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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
前回もそうでしたが、今回も話のペースがすごく早かったですね。生麦事件から薩英戦争、そして西郷の召還まで一気に進みましたから。
この時期の西郷は沖永良部島に遠島中であったため、中央政局には一切関わっていないことから、西郷関係諸書においても、この間の話を端折るものが多く見られますが、実はこの時期の政局を押さえておかないと、後に西郷が中央に復帰してからの行動や考えが理解しづらくなると言えます。

「西郷という人は、幕末・維新史全体の上に浮かべないと、真の姿がわからない」

これは鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏の言葉ですが、西郷という人物を理解するためには、幕末という時代そのものを併せて理解しようとすることが、とても大事なことなのです。

ただ、さすがにそれをテレビドラマに求めるのは酷でしょう。
小耳に挟んだところによると、『西郷どん』では西南戦争を一ヶ月間描くそうですから、これからどんどんスピードアップしていきそうですね。
あくまでも個人的な思いですが、いっそのこと西郷と愛加那の奄美大島生活で一年間やっても良かったのでは? なんて思わせるほど、二階堂ふみさん演じる愛加那は最後まで素晴らしかったですね。

(西郷家の困窮)
前回のブログでは、徳之島に送られた西郷に対して、沖永良部島への遠島命令が下ったところまで書きました。
西郷の沖永良部島への遠島命令は、文久2(1862)年7月14日付けで藩から下されたものでしたが、その処分は西郷の弟たちにも及びました。

西郷家の家政上の記録である「万留」(『西郷隆盛全集』四所収)によると、次男の吉二郎は、当時務めていた勘定所書役助について、差控伺(いわゆる進退伺)を提出後、遠慮(自発的謹慎)の処分を受け、四男で帖佐与御代官所書役助の職に就いていた小兵衛も同様に遠慮となりました。
また、前回書いたとおり、三男の信吾は寺田屋事件に直接関与していたため、既に5月に謹慎を言い渡されていましたので、西郷家の家計を支える男たち全員が免職等の憂き目にあい、また、西郷家の知行高及び家財も併せて没収となったのです。

村井弦斎『西郷隆盛一代記』は、その当時の西郷家の状況を次のように書いています。

「西郷家の家政は弟吉次郎が担任し居たるが、吉次郎理財の道に長し能く家政を整理して今は知行高も百俵ばかりとなりぬ、(中略)、然るに今度の事起りて、此等の知行は悉く官に没収せられ、吉次郎は御役御免となり、弟新吾は寺田屋騒動に関係せしため国元に送り還されて親族の外他人の面会を禁せられ、一家悉く秩禄に離るるの不幸に陥り西郷家の資産とては唯西別府の地所のみとなりける」

このように、当時留守を預かっていた吉二郎のこれまでの苦労は、西郷の遠島処分により、全て水泡に帰したと言えるでしょう。

ちなみに、「西別府の地所」とは、西郷家の抱地(かけち)のことです。
鹿児島城下郊外の西方、西別府(にしびゅう)という場所に、西郷家は抱地を所有していました。抱地とは、いわゆる開墾地のことです。
西郷家はここに農事小屋を建て、そこでわらじを制作したり、また、生活の足しにするために畑を耕して甘蔗(さつまいも)などの食物を植えていました。
若き日の西郷は、ここで家族と共に農作業に勤しんだと伝えられています。

西郷家の禄高のほとんどが借金の抵当や生活費の工面のために売り払われ、実質名目上だけのものになった時期があったことは以前書きましたが、そのように生活が苦しかった西郷家にとって、この西別府の抱地はとても大事な土地であったと言えます。嘉永5(1852)年7月から11月にかけて、西郷の祖父や父母が相次いで亡くなり、経済状況が悪化した際も、西郷家はこの抱地のお陰で何とか生活のやりくりが出来たからです。
また、だいぶ後のことになりますが、明治10(1877)年に西南戦争が始まると、鹿児島に残された西郷家の家族は、鹿児島城下にあった屋敷を離れて、一時期この西別府の土地に避難しています。
現在、この土地は「西郷南洲野屋敷跡」と呼ばれており、西郷が植えたと伝わる、やまももの木や大名竹が残されており、鹿児島の観光スポットの一つとなっています。

