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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
残暑お見舞い申し上げます。
暦の上ではもう秋ですが、連日暑い日が続いていますね。
先日、ふと思い立って、国立国会図書館のデジタルコレクションで、明治時代の鹿児島の気温を調べてみました。
鹿児島測候所『明治28年 鹿児島気象年報』によると、鹿児島市の7月の平均気温は27.2度、最高気温は33.2度で、8月の平均気温は29度、最高気温は34.9度でした。
気象庁発表の今年の鹿児島市の7月の平均気温は28.6度、最高気温は35.7度でしたから、だいたい120年前から1~2度上昇しているという感じでしょうか。

気温の上昇と共にではないですが、大河ドラマ『西郷どん』も熱い展開になってきました。
ただ、今回の『西郷どん』を見ていて、そろそろ坂本龍馬の描き方を変える時期に来ているのではないかと強く感じました。
龍馬も西郷と同じく、虚像部分が肥大化し、独り歩きしている面がとても多い人物だと言えます。
例えば、薩長同盟一つを取っても、今回の『西郷どん』で描かれたような、龍馬が自主的な動きで両藩の仲を取り持とうとしたのではなく、実際は薩摩藩の指示のもとで活動していたことは最新の研究でも明らかになってきています。
龍馬に関しても、そろそろ巨人扱いするのではなく、身の丈に合った等身大の龍馬像とでも言うのでしょうか、実像に近い龍馬像を描いても良い時期に来ているのではないかと感じています。
もし、『西郷どん』でそれをやったら、画期的なことだったのでしょうが、相変わらずの龍馬像で描かれていましたので、『西郷どん』ならではの独自色が欲しかったところです。

(坂本龍馬の薩摩入り)
今回の『西郷どん』は、坂本龍馬一色でした。
「海舟日記」(『勝海舟全集』九)によると、元治元(1864)年10月22日の条に、「御城代より、御達有之、江戸表にて御用有之候間、早々歸府可致旨、御達、大隅守より届く」とあり、当時幕府の軍艦奉行を務めていた勝海舟は、江戸への召喚命令を受け取りました。
この勝の江戸帰還により、当時勝が主宰していた神戸海軍塾も閉鎖を余儀なくされたことから、行き場を失った龍馬ら塾生達は、薩摩藩に庇護されることになります。
今回のドラマでは、海軍操練所閉鎖により云々とのナレーションが入っていましたが、それは勝の海軍塾と混同していると言えます。

よく諸書に引用されていますが、元治元(1864)年11月26日付けで、小松帯刀が大久保に宛てた書簡には、

「神戸勝方え罷居候土州人異船借用いたし航海之企有之、坂元竜馬と申人関東え罷下借用之都合いたし候処能ク談判も相付候よし右ニ付同長藩高松太郎と申人国元より罷帰候様申来候由、然ル処当分土佐国政向甚厳敷不法之取扱有之罷帰候へは則命は絶候よし、右の船参り候得は則乗込ニ相成候間夫迄潜居之相談承り余計之事なから右辺浪人躰之者ヲ以航海之手先ニ召仕候法は可宜と西郷杯滞京中談判もいたし置候間大坂御屋敷え内々潜メ置申候」(『大久保利通関係文書』三)

とあり、薩摩藩が龍馬らの身柄を引き受けた事情が記されています。
龍馬を中心とした土佐人は、当時脱藩者であったため、土佐へ帰国した場合、厳罰に処せられる可能性が高かったことから、勝はそのことを心配し、薩摩藩に彼らの庇護を頼んだのです。

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坂本龍馬誕生地(高知市)

今回の『西郷どん』でも描かれていたように、とかく龍馬は西郷との関係にスポットが当たりがちですが、当時は西郷よりも小松の方が、より龍馬と濃厚に接していたように思います。
前出の龍馬たちを引き受けた事情を記した小松の書簡に、「航海の手先に召しつかまつり候法は宜しかるべき」とあることから分かりますが、小松は龍馬ら海軍塾の塾生達を航海用の船夫として使おうと考えていました。
それは当時の小松が海軍の充実に執心していたからです。

前出の小松書簡が書かれる二週間前、元治元(1864)年11月12日付けで同じく大久保に宛てた小松の書簡にも、「先便ニも申上候通海軍方等之義宜敷御執計可被下候」との言葉があるほか、その一週間後の11月19日、小松は大久保に対して、薩摩藩内で海軍を振興するために航海演習の必要性を説いています。
例えば、同書簡には、

