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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
先日、私のツイッター内で、『西郷どん』における島津久光の描き方に疑問を感じるとの呟きをした際、大変多くの「いいね」を頂きました。(これまでの私のツイートの中で一番多くの「いいね」を頂いたかもしれません)
この結果を見る限り、同じような思いを抱いて『西郷どん』を見ている方が多く居るように感じました。
少し話がそれますが、私がなぜ久光の描き方に疑問を感じるのか、その理由について簡単に書いておきたいと思います。

ご存じのとおり、今年は明治維新150周年の節目を迎える年です。
全国各地で関連イベントや展示会の開催等が目白押しですが、今から50年前の昭和43(1968)年も同様に、当時「明治百年」という言葉がもてはやされ、それに伴う記念事業がたくさん企画されました。
今その時期に出版された書籍を読み返すと、薩摩藩の幕末史に関して言えば、西郷と大久保が中心であり、彼らの「英雄伝」的な側面が非常に色濃く出ていたように思います。
つまり、まるで彼らが明治維新における「スーパーマン」のような存在として描かれ、さも二人の活躍で明治維新が成立したと言わんばかりの勢いで語られていたということです。

確かに、西郷と大久保の二人が薩摩藩の明治維新の原動力となったことは間違いありません。そして、彼らの残した功績は偉大であると言えます。
しかしながら、最近の研究において、島津久光や小松帯刀といった、西郷と大久保の二人を導き、そして支えた存在がいかに大きく、そして重要であったのかが明らかになってきているように、西郷と大久保の活躍だけで歴史を動かせたわけがなく、彼らを取り巻く様々な人物の協力や支援があってこそ、二人は縦横無尽に活躍でき、幕末という大きな歴史を動かせたと言えます。

明治維新150周年の節目を迎えるにあたり、これまでのような西郷・大久保中心の史観から脱却し、薩摩藩の明治維新を少し違う角度から眺め、多角的にそして多面的に見つめ直すことが重要であると私は感じています。
誤解されては困りますが、これは西郷や大久保を否定しているわけではありません。
私は十代の頃に西郷に興味を持ち、そしてそれ以来その魅力の虜となった人物ですので、西郷の存在を否定するはずがありません。昨今流行りの西郷や大久保の業績を批判しようという、そのような狭小な考え方ではなく、

「薩摩藩の明治維新史を正確に理解するためには、新たな視点を持つことが重要である」

ということを意味していると、ご理解頂ければと思います。

また、それに併せて、西郷と大久保の再検証も必要となってくるでしょう。
彼らは後年明治維新における偉人と崇め奉られたことから、実像以上に虚像部分が肥大化し、独り歩きしている面も多いことから、二人の生涯を再度点検し直し、「新たな西郷像や大久保像を再構築する」ということも、併せて必要になってくるのではないでしょうか。
昨今流行りの歴史的根拠の薄弱な、まさに奇をてらっただけの歴史本とは到底呼べない代物の幕末関連書籍において、西郷や大久保が否定されるのを見る度に、その思いはどんどん強くなっていく一方です。

大河ドラマ『西郷どん』の放映は、西郷や大久保の功績や足跡を見直す意味において、非常にタイムリーで、そして喜ぶべきものでした。
また、『西郷どん』は、「新たな西郷像を描く」との触れ込みでしたので、非常に期待していましたが、確かに西郷の人間性により深いスポットが当たりはしましたが、明治維新における西郷の政治的な役割に関して言えば、従来の史観による描き方と余り変わりは見られません。
また、ドラマの主役ですから、人物像を大きく描くのは致し方ないにせよ、西郷を際立たせるために、久光のような慧眼ある人物を一段下げて描くのは、ドラマとは言え、余り意味があることとは思えません。
『西郷どん』における久光は、人間的で愛着ある人物には描かれていますが、どちらかと言えば、道化師のような扱いですので、もう少し工夫を凝らし描いて欲しかったと思うのです。

