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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
今回の『西郷どん』では、物語の序盤に西郷が「倒幕」という言葉を口に出しましたが、西郷がなぜ「幕府を倒さなければならないと感じたのか?」が、これまでの描き方からでは、イマイチ伝わってこないような気がします。
勝海舟から「幕府を見限れ」と言われ、仲良しのヒー様と決別したから、幕府を倒そうと思ったわけではなく、「苦しむ民を助けるためにも幕府は倒さなければならない」ということなのでしょうが、少し話の持って行き方が強引のような気がしますね。
取りあえず一言だけ。
『西郷どん』、もっときばれ~!!!

(参勤交代の復活)
今回の『西郷どん』では、「幕府が参勤交代の制度を復活させた」ということを聞いた久光が、怒り心頭で西郷に対して八つ当たりをし、それを受けた西郷が偽りの涙を流すという、一見不可解な謎の演出がありました。

番組のナレーションでも触れられていましたが、参勤交代に関しては、文久2(1862)年に久光が兵を率いて上京し、そして江戸に参府した際、幕府に対して制度改革を要求し、江戸参府を隔年ではなく三年に一度の三ヶ月間とし、これまで人質として江戸に居住する必要があった大名の妻子に関しても帰国を許すという、参勤交代を緩和させる施策を実現させていましたが、幕府はここに来てその決定を覆し、従前のとおり旧制度に戻すと諸藩に対して布告したのです。

しかしながら、幕府が参勤交代を復活させるとの布令を出したのは、元治元(1864)年9月1日のことで、西郷が鹿児島に帰国する三ヶ月以上も前のことです。(西郷の帰国は元治2(1865)年1月15日のこと)
『島津久光公實紀』二の元治元年の条には、「九月朔幕府令シテ諸侯参勤ノ期及妻子江戸ニ置クノ制ヲ復ス」とあり、また、越前藩の記録である『続再夢紀事』三の九月朔日の条にも、「江戸に於て諸大名及ひ交替寄合の参勤同上嫡子妻子の住所を舊に復せらるヽ旨大目付より廻達せらる」との記述があります。
ただ、年が明けた元治2(1865)年1月25日にも同様の幕命が布告されていることから(『肥後藩國事史料』五、「諸大名参勤交代復旧達書」『鹿児島県史料 忠義公史料』三)、今回の『西郷どん』は、その再度の布告を元に演出したのでしょうが、それでも若干時系列がずれていると言えましょう。

さて、『忠義公史料』三には、元治元年9月に出された幕府からの最初の達書(「万石以上之面々江戸在往復旧達書」)が収録されていますが、そこには幕府が参勤交代を復活させた理由が次のように書かれています。

「此度御進発可被遊候ニ付テハ、深キ思食モ被為在候付、前々ノ通相心得、当地へ呼寄候様可致候」

つまり、「長州征討に向けて将軍家茂が進発(上京)するにあたり、深いご意向があって、以前のとおり参勤交代を復活させる」というわけですが、幕府の目的を端的に言えば、将軍進発を機に幕府権力の強化を目論んだということです。

この参勤交代復活の幕命を受けて、諸藩には動揺が広まりました。
『徳川慶喜公傳』三には、

「尾張前大納言は名古屋を發するに臨み、上書して之を止めんと請ひ、九鬼長門守(隆義。攝津三田藩主)、秋月右京亮(種樹。日向高鍋藩世子)等は書を松平大蔵大輔に寄せて不平を漏らし、因州・備前・肥後等の諸藩も復舊令に不平なりき」

とあり、諸藩は不平・不満を漏らし、「多くは病気・又は道中の故障・住宅の修復等を名として、妻子・家族の出府を延引せり」とあります。

また、参勤交代復活の影響は、九州諸藩にも伝わりました。
例えば、薩摩藩の支藩である日向の佐土原藩では、藩主・島津忠寛が久光に対して、参勤交代への対応を確認する書簡を送っています(『玉里島津家史料』三)。

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島津御殿跡(宮崎市佐土原)

同書簡の中で忠寛は、天下国家のため富国強兵を実現すべく、過分の出費を顧みず、江戸から妻子等を引き揚げさせたにもかかわらず、二年も満たない内に参勤交代が旧に復すことに疑問を呈したうえで、

