場伝内宛て西郷書簡には、「私四月十日罷り下り候様承知仕り、早速船へ乗り付け申し候。至極隠密に致され、人気混雑致すべきとは相考え候由、然しながら私を置き候ては実にせわらしい故、落し候向きと相見得申し候」とあり、西郷が他の藩士たちに知られないよう、密かに船に乗せられ、鹿児島に送られたことが分かります。
西郷を鹿児島に送還したことを藩内の若手藩士らに知られないようにするため、藩はこのような処置を取ったのです。

また、西郷は同木場宛て書簡に、次のようなことも書いています。

「大坂見聞役中私を落し候儀、不合点にて御側役へ突掛かり、大きに論判いたし候由に御座候。御国元においては御供の役掛り中より、又大きに議論相起こり候由に御座候。大監察小監察の処一円承引致さず、厳敷申し立て、是非対談を懸け申したしと申し立て候由に御座候得共、喜入受け入れず」

この西郷の記述を見ると、大坂では西郷を鹿児島に送還後、藩内から不平不満が生じ、重役たちを論難する動きがあったこと、さらに国許の薩摩では、西郷の処分を巡り、議論が沸騰していたことが分かります。
勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、

「隆盛は村田、森山と警吏に擁せられ、四月十一日大坂を出帆し、数日を経て山川に着せり。偶此報の鹿児島に達するや藩廷の諸有司及び民間有志の士、其他島津左衛門等の一派は大に不当を論じて人心囂々たりき」

とあり、西郷の処分に対する不満の声は、前々回のブログでも紹介した「日置派」、つまり元主席家老の島津下総(左衛門)一派から巻き起こっていました。

以上のように、薩摩藩内には日置派や若手の下級藩士を中心とした西郷擁護派が多数居り、彼らが騒ぎ出していたため、久光は簡単に西郷を切腹のような厳罰に処すことは出来なかったと言えます。
そのため、久光は「遠島(流刑)」という選択肢を選ぶしかなかったわけですが、それでも事態は簡単には進みませんでした。
久光不在の薩摩では、藩は西郷擁護派に対して、一定の配慮を入れざるを得ない状況にあったことから、西郷をなかなか遠島処分に出来なかったのです。

西郷が大坂から鹿児島に出発したのは文久2(1862)年4月11日のことですが、西郷が鹿児島から徳之島に向けて出帆したのは同年6月11日のことです。
つまり、西郷が徳之島へ旅立つまで二ヶ月の月日を要しているわけですが、このように西郷の処分がなかなか下らなかった理由について、勝田孫弥『西郷隆盛伝』は、「人心の沸騰恐れたるに出づ」と書いています。
藩の重役連中は、久光不在の中、薩摩で藩内闘争が生じることを懸念したのです。

ただ、このように西郷の処分がなかなか決まらなかったことに対し、遠く離れた京都に居た久光も、その事態を憂いていました。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』でも書きましたが、久光は文久2(1862)年4月、鹿児島で留守を預かっていた主席家老の喜入摂津に対して、

「一、大島一件如何相片付候哉、是モ誠ニ心配之事ニテ、誠ニ言語道断之曲者重罪之者ニ候得共、先一命ハ相助ケ其地エ差遣申候最早処置為有候事ト存候(大島(西郷)の一件はどのように片付いたのか誠に心配している。誠に言語道断の曲者で、重罪を犯した者ではあるが、命だけは助け、国元に送還した。もう処置はすんでいると思うが)」(『島津久光公実紀』一)

との手紙を送り、西郷にどのような処罰が下ったのかを心配しています。
また、久光は翌5月22日にも同じく喜入摂津に手紙を送り、その中で西郷のことを、

「實ニ逆心之者ニテ死罪申付度程之事候得共、一等ヲ減シ一生不返之流罪ニ決シ申候尤当人口気者讒口候哉ニ申候由、弥以不届至極之事ニ候(実に逆臣の者にて、死罪を申し付けたい程であるが、死一等を免じて一生帰らせない流罪に決したが、当人は讒言にあったと申している由、いよいよ以て不届き至極である)」(『島津久光公実紀』一)

と書いています。
また、同日5月22日、久光は藩主・茂久に対しても書簡を書いていますが、その中には、「大島一条紛々之異説御坐候由、必然之事と致遠察候」との文言があり(『鹿児島県史料 玉里島津家史料補遺 南部弥八郎報告書』二)、西郷の処分を巡って藩内が揉めていることを久光は知っていたようです。
久光としては、西郷を死罪に出来ないばかりか、なかなか遠島にも出来ない状況に苛立ちと忸怩たる思いを感じていたのではないでしょうか。

以上のような状況にあった西郷処分ですが、最終的に当初の予定通り、西郷は徳之島へと送られることになります。
おそらく西郷の処分がなかなか済まないことに怒り心頭であった久光の意を汲んだ主席家老の喜入摂津が、取りあえず西郷を予定通り徳之島に送ることだけを決断したのでしょう。
西郷は何の罪名の申し渡しのないまま、徳之島に送られたのです。
前述しましたが、そのことを西郷は木場宛ての書簡の中で、「それは面白きものにて」と書いたというわけです。

このように考えると、厳密に言えば、西郷の徳之島行きは、遠島ではなかったことになります。
西郷が本当に罪人になるのは、文久2(1862)年7月14日、藩から沖永良部島への遠島が正式に言い渡された時からです。
西郷家に渡された遠島の命令書は、「右者御吟味之訳有之徳之嶋江被遣置候処」という文言から始まりますが、これを見ても、西郷の徳之島行きは、罪状が無いままの派遣、つまり仮処分であったことが分かります。

また、その遠島の命令書には、次のような文言が書かれていました。

「着船之上囲入被仰付候条、昼夜不明様両人番付ニ而召置(着船の上は、囲いのある牢屋に入れ、昼夜開けないよう、二人の番人を付けること)」(「西郷家万留」『西郷隆盛全集』四所収)

この過酷な取り扱いは、久光の厳罰化を望む意向が汲み取られた結果だったのでしょう。
あくまでも推測ですが、「死罪に出来ないのであれば、死罪に近い形で沖永良部島へ送りたい」という、久光の強い希望が反映されたものであったような気がしてなりません。
そして、西郷は沖永良部島において、生死の境をさまようような過酷な経験を強いられることになるのです。

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【2018/06/25 18:43】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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