(入京後の西郷)
西郷が沖永良部島から召還され、京に入った約一ヶ月後の元治元(1864)年4月18日、久光は鹿児島に向けて帰国しました。
参予会議が瓦解したことで、公武周旋に一定の見切りを付けざるを得なくなったからですが、この時、西郷の盟友である大久保もまた、久光に付き従って帰国したことから、京には久光の次男で宮之城領主であった久治を筆頭に、小松、西郷、伊地知正治、吉井幸輔といった人々が残留しました。
この時、京における政治の舵取りは、家老の小松に任され、そして西郷はその参謀格として小松を支える立場になったと言えます。

前回の『西郷どん』において、久光は京を去るにあたり、西郷を軍賦役兼諸藩応接係に任じていました。
今回のドラマ内で村田新八が、「久光が西郷を軍賦役にしたのは、戦で殺すためではないか」みたいな発言をしていましたが、実際そんなことはありません。
久光が帰国する約一週間前の4月10日、西郷は鹿児島の桂久武と思われる人物に書簡を送っていますが、その中で自らの昇進について次のように書いています。

「至極乙名敷いたし居り候処、余り程能きが過ぎて御機嫌取りと相成り、度々の御役替にて、はじまらぬ事に御座候。御笑察下さるべく候」(『西郷隆盛全集』一。以後、西郷書簡は全て同全集第一巻からの引用)

つまり、京に着いてからの西郷は、至極おとなしく過ごしており、その態度が余程出来すぎていたためか、それがまるで久光に対する機嫌取りのようになって、度々役目を替えられることになりましたと、西郷は若干苦笑を交えつつ現状を報告しています。
今回の『西郷どん』で描かれた「禁門の変」において、確かに西郷は銃創を負いましたが、西郷が着京し、軍賦役に任じられた時点において、長州藩兵があのような形で京に攻め登ってくるような状況にはありませんでしたので、久光は西郷を死に追いやろうとして軍賦役に任じたわけではないのです。

また、同書簡の前段において西郷は、

「陳れば大坂伏見辺より有志の御方々へ面会、昔日に相替らず交わり候処、どうか心持も悪しかりそうに思われ候事に御座候。然しながら一同安心の様子に伺われ申し候。余程心配致されたる事かと思われ候事にて、如何にか狂言を咄すやも知れずと胸を蕉し居られたるにてはこれなきや。おかしな事に御座候」

とも書いており、「周囲の者たちは、私が久光公に対して、また過激なことを言い出すのでは無いかと心配していましたが、その予想に反して、私がおとなしかったので、彼らがそれを見て安心している様子が滑稽です」と述べています。
前回の『西郷どん』においても、西郷が久光に対して、一切反抗的な態度を取ることなく、従順な態度を示す様子が描かれていましたが、この書簡の記述にあるとおり、当時の西郷は久光の命令に対して、とても従順であったことは事実だったと言えます。

ちなみに、西郷がこのような態度を取るにいたったのは、やはり沖永良部島への遠島が大きなきっかけになったと言えます。
ただ、西郷が久光に処罰されたことにより、それに懲りて、おとなしくなったと言うよりも、沖永良部島で苦難の日々を過ごす中において、「久光との関係は、大事の前の小事である」ということを西郷自身が悟ったからではないかと私は解釈しています。
つまり、大きな志を遂げるためには、久光に逆らうことは小事であり、「小事に拘わりて大事を忘るな」ということを改めて西郷が悟ったのではないかということです。

当時の久光は薩摩藩内では絶対的な存在です。
久光を動かさずして、薩摩藩は動きませんので、西郷は自らの本懐を遂げ、そして斉彬の大恩に報いるためには、個人的な感情をもって久光に接するべきでは無いということを深く心に刻んだのだと思います。
旧庄内藩士たちが編纂した『南洲翁遺訓』の中に、「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」(『西郷隆盛全集』四)という言葉がありますが、西郷は久光に対しても、その精神を実践したように感じます。
そして、このような西郷の態度は、西郷が死を迎えるまでずっと続くことになりますが、その反面、この後、西郷が久光に対して、常に気を遣いながら行動しなければならなくなったということは、西郷の生涯を理解するうえにおいて、とても重要なファクターになるものと私は考えています。