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西郷南洲野屋敷跡(鹿児島市)

閑話休題。
このように、西郷の遠島により、西郷家の経済状況は急激に悪化し、吉二郎を中心とした西郷家は、西別府の抱地で畑を耕し、材木を切り出すなどして飢えをしのがざるを得ない状況に追い込まれたわけですが、そんな困窮した西郷家を見かねて、手を差し伸べた人物がいました。
西郷の妹・琴の夫である市来正之丞です。
『西郷隆盛一代記』には、

「日頃親しく交けりたる友人等も其の嫌疑を恐れて近づくものなく、吉二郎もほとほと困却したるが、此際姉婿なる市来六左衛門のみは此有様を見るに忍びず、西郷家に来りて種々の世話をなし吉次郎の友人武井半之丞に謀りて、上を欺くの罪は恐ろしけれど一家の困難にはかへかたしとて其の没収さるべき知行高の中幾分を武井に売渡したる躰となし、其筋に届け出て漸く其の没収を免れたり」

とあり、市来の配慮や手助けもあって、西郷家は何とか生計を立てていたと伝えられています。
そう言えば、最近の『西郷どん』には市来が全く出てこないですね。市来は西郷を語る上でとても重要な人物ですので、もっと出演機会を増やしてもらいたいものです。

話を戻しますが、西郷は沖永良部島において過酷な遠島生活を経験しますが、残された家族もまた、それと同等以上に塗炭の苦しみを味わっていたことは、留意しておく必要があります。
とかく歴史上の人物の英雄譚においては、主人公に降りかかった厄難を一種美化して語る傾向がありますが、その周囲に居た人たちもまた、その影響を受けて同様の苦しみを味わったということを忘れてはならないのです。

(沖永良部島への遠島)
一方、徳之島に滞在していた西郷が、沖永良部島への遠島命令を聞いたのは、文久2(1862)年8月下旬頃であったと伝えられています。
つまり、藩の遠島処分が下ってから一ヶ月以上経った後に、西郷本人に伝わったということです。

一説によれば、はるばる奄美大島から愛加那が二人の子供たちを連れて徳之島を訪ねてきた当日、西郷は沖永良部島への遠島を申し渡されたと伝えられています。
これは東郷中介『南洲翁謫所逸話』に出てくる話で、当時徳之島の在番附役を務めていた中原萬次郎が、藩からの遠島命令を受け、それを西郷に対して伝えようとした時のことを次のように書いています。

「命令書ヲ携ヘ翁ノ居ニ至レハ、時恰モ妾及二子ト再会ノ際ニシテ室内歓声溢レ、児女鍾愛ノ歓喜場ナリシカ故ニ、中原庭内ニ入リムトスルモ無限ノ感ニ打タレ、悲涙滂沱躊躇逡巡シテ足進マス」

西郷と愛加那やその子供たちが久しぶりに再会し、家族団らんのひと時を過ごしている様子を見て、中原は遠島命令を伝えるに忍びなかったということです。
前回の『西郷どん』では、無愛想な役人が西郷の元を訪ね、遠島処分を告げていましたが、この逸話を元にして、もう少し情緒的に描いて欲しかったと思います。

ちなみに、後に沖永良部島に居た西郷が、文久3(1863)年3月21日付けで奄美大島の間切横目(警察・監察役)の得藤長に宛てた書簡によると、西郷は実子・菊次郎と再会した時のことを「徳之島へ罷り越し候節は拙者を見知り申さず、他人の塩梅にて相別れ申し候」(『西郷隆盛全集』一)と書いています。
当時、菊次郎はまだ一歳半の幼児です。西郷のことを認識できなくて当然ですが、西郷は子供たちとの別れがよっぽど辛かったのか、同書簡には、

「此の度は重き遠島故か、年を取り候沙汰か、些か気弱く罷り成り、子共の事思い出され候て、中々のし申さず候」

と書いています。
「のし申さず」というのは「辛い」という意味ですが、この文面からは、子を想い、そして子の成長を願う、父としての西郷の一面が見えます。
また、西郷はそのように気弱になっている自分を省みて、「全躰強気の生れ付きと自分に相考え居り候処、おかしなものに御座候」と自虐していますが、何事においても強気であった西郷でさえも、家族と離れての遠島生活は、身にこたえるものであったのかもしれません。

