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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
ドラマはいよいよ佳境へと向かい、今回から「革命編」に入りました。
「革命編」と名付けたからには、これからは明治維新の根幹部分、もう少し政治的な背景を描いていって欲しいものです。
「禁門の変」や「第二次長州征討」、「鳥羽・伏見の戦い」といった、単なる派手な戦争のドンパチを見せても余り意味がなく、また「西郷が好戦的な人物であった」とのレッテルをさらに上塗りしてしまう気がしますので、明治維新における西郷の政治的な役割をもっと深く描いていって欲しいです。
ただ、これまでの『西郷どん』を見た限りでは、政治的な背景の描き方が非常に弱いと言えますので、倒幕へと向かう複雑なプロセスや政局をちゃんと分かりやすく描ききれるのかどうか不安ではあります。
ここは脚本家の腕の見せどころでしょう。

(西郷赦免)
前回の『西郷どん』では、どのようにして久光の怒りが解け、西郷が鹿児島に呼び戻されることになったのかは全く描かれないままに、いきなり赦免の知らせが届いたとのナレーションが入り、その使者として、三男・信吾が沖永良部島に西郷を迎えにやって来ました。
いかにも唐突感が否めませんでしたが、原作の林真理子『西郷どん』には、西郷の赦免が決まった場面が次のように描かれています。

 若者たちが小松帯刀に頼んだところ、快く引き受けてくれた。交渉役として京で揉まれた彼は、人の心を読むことにたけていた。
「もはや国父さまは天下の中枢におつきにないもした」
 とおだてた後、
「こいからは小まわりのきく者が必要ではあいもはんか。あの西郷ならば京の公卿や宮家、江戸の大奥にも顔がききもす」
 と話を持っていったのである。粘り強く頼んだ結果、久光は最後には折れた。わが息子である藩主茂久(忠義)に聞いてみろと言ったのである。


ここで言う「若者たち」とは、西郷の召還を待ち望む若手藩士たちのことを指していますが、林真理子『西郷どん』では、小松が久光に願い出たことにより、西郷の赦免が決まったとあります。

ただ、通説では、西郷の赦免が許可された経緯は少々異なっています。
久光の近臣であった高崎左太郎(のちの正風)高崎猪太郎(のちの五六)のいわゆる「両高崎」と呼ばれる二人が、久光の面前において、

「もし、この願いをお聞入れなくば、有志の面々割腹するとまで決心いたしております」

と願い出、それを聞いた久光が、

「左右みな賢なりと言うか。しからば即ち愚昧の久光独りこれを遮るは公論にあらず。太守公の裁決を請うべし」

と答え、近臣の岸良七之丞を鹿児島に派遣し、藩主・忠義の許可を得た後、西郷の赦免が決まったとされています。
これはとても有名な逸話で、『大西郷全集』三所収の「西郷隆盛伝」に出てくるものですが、その際、久光は、

「くやしげに銀の煙管を噛みしめたが、その際、歯痕がついて煙管が瑕になった」

と同書にあります。
これは『西郷どん』でも描かれていましたね。
今回の『西郷どん』では、久しぶりに西郷と会った久光が銀の煙管を噛みしめるシーンが描かれていましたが、実際は西郷と会う前の話であり、西郷の赦免が決まった時の話なのです。

また、勝田孫弥『西郷隆盛伝』では、

「文久三年の末、久光の上京するや、諸藩有志の徒は悉く長州に走り公武合体党は皆京師に集まれり。然るに幕府の方針は益其勢権を維持するに傾向し、公武合体も亦佐幕の地位に陥るに及び薩藩の壮士輩は深く奮激する所あり。断然死を決して久光に面訴し、以て隆盛召喚の議を決せんと欲す。黒田清綱等其巨魁たり。高崎五六等之を聞知して大に驚き小松、大久保等に告げ久光に説かしむ。爰に於て隆盛放免の議漸く内定し、吉井友實を以て其使者と為すに決せり」(筆者が旧字等を改編し、句読点を挿入)

