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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
大河ドラマ『西郷どん』は、時系列がひっくり返っていることが多々ありますが、歴史ドラマというものは、まがりなりにも実際にあった史実を参考にして創作するものですので、時系列はなるべく崩さない方が良いと個人的に思っています。
なぜなら、時系列を崩すことによって、後になって話の辻褄がどうしても狂うことが往々にしてあるからです。
歴史とは一つ一つの事象の積み上げによって形成されていくものですから、そのパーツの順序を入れ替えることによって、話の展開が強引になったり、逆に苦しい展開にならざるを得ない場合があるように思います。

以前、作家・山崎豊子さんの遺品等を展示する展覧会を見に行った際、山崎さんが作成した、ある作品の進行表が展示されていたのですが、そこには登場人物に関する出来事が時系列順で事細かに記されており、物語の展開に齟齬が生じないよう気遣う山崎さんの執筆姿勢に対し、私は感動すら覚えました。
『西郷どん』もそうあって欲しいと願うばかりです。

さて、今回もある意味攻めたストーリー展開でした。
最近つくづく感じますが、近年の大河ドラマは、韓流時代劇と同じような感じになってきていますね。「トンイ」とか「イサン」など、韓国時代劇界の巨匠イ・ビョンフン監督の作品に影響を受けているような観さえ見受けられます。
ちなみに、これを大河ドラマ批判と捉えないで下さい。
私はイ・ビョンフン監督作品、大・大・大好き人間ですから。全ての作品を二回以上は見ています。(私は「チャングム」と「馬医」が好きです)

NHKも割り切って、韓流時代劇のようなエンタメ系時代劇を目指すのであれば、それはそれでアリかなと思います。やけに史実ぶった話を作るよりも、エンタメ重視の方がよっぽど面白いものに仕上がると思いますので。
番組の最後に「このドラマは史実をもとに創作したフィクションです」と一言テロップを流し、エンタメ系時代劇として放映すれば良いのではないかと個人的に思っていますが、最近の大河ドラマは、ある意味中途半端なのでしょう。史実寄りなのか、それともエンタメ寄りなのかを明確に位置付け出来ていないため、面白みに欠けるような気がするのです。

(岩倉具視と久光、大久保)
今回のドラマでスポットが当たったのは、笑福亭鶴瓶さん演じる岩倉具視でした。
西郷と大久保が、当時岩倉が幽棲していた洛北岩倉村の屋敷を訪ね、そこで長州藩の桂小五郎を交えた一悶着があり、西郷が岩倉邸の下働きをするというスゴい展開でした。
岩倉をこの時点で登場させたのは、いわゆる「倒幕」を意識してのことでしょうが(ただし実際は、この時期に西郷が倒幕を意識していたことはあり得ない話です)、岩倉と薩摩藩の関係は、文久2(1862)年の久光の率兵上京までさかのぼります。

『大久保利通日記』上によると、久光が岩倉と初めて会ったのは、文久2(1862)年4月16日のことであったようです。
同日記によれば、同日久光は京に入り、錦の薩摩藩邸に立ち寄った後、巳の刻(午前10時頃)に近衛家へ参殿していますが、その会合に中山忠能、正親町三条実愛、そして岩倉も同席したようです。
大久保の日記には「岩倉少将殿ニも御出之由」との記述があります。

ただ、この初対面以前に、岩倉が久光に対して書簡を送っていた事実があります。
『伊地知貞馨事歴』によると、まだ久光が入京する前、岩倉は当時京に滞在していた久光の腹心・堀次郎(仲佐衛門)を呼び出し、久光宛ての書簡を託したようです。
同書には、「貞馨ハ岩倉具視ヨリ至急面會ヲ促シ來リ分レテ京ニ入ル」と、堀が岩倉から至急面会したいと呼び出されたとあり、また、

「四月三日久光播州室津ニ着スルカ故ニ、貞馨ハ來迎フキノ報ニ接シ、岩倉具視ノ手書ヲ携ヘ行クヤ、久光既ニ姫路ニ向フ、貞馨追ヒ至リ其手書ヲ呈シ、關京地両地ノ形勢ヲ陳フ」(句読点は筆者が挿入。以下、句読点が無いものについて筆者が挿入)