(西郷の慶喜観)
『西郷どん』において、ヒー様こと一橋慶喜と西郷が、非常に仲睦まじく交流する様子が描かれていますが、実際二人はそのような関係にありませんでした。
前出の元治元(1864)年4月10日付けの西郷書簡には、次のようにあります。

「幕府においては詐謀勝にて如何ともなすべきようこれなく嘆息の次第に御座候。然る処五六侯盟会の御方々迚も幕府離間の策中に陥り、瓦解いたし頓と致し方これなき訳に御座候。独木侯誠に不思議の仕合い、禍心相萌え候模様に伺われ申し候」

前段の「五六侯盟会の御方々迚も幕府離間の策中に陥り、瓦解いたし」という部分は、前回書いた慶喜が参予会議を瓦解に追い込んだことを指していますが、後段の独木侯こと慶喜に「禍心相萌え」とあるのは、「慶喜に将軍になりたいとの野望が芽生えている」という意味です。
つまり、西郷は慶喜の野心を警戒しているのです。

また、西郷が約一ヶ月後の同年5月12日付けで、同じく大久保に宛てた書簡には、

「長州は勿論暴客輩も近来一橋を頻りに疑い出し、異議紛々の様子に相聞かれ申し候。段々策略の次第も相顕われ、水人抔は籠絡致され候姿にて、決して攘夷の腹にこれなく、別に一物これあり候わん」

とあり、「長州藩や過激な浪士たちも、近頃は慶喜に疑いを持ち、異論が噴出している様子だ」と書いたうえで、「慶喜の本心は攘夷にはなく、他に何か魂胆があるのではないか」と、当時の慶喜の行動をいぶかしむ記述があります。

さらに、西郷が同年6月1日付けで大久保に宛てた書簡にも、

「只今に到りては各藩一橋を悪み候勢いに成り立ち候儀もっともに御座候。是非一橋には長州を挫きて其の上攘夷の筋を相初め候存慮と相伺われ候得共、夷人の手を借り、長を押え候始末、悪むべきの業に御座候」

とあり、諸藩が慶喜を憎む傾向にあるのはもっともだとし、また、外国人の力を借りて長州を倒そうとしている慶喜の行動を「悪むべきの業」として痛烈に批判しています。

以上のように、西郷書簡の内容から察すると、西郷は慶喜に対して一切心を許していないばかりか、慶喜のことを猜疑心をもって見ていることが分かります。
今回の『西郷どん』では、西郷が長州藩の桂小五郎と会い、そして西郷の仲立ちで桂が慶喜と会っていましたが、実際そのような厚い信頼関係で二人は結ばれていなかったのです。もちろん、西郷が桂を慶喜に引き合わせたという事実もありません。

当時の薩摩藩にとって、慶喜は最も警戒すべき存在であったと思われます。
西郷が翌6月2日付けで大久保に宛てた書簡の別紙には、

「只今京地の形勢に付いては至極差し迫り、長州襲来の一条は勿論、一橋侯の隠策旁容易ならざる時態に罷り成り、如何変動致すべきやも計り難く」

とあり、慶喜の謀略により、京の政情が容易ならざる局面を迎えていると書いています。

このように慶喜の動きによって政情が複雑化していたことから、西郷は大久保に対し、同書簡の中で、「当月中も機会御見合わせ相成り候様御座ありたく、私共よりも御願いに御座候」と頼んでいますが、これは家老の小松を薩摩に帰国させないで欲しいということです。
これは同書簡の本紙にも、もっと具体的に「帯刀殿御儀に付いては、別紙御問い合わせ申し上げ候通り、今に御下り相成り候ては頓と此の方においては込り入る次第に御座候」とあり、西郷は「小松が帰国するのは困る」と、大久保に対して胸の内を打ち明けています。

以上の記述から考えると、当時の西郷は小松の判断なしに、独断で事を進められる状態にはなく、当時京に居た薩摩藩要人の中心人物は、西郷ではなく、小松であったことが分かります。
町田明広「元治元年前半の薩摩藩の諸問題:小松帯刀の動向を中心に」(神田外語大学日本研究所紀要7巻、2015年)には、