とあり、勝田の記述によれば、文久三年末に久光が上京したことで、薩摩藩を中心とした公武合体派は京に集結することになったが、幕府は自らの権勢を維持する動きに出たことから、結局公武合体派も幕府を擁護する立場に陥った。そのような状況に危機感を抱いた黒田清綱(嘉右衛門)を中心した藩士たちは、久光に直訴して、西郷召還を願い出ることに決したが、その動きを知った高崎五六らは驚き、小松や大久保にそのことを告げ、久光を説得させたことで西郷の赦免が決まった、ということです。
林真理子『西郷どん』は、この勝田孫弥『西郷隆盛伝』の記述を根拠として、小松が久光を説得したとしたのかもしれません。

しかしながら、西郷の赦免については、実際は小松や大久保は関与していなかったようです。
例えば、前出の「西郷隆盛伝」(『大西郷全集』三所収)には、

「元治元年正月、柴山龍五郎、三島源兵衛、福山清蔵、相田要蔵、井上弥八郎等十数名、丸山の某楼に集まって相談した結果、西郷赦免を願ひ出でて若し聴かれずば、一同君前に割腹死諌しようと決し、黒田嘉右衛門(後の清綱)伊地知正治の二人が有志の総代となって久光侯に哀訴しようといふことになった。しかし最初から久光侯に申出るよりか、小松、大久保に説いて、予め同意を得た上で、都合によってはこの二人の何れかから哀訴させようというのであった」

とあり、前出の勝田孫弥『西郷隆盛伝』に登場した黒田だけでなく、伊地知正治などたくさんの名前が挙がっていますが、ここまでは内容的に差異はありません。異なるのは、これに続く記述です。

「黒田、伊地知の二人は、先づ小松を訪ねた。小松は大賛成であるが、自分からは願ひ出難い事情があるといふ。大久保を訪ねた、大久保も大賛成ではあるが、当時嫌疑を受けた一人であるから願ひ出の責に任ずることは出来ぬといふ。そこで、久光近士の高崎佐太郎、高崎五六がよからうということになり、久光に拝謁の上、先君の御寵臣といふ一点張で、とうとう赦免を許さるることとなった」

つまり、勝田孫弥『西郷隆盛伝』とは違い、黒田や伊地知が小松や大久保を訪ね、西郷の赦免を久光に願い出るよう頼んだところ、小松や大久保は、「趣旨は大賛成だが、自分たちからは願い出ることが出来ない」と、黒田らの依頼を断ったとあります。
結果、黒田らは久光の近臣であった両高崎にその役を依頼したとあり、小松や大久保は、西郷赦免の願い出には関与していないことになっています。

確かに、久光の側近くに仕える小松や大久保の立場からすれば、久光の西郷嫌いを身をもって経験していますので、西郷の赦免を自ら願い出ることは、不興を被る行為であると考えたに違いありません。
特に大久保は、西郷を沖永良部島から召還したい気持ちは他の誰よりも強かったと思われますが、先の文久2(1862)年の率兵上京計画の時のこともありますから、久光に対して、安易に西郷赦免を言いだせるような状況には無かったと言えます。