閑話休題。
さて、『南洲翁謫所逸話』によると、「飛脚船来ルト聞キシカ故ニ必ス切腹ノ命令書到来セムト思惟シタリ、然ルニ尚ホ生命ノミハ存シ得ヘキカ君命忝シトテ幾度カ令書ヲ拝シテ欣然タリ」とあり、西郷は飛脚船が来たことを知り、切腹命令が下ったと覚悟したようですが、切腹ではなかったにしろ、沖永良部島への遠島処分を聞き、内心かなり驚いたのではないでしょうか。

藩からの遠島命令が徳之島に着く直前の文久2(1862)年8月20日、西郷は奄美大島の見聞役・木場伝内宛てに書簡を送っていますが、その中に次のような言葉があります。

「もっとも桂氏若しや上国共相成り候わば、大島迄は島替え仰せ付けられ候筋、御周旋相願い申し候。桂氏大島へ罷り在られ候ては六ヶ敷由承り申し候」(『西郷隆盛全集』一)

ここに出てくる桂氏とは、西郷の親友・桂右衛門(久武)のことですが、当時桂は奄美大島に居ました。
第22回の感想&小解説において、大久保ら誠忠組の働きかけにより、桂の実兄・島津下総を中心とした日置派が藩要路から左遷されたことを書きましたが、桂はその影響を受け、鹿児島本土を離れて当時奄美大島に赴任中だったのです。

西郷は木場に対して、「桂氏が奄美大島に居る間は、私が徳之島から奄美大島へ移るのは難しいと思うが」と前置きしたうえで、「桂氏が鹿児島に帰ることになったら、私が奄美大島に遠島替えになるよう周旋して欲しい」と頼んでいます。
西郷自身は、自分が久光に罰せられたのは、日置派と結託していると邪推されたことが大きな原因と思っていましたので、桂が奄美大島に居る間は、自分は奄美大島には移ることが出来ないと思っていたようです。そのため、桂が奄美大島を離れたら、妻子の居る奄美に移れるよう尽力して欲しいと木場に頼んだのです。

この木場に対する依頼内容から察すると、西郷は家族と共に再び暮らせる可能性があると踏んでいた様子がうかがえますので、当時はこれ以上自分に対して厳罰は下らないという風に考えていたのではないでしょうか。
その理由は前回書きましたが、藩内には日置派を中心とした西郷を擁護する勢力があり、それが藩への無言の圧力となっていたこと、さらにその影響で何の処罰の言い渡しもないまま取りあえず徳之島に送られた経緯がありましたから、西郷は事態を少し楽観視していたように思えます。
しかしながら、沖永良部島への遠島処分を受けたことで、西郷は自分の甘さに気付いたやもしれません。なぜなら、沖永良部島への遠島は、切腹に次ぐ重い処分であったからです。

(過酷な遠島生活)
こうして西郷は徳之島を離れて沖永良部島へと向かうことになるのですが、勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、次のような話が書かれています。

「初め流罪の命を達せらるるや警吏鹿児島より至りしが其一人舟中に端座して睥睨するものの如し。隆盛以為く彼等島地に着するの途次船中にて殺害せんとするものならん。然れども人の一身は天命にあり。護国の精神は萬世に滅せず死生亦何かあらんと従容として命を受け、中原等と戯謔角力以て離別を告げ、舟牢に入りて出帆せり」

つまり、西郷は沖永良部島に到着するまでの間に、船中で殺害されるかもしれないと覚悟したということです。
さかのぼれば、寺田屋事件に関与した中山家の諸大夫・田中河内介父子が、事件後、薩摩藩によって瀬戸内海の船上で殺害されたこと、また、同じく海賀宮門ら三人を日向細島において藩が暗殺したことを西郷は知っていましたので、もしかすると自分も同様に殺されるのではないかと感じた可能性はあると思います。

しかしながら、この話をネタにして話を広げたのか、西郷が殺されるかもしれないと感じていたことから、船が無事に沖永良部島の伊延港に到着した際、「厠に入って小便をした時の愉快さは一生忘れられない」と、西郷が語ったという逸話がありますが(横山健堂「沖永良部島に於ける大西郷」『文久二年四大事件講演集』)、まるで西郷が死ぬことを恐れていたかのようなこの話を真に受けてはいけないでしょう。