「一先航海之稽古トシテ士官ヨリ水夫マテ御人撰之上一船へ被召乗琉球迄航海御試相成候ハヽ如何可有御座哉」(『大久保利通関係文書』三)

との言葉があり、小松は士官や水夫を選抜し、琉球(現在の沖縄)まで航海演習してはどうかとの案を大久保に対して示しています。

また、小松は長州征討が済まないことには、この演習計画は実現出来ないとしながらも、実際の航海演習には帆船が良いらしいので、「平運丸は帆船だが、入・出港用に蒸気機関の仕掛けもある」として、具体的に演習に適した船名まで挙げて提案しています。
『薩藩海軍史』中によると、平運丸は元治元年2月1日に薩摩藩が購入した旧名・スコットランドと呼ばれた内輪式の蒸気船です。
「小松帯刀傳」(『小松帯刀傳、薩藩小松帯刀履歴、小松公之記事』鹿児島県史料集22)によれば、小松は文久2(1862)年12月24日に「蒸汽船掛」に任命されていますので、蒸気船に関する知識は元々豊富だったのでしょう。
小松が龍馬ら勝の神戸海軍塾に在籍していた塾生達を積極的に受け入れようとしたのは、彼らの持つ操練術に関する知識を生かし、薩摩藩の航海演習に携わらせようと考えていたからだと言えます。

こうして龍馬ら塾生達は、薩摩藩の庇護を受ける身となりました。
今回のドラマでは、そんな龍馬が薩摩を訪れて、西郷家の世話になり、挙句の果てには久光とも拝謁していましたが、龍馬が薩摩を訪れたのは事実です。
龍馬の薩摩入りと言えば、妻のお龍を伴っての日本で最初の新婚旅行と呼ばれるものが最も有名ですが、それは二回目のことであり、この最初の薩摩入りは、神戸海軍塾の塾生達を伴ってのものでした。

慶応元(1865)年4月25日、小松、西郷、そして龍馬ら塾生達は、ともに薩摩藩船・胡蝶丸に乗り込み、大坂を出港後、同年5月1日に鹿児島に到着しました。
これは龍馬のメモ書きである「坂本龍馬手帳摘要」(『坂本龍馬関係文書』二)に、

四月廿五日坂ヲ發ス
五月朔麑府ニ至ル


とあることで分かります。

また、同「坂本龍馬手帳摘要」には、「五月十六日鹿府ヲ發ス時午ヲ過ク」とあり、龍馬の鹿児島城下滞在は合計で16日間だったことが分かりますが、龍馬がこの間鹿児島の町でどのように過ごしていたのかを裏付ける史料はありません。
もちろん、龍馬が久光に拝謁したという事実もありませんが、ただ一つだけ、鹿児島に滞在中の龍馬が西郷家に宿泊した際、西郷の妻・イトが古い褌(ふんどし)を龍馬に渡したことから、西郷が烈火の如く怒ったという、有名なエピソードが残されています。

この逸話の典拠は、土佐維新史学の碩学であった平尾道雄氏の著書『坂本龍馬海援隊始末記』でしょう。
同書には、

 ある日、龍馬は西郷夫人(糸子)にむかって「いちばん古いふんどしを下さらぬか」とたのんだ。よほど身のまわりの品に不自由していたらしい。そこで西郷夫人は隆盛の使いすてのふんどしを請われるままに与え、西郷が帰宅したとき、これを報告すると目から火が出るようにしかられた。
「お国のために命を捨てようという人だと知らないか。さっそくいちばん新しいのを代えて上げろ」
 西郷はめったに怒色を見せない人だったが、あんなに怒ったのは一度だけだった。


とあり、平尾氏はこの逸話を祖母が糸子(イト)の妹にあたる人物から報告を受けたとしています。

また、この話の他にも、『維新土佐勤王史』には次のような逸話も紹介されています。

「五月朔日を以て漸く鹿兒島に着し、旅亭にて碁を圍み居たるに、彼の頼山陽が衣は骭に至り袖は腕に至ると謡ひし、城下の兵兒組は、坂本等の來れるを聞き、群り來りて「アレ見い浪人めが碁を打ち居る」と五月蠅くも覗き込むを、坂本は「浪人でも碁を打つが何か」と一喝しければ、皆哄と笑ひて立ち去りたり」