この西郷赦免に小松や大久保が関与していなかったという話は、「寺田屋事件」の生き残りの一人である柴山龍五郎(景綱)の事歴を記した『柴山景綱事歴』にも出てきます。

「西郷ヲ沖ノ江良部島ヨリ帰サンコトヲ久光公ノ御前ヘ出テ嘆願シ、萬一聴ルサレザル時ハ皆割腹シテ以テ死諌セント議ス。其集リシ人々ニハ三島通庸、柴山景綱、永山弥一郎、篠原國幹、椎原小弥田、宮内彦次(此時彦次ハ異論アリ)、吉田清右衛門等ナリ(綱記憶)。爾来又三島通庸、福山清蔵、井上弥八郎、折田要蔵、柴山景綱等ヲ始メ、拾何人丸山ニ會シ、是非御帰シアル様公ニ申上萬一聴ルシナクンバ御前ニテ直ニ腹ヲ切ラント決シタリ(正風、五六の記憶)、然ルニ其頃君侯ノ御前ニ出テ何事ニ限ラズ申上ル者モ少ナカリシガ、高崎正風、高崎五六ハ御近習通ヲ相勤メ君侯ノ御側近ク出ツル者ナレバ、黙視シ難クヤアリケン共ニ小松、大久保ニ謀ルニ両氏ハ故障アリ、大久保曰ク伏見一挙列ノ沸騰モ甚ダくどい(其時綱ノ覚エ)ト茲ニ於テ五六自カラ久光公ノ御前ニ出テテ懇願シ」(筆者が旧字等を改編し、句読点を挿入)

この記述によると、両高崎が小松と大久保に対し、西郷赦免について相談したところ、二人は「故障アリ」として断ったため、五六自らが久光の御前に出て懇願したとあります。

両高崎が小松や大久保に代わって、久光に西郷赦免を願い出た件については、その当人の二人が、明治27年7月9日に開かれた史談会の席上で、その経緯を詳細に語っています(史談会速記録第四十二輯「高崎男(五六)国事鞅掌に関する実歴附四十九話」『史談会速記録』(原書房)合本八所収)。
この速記録がなかなか面白いので、かいつまんで紹介します。

まず、五六の談話によれば、西郷を召還しようと言い出したのは、伊地知正治だとあります。

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「伊地知正治遺恵碑」(鹿児島市)

伊地知正治から、「どうしても天下の事を為さんと欲せば西郷を帰すに如くはない」と言われた五六は、その旨久光に願い出てみたところ、久光は怒り心頭でした。
五六によれば、「金の煙管の端をきりきりと噛み砕く位に歯噛みをして、なぜ御前は其様に言ふか」と詰られ、「あれは謀反をする奴ぢや」と言われたとあります。
この煙管に関する逸話は、「西郷隆盛伝」(『大西郷全集』三所収)では「銀の煙管」と書かれていますが、五六の談話ではなぜか「金の煙管」となっています。

また、もう一人の証言者である正風によると、西郷の帰藩を待ち望む藩士たちが西郷召還を久光に願い出ようとする動きがあることを知ったことから、まずは小松や大久保にその話を持って行ったようですが、

「小松は此間西郷を遠島することに判を付いたから工合が悪るい、大久保も私は西郷とは兄弟のやうにして居ったから、何となく嫌疑を受けて居るやうな譯であるから、残念至極だか仕方がないと云ひます」

とあり、二人はそのことに難色を示したようです。
そのため、正風は五六と共に、「それなら吾々でやろう」となり、二人で久光に再度西郷赦免を願い出たようですが、それでも久光は激怒したそうです。
正風の証言によれば、「それは怪しからん、西郷は大逆無道な奴ぢゃ、それを帰せとはどう云ふ譯だ」と久光は怒り、また最後には、

「貴様達は騙されて居る、彼れは謀反をする奴ぢゃ、到底薬鍋をかけて死ぬ奴ではない」

と言い放ったとあります。
「薬鍋をかけて死ぬ奴ではない」とは、「畳の上での往生が出来る奴では無い」、つまり、尋常な死を迎えられないということです。
この言葉をもってしても、いかに久光が西郷に対して不快な感情を抱き、また、当時その怒りがまだ収まっていない状態にあったのかが分かります。

しかしながら、両高崎は、最後には久光を説得し、西郷赦免を了承させます。
これほどまでに怒り心頭であった久光をどのようにして口説いたのかと言うと、切り札は「斉彬」でした。
正風の証言によると、彼は久光に対して、こう言ったそうです。