「家中一統益困窮ニ差及候儀は勿論、仮令差登セ候含ニ而も迚も用途調兼、礑と当惑仕候」

と、「家中一同が困窮していることは言うまでもなく、例え妻子等を江戸に登らせたとしても、滞在費用を賄うのは難しく、とても当惑している」との心情を吐露しています。

また、忠寛は続いて、

「暐(てる)姫様御初御動静如何被為在候哉、右御模様奉承知度若暫ニ而も御断被仰上候御事御座候ハヽ、右ニ准し御断申上候含ニ御座候、此段奉申上候」

と書き、「藩主・忠義の正室である暐(てる)姫をどのようにするのか聞きたい」と述べ、「もし薩摩藩が参府を断るようであれば、それに準じて佐土原藩も断りたい」との意志を示しています。
つまり、忠寛は「佐土原藩は島津家宗家の方針に従う」という意志を久光に対して告げたということです。
ちなみに、この久光宛て忠寛書簡は、『玉里島津家史料』三には「元治元年(八月?)」とありますが、これは9月の誤りでしょう。前述のとおり、参勤交代の復活は、元治元年9月1日に布告されているからです。

以上のような佐土原藩の忠寛からの問い合わせもあったことから、薩摩藩は参勤交代の復活に対して、どのように対応すべきか、まずは諸藩の動向を探ることから始めたようです。
主席家老の喜入摂津(久高)は、元治元年10月6日付けで、当時江戸に在府していた岩下佐次右衛門(方平)市来次十郎(広業)の二人に対し、次のような書簡を送っています。

「諸大名参勤之割前々之通被仰出、当年参勤之分ハ参府候様可致、且嫡子并妻子御呼寄之儀モ被仰出候ニ付テハ、御并家は勿論、諸国参勤并妻子引越之儀何様相運候哉、当世体之儀ニモ候間、御留守居へモ相達手厚ク聞合等申付、事実旁内情之処迄モ深ク探索致シ、形行急キ飛脚ヲ以テ早々可申越、左候テ其後迚モ兼テ手ヲ付置候」(『忠義公史料』三)

つまり、喜入は岩下と市来に対して、参勤交代復活の幕命を受けて、諸藩がどのように対応するのかを探り、それを急ぎ事細かに鹿児島へ報告するようにとの指示を出したということです。
当時の薩摩藩要路は、先に他藩の動向を確認したうえで、江戸参府の可否を判断しようと考えていたものと思われます。
『玉里島津家史料』三には、その喜入の指示によって集められた様々な情報、例えば現在江戸に在府している一万石以上の大名の名を記した書類や薩摩藩の問い合わせに対する各藩からの回答書などが収録されていることからも、当時江戸における薩摩藩の諜報活動が非常に活発であったことを示しています。

一方幕府はと言うと、同年10月25日、今度は譜代大名に対しても参勤交代を復活させると命じ、さらに年が明けた元治2(1865)年1月25日にも、再度諸藩に対して参勤交代を厳守するよう幕命を下しました。
このような状況の中、前出の佐土原藩主・島津忠寛は、正月早々、家老の樺山舎人に、久光宛ての書簡を託して鹿児島に派遣しています。

この時忠寛が久光に差し出した書簡(元治2(1865)年1月2日付け久光宛て忠寛書簡『玉里島津家史料』四)の趣旨は、「幕府に対して参勤交代猶予を願い出るつもりなので、薩摩藩にその助力を願いたい」ということでした。
また、とても興味深いのは、忠寛は「もし参勤猶予が認められない場合は、蒸気船を拝借したい」と久光に頼んでいることです。
忠寛は「是非蒸気船拝借仕度、左候而、品川海岸迄乗付、上陸仕度奉願候」と、蒸気船を借りて江戸まで直接乗り付けたいとの希望を記しています。
前出の久光宛ての書簡と言い、そして今回の蒸気船の借用を求める書簡と言い、共通するのは、藩財政の逼迫という経済的な事情です。
佐土原藩の例を見ても、参勤交代という制度が、いかに諸大名の財政を圧迫していたのかがよく分かります。

以上のように、佐土原藩から再度参勤交代の対応を確認する書簡が届いたことが一つのきっかけとなったのか、同年1月25日付けで、久光は老中の水野和泉守忠精に対し、参勤交代復活に反対する旨の書状を送りました。
久光が幕府に対して提出した建白書には、

「御趣意ニ奉従候得は、諸藩一同国力疲弊武備廃弛藩屏之任難相整、然時は外夷は弥軽蔑驕慢之心を増し、乍恐御国威遂ニ地ニ堕ち可申は必然之勢ニ御座候」(「久光公ヨリ幕府へノ建言」『玉里島津家史料』四)

とあり、「参勤交代に従うことは、諸藩の国力を疲弊させ、武備の充実にも支障が出ることから、外国の侮りを受けることに繋がり、国威が地に落ちることは必然である」として、幕府の参勤交代の復活令は国益にならないと論じ、幕府に再考するよう求めています。

また、同時に久光は、朝廷の二条斉敬関白に対しても意見書を書いています。
これは前出の幕府に対する建白書とほぼ同趣旨のものですが、久光は二条関白への意見書の中で「凰闕守衞」という言葉を使用し、参勤交代で国力が疲弊すると、禁裏守護にも影響が及ぶと主張しています。
また、さらに久光は、