と、久光の出迎えのために出かけた堀が、久光に対して岩倉の書簡を手渡し、江戸と京の形勢を報告したとあります。

また、『岩倉公実記』上には、

「堀次郎江戸ヨリ至リテ京師ニ在リ、和泉乃チ足軽二人ヲ次郎ノ京寓ニ遣ハシ之ニ命シテ曰ク、己レハ四月三日ノ夜播州室津ニ泊スルヲ以テ宜ク室津ニ來リ、京師及ヒ江戸ノ形情ヲ報スヘシと、次郎其期日ニ先チ具視ノ邸ニ至リ謁ヲ請フテ和泉ヲ候迎センコトヲ告ク、具視書ヲ裁シ次郎ニ託シテ以テ和泉ニ贈クル」

とあり、堀が自主的に岩倉の元を訪ねたことになっており、その事情が少々異なっていますが(同書には岩倉と堀はそれ以前に面識があったとあります)、両書ともに岩倉が久光宛ての書簡を堀に託したとありますので、そのような事実があったことは間違いないでしょう。

以上のような経緯があり、久光は近衛邸で岩倉と面会することになったわけですが、その一方で後年岩倉と深い関係となる大久保はと言うと、それから遅れること約3週間後の同年5月6日に岩倉と面会したようです。
『大久保利通日記』上の5月6日の条には、「岩倉家江参殿御目見被仰付」とあります。
また、『大久保利通文書』十所収の「大久保利通年譜」の同日の条には、「久光公の命を以て正親町三條實愛、中山忠能、岩倉具視の諸卿に謁し勅使關東下向のことにつき建策す」とあり、大久保が岩倉と会った目的が記されています。
ただ、この時の面会が岩倉との初対面であったのかどうかは断言できません。大久保は久光が兵を率いて上京する以前、一度上京した経験がありますので、その時に会った可能性が無いとは言えないからです。

ちなみに、『岩倉公実記』上によれば、久光が岩倉と初めて面会した同年4月16日の記述に、「小松帯刀、大久保一蔵、中山中左衛門、次郎等侍座ス」とありますが、前述のとおり、大久保がその日の日記に「岩倉少将殿ニも御出之由」と、伝聞形式で記していることから察すると、その時大久保は岩倉とは同席して居なかったものと思われます。
また、同『岩倉公実記』上には、その翌日の4月17日、「和泉ハ一蔵中左衛門次郎ヲシテ更忠能實愛具視ノ邸ニ出入シテ事ヲ議サシム」とありますが、大久保の同日の日記を見る限り、この日に大久保が岩倉と会った形跡は見られません。

本ブログでも既に書きましたが、久光が入京した一週間後の4月23日、伏見において「寺田屋事件」が起こります。
当時の大久保は、その前後処理で慌ただしい日々を過ごしていたようですので、岩倉と会う機会はなかなか巡って来なかったものと思われます。
『岩倉公実記』を見る限り、この時期はむしろ堀次郎が岩倉と頻繁に会っていたことがうかがえます。
また、もちろんこの時期に西郷は京・大坂には居ませんので、岩倉との交流は影も形もありません。
西郷は久光から断罪され、既に4月11日に鹿児島へ向けて護送されていたからです。

(叢裡鳴蟲:そうりめいちゅう)
岩倉と薩摩藩の結びつきは、久光の率兵上京計画を機に生まれたと言えますが、その後の岩倉は不遇の時期を過ごしました。
皇女・和宮の降下に尽力した岩倉は、いわゆる攘夷派と呼ばれる志士連中から「四奸二嬪」の一人としてレッテルを貼られ、文久2(1862)年8月20日には、朝廷から蟄居を命じられます。
その時の沙汰書が『岩倉公実記』上に収録されていますが、

「今度御咎之儀者去戊午年以來公武御間之儀取扱振ニ付、酒井若狭守奸謀ニ與シ候歟、或被欺候歟、何れにも彼是主上之英明を奉汚之次第有之不容易儀候、頃日悪評増長世上人氣にも拘り難被宥閣候間、御咎被仰出之旨執柄被命候事」(句読点は筆者が挿入)

とあり、誠にヒドイ言われようです。
特に、「主上(天皇)の英明を汚し奉り」とあるのは、岩倉に対する最大の侮辱であったと言えるかもしれません。
しかしながら、当時の朝廷は長州藩や土佐藩といった攘夷派の後押しを受けた、三条実美ら過激派公卿が朝政を掌握しているような状態でしたので、岩倉は為す術無く、辞官落飾の処分を受け入れざるを得なかったのです。