「通説では、薩摩藩は西郷・大久保に率いられ、久光は利用されたのみの存在とされてきたが、実際には「久光―小松体制」の下で西郷・大久保は活躍していたのであり、この点は看過してはならない」

とありますが、これは大変重要な指摘です。
当時の西郷に薩摩藩を独断で差配し、そして命令を下せるような力はそもそも無かったと言えるのです。

(池田屋事件と長州暴発)
今回の『西郷どん』で描かれた池田屋事件については、西郷が大久保に宛てた書簡の中にも出て来ます。
池田屋事件の三日後、元治元(1864)年6月8日付けの書簡には、次のようにあります。

「五日夜の会藩等浪人捕え方の一件、内田仲之助方より申し来り、鶏鳴相達し、披見の央、京地の方火烟相見得候に付き実に驚駭いたし、早々罷り帰り候次第に御座候」

池田屋事件が起こる前日の6月4日、西郷は鹿児島から上京予定の久光の四男・珍彦を迎えるため大坂に下りましたが、珍彦がまだ着坂していなかったため、楠公社設立の敷地選定のために伊丹へと移りましたが(当時の薩摩藩は楠木正成を祀る神社の設立を目指していた)、その際、京の方向に火の手が上がるのが見えたため、西郷は急いで帰京しました。
同書簡には、「畢竟何等の処より此の如き始末に相及び候や、委敷相分らず候」とあり、当時の西郷は池田屋事件の事の次第を全く掴めていなかったことが分かります。

ただ、同書簡の後半部分には、「此の末如何成形行申すべきや、長州も只々止り居り候事にもこれなく、大破に相成るか、又は大挙して発り立ち申すかに御座あるべく候」とあり、西郷は事件の性質上、長州藩がこのまま引き下がることはなく、これをきっかけに行動を起こす可能性があることを言及しています。
そして、実際に事態は西郷の予期したように進みました。

西郷が大久保に宛てた書簡を使って追ってみると、約一週間後の同年6月14日付けの西郷書簡には、

「近比長州にては頻りに討幕の説相起り候由に御座候間、異人襲来に付き援兵各藩より差し出さざる様朝命相下し候処を願い置き候事件、余程怨み深く成り立ち候訳と相聞かれ申し候」

とあり、幕府が朝廷に対して、英仏蘭米の四国連合艦隊が長州に襲来した際、各藩に対して援軍を出さないよう求める朝命の降下を願い出たことから、その幕府の処置を不満に思った長州藩内に、幕府を討とうとする動きが生じていることが記されています。
これは今回の『西郷どん』で再登場した中村半次郎ら諜報活動にあたっていた藩士たちから得た情報であったことでしょう。
西郷は同書簡の中で、「中村半次郎と申す者追追暴客の中間にも入り込み、長州屋敷内にも心置きなく召し入れ候て、彼方の事情は委敷相分り」と、中村が長州屋敷に出入りしているので、長州の事情が詳しく分かると書いています。

実際、西郷がこの書簡を書いた6月14日、池田屋事件の一報が長州に届きました。
『防長回天史』には、「十四日京都池田屋の變報山口に達す上下憤激」とあり、池田屋事件の情報を受けて、長州藩士たちは激昂し、藩内の不満は一気に爆発して、遂にそれは出兵という形で行動に移されました。
その約10日後の6月25日付けの西郷書簡には、

「去る二十日より追々長州人着坂いたし候段相聞得候に付き、方々探索方いたし置き候処、相分り候次第柄、全く五日晩長人召捕一件より相起り候儀にて、多人数出張の趣に御座候。大体千人と申す事、惣宰は福原越後と申す者の由に御座候」