「幕府江御委任とは乍申上、重大之事件御座候ニ付、何卒断然タル朝廷之御明裁ヲ以、此度之弊改御改革被仰渡度奉存候」(「参覲交替復旧ニ対スル久光公ノ意見書」『玉里島津家史料』四)

と、「幕府に国政を委任しているとは言え、これは国家の存亡にかかわる重大事なので、何とぞ朝廷の賢明なご判断をもって、この度の改悪を正されるよう、幕府に対して仰せ渡し願います」と依頼しています。

今回の『西郷どん』では、参勤交代を中止させるべく、久光が大久保に対して上京を命じていましたが、何も大久保は参勤交代の中止のためだけに上京を命じられたわけではありません。
参勤交代の中止工作の他にも、長州処分、そして五卿問題といった、当時の政治上の難題を含めて、久光は大久保に朝廷工作を命じたのです。

大久保の日記によると、久光の命を受けた大久保は、元治2(1865)年1月25日、税所喜左衛門(篤)吉井幸輔(友実)を伴い、蒸気船・胡蝶丸で出発し、長崎、博多、兵庫を経由して2月5日に大坂に着き、2月7日に京の二本松藩邸に入りました。
その2日後の2月9日、大久保は早速小松帯刀とともに、尹宮(旧中川宮)を訪ねました。
勝田孫弥『大久保利通伝』には、「九日に至り、小松と共に、朝彦親王(尹の宮)に謁し、久光の命に依りて出京せる趣旨を述べ、又長藩の處分、五卿問題、及参勤交代等に關して大に珍述する所あり」とあり、まずは尹宮に対して入説を試みたのです。

さらに大久保はその2日後の2月11日、小松と共に今度は近衛忠煕・忠房父子を訪ねました。
同じく勝田孫弥『大久保利通伝』から引用すると、

「十一日、利通は、小松と共に近衛邸に抵りて、忠煕・忠房の両卿に謁したり、利通等は、尹の宮に上陳せし趣旨を、反覆陳述したりしが、忠煕等もまたその意見を賛成し、更に二條關白に謀らしめたり、利通等は大に喜び、直に二條關白に謁して、同じく建言する所ありしが、また其賛成を得たり」

とあり、二人は近衛父子を説得したほか、また二条関白からの賛同も得たとあります。
これら当時の小松と大久保が行った朝廷工作は、『大久保利通日記』にも概略が記され、また、元治2(1865)年2月24日付けで、大久保が箕田伝兵衛と西郷に宛てた書簡に詳しく書かれています(『大久保利通文書』一)。

このような小松と大久保の尽力が実を結び、元治2(1865)年3月2日、朝廷は幕府に対して、幕府が求めていた長州藩主父子と三条実美以下五卿の江戸招致を中止すること、将軍家茂の速やかなる上洛を求めることなどの沙汰を下し、また、参勤交代に関しては、

「諸大名参勤、古格に引戻候様、去秋達有之候由に候得共、諸藩共此時勢に付、内輪迷惑之様子にも相聞得候、仍て矢張文久二年改革之通に可致旨に候事」(勝田孫弥『大久保利通伝』)

と、その制度復活を中止して、文久2年に久光が実現した参勤交代の緩和策に戻すよう命じたのです。
これにより、幕府による参勤交代の復活は完全に崩壊したと言えましょう。

『徳川慶喜公傳』三は、これら幕府による参勤交代復活令を「却て徒に人心を失ふの具たるに過ぎざりき」と断じ、また、歴史家の徳富蘇峰も、「徒らに幕府の威信を損じ、其の無力を暴露するに過ぎなかった」(『近世日本国民史』五十六 長州征伐)と論じています。
当時の幕府は、当面の敵であった長州藩が亡国の危機に瀕していたことに乗じて、幕権強化を目論んだわけですが、薩摩藩の朝廷工作によって、幕府の参勤交代復活計画は頓挫し、実質的に機能することはなかったのです。

(西郷とイトの再婚)
話は大きく変わって、西郷とイトの再婚も今回の大きな見どころでした。
西郷南洲顕彰会発行『詳細 西郷隆盛年譜』によると、西郷とイトは、元治2(1865)年1月28日に結婚したとあります。
西郷が鹿児島に帰国したのは、前述のとおり同年1月15日のことですから、その約2週間後に祝儀を挙げたことになるわけですが、西郷は同年2月6日に鹿児島を出発しましたので、イトとの新婚生活は、わずか一週間程度で中断を余儀なくされたのです。
筑前の志士・平野国臣が賦した漢詩の一節に、「憂國十年 東走西馳」という言葉がありますが、まさにこの当時の西郷は、「東に走って、西に馳す」、慌ただしい日々を過ごしていたと言えましょう。