当時の西郷の死生観については、前出の木場伝内宛て書簡にしっかりと書かれています。

「此の場に相成り、憤激して変死共いたし候ては残恨の次第にて、決してもふは行迫らず、命を奉じて、死を賜うとも如何共従容として畏る考えに御座候」(『西郷隆盛全集』一)

この記述を見る限り、西郷は死ぬことを全く恐れてはいません。
もし、「死」を命じられたら、従容としてそれを受け入れると書いています。
このような気持ちでいた西郷が、死を前にして怖じ気づくようなことは一切無かったと思います。(もし本当にあのような言葉を言ったのだとしたら、西郷特有の一種の諧謔でしょう)

また、西郷は同木場宛て書簡の中で、「また命もおしかるかと申す人もこれある筈に御座候得共、惜しむは何ヶ度でも惜しむ考えに御座候」とも書いています。
この「命を惜しむときは、何度でも命を惜しみます」という部分には、西郷の死生観がよく表われています。
つまり、無駄死にはしないということです。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、西郷の死生観とは、

「死ぬことを恐れはしないが、自ら死を求め、死に急ぐようなことはしない」

ということです。
西郷にとっての死とは、あくまでも覚悟の問題であり、希求するものでは無かったのです。
この死生観は、西郷を理解するうえで最も重要なものであり、西郷の後半生の様々な場面において、この考えを元にした行動が出てきます。

話を戻しますが、西郷が徳之島を離れ、沖永良部島の伊延港に着いたのは、文久2(1862)年閏8月14日のことです。
『南洲翁謫所逸話』によれば、西郷は沖永良部島へ移送される際、徳之島の在番役人から、「移送中は牢の外に出ても構わない、着島前に入牢すれば良い」と便宜をはかられていましたが、西郷は「余ハ今ヨリ一ノ流人ナリ。君命ニ背クハ余ノ為サザル所ナリ」と言って、移送中も自ら進んで牢に入ったとあります。

沖永良部島に着いた西郷は、そこから二日間、船の中に留まりました。西郷を収容する牢がまだ完成していなかったからです。
そして、ようやく完成した牢に西郷は入れられるわけですが、前回書いたように、西郷の遠島命令書には、「着船之上囲入被仰付候条、昼夜不明様両人番付ニ而召置(着船の上は、囲いのある牢屋に入れ、昼夜開けないよう、二人の番人を付けること)」との厳しい指示が書かれていましたので、前回の『西郷どん』でも描かれたように、その待遇はとても過酷なものでした。
鹿児島県教育会編『南洲翁逸話』には、

「翁の幽因せられた牢屋は、廣さ漸く二坪余、殊に咄嗟の建設に係るので極めて粗末な構造で、東西戸なく南北壁なく、繞らすに四寸角の格子を以てし、屋内に厠及び小爐を設け、板屏風を置いて之を覆ひ、室内狭隘、殆んど膝を容るるに足らず、加之寒風激雨之を防ぐに足らず」

とあり、西郷を収容した牢は、わずか二坪余りで、壁など無い、雨風吹きざらしの非常に粗末なものでした。

また、それに加えて西郷は、「自ラ飲水ヲ乞ワズ、湯ヲ求メズ、又喫煙ヲ断チ、毎朝一回牢番ヲシテ炊事ヲナサシメ、昼夜ノ二食ハ熱湯ヲ以テ残飯ヲ温メ、副フルニ粗菜ヲ以テシ、一日三食ノ外絶テ間食スルコトナク、常ニ正坐シテ沈思黙考以テ日ヲ消セリ」(『南洲翁謫所逸話』)といった日々を過ごしました。
「老西郷大島流竄中の事跡」(『鹿児島県史料 忠義公史料』二所収)には、

「西郷氏の徳之島を発し沖永良部島ニ護送せらるゝや、船中の牢に入れられ、其沖永良部島に着するや麁造狭隘たる牢獄に幽因せられ、足を伸ばせば枕は便所に接し、臭気堪ふべからず、其供せらるゝハ亦極めて粗にして、魁偉肥満の身体も日に憔悴し、遂に歩行自由を失ふに至れり、然るに君命重しと為し、敢て牢を出づることなかりしと云ふ」