「私は西郷とは一二回面会した位でござりますが、私の神の如く信じて居ります御先代順聖院様か、鹿児島の藩士の多い中より一壮士の西郷をたった一人御見出しになって國事に御使いになって居りました。それを以て見ましても先公の御目鏡は明らかなものであろうと考へます。それで私は順聖院様を信ずるの餘り、随て西郷を御勧め申上げる次第でござります。併し知らず順聖公の御目鏡が誤って居るといふ御沙汰なら、是より直様引取りませう」(筆者が旧字等を改編し、句読点を挿入)

正風は斉彬を引き合いに出し、「斉彬公が西郷を認められたのに、それを久光公が認めないということは、斉彬公の目が節穴であったということですね」と、逆に責めたわけです。
こう言われると、西郷と同様に斉彬を慕っていた久光は、返す言葉が見つかりません。
久光が沈黙すると、両高崎はこれ幸いとばかりに、「順聖公の御目鏡が曇って居れば仕方がござりせぬが、さうでなければどうか御勘考を願ひたい」と、たたみかけるように久光に対して迫りました。
そして、久光はとうとう折れざるを得なくなったのです。
前出の「西郷隆盛伝」(『大西郷全集』三所収)にあるように、「左右みな賢なりと言うか。しからば即ち愚昧の久光独りこれを遮るは公論にあらず~」と語り、久光は西郷赦免を最終的に許可したのです。

以上のようなことを考えると、西郷を救ったのは斉彬であったと言えるかもしれません。
西郷の最大の強みは、薩摩では神格化されていた斉彬に登用されたことであり、そしてそれは同時に、久光のウィークポイントともなったと言えるかもしれません。
こうして西郷は、ようやく沖永良部島から召還されることになったのです。

(参予会議の瓦解と西郷の上京)
元治元(1864)年2月28日、沖永良部島への遠島の罪を赦されて、鹿児島本土へと戻った西郷は、その翌々日、斉彬の墓に参詣しています。
このことは、西郷が沖永良部島の土持政照に宛てた手紙の中に出てくるのですが、そこには、「福昌寺迄参詣仕り候処、漸々這い付き候事にて、難渋の事にて御座候」(『西郷隆盛全集』二)とあり、長期間に渡る獄中生活で、西郷は足腰共に弱り、当時は歩くこともままならなかったことが分かります。
前述のとおり、西郷が無事に赦免されたのは、斉彬の威光が影響を与えたとも言えますので、鹿児島に戻った西郷がいの一番に斉彬の墓前に駆けつけたのは、当然であったと言えるかもしれません。

そして、西郷は席の暖まる暇もなく、同年3月4日に鹿児島を汽船で出発し、3月14日に京に入りましたが、今回の『西郷どん』において、西郷と久しぶりに対面した久光は、不快の表情を浮かべ、「わしは許しちょらん!」と言い放っていました。
前述のとおり、確かに久光は心の中でそう思っていたものと思われます。
同年正月25日付けで、久光が藩主・茂久に宛てた書簡には、

「何分免許難相成者候得共、沸騰込り入候次第故、吉井外二人下島申付、能々相探り、其上赦免相成筈相決申候、彼悔悟ニ而尽力いたし候得は、大ニよろしく御坐候、しかし其うらニ相成候得は以之外之事、国乱ハ必定ニ御坐候、治乱之界此事ニ御坐候」(『鹿児島県史料 玉里島津家史料補遺 南部弥八郎報告書』二)

とあり、久光の西郷に対する怒りは、まだ完全に解けていなかったことが分かります。

「西郷は何分許しがたい者だけれども、周りから「召還せよ」との声が沸き上がって困っているので赦免した」

とあるのは、久光の本音だと言えるでしょう。
また、久光は「もし西郷が期待を裏切れば、国乱は必定」と書いていることからも、西郷を心から赦していたわけではなく、大いに不安視していたことも分かります。