この碁にまつわる逸話も『坂本龍馬海援隊始末記』の中で紹介されており、なかなか面白いエピソードではありますが、前出の褌の逸話と言い、どこまでこれらの話を信じて良いのか正直よく分かりません。

その後の龍馬は、5月16日に鹿児島を出発し、その一週間後の5月23日には筑前の太宰府に入っています。これは前出の「坂本龍馬手帳摘要」が典拠ですが、その後、龍馬は山口に入り、6月6日には桂小五郎(以下、木戸で統一します)と会っています。
これは薩長融和に向けた動きの一つだと言えますが、ただ、今回『西郷どん』で描かれたように、龍馬は薩長同盟をまとめるため、自主的に山口に向かい、木戸に会いに行ったと言うよりも、実際のところ、龍馬は小松や西郷といった薩摩藩要人の指示を受け、山口に向かったと解釈すべきです。
町田明広先生は論文「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(神田外語大学日本研究所紀要第9号、2017年)の中で、

「小松らは坂本に対し、薩摩藩が抗幕体制を採るにあたって、長州藩をパートナーにする意思があることを申し含めた上で、長州藩への情勢探索に派遣したと考える」

と論じられていますが、私も全くの同感です。
薩長同盟における龍馬の活動は、薩摩藩の指示、そして庇護のもとで行われたものであったことを改めて認識しておかなければなりません。
龍馬が自由奔放に薩摩と長州を行き来して、同盟締結に奔走したと言うよりも、龍馬の背後には薩摩藩という大きな存在があったればこそ、木戸は龍馬のことを信頼し、そしてその周旋に期待感を持ったと言えるのです。

(西郷と大久保の関係)
薩長同盟関連で言えば、前回の『西郷どん』あたりから、西郷と大久保の意見が衝突するシーンがしばしば描かれています。
今回の『西郷どん』においても、西郷の「長州と組むしかなか」という意見に対して、大久保はそれに反対し、意見が対立するシーンがありました。
これはおそらく後の龍馬暗殺や征韓論での対立へと繋げるための伏線だと思われますが、このように、殊更に西郷と大久保の対立を煽る描き方に、私は賛同できません。

西郷と大久保の対立を早い段階から描くやり方は昔からあります。
そのことで後年の二人の対立の萌芽にしようとの目論みなのでしょうが、私から言わせれば、そのような描き方は最早古いと言えます。
歴史ドラマですから、どうしても善・悪の二項対立やライバル関係にスポットを当てざるを得ないのは理解できますが、西郷と大久保の関係は、そのような単純な視点で捉えられるものではありません。
特に、拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』でも書きましたが、二人を対立させることによって、両者が竹馬の友で無かったとか、元々余り仲が良くなかったなどと言われる傾向にありますが、現代における友情の概念をもってして、二人の関係を語るのは、はっきり言ってナンセンスです。

また、西郷と大久保は、よく「陽と陰」という言葉で表現されますが、実際そんなことはありません。
二人は藩の統制下の元で、藩から命じられた役目をそれぞれ果たしていたに過ぎず、どちらが陰謀担当であったかなどという役割分担があったわけではありません。
西郷が表舞台を歩き、そして大久保が陰で謀略を尽して支える、などという単純な棲み分けが現実的にあるわけもありません。それは小説やドラマの域を出ないものだと言えます。

特に、今『西郷どん』で描かれている慶応期の二人は、まさに志を一つにして、一致団結し、ともに支えあって政治活動を行っていた時期であったと言え、二人の間に大きな意見の相違は見られません。
歴史家の徳富蘇峰は、慶応期の二人のことを著書『近世日本国民史』の中で次のように評しています。

「西郷、大久保の両雄が、中心より相ひ合體して、協同作業に従事したるは、特に此時を以て尤も然りとする。而して上には寛宏の長者小松帯刀あり、其の儕輩には公平温良なる吉井幸輔の徒あり。正に是れ薩藩に取りては、群雄合力、舞臺出色の一時であった」(『近世日本国民史』五十七 幕長交戦)

まさに卓見です。
西郷や大久保だけでなく、小松や吉井の存在に着目しているあたり、蘇峰がいかに巨大な歴史家であったのかを思い知らされるほどです。
前出の龍馬だけではなく、西郷と大久保の描き方に関しても、これまでのライバル関係という描き方から、そろそろ変える時期に来ているのではないかと感じます。