とあり、その獄中生活がいかに苛烈を極めたものだったのかがよく分かります。

前回の『西郷どん』では、そんな西郷の状況を見かねた川口雪篷が、牢を壊して西郷を助け出していましたが、同じ遠島人である川口がそんなことを出来るはずもありません。
実際に西郷を助けたのは、沖永良部島で間切横目を務めていた土持政照と代官附役の福山清蔵の二人です。

土持は『西郷どん』に登場していますが、福山は出ませんでしたね。
実はこの福山は、彼が後に鹿児島本土に戻った際、西郷赦免運動を起こす人物の一人となるのですが、それはさて置き、土持と福山の二人は、交互に西郷の牢を見張る役目についていました。
西郷の獄中生活が苛烈を極めたものであったことは前述しましたが、二人は西郷がその生活の中で日増しに衰弱し、健康を害していく様子を目の当たりにして、心を痛め、そしてそのことを憂慮していました。

この辺りの経緯はとても有名な話ですので少し端折りますが、そのような状態を見かねた土持は、代官の黒葛原源助に対して、「藩の命令書には「囲いに入れろ」とあるだけで、牢屋に入れろとはありません。ですので、西郷のために新たな家屋を建築し、その内部に囲いを設けた部屋を作り、そこに収容したい」と願い出ました。
つまり、命令書の記述を拡大解釈しようとしたのです。
代官の黒葛原自身も西郷の人柄に一目置いていたのでしょう、そんな土持の願い出を妙案だとして許可しました。今回の『西郷どん』では、黒葛原は事なかれ主義の官吏として描かれていましたが、実際はそんな人物ではなかったのです。

このようにして土持の願い出は受け入れられ、土持は新たな家屋が完成するまでの間、西郷を福山の屋敷で静養させました。この配慮により、西郷は再び生気を取り戻したと言えます。
風前の灯火となっていた西郷の命は、沖永良部島に居た役人たちの手によって救われることになったのです。

(西郷と薩英戦争)
西郷は徳之島に流された当初、再び鹿児島本土に戻る気持ちは無かったようです。
文久2(1862)年7月末頃に書かれた西郷が木場伝内に宛てた書簡には、

「迚も我々位にて補い立ち候世上にてはこれなく候間、馬鹿等敷忠義立ては取止め申し候。御見限り下さるべく候」(『西郷隆盛全集』一)

とあり、「とても我々のような者が役に立つ世上ではありませんので、馬鹿らしい忠義立てはもう止めることにしました」と厭世的な言葉が綴られているほか、前出の同年8月20日付けで同じく木場宛てに書かれた書簡には、「再上国は仕り申さざる了簡に御座候」と、具体的に鹿児島には戻るつもりはないとあります。

このように、遠島直後の西郷は、その失意がそうさせたのか、帰藩することに否定的でしたが、沖永良部島に移り、時が経つにつれ、徐々に赦免に期待する気持ちが生じてきたようです。
文久3(1863)年3月21日付けで、西郷が奄美大島の間切横目・得藤長に宛てた書簡には、

「猫の目の替わると一ツもの、一ツ腹のものと相考え居り候者が、拙者のぼろくどに喰い付き候事にて、案外のものに御座候。ぼろくどの歯形が取れそうな塩梅にて御座候間、罷り登る儀も御座候わば、如何の面には逢い申すべきや、今よりおかしく御座候」(『西郷隆盛全集』一)

との言葉があります。
パッと読んだだけでは少し分かりづらいですが、その大意を書くと、

「堀仲左衛門や海江田武次といった同志たちが自分に喰らいつくように讒訴し、このような状態になったのは案外のことであったが、そのえん罪が晴れそうな状況となっているようなので、自分が鹿児島に舞い戻ったら、そういった連中はどの面下げて私に会うのか、今から楽しみです」

と、西郷は言っているのです。
堀や海江田のことを「猫の目の替わると一ツもの、一ツ腹のものと相考え居り候者が、拙者のぼろくどに喰い付き」と表現しているのが、西郷の感情を表していて面白いですが、西郷は自分が赦免される動きが藩内に出てきたことを知り、期待感を込めてこのような話を書簡に書いたものと思われます。
ちなみに、西郷は「此の咄は音なしと御頼み申し上げ候(この話は他言しないで下さい)」と書いていますので、赦免については、誰かから秘密裏に聞いた話だったのかもしれません。