西郷が京に着いたこの日は、久光の朝議参予の辞任が聴許された日でもありました。
詳しく後述しますが、「参予会議(制度)」は、久光が公武融和策の大きな柱として構想し、そして力強く推進した、いわば「一丁目一番地」の政策であり、久光が情熱を込めて、その実現に尽力したものでした。
それがこの日に完全に瓦解したわけですから、久光の失意は想像するに余りあります。
そんな日に憎むべき西郷が上京してきたのですから、今回の『西郷どん』で描かれたように、久光の気分が晴れなかったのは間違いないでしょう。
ただ、当時の政治情勢を考えると、久光としても、西郷のように有用な人物は、使わざるを得ない状況に追い込まれていたとも言えます。

『西郷どん』では全く触れられませんでしたが、薩英戦争の約一ヶ月後、文久3(1863)年8月18日、薩摩藩は京において会津藩と提携し、当時朝政を牛耳っていた長州藩並びに過激な攘夷派公卿らを京都から追放するクーデターを敢行しました。
いわゆる「八月十八日の政変」と呼ばれるものですが、政変が生じた翌8月19日、薩摩藩と姻戚関係にあった近衛家の忠煕・忠房父子は、当時鹿児島に居た久光に対し、政変の成功を知らせると共に、上京を求める書簡を送っています。
その書簡には、

「初発之廟議尤大事之限ニ候得ハ、何分其許上京無之テハ人心一同之落居モ無之、正論之筋モ難相立候間、度々遠路大儀之事ニ候得共、此折節上京在之候様致度、左候ハヽ、叡慮モ必然御安堵之事ニ可被為在、下情一同之渇望ニモ相叶可申、旁上京偏ニ々々々々々々旦夕待入候事ニ候」(『鹿児島県史料 玉里島津家史料』二)

とあり、当時の近衛父子がいかに久光の再上京を待ち望んでいたのかがよく分かります。
八月十八日の政変により、過激な尊皇攘夷を唱える中心勢力は京から一掃されたとは言え、当時の朝廷はまだ混乱の中にあり、その政情はすこぶる不安定な状態でした。
近衛父子はそんな状況を不安に思い、大きな信頼を寄せていた久光に対して、即時の上京を求めたのです。
近衛から久光に宛てた書簡内には、

「偏に、偏に、偏に、偏に」

と、四回同じ言葉が重ねられている部分がありますが、この書きぶりから察しても、近衛父子がいかに久光を頼りに思っていたのかがよく分かります。

また、近衛父子は久光に対して、「兵士多分被召連候様頼入存候」とも書き、兵を多数引き連れて上京して欲しいと頼みました。
近衛父子はその理由を同書簡の中で、「如前文時勢折柄に候へば、猛勢之威風不相示候ては、是又権勢に相係候儀に候間」と書いています。
つまり、以前のように朝政が麻のように乱れた状態に戻ることを懸念した近衛父子は、「このような時勢なので、多数の兵力をもって、威風堂々薩摩藩の力を見せつけて欲しい」と、久光の強いリーダーシップと薩摩藩の巨大な軍事力に大きな期待感を抱いていたのです。

近衛父子がさらに8月22日、そして29日にも久光宛てに連続して書簡を送り、即時の率兵上京を促したこと、また8月28日には勅命が下ったことで、久光は薩英戦争の後処理が未だ済んでいない状況にありながらも、上京を決心し、10月3日に京に入りました。
こうして再び京に戻った久光は、着京早々の10月15日に建白書を朝廷に対して提出していますが、そこには、

「天下之形勢人情事変御洞察、永世不抜之御基本相立候様遠大之御見識相居り、聊之義ニ御動転不被為在候処専要之義と奉存候」(『鹿児島県史料 玉里島津家史料』二)

との言葉があり、久光は「永世不抜の御基本」を立てることが必要であると書いています。
つまり、未来永劫に決して揺るぐことの無い政治の基本を今こそ立てるべきだと久光は論じているのです。
そして、久光はその具体的方策として、