(西郷のドタキャンはあったのか?)
最後に、ドラマ後半で描かれた「西郷のドタキャン」について、簡単に書いておきたいと思います。
今回の『西郷どん』では、龍馬と同じく土佐脱藩浪士の中岡慎太郎が西郷のところにやって来て、龍馬が木戸との会談をセッティングしているので、是非下関に来てもらいたいと頼み、それを了承したはずの西郷の元に、大久保から「至急上京して欲しい」との書簡が届いたことから、西郷が下関で木戸と会う約束を反故にした、つまり、すっぽかしたということになっていました。

この件について、まずは通説から紹介すると、『鹿児島県史』三には次のようにあります。

「中岡は岩下と共に小倉より鹿児島に直航し、閏五月六日着、西郷に木戸等長州藩首脳との會見を勧説した。西郷も既に薩長協和の趣旨に同意していたので、中岡の慫慂を容れ、上京の途中馬關に寄航すべきを約し、中岡を伴ひ、閏五月十五日海路鹿児島を發し、十八日佐賀關に寄航した。然るに同地に於いて大久保より至急上京すべしとの報に接したので、中岡の勧説に従はず、馬關寄航を中止して上國に直航したのである。よって中岡は空しく単身下船して下關に至り、木戸・坂本等に事情を告げた。ここに於いて木戸等長州有志側の心中頗る平かならず、薩長提携の事、将に成らんとして一頓挫を來したのである」

このように通説では、西郷は下関で木戸と会う約束をしておきながらも、その予定を急遽取り止めて上京したことによって、薩長提携が遅れることになったとされています。
今回の『西郷どん』では、下関へ出発する前に、大久保の書簡が西郷の元に届いていましたが、『鹿児島県史』三にあるとおり、通説では豊後(今の大分県)の佐賀関での出来事であったとされています。

ただ、この「西郷のドタキャン」については、大きな疑問点があります。
そもそも「西郷は下関で木戸と会う約束を本当にしていたのか?」という点です。
まず、薩摩藩側から言うと、西郷が木戸と下関で会う約束をしていたことを裏付ける一次史料は存在しません。
また、もう一点、西郷が下関での会談をキャンセルする原因になったとされる大久保の西郷宛て書簡についても、それに該当するようなものは、今のところ見つかっていません。
つまり、薩摩藩側からの史料からのみ言えば、西郷が木戸と会談する予定であったことを裏付けるものは何も無いということです。

そのことを暗に示しているのか、西郷隆盛研究の基礎史料とも言える勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、西郷が下関での会談を取り止めたという記述は出てこず、ただ単に「隆盛は中岡、岩下等と共に十五日を以て鹿児島を出帆し京師に上れり、中岡は途次豊後の佐賀關より上陸して馬關に渡り、坂本龍馬、木戸孝允、喜多岡勇平等に會合し、更に二十九日に馬關を發して出京せり」とあるだけです。

以上のようなことから、この西郷のドタキャンに関しては、昔から疑問視する声がありました。
例えば、徳富蘇峰はその著書『近世日本国民史』の中で、

「西郷は果して佐賀の關に於て、大久保より上京を促がすの報を受取り、此れが為めに馬關行を見合せたる乎、否乎。それは何等確證は見つからない。(中略)但だ大久保が西郷の上京を促がす音信が、佐賀の關にて西郷の手に達したりとの事實は、上掲の文以外には、何等傍證す可きものがない。仍りて姑らく疑を存して措く」(『近世日本国民史』五十七 幕長交戦)

と書き、大久保の発した書簡により、西郷が下関に行くことを断念したというのは、『大西郷全集』三所収の「西郷隆盛伝」にしか傍証が無いとし、その事実に疑問を呈しています。

また、鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏は、その著作『西郷隆盛』の中で次のように書いています。