このように、西郷は赦免の動きがあることを知り、それに期待感を持ち始めていましたが、さらに西郷が帰藩を強く願うようになったのは、今回の『西郷どん』でも描かれた薩英戦争が大きなきっかけになったと思われます。

ドラマ内では、土持が西郷にイギリスの軍艦が薩摩に向かっているとの情報をもたらしていましたが、確かに西郷はイギリスと薩摩が戦争になりそうだとの情報を得ていました。
文久3(1863)年6月2日付けで、西郷が徳之島の間切横目・龍禎用喜に宛てた書簡には、

「貴問の如く大和も大騒動の由、風聞迄にて委敷事も相分からず候得共、異船弥御打ち払いに御決策相成り候由、此の度は弥戦争相始まり申すべき儀相違これなく、実々おそろしき世振りに相成り申し候」(『西郷隆盛全集』一)

とあり、6月最初の時点で、沖永良部島にも薩英が開戦しそうだとの情報が入って来ていたことが分かります。
ちなみに、イギリス艦隊が薩摩を目指し、横浜を出航するのは同年6月22日のことで、同年7月2日から4日にかけて、鹿児島錦江湾で薩英の砲撃戦が繰り広げられるのですが、それら詳細な戦闘情報は、やはり遠く離れた沖永良部島にはなかなか入って来なかったようです。
西郷は土持の名を借りて、同年9月中頃に徳之島の与人役(行政の長)宛てに、十一ヶ条の質問を記して、薩英の戦闘状況を詳しく知らせてくれるよう依頼する書簡を送っています。徳之島は奄美大島にも近く、沖永良部島よりもより詳しい情報が入って来ていると考えたからです。

今回の『西郷どん』では、イギリス艦隊の来襲を聞きつけた川口雪篷が、薩摩とイギリスとの戦いを阻止するため、単独で島を抜け出そうとしていましたが、実際はむしろ西郷の方がその状況に居ても立ってもいれなくなって、島を抜け出し鹿児島に帰ることを考えたくらいです。
勝田孫弥『西郷隆盛伝』によると、西郷が土持に対して、「船を調へ鹿児島に帰航せんと欲するの意を以てせり」と打ち明けたところ、土持はそんな西郷の考えに賛同し、私財を投げ打って船を作ることを提案し、西郷は「亦喜んで政照の請ひを允せり」とあります。

今回の『西郷どん』では触れられていませんでしたが、土持は自らが抱えている屋敷の使用人、いわゆる家人(ヤンチュ)を売り、脱出用の船の購入資金にあてようとしました。
家人については、今回の『西郷どん』にも出てきましたね。
ただ、この家人売買の話については、西郷関係諸書において、だいぶその扱いが違います。
西郷が土持の考えを強く諫めたと書かれてあるものから、土持の考えを容認したとあるものまで、その扱いは様々ですが、事実を包み隠さず書くとすれば、西郷は土持の考えを容認しています。

土持政照の長子・綱義が書き残した「流謫之南洲翁」(和泊町『沖永良部島郷土史資料』所収)によると、土持は西郷に対して、

「余家ニ資産ナシトテモ下男下女アリ。之レヲ奉公替セシメ其資金ヲ以テ船ヲ造ランコトヲ約シテ家ニ帰ル」

と、船の購入資金については、家人を売って作ると約束したとあります。
また、その後、土持は家に帰ると母の許諾を得て、「碑僕ヲ母ノ面前ニ呼ビ造船ノ資ノ為メ雇主ヲ替ヘザル可カラザル所以ヲ説示ス。碑僕唯々ト之ヲ諾ス」と、家人の売買を決心した土持が家人たちを集め、船の購入資金を作るため、別の雇い主に売る旨説明したと書かれています。
そして、西郷はその土持の厚意に感動し、自ら「政照子賣僕以造船而備變感其志賦以贈」という漢詩を賦して、土持の行動と志を大いに褒め称えています。