「列藩上京之上天下之公議 御採用、大策御決定被為在度御事と奉存候」

と、有力諸藩の大名を上京させ、その衆議のもとに政治を運営することが必要であるとも書いています。
これがいわゆる前出の「参予会議」と呼ばれるものへと繋がっていくわけです。

参予会議とは、諸大名が朝議や幕議に参画できるように設けられた合議制度であり、久光は、朝廷、幕府、そして諸大名、この三つの勢力間の意志の疎通をはかるために、このような政治改革を提唱し、公武融和策の大きな柱にしようと考えました。
京に入った久光は、将軍を始めとする有力者、当時将軍後見職にあった一橋慶喜(のちの徳川慶喜)や有力諸藩の大名たちを京に参集させるべく尽力し、その甲斐あって、文久3(1863)年12月30には、一橋慶喜を筆頭に、会津藩主・松平容保、前越前藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、前土佐藩主・山内容堂の五人が朝議参予に選出されました。
この時、朝議参予に任命された者たちの中に、提唱者の久光自身が入っていなかったのは、久光が当初辞退したためです。
当時の久光は、薩摩藩内では国父として大きな権力を有していた人物でしたが、対外的には無位無官であったことから、自らの官位欲しさに参予に就任したと思われることを嫌ったのです。
今回の『西郷どん』において、参予に就任していた諸大名らが久光のことを「国父殿」と呼んでいましたが、これは違和感があり過ぎます。国父とは、あくまでも薩摩藩内における久光の地位を表したものであって、他国者が久光のことを「国の父」などと呼ぶのは、どう考えてもおかしいからです。

話を戻して、このように当初久光は参予には就任しませんでしたが、参予会議の生みの親とも言える久光がメンバーに入らなくては、現実的に会議の運営に支障をきたすため、遅れて翌文久4(1864)年1月13日、久光はようやく朝議参予に就任することになりました。
そしてこの日、久光は初めての官位である「従四位下左近衛権少将」の叙位を受けたのです。
その時の喜びを詠じた久光の和歌が『島津久光公実紀』の中に出てきます。

「老いの波 たちそふ身にも 春の日の 漏れぬ光りに 逢ふぞうれしき」

つまり、こんな老いた自分にも、朝廷の温かいご威光が照らされてきたことが嬉しい、と久光はその感慨を和歌にして詠じたのです。

このようにして、久光の尽力が実り、参予会議が発足したわけですが、前述のとおり、その二ヶ月後の3月には早くも制度は瓦解してしまいます。
参予会議瓦解の大きな原因となったのが、いわゆる「横浜鎖港問題」です。
つまり、横浜港を鎖港するか、それとも開港するかということですが、この問題を巡り、慶喜と容保の二人と久光、春嶽、宗城、容堂ら四人の意見が対立しました。

当時の久光は、基本的に開国論者です。
少し時がさかのぼり、文久3(1863)年10月3日に久光が入京し、10月15日に朝廷に対して建白書を差し出したことは前述しましたが、それから一ヶ月経った11月15日、今度は久光に対して、近衛家を通じて孝明天皇の宸翰が下りました。
何度も書きますが、当時の久光は無位無官の身です。
そんな久光に対して、孝明天皇から直々の宸翰が下されたのですから、久光は感激したに違いありません。
また、この事実をもってしても、孝明天皇の久光に対する信任の厚さがうかがえます。

孝明天皇はその宸翰の中で、「皇國永代無穢安慮之攘夷迅速有之度右之建白所望候事」(『島津久光公実紀』二)と書き、迅速な攘夷を行なうための方策を建白するよう、久光に対して求めました。
しかしながら、その孝明天皇の宸翰に対して提出した答書において久光は、

「小臣急速ノ攘夷ヲ相好不申候儀ハ、去秋書取ヲ以奉言上候通迚モ方今ノ所ニテハ、一度兵端相開候得ハ、万民快楽之叡慮ニモ不被為叶、皇国億兆ノ人民是カ為ニ塗炭ノ苦ヲ受、乍恐堂々タル神州醜夷ノ戎馬ニ被穢候様罷成候テハ、何共恐入候次第御座候」(『鹿児島県史料 忠義公史料』二)