蟄居を命じられた岩倉が幽棲していた場所と言えば、洛北岩倉村の幽居が有名で、現在その建物が観光スポットとなっていますが、『岩倉公実記』上によると、最初岩倉は西加茂の震源寺へ潜居し、次に剃髪して葉室の西芳寺へと転居しましたが、その後は洛北北岩倉村の藤屋藤五郎の庵を借りて移り住みました。
岩倉が洛北へと移ったのは、文久2(1862)年10月8日のことであったと同『岩倉公実記』にありますが、岩倉はその日から洛中への居住が赦される慶応3(1867)年11月8日まで、足かけ約5年間も都の中心に居住することが出来なかったのです。
また、今回の『西郷どん』において、岩倉自身がその幽居で食事を作るシーンがありましたが、『岩倉公実記』上には、「老僕外ニ出ツルトキハ具視水ヲ運シ柴ヲ搬シテ自ラ厨下ノ事ヲ治ムト云フ」とあり、おそらくこの記述を参考にして、あのシーンを演出したものと思われます。

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岩倉具視幽棲旧宅(京都府)

今回、西郷が岩倉邸でたくさんの意見書等を見つけ、岩倉が定見ある一廉の人物であることを知るシーンがありましたが、これはおそらく「叢裡鳴蟲(そうりめいちゅう)」の逸話を元にして創作したものでしょう。
『岩倉公実記』上には、「具視叢裡鳴蟲ヲ井上石見ニ示ス事」と題して、

「薩摩人井上石見長秋カ小林彦次郎ニ誘引セラレテ來リ謁ヲ請フアリ、具視之ト與ニ朝政ヲ一新センコトヲ論ス、石見誓テ曰ク、願クハ驥尾ニ附シテ駑ヲ致サント相約結シテ去ル、是ニ於テ具視前年幕府ニ論ス所ノ三事策ニ註シテ以テ所懐ヲ述ヘ題シテ叢裡鳴蟲ト曰フ、之ヲ石見ニ示シ、且小松帯刀、大久保一蔵ノ意見ヲ問ハンコトヲ要ム」

とあり、その逸話が記されています。
ここに出てくる井上石見とは、薩摩藩士・藤井良節の弟です。
藤井良節は以前「お由羅騒動」の際に紹介しました。薩摩藩を出奔して筑前福岡藩に逃げ込んだ四人の薩摩藩士の内の一人で、旧名を井上出雲守と言いました。
その弟が井上石見というわけですが、石見は水戸藩士の小林彦次郎に誘われて岩倉の幽居を訪ねた際、岩倉の人物に惚れ込みました。
「驥尾ニ附シテ駑ヲ致サント相約結シテ」とは、「これから貴方のことを見習って行動し、努力を尽くすことを約束した」ということです。それほど石見は岩倉の人物に感心したということでしょう。

そして、岩倉は井上に対して、自らが著した「叢裡鳴蟲」と名付けた書を見せ、小松と大久保の意見を聞きたいと言いました。
この「叢裡鳴蟲」という書が、岩倉と大久保、ひいては薩摩藩との関係をその後密接にしたと言っても過言ではありません。

「叢裡鳴蟲」とは、岩倉が自分自身を「草むらに隠れて鳴く虫」に例えたもので、当時の岩倉が置かれていた境遇を表した言葉と言えます。
岩倉は岩倉村で幽居中、「叢裡鳴蟲」と「続叢裡鳴蟲」という二つの書を書き、当時の政治課題について自身の意見を論じていますが、特に「続叢裡鳴蟲」は、その前文に、

「獨リ薩藩ニ對シテ言フノミ請フ此意ヲ諒セヨ」(『岩倉具視関係文書』一。以下同文書からの引用)

とあり、また、「小松大久保二氏ハ舊相知ナリ、請フ子之ヲ示セヨ、若シ採ルヘキアラハ生前ノ本懐ナリ」とあることから、薩摩藩に対する建言であったことが分かります。

この「続叢裡鳴蟲」の中で岩倉は、まず当時の薩摩藩の権力者であった久光のことを、

「予三郎氏ニ面會スルノ時ニ於テ始メテ非常ノ偉器タルコトヲ知レリ」

と、久光が「非常ノ偉器」であると褒め称え、さらに、「予ハ薩藩ヲ抑慕シ薩藩ノ宿志ヲ貫キ、國家ノ柱石タランコトヲ望ムナリ」と、薩摩藩が宿志を貫き、国家の柱石となることを望んでいると書いています。
岩倉曰く「予三郎氏ニ面會スルノ時」とは、前述のとおり、久光が率兵上京した時のことです。

また、岩倉は「薩藩ハ勤王ノ倡首、朝廷固ヨリ其誠忠ヲ嘉シ其勲勞ニ酬ユ、終始渝ハラス深倚頼アルハ言ヲ俟タス」とも書いており、薩摩藩こそが、朝廷が深く頼りに思う存在であると強調していますが、岩倉はそんな薩摩藩の久光・忠義父子が国許の鹿児島に割拠している状況を憂い、