また、前出の『南洲翁逸話』には、「翁之に賛成されたけれども行くやうな船が無いので、政照が私には資財はありませんけれども、幸に下男下女がありますから売って船を造りませうといったので大へんに喜ばれた」とあり、西郷が土持の家人売買のアイデアを喜んだとまであります。
以上のようなことを考え合せると、西郷が土持の家人の売買に関して容認していたことは、ほぼ間違いないと言えるでしょう。
しなしながら、結局この西郷と土持の造船脱島計画は、イギリス艦隊が退去したとの報を受けて中止されたのです。

NHK出版『NHK大河ドラマ・ガイド 西郷どん(後編)』の第25回のあらすじを見ると、薩英戦争の影響が沖永良部島に及ぶことを心配した土持が、近隣の島に援軍を頼むことを提案し、その兵を移送するための船を購入するため、家人を売ってお金に換えようと言ったところ、西郷がそれを強く諫めたとの話が掲載されていましたが、今回の『西郷どん』本編ではそのシーンはありませんでした。
おそらく、制作者側が人権問題もあるので、敢えて西郷評価に関わるようなことに触れる必要は無いと判断したのでしょう。

ただ、私の個人的な意見ですが、まず現代の価値観をもって、歴史上の人物が行なったことの良し・悪しを判断することは、はっきり言ってナンセンスだと思います。
以前、本ブログの「砂糖地獄」の回で詳しく書きましたが、当時の武士とは搾取階級であり、支配階級です。いくら西郷のように、農民に寄り添う考えを持ち、そして家人の解放に一定の理解を示していた人物であったとしても、最終的な決断を下す際は、為政者側からの観点でしか物事をはかれなかったと言えます。
これは以前にも書いたとおり、西郷が支配層である武士階級の生まれであった以上、そういった価値基準・判断で物事を捉えざるを得なかったためです。
つまり、今回のケースで言えば、造船の資金を得るための家人の売買は、国家や藩にとっては大事の前の小事、やむを得まいと西郷は判断したということです。(家人の売買が正しかったと言っている訳ではありませんので誤解なきように。あくまでも西郷に関する事象として述べているまでです)

ただ、私はこのことをもってして、西郷評価を上げる・下げるの問題には直結しないと感じます。
歴史上の事象を判断したり、また、歴史上の人物を評価する際は、その当時の価値基準を考慮した上で行なう必要があり、武士社会で行なわれた出来事について、現代の価値観を当てはめて、その良し・悪しの判断を行うことに余り意味があるとは思えないからです。
西郷が家人売買を容認していたからと言って、「西郷は人権を尊重しない人物だから評価は低い」とはならないと思うからです。

大きく話がそれましたが、薩英戦争というものは、西郷が国政への復帰を果たす際の一種の起爆剤となったとも言えます。
イギリス艦隊が襲来し、薩摩藩に危機が訪れたことは、西郷の帰藩への意欲を大いに刺激し、促進したと考えられるからです。

そんな西郷の心境の変化と決心については、彼が文久3(1863)年9月26日付けで、鹿児島の米良助右衛門に宛てた書簡の中に見て取れます。
該当する部分を抜粋すると、以下のとおりです。

「獄中に罷り在り候て、入らざる事と思召しも計り難く御座候得共、御存じの通り順聖公御鴻恩戴き奉り居り候得ば、御国家の御災難只々傍観仕り候いわれこれなく、憤怒脳を焦がし候事に御座候。弥危急の場合罷り成り候わば、如何にもいたし、小宮山の跡を追って赤心を顕わし申すべきと、是のみ相考え候事に御座候」と書いており(『西郷隆盛全集』一)

つまり、大意はこういうことです。

「自分は獄中にあるが、斉彬公から大恩を受けた身であるので、国家の難事を傍観すべきではなく、憤怒に身を焦している。いよいよ藩に危急存亡の時が訪れれば、武田家に勘当されながらも、武田家滅亡の戦いに参加した小宮山内膳正のように、自らの赤心を示すべきだと、それのみを考えております」

流刑によって失意のどん底にあった西郷の気持ちを浮上させ、そして再生へと導いていったのは、過酷な獄中生活の中で辿り着いた敬天愛人の思想と斉彬への思い、そして薩英戦争という未曾有の国難にあったと言えるのではないでしょうか。

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【2018/07/02 17:40】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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