と書いた上で、

「皇国而已鎖国難被成形勢御座候」

と、「日本だけが鎖国を続けられる形勢ではありません」とはっきり答えています。
久光の開鎖の考え方は、この孝明天皇に対する答書に詳しく記されていますが、簡単に言えば、「開戦することは容易なことだが、そのことで万民は塗炭の苦しみを味わう。攘夷、攘夷と声高に叫ぶ前に、まず国内の武備充実を行なうことが先決である」ということです。

このような考えを持っていた久光は、当然横浜港を開港すべきだと主張したわけですが、慶喜はその久光の開港論に反対しました。
つまり、慶喜は「横浜鎖港」を主張したのです。
しかしながら、慶喜は元来開国論者です。
『徳川慶喜公伝』三には、

「公は原來開國論の主張者なり、幕府の局に當りて、騎虎の勢已むことを得ず、是れまで攘夷鎖港を標榜し給へども、鎖港は到底行はるべからず、此際斷然開國の方針に一變するに如かずと思惟せられたれば」

とあり、当時の慶喜自身も「開国しか道はない」と考え、横浜を鎖港することは現実的に不可能だと分かっていましたが、それでも慶喜は、横浜開港を唱える久光に反対しました。
その理由については、『徳川慶喜公伝』や『昔夢会筆記』といった慶喜の伝記や回顧録の中に見ることが出来ますが、ここでは『徳川慶喜公伝』の記述を借りると、慶喜が久光の開港論に反対した理由が、次のように書かれています。

慶喜がある日二条城に登った際、慶喜は老中の酒井雅楽頭忠績水野和泉守忠精らから、

「此度御出發の前、台前に於て板倉周防守勝静を始め閣僚と決議したる趣は、開國はともあれ、薩州の開國論には決して従ふべからずといふに定まれり。抑昨年御上洛の時は、長州の説に聴きて攘夷の議を決し、今年は薩州の議に従ひて開港説に傾かば、幕府は唯外様に翻弄せられて、一貫の主義なきを知らしむるものなれば、斷じて此度の開港説には賛同し難きなり」

と、幕議において薩摩の開国論には従わないことを決定したと伝えられました。
それに対して慶喜は、「然らば何處までも攘夷を是とせらるるか」と確認したところ、両老中は、

「攘夷の行ふべからざる事、開港の然るべき事は承知し居れども、薩州の説には従ひ難きなり。若し強ひて薩州の説を容れんとならば、己等は直に袂を連ねて辞職すべし」

と言い放ちました。
つまり、当時の幕閣は、攘夷が不可能であり、横浜を開港するしかないと分かっていながらも、それが薩摩藩主導、つまり久光の提案と主導によることが気に入らないという理由で、その開港論に反対しようとしていたのです。

ただ、このように一国の政策を決定する際、幕府が薩摩藩に従えないという体面を気にしての理由から、実際の考えとは違う主張をしようとしたということは、当時の幕府がいかに政治的に機能不全に陥っていたのかが分かります。
当時の幕府関係者が、これほどまでに薩摩藩をそして久光を毛嫌いしていたのは、文久2(1862)年6月、久光が兵を率いて江戸に下り、幕政改革を迫ったことがしこりとして残っていたためです。
つまり、久光の行動によって、幕府は面目を潰された形になったため、その遺恨が久光の開港論に反対した原因になったと言えます。

そして、幕府の老中たちは、辞職を盾に取り、慶喜に対してもそれを迫りました。
このように、『徳川慶喜公伝』によれば、慶喜が久光の開港論に反対した理由は、老中らの圧力に屈し、開港論に賛成できなかったからだとされています。