 もし国許の藩庁で連合のことがきめられ、下関に立寄って桂に会うことを指示されているなら、岩下もいることだし、たとえ大久保の手紙が来ていても、立寄らないはずはなかろう。
 ここで考えなければならないのは、この時西郷等の乗った汽船のとった航路である。普通の場合、鹿児島と大坂との間の航路は、シナ海側をとっても、太平洋側をとっても、瀬戸内海に入って大坂に達するのであるが、この時は佐賀関から土佐沖を通って大坂に達している。これは土方久元の伝記『土方伯』で明らかである。この書では、西郷は、やむを得ぬことで上京を急いでいたので、中岡の懇願をきかなかったと書いてある。すでに鹿児島を出る時からこれはきまったことで、それは久光によって、
「連合は望ましいことではあるが、しばらく時機を待とう」
 と裁断されていたからであると、ぼくは判断するのである。(『西郷隆盛』七)


このように、海音寺氏は佐賀関から大坂への航程は既定路線、つまり下関に寄港しないことは最初から決まっていたことであったと仮定し、そして、それは久光が薩長提携を時期尚早であると判断したからなのではないかと推測しています。
確かに、海音寺氏の指摘するとおり、『土方伯』には、「西郷は止むを得ぬことで、急いで行かなければならぬことになり、近道である、南海道の土佐沖を航して、京都に出て仕舞ったのである」とあり、西郷や岩下が乗った薩摩藩船の胡蝶丸は、土佐沖から太平洋を航行して大坂に入ったと書かれています。

ただ、一点押えておかなければならないことは、前出の町田先生の論文「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」の註において指摘されているとおり、『吉川経幹周旋記』三には、当時の聞き書きとして、「西郷吉兵衛より馬關迄申越候は近日之内馬關え参申候間其節何れそ出會呉候様申越候ニ付早速桂小五郎馬關え罷出居待合候へとも不罷越」との記述があることから、当時西郷が木戸と会おうとしていた話が現地で流布していたことは確認出来ますので、両者の会談が影も形も無いものではなかったとも言えます。

前出の町田論文では、この西郷と木戸の会談について、「中岡による西郷に対する木戸との会見の要請はあったものの、薩摩藩・西郷は時期尚早と捉え、その提案に同意しなかったと考える。つまり、最初から西郷は木戸と会見する意向は全くなく、予定通り京都に向かったものであろう」とし、

「西郷・木戸会見は中岡と土方が勇み足的に計画して進めたものであり、確かに薩摩藩は岩国・吉川経幹を通して長州藩への接近を図りつつあったものの、長州藩そのものに対しては内訌後の情報にも乏しく、とても積極的にアプローチする段階ではなかった。ましてや、下関に西郷を送り込むことは憚れたであろう。一方、長州藩・木戸は薩摩藩との連携を模索し始めていただけに、大きな期待があったことは間違いない」

と結論づけています。
つまり、西郷と木戸を会わせようと企画した土佐藩士・土方久元と中岡慎太郎の試みが空振りに終わったということです。

この西郷と木戸の会談中止を考える上で一番重要なことは、西郷が上京する時点において、

「薩摩が長州に対し、積極的に接近しなければならないような切迫した事情があったか否か?」

であると私は思います。
そして、その答えは「NO」です。
町田先生も論じられているとおり、当時の薩摩藩に、長州藩に積極的なアプローチをかける理由や必然性はなく、薩摩藩はどちらかと言えば受け身の立場であったことは間違いありません。
特に、もう一つ押さえておかなければならない重要な点は、薩摩藩を率いる久光の長州藩に対する感情です。
この件についてはこれまで余り触れてきませんでしたが、久光は元来長州藩に好意を持っていなかったことから、薩摩藩から積極的に長州に対して接近することは、当時憚られていた状況であったとも言えます。

以上のようなことから考え合わせると、慶応元年時点において、西郷は元々木戸と会う予定は無かったと考えるのが妥当であると思います。
今回のドラマ後半において、西郷は龍馬から、「西郷さん、おまんは信用も義理も人情も何もかも失うたぜよ」と言われていましたが、はっきり言って、龍馬からそんなことを言われる筋合いは毛頭ありません(苦笑)。


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【2018/08/20 17:30】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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皆さんこんばんは。今回は今年の大河ドラマ『西郷どん』第31~33回の感想です。まずはあらすじ。元土佐藩士の坂本龍馬(小栗旬)を伴って薩摩へ帰国した西郷吉之助(鈴木亮平)。薩摩では大久保一蔵(瑛太)が国父島津久光(青木崇高)の説得に成功し、薩摩は長州征伐に参加
2018/09/12(Wed) 19:01:59 |  Coffee, Cigarettes & Music