とあり、池田屋事件の報を受けて激発した長州藩兵が、6月20日頃から続々と大坂に入ってきている様子が記されています。

『防長回天史』によれば、岩国藩の吉川家に「上京御手組書」という記録が残されており、それによると、出兵を計画した長州藩兵は、五つの部隊に分けて編成されたようです。
先鋒隊が浪士三百人、二番隊が家老・福原越後率いる三百人、三番隊が今回プロレスラーの長州力さんが演じた来島又兵衛率いる遊撃隊三百人と家老・国司信濃率いる百人、四番隊が家老・益田右衛門介率いる三百人に清末藩主・毛利元純率いる二百人、五番隊が世子・毛利定広、三条実美、吉川経幹(監物)が出陣する布陣でした。
ただ、これは当初の予定であり、実際、国司信濃は多数の兵力を率いて上京していますので、当時の京・大坂へ出兵した長州藩の兵力(浪士隊を含む)は、約二千五百人程度だったものと推察されます。
『忠正公勤王事積』によると、強硬的な出兵論の中心人物でもあった来島又兵衛と家老の福原越後が大坂に入ったのは、6月22日のことであると書かれてありますので、西郷の書簡と照らし合わせると、当時の薩摩藩はほぼ正確な情報をつかんでいたと言えましょう。
これも中村らの諜報活動の賜物と言えるかもしれません。

このように京・大坂が緊迫した様相を呈する中、前出の6月25日付け西郷書簡によると、幕府から薩摩藩の京都留守居に対して、「淀辺へ人数差出し警衛いたし候様、御達相成候」と、淀周辺へ出兵するよう達しがあったようです。
しかし、西郷は「御断相成候儀に御座候」と、幕府の出兵要求を断ったと書いています。
西郷はその理由について、次のように書いています。

「此度の戦争は、全長會の私闘に御座候間、無名の軍を動候場合に無之、誠に御遺策の通、禁闕御守護一筋に相守候外無余念事に御座候間、左様御含可被下候」

これはとても有名なフレーズですが、西郷は長州藩の出兵は、池田屋事件に端を発した長州藩と会津藩の「私闘」であると位置付け、薩摩藩は御遺策、つまり久光の言いつけ通りに禁裏を守護することのみを考えて行動すると書かれています。
これは同日小松が大久保に宛てた書簡内にも同様のことが出てきますので、薩摩藩の統一した方針であったと言えましょう。

また、西郷は長州藩の現状を「いづれ長人の儀、内には外夷の襲来を待、外は出軍の次第、實に死地に陥り候窮闘と申ものに御座候へば、定て破立候儀かと相考候」と分析し、内には英仏蘭米の四国連合艦隊の襲来が迫り、外には京への出兵で死地に陥るような状況にあるので、長州藩はいずれ破綻を迎えるのではないかと推測しています。

ただ、西郷はそんな長州藩の苦境を目の当たりにしながらも、

「差迫り候處を幸にいたし、兵を動し候儀、誠に無名の軍と相成候ては、後来迄の汚名と相成候儀に御座候」

と述べ、このような状態で、これ幸いとばかりに兵を動かして長州藩を討つのは名義無きことであり、そんなことをすれば末代までの汚名になると断言しています。
また、西郷が併せて、

「一度長州挫き候わば幕命を奉ぜざる処を以て難論相成り候儀は差し見得候得共、夫等の煩いを顧みて無名の兵を挙げ後来の恥辱と相成り候儀共にては、却って其の罪も重かるべしと相考え居り申し候」

と述べているのは、非常に重要な部分だと言えます。

「幕府は長州藩を潰せば、今度は幕命に従わなかったという理由で、薩摩藩を責めるであろう。その煩いを避け、名義無き兵を挙げることは、後世の恥辱となり、かえってその罪も重くなる」

と西郷は論じているわけですが、この「幕府が長州を潰せば、次は薩摩が責められる番」という大きな危機感は、西郷のその後の行動に強い影響を与えていたという風に私は解釈しています。(このことは次回書くことにします)

(禁門の変)
以上のように、西郷は「長州藩の出兵は会津藩との私闘である」と位置付け、久光の言いつけを順守して、「禁裏守護」の立場に徹しようとしていましたが、長州藩の怒りの矛先が会津藩だけではなく、朝廷そのものにも向けられていることを知り、長州藩と決戦に及ぶことを決意しました。