「惟願フ、薩藩主父子ノ中速ニ上京シ、須曳モ宮闕ノ側ヲ離レス外ハ皇家ノ城湟ト為リ、内ハ朝政ヲ預聞シ、鞠躬輔翼以テ宿志ヲ成サンコトヲ旦暮切望ニ堪エサルナリ」

と、久光と忠義が上京し、朝廷を補佐することを熱望すると述べています。

続いて岩倉は、当時の政治課題であった長州処分についても、「何故ニ薩藩ハ斷然朝廷幕府ト長州ノ間ニ介シ拮据盡力其調和ヲ謀ラサリシヤ」と、薩摩藩が幕府・朝廷と長州の仲介役を買って出て、調停に努めなかったことに疑問を呈し、さらに、「方今戎夷眈々虎視ス此時ニ方リ内訌ヲ起シ骨肉相食ム愚モ甚シ」と、諸外国が日本を狙う中、内戦を起こすことは愚の骨頂であると述べています。

そして、岩倉は、

「幕府ト長州ノ應接平和ニ歸サスシテ開戦ニ至ラハ、勝敗ノ何レニ歸スルヲ問ハス、恐ラクハ朝廷ノ大患タラン、何トナレハ幕府勝利ヲ得ンカ、譜代ノ大小名ハ論ナク觀望ノ外藩モ亦必ス之ニ畏服セン」

と、もし幕府と長州の戦いで幕府が勝利した暁には、諸藩は幕府に畏服することになると論じ、また、「天下誰カ亦復タ幕府ニ抗スル者ソ」と書いて、幕威が増大することを危惧しています。

そのため、岩倉は、

「長州ハ當初一意勅命ヲ奉シテ周旋シタル功勞ニ對シ、其首謀者一人ヲ罰スルニ止マリ、其他ハ宥シテ問ハス、而シテ其藩主ニ上京ヲ命シテ朝議ニ参預セシメバ庶幾クハ異論ノ起ルコトナカラン」

と、長州藩のこれまでの功労に免じ、禁門の変の首謀者一人を処罰するだけでその罪を赦し、長州藩主を朝議に参与させるべきであると、長州藩に対する寛大な処分を主張しています。

以上のように、岩倉は「続叢裡鳴蟲」の中で、薩摩藩がもっと積極的に国政に関与し、政治のイニシアチブを握るべきだと主張し、さらに幕権強化に危惧の念を抱いていることから、長州処分の早期解決を望み、かつ長州寛典論を述べていますが、さらに注目すべき点は、朝廷が薩長両藩を共に重用することが必要だと論じていることです。

「薩長二藩並ヒ稱シ、勤王首唱ノ故ヲ以テ大ニ倚頼擧用セサル可カラス、若シ獨リ薩藩ノミヲ擧用スルトキハ人心ノ歸向又慮ルヘキモノアリ、故ニ並ヒ擧用セサルヲ得ス尚ホ細思セヨ」

これがその箇所ですが、岩倉は後に頼むべきは薩長両藩であるということをこの段階で認識していたのでしょう。薩長が朝廷の両翼となって、朝政を補佐することを念頭に置いていたと言えます。

大久保利通の三男・利武氏が、昭和10年1月11日に京都ホテルで行った講演会において、

「公の意見として最も吾々が重要視すべき點は公が薩長兩藩の提携を力説されたことである、これは公の政治家的見識の特色で大藩力を合せて朝政を補佐せしむることは公の一生を通じ政治の根底とされたのであります」

と話していますが(財団法人岩倉公舊蹟保存會編『岩倉公と叢裡鳴蟲』)、それは前述の「続叢裡鳴蟲」にある一節を意識しての発言でしょう。

以上のように、「叢裡鳴蟲」と「続叢裡鳴蟲」は、岩倉と薩摩藩を結びつける強力な接着剤となったと言っても過言ではありません。
鹿児島県教育会編『甲東先生逸話』には、

「岩倉公と甲東とは慶應二年秋、公が甲東等の為自から起草せし時事政見たる『叢裡鳴蟲』によつて、深く結ばれて以來、肝膽相照し、維新前後を通じ、幾度か死生を共にして、その情骨肉に均しいものがある」

とありますが、今回の『西郷どん』では、その大久保の役回りを西郷に代えて演じさせたと言えましょう。


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【2018/08/12 20:46】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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