ただ、この『徳川慶喜公伝』の記述をそのまま鵜呑みには出来ないでしょう。
慶喜が久光の開港論に反対したのは、他にも様々な要因が入り混じっていると解釈すべきです。
確かに、幕府側の責任者として参予会議に出席していた慶喜にとって、老中ら幕閣の意志を尊重する立場にいた苦労も理解は出来ますが、慶喜自身もまた当時の朝廷の意向や民情を強く意識していたことにより、久光の開港論に反対したものと思われます。

前述のとおり、当時の孝明天皇は骨髄からの攘夷主義者です。
久光はそんな孝明天皇の不興を被ることも覚悟のうえで開港論を主張しましたが、幕府としては、朝廷の支持や信頼を獲得するためには、孝明天皇の意向通りに鎖港を主張する方が政策上は都合が良かったと言えます。
また、当時の日本の状況は、まだまだ攘夷熱が依然覚めやらぬ状態でした。
今回の『西郷どん』において、お虎のいる旅籠「鍵屋」の入り口に、薩摩藩の悪口が書かれた張り紙が貼られているシーンがありましたが、これは同様の話が『鹿児島県史』三の中に出てきます。

「当時民間の攘夷論なほ強盛で、薩藩を開港説として論難し、或は市中に貼紙して慶永・久光等を非難攻撃する等のことがあった」

つまり、当時開港論を主張していた久光や春嶽に対する世間の評判は、このようにすこぶる悪かったため、当時の民情を考慮すれば、幕府としては、鎖港を唱える方が都合が良かったとも言えます。
そして、最後にもう一点。
当時の慶喜自身の行動から推察すると、慶喜も幕閣と同様に、薩摩藩主導による開港論に対して、やはり大きな抵抗感を持っていたのではないかと思われます。

ただ、その一方で、やり切れないのは久光です。
当時の久光は、幕府を軽んじたり、また敵視したりするどころか、日本のために統治機構としての幕府は必要な存在であることを認め、朝廷と幕府を融和させた政治を実現するため、懸命にその間を周旋しようと手を尽くしていました。
そこには後年のような幕府否定論は全くなく、幕府のためを思えばこその周旋であったのですが、当事者の幕府は、その久光を毛嫌い、そして信用・信頼せず、常に猜疑心を持って接していたため、幕府は最終的に参予会議を壊す方向に舵を切ったのです。

これにより、久光が心血注いだ参予会議というものは、公武融和を前提とした政策協議の場では無く、政治権力の闘争の場と化しました
つまり、政策論争は棚に上げられ、幕府か有力諸藩、どちらが朝廷を取り込み、政権のイニシアチブを握るか? という権力争いの場と化してしまったのです。

そして、その参予会議が崩壊したことにより、諸藩の幕府離れは一層加速され、久光の心は反幕へと傾いていきます
そう考えると、幕府は自分で自分の首を絞めたとも言えます。
参予会議は、幕府にとっても、そして薩摩藩にとっても、非常に重要なターニングポイントだったと言えましょう。

『西郷どん』においては、久光は感情的な人物として描かれ、どちらかと言えば、やることなすこと失敗ばかりの無能な人間のように描かれていますが、それは実像と大きくかけ離れています。
政治に挫折は付きものです。
政治とは、挫折と改革を繰り返して成熟していくものであり、その不断の努力によって結実したのが明治維新であったと言えますが、当時の久光は根気よく政治活動を続け、参予会議の発足と運営に力を尽くしました。
西郷隆盛が主役のドラマですから仕方ないとは言え、そのような日本の将来を見据えての久光の奮闘が全く描かれなかったのはとても残念です。

少し長くなりましたが、このように久光が奔走した参予会議は結局瓦解し、久光の朝議参予の辞任が聴許された当日に、今度は心中に反幕思想を抱く西郷が上京してくることになったのですから、歴史というものは、本当に不思議なものと感じざるを得ません。

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【2018/07/16 17:56】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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歴史は研究されて刷新されていくものだと思いました。

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歴史は研究されて刷新されていくものだと思いました。
2018/07/24(Tue) 16:26 | URL  | k #-[ 編集]
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