同じく西郷の大久保宛て書簡から追いますが、元治元(1864)年6月27日付けの書簡には、

「朝廷を八月十八日已前に打ち替え、我意を働くの趣意と相見得申し候次第に御座候得共、いずれ勅命を以て征討の旨相下り候得ば、長と相戦わず候て相叶わざる時機もこれあるべしと決心致し居り候」

とあり、「長州藩が朝廷を八月十八日の政変以前の状態に戻そうと考えているようなので、いずれ征討の勅命が降下されれば、長州と戦うことになるであろう」と西郷はその決心を大久保に対して告げています。
これは前出の同年6月25日付けの西郷書簡にも、「いずれの筋長州より、若しや朝廷に対し奉り御怨み申し上げ候様の儀も御座候わば、其の節は戦わずして相済み申す間敷と相決し罷り在り申し候」とあるので、「朝廷に危害を加えようとする動きに対しては、断固たる措置を取る」という西郷の考え方は、当初から不動のものであったと言えます。

ただ、薩摩藩内には、長州藩を救おうと主張する人々のみならず、会津藩に力を貸そうと主張する人々も居たようです。
その約10日後の同年7月4日付けの西郷書簡には、「御屋敷中にても長州を救うがよりの会津を助けんにゃならん抔との議論も紛々と相発り」とあり、薩摩藩邸内は長州救済派と会津加担派の二派に分かれて議論が生じていると書かれています。
特に会津藩に関して言えば、前年の八月十八日の政変において、互いに提携した間柄でしたので、会津に加担すべきと主張する人が居たのも当然であったと言えます。
ただ、会津との提携に尽力した高崎佐太郎高崎猪太郎の二人、つまり前回のブログで紹介した両高崎は、当時久光に従って鹿児島に帰国していましたので、会津藩に肩入れしようとする勢力は、藩邸内では小さくなっていたと言えましょう。

ちなみに、『西郷どん』でも登場した、西郷が奄美大島で世話になった木場伝内という人物が居ますが、当時彼は薩摩藩の大坂留守居を務めていました。
その木場が同年7月10日付けで大久保に宛てた書簡の中で、「屋舗中も二奸出立後誠ニ静謐、永山源兵衛上坂、別て仕合ニ御座候」(『忠義公史料』三)と書いていますが、木場曰く「二奸」とは、両高崎を指しているものと思われます。
木場が「両高崎が鹿児島に帰った後は、藩邸内も誠に静かに治まっている」と書いていることから察すると、二人は会薩提携の中心人物であったため、常日頃から会津加担論を主張し、何かと藩邸内でのもめ事が多かったのでしょう、木場はそんな二人が居なくなって良かったと大久保に対して報告しているのは留意すべき点です。
つまり、西郷に近い存在の木場が、会津加担派の両高崎を「二人の奸物」と論じ、その帰国を喜んでいることから判断すると、西郷、大久保、木場といった面々は、既に会津藩と手を組む考えを持っていなかったものと推測できるからです。

両高崎の鹿児島帰国については、西郷書簡中にも出てきます。
前出の6月2日付け大久保宛て書簡内に、「尚々両高崎の儀今に暴客の徒悪み甚敷事に御座候間、暫時は御引き止め相成り候様御計らい下されたく是又御願い申し上げ候」とあり、「両高崎は長州人ら過激な者たちに甚だしく憎まれているので、上京して来ないよう引き留めて欲しい」と、西郷は大久保に対して依頼しています。
「暴客の徒に甚だ憎まれているから」というのは、実に体の良い口実で、西郷は彼らが京に居ては、また会津藩との提携を主張し、物議を醸し出すかもしれないと危惧していたことから、大久保に対して二人を上京させないで欲しいと頼んだものと思われます。
つまり、当時の西郷にとっての両高崎とは、藩論をまとめるうえで、邪魔な存在であったと言えましょう。
後に西郷が倒幕のための挙兵を企てようとした際にも、両高崎がそれに反対するという同じような問題が生じていることから、二人は西郷赦免に一役買った人物でしたが、その考え方は西郷とは相容れぬ人々であったのです。