さて、西郷と結婚した岩山イトのことを少しおさらいすると、彼女は家老座書役・岩山八郎太の娘です。
岩山家の家格は小番であり、元々西郷家の家格はその二つ下の御小姓与でしたが、元治元(1864)年10月、禁門の変における功により、西郷家は「代々小番」と家格が引き上げられていましたので、この時は同家格同士の結婚であったと言えます。
鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎は、「岩山家は鹿児島城下では有名な美人系の家系であったと、鹿児島では言い伝えられている」と、その著作内で書いていますが(『西郷隆盛』七)、現代に残されたイトの写真を見ると、確かに品の良い整った顔立ちであったことが想像できます。

西郷に結婚歴があったことは以前書きました。
最初の結婚相手は、伊集院スガという女性で、スガの父・伊集院直五郎もまた、イトの父と同役の家老座書役であったことは奇妙な巡り合わせと言えるかもしれません。
ちなみに、以前本ブログで、スガの実弟である伊集院兼寛の履歴(「伊集院兼寛履歴」『伊集院兼寛関係文書』)に、伊集院家が200石取りの禄高とあること、さらに伊集院直五郎が家老座書役であったことなどから、伊集院家の家格は岩山家と同格の「小番」であったのではないかと推測しましたが、その後、伊集院家の家格に関する、ある気になる記述を見つけました。
「有馬新七等処刑申渡書」(『忠義公史料』二)に、寺田屋事件に関与した伊集院兼寛の罪状書が収録されていますが、そこには「島津伊織与御小姓与 伊集院直右衛門」とあります。
伊集院直右衛門とは、すなわち伊集院兼寛のことですので、この記述によれば、伊集院家は西郷家と同格の御小姓与であったことになります。
ただ、伊集院家の禄高が本当に200石もあったとしたら、御小姓与にしては禄高が大きすぎるので少々疑問も残ります。この件については、継続して調べたいと思います。

閑話休題。
少し話がそれましたが、実は西郷と結婚したイトについては、以前から気になっていることがあります。
『西郷どん』では、イトが西郷家に嫁ぐ前、海老原家に嫁いだ経験があるという設定になっています。
つまり、西郷との結婚は「再婚」であったとされていますが、実はその根拠がよく分かりません。

イトに離婚歴があったことについては、古くは作家・阿井景子さんの小説『西郷家の女たち』、近著では原口泉『西郷家の人びと』、徳永和喜『誰も書かなかった西郷隆盛の謎』においても同様の記述があり、インターネット上もその情報で溢れかえっていますが、いずれもその典拠は明示されていません。
そのため、子孫宅に残る口伝が根拠なのかと思いきや、次のような証言があります。
イトの義妹にあたる岩山トクさんのお孫さん、岩山清子さんと和子さんのお二人が、平成11年に出版された『西郷さんを語る 義妹・岩山トクの回想』(至言社、1999年)に、次のように書かれています。

「西郷イト、当時の岩山イトは、西郷隆盛と結婚する前、婚約解消をしたことがあるとか言われることがありますが、前述の西郷隆盛の孫、西郷吉之助さんは、そのような話は聞いたことがないと言われますし、私たちも、身内から聞いたことはありません」

この証言を見る限り、岩山家の子孫宅にイトが再婚であったという話は伝わっていなかったことになります。
また、この証言の中で重要なのは、西郷の直孫で、法務大臣を務められたこともある故・西郷吉之助氏が、「そのような話は聞いたことがない」と言われていたということです。
西郷吉之助氏は、もちろん生前のイトと直接触れ合いがある人物であり、西郷関係の逸話については、とてもよくご存じの方でした。その方が本当に「聞いたことがない」と言われていたのだとしたら、一体イトが再婚であったという話は、どこから生じたものなのでしょうか?

ちなみに、同『西郷さんを語る 義妹・岩山トクの回想』には、

「その頃の婚約解消や離婚は、現在よりも大変なことだったでしょうから、わざわざそのような条件の女性を選ぶことはなかったと思われます」

とありますが、確かにその通りです。
当時の西郷は、薩摩藩内では側役という家老に次ぐ重職にあった人物です。
現代とは違い、当時の離婚は女性に対して大きな傷を付けるものでしたので、西郷が妻を娶るにあたり、わざわざ敢えて離婚経験がある女性を選ぶ必要はなかったと思われますし、そのようなことをしようとすれば、おそらく周囲の者たちが反対したことでしょう。

このイトの再婚については、以前、西郷家の関係者の方にメールで質問したことがあるのですが、残念ながら回答は頂けず、何を根拠にして、イトが再婚となっているのかが、よく分からない状態が続いています。
西郷家の子孫宅に、何か新出の史料が発見されたのか、それとも他の口伝が何らかの形で残されているのか、その根拠をご存じの方は是非ご教示頂ければ幸いです。


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【2018/08/05 20:46】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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