閑話休題。
以上のように、薩摩藩邸内には長州救済派と会津加担派の二派に分かれての議論が生じていましたが、西郷は「名義正しく、朝廷遵奉の道相立たず候わでは、決して動かざる儀と絶て立て切り候」と、「禁裏守護の名義が立たない以上、決して動くべきではない」と主張し、両派の議論を終息させたことにより、最終的に「御屋敷中一体の議論」となったと大久保宛ての同書簡で述べています。
このような薩摩藩の方針一致に関して言えば、これは西郷の力だけではなく、もちろん小松の力も大きかったと言えましょう。

このような禁裏守護を最優先とし、勅命が降下しない限り、絶対に出兵しないという西郷の態度や考え方は、一切揺らぐことはありませんでした。
同年7月9日付けの西郷書簡には、「幕府の方よりは十人位にても守衞を出しさえ呉れ候えば、諸藩振りはまり申すべく候に付き、何卒して人数を繰り出し呉るるべき」とあり、幕府が薩摩藩に対し、「十人くらいでも良いから、守衞を出してさえくれれば、諸藩が奮発するので、何とか出兵して欲しい」と依頼したようですが、それに対して西郷は、

「初度の挙動容易ならざる儀にて、勢いに乗り俄に人数共繰り出し申すべき時態にてはこれなく、拠なく兵を動かし候ものにてこれなく候わでは相済まず、勿論筋合いを慥かにいたす処肝要の儀と存じ奉り候」

と、幕府の出兵要求を拒否しています。

また、西郷は「いずれ追討の勅命相下り申すべき儀と存じ奉り候に付き、其の節は正々堂々の兵を以て長賊を駆尽し申すべしと相待ち居り申し候」と、勅命が下るまでは動かないとの決心を改めて大久保に対して伝えています。
この辺りにも大義名分を何よりも大事にする西郷の信条がうかがえるのではないでしょうか。

結局、7月18日になり、朝廷から慶喜と諸藩に対して、「長州脱藩士等挙動頗差迫、既開兵端之由相聞、速総督以下在京諸藩兵士等、尽力征討、弥可輝朝権事」(『玉里島津家史料』三)との勅命が下ったことで、薩摩藩は出兵し、翌7月19日には長州藩兵と戦うことになります。
これがいわゆる「禁門の変」というものですが、7月20日付けで小松が大久保に宛てた書簡には、「大島・いちゝ其外皆々下知ニ而、莫大之働ニ御座候」(『玉里島津家史料』三)とあり、西郷は軍賦役として、伊地知は軍役奉行として大いに働いたと書かれている他、同じく小松から鹿児島の重役に宛てた別啓には、

「大島・いちゝ・吉井・内田等も格別之働ニ御座候、大島も足ニ銃丸当り候へとも、少し之事ニ而、今日も天龍へ出張ニ相成仕合ニ御座候」(『玉里島津家史料』三)

ともあり、今回の『西郷どん』でも描かれたように、西郷が足に銃弾を受けたことが記されています。

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禁門の変で戦いの舞台となった天龍寺(京都市)

以上のように、西郷は禁門の変において奮戦し、大きな手柄を立てはしましたが、この時期における西郷の働きとは、このような戦場における武功ではなく、どちらかと言えば、政治的な役割にあったと言えます。
今回の『西郷どん』において、それら西郷の政治的な動きが全く描かれませんでしたので、「禁門の変がなぜ生じたのか?」「薩摩藩がなぜ出兵することになったのか?」は、全く分からない展開でした。
前回のブログでも書いたように、明治維新における西郷の政治的な役割をもっと深く描いていって欲しいものです。


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【2018/07/23 18:08】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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^^
waravino
NHK大河「西郷どん」TVを持っていないので視聴していません。もっともTVがあっても。原作・林真理子という時点で見なかったでしょう。作者に薩摩隼人「チェーッ!」「チェストー!」の世界観は到底描けないだろうと思ったからです。

西郷は開明派・斉彬に見いだされ各地の主足る人物に使者とし派遣され名を売った人物。斉彬>久光になるのは当然です。西郷が久光に反発したのは「お由良さま」の件もありますし当時としては仕方がないでしょう(久光は斉彬を尊敬していますが)

ところが明治維新後。久光は大久保と西郷が決裂し西郷が帰郷した際に温泉へ誘っています。そして「お前たち。昔からの幼馴染じゃないか。そろそろ仲直りしたらどうだ?」と西郷をたしなめたようです。

廃藩置県で一晩中怒りの花火を打ち上げた久光。西南戦争で中立の立場をとった久光。胸中。時代変化を知りつつ。複雑で様々な想いがあったかと考えます。

久光公、小松帯刀の功績
甘党猫
近年「陰謀論」が流行していて、幕末史も例外ではありません。「明治維新の黒幕」「陰の立役者」としていろんな説が唱えられていますが、島津久光公はその一人に挙げられるのではないでしょうか。

粒山さんの説もそのようなものと誤解されているのかも知れませんね。特にツイッターのように文字数が限られており、根拠となる文書も明示しづらいようなSNSでは仕方ない誤解かなと思います。

今回の大河ドラマは状況説明がマズいのか、それともそういうものは大体分かっているものとして流しているのか分かりませんが、粒山さんの仰るように政治的側面がほとんど描かれません。その分、私のような浅学者にとっては、「敬天愛人」ブログを読んで「ああ、そうだったのか!」と驚く楽しみが得られるのですが…(笑)。

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^^
NHK大河「西郷どん」TVを持っていないので視聴していません。もっともTVがあっても。原作・林真理子という時点で見なかったでしょう。作者に薩摩隼人「チェーッ!」「チェストー!」の世界観は到底描けないだろうと思ったからです。

西郷は開明派・斉彬に見いだされ各地の主足る人物に使者とし派遣され名を売った人物。斉彬>久光になるのは当然です。西郷が久光に反発したのは「お由良さま」の件もありますし当時としては仕方がないでしょう(久光は斉彬を尊敬していますが)

ところが明治維新後。久光は大久保と西郷が決裂し西郷が帰郷した際に温泉へ誘っています。そして「お前たち。昔からの幼馴染じゃないか。そろそろ仲直りしたらどうだ?」と西郷をたしなめたようです。

廃藩置県で一晩中怒りの花火を打ち上げた久光。西南戦争で中立の立場をとった久光。胸中。時代変化を知りつつ。複雑で様々な想いがあったかと考えます。
2018/07/25(Wed) 13:43 | URL  | waravino #-[ 編集]
久光公、小松帯刀の功績
近年「陰謀論」が流行していて、幕末史も例外ではありません。「明治維新の黒幕」「陰の立役者」としていろんな説が唱えられていますが、島津久光公はその一人に挙げられるのではないでしょうか。

粒山さんの説もそのようなものと誤解されているのかも知れませんね。特にツイッターのように文字数が限られており、根拠となる文書も明示しづらいようなSNSでは仕方ない誤解かなと思います。

今回の大河ドラマは状況説明がマズいのか、それともそういうものは大体分かっているものとして流しているのか分かりませんが、粒山さんの仰るように政治的側面がほとんど描かれません。その分、私のような浅学者にとっては、「敬天愛人」ブログを読んで「ああ、そうだったのか!」と驚く楽しみが得られるのですが…(笑)。
2018/07/29(Sun) 09:44 | URL  | 甘党猫 #HfMzn2gY[ 編集]
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皆さんこんばんは。今回は今年の大河ドラマ『西郷どん』第26~30回の感想です。まずはあらすじ。島から薩摩に戻った西郷吉之助(鈴木亮平)は、大久保一蔵(瑛太)の要請により、すぐに京都に上る。京都では一橋慶喜(松田翔太)や島津久光(青木崇高)らが参加する「参与会
2018/08/27(Mon) 19:02:24 |  Coffee, Cigarettes & Music